2018年5月7日月曜日

梁鴻と、その妻【三国志『挙案斉眉』】


話:宮城谷昌光
『三國志』



厳光(げんこう)ほど有名ではないが、梁鴻(りょうこう)も特色のある人で、かれの妻は「挙案斉眉(きょあんせいび)」という語とともに、人々に感嘆された。

深趣(しんしゅ)をもった夫婦の話である。

梁鴻の父は王莽(おうもう)のときに城門校尉(こうい、首都の城門の警備)となり、脩遠伯(しゅうえんはく)に封ぜられた。けっきょく北地で亡くなったが、そのとき梁鴻はまだ幼く、にわかに乱世になったため、父の遺骸を棺(ひつぎ)に斂(おさ)められず、席(むしろ)で巻いただけで葬った。

のちに梁鴻は太学(たいがく)で学んだ。ちなみに洛陽に太学が設けられたのは建武五年(29年)のことである。当然、梁鴻の入学はそれ以後ということになる。家は貧しかったが、節操を尚(たっと)び、博覧であり、通じないものはないほどであった。

学業を畢(お)えてから、上林苑(じょうりんえん)のなかで豚を飼って暮らしていた。上林苑は洛陽の西、洛水(らくすい)の北岸にある。あるとき火を消し忘れて、その火がほかの舎(いえ)におよんでしまった。梁鴻は焼失した舎の主人をたずねて、損害の程度を問い、そのすべてを豚でつぐなうことにしてもらった。だが、主人は、豚を全部もらっても足りぬ、という。

「ほかに財はありません。わたしが小作になって働き、つぐなわしてください」

と、梁鴻はたのんだ。

「いいだろう」

そこで梁鴻は朝夕おこたらずに勤めた。尋常な勤めぶりではなかった。隣家の老人たちは人を視(み)る目をもっている。かれらは梁鴻がなみの人ではないとおもい、そろって舎の主人を責め、梁鴻は人の上に立つ人であると称(ほ)めた。主人はようやく梁鴻の異能に敬意をはらい、もらった豚をすべて還そうとした。が、梁鴻はうけとらず、上林苑を去って故里の扶風(ふふう)郡平陵(へいりょう)県に帰った。

扶風郡は右扶風(ゆうふふう、うふふう、とも読む)といったほうがよく、平陵県は前漢の首都であった長安から遠くない。その地の名家の主(あるじ)は、梁鴻の高節を慕い、娘をもらってもらいたいと申しこんだ。梁鴻はすべてをことわり、娶(めと)らなかった。

県内にある孟(もう)氏という家に娘がいた。容姿がまことに悪い。太っていて醜く、しかも色が黒い。ただし力は石臼(いしうす)をもちあげるほど強い。この娘はえりごのみをして嫁にゆかぬまま、30歳になった。

「なぜ、嫁にゆかないのか」

と父母にきびしく問われた娘は、

「梁伯鸞(はくらん)のような賢い人にとつぎたい」

と、うそぶいた。伯鸞は梁鴻のあざなである。うわさが梁鴻の耳にとどいた。何をおもったか、梁鴻はこの娘を娶ることにしたのである。喜んだ娘は木綿の着物に麻の靴、それに針箱、紡績の道具を作ってもらい、それらを嫁入り道具のなかに納めてから、絹の着物をまとい、着飾って梁鴻の家の門にはいった。

それから七日たっても梁鴻は口をきかなかった。妻は牀下(しょうか)にひざまずいた。

「ひそかに聞いたところでは、あなたは理想が高く、いくつかの縁談をしりぞけたそうですね。わたしもまたたやすく嫁にゆきませんでした。今こうして、あなたはわたしを択(えら)んでくださったのに、わたしのどこがいけないのでしょうか」

そう問われた梁鴻はようやく口をひらいた。

「わたしは裘褐(きゅうかつ)という質素な衣服を着て、ともに深山に隠れて暮らす者を求めていた。ところがおまえはぜいたくな綺縞(きこう、絹織物)を衣(き)て、白粉(おしろい)と眉墨(まゆずみ)で化粧をしている。そういう女をわたしが気にいるとおもうか」

すると妻はさわやかに破顔した。

「あなたの志を観ようとしただけです。わたしは隠れ栖(す)むための服をもってまいりました」

しりぞいた妻は、さっそく髪を引っ詰めにし、木綿の着物に着替え、針と糸を手にして、ふたたび夫のまえにあらわれた。それをみて大いに喜んだ梁鴻は、

「それでこそ梁鴻の妻である。いまからわたしに仕えることができよう」

と、いい、妻にあざなをつけて、徳曜(とくよう)、とよんだ。妻の本名は孟光(もうこう)である。

しばらく暮らしたあと、妻は夫に強い目をむけた。

「あなたはつねに患(わざわ)いを避けるために隠栖(いんせい)したいとおっしゃっていた。何をぐずぐずなさっているのですか。まさか人に頭をさげて、官に就(つ)こうとなさっているのではありますまいね」

このことばに梁鴻はすばやく反応した。

「よし」

と、いうや、かれは妻をともなって覇陵(はりょう)山にはいり、耕織(こうしょく)をおこなって暮らした。詩を詠み、書物を読み、琴を弾じて、娯(たの)しんだ。

ふたりがその山をでて函谷関をぬけ、関東の地にむかったのは、異民族である羌族や山賊の跳梁(ちょうりょう)が烈しくなったからかもしれない。そうでなければ、覇陵山でせっかく得た静寧(せいねい)を捐(す)てる理由がみつからない。

京師(けいし、洛陽の都)を通過するとき、梁鴻は、

「五噫(ごい)の歌」

を作って、歌った。噫は、ああ、というのにひとしく、嘆きの声である。歌の内容は、宮殿が嵬(たか)くそびえるほど人民の劬労(くろう)はながびく、というものであった。この歌が虚空を飛んで、ときの皇帝である章帝(光武帝の孫)の耳にはいるはずはないのだが、どういうわけか章帝が知ったのである。

「けしからぬ」

章帝は梁鴻を逮捕せよと命じた。が、道をいそいだふたりは役人の追跡のとどかぬところに到り、用心のため、梁鴻は姓を運期(うんき)、名を耀(よう)、あざなを侯光(こうこう)と改めた。かれらは東方の斉と魯のあいだに隠れ栖んだ。

しばらくして、ふたりはそこを去り、南方の呉へゆくことにした。役人の目を恐れたからであろう。隠者でありつづけることが王朝を批判することであるのは、後漢時代にはじまったことではなく、孔子が生きていた春秋時代、いや、上古(じょうこ)からあった。

おそらく梁鴻は旺盛な批判精神の持ち主であるがゆえに、王都の宮殿を遠望したとき、ついその精神をむきだしてしまったのであろう。呉へゆくときにも、かれは詩を作っている。詩人のことを騒人(そうじん)ともいうが、まさに梁鴻は愁えによって心の鎮まらぬ人であった。

かれは理想を求めて周流した孔子を想い、愛国の儒者といわれる魯仲連(ろちゅうれん)を尊敬し、呉王の位を辞退しつづけた王子・季札(きさつ)が住んだという延陵(えんりょう)をたずねてから、呉に到着した。

呉に皋伯通(こうはくとう)という大家がいる。ふたりはその家の軒下を借りた。梁鴻は人に傭(やと)われて舂米(しょうべい、米をつくること)の仕事をし、帰ると、いつも妻の孟光は膳をととのえて待っていた。

孟光は梁鴻のまえではけっして仰視せず、案(あん、膳)を挙げて自分の眉の高さに斉(そろ)えた。それを四字でいえば、挙案斉眉(きょあんせいび)ということになる。たまたまその光景を目撃した皋伯通(こうはくとう)は、かわったことをする、とおもい、

「あの傭者(ようしゃ)は、あのように妻をしつけている。凡人ではあるまい」

と、家人にいった。ここでようやく夫婦を家のなかにいれて住まわせることにしたのである。梁鴻は部屋にとじこもって十余篇の書を著わした。やがて病に苦しみ、もはやたすからぬとわかると、梁鴻は皋伯通に、

「むかし中原(ちゅうげん)諸国に使いをした延陵の季子(季札)は、帯同した自分の子が客死すると、贏(えい)と博(はく)のあいだの地に埋葬し、郷里に遺骸をはこばなかった。どうかわが子にも、わたしのなきがらを持ち帰らせないようにしてもらいたい」

と、たのんだ。うなずいた皋伯通は、梁鴻が亡くなると、呉の要離(ようり)という勇者の冢(はか)の近くに梁鴻を埋めた。要離を知らぬ者は呉にはいない。とはいえ、多少の説明は要るであろう。

春秋時代に呉に寿夢(じゅぼう)という名君は末子の季札を愛し、季札に王位を継がせようとした。が、季札が固辞したため、長男が継いだ。その兄弟は順々に王位を継いでゆくという約束をかわしたのだが、季札の番になると、またかれは辞退した。

そのため僚(りょう)という王子が呉王になったが、寿夢の嫡孫(寿夢の長男の子)である光(こう)は、季札が呉王にならないのであれば、王統を嫡流にもどすべきだ、と強く意(おも)い、王僚を襲う機会を待った。たまたま隣国の楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)という胆知にすぶれた士に謀(はか)り、専諸(せんしょ)という者をつかって王僚を暗殺した。専諸は魚の腸(はら)のなかに剣をかくし、魚をすすめつつ、その剣で用心深い王陵を刺殺したのである。

直後に位に即(つ)いた光が呉王の闔廬(こうりょ、闔閭)である。闔廬には懸念があった。王陵の子の慶忌(けいき)が他国にいて、かれが諸侯の力を借りて攻めてくることを恐れた。しかし慶忌を殺せる者がいない。ここで伍子胥に推薦されたのが要離(ようり)である。要離を慶忌に近づけ、信用させるために、闔廬はあえて要離に罪を衣(き)せ、要離の妻子を捕らえて焚(や)き殺した。出奔した要離は慶忌のもとへゆき、闔廬の無道を訴え、信用を得た。

やがてふたりは呉へゆくために江水(こうすい、長江)を渡ることになったが、江(かわ)のなかばに舟がさしかかったとき、要離は剣をぬいて慶忌を刺そうとした。殺気を察していた慶忌は体(たい)をかわすや、要離の髪をつかんで、水中に投げ落とした。要離が浮かんで舟にのぼろうとすると、また投げ落とした。みたびおなじことをした慶忌は、ついに、

「なんじは天下の国士である。なんじを殺さず、なんじの名を天下に知らしめてやろう」

と、いい、要離を岸にあげて、自身は対岸へ去って二度と呉の土を踏まなかった。復命した要離は、ねぎらう呉王のまえで、

「妻子を殺し、先王の子を殺そうとし、しかも相手に助けられました。不仁をおこない、不義を犯し、恥辱をあたえられたのです。生きてはいられません」

と、述べ、剣に伏して自殺した。要離とはそういう人である。

皋伯通(こうはくとう)が埋葬の地をさがしているとき、

「要離は烈士であり、伯鸞は清高である。ふたりを近づけるべきだ」

と、みなにいわれた。埋葬が畢(お)わると、妻子は郷里に帰った。





From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知

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