2015年6月24日水曜日

益田池碑銘[空海] 解説3


益田池碑銘[空海]解説2 からのつづき



章意:
益田の池の形状を述ぶる中、周囲の名蹟を明せしもの

爾乃池之爲状也 左龍寺 右鳥陵 大墓南聳 畝傍北峙 米眼精舎鎮其艮 武遮荒壟押其坤

爾(しかう)して乃(いま)し池の状(かた)ち爲(た)らく、龍(たつ)の寺を左にし、鳥の陵(みささぎ)を右にす。大墓(おほつか)南に聳(そび)へ、畝傍(うねび)北に峙(そばだ)つ。米眼(くめ)の精舎(しゃうじゃ)其の艮(うしとら)を鎮(しづ)め、武遮(むしゃ)の荒壟(あらはか)其の坤(ひつじさる)を押す。

字訓:
「龍寺」…龍蓋寺で今の岡寺である。
「鳥陵」…白鳥の陵のこと。池の西に当る故に右にすと云へり。
「大墓」…大野の墓で平郡にありといふ。
「畝傍」…畝傍山のこと。
「米眼」…久米とも書く。
「艮」…東北方。
「武遮荒壟」…『便蒙』によれば武内大臣の廟なりと。
「押」…「押」も「鎮」と同じく、地徳を安んずること。
「坤」…西南方。

講義:
さてここで益田の池の形状に就いて述べると、池の左方には名高き龍蓋寺があり、その右方には白鳥の陵があり、また南方に当っては大野の墓がはるか彼方に聳へ立ち、また北方には畝傍の山が峙ち、更に東北隅の鬼門の方角には久米寺があって恰も地徳を安んじてゐるかの如くで全く申分のない好相の地形である。


鳥陵

米眼精舎



章意:
益田の池の周囲の眺望を記せしもの。

十餘大陵聯綿虎踞 四面長阜邐迤龍臥 雲蕩松嶺之上 水激檜隈之下

十餘(じゅよ)の大陵(たいれう)聯綿(れんめん)として虎のごとくに踞(うずくま)り、四面(しめん)の長阜(ちゃうふ)邐迤(りい)として龍(りょう)のごとくに臥(ふ)せり。雲(くも)松嶺(せうれい)の上に蕩(とら)け、水(みづ)檜(ひ)の隈(くま)の下(もと)に激(げき)す。

字訓:
「十餘大陵」…神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、欽明天皇、文武天皇などを始め十有餘の陵があられることを指す。
「聯綿」…長くつらなること。
「虎踞」…地勢の雄壮なるを云ふ。
「長阜」…長くつらなれる岡。
「邐迤」…斜に連なる貌。
「蕩」…動くこと。
「激」…水岩に礙へられ衝突して急流が波うつこと。
「檜隈」…水辺に檜木など生へてゐる隈のこと。

講義:
更に池の周囲には十有余の陵が連綿として長く連り恰も虎の踞れるが如き雄壮な風景であり、また四面に相連れる岡の如きも邐迤として恰も龍が臥してゐるかの如き 観を呈して居り、又それらの岡の嶺には古松が一入風景を添へ、剰つさへその松嶺の上には雲がしきりと動いて居り、また檜木の生へる隈のあたりには水が岩に激して猶一層の美しき景観を添へてゐるのである。


虎踞

四面





章意:
池辺に於ける四時の景物を記せしもの

春繍映池觀者忘歸 秋錦開林遊人倦 鴛鴦鳬鴨戯水奏歌 玄鶴黄鵠游汀争舞 龜鼈延頸 鮒鯉掉尾 淵獺祭魚 林烏反哺

春の繍(ぬい)もの池に映(えい)じて觀(み)る者(もの)歸(かえら)んことを忘れ、秋の錦(にしき)林に開けて遊人(ゆうじん)倦(う)まず、鴛鴦(えんあふ)鳬鴨(ふあふ)水に戯(たはむ)れて歌を奏(そう)し、玄鶴(げんくわく)黄鵠(くわうこく)汀(みぎわ)に游(あそ)んで争ひ舞う。龜鼈(きべつ)頸(くび)延(の)べ、鮒鯉尾を掉(うご)かす。淵獺(えんたつ)魚(うを)を祭り、林烏(りんう)哺(ほ)を反(かへ)す。

字訓:
「繍」…ぬひ模様。これを春の花に譬ふ。
「錦」…秋の紅葉を錦に譬ふ。
「玄鶴」…黒き鶴のこと、黒き鶴とは、鶴千年になれば蒼となり、二千年になれば黒に変ずと。即ち年ふりたる鶴のことである。
「黄鵠」…白鳥のこと。
「延頸」…頸を延ばせて進むを云ふ。
「淵獺」… 淵に住むカワウソ。獺は猛春の日に魚を取り祭ると『禮記』に記されてゐる故事を指す。
「林烏反哺」…烏の子は親に哺を反へすと称せらる。

講義:
池辺に於ける四時の景物を記せば、先づ春の花時は恰も縫ひ模様の如き色とりどりの花類が池に映じて誠に麗しく、遊観する者は帰宅を忘れる程であり、また秋の紅葉が林に展開せられ恰も錦の如く目もなばゆき程の美観を呈し、遊覧の人々をして退屈せしむることなく、また池の中には鴛鴦、鳬、鴨などの水鳥が水に戯れ乍ら鳴きわたれるは恰も歌を奏してゐるかの如くであり、玄鶴、黄鵠の大鳥類は汀に餌をあさり乍らきそって遊舞して居り、また龜鼈の類は頸を長く延ばして遊泳し、鮒や鯉は鰭をあげ尾を動かせて浮泳し、淵の獺は魚を取って祭り、林中の烏の子は親に哺を反へしてゐる等、何れを見てもこれが平和にしてのどかな景物、景観にして見る人をして飽くことを知らざる麗はしき妙境である。


観者


玄鶴

黄鶴

亀鼈

鮒鯉




章意:
益田の池の深く且つ広大なることを記せしもの。

洎如積水含天疊山倒景 深也似海廣也超淮 笑昆明之非儔 哂耨達之猶小

積水(せきすい)天を含み、疊山(ちうざん)景(かげ)を倒(さかしま)にするが如きに洎(をよん)では、深きこと海に位(に)たり。廣(ひろ)きこと淮(わい)に越(こえ)たり。昆明(こんめい)の儔(ともがら)に非(あら)ざることを笑ひ、耨達(のくだつ)の猶(なほ)小(せう)なることを哂(あざ)ける。

字訓:
「積水」…重なりあつまれる水。
「疊山」…かさなれる山。
「淮」…淮水。淮水は支那四大河の一にして源を河南省東北の山中に発し、安徽省を通過し、江蘇省に至りて海に注ぐ河。
「昆明」…昆明池にして周囲四十里、支那の南方にある。
「耨達」…阿耨達池にして深さ五十由旬といふ。

講義:
更にまた溜り重ねる水は天を写し、畳々とかさなれる山の景を倒に写してゐるが如きに至っては、その深さは恰も海に似、その広さは淮水なども問題にならず、また昆明池の広大さもその仲間にあらず、また阿耨達池も猶小さしとほこり得る程の深広さである。



畳山



章意:
前章に同じく池の広大深淵なるさまを記せしもの。

虎嘯鼓濤則驚汰沃 漢 龍吟決堤則容與不飽 襄陵之罔象不得溢其塘 焦山之女魃不能涸其底

虎(とら)嘯(うそぶい)て濤(なみ)を鼓(うつ)ときは則(すなわ)ち驚汰(けいたい)漢(かん)に沃(そそ)ぎ、龍(れう)吟(ぎん)じて堤を決(さ)くるときは則ち容與(ようよ)として飽(あ)かず。陵(おか)に襄(のぼ)る罔象(ばうしゃう)も其の塘(つつみ)を溢(あふ)らすことを得ず。山を焦(こが)す女魃(じょばつ)も其の底を涸(から)すこと能(あたは)ず。

字訓:
「虎嘯」…虎嘯けば風起ると称せらる。
「驚汰」…「汰」は波のこと驚波は荒波のこと。
「漢」…天のこと。
「龍吟」…龍吟ずれば雨降ると称せらる。
「容與」…悠然たる貌。
「罔象」…河童のこと又は水神の名。
「女魃」…ひでりの神の名。

講義:
虎嘯けば風起ると称せられるが、恰もその如くに大風起り波を挙動して荒波を生じ、其の荒波は天に沃ぐかとさへ思はれ、また龍吟ずれば雨降ると称せられるが、恰もその如くに大雨降って堤を決壊するかの様に大水をたたへ容與とおもむろにして見れどもあきざる眺めであり、大雨大水で河童が陵にのぼるとしても益田の池の堤をば溢らすことは出来得ざることであり、また山を焦がす程に旱魃神が旱魃をなすとも此の池の底までも涸らすことは不可能な程に堤は高く、池底は深く広大な池となったのである。





女魃



章意:
池の功能を示し、その功能も畢竟は上御一人に基けることを示せしもの

六郡蒙潤 満澮湯湯 一人有慶兆民頼之

六郡(りくぐん)潤(うるを)ひを蒙(かふ)むり、満澮(ばんくわい)湯々(しゃうしゃう)たり。一人(いつじん)慶(よろこ)び有れば兆民(ちうみん)之に頼る。

字訓:
「蒙潤」…益田の池の水が六郡の田を潤すの意。
「満澮」…「澮」は小さき流れのこと、さればたくさんの小さき流れの意。
「湯々」…盛に流るる貌。
「一人」… 上御一人を指す。
「慶」…善事。
「兆民」…多くの民。
「頼」…蒙るの義。

講義:
益田の池の用水は六郡の水田に亘ってその恩恵を蒙るものである故に、各郡各村の水田に引く水は、たくさんの溝を湯々として盛んに流れてゐる有り様である。か様に六郡の広範囲の人々が恩恵を蒙るに至ったその根本はと言へば、それは上御一人が池水開発といふ一大善事を計られたることに起因するものである。されば上御一人に義有れば天下の民は皆蒙るに至るものである。


萬澮

一人

兆民



章意:
六郡の人々が池の滋潤を蒙って喜悦する有り様を明せしもの。

舞之蹈之 詠千箱以撃腹 手之足之 唱萬歳而忘力

之(これ)に舞(ぶ)し之(これ)に蹈(とう)して千箱(せんしゃう)を詠(えい)じて以(もっ)て腹を撃(う)ち、之(これ)に手うちし、之(これ)に足(あしふ)みして萬歳(ばんぜい)を唱(とな)へて力(つと)めを忘(わす)る。

字訓:
「舞之蹈之」…手の舞ひ足の蹈む所を知らざる義で、喜悦の貌を云ふ。
「千箱」…「千」は千の倉、「箱」は箱車で萬の箱車、即ち千倉萬箱のことで豊年のこと。されば「詠千箱」は豊年の歌を歌ふこと。
「撃腹」…腹鼓を打って舞ひ遊ぶことで満足の貌を明す。
「忘力」…堯の世に於ける壤父の故事(第一巻 喜雨歌に出づ)を指すものと古来より称せらる。その意味する所は天子よく徳力を用ひられて天下を治め、天下泰平に且つ豊年にして萬民安らけく、余りにも安らけきために返って天子の御恩沢の広大さに気がつかぬ程なるを言ふ。

講義:
益田の池の水利を蒙れる六郡の人々は、この池水によりて初めて豊かな収穫を得ることが出来、全く手の舞ひ足の踏む所を知らざる程に喜び合ひ、知らず知らずの間に千倉萬箱の豊年の歌が口ずさまれ、また腹鼓を打ち手を打ち足を踏みならして舞ひ遊び、豊年に満足して萬歳を唱へて天下泰平をことぶいてゐる有り様は、かの堯の世の壤父のそれにも似て芽出度きことである。




千箱

撃腹

萬歳



(つづく)




2015年6月15日月曜日

益田池碑銘[空海] 解説2


〜坂田光全『性霊集講義』より〜
益田池碑銘[空海]解説1からの「つづき」



章意:
淳和天皇の御即位について記し奉れるもの

今上 膺堯揖譲 馭舜寳圖 照玉燭乎二儀 撫赤子於八島

今上(きんじょう)堯(げう)の揖譲(いうじゃう)に膺(あた)って舜(しゅん)の寳圖(ほうと)を馭(ぎょ)す。玉燭(ぎょくしょく)を二儀(じぎ)に照(てら)し、赤子(せきし)を八島(はったう)に撫(ぶ)す。

字訓:
「今上」…淳和帝
「堯揖譲」…昔支那の堯帝が礼儀をつくして舜に位を譲られたといふ故事を指す。
「寳圖」…寳位のこと
「玉燭」…四時に気候の調和をすること。即ちこれ帝の仁政に基くものである。されば帝の徳光を意味す。
「二儀」…天地のこと。
「赤子」…万民のこと。
「八島」…大八洲の国で、日本全国のこと。

講義:
今上陛下淳和天皇は、先帝嵯峨天皇の堯の揖譲のそれよりも麗はしき譲位をうけさせられ給はれて、寳位に御して徳光を以て二儀の天下を普く照したまひ、大八洲の万民を我が子の如くに撫愛し給ふ。



寶圖(宝図)

玉燭
二儀

八島


章意:
淳和帝により藤紀二氏の代りに新に二名の長官が任命せられ給ひしことを示す。

簡伴平章事國道 代撿國事 并抜藤廣任刺史 兩公撿挍池事

伴平章事國道(はんへいしゃうじくにみち)を簡(えら)んで代(かは)って國の事を撿(けん)せしむ。并(ならび)に藤廣(ふじひろ)を抜(ぬき)んでて刺史(しし)に任ず。兩公(りょうこう)池の事に撿挍(けんぎゃう)す。

字訓:
「伴平章事國道」…伴は大伴氏、平章事は参議。國道は名である。
「藤廣」…姓は藤、名は藤廣。大和の守に任ぜらる。
「刺史」…国の守。
「撿挍」…事務を検知、校量すること。

講義:
仁慈にまします淳和帝は、参議大伴氏の國道を選ばれて大和の国の国事を撿知せしめ、また藤の藤廣を抜擢して大和の国の守たる刺史に任命せらる。かくてこの両公を以て更に益田の池の築造の事務を検知、校量せしむることにしたのである。


國事

藤廣

刺史

撿挍




章意:
池の工事の進捗の有り様を記せしもの。

於焉 靑鳬引塊 數千之馬日聚 赤馬驅人 百計之夫夜集

焉(ここ)に於(おい)て靑鳬(せいふつ)塊(つちくれ)を引(ひき)て數千(すうせん)の馬日(ひび)に聚(あつま)り、赤馬(せきば)人を驅(かっ)て百計之夫(はくけいのふ)夜(よなよな)集(あつま)る

字訓:
「靑鳬」…銭のこと。これにつき左の如き故事がある。即ち蝉に似て蝉よりも大きい所の虫があり、これを青蚨と名く。この青蚨の子を捕へ帰るときは必ずその母飛び来って子に就く習性がある。そこで其の母を殺して銭に塗りつけ、其の子を殺して貫(ぜにさし)に塗りつく。かくて母を塗りたる方の銭を以て市場で買物して家に帰れば、その銭も帰ってくるのであると言はれている。この銭を青蚨と名け、いま靑鳬と云うは「鳬」と「蚨」と音同じ故に鳬の字を用いたのである。
「赤馬」…『便蒙』には舟の義とし、『私記』には舟車とし、『聞書』には趨車の義とす。今は『聞書』に従い「趨車」の義をとる。
「驅人」…趨車を見ていると、人は車の前にあり車は人の後にありて走っている様はあたかも車が人を逐っているかの如くに見ゆる故に「驅人」と云う。
「百計」…百人千人等たくさんの人のこと。
「夜集」…夜を以て昼の盛事を偲ばし顕わさんとすること。

講義:
新長官によりて池の工事の進捗する有り様を記すと。日日銭を以て数千の馬を雇ひ集めて塊を引かせているのであるけれども、それは恰(あたか)も銭によって聚っているのではなくして、かの子の青鳬の処へ、母なる青鳬が飛び来る如くに自発的に慕ひ集って来、一生懸命に塊を運んでいるかの様に思はれ、その塊を運ぶ車の走れるさまは丁度車が人を逐っているかの如き観を呈しながら、百人千人等の多くの人々が日々夜々に働いているのである。


於焉





章意:
前章に同じく工事の有り様を記せしもの。

既而車馬轟轟而電往 男女磤磤而靁歸 土雰雰而雪積 堤倏忽而雲騰

既(すで)にして車馬(しゃば)轟々(くわうくわう)として電(いなびかり)のごとくに往(ゆ)き、男女(だんじょ)磤々(いんいん)として靁(いかづち)のごとくに歸(おもむ)く。土(つち)雰々(ふんふん)として雪のごとくに積み、堤(つつみ)倏忽(しくこつ)として雲のごとくに騰(あが)る。

字訓:
「轟々」…かまびすしき昔の形容。
「電往」…いなづまの如くにはやく往来すること。
「磤々」…「磤」は殷で、殷々は盛なる貌。
「靁」…雷の本字。
「雰々」…雪の降る貌。
「倏忽」…たちまちに。

講義:
既にか様にして車馬轟々とかまびすしき音をたてながら電の如くにすばやく往来し、多くの男女が殷々とにぎやかに雷の如きやかましき音をとどろかせながら往来し、かくて土塊雰々として雪の如くに積み上り、池堤たちまちのうちに雲の如くに高く築き立つことが出来たのである。



轟々

男女


雰々





章意:
築造工事の速かなることを記せしもの。

宛如靈神之 挺埴 還疑洪鱸之化産 成也不日 畢也不年 造之人也 辨之天也

宛(あたか)も靈神(れいしん)の埴(はに)を挺(ねや)せるが如し。還(かえ)って洪鱸(こうろ)の化産(くわさん)せるかと疑(うたが)う。成(なる)ること不日(ふじつ)にして畢(おは)ること不年(ふねん)なり。之(これ)を造(つく)るは人(ひと)也。之を辨(べん)ずるは天(てん)也。

字訓:
「宛」…サナガラの義。
「靈神」…「靈」は天神、「神」は地神。
「挺埴」…「挺(原文は土偏)」はねやし和すこと。「埴」はねば土のこと。即ち粘土をねり和して器を作ること。
「洪鱸」…大爐。
「化産」…化生に同じ。
「不日」…やがての意。
「不年」…年ならずの意であるが早速なることの譬であるから、少しばかりの年月なることを意味す。
「天」…天子の御こと。

講義:
か様に池の工事はたちまちに成れることは丁度霊神が粘土をねり和して器物を作れるが如にして、忽ちに天地の大爐を以て化生せしめたのであるかとさへ思ふ程に速になされたものである。さればその成就すること不日にしてその畢ること不年なりと云ふべきである。か様に速に工事をなし遂げたのは工事にたずさはれる人々の努力であるが、之を能く弁じ築造するに至れるは 上御一人の御力であられ給ふのである。


靈神


不日




天地



次回につづく




2015年6月12日金曜日

益田池碑銘 [空海] 解説1



〜坂田光全『性霊集講義』より〜


大和州益田池碑銘


大和州

益田池


章意:
最初に題名と撰者の名を記す。

大和州益田池碑 銘并序 東大寺沙門大僧都 伝燈大法師 遍照金剛 文并書

大和(やまと)の州(くに)、益田(ますだ)の池の碑の銘(めい)并(ならび)に序
東大寺沙門大僧都(だいそうず)伝燈大法師(でんとうだいほっし)遍照金剛(へんじょうこんごう)の文(ぶん)并(ならび)に書

字訓:
「益田池」…奈良県高市郡白橿村にありて六郡の耕田に潅水せし大池であった。その昔弘仁十三年(822年)十一月に允許を受け、四ヶ年の歳月を費して天長二年(825年)に竣成、益田池と名く。そして弘法大師に嘱して碑銘を請ふ。作り得たものが今の此の碑銘である。
「東大寺」…東大寺の別当職の意。
「伝燈大法師位」…学徳勝れたる僧に与へられたる位階。大師は弘仁十一年(820年)十一月に勅授せらる。

講義:
大和の国、益田の池の碑の銘、ならびにその序の文。東大寺の別当職にして沙門大僧都伝燈大法師位たる遍照金剛の撰文ならびにその書。


文并書


章意:
先づ初めに池の徳を言はんが為めに上潤下灑のことを挙げしもの。

若夫 感星銀漢 下灑之功深 湖水天池 上潤之徳普

若(も)し夫(そ)れ感星(かんせい)銀漢(ぎんかん)の下灑(かしゃ)の功深く、湖水天池(こすいてんち)は上潤(じょうじゅん)の徳普(あまね)し

字訓:
「感星」…『便蒙』によれば大師の『草本』には感は「咸」と書いてあった由。咸星は咸池のことで、咸池は五穀を主り、五穀に水を降らせて実らしむ。
「銀漢」…天の河の異名で、これも雨を降らせて華菓を重養せしむと称せらる。
「下灑之功」…雨を灑(そそ)いでよく万物を増長せしむるの功。
「天池」…大海のこと。
「上潤之徳」…地上の万物を潤ほし育つ功徳のこと。

講義:
凡そ万物育成の有り様を考ふるに、すべてのものは水に負ふところ非常に大きいのである。かの天にあっては咸池や銀漢より降り灑ぐ処の雨によって万物は計り知れざる程の大恩を深く蒙って居り、又地上にあっては湖水や大海により来る処の湿潤によって地上のすべての物は計り知れざる程の大功徳を蒙っているのである。



湖水天池


章意:
万物が水によって長生するさまを記せしもの。

故能屮芔因之而鬱茂 蟲卵頼之長生

故(ゆえ)に能(よ)く屮芔(そうき)之に因(よ)って鬱茂(うつぼ)し、蟲卵(ちゅうらん)之に頼(よ)って長生(ちょうせい)す

字訓:
「屮芔」…「屮(そう)」は草木の始めて生ずる貌、「芔(き)」は草の総名。
「鬱茂」…あおあおとしげること。

講義:
か様なわけで、すべての草木は皆この水によってよく育ちあおあおと茂ることが出来、又蟲類や鳥類、其の他の動物も皆、水によって長生することが出来るのであって、水の功徳や実に大なるものがある。


長生


章意:
水の徳の広大なることをたたへたるもの。

至若 八気播植 五才陶冶 北方之行 偏居其最 坎之為徳 遠矣哉 皇矣哉

八気(はっき)播植(はんしょく)し、五才(ごさい)陶冶(とうや)するが若(ごと)きに至っては北方(ほくはう)の行(こう)偏(ひと)へに其の最(はじめ)に居(お)る。坎(かん)の徳為(た)ること遠ひかな。皇(おほ)ひなるかな。

字訓:
「八気」…八気は八紘の気で、これより寒暑を出し、それが更に八正にかなへば風を以て雨をふらし、それによりて万物が播植するのである。
「五才」…金・土・水・火・土の五行をいふ。
「陶冶」…陶人が器を造り、鍛工が金を鋳るが如くに造化の神が五才を以てうまく物を造り出すを云ふ。
「北方之行」…五方を五行に配するとき北方を水の方となすのである。行とは働きの意味。
「坎之為徳」…北方の水徳を指す。
「遠」…広大なこと。
「皇」…広大なこと。

講義:
かの八紘の気たる八風が適度にもよほされて万物は播植して行き、又かの金木水火土の五行の適配によりて万物を造り出すがごときに就いて考へて見るも、それらの根本となっているものは北方の水徳の働きである。即ち水徳は実にこれ五行の中の根本であり最第一に位するものである。されば北方の水の徳たるや誠に広大な働きを持っているといふべきである。


八気

五才



章意:
益田の池に就いて記す中、池の所在の国について明せしもの。

粤有益田池 兩尊鼻子之州 八烏初導之國

粤(ここ)に益田(ますだ)の池有り。兩(ふたはしら)の尊(みこと)鼻子(ういご)の州(しま)。八烏(やたがらす)の初めて導くの國なり。

字訓:
「兩尊」…伊弉諾(いざなぎ)の尊と伊弉册(いざなみ)の尊との二尊。
「鼻子之州」…鼻は始の意味。初産のしまの意で、大和の国を指す。
「八烏」…頭八咫烏(やたがらす)のことで、神武天皇が中の洲に趣かんとせしとき、この烏が導かれたと称せらる。

講義:
さてここに益田の池といへる大池がある。その池の所在の国は、かの伊弉諾、伊弉册の御両尊が初めて産ませられ給ひし所の国、即ち大和の国で、更に換言すれば神武天皇が八烏の御導きによりて初めて開きになられた国、その国にこの池が存在しているのである。


両尊

八烏



章意:
益田の池の所在の土地について記す。

地是 漢諳之舊宅 號則 村井之故名

地(ち)は是れ漢諳(かんあん)が舊宅(きゅうたく)。號(な)は則(すなわ)ち村井の故名(こめい)なり。

字訓:
「漢諳」…人の名。
「村井」…地名。

講義:
益田の池の所在の土地はかつて漢諳といへるものが住んでいて旧宅地であり、もとは村井と名づけられていた土地である。


舊宅(旧宅)


章意:
益田の池の築造を発企せし年号と、その人を記す。

去 弘仁十三年 仲冬之月 前和州監察 藤納言紀太守末等

去(いん)し弘仁(こうにん)十三年仲冬(ちゅうとう)の月、前(さき)の和州(わしゅう)の監察、 藤納言(たうだうげん)紀(き)の太守(たいしゅ)末等(すえとも)

字訓:
「仲冬」…十一月のこと。
「前和州監察藤納言」…「前」はもとの意。「和州」とは受領国の守。「監察」は官の名。「藤」は藤原氏で、藤原の三守のこと。「納言」は太政官の官名で、これに大・中・小の三あり。
「紀太守末 等」…「紀」は姓。「太守」は一州の長官。「末等」は名なり。

講義:
去る弘仁十三年(822年)仲冬十一月に、前の和州の監察官にして藤原の三守納言、および和州の大守なる紀末等(きのすえとも)の二人は、次の様なことを計画したのである。



仲冬




章意:
益田の池の築造を奏請して御許可を仰ぎ奉れることを記す。

慮亢陽之可支 歎膏腴之未開 占斯勝處 奏請之綸詔即應

亢陽(かうよう)の支(ささ)ふ可(べ)きことを慮(おもんぱか)って、膏腴(かうゆ)の未だ開けざることを歎(なげ)き、斯(こ)の勝處(せうしょ)を占めて之を奏(そう)し請(こ)ふに綸詔(りんぜう)即ち應ず。

字訓:
「亢陽」…旱魃のこと。
「膏腴」…地味肥えて作物のよくみのる土地を云ふ。
「勝處」…池とするには恰好の適地なることを指す。
「綸詔」…「綸」も「詔」も共にミコトノリ。

講義:
大和は肥沃せる土地になるに拘らず、夏は水涸るるを常とする故に作物実らざる現状である。そこでこの旱魃を除き、作物の実りを支持するためには池が必要で、池なき為めにこの地味豊かな大和の地が未だ開拓せられずにいるのであることを非常に歎かれ、そこで池を造るにはすべての条件が好く揃ひ、好適地なる所を選び以てそこに大池を築造せられんことを奏請し奉りし処、但ちに御許可のみことのりが下されたのである。



未開

綸詔


即應



章意:
築造の途中、嵯峨帝の御退位の為め、藤紀の二公が築造の官を退かれたことを記す。

爰則 令藤紀二公及圓律師等剏功 未幾皇帝遊駕汾襄 藤公従之辞職 紀守亦遷越前

爰(ここ)に即ち藤紀(たうき)二公(じこう)及び圓律師(えんりつし)等(ら)をして功(こう)を剏(はじ)め令(し)む。未だ幾(いくば)くならざるに皇帝(くわうてい)汾襄(ふんじゃう)に遊駕(ゆうが)し給ふ。藤公之に従(よ)って職を辞し、紀守(きしゅ)も亦(また)越前に遷(うつ)る。

字訓:
「藤紀」…藤原氏と紀氏の二人。
「圓律師」…大師の弟子たる眞圓律師のこと。眞圓律師、初めは天台及び法相を学び、後に大師の門下となりし人。
「剏」…創に同じ、又初なり。
「皇帝」…嵯峨天皇の御こと。
「遊駕」…本来は逝駕となっているが、『便蒙』によれば「逝駕は写誤にして正に遊駕なるべし」とあるを以て、今私に遊駕に訂正せしことを断っておく。
「汾襄」…「汾」は汾水、「襄」は襄城のことで、共に太上皇の宮殿に比し奉る。されば御退位して太上皇とならせ給ふことを意味し奉る。

講義:
そこで藤原氏と紀氏の二公および眞圓律師等は、築池の大業を創めたのである。然るに幾ばくもなくして嵯峨皇帝は太上皇の宮に遊駕し給ふに至ったので、藤原氏はそれに従って官職を辞するに至り、また紀氏は越州の刺史に遷り変ったのである。


皇帝

遊駕



益田池碑銘[空海]解説2へつづく



2015年6月11日木曜日

抜粋『妙好人 因幡の源左』 [柳宗悦]







p15

 妙好人には幾つかの型があって、中々機鋒の烈しい人、穏和な人、思索にたけた人、自戒の念に厳しい人など、その型は色々あるが、源左老はその中で、何よりも「行為」でその妙好さを示した信者であった。

p16

 ともかく妙好人への注意が起こったのは、宗学の最も栄えた江戸中期頃よりも、やっと幕末に近づく頃からで、却って明治に入って大和清九郎や讃岐の庄松、その他の言行録が冊子として紹介されるに至ったのである。最近宗乗に囚はれず、妙好人の値打ちを認められたのは、却って禅思想を伝えられた鈴木大拙博士であって、それ以来妙好人伝で上梓されるものが、急にその数を増してきたのである。

 妙好人は大概は片田舎の人で、貧乏で無学な人が多いが、その信仰の把握の純度に於いては、遠く学僧も及ばないものがあって、千万の信仰文書も、却ってここに結実され、結晶された観があると云ってもよい。それ故法然上人や親鸞上人の教へは、妙好人を得ることによって、初めてその輝きを十二分に発したとも云へるのである。

p18

 何れにしても、妙好人こそは大乗仏教が吾々に贈ってくれる浄く美しい花の如きものなのである。「妙好」は白蓮華のことを意味するといふが、ここに仏教そのものの象徴があると云っても過言ではあるまい。それ故妙好人こそ、仏教の仏教がその活きた姿を現はしてゐるのだと云ってもよいであらう。



p2

一 入信(一)源左の姪「棚田はつ」直話

同行「源左さん、あんたはいつ頃から法を聞き始めなさいましたかやぁ」

源左「十九の歳(ごし)だったいな。おらが十八の歳(ごし)の秋、旧の八月二十五日のこってや 。親爺と一緒に昼まで稲刈しとったら親爺はふいに気分が悪ぃちって家に戻って寝さんしたが、その日の晩げにゃ死なんしたいな。親爺は死なんす前に、

「おらが死んだら親様をたのめ」

ちってなぁ。その時から死ぬるちゅうなぁ、どがんこったらぁか。親様ちゅうなぁ、どがんなむん[どんなもの]だらぁか。おらぁ不思議で、ごっつい[ひどく]この二つが苦になって、仕事がいつかな[まったく]手につかいで、夜(よう)さも思案し昼も思案し、その年も暮れたいな。翌年(あくるごし)の春になってやっとこさ目が覚めて、一生懸命になって願正寺様に聞きに参ったり、そこらぢゅう聞いてまはったいな。お寺の御隠居さんにゃ、さいさい聞かして貰(むら)ひ、長いことお世話になってやぁ。いっつも御隠居さんは

「源左、もう聞こえたなぁ、有難いなぁ」

って云ってごしなはっただけどやぁ、どがしても聞こえなんだいな。御隠居さんにやすまんし、しまいにゃしぶとい我が身がなさけなぁになり、投げちゃぁしまへず、じっとしちゃをられんで、どがぞして聞かして貰らはぁと思って、御本山に上ったいな。御本山で有難い和上さんに御縁にあはしてむらったけど、どっかしても親心が知らしてもらへず、仕方がなぁて戻ったいな、おらぁ、ように困ってやぁ。

 ところが或年の夏でやぁ。城谷(じょうだん)に牛(でん)を追うて朝草刈に行って、いつものやあに六把刈って、牛(でん)の背の右と左とに一把づつ付けて、三把目を負はせうとしたら、ふいっと分からしてもらったいな。牛(でん)や、われが負ふてごせっだけ、これがお他力だわいやぁ。あヽ、お親さんの御縁はこヽかいなぁ、おらあその時にゃ、うれしいてやぁ。

※牛のことを山根地方では「デン」といふ

 牛(でん)に草を負はした頃、やっと夜が明けて来たいな。そこにひと休みしとると、又悩みが起って来てやぁ。その時

「われ[おまえ]は何をくよくよするだいやぁ、仏にしてやっとるぢゃぁないかいや」

と如来さんのお声がして、はっと思ったいな。御開山様が

「おのが使ひに、おのが来にけり」

ってなぁ。おらぁ牛(でん)めに、えヽ御縁をもらってやぁ。もどりにゃ、お親さんの御恩を思はしてもらひ乍ら、戻ったいな。勿体なう御座ります。ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ」

(付)足利元治述「源左爺さんは、三把目を負はす時、「ふいっと」知らせ貰ったことを語る時は、いつもえみを浮べ、とても嬉しそうな顔つきでした。よく「城谷で夜明けさしてもらった」と云ってゐました」



二、入信(二)源左の友山名直次の娘「棚田この」の話



お慈悲は容易なことでは聞こえてくれず、なんぼこそ源左さんと問答を重ねたことやらわかりません。時には夜通し寝ずにたづねたこともありました。

源左「おらも、おらがこしらえたことでないだけわからんだいの。凡夫にわかるっちぁなことぁないだけのう。わからんまんまでまうけにするよりほかにやぁないだけのう」



その時お爺さんは自分の嘗めた悩みについて、私にこの様に話してきかせました。

源左「おらあ、十八の時、親爺に別れてのう。死なんす時

「おらが死んで淋しけりゃ親をさがして親にすがれ」

っていわんしてのう。親がなあなってみりゃ世間は狭いし、淋しいやら悲しいやらで、おらの心はようにとぼけてしまってやあ。それから親の遺言を思ひ出して、どっかでも親をさがさにゃならんと思って親さがしにかヽってのう。

「親をさがせ」

ちったって、何処におられるむんだらあか、

「親にすがれ」

ちったって、どがな風にすがるむんだらあかわかりゃせず、おらも何んぼこそ親さんに背を向けたり、捨てヽしまったりしたこったかわからんだいのう。御本山にもさいさい上らしてもらってのう、しかられたりどまかされたりしたいのう。むつかしいむつかしいって、わがむつかしゅうすっだけのう。

 城谷(じょうだん)に朝草刈りに行ってのう。

「デンや、今朝はわれにみんな負せりゃわれもえらからあけ、おらも一把ないと負うたらあかいや」

ちって、一把負うてもどりかけたら腹がにがってえらぁて、デン奴に負はしたらすとんと楽になって、らくでらくで

「こりゃわがはからいではいけんわい、お慈悲もこの通りだちゅうことだらあやぁ」

と思ってよろこばしてもらったいのう」



三 入信(三)源左、木下みよに語る

源左「おらぁ、お慈悲をなかなかよう聞かしてもらわぁで、さぁしこと[永い間]苦に病んでのう。親に別れたのが病み始めでござんしたがやぁ。別れてみりゃなんともいへん悲しゅうて、おらの心はように親をこがれてのう。親が生きとらんした時にゃ、さいさいにやかましゅう「お寺まいりさんせぇ」っていわんしたが、あすぶ[遊ぶ]のが面白うて、親のいわんすこたぁ聞かず、親不孝もんでござんしたの。別れてみりゃ親の遺言やらいろいろのことが思われて、なんぼうにもようじっとしとらず、聞きにかヽってなぁ。人さんは「同行さん、同行さん」っていわんすが、おらが胸にゃどっかいにも[どうしても]聞へてござれず、これが苦になってのう。

 城谷に朝草刈りにいったとき「ふいっと」聞へてのう。牛 奴(でんめ)に草をみんな負せりゃ牛(でん)もえらからぁ[苦しい]け思って、おらが負うとったらおらがえらぁになって、

「牛(でん)や、えらからぁけど負うてごぜいや」

ちって負したららくになってのう。家(うち)にもどるなり、草も鎌もなげすてヽ御隠居さんのところに飛んで行って、御了解の話をしたら

「源左、そこだ」

といわれましてなぁ。あヽこヽだらぁやぁと思って、世界が広いやぁになってように安気(あんき)になりましたいな。不思議なことでござんすがやぁ。なんまんだぶ、なんまんだぶ」



四 芋明月

 山根地方では「芋(いも)明月」と云って、旧の八月十五日、中秋の月の晩には、若者達が芋を掘っていたづらをする習慣があった。源左が自分の畑に行くと、人の掘って取った跡があった。それを見た源左

「こりゃ手でも怪我(きず)さしちゃならんだがやぁ」

さう云って態々鍬をそこへ置いて帰った。



五 芋盗人

 源左は婆(母親)さんから芋を掘ってきてくれと頼まれた。畑に行ってみると丁度誰か来て掘ってゐる。源左はそれを見て、そのまま家へ戻って来た。かくさん(母親)が「あんや(兄よ)、芋はどがなこったいのう」と尋ねると、

源左「あヽ、今日はおら家(げ)[自分の家]の掘らん番だっていのう」



六 柿の木

源左「誰だら、柿の木に茨(いばら)くヽりつけた者なぁ」

忰(せがれ)の竹蔵「そりゃおらだけっど、若い者(むん)が柿を取ってこたへんけ」

源左「竹や、人家(ね)の子に怪我(きず)さしたらどがすっだらぁ」さう云って茨を外して、代りに梯子(はしご)を掛けた。

暫くたって竹蔵「ててさん、柿の木の梯子、まぁとらいのう」

源左「まぁ置いとけぇやぁ」

忰「置いときや、人がなんぼでも取っで」

源左「人が取っても、やっぽり家(うち)の者が余計食うわいや」



七 大豆畑

 或日源左が家路を急いで帰って来ると、知らぬ馬子が源左の大豆畑に馬を入れて喰はせてゐる。

源左「馬子さん、そこらのはま赤なぁけ、先の方のまっとえヽのを食はしたんなはれな」

馬子は逃げるやうに去って了った。



八 かご

 或男が源左の山に作ってあるかご(楮の木)を、しこたま盗んで束にして背負ふとしたが、重くて立ち上ることが出来ぬ。偶々通り合わせた源左は、後に廻り、力を貸して無雑作に担がせてやった。

 立った拍子に振り向いて見ると、畑の主源左であった。盗人は荷を打ち捨てヽ、遁げて行った。



九 干柿

 或夜源左が寝ていると、屋根の廂(ひさし)でがさがさ音をさせ、若い者が干柿を盗み来てゐる。

源左「おヽ若い衆、あいまちをせんやぁに、そろそろえヽやなところを沢山(えっご)持って帰(い)んなはれよ」



十 盗草

 蔵内村の宇三郎、或時城谷(じょうだん)の源左の畑で盗草をしてをった。そこへ折悪しく源左が下りて来た。こりゃ悪いところを見られたわいと思ってゐると、

源左「こヽもえヽけど、そっちのえヽとこを刈んなはれなぁ」

後日、宇三郎、当時の心境を或人に述懐して、「叱られたのなら飛んで逃げるということもあるけんど、あヽ云はれては逃げるにも逃げられず、あがぁに困ったことは知らんがやぁ」



十一 トンビ[鳶合羽]

 鳥取県の長瀬といふ村に戸崎という大家があって、源左はよく招待を受けた。或雨の日青谷(あおや)から汽車に乗らうとして用をたしてゐる間に、腰掛の上に置いたトンビ[鳶合羽]を誰かに盗られた。そのまヽ雨具なしで行ったので人から聞かれると

源左「誰かに借りられてなぁ。雨も降っとるし、その人に気の毒で御座んしてなぁ」



十三 御熊坂(二)

 源左が鳥取の紙商から金を受取って山根さして帰る途中、御熊坂の峠[鳥取県気高郡末恒村]に指しかヽった時、一人の強盗に後をつけられた。源左はいつもと変りなく

「ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ」

と口づさみつつ歩いてゐた。強盗は如何にも信心深いこの爺さんの様子を見て、幾度か襲ふのを躊躇(ためら)ったが、とうとう「金を渡せ」と迫った。源左は之を聞いて

「あヽそがなかえ、有難う御座んす、さぁし[久しく]借銭[前世の借財]を払わいですまなんだなぁ」

と云って金を出した。しかしこの強盗は、今まで一度も遇ったことのないこの静な態度と、聞いたこともないこの不思議な言葉とにたぢろいで了った。「お前さんのやうな人にまだ会ったことがないわい」と云った。源左も亦

「おらもお前さんのやぁな人にまんだ会ったことがないがやぁ」

と云った。源左はゆくゆく親様の話を語りつヽ遂に村の近くまで来た。男が「お前の家はどこか」と聞くので、「あそこに見えてをる」と云ふと、いつの間にかいんで了った。



十五 源左と天香



時間がおくれて会場に着いた頃には丁度公演の済んだ後であった。天香氏(京都の一燈園主西田天香)も気の毒に思って宿で会われた。

天香「お爺さん、聞けばあんたは遠い所からおい出たのに、間に合はなんださうで悪かったなぁ。歩いて来たさうで、しんどいことはないかなぁ」

源左「有難う御座んす。おらは、先生様に比べたら近い所だが、先生様こそ遠い所から見えて、おら共に良いお話をなさったさうで、さぞ肩がお凝りでせうがやぁ。打たせてつかんせ」

かう云って肩を揉みつヽ問答が始まった。

源左「今日のお話は、どがなお話で御座んしたな」

天香「お爺さん、年が寄ると気が短くなって、よく腹が立つやうになるものだが、何でも堪忍して、これへて暮しなされや。そのことを話したんだが」

源左「おらは、まんだ人さんに堪忍して上げたことはござんせんやぁ。人さんに堪忍して貰ってばっかりをりますだいな」

天香氏にはこの答へが一度では分りかね、又念問(ねごひ)された。

天香「お爺さん、何と云はれたか、今一度云ふてくれんかな」

源左「おらぁは、人さんに堪忍して上げたことはないだけっど。おらの方が悪(わり)いで、人さんに堪忍して貰ってばっかりをりますだがやぁ。おらにや、堪忍して下さるお方があるで、する堪忍がないだがやぁ」

流石の天香氏もこの言葉には三舎を避けた様子であった。

※このとき同席された松尾様のお話しでは、天香氏は「私が肩をもんでもらうような爺ではない」とおっしゃったとのことです。



十七 泥凡夫

 天香氏が帰られる時源左に「あんたもせい出いてお念仏申して、よい仏になんなされや」と云ふと、

源左「先生様、何をおっしゃるだいなぁ。おらがやぁな底下(ていげ)の泥凡夫に、なにが仏になるやぁな甲斐性が御座んせうに。だけっどなぁ、親様が仏にしてやるとおっしゃいますだけに、仏にして貰ひますだいなぁ」



十九 癇癪性

 谷口光造氏が源左に「わしゃ癇癪性でやぁ」と云ふと、

源左「旦那さん、なんとあんたはえヽもんを持っとなんすなぁ。癇癪は癇癪玉ちって、宝ですけなぁ。玉ちゅうものはめったに人に見せなはんすなよ」



二十 煩悩具足

 子供がわんわんわめくので源左が叱った。聞いてゐた二瀬川が「こんつぁん[あんたさん]、こんつぁんでも腹が立つかいのう」

源左「立ちやだいのう。借りものなら暇もかヽるけっど、煩悩具足の凡夫だけのう、腹にあるけれ直ぐ出るがやぁ。ようこそようこそ」



二十三 人一倍

源左「お上さん、腹の立つなぁおらは人一倍で御座んすだけどやぁ、腹が立っても、おらは堪へる力がござんせん。だけど、こらへさして貰ひますだがやぁ、ようこそようこそ」



二十四 障子

「爺さん、子供が障子を破りおるがなぁ。なして叱らんだいのう」

源左「子供の自分でなけらにゃ、破る時がないだけのう」



二十五 酒呑

 棚田ちか、源左に「うちの親爺さんは、よう酒飲んで、ぐづったり[叱ったり]、叩いたりして困るぞいなぁ」

源左「なしたこと云はんせ[何としたことを云はれるか]。だれが他人がぐづついたり、叩いたりするだいのう。親爺ならこそ、ぐづついたり、叩いたりするだけ。こんつぁん[お前]、大事にさんせぇよ」



二十六 御本山詣

 但馬(たじま)浜坂の松田甚左衛門といふ同行と連れだって御本山に詣った。甚左衛門が大地に平手をついて拝む様を見て、

源左「親さんの膝元だけなぁ、なにもそげに頭を下げえでもえヽだがのう」



二十七 居睡

 源左は家の御内仏で、よくぐんらりぐんらり居睡をしてゐた。行儀が悪いと咎める人があると、

源左「親さんの前だげな、なんともないだいなぁ」



二十八 高いびき

 或夜源左は、御文章を持ったまヽ御仏壇の前でごろりと横になって、高いびきをかいてゐた。二瀬川が之を咎めて、「何だいのう、大事な御文章を頂いてそのざまは」と詰ると、

源左「なぁに、これが親さんの特徴だけのう。裁判所ぢゃ寝ちったって、よう寝とらんだけのう。ようこそようこそ」



二十九 地獄行

 某家で有難い話をして貰った後、若い男が「おっさん、あんたは極楽行だけど、わしゃ地獄行だよ」

源左「地獄行ならこそそっで丁度えヽだ。あんたが極楽行なら、独りで往ける身だで、阿弥陀さんはすることがないけのう。地獄行だと皆助けると親様がおっしゃって御座るでのう」



三十 偽同行

 或男「おっさん、このわしゃ偽同行で、寺に詣れば阿弥陀さんの前へ出て、念仏喜ばせて貰ふけんど、家に帰ってくると忘れて了ふで、全くわしゃ偽同行だいなぁ」

源左「偽になったらもうえヽだ。中々偽になれんでのう」



三十一 忘れるこそ

或男「おっさん、わしゃ同行の前では喜ぶけれど、独りになると忘れるがやぁ」

源左「忘れるこそよけれ。あるけぇ忘れるだけのう。忘れるがずっとえヽだ」



三十二 邪魔者

或男「人が源左同行のやぁにならにゃ助からぬと云ふけ、あんたが邪魔になるがやぁ」

源左「源左のやぁな邪魔者でも助かるに、助からんとはおかしいのう」



三十六 風呂

風呂加減が少し熱い時、

源左「しっかりしってえヽがのう」

ぬるい時、

源左「ぼんやりしとってえヽがやぁ」

飯が堅くたけた時、

源左「おらぁ、おこわが好きでやぁ」

じるい[どろどろする]時、

源左「おらぁ、お粥がえヽがやぁ」



三十七 飯と餅

「お爺さん、飯だで」と云ふと、

源左「あヽあヽ、飯よりうまいものがあるかいや」

「お爺さん、餅だで」と云へば、

源左「あヽあヽ、餅よりうまいものはあるかいや」



三十八 餅

 安岡家の女中さんが「源左さん、餅を蒸しますが、ぜんざいがよいか、それとも味噌煮にしようか、何がえヽな」と尋ねると、

源左「おらか、おらにゃ、ただ蒸してごしなはらやえヽだがやぁ。餅にゃ餅のえヽ味があるけんのう」



四十一 早起

孫娘「お爺さん、冬なのに朝早ふ御きて、火もなぁて寒ふはないかいな」

源左「親さんはないや、幾萬劫も氷の中で此奴(こやつ)にかヽはってなぁ。寒いっちゃぁな、仕事にかヽりゃ、ほっこりほっこりすずぞいのう」



四十三 御慈悲の力

 源左は美味いものは好んで他人(ひご)に与え、自分では残りものや棄てるものを勿体ながって食べた。夏などはご飯がすえると、洗って食べた。家の者が「お爺さん、そがな腐れかけたものを食べて、お腹をこわしやせんかぇ」

源左「お慈悲の力は強いでなぁ」

源左は殆んど病気をしたことがなかった。



四十四 怪我

 草を背負ふて帰ってきた源左は、あやまって川に落ちて血だらけになった。近くにゐた二瀬川が驚いて起こしてみると、源左は血の出てゐる片手をかヽえ、

「ようこそ、ようこそ」

と云ってゐる。二瀬川があまり不審に思ふて、「こんつぁん、傷しとって何が有難いだいのう」

源左「片腕折れても仕方がないに、ようこそようこそ」



四十五 梯子段

 鳥取県藪片原の説教所で堺圓融師のお説教を聞いた後、源左はお室に御挨拶に行き二階から降りる時、梯子段から滑って下まで落ちて了った。人々が集まって助け起すと、

源左「あヽあヽ有難いこった、有難いこった。段から落ちてさへ痛いに、地獄に落ったらさぞ苦しいこったらぁに、落とさぬ親様が付いてをってござれるで、ほんに有難いことで御座んすがやぁ」



四十六 竹蔵

 御本山の布教使が源左に悔みを云はれた。「長男の竹蔵さんが亡くなられて、お淋しいでござんせう」

すると源左「有難う御座んす、竹奴(め)は早うお浄土に参らして貰ひまして、えヽことをしましたがやぁ。南無阿弥陀、南無阿弥陀」



四十七 子供の死

 子供の死んだ時、藤蔵に源左「竹[竹蔵]はなぁ、この世のきりかけ[自分の分]を済まして参らしてもらったわいの。おらぁとろい[のろい]だで、一番あとから戸をたてヽ参らしてもらうだがよう」



四十八 萬蔵

 次男の萬蔵が気がふれた時、小谷ひでが源左に「萬さんが、あがな身にならはって、いとしげになぁ」と云へば、

源左「あヽ、ようこそようこそ、このたび萬はらくな身にして貰(むら)ってのう」



四十九 御催促

 長男が死に、引続いて次男が死に、災厄が重なった。願正寺の住職が「爺さん、仏の御慈悲に不足が起りはせんかいのう」と尋ねると、

源左「有難う御座んす、御院家さん、如来さんからの御催促で御座んす。之でも往生は出来んか、之でも出来んかと、御催促で御座んすわいなぁ。ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ」



五十 火事

 源左が五十代の頃、火事に会ふて、丸焼になった。願正寺の住職が「爺さん、ひどいめに逢ふたのう。こん度はがめた[よわった]らうなぁ」

慰められた源左は「御院家さん、重荷を卸さして貰ひまして、肩が軽うになりましたいな。前世の借銭を戻さして貰ひましただけ、いつかな[ちっとも]案じてごしなはんすなよ」



五十二 奇形の牛

 明治三十三年のことであったか。源左同行の家に肩輪の牛が生れた。胴体が一つにつながり足が八本ある双子であった。お産を見て「えらかっただらぁがやぁ、かはいやなぁ」と云って源左は涙を流した。

 その折網干(あほし)の本柳寺の小笠原覚證師が客僧として願正寺に来られ、説教もすみ院主の得乗師と夕食をしておられた。源左が入ってきたのを見て、院主「源左や、惜しいことをしたものだのう。満足に生れたなら、庭の隅で百両の金が儲かったにのう」

源左「ようこそようこそ、御院家さん、親様のお蔭でなぁ、有難いこって御座んすわいな」

客僧「源左さん、片輪の牛が生れたのが、何で親さんのお蔭だいなぁ」

源左「足が四本あらぁと、手が四本あらぁと、家内中何人あっても、腹を一つにして暮らせって如来さんの御意見で御座んすだがやぁ、いつかな案じて下さんすなえ」



五十三 狂ふ竹蔵

 源左の長男の竹蔵は、中年の頃一時精神に異常を来した。高い松の木に登ったりして、皆を手古摺らせた。源左は下から「竹や、済まんが降りてごせいや」と云ふと、素直に降りて来た。竹蔵が狂ったまんまに歩けば、何も云はずに後について歩いた。日暮れになった時、たった一言「竹や、まぁいなぁいや」



五十四 源左如来

 竹蔵が気がふれて、磨きすました包丁を二つも腰にさして、大きなハマチ(魚)を一本手に持ち、「御院家さんに料理して上げるけ」と云って寺へやってきたが、「まぁ一寸如来様に御挨拶して来ますけ」と云って本堂へ入った。蔭からその様子を見てゐると、御本尊に向って、

「南無源左如来、南無源左如来」

と称へてゐた。



五十五 牛如来

 竹蔵は狂っても、父の源左にとって牛が善知識となったことを知ってゐた。一日家から牛を引き出して樹に縛り、そこを通る人毎に

「牛如来、牛如来」

と云って、之を拝めと勧めた。



五十六 因縁

 或人が「竹さんがあがぁになってお気の毒やなぁ」と云ふと、

源左「なんにも因縁だけなぁ」

と云った。



五十八 赤坊

 一人の女が田草を取ってゐる。畔で赤坊が声をあげて泣いてゐる。之を見て

源左「やヽ[赤子]も泣いとるに、はやう乳呑まして、いんで[帰って]やったがえヽがのう」

女「こヽだけは取っておかぬと、あした手づかえが来るで、もう一寸もう一寸と思ってやっとるだに」

源左「よしよし、それじゃ、おらが代りにその草を取ってさんしようかいの。はやう乳呑まして、いんなはれ」

さう云って源左は草を取り始めた。女「さうして貰へば助かるがやぁ、そんなら、お爺さん、あとたのむけんなぁ」。

 晩くなって心配して家の者が探しに来ると、しきりと草を取ってゐる。「お爺さん、他人の田圃の草まで取らんでもえヽがなぁ」。

源左「そがぁに気の小さいことを云はんでもえヽ、仏さんのお心の中には、おらげいの、他人(ひご)げいのって区別はないだけのう」

さう云って取り終ってから家に戻った。



六十 土龍

 源左は田地に土龍(もぐら)が穴をあけて、そこから田の水が洩れてゐるのを見かけると、他人の田でも丹念に塞いでおいてやった。併し嘗てそのことを田主に話したことはなかった。なぜ話さないのかと或人が聞くと、

源左「おらがそが云やぁ、先方(むかう)ぢゃお礼を云ふけれ。そがすらや五分五分になるけぇ。おらは塞(ごめ)さして貰うのだけぇ、それにお礼をいってもらっちゃすまんだがやぁ」



六十三 追肥

 麦の追肥をしようとて肥桶をかつぎ乍ら行く源左、ふと他所の麦が痩せてゐるのを見て、

「どれこっちが先だがやぁ」

とてその麦に施肥して、さっさと戻った。



六十六 荷物持

 源左は山越しなどする時、よく人の荷物を持ちたがった。

「その荷物、ちっくり持してごしなはれなぁ」

彼はよくかう云った。

「山越の時、人の荷物持ちをすると、源左は盗まにやえヽがと思ってついて来るで、お慈悲の話が出来てのう」

※「おらぁ、鬼のやぁな顔しとるだに、人さんが恐れただいなぁ」とも云った。



七十四 お宮の獅子

 谷口佐五郎が若かった頃、夫婦仲が悪く喧嘩が絶えず、あたりにも評判になった。

或時源左「佐五や、そがに夫婦喧嘩して嫁をどづく[打つ]なら、うちに来て、かご[楮の皮]なっと叩いてごせや。お宮に詣るとなぁ、獅子が両方に置いてあるがなぁ。片方が口あいとりゃ、片方は口をふさいでおらぁがなぁ。片方さへ口をふさいで居りゃぁ、事は起りやせんけいのう」

この言葉は二人に肝に銘じた。



八十一 靴と帽子

 源左は冬でも素足であったので、安岡安蔵氏が嘗てゴム靴を贈ったことがある。ところが次の時また素足で訪ねて来た。靴はどうしたかと聞くと、

源左「あんまりえヽのを貰(むら)ったで、若い者(むん)が欲しいって云ふで、やって了ったいなぁ」

 また或時、帽子を贈った。しかし、いつか途中で紛(な)くして了った。

源左「えヽ帽子だけぇ、拾った者は悦ぶけぇなぁ。まぁよかったいなぁ、えヽ帽子だったで」

かう云って失ったことをも悦んだ。



八十六 世がもてぬ

 辛川氏「皆が源左さんのやうになったら、世の中がもたぬと云ふがのう」

源左「そがにござんせうで、おらが一人おってさへ吾家が中々もてんに、おらがやぁな者ばっかりになったら、世の中がもてんなぁ当り前でござんすがやぁ」



八十七 喧嘩

 源左「人はおらを人間がえヽやに云はれけっど、おらが喧嘩せんけれ、喧嘩するほど源左にゃ智慧がないだけなぁ。それどころか、腹の悪いこたぁ、鬼や大蛇は人の肉を喰ふが、この源左奴(めい)は人の心を喰ひますでなぁ、恐ろしい奴ですだがやぁ。盗人(ぬすっご)はせぬと大けな顔をしておりますけど、大けな大けな罪造りこの上なしでござんすいなぁ。さてもさても、ようこそようこそ」



九十六 蜂

 草刈をしてゐると、蜂がぶんと飛んで来て源左の額を刺した。

源左「われにも人を刺す針があったかいやぁ、さてもさても、ようこそようこそ」

さう云ってそのまヽ仕事を続けた。



九十七 夕立雨

 源左が夕立雨に、びしょ濡れになって帰って来た。願正寺の和上さんが「爺さん、よう濡れたのう」と云ふと、

源左「ありがとう御座んす。御院家さん、鼻が下に向いとるで有難いぞなぁ」



百二 雪の細道

 雪の降る日、細い田舎道を、荷物を背負って登ってくる爺さんがある。わしが道をよけて通り過ごさせ、ふと振り返ると、爺さんは、両手を合せて私を拝んでゐます。

「おらがやぁな者に、道をよけてござれて、ほんに勿体ないこって御座んす。ようこそようこそ」

私はその姿を見てびっくりしました。後で聞けば、それが山根の源左さんでした。



百六 「そのまヽ」

 或部落の人達が源左の御縁に遇はうとて、雪の中を畚(ふご)で迎へた。その御縁の席上で、

源左「この源左のは『そのまヽだぞ』より他にゃないだいなぁ」

村人達が「源左さん、まっとありさうなものだがやぁ」と云へば、

源左「まぁ、それよりほかにゃないだいのう」



百十五 監獄の人

 三谷 善治氏に、

源左「おらぁ、監獄の人を見りゃ手を合して拝みますだいな」

三谷氏「そりゃまた、どがいなわけだいなぁ」

源左「この源左奴(め)は、まっと悪い人間でござんすだけど、おらの身がわりになって姿を見せしめしてごされるで、縛られずにすみますだいな。そが思やぁ、手を合せて拝まずにゃおられませんだがやぁ」



百二十一 人殺

源左「井関さん、新聞によう出るがのう、人殺し人殺しって、世の中にゃ恐ろしいことがあるやぁに思っとったが、人殺しは外に在るのぢゃなぁて、この胸の内に在るでのう」



百二十五 掌

 源左は時々自分の掌をとみこうみして、

「親からもろうた手は、つよいもんだのう、いつかなさいかけ[さきがけ、鍬などの先がけ]せぇでもえヽけのう」



百二十六 手

 源左さんは、田仕事が済むと手を洗って押し頂かれました。



百二十八 御飯

源左「御飯にゃ『くいじほ[食べ味]』があるで、それだけでえヽがやぁ。噛めや噛むほど何とも云への結構な味が出るけんのう。御飯粒(めしつぼ)が一つでも畳の上に落つとるのを見ると、嬉しいて、拾はずにゃおれんだいなぁ」



百三十五 夜道

源左「お慈悲頂いた者は、夜道歩きなはんなよ、夜(よう)さは魔物がえばみ[餌食み]するだけれ、邪魔せんやぁになぁ」



百三十七 牛(一)

 やね[荒い]牛は源左に直して貰へと人々はよく云った。荒れて乳をしぼらせぬ牛でも源左が「ようこそ、ようこそ」と云ってしぼると、牛も機嫌ようしぼらせた。



百三十九 牛(三)

 田を鋤かん仔牛は源左によく頼んで来た。源左は仔牛のするが儘にして置いた。別段歩かせようともせず、他所見すれば、したままに、草を喰いたがれば、喰はせたまヽにしておいた。さうしてから後でかう云った。

「デンよ、まぁ歩るかいや、人さんが横着者だって笑はれるけれなぁ」

仔牛はこっとりこっとり歩き出して鋤き始めた。



百四十二 猫

 或時源左が伯耆の江北といふところへ行ったとき、訪ねた家が養蚕の最中で余り忙しさうだったので、「今日は忙(せは)しさぁなけ、去(い)なして貰ひますわい」と云へば、家人が「まあ、源左さん、折角来なはったもんだけ、一口でもえヽから御縁に合はしなはれなぁ」。

ここで源左「こないだ家の猫が仔を産んでやぁ。親は仔をくはへて上ったり下りたりするけっど、親はおとさんわいなぁ」



百五十 二重腰

 八十なにがしに成っても、腰を二重(ふたえ)にして這ふやうに田の草を取ってゐた。亨哉和上「爺さん、えらからぁがや」と云ふと、

源左「御院家さん、この爺奴(じじぃめぇ)は丁度田の草這ふのに都合がえヽやぁに出来てをっだがやぁ。人さんよりいっち[ずっと]楽で御座んすけなぁ」

源左は七十歳頃からもう腰が曲ってゐた。



百五十一 腰と頭

 井関氏が源左と同道してゐる時、「おっつぁん、おまえ腰がかごんでゐるで、歩くにえらからぁなぁ」。

源左「井関さん、何云ふだいなぁ、頭が先に出てをるけれ、足だき歩きゃぁ、えヽだけのう」



百五十六 若衆

 村仕事で若衆と一緒に働きながら、

源左「若い衆は、ぼつぼつやんなはれよ、おらぁ先が短いけれ、一生懸命(ほんぎ)にやるけれのう」



百七十二 賞状

棚田はつ「お爺さん、また賞状を貰ひなさったってなぁ」

源左「源左はのう、行き届かんで、まっとしっかりせぇっての御意見に会ふてのぅ。褒美ぢゃないけ、御催促だけのぅ」



百七十四 妙好人(一)

河原村の房安藤蔵「山根の者が、こんつぁんを妙好人伝に出してやるっちゅうがのう」

源左「死ぬるまぢゃ出してごしなはるなよ。死ぬるまぢゃ何をするか分らんけれ、業が深いで縛られるかもしれんけぇのぅ」



百七十七 説教

源左「御院家さん、説教に出なはっても、おら[自分]が説教が上手だと思ってつかはんすなよ、おらがえヽちゅう説教をしなさんすなよ、ありのまんまを云ってつかんせぇ、えヽと悪(わり)ぃとは聞く人がよう知っとりますけんのぅ」



百七十八 お慈悲話

源左「おらは時々お慈悲話をさせられつだが、おらの親様が、おらの口から出て下さるだで、ちょっとも心配せんだいなぁ。親様のお言葉を味ひながら、話さして頂くでのぅ」



百八十 お取次

源左「親さんから貰(むら)ったものヽそヽ分けだけ、おらが話すと思ってごしなはる[いなさる]なよ。お親さんのお取次を源左がさして貰っとるだけだけぇ、おらが話すこたぁ、いっかな[少しも]ないだいな」



百八十二 答

源左「御法話に来いって招待があっで、ついて行くだが、人様から色々のお尋ねが出ると、するすると答へさして貰(むら)ふだがやぁ、何にも知らんおらが云へるなぁ、全く親様の御恩だで、有難いむんだいのう。我(われ)が言ひながら我(われ)が聞いて我(われ)が喜ぶ。我といふことはないだでのう」



百八十四 無学

源左「おらは字を知らんのが何んぼよかったか分らんがやぁ。根が悪人だで、子供がお阿母の懐に抱かれてあやまちのないやぁに、お親さんにお縋りして今日まで過ごさして貰(むら)っただいなぁ。生(なま)じりに字が読めたりなんかやしたら、とうの昔に間違ひを起しとったか分らんがやぁ」



百八十九 入知恵

源左「おらぁ、話しぃしてもお親さんの入知恵だけのぅ。源左は何(なんに)も知らんだけっど、知らんまんまでたすけてもらうだけのぅ」



二百二 鰯

 或時の青年会の会食の用意をするのに、源左同行は鰯の料理を引受けた。

一人の男が「お爺さん、そりゃ頭を取った方がえヽで」

源左「あヽよしよし」

また他の男が「お爺さん、頭はとらん方がえヽで」

源左「あヽよしよし」

漸く出来上って皆が膳についてみると、皿の上に頭の有るのと無いのとが載せてあった。



二百十 牛を負ふ

 来日(くるび)から牛を連れ戻ってくる源左の姿。山道を駆けるやうにしてやって来る牛の後を、齢老いた体をよたよたさせながら追ひつヽ、

「デンよ、かけるないや。かけるとえらからぁがなぁ。ようこそようこそ、なんまんだぶなんまんだぶ」

と牛をなだめつヽ尚も牛を追ふその姿。



二百十五 鈴の玉

息子の嫁に源左

「あ姉(ねい)や、念仏はなぁ、御信心が入らんと出んむんだけのぅ。鈴でも玉が入りゃ鳴るけっど、入っとらんと鳴らんけんのぅ」



二百十六 「させて」

源左「お上さん、この世のこたぁ、何につけ『させて』の字をつけなはんせぇよ。貰ふぢゃあなぁて『貰はさせて』貰ひなはれ。こらへるぢゃぁなぁて『こらへさせて』貰ひなはれ」



二百二十五 蓮の花

 小谷ひで、源左の病床を見舞った時、「お爺さん、えらからぅがやぁ」。

源左「えらいこたぁないだいや。蓮の花の上に寝さして貰(もら)っとるだけのう」



二百二十七 大願

 日頃源左から強化を蒙った用ヶ瀬(もちがせ)の安岡しな夫人が源左の病状が悪いと聞き、もう直らんかも知れぬと思はれ、冬正月雪の降る日ではあったが娘を連れて、山根まで見舞にゆかれた。

 病床にゐた源左は、気分はしっかりしてゐたし、顔色もよかった。別れる時、「顔ねがよいから直ってつかんせ。もう乗合の時刻が来て、之が最後の車だで、もっとゐたいけど帰るけなぁ」と云ふと、源左は「あヽ」と云って、夫人の指を三本しっかりと握って離さぬ。

その時源左「三世に一仏、恒沙に一体、仏の中の大王様が、われが生れぬ前(さき)から往生を見ぬいて下さって、助けにゃおかの大願だけのう」

この「大願」といふ言葉を強く云ったが、之が別れの言葉であった。しな女、「日頃から聞いてゐる同じ御縁ではあったけれど、いつも一辺一辺が新しい御縁でした」



二百三十五 助ける親

源左「親さんが助けると云はれっだけに、助けてもらうことを、ま受け貰ったことが信心だけのぅ」



二百三十六 お助け

源左「助けて貰ってあることを聞かして貰ふばっかりだがやぁ。『はい』の返事一つに親さんが仕上げて下されてあるでのぅ」



二百三十八 真先

源左「他人(ひご)より悪いこの源左をなぁ、一番真先に助くるの御本願だけぇ、助からぬ人なしだがやぁ」



二百四十四 落ちるまんま

源左「こ奴(やつ)は落ちるだけのぅ。落ちるまんまを親様が助けて下さるだけのぅ」



二百四十七 目釘

源左「親様が必ず助けると云はれたら、間違はんけぇのぅ。聞きや『必』とふ字にゃ、心に目釘が打ってあっだけのぅ」



二百五十三 「はい」の返事

源左、元治に、「親様に『はい』と返事させてもらやぁ、事たぁ済んどるだがやぁ」



二百五十八 悪い源左

源左「誰が悪(わり)ぃの彼が悪(わり)ぃのちゅうても、この源左ほど悪い奴はないでのぅ。その悪い源左を一番に助けると仰しゃるで、他の者が助からん筈はないだがやぁ。有難いのぅ」



二百五十九 病ひ

源左の家内が病気で寝てゐた時、「病ひっちゅうむんは一人の病気ぢゃないで、家内中の病気だけんのぅ」



二百六十二 只の只

源左が常の言葉、「只の只になるまで聞けよ」



二百六十四 大丈夫

源左「上って来いちはれりゃ、中々参れんの[参れぬ]。落ちて来いっておっしゃるだけぇ、この爺(ぢぢ)は落ちるより行場のない者だけぇ、落ちるばっかりだに、大丈夫な親ついておられるで、間違ないだいの」



二百六十五 仕合

「この源左は一番(いっち)悪いで、仕合せだがやぁ」



二百六十七 愚痴



源左「この心が悪けりゃ悪いほど、愚痴が起れば起るほど、親さんの方は大丈夫だがのぅ。助けてむらってあることを聞かしてむらうばっかりだがやぁ。はいの返事一つに、親さんが仕上げて下されてあるでのぅ」



二百七十 裾分

源左「おらがなぁ、親さんから貰っとるのヽそヽわけ[裾分]だけ。源左のもなぁいっかな[少しも]ないだいの」



二百七十一 一口千口

安岡しな女への言葉、「一口称へて足らんでなし。千口称へて足ったでなし。只お念仏はせいだいて[精出して]、たしなまして頂きませうぞなぁ」



二百八十 一田圃

 お爺さんは畑打ちに行っても、小用か鍬の土落し以外には打づめで、一ぷくすることがありませんでした。田に這入ったまヽ一田圃全部草取が済むまでは腰をのしませんでした。「えらいこたぁないかいのぅ」と云っても

「ちょっともえらいこたないだけなぁ」

といつも云ひました(孫娘すな述)。



二百八十三 御飯粒

 源左はいつも御飯の済んだあとで、お膝の下をのぞいて御飯粒をさがしてゐた。その姿は丁度子供が菓子をさがしてゐるやうな無心の姿であった。

源左「一粒でも見つかるとおら嬉しいてやぁ」



二百八十六 一歩一歩

「源左さんの歩くその一歩一歩が、ほんに南無阿弥陀仏でしたげなぁ(小谷こよ直話)」



二百八十八 大学者

安岡しな女の述懐、「源左さんは無学な人ではありましたけれど、お話を聞いてゐると、大学者のやうな感じがしました。よくはまった結構なことを云はれました」



二百九十三 思ひ出(二)棚田はつ



 その頃私はたしか十九歳でした。旧の六月のことでした。後生のことが苦になり始めて、どう考へても分りません。苦しい一方になり、食事も喰べられず、仏さんの前に行きお希ひ申しましたが、どうにも分りかねました。時折喜びが湧いて来たとき、源左お爺さんに話しに行きましたが、中々疑って私をまだ信じてはくれませんでした。

源左「大事をかけて聞かして貰はぁで、この世におひ出して貰った甲斐がないけんのぅ。親さんはなぁ、こいつは落ちるより仕方ないけど、助けて下さるがなぁ」

さう教へられても、之が中々分りませんでした。どがぁしたら聞かして貰へようかと、悶へて悶へて、聞こへやぁせず、どがぁにもこがぁにもならず、途方にくれてゐますと、岡本同行から「さうかいな、有難いな、あんたが苦しんでゐるそのまんまが、親さんのお目当だがなぁ」と知らせて貰ひ、始めてこの時、心に何もなくなりました。何とした親様か、よく私を捨てヽおくれなんだ。有難いやらすまないやら、何とも云へないほどにさせて貰ひました。

 丁度皆が外に出て、お爺さん一人が家にゐたので、いつも心配かけてすまなんだから、今日こそ聞いて貰ひたく思ひ、岡本さんからかくかく受けさせて貰ひましたと話しますと、源左お爺さんは

「有難いのぅ。よう聞かせて貰ったのぅ。仕合せにして貰ったなぁ。よかったのぅ。お前一人握って喜んどったってすまんだけなぁ、そヽ分けして貰って、親孝行さして貰はぁで」

と喜んでくれました。





二百九十四 思ひ出(三)谷口しな



 全く源左のやうな無我な人はありません。後継者がないほどの人でした。源左は、決して他人(ひご)を悪いと云ったことがありませんでした。どんな人をも事をも有難いの一念に納めてゐました。我に「こそ」を付けるな、他人(ひご)に「こそ」をつけよとよく話しました。「おらがもの」といふ念は源左にはありませんでした。何もかもお慈悲のお蔭として受取りました。



 源左が来た時の食事に「御馳走がなくてすまんけ」と云ふと、

「何をお上さん、一粒頂いても大悲のお米だけなぁ、勿体ないことで御座んす」

と申しました。法話をする時も、

「おらが話ぢゃござんせん、何んにも親さんのもらいものですけぇ、親さまのだと思って聞いてつかはんせぇ。人様が源左は法義を貰ふたと云はれるが、さうぢゃないだいなぁ、如来さんからのもらいものでござんすけぇなぁ」

と申してゐました。



二百九十五 思ひ出(四)尾崎盆三



 源左は食事をすると、何もかも綺麗に喰べました。嫌ふものは何もありませんでした。魚の骨などは必ずまとめて、犬にやるとか猫にやるとか、又は肥料にするとかしました。それで「源左さんのお皿は洗はずともえヽほどだ」と下女がよく云ってゐました。





二百九十七 思ひ出(六)源左の甥、足利元治の話

 源左爺さんは何一つ話しても、他の人から聞かぬ話のみでした。その信仰の根元は「この世に自身より悪い者はいないのだ」と云ふ自覚でした。さうして「お助けはこんな者を目当にされるのだ」と云ふことでした。本当にえらかった人です。真宗は真俗二諦の教へと申しますが、この俗諦の方がむづかしいもので、之を源左爺さんはよく果しました。その一生は「行住坐臥なむあみだぶつ」でした。どんな苦しいことをも之で包みました。

 源左爺さんの早起は有名で、眼が覚める時が起きる時でした。ですから一時か二時によく起きてゐました。もっと早い時すらありました。起きるとすぐお勤めです。正信偈と御文章とをあげましたが、その声は澄んだものでした。それが終ると土間に出て草鞋を作るとか臼を挽くとか働きました。さうして夏などは空が白む前によく牛をつれて草刈に出ました。帰って来るのは丁度家の者が朝食する頃です。寒中でも別に火を取りませんでした。夜はお勤めをして後早く寝ました。夜のお勤めの時は途中で居眠をすることが屡々でした。丈は普通でしたが、体は丈夫で、薬を用ゐたことがありませんし、又、患ったこともありません。一生休むことなく働きました。田を植へるとか畑を耕すとかする時、途中で手を休めたことがなく、ひと田を終へるまで続けて働きました。嘗て困ったとか、えらかったとか云ったことがありません。辛抱強い人でした。八十有余年の労働は、その両手を頑丈な分厚いたくましいものにしました。

 爺さんは殺生が嫌ひで、子供達が魚を取ったり虫を取ったりするのを好きませんでした。凡ての動物を可愛がりました。特に牛を大切にしました。信心に入るのに牛が機縁となったからでもあります。やね牛は源左に頼めとよく人が云ひました。源左の手にかヽると、きかぬ牛も皆おとなしくなりました。

 食欲はかなりありました。餅が好きで五つや六つはすぐ食べました。酒や煙草は飲みませんでした。又美味いものは殆ど人にやって自分の口にはしませんでした。さうして人のいやがるものを悦んで食べました。同じ柿でもよく熟したのは人に与へ、自分は落ちたのを拾って食べるといふ風でした。御飯のすてたのがあると、洗って食べました。それでゐて病気はしませんでした。

 人の荷物を持ったり、肩を揉んだり、灸をすえたりするのが好きでしたが、一つはその間に法話をするためでした。尤もむづかしいことは云はず、有難いといふ話でした。時には腹を立てることもあるでせうが、「ようこそ、ようこそ」で何もかも受けましたから怒ることはありませんでした。人を信じるので時折だまされ、随分ひどい目にも逢ひましたが、その解決は源左爺さんでなければ出来ないもので、決して人に傷がつかなぬように計らひました。爺さんは実によく人を助けました。併し自慢ばなしはしたことがありません。村で何かいさかいが起ると、源左はよく呼ばれましたが、不思議に丸く納めて了ひます。全く仲裁の名人でした。

 夏は働くので痩せ冬は太りました。秋の収穫が終ると、あっちこっちから招かれて法話に行きましたが、爺さんが来ると家中がなごやかになると、どこでも云はれました。人が死ぬる際にも、よく呼ばれました。爺さんは終りの半年ほどは余り外に出ませんでした。死ぬる時は病苦を訴へもせず静に念仏して亡くなりました。之といふ病気ではなく、老衰で自然に死にました。

 御承知の通り私の家は、源左爺さんの碑のすぐ後ろに建ってをりますが、何か心に苦しみがあります時は、よく窓を開けて、あの碑を拝むことにしております。何にしても有難い人でありました。