2013年4月7日日曜日
吉川神道と会津藩主・保科正之
神の働きを意味する「誠(まこと)」
その働きに達するための「敬(つつしみ)」
実践の方法たる「祓(はらい)」
いずれも吉川惟足(きっかわ・これたり)の大成した神道思想であった。
もとは江戸日本橋の魚屋の息子だったという惟足。京に出ると神道を学び、吉田神社に仕える卜部(うらべ)吉田家の神道を継承し、大いに発展せしめて独自の流派をなした稀代の天才、それが吉川惟足。
ついには、日本の神道家たちの筆頭とまで目されるに至る。
その惟足が、会津藩主「保科正之(ほしな・まさゆき)」に贈った霊号が「土津(はにつ)」。
「土(はに)とは、神道において宇宙を構成する万物の根源であり、その最終的な姿を意味している」
神も霊も心も、結局は同じもの(土・はに)が別の形をとっているのである。その土(はに)たる理の一切を体得しえた会津の王、それが藩主・保科正之という人物であった。
惟足に大いに師事した正之は、神道を極めること10数年。
「正之は惟足が狂喜するほどの境地に達した」
ついには最高奥義「四事奥秘伝」授受の段にまで至る正之。その神法は、吉田神道が神代のときより受け継いできたとされる「秘中の秘」であったという。
その奥義を伝授されたことを示す「証文」が、正之死後、幕府と揉めに揉めた「神式の葬儀」の激論に決着をつけることになる。
当時は、キリシタン排除貫徹のため「仏式葬儀」が通例だった。それをあえて、神道家・吉川惟足は「本来、神式こそ日本人の葬法である」と主張した。そして、会津藩主・保科正之の葬儀を神式で執り行うと宣言したのである。
しかし、幕府の閣僚には神道の葬儀を正しく理解する者がいなかった。ゆえに問題はややこしくなって、正之の葬儀は3ヶ月もの異様な遅延を余儀なくされる。
結局、幕府は奥義秘伝の証文を見せつけられたことにより、口をつぐまざるを得なくなる。そして、神式の葬儀を「黙認」することが決まった。
「もし強硬に神式の葬儀を禁じては、全国の神道家たちから幕府の弾圧とみなされ、どんな不満を醸成するか知れなかった」
保科正之の霊碑には「土津神墳鎮石」と刻まれた。
さらに「土津神社」が創建され、幕府黙認のもと、初代会津藩主にして将軍家ご落胤たる人を祀る、異例の神社建立がなされたのであった。
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