2015年6月12日金曜日

益田池碑銘 [空海] 解説1



〜坂田光全『性霊集講義』より〜


大和州益田池碑銘


大和州

益田池


章意:
最初に題名と撰者の名を記す。

大和州益田池碑 銘并序 東大寺沙門大僧都 伝燈大法師 遍照金剛 文并書

大和(やまと)の州(くに)、益田(ますだ)の池の碑の銘(めい)并(ならび)に序
東大寺沙門大僧都(だいそうず)伝燈大法師(でんとうだいほっし)遍照金剛(へんじょうこんごう)の文(ぶん)并(ならび)に書

字訓:
「益田池」…奈良県高市郡白橿村にありて六郡の耕田に潅水せし大池であった。その昔弘仁十三年(822年)十一月に允許を受け、四ヶ年の歳月を費して天長二年(825年)に竣成、益田池と名く。そして弘法大師に嘱して碑銘を請ふ。作り得たものが今の此の碑銘である。
「東大寺」…東大寺の別当職の意。
「伝燈大法師位」…学徳勝れたる僧に与へられたる位階。大師は弘仁十一年(820年)十一月に勅授せらる。

講義:
大和の国、益田の池の碑の銘、ならびにその序の文。東大寺の別当職にして沙門大僧都伝燈大法師位たる遍照金剛の撰文ならびにその書。


文并書


章意:
先づ初めに池の徳を言はんが為めに上潤下灑のことを挙げしもの。

若夫 感星銀漢 下灑之功深 湖水天池 上潤之徳普

若(も)し夫(そ)れ感星(かんせい)銀漢(ぎんかん)の下灑(かしゃ)の功深く、湖水天池(こすいてんち)は上潤(じょうじゅん)の徳普(あまね)し

字訓:
「感星」…『便蒙』によれば大師の『草本』には感は「咸」と書いてあった由。咸星は咸池のことで、咸池は五穀を主り、五穀に水を降らせて実らしむ。
「銀漢」…天の河の異名で、これも雨を降らせて華菓を重養せしむと称せらる。
「下灑之功」…雨を灑(そそ)いでよく万物を増長せしむるの功。
「天池」…大海のこと。
「上潤之徳」…地上の万物を潤ほし育つ功徳のこと。

講義:
凡そ万物育成の有り様を考ふるに、すべてのものは水に負ふところ非常に大きいのである。かの天にあっては咸池や銀漢より降り灑ぐ処の雨によって万物は計り知れざる程の大恩を深く蒙って居り、又地上にあっては湖水や大海により来る処の湿潤によって地上のすべての物は計り知れざる程の大功徳を蒙っているのである。



湖水天池


章意:
万物が水によって長生するさまを記せしもの。

故能屮芔因之而鬱茂 蟲卵頼之長生

故(ゆえ)に能(よ)く屮芔(そうき)之に因(よ)って鬱茂(うつぼ)し、蟲卵(ちゅうらん)之に頼(よ)って長生(ちょうせい)す

字訓:
「屮芔」…「屮(そう)」は草木の始めて生ずる貌、「芔(き)」は草の総名。
「鬱茂」…あおあおとしげること。

講義:
か様なわけで、すべての草木は皆この水によってよく育ちあおあおと茂ることが出来、又蟲類や鳥類、其の他の動物も皆、水によって長生することが出来るのであって、水の功徳や実に大なるものがある。


長生


章意:
水の徳の広大なることをたたへたるもの。

至若 八気播植 五才陶冶 北方之行 偏居其最 坎之為徳 遠矣哉 皇矣哉

八気(はっき)播植(はんしょく)し、五才(ごさい)陶冶(とうや)するが若(ごと)きに至っては北方(ほくはう)の行(こう)偏(ひと)へに其の最(はじめ)に居(お)る。坎(かん)の徳為(た)ること遠ひかな。皇(おほ)ひなるかな。

字訓:
「八気」…八気は八紘の気で、これより寒暑を出し、それが更に八正にかなへば風を以て雨をふらし、それによりて万物が播植するのである。
「五才」…金・土・水・火・土の五行をいふ。
「陶冶」…陶人が器を造り、鍛工が金を鋳るが如くに造化の神が五才を以てうまく物を造り出すを云ふ。
「北方之行」…五方を五行に配するとき北方を水の方となすのである。行とは働きの意味。
「坎之為徳」…北方の水徳を指す。
「遠」…広大なこと。
「皇」…広大なこと。

講義:
かの八紘の気たる八風が適度にもよほされて万物は播植して行き、又かの金木水火土の五行の適配によりて万物を造り出すがごときに就いて考へて見るも、それらの根本となっているものは北方の水徳の働きである。即ち水徳は実にこれ五行の中の根本であり最第一に位するものである。されば北方の水の徳たるや誠に広大な働きを持っているといふべきである。


八気

五才



章意:
益田の池に就いて記す中、池の所在の国について明せしもの。

粤有益田池 兩尊鼻子之州 八烏初導之國

粤(ここ)に益田(ますだ)の池有り。兩(ふたはしら)の尊(みこと)鼻子(ういご)の州(しま)。八烏(やたがらす)の初めて導くの國なり。

字訓:
「兩尊」…伊弉諾(いざなぎ)の尊と伊弉册(いざなみ)の尊との二尊。
「鼻子之州」…鼻は始の意味。初産のしまの意で、大和の国を指す。
「八烏」…頭八咫烏(やたがらす)のことで、神武天皇が中の洲に趣かんとせしとき、この烏が導かれたと称せらる。

講義:
さてここに益田の池といへる大池がある。その池の所在の国は、かの伊弉諾、伊弉册の御両尊が初めて産ませられ給ひし所の国、即ち大和の国で、更に換言すれば神武天皇が八烏の御導きによりて初めて開きになられた国、その国にこの池が存在しているのである。


両尊

八烏



章意:
益田の池の所在の土地について記す。

地是 漢諳之舊宅 號則 村井之故名

地(ち)は是れ漢諳(かんあん)が舊宅(きゅうたく)。號(な)は則(すなわ)ち村井の故名(こめい)なり。

字訓:
「漢諳」…人の名。
「村井」…地名。

講義:
益田の池の所在の土地はかつて漢諳といへるものが住んでいて旧宅地であり、もとは村井と名づけられていた土地である。


舊宅(旧宅)


章意:
益田の池の築造を発企せし年号と、その人を記す。

去 弘仁十三年 仲冬之月 前和州監察 藤納言紀太守末等

去(いん)し弘仁(こうにん)十三年仲冬(ちゅうとう)の月、前(さき)の和州(わしゅう)の監察、 藤納言(たうだうげん)紀(き)の太守(たいしゅ)末等(すえとも)

字訓:
「仲冬」…十一月のこと。
「前和州監察藤納言」…「前」はもとの意。「和州」とは受領国の守。「監察」は官の名。「藤」は藤原氏で、藤原の三守のこと。「納言」は太政官の官名で、これに大・中・小の三あり。
「紀太守末 等」…「紀」は姓。「太守」は一州の長官。「末等」は名なり。

講義:
去る弘仁十三年(822年)仲冬十一月に、前の和州の監察官にして藤原の三守納言、および和州の大守なる紀末等(きのすえとも)の二人は、次の様なことを計画したのである。



仲冬




章意:
益田の池の築造を奏請して御許可を仰ぎ奉れることを記す。

慮亢陽之可支 歎膏腴之未開 占斯勝處 奏請之綸詔即應

亢陽(かうよう)の支(ささ)ふ可(べ)きことを慮(おもんぱか)って、膏腴(かうゆ)の未だ開けざることを歎(なげ)き、斯(こ)の勝處(せうしょ)を占めて之を奏(そう)し請(こ)ふに綸詔(りんぜう)即ち應ず。

字訓:
「亢陽」…旱魃のこと。
「膏腴」…地味肥えて作物のよくみのる土地を云ふ。
「勝處」…池とするには恰好の適地なることを指す。
「綸詔」…「綸」も「詔」も共にミコトノリ。

講義:
大和は肥沃せる土地になるに拘らず、夏は水涸るるを常とする故に作物実らざる現状である。そこでこの旱魃を除き、作物の実りを支持するためには池が必要で、池なき為めにこの地味豊かな大和の地が未だ開拓せられずにいるのであることを非常に歎かれ、そこで池を造るにはすべての条件が好く揃ひ、好適地なる所を選び以てそこに大池を築造せられんことを奏請し奉りし処、但ちに御許可のみことのりが下されたのである。



未開

綸詔


即應



章意:
築造の途中、嵯峨帝の御退位の為め、藤紀の二公が築造の官を退かれたことを記す。

爰則 令藤紀二公及圓律師等剏功 未幾皇帝遊駕汾襄 藤公従之辞職 紀守亦遷越前

爰(ここ)に即ち藤紀(たうき)二公(じこう)及び圓律師(えんりつし)等(ら)をして功(こう)を剏(はじ)め令(し)む。未だ幾(いくば)くならざるに皇帝(くわうてい)汾襄(ふんじゃう)に遊駕(ゆうが)し給ふ。藤公之に従(よ)って職を辞し、紀守(きしゅ)も亦(また)越前に遷(うつ)る。

字訓:
「藤紀」…藤原氏と紀氏の二人。
「圓律師」…大師の弟子たる眞圓律師のこと。眞圓律師、初めは天台及び法相を学び、後に大師の門下となりし人。
「剏」…創に同じ、又初なり。
「皇帝」…嵯峨天皇の御こと。
「遊駕」…本来は逝駕となっているが、『便蒙』によれば「逝駕は写誤にして正に遊駕なるべし」とあるを以て、今私に遊駕に訂正せしことを断っておく。
「汾襄」…「汾」は汾水、「襄」は襄城のことで、共に太上皇の宮殿に比し奉る。されば御退位して太上皇とならせ給ふことを意味し奉る。

講義:
そこで藤原氏と紀氏の二公および眞圓律師等は、築池の大業を創めたのである。然るに幾ばくもなくして嵯峨皇帝は太上皇の宮に遊駕し給ふに至ったので、藤原氏はそれに従って官職を辞するに至り、また紀氏は越州の刺史に遷り変ったのである。


皇帝

遊駕



益田池碑銘[空海]解説2へつづく



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