2016年9月20日火曜日

幻の手足 [ラマチャンドラン]





話:オリヴァー・サックス





何年も何十年も前に失った腕や脚のことを、脳が忘れないでいるために、幽霊のような幻肢(幻の腕や脚)がいつまでも頑固に存在しつづけて、しばしば患者を苦しめる。

当初は正常な手足のように正常な身体のイメージの一部として感じられる場合もあるが、正常な感覚や動きから切り離されているために、病的な性質を帯びることもあり、払っても消えず、「麻痺」や変形や激しい痛みを生じるようになる。幻の指が、おそろしい力で掌(てのひら)に食いこんでどうにもならないこともある。

痛みや幻肢が「実在しない」ことは何の助けにもならないばかりか、治療をいっそう困難にする。麻痺しているらしい幻の手を開かせることは誰にもできないからだ。患者や医師はこうした幻肢の苦痛を軽減するために、破れかぶれの極端な方法に走る。残った手足の断端をどんどん短く切断したり、脊髄の痛覚路や感覚路を遮断したり、脳の痛みの中枢を破壊したりするのだ。しかしたいていは、こうした処置は何の役にも立たない。幻肢や幻肢痛は、必ずと言っていいほど舞い戻ってくる。



ラマチャンドラン博士はこうした頑固な問題に、これまでとはちがう新しいアプローチ法を導入している。それは幻肢とは何か、神経系のどこでどのようにして生じるのかという探求から生まれた。

これまで脳の表象は、身体イメージや幻肢を含めて、固定していると考えられてきた。しかしラマチャンドラン博士は(そして今ではほかの人たちも)、手足の切断のあと身体イメージが驚くほどすみやかに --48時間以内に、ひょっとするとそれ以下で-- 再編成されることを示している。彼の見解によると、幻肢は、感覚皮質の身体イメージがこのように再編成されることで生じる。そして彼の言う「学習された」麻痺によって維持される。

だがもし幻肢が発生する根底に急速な変化があるなら、皮質にそんな可塑性があるなら、そのプロセスを逆向きにすることはできないだろうか? 脳をだまして幻肢を忘れさせることはできないだろうか?



ラマチャンドラン博士は、独創的な「バーチャルリアリティ」装置、すなわち鏡を設置した箱という単純な装置をつかって、患者に正常な手足を見せるだけで --たとえば患者自身の正常な右手を体の左側の幻肢の位置に置いて見せるだけで-- 効果があることを発見した。

効果は魔法のように即座にあらわれる。手が正常に見えることが幻肢の感覚に対抗するのだ。まず幻肢の変形がなおったり、麻痺した幻肢が動いたりする効果があらわれ、ついには幻肢は消えることもある。

ラマチャンドラン博士は特有のユーモラスな表現で「幻肢の切断術に初めて成功した」と語り、幻肢が消えれば痛みも消えるからくりを説明する --痛みは、それを体現するものがなければ存続できないからである。








引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




ブッダの「パン」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





パンは小麦粉からつくられます。

オーブンに入れたときに、小麦粉がどのようにパンになるのかが、ブッダにとっては最も大事なことでした。私たちは、どのように悟りをひらくのか、ここがブッダの最大の関心でした。悟りをひらいた人、というのはブッダにとっても、また他の人にとっても、完全で望ましい人でした。

人間は、どのように理想的な人格を発達させることができるのでしょうか。どのようにして過去の聖者たちは、聖者となったのでしょうか。パンの生地が、どのように完全なパンになるのかを見つけるために、ブッダは自分で何度も何度もパンをつくってみたのです。そして、ついに成功したのです。それがブッダの修行でした。






しかし、毎日おなじものを何度も何度もつくるというのは、あまりおもしろいことではないかもしれません。あまりにも単調だ、とあなた方は言うかもしれません。繰り返し行うという精神を失うと、修行はとても難しくなります。しかし元気で強い気持ちがあれば、難しくありません。

いずれにしろ私たちは、じっとしていることはできません。なにかをしなければならない。そのとき、自分を観察し、注意し、そして今、ここの、自分に気づいていることです。

私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして注意して見守ることなのです。どのようにパンの生地がパンになるのかわかれば、悟りを理解できるようになるでしょう。この身体がどのようにして聖者になるのかということが、私たちのもっとも大事な関心です。

小麦粉がなにか、生地がなにか、聖者とはなにか、ということはそれほど興味がないのです。聖者は聖者です。人言の本性に関する形而上学的な説明がポイントなのではありません。

少なくとも、おいしくて見た目がよいパンをつくることには関心はあるべきです! 実際の修行は、あなたがパンをどう焼き上げるのか見つけるまで続きます。私たちの道には、秘密はありません。ただ、坐禅を行い、私たち自身をオーブンに入れるだけなのです。











引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「いつも同じ線路」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





菩薩の道は「一途の道」と呼ばれています。

あるいは「何千マイルもつづき線路を行く」ともいいます。

線路はいつも同じです。線路が広くなったり狭くなったりしたら大変です。いつも、どこへ行こうとも、同じ線路なのです。それが菩薩の道です。太陽が西から昇ったとしても、菩薩は同じ道を行きます。その道とは、一瞬一瞬におのれの真の性質、「誠実さをあらわす」という道なのです。





わたしたちは「線路」などといいますが、もちろん、実際にそんなものはありません。「真剣さ」「誠実さ」が線路です。私たちが列車から見ている景色は変わります。しかし、同じ線路の上を走っています。その線路には、始まりも終わりもありません。「始まりのない、終わりのない線路」です。そこには出発点というものはありません。そこで得るものもありません。線路の上を走るのが、私たちの修行なのです。

しかし、線路自体に興味をもつと危険です。線路自体を見るべきではありません。線路を見るとめまいがします。列車からの景色そのものを楽しむのです。乗客が線路のことを心配する必要はありません。線路は誰かが面倒をみてくれています。



しかし私たちは、ときには線路を説明しようとします。本当にいつも同じなのか、知りたいという気持ちになるのです。「本当に菩薩の道はいつも同じなのか。なぜそれが可能なのか。その秘密はなんなのか?」。

しかし、そこには秘密はありません。誰の本性も、線路がいつも同じように、同じなのです。











引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「劣った馬」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





ある経典に、4種類の馬の話があります。
[サンユクタ・アーガマ vol.33]

4種とは、
「卓越した馬」
「優秀な馬」
「普通の馬」
そして「劣った馬」です。

「卓越した馬」は、ムチの音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって早足や並足、あるいは左右に走ります。

「優秀な馬」は、ムチがちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越した馬と同じように走ります。

「普通の馬」は、身体にムチの痛みを感じたときに走ります。

「劣った馬」は、痛みが骨の髄まで達したとき、ようやく走ります。



この話を聞くと、誰もが「卓越した馬」になりたいと思います。「卓越した馬」になることはできなくても、せめて「優秀な馬」になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。

しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行を、「卓越した馬」になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、「卓越した馬」でも「劣った馬」でも関係ありません。

ブッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、「劣った馬」こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心もしっかりとした基礎ができるのです。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬かもしれないと考えるのです。



道元禅師は

将錯就錯
(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)

といわれました。錯(しゃく)とは「やりそこなう」「間違う」という意味です。「将錯就錯」とは「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは「間違いをつづけてしまう」という意味です。

道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の「将錯就錯」ともいえるのです。それは長い年月、間違えても間違えてもひたむきに続ける、ということです。









引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「無秩序」と「雑草」 [鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





バランスが失われれば私たちは死にますが、同時に私たちは成長します。育つのです。そこで禅では、ときには生きることのアンバランス、あるいは秩序のない状態を強調することがあります。

かつての画家たちは、芸術的に故意に無秩序に、紙の上に点を描く練習をしました。これは意外と難しいのです。無秩序にしようとしても、なんらか秩序だって点が並んでしまうのです。自分で描く点々を、まったく無秩序に並べることはほとんどできません。

同じことが、毎日の生活にもいえます。まわりの人々をコントロールしようと思っても、できません。一番いいのは、好きなようにさせることです。このとき、みんなは広い意味でコントロールされています。羊や牛をコントロールするには、広々とした余裕のある草地に放すことです。人についてもいえます。好きなようにさせておいて、そして見守るのです。これが一番いいやり方です。

無視することは、よくありません。それは一番よくないやり方です。二番目によくないのは、コントロールしようとすることです。人についていえば、一番よいのは、コントロールしようとしないで見守ること。ただ見守る、ということです。

自分自身をコントロールしようとするときも、同じ方法が役立ちます。坐禅をして完全な落ち着きを得たいと求めるなら、そのときは、心を横切るいろいろなイメージに邪魔されないようにします。イメージは、起こっては消えていきます。起こっては消える、そのままにしておくのです。そのようにしておけば、コントロールができます。

私たちが見ているどんなことも、変化しています。バランスを失っています。なにもかも美しく見えるのは、それら一つ一つがバランスを失っているからです。しかし、その背景はつねに完璧な調和をなしています。完璧なバランスという背景に対して、バランスを失いながら生きているのです。





「抜いた雑草は、植物の肥料になる」

といいます。雑草を抜いて植物の近くに埋め、肥料にします。

坐禅で、難しさを感じても、また座っているときに心の波を感じても、そうした波自身があなた方をたすけるのです。心の波を気にかける必要はありません。むしろ「心の雑草」には感謝すべきです。やがては、あなたの修行を豊かにするものだからです。

もし心の雑草が栄養に変化する経験をしたならば、あなたの修行は目覚ましい進歩を遂げたことになります。しかし、それだけでは十分ではないのです。私たちは「雑草がどのように栄養になっていくか」、実際にそれを経験しなければなりません。

厳密にいえば、どのような努力も修行のためにはよくありません。それが心に波をつくりだすからです。しかしながら、なんらの努力もなしに、心の絶対の静寂を得ることもできません。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。

どのような気づきの意識さえもなしに、心は非常に落ち着いています。この「非-意識(意識のない意識)」のなかでは、努力も観念も思考も消えています。私たちは、すべての努力が消え去る最後の瞬間まで自分を励まし、努力することが必要なのです。










引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』