2016年9月20日火曜日
「無秩序」と「雑草」 [鈴木俊隆]
話:鈴木俊隆
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バランスが失われれば私たちは死にますが、同時に私たちは成長します。育つのです。そこで禅では、ときには生きることのアンバランス、あるいは秩序のない状態を強調することがあります。
かつての画家たちは、芸術的に故意に無秩序に、紙の上に点を描く練習をしました。これは意外と難しいのです。無秩序にしようとしても、なんらか秩序だって点が並んでしまうのです。自分で描く点々を、まったく無秩序に並べることはほとんどできません。
同じことが、毎日の生活にもいえます。まわりの人々をコントロールしようと思っても、できません。一番いいのは、好きなようにさせることです。このとき、みんなは広い意味でコントロールされています。羊や牛をコントロールするには、広々とした余裕のある草地に放すことです。人についてもいえます。好きなようにさせておいて、そして見守るのです。これが一番いいやり方です。
無視することは、よくありません。それは一番よくないやり方です。二番目によくないのは、コントロールしようとすることです。人についていえば、一番よいのは、コントロールしようとしないで見守ること。ただ見守る、ということです。
自分自身をコントロールしようとするときも、同じ方法が役立ちます。坐禅をして完全な落ち着きを得たいと求めるなら、そのときは、心を横切るいろいろなイメージに邪魔されないようにします。イメージは、起こっては消えていきます。起こっては消える、そのままにしておくのです。そのようにしておけば、コントロールができます。
私たちが見ているどんなことも、変化しています。バランスを失っています。なにもかも美しく見えるのは、それら一つ一つがバランスを失っているからです。しかし、その背景はつねに完璧な調和をなしています。完璧なバランスという背景に対して、バランスを失いながら生きているのです。
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「抜いた雑草は、植物の肥料になる」
といいます。雑草を抜いて植物の近くに埋め、肥料にします。
坐禅で、難しさを感じても、また座っているときに心の波を感じても、そうした波自身があなた方をたすけるのです。心の波を気にかける必要はありません。むしろ「心の雑草」には感謝すべきです。やがては、あなたの修行を豊かにするものだからです。
もし心の雑草が栄養に変化する経験をしたならば、あなたの修行は目覚ましい進歩を遂げたことになります。しかし、それだけでは十分ではないのです。私たちは「雑草がどのように栄養になっていくか」、実際にそれを経験しなければなりません。
厳密にいえば、どのような努力も修行のためにはよくありません。それが心に波をつくりだすからです。しかしながら、なんらの努力もなしに、心の絶対の静寂を得ることもできません。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。
どのような気づきの意識さえもなしに、心は非常に落ち着いています。この「非-意識(意識のない意識)」のなかでは、努力も観念も思考も消えています。私たちは、すべての努力が消え去る最後の瞬間まで自分を励まし、努力することが必要なのです。
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引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』
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