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2015年7月10日金曜日

驀直去(まくじきこ) [行徳哲男]



「属国になれ」

今から700数十年前、時の超大国モンゴルは日本に使者をよこしてきた。

受けて立ったは北条時宗、弱冠17歳。






行徳哲男「もともと時宗というのは大変にひ弱で、病弱でもあり精神的にも女々しさをもっていました。そんな時宗の行ったのが、モンゴルの使者たちに酒と女をあてがうことでした」

この酒と女の策は、意外にも奏功した。使者たちは酒食に溺れ、「属国になれ」に対する返答を先延ばしにすることができたのである。

行徳哲男「だが、ふたたび返事を迫られたとき、時宗はどうしていいか分からない。そこでこの若者、そのどうしようもない思いを無学祖元禅師にぶつけました」



すると無学祖元、

「驀直去(まくじきこ)」

ただその一言を時宗に授けたのみで、姿を消した。



行徳哲男「若き時宗には、驀直去(まくじきこ)の教えが解けませんでした。かれは何日も座り続けます。しかし解けません。最後は自分の額を壁にたたきつけます。血しぶきが舞い、血だらけになりました。その瞬間、若者は悟りました」

来ていたモンゴルの使者41名すべてを並べると、次々と首をはねた。



怒れるモンゴル、10万とも15万ともいわれる大軍、4000隻で九州を襲った。

その結果は周知の通り。神風の助けもあって、見事、世界の最強軍団を追い払うことに成功したのである。





ところで、国を救うこととなった「驀直去(まくじきこ)」とは如何なる教えか?

行徳哲男「”驀”は驀地(まっしぐら)という字ですから”一直線”ということです。”直”は素直の直です。最後の”去”というのは”突き抜ける”ということ。だから『お前は酒と女をあてがう、そんな小賢しさで国が救えるか』という教えです」

この「驀直去(まくじきこ)」は、それ以来、禅の公案(問答)となる。「大事到来、いかにしてこれを避くべくや(大事が来たら、どうすればそれを避けられるか)」という問いである。

行徳哲男「その答えは『夏炉冬扇(かろとうせん)』という教えです。”夏炉”というのは夏の囲炉裏と書くわけです。そして冬の扇です。”夏の暑いときに囲炉裏にあたっておけ、冬の寒いときには扇をつかえ”と言ったわけです。これは、暑いのなら暑さの中に浸りきれ、寒いのなら寒さの中に浸りきってしまえ、ということです。つまり、苦しかったら苦しみの中に浸りきって、それを突き抜けろと言っているのです」



かつて、僧・良寛は言った。

苦しきときは苦しむがよき候(そうろう)

悲しきときは泣くがよき候

死ぬるときは死ぬるがよき候



行徳哲男「時宗は若かったから、大事を避けようとしました。それに対して、無学祖元はビシッと喝を食らわしたわけです。そして夏炉冬扇の世界に入った時宗は、それから名君になっていくのです」

…





出典:10ミニッツTVオピニオン
行徳哲男「驀直去(まくじきこ)」北条時宗と無学祖元




2013年3月24日日曜日

日本伝統の建築様式「大仏様」。なぜ天竺様とも言うのだろう…。



平安時代の末期、治承4年の暮れ、奢れる平家は東大寺を焼いた(旧暦1180年12月28日)。

世に言う「南都焼討」。平重衡(たいらのしげひら)による兵火であった。

「大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った(Wikipedia)」



その再建を託されたのは、当時61歳の僧「重源(ちょうげん)」。

長きにわたり宋(中国)に留学していた重源は、その間、寺院の建立や修復に数多く立ち合っており、その経験は豊富であったという。



そして、できた新しい大仏殿。

その建築技法は、中国の福建省あたりで見られた様式だったというが、当時の人々はこのような建築物を見慣れていなかった。

「インド(天竺)あたりから伝わったのではないか?」

見慣れぬ再建大仏殿は、そんな風に考えられていた。それゆえ、この建築様式が「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれるようになった。



そして、それはそのまま「大仏様(だいぶつよう)」とも言われるようになり、わが国の寺院建築の三本柱の一つに数えられるようにもなった。

※ちなみに、その3つとは「和様」「大仏様(天竺様)」「禅宗様(唐様)」である。

しかし、大仏様の建築物として現存するものは少ない(東大寺南大門や浄土寺浄土堂など)。それもそのはず、この建築様式は鎌倉時代初期の限られた時期だけに用いられたものだったのである。





大仏様(天竺様)の特徴はと言えば、「最小限の材料」で大建築を可能にすることであった。

というのも、鎌倉時代の初期、すでに森林資源が枯渇しており、奈良や京都の近くでは満足な材料を得ることが適わなくなっていた。重源が大仏殿を再建した時も、その用材は遠く山口県の山奥から伐り出してきたのである。

それゆえ、その長距離の輸送には自ずと限界があり、大仏殿も「必要最小限の資材」でまかなうしかなかったのであった。



なるほど、重源の大仏殿の「見慣れぬ建築様式」は、そんな必要から生まれたものであったか。

その後、東大寺がふたたび兵火にさらされるのは戦国時代。永禄10年10月10日、かの梟雄・松永久秀らの軍勢が大仏もろとも豪火に包むのであった…。






出典:大法輪
「雑学から学ぶ仏教 寺院の建築様式について」