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2013年10月2日水曜日

「メガ・マシーン(巨大機械)社会」




現代の世界帝国であるアメリカ的グローバル社会が目指す終末的世界像は「メガ・マシーン(巨大機械)社会」ではないかと言われています。

テーマパークやハンバーガー、コンビニ店に典型的に見られる、すべてがマニュアル化され矛盾・停滞なく機能する「機械のように組織化された社会」、つまり「最も効率的な収益が可能であるように一律に規格化された世界です。

光延一郎




引用:大法輪 2013年 05月号 [雑誌]
光延一郎「日本人のためのキリスト教入門 10(最終回)」

2013年5月22日水曜日

漢詩・短歌・俳句・川柳 4月




簷声止処松声起 (簷声止むところ 松声起こり)

魚眼生時蟹眼眠 (魚眼生ずる時 蟹眼眠る)



漢詩「煎茗」北口昌將(部分)



簷声(えんせい)とは「軒の雨だれ(簷滴)の落ちる音」、松声(しょうせい)とは「風になびく松葉がたてる低い音色」。

魚眼・蟹眼とは「魚の眼は大きく、蟹の眼は小さい。それぞれ茶釜の湯の煮えたぎる具合をあらわす」。






瞳瞳日上草堂春 (瞳瞳日上る 草堂の春)

瓶裏梅花一笑新 (瓶裏の梅花 一笑新たなり)



漢詩「癸巳元旦」青野博芳






短歌



ふっさりと ふっさりと 降りつづく雪 眺めて過ごす 無為の時

おのでらゆきお



葉書より はみ出し 勢ひあまりあまる 五歳児 曾孫の 賀状が届く

高松こと



わが舞へる テープをいくども 見てくれし 夫は居まさず 七度目の冬

中西勝美



つきたての 餡入り餅を ひとつまみ 口一杯に よもぎの味す

赤畑博






俳句



冬の川 痩せさらばひて 海に入る

照井青仁



寒鯉の ゆらりと浮きし 泥けむり

渡辺トシ



本堂に 続く箒目 うすら雪

立石節子



春着の子 双手広げて 鶴になる

香山たみを



みどり児の 泣き顔囲む 初笑

岩澤庄司



みつみつと 初雪の音 靴裏に

中島大隅






川柳



野暮用に 時間は痩せて ゆくばかり

荒巻重義



無言劇 空気はうすく うすくなる

加藤友三郎



悪癖も 真似をしている 影法師

水野正明



へそくりを 発見したい 大掃除

島津源之



初詣 一円玉を 探してる

北郷聖






出典:大法輪2013年4月号

疲れた日には「チキン料理(胸肉)」、そしてアップル・パイ




コックリ、コックリ

「ねむかき」さん。

厚労省の調べによると、「労働者の72%は疲れている」のだとか。



「こんな時代、『疲労に効く』食べ物があったら、うれしいなと思いませんか?」

健康落語の「立川らく朝」さんは、そう切り出す。

「これを食べると疲れない、とまではいかなくとも、疲れにくくなる、だけでも有り難い」



じつは最近、疲れを軽減するという「抗疲労効果」の認められる食べ物があるのだとか。

その中でも、とても有効なものが「イミダゾールペプチド」。

「どこにあるかって?」

スーパーに行くと必ず置いてある「鶏の胸肉」。







たとえば、自転車を10秒間必死にこぐなどして、血液検査をするだとか、細胞のエネルギー産生量を推定するとかすると

「普通は疲労が溜まって、作業効率はだんたん減ってくるものなのですが、イミダゾールペプチドを投与した場合(もちろん人間に)、投与しなかった場合と比べて、作業効率の低下が抑えられたのです。おまけに疲労感も軽減されたということなのです」

その理由はといえば、どうやらイミダゾールペプチドのもつ「抗酸化作用」が効果を発揮したらしい。



「こんな有り難い物質が、『鶏の胸肉』に豊富に含まれているなんて、うれしいじゃないですか。さあこれからは、疲れた時のディナーには、チキン料理といこうじゃありませんか。チキンといってもモモ肉じゃなくて、もちろん胸肉でね」

デザートは?

「もうアップル・パイで決まりですよ。リンゴに含まれるポリフェノールの抗酸化作用が強いことは知られていますが、同時に『抗疲労効果』もあることが分かりました」







(了)






出典:大法輪2013年4月号
「疲れた日のディナー ドクターらく朝の井戸端けんこう談義」

2013年5月21日火曜日

「しま」から始まった日本の庭園。その略史




昔むかし、庭のことを「しま」と呼んだという。

それは古い古い「日本書紀」「古事記」に見られる。



飛鳥時代の612年、百済からの渡来人が、宮中に須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)を造ったのが、日本で最初の「庭園」と云われている。

「当時、四方を山に囲まれた大和(奈良)に住んでいた人々が、『海への憧憬』から、このように呼ばれたものと考えられている(瓜生中)」



「海への憧憬」

それが、池と小島を配した日本庭園の典型となる。

自邸に池を掘り、小島を設けた蘇我馬子は「島の大臣(おとど)」と呼ばれたそうな。



日に映えた山は紫にかすみ、日を浴びた川は明るく美しい。

いわゆる「山紫水明」。自然を活かした日本の庭園。

奈良時代にも平安時代にも、その伝統は受け継がれる。奈良期における長屋王の遺跡からも池を配した庭園が出土し、平安期における宮中の禁苑(庭園)「神泉苑」もまた、そうである。



平安時代も進むと、日本各地の有名な景勝地が、庭に模されるようになる。

いわゆる「海景模写」。そのモデルは「松島の風景」であったり、「丹後の天橋立(あまのはしだて)」であったり。

一方で、「野の野趣」を愉しむ作庭、「野筋(のすじ)」と呼ばれる手法も、当時の人気を集める。萩やナデシコなどの野草が配され、「山里の侘しさ」などが表現されるようにもなる。



平安後期は源平合戦。世の無常を通して、浄土への想いが増していく。

いわゆる「浄土庭園」。極楽浄土の光景を、庭に表そうとしたものである。かの平等院鳳凰堂、そして奥州藤原氏の毛越寺庭園。

阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂のまえに設けられた池の中央には、中島が配され、太鼓橋と平橋が穢土と浄土とをつなぐのであった。







続く鎌倉武士の時代は、禅宗に代表される質実剛健。

いわゆる「枯山水(かれさんすい)」。庭の水は枯れ、代わりに白砂がその流れと見立てられるようになる。そこに配されるは、大小さまざまな石。

この時代に「石立僧」と呼ばれた作庭師たちは、文字通り石を立てて庭をこしらえた。中でも夢窓疎石などは傑物であった。







禅の思想が形をとった「禅宗庭園」。その構成は極度に抽象化・象徴化されたものとなる。三尊石と称する3個の石が、三尊仏に見たれられ、究極の造形美へと昇華する。

京都龍安寺の石庭は、15個の石を、7個・5個・3個の石組みにして左から右へと流し、平面には白砂を敷き詰め、周囲には築地塀を巡らせている。石の周りのわずかな苔類を除けば、草木は一本たりともない。

禅の思想というのは、そこまで抽象化された世界であった。







そうした簡素さは、茶道にも愛された。

いわゆる「茶禅一致」。千利休の代表作とされる京都妙喜庵の茶室、待庵の茶庭がそうである。







ここに簡素さは、極まったようであり、のちの時代の庭園は多様化への道を歩むこととなる。禅のシンプルさも良し、各地の景勝地を模写するも良し、である。







(了)






出典:大法輪2013年4月号
「寺院の庭園に学ぶ 瓜生中」

2013年5月7日火曜日

「世界のホームラン王」王貞治。その実直さと思いやり




台湾人の父と、日本人の母

小さな中華料理屋の次男として誕生した「王貞治」



父親に「箸と鉛筆とソロバンは『右』でやれ」と言われたのを実直に守り、サウスポー(左利き)なのに右打ちを通して苦労していたという。

そんな中学時代、後に師匠となる荒川博氏からアドバイスを受け、左打ちに変更。

それからだった、打撃に目覚めたのは。



早実高等部の野球部では、投手として甲子園で優勝を飾るなど、「好投手」兼「猛打者」と投打両方に実力を示す。

そして、あこがれの読売巨人軍に入団。

しかし、期待されたプロ初年度はまったく振るわない。それでも球団の練習ボールの破れを自腹で修繕していたのが評価されて、年俸がアップ。







その後、荒川博コーチのもと、猛特訓の末に「一本足打法」を完成。

ホームランを量産した王選手は、長嶋茂雄選手との「ONコンビ」で野球界のスーパースターとして大活躍。

長嶋選手は、走攻守ともに派手で最高のパフォーマンス。それにたいして、王選手はホームランを打っても喜びをあらわにせず、淡々とベースを一周する。



その姿には理由があった。

高校時代、ホームランを打ってホームベース上で喜ぶ弟・王貞治に、兄の鉄城が「打たれた相手のことを考えろ」と叱責。

以来、王選手はホームランを打っても相手投手を思いやって、喜びを表さなくなったのだという。



初の国民栄誉賞は、この人、王貞治氏に贈られた。

通算ホームラン数868本、「世界のホームラン王」





出典:大法輪2013年4月号

昔は細かった「大根足」



「大根役者」は悪口か?

その語源をたどれば、消化酵素の多い大根は、傷みにくいために腹を壊したり、食中毒にならないことが、その元となったらしい。

「食当たりしない → 当たらない → 売れない(役者)」

食材としては優秀な大根が、いつの間にか「売れない役者」になってしまっている(また一説には、下手な役者が役をおろされることを、大根おろしにかけたというのもある)。



では「大根足」は?

「古事記」には、女性のか細い腕枕で眠るさまを詠んだ仁徳天皇の和歌がある。ここでは、「白く細い大根が、美しさを表す褒め言葉となっている」。

ところが後の世、かつてはか細かった大根が、度重なる品種改良のおかげで、現在のような「ブッとい大根」になってしまった。

これまた食材としては大変に有難い話であるが、「大根足」のほうはといえば、ありがた迷惑なほどに太くなりすぎた。







そんな大根。

禅寺では昔から変わらずに重宝されてきた。

大根を干して、大きな木樽で数千本の沢庵をつけるのは、禅寺の風物詩。



修行僧用の沢庵は、向こうが透けるほどに薄い。それは、ポリポリ噛む音が聞こえないように、との配慮だというが、少し物足りなさもあるような…。

また、参拝者用のお膳では、沢庵を一枚残す作法がある。その残した沢庵、椀にお茶を注ぎ、残ったわずかなお米を頂くためだそうだ。







永平寺の典座老師というお方は、心をこめて大根料理をつくっていたという。

「ワシなどもう何十年も寺の台所に立っておるが、同じように煮たつもりでも、決して同じ味にはならん。今でも大根の煮物ひとつ、思い通りの仕上がりになるかどうか、やってみなければ分からんくらいだ」

大根の煮物ひとつでも、決して軽んずることのなかった典座老師。長い年月をかけて一事に専心して精進していくことを、大根料理で教えるのであった。



「一事をこととせざれば、一智に達することなし」

「多般を兼ぬれば一事をも成ずべからず。努々(ゆめゆめ)学人一事を専らにすべし」

これらは、道元禅師の正法眼蔵に見られる言葉である。






出典:大法輪2013年4月号
「こころと身体を養う精進料理 高梨尚之 曹洞宗永福寺住職」

2013年4月1日月曜日

神中の神「アマテラス」、神社中の神社「伊勢神宮」



人の世界において、天皇は諸王や廷臣たちに「位階」を与え、その最高位を「正一位(しょういちい)」としていた。

神々の世界にも同様、位階なるものが存在する。それを神階という。

最高位は人同様、正一位の神であり、官幣大社(かんぺいたいしゃ)と呼ばれる上位の神社を統べるのは、正三位以上の神でなくてはならなかった。その格下の官幣中社となれば従四位以上の神々である。



ところで、日本には数多くの「神宮」が存在するが、その頂点に君臨するのは「伊勢神宮」である。

ちなみに、古来より神宮と名乗っているのは鹿島神宮と香取神宮だけであったが、明治の王政復古以降、多くの神社が名前を神宮に変更し、そのうちでも伊勢神宮が最上位とされるようになったのだという。



その伊勢神宮に祀られるのは「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」。

じつは、この神中の神、神階(位階)をもたない。というのもアマテラスはいわば、人の世の天皇のような存在であり、八百万の神々に神階を授ける立場にあるとされているのである。

人界の最高位である天皇に位階を授ける人間がいないように、アマテラスに神階を授けられるほど偉い神様は存在しないのである。



アマテラスは天上界の主宰神であり、人界の天皇の皇祖神(皇室の祖先)でもある。つまり大本の大元だ。

「アマテラスを主祭神とする伊勢神宮は、神社の格や神階をはるかに超えた別格の存在なのである(井上宏夫)」



ところで、それほどの神がなぜ、都ではなく、伊勢の地に置かれているのだろうか?

どうやら、神々同士にも相性というものがあるらしく、崇神天皇が都に祀った倭大国魂(やまとおおくにたま)とアマテラスとは、ともに我慢がならなかったようである。



都を去ったアマテラスは、いったん大和の笠縫邑(かさぬいむら)に遷るのだが、最終的には伊勢の地に至ることになる。

伊勢に着いたアマテラスは、この地がお気に召す。

「不死の国である常世(とこよ)からの波が、伊勢の国には絶えず打ち寄せる。この美しい国に私は住む」と日本書紀にはある。これが伊勢神宮の起源とされる。



さて、今年2013年は、伊勢神宮の式年遷宮(しきねん・せんぐう)の年である。

式年とは一定の期間という意味であり、伊勢神宮の場合、20年に一度、内宮・外宮をはじめ、神宮所蔵の神宝にいたるまで、そのすべてが新調されることになる。

大昔に、天武天皇がそうせよと命じたのだという。



なぜ、つくり替えられるのか?

古代の技術・技法の伝承という側面もあるように、遷宮のたびに「古代の記憶」が蘇る。



ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、蘇った神宮の印象をこう語っている。

「これらの建造物は簡素に見えるので、それに捧げられる尊称の念が不思議にさへ思はれるほどである。それは農家を想起せしむるものであり…」



古代より脈々と受け継がれきた建造物は、西洋人の目に「農家のような簡素さ」として映ったようだ。

確かに、アマテラスが祀られている正殿には「古代人の素朴な匂い」が漂っているようであり、まさかそれが神中の神の場とはブルーノには思えなかったのかもしれない。



しかし、それこそが「農耕に生きた日本人の根源」であった。

「田圃に黄金色の稲穂が垂れた里山の光景を連想させる伊勢神宮は、日本人にとっての原風景なのである(井上宏夫)」



華やかさとは無縁な、素朴な社殿に祀られているアマテラス。

アマテラスが五十鈴川の上流に鎮座してから、すでに二千年以上。よほどにこの地がお気に召したようである。

そして、アマテラスを祖先とする皇室は、神の香りを人の世へと伝えているかのようである…。






出典:大法輪 2013年 04月号 [雑誌]
「伊勢神宮を知るために 井上宏夫」

2013年3月25日月曜日

歌を読む



漢詩選


楓葉(ふうよう)庭に翻る秋去るの日

西窓斜日落霜滋(しげ)し

愚僧掃後優閑の境

榻に坐し茶を煎じ静かに眉を展(の)ぶ

〜晩秋所懐(澤田宗博)〜



短歌選


線量の 高くもがざる豊作の 柚子が黄に照り冬陽を返す(高松こと)

パソコンを 打ちつつ話す医師多し 患者のわれと向き合わずして(中西勝美)



俳句選


鋭角に 迫りて来るや冬の月(村田文夫)

除雪車の 音に目覚めし夜明けかな(伊藤吉一)

着ぶくれて 能舞ふごとき思ひなり(橋口俊司)

濡縁の 猫と語らう冬日和(村上要)



一声を 置きて野鳥の飛び去りぬ(櫛田賢治)

被災せる 友に送りぬ蜜柑箱(柴田和子)

鱈ちりの 炊けて真白き具材かな(石田浩道)

建てかけの 家の木組みや冬の星(北郷聖)

古傷も 撫でてやりたる初湯かな(飛田正勝)



川柳選


雑念を 払いのけたらボテけゆく(櫛田賢治)

どっかりと 座る人ほどイエスマン(鳥居豊彦)

節電が 昔の知恵を掘り起こす(小久保左門)

子の未来 親の鏡に映らない(橋口俊司)






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]


2013年3月24日日曜日

日本伝統の建築様式「大仏様」。なぜ天竺様とも言うのだろう…。



平安時代の末期、治承4年の暮れ、奢れる平家は東大寺を焼いた(旧暦1180年12月28日)。

世に言う「南都焼討」。平重衡(たいらのしげひら)による兵火であった。

「大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った(Wikipedia)」



その再建を託されたのは、当時61歳の僧「重源(ちょうげん)」。

長きにわたり宋(中国)に留学していた重源は、その間、寺院の建立や修復に数多く立ち合っており、その経験は豊富であったという。



そして、できた新しい大仏殿。

その建築技法は、中国の福建省あたりで見られた様式だったというが、当時の人々はこのような建築物を見慣れていなかった。

「インド(天竺)あたりから伝わったのではないか?」

見慣れぬ再建大仏殿は、そんな風に考えられていた。それゆえ、この建築様式が「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれるようになった。



そして、それはそのまま「大仏様(だいぶつよう)」とも言われるようになり、わが国の寺院建築の三本柱の一つに数えられるようにもなった。

※ちなみに、その3つとは「和様」「大仏様(天竺様)」「禅宗様(唐様)」である。

しかし、大仏様の建築物として現存するものは少ない(東大寺南大門や浄土寺浄土堂など)。それもそのはず、この建築様式は鎌倉時代初期の限られた時期だけに用いられたものだったのである。





大仏様(天竺様)の特徴はと言えば、「最小限の材料」で大建築を可能にすることであった。

というのも、鎌倉時代の初期、すでに森林資源が枯渇しており、奈良や京都の近くでは満足な材料を得ることが適わなくなっていた。重源が大仏殿を再建した時も、その用材は遠く山口県の山奥から伐り出してきたのである。

それゆえ、その長距離の輸送には自ずと限界があり、大仏殿も「必要最小限の資材」でまかなうしかなかったのであった。



なるほど、重源の大仏殿の「見慣れぬ建築様式」は、そんな必要から生まれたものであったか。

その後、東大寺がふたたび兵火にさらされるのは戦国時代。永禄10年10月10日、かの梟雄・松永久秀らの軍勢が大仏もろとも豪火に包むのであった…。






出典:大法輪
「雑学から学ぶ仏教 寺院の建築様式について」

2013年3月23日土曜日

「ヒト」とは? そして人間になった。



「人(ひと)」という古い日本語の由来は「霊処(ひと)」、つまり「霊(ひ)がとまるところ」という説がある。また、「ひ」は「日」に通じ、「日の徳にとまるところ」というものもある。

「私たちの祖先は、太陽に明るく照らされ、神霊が宿るところが人間だという見方をもっていたようです(光延一郎)」

いわば、日本人は「天」を見て、そして人を見たのだ。



さて、次は西洋へと目を転じてみよう。

ギリシャ語の「人」は「アントロポス」。「花開く」という意味。ラテン語では「ホモ」、これは「大地」。旧約聖書に登場するアダムという最初の人の名は、「アダマー(地面)」に由来し、「土の塵」からできたことを示唆している。

なるほど、西洋の人々は「地」を見て、そこから人を見たのだ。



ところでラテン語では、「人格」を「ペルソナ」というが、その語源は「仮面」だという。これは、英語のパーソンにも派生する言葉だ。

土くれから生まれたヒトが、人間という仮面をかぶる…。

それはなんとも、人の間に生きる「人間」らしい姿ではあるまいか…。






出典:大法輪2013年3月号
「日本人のためのキリスト教入門 光延一郎」

2013年3月17日日曜日

ひと目だけの網では…。



一目の羅(ら)、鳥を得ること能(あた)わず。

一両の宗、何ぞ普(あまね)く汲むに足らんや。



一目だけの網(羅)では、鳥を獲ることができない。

それと同様、一つ二つだけの宗教で、どうして全ての人々を救うことができようか。




〜伝教大師・最澄(天台宗)の言葉〜

2013年3月14日木曜日

出家、修行、そして「悟り」



「出家」とは?

それは文字通りの「家を出る」ということだけに限らない、と曹洞宗の藤田一照氏は言う。

「家」というのは、「自分がこれまでに慣れ親しんできた世間の常識や価値観」だと藤田氏は言うのである。



そうした広い意味での「家」から出ること、それが「出家」。

「ですから、形は立派な僧侶の格好をしていても、そういうものに囚われているのなら、それはやはり『在家』のままなのです。仏教ですらもその教えに必至でしがみついているのなら『出家すべき家』になってしまいます」と藤田氏。



つまり出家とは、ある一つの出来事を指す言葉ではなく、「出家し続ける」という連続的な運動なのである。

執着を手放すという不断の努力、この出家という運動こそが「修行」なのだそうだ。



そして、道元禅の立場でいえば、「修行そのものが悟り」ということになる。

これが「修証一如」ということ。「修」は修行であり、「証」は悟り、この2つは一つのものなのである。



すなわち「悟り」とは、修行の成果としていつか将来において獲得するものではなく、「出家」という修行をしているまさにその運動中に現成(げんじょう)しているものなのである。

「つまり『出家』が『修行』であり、それが取りも直さず『悟り』なのです」と藤田氏は言う。



手を動かして扇をあおがなければ、風は起きない。

それと同様、「出家」し続けなければ、「悟り」は現れない。



己の慣れ親しんだものを手放すことができるかどうか?

じつは、手放すことこそが「得る」ことだというのだが…。

しかし我々はえてして、お釈迦様が月を指差していても、その指に必死にしがみつこうとするものなのだ…!






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「信仰・修行の誤解、カン違い」

2013年2月21日木曜日

「天国」には逃げぬ(ブッダ)



「天国」というのは、「逃げ場所」なのか?

少なくともブッダは、そうだと考えた。



ブッダの生きた時代のインドでは、「バラモン教」が広く知られていた。

その聖典によると、こう説かれていた。

この宇宙は梵天が中心になっていて、人は死んで火葬に付されると、その魂は煙に乗ってまず「月」の方へと上っていく。そして、月からさらに神の道をたどれば、「天国」へ生まれ変わることができる、と。



しかしブッダは、こうした天国志向を「逃避主義」として、真っ向から批判した。

そんな理想主義は捨ててしまえ。その代わりに、苦しみのこの現実世界にこそ、「楽土(天国)」を建設せよ、そうブッダは教えたのであった。






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「仏教は天国に生まれることを目指す宗教?」

2013年2月20日水曜日

何もせぬ間(ま)。世阿弥と現代



私たちは誰しも、「4つの間(ま)」に生きている。

それは「時間・空間・世間・人間」という4つの「間」である。



しかしながら現在、これらの「間」はギチギチに詰まってしまい、はなはだ息苦しく、居心地が悪くなってしまっている。

現代文明はあたかも「密度を高めることが進歩発展」と思い込んでいるかのようだ。あらゆる隙間は「ロスやムダ」として埋められていく一方である。



かつて能の世阿弥は、芸と芸との間の「何もしない間(ま)」を至芸とした。

逆に、演じすぎる芸を見苦しいとしたのである。

世阿弥の言う「何もしない間」とは、「せぬ隙(ひま)」とも呼ばれるものだ。



「せぬ隙」とは、芸を生かすための空虚の間、充実した空である。

この「せぬ隙」が芸にあることにより、能が抜群の生気を帯び始めるのである。






ところで現在、ギチギチに詰まってしまった4つの間(時間・空間・世間・人間)に、間を入れ、間のびさせ、遊びを入れようとする人たちもいる。

それはたとえば、落ちこぼれやニート、オタクなどと呼ばれる人々かもしれない。

そうした人々は、世間では「間抜け」とも蔑まれる。俗世のルールや価値観に従わず、日常の約束事も守らぬのだから…。



しかし、4つの間に隙間があってこそ、やっと人は息をつける。

「意味」でぎっしり詰め込まれた俗世に、「無意味」を忍び込ませることで、ようやく息がつけるのだ。

「せぬ隙」によって、能が生気を帯び始めるように、人々は間が抜けて初めて、生き生きとしてくる。



この世で、一番きれいなこととは?

「何がきれいといって、空っぽにまさるものはない」






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「空っぽ賛 藤原成一」

2013年2月19日火曜日

愛犬と大蛇と…。多賀大社に伝わる物語

「お伊勢に参らば、『お多賀』に参れ。

お伊勢はお多賀の子でござる」

そう俗謡に歌われる通り、多賀大社(滋賀県)の祭神は「イザナギ(男神)とイザナミ(女神)」。その夫婦の子供がアマテラス、伊勢神宮の祭神である。



「伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」

伊勢・熊野と並んで、多賀大社への参詣はかつて庶民たちで賑わったのだという。

そうした賑わいが描かれた、多賀大社の「参詣曼荼羅図(さんけい・まんだらず)」。そこには、多賀大社の位置する「犬上郡」という地名の由来についての物語も描かれている。






むかし昔、不知也(いさや)川のほとりには、一人の狩人が住んでいた。鹿やイノシシを射ることを生業とする猛々しい男だ。

ただ、その荒くれ男も、いつも狩りに連れていく「犬(小白丸)」ばかりは、とりわけ大切に可愛がっていた。



ある日、鳥籠山(とこのやま)で鹿を追っていたその狩人は、奇岩だらけの淵を下るうちに、日が暮れてしまった。

しかたなく、朽ち木の根元で一夜を明かそうと思った男は、弓矢を揃え置き、愛犬・小白丸(こじろまる)を傍らに眠りに就いた。



ところが深夜、小白丸が突然はげしく吠え始めるではないか。

男がいくら宥めても、叱りつけても、ますます吠え狂う小白丸。

思わずカッとなってしまった男。腹にすえかねて刀を抜くと、あろうことか、小白丸のクビを跳ね飛ばしてしまった…!



暗闇に飛んだ小白丸のクビ。

それは男の頭上の大枝に食らいつき、そして落ちた。

ん? 落ちた愛犬のクビがくわえている大枝をよく見ると、それは枝ではなかった。「大蛇」であった。



きっと、この樹上の大蛇は、狩人を狙っていたのであろう。

幸いにも愛犬・小白丸のクビは、その大蛇のノドにがっちりと噛みつき、大蛇を即死させていた…。

その健気な愛犬のクビを見るや、狩人は大いに嘆き、そして悲しんだ。



のちに男は、その場に祠(ほこら)を建て、命を救ってくれた愛犬・小白丸を神として祀る。

この祠の名が「犬神明神」。それがそのまま地名となる(犬神郡、現在は犬上郡)。

ちなみに、その淵は「大蛇の淵」、その川は「犬上川」と呼ばれている。



こうした絵説法は、多賀大社の僧侶(坊人)たちによって語り継がれてきた。

坊人たちは、こうした物語の描かれた「参詣曼荼羅図」を携えて全国各地を行脚し、その先々で多賀大社にまつわる話を語り聞かせて歩いたのだ。

紙芝居のような坊人たちの話は、行く先々でたいへんな評判になったそうである。






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「神と仏の物語 多賀明神」