2017年8月8日火曜日

数字でみる日米軍事差[WW2]





話:ヘレン・ミアーズ





私たち(アメリカ人)は日本人の「ファナティック(狂信的)な好戦的」性格を強調しすぎてきた。だから、たとえ日本人がその何倍もファナティック(狂信的)だったにせよ、私たちとのいかなる戦争にも勝てるはずはなかったという事実がぼかされているのだ。

私たちは日本の「軍国主義的性格」にこだわりすぎたために、近代戦の勝利はほとんど、狂信的兵士にではなく工場労働者に負っている事実がみえなくなっている。1944年1月末の時点で、アメリカの産業死亡件数は戦死者数を7,500件上回っている。兵士個々の英雄的行為と苦難は、敵味方いずれの側であれ、軽んじるつもりはない。しかし、軍事力が高度に機械化された今日の世界では、工業生産力を無視して「世界の脅威」を正しく論議することはできないのだ。

総じて私たち(アメリカ人)は、日本をドイツと同じぐらい豊かな工業国だと思ってきたが、これはまったく違う。戦時生産局の推定によれば、第二次大戦中、ドイツとドイツ統治領は枢軸国の軍事物資の90%を生産していた。イタリアと日本は残りの10%を分担していたにすぎない。アメリカが1942年末までに生産した戦車、航空機、鉄砲、艦船の量は枢軸国全体の生産量に匹敵する。この推定の確度はともかくとして、工業、軍事国家としての日本はドイツやアメリカにくらべて「ピグミー程度のもの」だったのだ。



日米の軍事費の差は圧倒的だ。満州事変以降の両国の軍事予算を比較すると、日本軍がアジアで活発に動いていた(私たちアメリカの公式非難によれば、世界を征服しようとしていた)ときでも、アメリカの平時における通常軍事費のほうが日本の軍事費をはるかに上回っている。

たとえば1931年の米軍事予算はもう少しで日本の3倍を超えるところまできていた。満州事変に関する公式報告が正しければ、この年日本は「1億5,200万ドル」に満たない軍事予算で世界征服を開始し、一方、私たちは国内の軍隊を満足させるだけで「6億6,700万ドル」を必要としていた。

もし日本が本気で世界征服に乗り出したというのなら、これでいったいどうするつもりだったのか。日本が近代的軍事力をもつには、飛行機部品、屑鉄、石油、工作機械、ゴム、スズ、銅、綿など必要な物資や基本原料をアメリカ、イギリス、オランダから買い入れなければならなかったし、まして米ドルと英ポンドで支払わなければならなかったことを考えると、日本のいわゆる世界征服は初めから本物ではなかったといえるのだ。

確かに日本の軍事予算は満州事変以降、着実に増えていった。日本の国家予算の規模からいえば、きわめて大きな伸びである。しかし、米ドルに換算し、アメリカの軍事費増と比較すると、それほどの伸びではない。1941年までに、日本の年間軍事費は13億3,400万ドルに達しているが、アメリカの「国防」支出は60億ドルにまでふくらみつつあった。

日米関係が戦争に向かって急速に悪化していた1941年11月中旬、両国政府はそれぞれの議会に軍事予算の増額を求めている。ルーズベルト大統領は「70億ドルの増額」を、日本政府は「9億8,000万ドル」の増額を要請した。1943年1月のルーズベルト大統領の予算教書によれば、パールハーバー直後から私たちは毎月「20億ドル」を支出している。日本が重大なパールハーバーの年の一年間に認められた軍事費をほとんど一ヶ月でつかっていた。

日本の軍事予算は1944 - 45年に380億円を追加計上してピークに達した。これは「ほぼ90億ドル」に相当するが、すでに日本の工業生産は成長が止まっていたし、基本物資不足のために減少し初めていたのだから、これは単なる期待値にすぎない。これに対して、同じ時期、私たちは「970億ドル」にのぼる国防費を認められて、戦闘態勢に入ったのだ。

1937年7月の「日華事変」からパールハーバーまでの4年5ヶ月の間に、日本は中国と満州の軍事・防衛活動に「62億5,000万ドル」をつかった。1940年7月から1941年3月までに、アメリカは「1,610億ドル」をつかっている。満州事変から降伏まで、14年間の日本のそう軍事予算は「480億ドル」を下回っている。これはアメリカが武器貸与法で同盟国に供与した額をやや上回る程度である。戦争の全期間を通じて私たちが支出した軍事費は「3,300億ドル」にのぼっているのだ。



こうした数字を艦船、航空機、戦車、弾薬に置き換えてみると、「脅威」の内容がよくわかる。対日戦略を策定した人たちが、日本の狂信的神道崇拝なるものではなく、厳しい経済状態を事実に即して見ていたら、貴重な人命と財産をこれほど犠牲にしなくても日本の軍部は敗北していただろう。

国家は人間によって統治されているから、人間と同じように自分の立場で他人を見ようとする。あまりにも豊かで強大な国に住む私たちアメリカ人は、戦争が始まったとたん、日本の軍事力を過大評価するようになった。同じように、逼迫した経済状態の国に住む日本人は、とかくアメリカを過小評価していたのだ。

パールハーバーの時点で、私たちの戦時生産計画は日本をはるかに超えていた。私たちは「日本人はファナティック(狂信的)な軍国主義者である」という公式非難を鵜呑みにして、日本の生産態勢が1942年半ばまでは、必ずしも全面的に戦争目的に振り向けられていなかったことに気づいていない。一方、日本は緒戦にたやすく勝ってしまい、アメリカ、イギリス、オランダが太平洋とアジアの領土に蓄えていた戦争物資を手に入れることができたから、軍事大国幻想にとり憑かれてしまった。



パールハーバーの時点で日本の陸海軍がもっていた飛行機は全部で「2,625機」だった。アメリカと連合国が太平洋の基地に配備していた飛行機は「1,290機」にすぎない。一見して日本のほうが圧倒的に有利に思える。しかし、日本の飛行機は満州から南太平洋まで、広く薄く配備しなければならなかった。月間生産量はわずか「642機」で、9ヶ月間このままの数字で推移している。1944年9月に月間生産量は最高の「2,572機」に達したが、それからすぐ原材料不足のために落ちはじめる。もちろん、訓練されたパイロット、整備兵、燃料も足りなかった。

私たちのほうは1941年6月には月間「1,600機」の飛行機を製造していた。以後生産量は急速かつ着実に伸びて、1943年に「8,000機」を超え、1944年には「9,000機」に達した。1945年には私たちの一年間の製造機数は、日本が1941年から降伏までに製造した飛行機の2倍にのぼっている。

そのうえ日本はアメリカの「1」に対して「10」の割合で飛行機を失っていった。そして、戦闘用飛行機といえば、航続距離の長い巨大爆撃機「空の大要塞」を考える私たちアメリカに対して、日本人は脆弱なゼロ戦と小型の片道カミカゼ飛行機を考えていたのだ。



日本海軍は常に日本の巨大兵器であるといわれてきた。しかし、総重量トンと戦略のいずれの面でも、第一級の海軍国家と本格戦争を構えられるようなものではなかった。

1940年2月の帝国議会予算審議で、海軍は2,780万円の「近代化後肝炎計画」の承認を求めた。この審議の模様を伝えた新聞報道によれば、国会は軍の要求を法外なものとして「怒り」を表明したという。しかし、海軍の要求は「700万ドル程度」で、むしろ控え目とさえいえるものだった。同じ年の7月、米国議会は戦艦44隻、非戦闘艦1隻を補強する海軍拡充計画を承認している。総額「5億5,000万ドル」、一艦当たり1,200万ドルの支出である。アメリカ海軍からみれば、日本海軍は「手漕ぎボート程度」の計画を立てていたのである。

日本は「127万1,000総トン」の艦船で戦争を始めた。戦争中、彼らは新たに104万8,000トンの艦船を建造し、総重量は231万9,000トンとなった。1941年に私たちアメリカが新たに建造したのは「93万5,422トン」である。1942年には、日本海軍の総トン数に相当する艦船を増強した。1944年になると、私たちは日本が戦争開始から終結までに保有した全艦船の3倍に匹敵するトン数を新造した。ところが、すでに日本海軍は沈没と燃料不足から形ばかりの防衛戦力に成り下がっていた。

1943年9月には、私たちアメリカは「史上最強の艦隊、世界最強の海軍航空兵力」を宣言する。米戦略爆撃調査によれば、1945年春の段階で、日本の「わずかに残った艦船は燃料がないために廃棄されるか、カムフラージュされて対空施設につかわれているにすぎない」状態となっていた。

日本の輸送船は底をついていた。米戦略爆撃調査は「…日本が戦争を始めたとき、輸送船団はわずか600万トンで、ぎりぎり最低限の要求に応じられる程度のものだった。日本の建造量はたちまち損失量に追い越された。日本が保有していた輸送船総数の88%が戦争中に撃沈された」と述べている。戦争が終わった時点で、私たちは5,500万トンの船を残していた。



鉄鋼生産だけとってみても、十分状況がわかる。鉄はいかなる軍事計画にとっても筋肉であり骨である。1939年、アメリカは「5,250万トン」の鉄を生産していた。生産はさらに増大し、1942年には「8,800万トン」に達した。これはドイツ占領下のヨーロッパも含む枢軸国全体の推定生産量を上回る数字である。

日本の生産量は「世界征服」に乗り出した年の1943年で「333万4,000トン」である。大戦中の1943年に「780万トン」までもっていくが、これをピークとして1944年には「590万トン」まで落ち込んでいる。この間、基本原料の保有量と海上輸送圏は著しく縮小され、戦争終結時の鉄鋼生産量は「150万トン」になっていた。ちなみに1946年には32万トンを生産したにすぎない。



アメリカと諸外国の生産能力を数字の上で比較するにつけ、なぜ私たちアメリカが日本を怖れてきたか、わからなくなるのだ。アメリカは精神鑑定が必要かもしれない。

日本が経済的に窮乏していたという事実は、一つひとつが極めて重要な意味をもっている。もし日本が1931年に世界征服を開始したとしたら、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスは征服事業の協力者といわなければならない。これら各国が支配する地域からの物資供給がなければ、日本は満州事変と日華事変を遂行できなかったし、パールハーバー、シンガポールも攻撃できなかったろう。そればかりでなく、多くの日本人が食べていけなくなったろう。アメリカ、イギリス、オランダ三国は、日本の軍事必需品の85%を供給していた。1938年には、アメリカだけで57%を供給しているのだ。

日本の戦争機関が形成されたのは1938年以降のことである。全生産を戦争に振り向けるようになったのは、ようやく1942年になってからだ。日本が日華事変を継続させることができたのは、アメリカとイギリス、オランダ両帝国から買っていた綿、工作機械、石油、屑鉄など戦略物資のおかげなのだ。そのおかげで対米関係の悪化に備えて備蓄もできた。そして、戦争開始から数年間を賄うだけの軍事力がもてたのは、シンガポール、マレー、フィリピン、インドで得た略奪品のおかげなのだ。しかし、海上輸送手段と産業施設が不十分だったために、占領地域で原料を増産することができなかった。米戦略爆撃調査はその点についてこういっている。

「海上封鎖が占領地域の資源開発を妨げ、日本経済を失調させ、原料物資不足をもたらした。この結果、戦時生産は停滞し、石油不足から艦船、航空機の活動は停滞し、訓練回数も削減された」

つまり、私たちは小規模の「脅威」をつくり出し、それがいかにも巨大であるかのごとくに追いまわしていたのだ。







出典:アメリカの鏡・日本 完全版




『アメリカの鏡:日本』[WW2]



『アメリカの鏡:日本』より


占領が終わらなければ、日本人は、この本『Mirror for Amerianas: JAPAN』を日本語で読むことはできない。

ダグラス・マッカーサー




1948年、翻訳家・原百代氏は、ヘレン・ミアーズより原著『Mirror for Americans: JAPAN』の寄贈を受け、日本での翻訳出版の許可を得た。

原氏は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に嘆願書を添えて、日本における翻訳出版の許可を求めた。しかし、その望みは断たれた。翻訳出版不許可の決定がくだされたのだ。





占領が終了した翌年の1953年(昭和28年)、原氏の翻訳は『アメリカの反省』と題してやっと出版された。しかし、当時はなにゆえかあまり注目されず、その後は、ごく限られた専門家以外には、その存在すら忘れられていた。

現代史を勉強している私は、アメリカにいる友人からこの本『Mirror for Americans: JAPAN』の存在を教えられ、その内容を知った。そして自分自身で構築した歴史観を裏付けるその内容に激しい衝撃を受けた。50年も前に「後知恵」でなく、しかも、アメリカ人によって書かれていたこの本を、わたしは少しでも多くの日本人が読むべきであるとの強い思いを抱いた。





ヘレン・ミアーズは言う。


「私たちが、本当に平和を望んでいるのなら、世界の戦争原因を究明するにあたって、もっとも現実的になる必要があるだろう。そのためには日本は絶好の出発点である。



日本が第一次世界大戦時には『敵』ではなく『同盟国』だったから重要なのである。一つの国がいきなり『友人』から『敵』に変わった理由がわかれば、私たち地震の考えと政策が他国の人々に向けられるとき、それがどのように見えるか、知ることができる。

この本の意図は、少なくともその探求をはじめることにある。



日米双方で悪を演じているのは『危機的事態』なるものなのだ。第二次世界大戦を、三幕物の悲劇の第二幕だけで終わらせるためには、この危機の正体こそ検証しなければならない、と思ったのである。



日本帝国の彗星のような出現と消滅は、その意味についてまだ十分に議論されていない。近代にはいってわずかな間に、平和な鎖国主義から軍事大国主義へ急転換した日本の歴史は、四半世紀にわたる西洋世界の歴史の縮図なのである。

私たちは日本を客観的に研究することによって、私たちが生きる激動の時代の問題と矛盾を明らかにすることができる。そこではじめて、私たちは未来への流れをはっきりと方向付けることができるのだ。



力というものは、あまりに大きすぎると、小さすぎるのと同じように危険である。









比丘パッグナへの戒め[中部経典]



中部経典(マッジマ・ニカーヤ)
『ノコギリのたとえ』より





このように、私は聞きました。

あるとき、世尊は、サーヴァッティー市(舎衛場)のジェータ林にある、アナータピンディカ居士の僧院に住んでおられた。また、まさにそのころ、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。

比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いたとはこのようなことである。もし、比丘尼の誰かが、比丘モーリヤパッグヤの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグヤの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもした。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いた。



そこで、或る比丘が世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐ったその比丘は、世尊に、こう申し上げた。

「尊師、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います。比丘モーリヤパッグナが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、比丘モーリヤパッグナの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、比丘モーリヤパッグナは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、比丘モーリヤパッグナの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。このように、比丘モーリヤパッグナは、比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)います」と。



そこで、世尊は、或る比丘を呼ばれた。

「さあ、比丘よ、あなたは、私の言葉をもって、モーリヤパッグナ比丘を呼びなさい。『友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます』」と。

「かしこまりました、尊師」と、まさに、その比丘は、世尊に答えて、比丘モーリヤパッグナのところに近づいて行った。行って、比丘モーリヤパッグナに、こう告げた。

「友、パッグナさん、師があなたを呼んでいます」と。

「わかりました、友よ」と、まさに、比丘モーリヤパッグナは、その比丘に答えて、世尊のところに近づいて行った。行って、世尊に礼拝して、一方に坐った。まさに、一方に坐った比丘モーリヤパッグナに、世尊は、こう告げた。

「本当ですか。聞くところによると、パッグナ、あなたは、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上の関わりをもって)いるとのことです。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです。もし、比丘の誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしようものなら、そのことで、あなたは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。また、もし、比丘の誰かが、その比丘尼たちの目の前で、あなたの批判を口にしようものなら、そのことで、その比丘尼たちは怒り、機嫌を悪くし、言い争いさえもします。聞くところによると、パッグナ、あなたが比丘尼たちと一緒に仲良くして(必要以上に関わりをもって)いるとはこのようなことです」と。



「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、あなたは、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったのではないですか」と。

「そのとおりです、尊師」

「パッグナ、良家の子息として、信をもって家をはなれ、家なき出家者になったあなたにとって、まさにこのことは、ふさわしいことではありません。すなわち、あなたが、比丘尼たちと一緒に過度に仲良くして(必要以上に関わりをもって)、住むようなことです。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちの批判を口にしたからとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を捨て去るべきなのです。



そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナよ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、その比丘尼たちに手でもって殴るとしても、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。



パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたの目の前で、あなたの批判を口にするとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、世俗的な諸々の意欲や考え方を、捨て去るべきなのです。そこでまた、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。

パッグナ、ですから、たとえ誰かが、あなたに手でもって殴るとして、石でもって殴るとして、棒でもって殴るとして、刃物でもって殴るとして、そのときでさえも、パッグナ、あなたは、このように戒めねばなりません。

『私の心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私は発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私は生きるのだ』

と。パッグナ、あなたは、まさしくこのように、戒めねばなりません。







出典:アルボムッレ・スマナサーラ
怒りの無条件降伏 中部経典『ノコギリのたとえ』を読む




2017年7月24日月曜日

家長の方便[法華経]






大乗仏典〈4〉法華経より





たとえば、シャーリプトラよ、村か町か、城市か田舎か、田舎のある地方か王国か王都か、どこでもよいが、ここに一人の家長がいるとしよう。彼は老い衰え、長者として年を経て老齢に達してはいるが、富裕であり、財力があり、暮らしも豊かである。彼の大邸宅はまた、高く、広く、年月がたって傾いてはいたが、二百、三百、四百、あるいは五百という(多数の)生命あるものが住んでいる。その邸宅には、門はただ一つあるだけだとしよう。

草におおわれ、露台は崩れ落ち、柱の根もとも腐り、外壁も障壁も塗料も剥落しているこの邸宅が、突然、大きな火の塊りにまるまると包まれ、あちらこちらあらゆる方面で燃え上がったとしよう。この人にはまた、五人とか十人とか二十人とかという多くの子供があったとしよう。そして、この人だけが、その家から外に逃れ出たとしよう。

そのとき、シャーリプトラよ、その人は自分の邸宅が大きな火の塊りにすっかり包まれて燃えているのを見て、おそれおののいて、心が動転したとしよう。また、次のように考えたとしよう。

「私は、この大きな火の塊りに触れもせず、焼かれもしないで、速やかに安穏に、この焼けている家から門を通って逃れ出て、走り去ることができる。しかし、これらの私の息子たちは、まだ幼い子供であって、この燃えている屋敷のなかで、それぞれの玩具で遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。そして、この家が燃えているとは知らず、それに気がつかず、わかりもせず、考えもせず、心が動転することもない。この大きな火の塊りに焼かれながら、また大きな苦の集まりに迫られながらも、心に苦を感じない。また、外に出ようという考えも起こさない」と。



また、シャーリプトラよ、その人(家長)には力があり、腕の強い人であって、彼はこのように考えるでもあろう。

「私には力があるし、腕の力も強い。それで、私はこれらの子供たちをすべてひとまとめにして、脇にかかえてこの家から逃げ出させたらどうであろうか」と。

しかし、彼はまた次のようにも考えるであろう。

「この屋敷は入口は一つで、扉は閉じている。また、子供たちは片時も落ち着かず、子供らしく走りまわっているが、(どこかへ)迷いこんでしまうようなことがあってはならない。彼らは、この大きな火の塊りによって不運な災禍におちいるかもしれない。だから、私は、彼らに気をつけるように言おう」と。

こう考えて、その子供たちに呼びかけた。

「お前たち、こちらへきなさい。子供たちよ、(すぐに)逃げなさい。この家は大きな火の塊りで燃えている。(お前たち)みながここで、この大きな火の塊りで焼かれたり、思いがけない災難に会ったりしてはいけないから」

ところで、しかし、それら子供たちは、このように(自分たちの)幸せを願って、この人が呼びかけたことを理解できず、心が動転するのでもなく、おそれおののいたり、恐怖におちいったりもせず、何も気にとめないで、走り出ようともしない。また、その焼けているということは、いったいどういうことか、知らないし、わかりもしない。そして、ただ、いろいろなところを走りまわり、くりかえし走り去っては、その父親のほうを眺めているだけである。なぜかというと、これが(無知な)子供のありさまというものだからである。



そこで、実に、その人(家長)はこう考えるであろう。

「この屋敷は火事になり、大きな火の塊りで燃えさかっている。私も、これらの子供たちも、ここでこの大きな火の塊りによって不運な災禍におちいってはならない。それゆえ、私は方便をうまく使って、これらの子供たちをこの家から外へ出させよう」と。

この人はまた、それら子供たちが(かねがね)何を欲しているかを知っており、その性格の傾向も見分けているであろう。そして、それら子供たち(が欲しがっているもの)には多種類の多くの玩具 -- それらは種々異なって、楽しいもので、みなが望んでおり、美しく、愛らしく、気に入るものであり、しかもなかなか得がたいもの -- があったであろう。そこで、その人は子供たちの願望を知っているので、その子供たちにこう言った。

「子供たちよ、お前たちが玩具にして遊べば、きっと楽しくて、いままで見たこともないようなすてきなもの、いろいろな色が塗られ、種類もいろいろあり、それがもらえなければきっとお前たちはあとで後悔するようなもの -- たとえば牛の車、羊の車、鹿の車(の玩具)など、お前たちが(ほしいと思って)望んでいたもの、美しく、愛らしくて、きっと気に入るもの -- それらをすべて、お前たちが遊ぶようにと、屋敷の外の門のところに私は置いておいた。さあ、お前たち、こちらへきなさい。この屋敷から外へ走って出てきなさい。そうすれば、お前たちのだれが何を求め、何をほしがろうとも、それをみなに私はあげよう。早くそれをもらうために、こちらへ走って出てきなさい」と。

すると、彼ら子供たちは、玩具で遊び、楽しむために、(かねがね)ほしいと思っていたとおりの、また心に描いていたとおりの(玩具)、望んでいた美しく、愛らしく、また気に入っている(玩具)の名前を聞いて、その燃えている家から、すばやく(とび出してきた)。大いに努力し、力を奮うという敏捷さをもって、互いに他のものにはかまわず、「だれが一番か、だれがそれよりも早いか」と言って、身体を互いにぶつけ合いながら、その燃えている家からすばやく走り出てきた。



その人は、そのとき、これらの子供たちが安穏にうまく出てきたのを見て、また(彼らに)もはや心配はいらないことを知って、町の四辻の露地に坐り、喜びとうれしさを生じ、憂悩はなくなり、障害も去って、安堵にひたることになるであろう。そのとき、かの子供たちは父のいるところへ近づき、そこへ行ってからこう言うでもあろう。

「お父上、あのいろいろな楽しい玩具、たとえば牛の車、羊の車、鹿の車などを、どうか私たちにください」と。

そこでシャーリプトラよ、かの人は、それら自分の子供たちに、風のように速い牛の車を与えるであろう。それは七宝からなり、手すりがあり、鈴のついた網が垂れていて、高く、大きく、すばらしく珍奇な宝石で飾られ、宝玉の花環が美しく輝き、華鬘(けまん)で飾られ、綿布や毛布が座に敷かれ、金巾(かなきん)や絹でおおわれ、両側には赤い枕(クッション)が置かれている。それは白く純白で、足のすこぶる速い牛がつながれており、大ぜいの人がついていて、(王者の印の)幡が立っている。彼は(このような)風の力と速さのある、同じ外見で同じ種類の牛の車を、子供の一人一人に与えるであろう。なぜならば、シャーリプトラよ、この人はこのように裕福で、大きな財産があり、また多くの蔵や倉庫をもっていて、(また)次のように考えるであろうからである。

「私は、これらの子供たちに他の(劣った)車を与えるようなことはやめよう。それはなぜかといえば、これらの子供たちは、すべて私の息子であり、すべて私にとっては愛すべきもの、意にかなったものである。しかも、私にはそのような大きな乗り物はいくらでもある。そして、これらの子供たちを、私はみな平等に考えるべきで、不平等であってはならない。また、私には多くの(宝)蔵や(宝)庫があって、すべての人々にでも、このような大きな乗り物を与えることができる。しからば自分の子供たちに(与えるの)はなおさらのことである」と。

そして、彼ら子供たちは、そのときこれらの大きな乗り物に乗って、すばらしいこと、驚嘆すべきことと感ずるであろう。シャーリプトラよ、お前はこのことをどう思うか。それらの子供たちに、以前には三つの乗り物を示し、あとになってそのすべてに大きな乗り物だけを与え、りっぱな乗り物だけを与えたということは、この人は虚言を語ったことにはならないだろうか。



シャーリプトラは申し上げた。

「世尊よ。そのようなことはありません。善逝よ、そのようなことはありません。その人は巧みな方便をもって、その子供たちを燃えている家から引き出して、生命を与えたのであすから。そういう理由から、世尊よ、とにかくその人は虚言者ではないでありましょう。なぜかというと、世尊よ、たとえその人がその子供たちに車を一つとして与えなかったとしても、それでもとにかく、世尊よ、彼は虚言者ではないのです。なぜならば、世尊よ、その人はあらかじめ『巧みな方便をもって、私はこれらの子供たちをこの大きな苦の集まりから逃れさせよう』と、このように考えたからであって、このことからしても、世尊よ、この人には虚言(の罪)はないのです。まして、息子をいとおしと思えばこそ、うまくなだめすかして、かの人は(自分には)多くの蔵や倉庫があることを考えて、同じ外見の同一の乗り物、すなわち大きな乗り物を与えたのですから、なおのこと、世尊よ、かの人には虚言(の罪)はありません」

こう言われたとき、世尊は、長老シャーリプトラに次のように語られた。



よろしい、よろしい、シャーリプトラよ。これはそのとおりである。お前の言うとおりである。シャーリプトラよ、正しいさとりを得た尊敬さるべき如来は、あらゆるおそれを除き、あらゆる困惑、惑乱、困難、苦悩、憂悩から、また暗黒の無明の闇の膜に包まれておおわれていることから、あらゆる店で完全に離脱している。如来は、(種々の)知、(十種の)力、(四種の)おそれなき自信、(十八種の)仏陀に特有な性質を具備し、神通力によって非常な力を有し、世間の父であり、偉大なる巧みな方便と最高の知との究極に到達せるものであり、大慈悲者であり、心に倦むことなく人々の幸福を願い、あわれみ深くもある。

彼(如来)は、あたかも大きな苦と憂悩(という火)の塊りによって燃え、軒も屋根も朽ちはてた家のようなこの三界のなかに、生をうけるのである。それは、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱のなかにおいて、暗黒の無明の膜に包まれおおわれている衆生たちを、愛欲と憎しみと愚かさから解脱させるためであり、最高の正しい菩提に導き入れるためにほかならない。彼は(この三界のなかに)出現して、次のようにごらんになる。

「人々は、生・老・病・死・愁苦・悲嘆・苦悩・憂悩・惑乱によって焼かれ、煮られ、熱せられ、さいなまれている。彼らはまた、享楽のゆえに、また欲楽が原因となることによって、種々の多くの苦を経験する。すなわち、現世において(世俗的なものを)探し求め、利財を積むことにより、来世においては地獄や畜生道やヤマの世界において種々の多くの苦を味わうであろう。(たとえ、)神々や人間(のなかに生まれて)も、貧窮であったり、好しからぬものに会ったり(怨憎会苦)、いとしきものと別れたり(愛別離苦)するという苦を経験するのである。しかも、そのような苦の塊りのなかに(輪廻して)ありながら、遊び戯れ、喜々として楽しみにふけっている。恐ろしいともこわいとも思わず、恐怖におちいらず、気もつかず、考えもせず、動転もせず、(したがって)逃れ出ることを求めようともしない。そして、その燃えている家(火宅)のような三界において楽しみを求め、あちらに向かい、こちらに向かって走りまわり、かの大きな苦の塊りに打ちのめされながらも、それを苦と感じもせず、思いもしないのである」と。

そこで、シャーリプトラよ、如来は次のようなことをごらんになる。

「まことに私はこれら衆生の父であるが、実に、私はこれら衆生たちが喜々として遊んだり、楽しんだり、遊戯したりすることができるように、仏陀の知という量り知れない不思議な楽しさを、彼ら衆生たちに与えねばならない」と。







引用:大乗仏典〈4〉法華経より



2017年7月23日日曜日

10% human [prologue]





〜書籍『あなたの体は9割が細菌』より〜
10% Human; Alanna Collen


プロローグ
PROLOGUE
回復はしたけれど
Being Cured


2005年のある夏の夜、私は森から野営所に戻るところだった。
As I walked back through the forest that night in the summer of 2005,

20匹のコウモリをつめた布袋を首から下げ、あらゆる種類の虫がヘッドランプめがけて飛んでくる踏み分け道を歩いていると、
with twenty bats in cotton bags hanging around my neck and all manner of insect life dashing for the light of my head torch,

足首がむずむずするのを感じた。
I realised my ankles were itching.

ズボンは防虫剤でコーティングし、すそをヒルよけスパッツにたくしこんでいる。
I had my repellent-soaked trousers tucked into my leech socks,

その下には念のため、もう一枚余分にスパッツをはいている。
with another pair underneath for good measure.

森に仕掛けておいた罠からコウモリを夜中に回収する巡回作業では、闘う相手が山ほどある。湿気、滴る汗、足元のぬかるみ、虎と出くわさないかという恐怖、そして蚊。
The humidity and drenching sweat, the muddy trails, my fear of tigers, and the mosquitoes were enough to contend with as Imade my rounds, collecting bats out of traps in the darkness of the rainforest.

そんな手一杯の状況で私の肌を守ってくれるはずの繊維と化学薬品の防壁を、何かが突破したようだ。
But something had got through the barrier of fabric and chemicals protecting my skin.

何かがチクチクと肌を刺す。
Someting itchy.



22歳だった私は、のちに人生を一変させることになる3か月をマレーシアのクラウ野生生物保護地区の奥深いところで過ごしていた。
A twenty-two, I spent what turned out to be a life-changing three months living in the heart of Krau Wildlife Reserve in peninsular Malaysia.

生物学を専攻し、コウモリに魅せられるようになった私は、イギリスのコウモリ学者が現地調査の助手を探していると聞くや、すぐさま応募した。
During my biology degree, I had become fascinated by bats, and when the opportunity came up to work as a field assistant to a British bat scientist, I signed up immediately.

リーフモンキーにテナガザル、そして多種多様なコウモリに出会える貴重な機会を思えば、オオトカゲの棲む川で体を洗うのも、ハンモックで寝泊まりするのも嫌ではなかった。
Encounters with leaf monkeys, gibbons and an extraordinary diversity of bats made the challenges of sleeping in a hammock and washing in a river populated by monitor lizards seem worthwhile.

しかしこの熱帯雨林での出来事が、単なる一時的な体験に終わらずずっと続くことになろうとは、そのころは夢にも思わなかった。
But, as I was to discover, the trials of like in a tropical forest can live on far beyond the experience itself.



川のそばの空き地に設けられた野営所に戻るなり、私は重ねた衣類をはぎとって不快さの原因を調べた。
Back at base camp, in a clearing next to the river, I peeled back the layers to reveal the source of my discomfort:

ヒルではなくダニだった。
not leeches, but ticks.

50匹ほどがたかっており、皮膚に食い込んでいるのもいれば脚のほうまで這い上がっているのもいた。
Perhaps fifty or so, some embedded in my skin, others crawling up my legs.

ダニをブラシではたき落とせるだけ落とすと、私はコウモリに注意を戻し、できるかぎり手早く必要な計測と記録をした。
I brushed the loose ones off, and turned back to the bats, measuring and recording scientific data about them as quickly as I could.

作業を終えてコウモリを解放してやると、繭のようなハンモックに飛び乗って閉じこもり、ピンセットを手に残っていたダニをヘッドライトの下で最後の一匹まで取り除いた。周囲は漆黒の森で、セミの鳴き声だけが響き渡っていた。
Later, with the bats released, and the forest pitch-black and bussing with cicadas, I zipped myself into my cocoon-like hammock, and, with a pair of tweezers, under the light of my head torch, I removed every last tick.



数か月後、私はロンドンにいた。
A few months later, at home in London,

ダニがもたらした熱帯病は根を下ろしていた。
the tropical infection introduced to me by the ticks took hold.

体が思うように動かず、足の指が腫れていた。
My body seized up and my toe bone swelled.

奇妙な症状が現れては消え、そのたびにさまざまな血液検査と専門医の診察を受けた。
Weird symptoms came and went, as did various blood tests and hospital specialists.

私はまともな暮らしを送ることができなくなった。痛みと脱力感、意識障害に数週間から数か月間とらわれたかと思うと、何事もなかったように平穏な日々が続き、しばらくするとそれがまた繰り返される。
My life would be put on hold for weeks or months at a time as bouts of pain, fatigue and confusion gripped me without warning, then released me again as if nothing had happened.

数年後にやっと正確な診断がついたときには、すっかり定着してしまった感染症を治すのに、家畜の群れをまるごと治療できるほど大量の抗生物質を長期にわたって強力に投与された。
By the time I was diagnosed many years later, the infection was entrenched, and I was given a course of antibiotics long and intense enough to cure a herd of cattle.

そしてなんとか、本来の自分を取り戻せそうな気がするまでに立ち直った。
At last, I was going to be myself again.



しかし、この話はここで終わらなかった。
But, unexpectedly, the story did not end there.

私はダニ媒介型の感染症を治すために全身を薬漬けにした。
I was cured, but not just of the tick-borne infection. Instead, it seemed I had been cured as if I were a piece of meat.

抗生物質は絶大な効力を発揮してくれた。
The antibiotics had worked their magic,

だが私は、こんどは別の不具合に苦しめられるようになった。以前と同じく症状は多種多様だ。
but I began to suffer new symptoms, as varied as before.

皮膚に赤い発疹ができ、胃腸が弱くなり、たまたま出合った感染性の病原体を何であれ拾うようになった。
My skin was raw, my digestive system was choosy, and I was prone to picking up every infection going.

一つの疑いが頭をもたげた。あの一連の抗生物質は、私を苦しめていた細菌を全滅させただけでなく、もともと体の中にいた細菌まで絶滅させてしまったのではないだろうか。
I had a suspicion that the antibiotics I had taken had not only eradicated the bacteria that plagued me, but also those that belonged in me.

私は自分の体が微生物の棲めない荒れ地になってしまったように感じ、かつて私の体を棲み処としていた100兆個の友好的な微生物がどれだけ重要な存在であったかを、このときはじめて意識した。
I felt like I had become inhospitable to microbes, and I learnt just how much I needed the 100 trillion friendly little creatures who had, until recently, called my body their home.





あなたの体のうち、ヒトの部分は10%しかない。
You are just 10 per cent human.

あなたが「自分の体」と呼んでいる容器を構成している細胞一個につき、そこに乗っかっているヒッチハイカーの細胞は9個ある。
For every one of the cells that make up the vessel that you call your body, there are nine impostor cells hitching a ride.

あなたという存在には、血と肉と筋肉と骨、脳と皮膚だけでなく、細菌と菌類が含まれている。
You are not just flesh and blood, muscle and bone, brain and skin, but also bacteria and fungi.

あなたの体はあなたのものである以上に、微生物のものでもあるのだ。
You are more 'them' than you are 'you'.

微生物は腸管内だけで100兆個存在し、海のサンゴ礁のように生態系をつくっている。
Your gut alone hosts 100 trillion of them, like a coral reef growing on the rugged seabed that is your intestine.

およそ4,000種の微生物がそれぞれの小さなニッチを開拓し、長さ1.5mの大腸表面を覆う襞(ひだ)に隠れるようにして暮らしている。
Around 4,000 different species carve out their own little niches, nestled among folds that give your 1.5-metres-long colon the surface area of a double bed.

あなたは生まれた日から死ぬ日まで、アフリカゾウ5頭分の重量に匹敵する微生物の「宿主」となる。
Over your lifetime, you will play host to bugs the equivalent weight of five African elephants.

微生物はあなたの皮膚の上にもいる。
Your skin is crawling with them.

あなたの指先には、イギリスの人口を上回る数の微生物が付着している。
There are more on your fingertip than there are people in Britain.



いや、待てよ。
Disgusting, isn't it?

私たちは衛生観念を発達させた進化の頂点に立つ生き物だ。
We are surely too sophisticated, too hygienic, too evolved to be colonised in this way.

樹上生活をやめたとき邪魔になった体毛や尾をなくしたように、寄生する微生物も減らしてきたのではなかったか。
Shouldn't we have shunned microbes, like we did fur and tails, when we left the forests?

より清潔で健康で自立した生活ができるよう、現代医学は微生物を追い払うさまざまな方法を用意してきたのではなかったか。
Doesn't modern medicine have the tools to help us evict them so that we can live cleaner, more healthy, independent lives?

私たちは人体に微生物がたくさん棲んでいることを知ったとき、とくに害がないならいいではないかと黙認した。
Since the body's microbial habitat was first discovered we have tolerated it, as it seemed to do us no harm.

しかし、サンゴ礁や熱帯雨林を保護しなければと考えるのと同じように、人体に棲む微生物も保護しようとは思わなかった。ましてや、大切に世話する必要性など気づきもしなかった。
But unlike the coral reefs, or the rainforests, we have not thought to protect it, let alone to cherish it.



私は進化生物学者として、ある生物の体の構造やふるまいを見るとき、その利点や意味を考えるよう訓練を受けている。
As an evolutionary biologist, I am trained to look for the advantage, the meaning, in the anatomy and behaviour of an organism.

通常、その生物に有害な特性や相互作用は不利な戦いを強いられるか、進化の過程で失われるかするものだ。
Usually, characteristics and interactions that are truly detrimental are either fought against, or lost in evolutionary time.

私は考えをめぐらせた。
That set me thinking:

100兆個の微生物は、もし何の手土産もなしに私たちの家のパーティーに来ていたなら、いずれ招かれなくなっていたはずだ。
our 100 trillion microbes could not call us home if they brought nothing to the party.

敵を撃退して感染症を治すのが仕事のはずのヒト免疫系は、なぜこれだけの微生物の侵入を許しているのだろうか。
Our immune systems fight off germs and cure us of infections, so why would they tolerate being invaded in this way?

私は、この謎についてもっと知りたくなった。なにしろこの私は、数か月に及ぶ化学兵器戦争で、悪い微生物だけでなく有益な微生物まで殺してしまったのだ。
Having subjected my own invaders, both good and bad, to months of chemical warfare, I wanted to know more about the collateral damage I had caused.



私がこの問題を探りはじめたのは時期的によかった。
As it turned out, I was asking this question at exactly the right time.

そのころやっと、私たちの好奇心に技術が追いついたからだ。共生微生物についての科学研究はそれ以前からあったが、遅々として進んでいなかった。
After decades of slowpaced scientific attempts at learning more about the body's microbes by culturing them on Petri dishes, technology had finally caught up with our curiosity. 

人体内に棲む微生物はほとんどは腸内の無酸素環境に適応しており、酸素に触れると死んでしまう。
Most of the microbes living inside us die when they are exposed to oxygen, because they are adapted to an oxygen-free existence deep in our guts. 

人体外で育てる(ペトリ皿で培養する)のが困難なのはもちろんのこと、実験するのはさらに困難だった。
Growing them outside the body is difficult, and experimenting with them is even harder.



だが、ヒトの遺伝子をすべて解読するという画期的なヒトゲノム・プロジェクトのおかげで、DNA解析(配列決定)が格段に速く安くできるようになった。
But, in the wake of the seminal Human Genome Project, in which every human gene was decoded, scientists are now capable of sequencing masive quantities of DNA extremely quickly and cheaply.

糞便にまじって体外に出てきた「死んだ」微生物を特定することさえ可能になった。微生物そのものは死んでいても、DNAが無傷で残っているからだ。
Even our dead microbes, expelled from the body in the stool, could now be identified because their DNA remained intact.

これまでだれもが見落としていた共生微生物について、科学はいま、新しい素性を明らかにしようとしている。
We had thought our microbes didn't matter, but science is beginning to revel a different story.

ヒトの暮らしはヒッチハイカー微生物の暮らしと噛み合っていて、そこでは微生物が人体を動かしている。そうした微生物なしにヒトは健康ではいられない。
A story in which our lives are intertwined with those of our hitchhikers, where our microbes run our bodies, and becoming a healthy human is impossible without them.



私の健康被害は氷山の一角だった。
My own health troubles were the tip of the iceberg.

共生微生物のアンバランスが胃腸疾患、アレルギー、自己免疫疾患、さらには肥満を引き起こしているという科学的証拠が続々と出てきていることを私は知った。
I learnt of the emerging scientific evidence that disruptions to the body's microbes were behind gastrointestinal disorders, allergies, autoimmune diseases, and even obesity.

体の病気だけではない。不安症、うつ病、強迫性障害、自閉症といった心の病気にも微生物が影響している。
And it wasn't just physical health that could be affected, but mental health as well, from anxiety and depression to obsessive-compulsive disorder (OCD) and autism.

私たちが人生の一部として甘受している病気の多くはどうやら、遺伝子の欠陥や体力低下のせいではなく、ヒト細胞の延長にある微生物を軽んじたせいで出現した、新しい病態のようなのだ。
Many of the illnesses we accept as part of life were not, it seemed, down to flaws in our genes, or our bodies letting us down, but were instead newly emerging conditions brought on by our failure to cherish the long-held extension to our own human cells: our microbes.



私が知りたかったのは、投与された抗生物質が自分の微生物集団に与えたダメージについてだけではない。微生物のどんな作用が私を体調不良に陥れたのか、また熱帯雨林でダニに噛まれる前まで保たれていた微生物のバランスをとり戻すにはどうしたらいいのかについても調べたいと思った。
Through my research, I hoped not only to discover what damage the antibiotics I had taken had done to my microbial colony, but how it had made me unwell, and what I could do to restore the balance of microbes I had harboured before the night of the tick bites, eight years earlier.

その一環として、DNA解析をするプログラムに参加する同意書にサインした。
To learn more, I signed up to take the ultimate step in self-discovery: DNA sequencing.

ただし、解析するのは私の遺伝子ではなく、私の腸内に築かれている微生物集団の遺伝子 -マイクロバイオーム- である。
But rather than sequence my own genes, I would have the genes of my personal colony of microbes - my microbiome - sequenced.

私は改善への道のりの出発点として、まずは自分の腸内にいる菌種や菌株を知ろうと思った。
By knowing which species and strains of bacteria I contained, I would have a starting point for self-improvement.

そしてそれを、本来なら私の腸内にいるべき微生物についての最新知識と突きあわせれば、与えてしまったダメージの大きさが推測でき、修復を試みることもできるだろう。
Using the latest understanding of what should be living in me, I might be able to judge just how much damage I had done, and attempt to make amends.

私が参加したのは市民科学プログラムの一つ、アメリカン・ガット・プロジェクト(AGP)だ。アメリカのコロラド州ボールダーにあるコロラド大学のロブ・ナイト研究室が主体となっているこの活動には、世界中のだれもが参加できる。
I used a citizen-science programme, the American Gut Project, based at the laboratory of Professor Rob Knight at the University of Colorado, Boulder. 

参加者が自分の糞便サンプルを提供すると、AGPはその中に含まれる微生物のDNAを解析する。AGPはヒトの体内にいる微生物のサンプルをできるだけ多く集め、微生物の種類と、それが私たちの健康に与える影響を調べようとしている。
Available to anyone around the world for a donation, the AGP sequences samples of microbes from the human body to learn more about the species we harbour and their impact on our health.

私は糞便サンプルを送り、お返しに私の腸内生態系の「スナップ写真」を受けとった。
By sending a stool sample containing the microbes from my own gut, I received a snapshot of the ecosystem that called my body home.



うれしいことに、何年も抗生物質の治療を受けていたにもかかわらず、私の腸内にはちゃんと細菌がいた。
After years of antibiotics, I was relieved to find I had any bacteria living in me at all.

私の腸内細菌の様相は、少なくとも他のAGP参加者のそれと比べて大きな違いはなかった。
It was pleasing to see that the groups I harboured were at least broadly similar to those in other American Gut Project participants, 

私がひそかに心配していた「有毒物質で汚染された腸内で、奇怪な変異菌種がほそぼそと命をつないでいるような」荒廃した光景は広がっていなかった。
and not the microbial equivalent of mutant creatures eking out a living on a toxic wasteland.

だが、ある程度予想していたことだが、私の腸内細菌は多様性に欠けているようだった。
But, perhaps predictably, the diversity of my bacteria seemed to have taken a beating.

生物の分類で「界」のつぎに大きな分類群である「門」で比べたとき、私の腸内細菌の多様性は相対的に低く、二大勢力に属する細菌の占める割合が他の参加者よりも多かった。
At the highest level of the taxonomic hierarchy, the diversity was relatively low, looking a bit bipartisan compared with the guts of  other people.

二大勢力とはヒトの腸内で多数派の二つの「門」に属する細菌集団で、私の場合は97%以上の細菌がこのどちらかの分類群に属していた。平均的な参加者の場合は90%程度にとどまる。
Over 97 per cent of my bacteria belonged to the two major bacterial groups, compared with around 90 per cent making up these two groups in the average participant.

これは私が使っていた抗生物質が少数派の菌種を絶滅させ、それに耐えた菌種だけが残った結果なのだろう。
Perhaps the antibiotics I had taken had killed off some of the less abundant species, leaving me with only the hardy survivors.

この多様性の喪失が、ここ数年の私の体調不良に関係があるかもしれないと私は思った。
I was intrigued to know whether this loss might be related to any of my more recent health troubles.



しかし、高木と低木、あるいは鳥類と哺乳類というような大きな分類群の割合だけで熱帯雨林と温帯の森を比較しても、それぞれの生態系がどう機能しているかはわからない。同じように、私の腸内細菌を大きな分類群の割合で比べたぐらいで腸内の微生物環境が健全かどうかなどわかるはずがない。
But, just as comparing a tropical rainforest and an oak woodland by looking at the proportion of trees to shrubs, or birds to mammals, reveals little about how both ecosystems function, comparing my bacteria at such a broad scale may not tell me all that much about the health of my inner community.

生物の分類群では「門」の下に「属」や「種」がある。
At the other end of the taxonomic hierarchy were the genera and species that I contained.

私の治療中にずっと耐えていたであろう細菌や、治療終了後にどこかから戻ってきた細菌の種類が詳しく特定できれば、私の現在の健康状態が明らかになるのだろうか?
What could the identities of the bacteria that had either clung on throughout my treatment, or returned since it ended, reveal about my current state of health?

それよりもっと切実な問題として、抗生物質による無差別攻撃で消滅した細菌種の「不在」は、いまの私の体調にどう関係しているのだろう?
Or perhaps more pertinently, what did the absence of species that might have fallen victim to the chemical warfare I had unleashed on them, mean for me now?



私は、自分自身とその中にいる微生物についての探求に乗り出したとき、得られた知識を実践に活用しようと決めていた。
As I embarked on learning more about us - myself and my microbes - I resolved to put what I learnt into practice.

有益な微生物をとり戻したかったし、ヒト細胞と調和する微生物バランスを築くためには生活習慣を変える必要があることも理解していた。
I wanted to get back on their good side, and I knew I needed to make changes to my life to restore a colony that would work in harmony with my human cells.

無差別攻撃で微生物環境を壊してしまったことが私の近年の体調不良の原因なら、それを元に戻すことでアレルギーや皮膚のトラブル、年がら年中の感染症から抜け出すことができるかもしれない。
If my most recent symptoms were stemming from the collateral damage I had inadvertently inflicted upon my microbiota, perhaps I could reverse it and rid myself of the allergies, the skin problems and the near-constant infections?

これは自分のためだけではなく、これから産み育てたいと思っている子どものためでもあった。
My concern wasn't just for myself, but for the children I hoped to have in the coming years.

生まれてくる子どもに遺伝子だけでなく微生物も手渡すことになるのなら、私は手渡すに値する微生物を保有していると、胸を張って言えるようになりたかった。
As I would pass on not only my genes, but also my microbes, I wanted to be sure  I had something worth giving.



私は微生物を最優先に考え、微生物たちのニーズに合うよう食生活を変えることにした。
I resolved to put my microbes first, altering my diet to better suit their needs.

そしてそのあとで、もう一度サンプルを送ってDNA解析をしてもらおうと計画した。食生活を変える努力によって微生物集団の多様性とバランスに何らかの効果が現れることを私は期待していた。
I planned to have a second sample sequenced after my lifestyle changes had had a chance to take effect, in the hope that my efforts might be evident from the change in the diversity and balance of the species I play host to.

何よりも、微生物に対する私の投資の見返りとして、より健康で幸せになるための扉を開くカギを手に入れられることを期待していた。
Most of all, I hoped that my investment in them would pay dividends, by unlocking the door to better health and happiness.









引用:
あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた
10% Human: How Your Body's Microbes Hold the Key to Health and Happiness