2014年11月21日金曜日

culture と technique [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 一体文化などという言葉からしてでたらめである。文化という言葉は、本来、民を化するのに武力を用いないという意味の言葉なのだが、それを culture の訳語に当てはめて了ったから、文化と言われても、私達には何の語感もない。語感というもののない言葉が、でたらめに使われるのも無理はありませぬ。

 culture という言葉は、極く普通の意味で栽培するという意味です。西洋人には、その語感は十分に感得されている筈ですから、culture の意味が、いろいろ多岐に分れ、複雑になっても根本の意味合いは恐らく誤られてはおりますまい。果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それが culture だ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させることが、cultivate である。自然を材料とする個性を無視した加工は technique であって、culture ではない。technique は国際的にもなり得よう、事実なっているが、国際文化などというのは妄想である。意味をなさぬ。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




2014年11月6日木曜日

対面、官兵衛と半兵衛 [吉川英治]



〜吉川英治「黒田如水」より〜





「お幾歳(いくつ)にならるる」

「ちょうどでござる」

「三十歳よな。それではわしの方がずんと兄だ。九ツも上だから」

 初対面の彼にたいして、秀吉は敢て「兄」ということばを用いた。官兵衛は心中にその過分な辞をすこし疑ったが、秀吉はさらにそれを不当とは思っていないらしく、ふと、横の座を顧みて、

「…すると、お許(もと)と官兵衛とは、ちょうど二つちがいになるな。官兵衛が一ばん年下で、次にお許、その上がかくいう筑前か。思えばわしもいつかもう若者の組には入らなくなって来つるわ。さりとて、まだまだ、大人の組にも入りきれぬしのう」

 と自嘲をもらして、また大いに笑った。そこにいた一個の人物も、ことばなく黙然と微笑した。初めにちょっと会釈しただけで、ついまだ一語も発せずに秀吉のわきにひたと坐っている一武人である。面(おもて)は白く筋肉は痩せて、たとえば松籟(しょうらい)に翼をやすめている鷹の如く澄んだ眸(ひとみ)をそなえている。官兵衛はさっきからひそかに気になっていたので、

「こちらは、誰方(どなた)でござるか。ご家中の方でいらせられるか」

 と、今をその機(しお)と、秀吉に向って訊ねてみた。

「お。こなたの人か」

 秀吉はまじめに紹介(ひきあ)わせを述べた。

「竹中半兵衛重治(しげはる)。ご承知もあろうが、美濃岩村の菩提山の城主の子じゃ。いまはこの筑前の軍学の師でもあり、家中のひとりでもあるが、信長卿より羽柴家へ付け置かるるという特殊な関係になっておるので、いつ召し戻されるやも知れぬと、秀吉も内心常に恟々(きょうきょう)としておる厄介な家人だ。それだけに謂わば筑前の無二の股肱。いや官兵衛、御辺(ごへん)とならば、きっと肝胆(かんたん)相照らすものがあろうぞ。刎頸(ふんけい)を誓ったがよい」



 秀吉のことばが終ると、その半兵衛重治は初めて静かに向き直って、初対面のあいさつをした。その音声(おんじょう)は秀吉とちがって雪の夜を囁く叢竹の如く沈重であり、言語はいやしくもむだを交じえない。そして一礼のうちにもその為人(ひととなり)の自ら仄(ほの)かに酌(く)めるような床(ゆか)しさと知性の光があった。

「えっ、あなたが竹中殿で。おくれました。それがしは」

 と、官兵衛もあわてて礼をむくいたが、秀吉と話している分には、さほどでもない自己の卑下(ひげ)が、この半兵衛に対しては、なぜかはっきり抱かずにはいられなかった。やはり自分は田舎侍であったという正直な負(ひ)け目である。しかし相手がそれを見下しているような倨傲(きょごう)でないことは十分にわかっていた。



 それにしても彼は、羽柴家の家中に、これほどな人物が甘んじて仕えていることが、何かあり得ない事を見たような気がした。美濃菩提山城の子竹中重治といっては、世上の軍学者でその名を知らない者はないほど夙(つと)に聞こえている大才である。ある意味で織田家中の羽柴秀吉という一将の名よりも、有名なことでは半兵衛重治のほうが聞こえているかもわからない。

 若年、多くは帝都にいたと聞いている。それもたいがい大徳寺に参禅していたもので、ひとたび国許から合戦の通知をうけるや否、馬に乗って一鞭(いちべん)戦場へ駆け、また一戦終ると、禅の床に姿が見られたとは、都あたりの語り草にもなっている。

 その戦場に在る日は、つぶ漆のあらあらとした鎧に、虎御前(とらごぜ)の太刀を横たえ、

コノ若殿、魁(サキガケ)ニ御在(オワ)セバ、軍中、何トナク重キヲナシ、卒伍(ソツゴ)ノ端々ニマデ心ヲ強メケル

とは家中のみでなく一般の定評だった。軍学の蘊蓄(うんちく)は当代屈指のひとりと数えられ、戦うや果断、守るや森厳(しんげん)、度量は江海(こうかい)のごとく、その用兵の神謀は、孔明、楠の再来とまで高く評価している武辺(ぶへん)でもある。



 秀吉のごときはその渇仰者(かつごうしゃ)の随一人であった。彼がまだ洲股(すのまた)の城にいて、ようやく一個の城砦を狭い領土とをはじめて持ったとき、早くもこの若き偉材を味方に迎えんとして、半兵衛重治の隠棲していた栗原山の草庵へ、何十度となく、出廬(しゅつろ)を促すために通ったことは、世間に余りに知れわたっている話である。その事を、むかし漢土において、劉玄徳が孔明の盧を叩いた三顧の礼になぞらえて、

(羽柴筑前の熱心は、ついに臥龍(がりょう)半兵衛を、自己の陣営へひき込んだ)という者もあった。

 いずれにせよ、この戦国において、この事ほど武辺の話題になったことはない。ただ惜しむらくは、竹中半兵衛ほどな人物に、なぜか天は逞(たくま)しい肉体を与えなかった。弱冠から多病の質である。それだけが惜しまれてもいたし、秀吉もまた、破れ易い名器を座右に置いているように、いつも一方ならぬ気遣いをしているようであった。

 中国の僻地(へきち)にいるかなしさには、黒田官兵衛も疾(と)く噂は聞いていたが、およそのことを想像して、忘れるともなく忘れていた。今、あらゆる予備的な世評をいちどに思い出して、厳然と、その存在と人物の重さに、襟を正さしめられたのは、まさに今夜その人と間近に対(むか)い合ったときからであった。





 秀吉も酒を愛し、竹中半兵衛もすこし嗜(たしな)む。加うるに、官兵衛との三人鼎坐(ていざ)であったが、量においては、官兵衛が断然主人側のふたりを凌いでいる。

 夏の夜はみじかい。殊に、巡り合ったような男児と男児とが、心を割って、理想を断じ、現実を直視し、このとき生れ合わせた歓びを語り合いなどすれば、夜を徹しても興は尽きまい。





「明日でも、お目にかかれば、御辺もまた信長様のご風格をよく察するであろうが、ご主君も陽気がお好きで、ご酒をあがられるとよく小姓衆に小唄舞(こうたまい)など求められ、ご自身も即興を微吟(びぎん)あそばしたりなされる。官兵衛、御辺には何ぞ芸があるか」

 秀吉の横道ばなしに、官兵衛はやや業を煮やして、「小唄舞も仕(つかまつ)る。猿舞も仕る」と、嘯(うそぶ)いて答えた。

 すると秀吉は、「それは器用な男だ。どうじゃ一さし舞わんか」と、自分の持っていた扇子を与えた。

「ここではご免です」と官兵衛は手を振って断った。そして隅の方に眠たげにひかえている小姓へ向い、硯筥(すずりばこ)を求めて、その扇子へ何やらしたため終ると、「殿こそ、お謡(うた)いください」と、秀吉の手へ返した。



 酬(むく)われた一矢(いっし)を苦笑してうけながら、秀吉は脇息(きょうそく)から燭の方へ白扇を斜めにしながら読んでいた。

更(ふ)けてのむほど
酒の色
かたりあふほど
人の味
夜をみじかしと
誰かいふ
いづみ、尽きなき
さかづきを

「半兵衛。この裏へ、何ぞ認(したた)めてつかわせ」

 巧みに交(か)わして、秀吉はそれを、竹中半兵衛へあずけた。半兵衛は筆をとって、裏面へ、

与君一夕話
勝読十年書

 と書いて、「殿のおいいつけなので、ぜひなく汚しました」と、さしだした。

 ふと手に取ったが、官兵衛は、じっと見つめている眼から、次第に酒気を払って、まだ墨の乾かぬ白扇をそっと下へ置き直すと、ていねいに両手をつかえて、半兵衛へ、「ありがとうございました」と頭を下げた。

 眼もとに深淵の波紋のような笑(え)みをちらとうごかしながら、半兵衛重治も、「わたくしこそ」と、膝から両手を辷(すべ)らせた。

 もう夜が明けていた。寺房の奥では、勤行(ごんぎょう)の鐘の音がしているし、寺門に近い表のほうでは厩の馬がいなないていた。







出典:吉川英治「黒田如水


2014年11月4日火曜日

日本人のお月見 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 知人からこんな話を聞いた。

 ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をしていた。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったというような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。

 ここまでは、当たり前な話である。ところが、この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと思える一座の雰囲気(お月見の気分)が、どうしても理解出来なかった。そのうちの一人が、今夜の月には何か異変があるのか、と、茫然と月を眺めている隣りの日本人に、怪訝な顔附で質問したというのだが、その顔附が、いかにも面白かった、と知人は話した。

 スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい。しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、心の深みに這入って行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある。これは口ではいえないものだし、またそれ故に、私たちは、いかにも日本人らしく自然を感じているについて平素は意識もしない。たまたまスイス人といっしょに月見をして、なるほどと自覚するが、この自覚もまた、一種の感じであって、はっきりした言葉にはならない。スイス人の怪訝な顔附が面白かったで済ますよりほかはない。



 この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方が基礎となって育って来た。意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない。

 いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、ずい分手間がかかった事になる。妙な事だ。

 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」お月見




2014年11月3日月曜日

カメラと露出計 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 私は、持物をどこかに置き忘れる癖があって、例えば帽子でも傘でも、いくつ買ってもむだなのである。カメラと露出計を持って旅行に出かけるのを見て、家内は、どうせ持って帰りはしない、請合っておく、と言った。彼女の予言は、いまいましいが的中した。まず露出計が、ある日エジプトのルクソールのホテルで、姿を消した。何処に置き忘れたかわからない。もっともわかるくらいなら紛失もしまい。

 ところが、これが後日判明した。エジプトからギリシアにまわり、ローマでゆっくりしている間に、それまで撮った写真を現像させてみたところ、ルクソールの沙漠(さばく)の中の廃墟で、同行の今日出海君を写したもののなかに、露出計が見つかった。彼の傍の石の上に、はっきり写っていたのである。その日、写真を撮ったのはそこが最後で、二人はそこからまっすぐホテルに帰り、私は露出計の無いことに気がついたのであるから、置き忘れた場所は、まさに、その石の上であったことに間違いはない。

 写真を眺めて、ヤッ、ここにあった! と大きな声を出した私の顔を、今君は見て、馬鹿野郎、と言った。何もローマから取りに行きたいと言うのではない。私が大声を発したのは、事実を確かめ得た歴史家としての喜びを表わしたに過ぎないのである。つまらぬ冗談をいうと人は笑うであろうか。



 さて、ローマでぶらぶらしているうちに、ある日、今度はカメラをどこかに置き忘れた。多分、タクシーの中であろうが、カメラがカメラを撮影するという奇跡は起こり得ないから、今もってこれはどこだかわからない。どうせ二つともなくすのなら、カメラの方を先きになくせば、露出計は俺がもらっておいたのに、と今君は言った。私は、別段がっかりもしなかった。それどころか、今までよくもったものだ、と感心した。そういう心理の動きは、私のようによく物をなくす人間には、習慣上備わっているものだ。

 ところがカメラをなくしてみて、意外な発見をした。実は、カメラなぞ私には邪魔だったのである。われながら小まめにパチパチ写していた間は、結構楽しかったのであるが、カメラがなくなってみて、こうさばさばした気持ちになるところをみると、ただ楽しかったような気がしているだけの話だったに相違ない。私には心の奥底で、カメラのメカニズムに屈従するのが、いつも気に食わなかったのかも知れない。

 いずれにせよ、首根っこからぶら下がった小さな機械が紛失したおかげで、私の視力は、一度失った気持ちのよい自由感を取戻したという感じは、大変強いものであった。このことは、私に文学の仕事の上でのリアリズムという言葉の意味について、今更のようにいろいろのことを考えさせた。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」写真




解釈を拒絶して動じないもの [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 歴史の新しい見方とか解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。

 一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。

 晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。









出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)
無常という事




2014年11月2日日曜日

林檎と文化 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜




 二十分ばかりお話をいたします。文化ということについて。文化という言葉がたいへん流行しておりますが、その言葉の意味を正確に知っている人が非常に寡(すくな)い様で残念だと思っております。

 今日使われている文化という言葉、これは勿論翻訳語でありますが、文化という言葉は昔から支那にあった、これは政治的な意味があって、武力によらず民を教化するという意味であった。そういう意味の文化という言葉をそのまま英語のculture或は独逸語のKulturという言葉に当てはめて了った。どっちにしろ意味はまるで違うんで、誰が訳したか知りませんが、こういうふうな訳のために、文化と言っても僕等には何が何やらわからなくなって了った。言葉に語感がないという事は恐ろしい事です。ただ文化文化とウワ言の様に言っているのです。

 だけどもカルチュアという言葉は西洋人にとっては、母国語としてのはっきりした語感を持っている筈だ。耳に聞いただけで誤解しようがないのです。カルチュアというのは畑を耕やして物を作る栽培という意味だ。カルチュアという言葉にしたって決して単一な意味ではないが、どんな複雑な意味に使われ様と、カルチュアと聞けば、西洋人には栽培という意味が含まれていると感ずる。これが語感である。

 ジンメルは文化を論じて、そういう点に及び、こういう意味の事を言っています。例えば林檎(りんご)の木を育て、立派な林檎を成らす。肥料を工夫したり、いろいろな工夫を施して野生の林檎からデリシャスだとか、インドだとかいう立派な実を成らすことに成功したならば、その林檎の木は比喩的な意味にしろ、カルチュアを持ったことなんです。だけども、林檎の木を伐ってその林檎の木の木材でもって家を建てたり、下駄を造ったりしても、それは原始的な林檎の木が文化的な林檎の木になったことにはならない。つまり栽培が行われたのではないからです。

 すると、こういう事になります。林檎自身にもともと立派な実を成らす素質があった。本来林檎の素質にある、そういう可能性を、人間の智識によって、人間の努力によって実現させた。そういう場合に林檎の木を栽培したという。だが林檎の木自身に下駄になる素質はない。勝手に人間が下駄を造ってしまった。林檎の木自身ちっとも知らないことです。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




詩人の言葉 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜




 ドガが慰みに詩を作っていた時、どうも詩人の仕事というものは難かしい、観念(イデ)はいくらでも湧くのだが、とマラルメに話したら、マラルメは、詩は観念で書くのではない、言葉で書くのだ、と答えたと言う。



 詩人は、ありの儘(まま)の言葉を提げて立っている。彼は、言葉に関して、決して器用な人間ではない。みんなそう思っているが、詩人に関する最大の誤解である。彼は実は、原始人なのだ。音や形や意味が離れ離れになっていない、一つの言葉、それは例えば目の前の一枚の紅葉の葉っぱの様に当たり前であり、ありの儘だ。これだけを信じて疑わぬ事が、そんなに難かしい事なのであろうか。やはり難かしい事らしい。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)



2014年11月1日土曜日

小林秀雄の自惚れ



〜話:小林秀雄〜




 高等学校の一年生の時、はじめて志賀直哉氏に会ったとき、聞いた話のうちでまだよく覚えている言葉がある。言われた通り僕が実行し、言われた通りになったからよく覚えているのだろう。

「君等の年頃では、いくら自惚(うぬぼ)れても自惚れ過ぎるという事はない。自惚れ過ぎていて丁度いいのだ。やがてそうはいかない時は必ず来るのだから」

 以来僕は自惚れる事にかけては人後に落ちまいと心掛けた。何が何やら解らなくなっても、この位物事が解らなくなるのは大した事だと自惚れる事にしていた。「改造」に初めて懸賞論文を出した時も、一等だと信じて少しも疑わず、一等賞金だけ前借りして呑んで了い、発表になって二等だったので大いに弱った。







ソース:小林秀雄「栗の樹




キツネの死んだふり [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 先日、ハドソンの「ラ・プラタの博物学者」を読んでいたから、死を装う本能について狐のことが書いてあって、思わず吹き出した。

 狐は危険が迫ると死んだ振りをする。時々うす眼を開けてもう大丈夫かどうか確かめる。大丈夫と見定めるとそろそろ立ち上がって逃げ出す。ところが、こいつがうまく行かない場合があるそうだ。狐の術策は極めて巧妙で犬などは完全に欺されるそうだが、あんまり巧妙すぎて本当に死んで了うという場合があるので、或る男が実験をしたら胴体を切断して了うまで死んだ振りをしていたという。








ソース:小林秀雄「栗の樹