談判筆記
慶応戊辰三月、駿府大総督府に於て
西郷隆盛氏と談判筆記
全生庵所蔵
戊辰の年、官軍 我
(わが)旧主
徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)御征討の節、官軍と徳川の間
(あいだ)隔絶、旧主 家の者 如何とも尽力の途
(みち)を失ひ、論議紛紜
(ふんうん)、廟堂一人として慶喜の恭順を大総督宮
(だいそうとくのみや)へ相
(あひ)訴へ候
(さふらふ)者無く、日夜 焦心苦慮する而已
(のみ)なり。其内
(そのうち)譜代の家士
(かし)数万人、論議決定致さず 或
(あるい)は官軍に抗せんとする者あり。又は脱走して事を計らんとする者あり。其勢
(いきほひ)言語に尽す能
(あた)はざるなり。
旧主 徳川慶喜儀は、恭順謹慎、朝廷に対し、公正無二の赤心
(せきしん)にて、譜代の家士
(かし)等に示すに、恭順謹慎の趣旨を厳守すべきを以てす。
「若(も)し不軌(ふき)の事を計る者あらば、予に刃(じん)するが如し」と達したり。故に余
(よ)旧主に述
(のぶ)るに、
「今日切迫の時勢、恭順の趣旨は如何なる考(かんがえ)に出で候(さふらふ)哉」と伺ふ。旧主示すに、
「予は朝廷に対し公正無二の赤心を以て謹慎すと雖(いへど)も、朝敵の命下りし上は、とても予が生命を全(まった)ふする事は成るまじ。斯く迄(かくまで)衆人に悪(にく)まれし事、返す返すも嘆かはしき事」と落涙せられたる。
余旧主に述るに、
「何を弱きつまらぬ事を申さるるや。謹慎とあるは詐(いつ)はりにても有らんか。何か外(ほか)にたくまれし事にても有るべきか」。旧主曰く、
「予は別心なし」。
「如何なる事にても朝廷へ貫徹し、御疑念氷解は勿論なり。鉄太郎に於て其辺は屹(きっ)と引受(ひきうけ)、必ず赤心徹底致すべき様尽力致すべし。鉄太郎 眼(まなこ)の黒き内は、決して配慮これ有る間敷(まじく)」と断言す。
爾後
(じご)自ら天地に誓ひ、死を決し、只
(ただ)一人官軍の営中に至り、大総督宮へ此
(この)衷情を言上し、国家の為に無事を計らんと欲す。大総督府本営に到る迄
(まで)、若
(も)し余が命を絶つ者あらば曲
(きょく)は彼にあり。予は国家百万の生霊に代り、生を捨つるは素
(もと)より余が欲する所なりと、心中
(しんちゅう)青天白日
(せいてんはくじつ)の如く、一点の曇
(くもり)なき赤心を一二の重臣に計れども其事
(そのこと)決して成難
(なりがた)しとて肯
(がへん)せず。
当時 軍事総裁
(ぐんじそうさい)勝安房(かつ・あは)は余
(よ)素
(もと)より知己ならずと雖
(いへど)も、曾
(かつ)て其
(その)胆略あるを聞く。故に行
(ゆき)て是を安房に計る。安房、余が粗暴の聞
(きこ)へあるを以て、少しく不信の色あり。安房は余に問ふて曰く、
「足下(そっか)如何なる手立(てだて)を以て官軍の営中にへ行くや」と。
余曰く、
「官軍の営中に到れば、彼等は必ず余を斬(ざん)するか縛(ばく)するかの外(ほか)なかるべし。其時、余は双刀を渡し、縛すれば縛につき、斬らんとせば我(わが)旨意(しい)を一言(いちごん)大総督宮へ言上(ごんじゃう)せん。若(も)し其言(そのげん)の悪(あし)くば直(ただち)に首を斬るべし。其言のよくば此の処置を余に任すべしと云はん而已(のみ)。是非を問はず、只(ただ)空しく人を殺すの理なし。何の難(かた)きことか之あらん」と云
(いふ)。
安房
(あは)其精神不動の色を見て断然同意し、余が望
(のぞみ)に任す。夫
(それ)より余家に帰りしとき、薩人
(さつじん)益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)来り、同行せん事を乞ふ。依
(より)て同行を承諾し、直
(ただ)ちに駿府
(すんぷ)に向ひて急行す。
既に六郷河
(ろくがうがは)を渡れば、官軍の先鋒、左右皆な銃隊
(じゅうたい)。其
(その)中央を通行するに止
(とど)むる人なし。隊長の宿営と見ゆる家に到り、案内を乞
(こ)はずして立入り、隊長を尋ぬるに、是
(これ)なるべしと思ふ人あり
(後聞けば篠原国幹なり)。則ち大音
(だいおん)にて、
「朝敵(ちょうてき)徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と断はりしに、其人
(そのひと)「徳川慶喜、徳川慶喜」と、二声
(ふたこえ)小音
(こごえ)にて云ひしのみ。此
(この)家に居合す人、凡
(およ)そ百人計
(ばか)りと思へども、何
(いづ)れも声も出さず唯
(た)だ余が方を見たる許
(ばか)りなり。依
(よっ)て其の家を出で、直
(ただ)ちに横浜の方へ急ぎ行きたり。其時
(そのとき)益満
(ますみつ)も後
(あと)に添
(そひ)て来れり。
横浜を出
(いで)、神奈川駅に到れば、長州の隊となれり。是
(これ)は兵士旅営
(りょえい)に入り、駅の前後に番兵を出せり。此所
(ここ)にては益満
(ますみつ)を先となし、余は後
(あと)に従ひ、薩州藩
(さっしうはん)と名乗り急ぎ行くに、更に支
(さそ)ふる者なし。夫
(それ)より追々
(おひおひ)薩藩
(さっぱん)と名乗れば、無印鑑なれども、礼を厚
(あつく)し通行させたり。
小田原駅に着
(ちゃく)せし頃、江戸の方に兵端
(へいたん)を開けりとて、物見
(ものみ)の人数路上に絶えず、東に向ひて出張す。戦争は何処にて始まりしと尋ねしに、甲州勝沼の辺なりと云ふ。仄
(ほのか)に聞
(きく)。
近藤勇(こんどう・いさむ)甲州へ脱走せしが、果
(はた)して是
(これ)なるべしと心に思ふたり。
昼夜兼行、駿府
(すんぷ)に到着。伝馬町
(でんまちょう)某家を旅営とせる大総督府下、
西郷吉之助(さいごう・きちのすけ)方
(かた)に行きて面謁
(めんえつ)を乞ふ。同氏、異議なく対面す。余、西郷氏の名を聞事
(きくこと)久し。然れども曾
(かつ)て一面識なし。
余、西郷氏に問
(とふて)曰
(いはく)、
「先生、此度(このたび)朝敵征討の御旨意(ごしい)は、是非を論ぜず進撃せらるるか。我(わが)徳川家にも多数の兵士あり。是非に関(かかは)らず、進軍とあるときは、主人徳川慶喜、東叡山(とうえいざん)菩提寺(ぼだいじ)に恭順謹慎(きょうじゅん・きんしん)致し居り、家士(かし)共に厚く説諭(せつゆ)すと雖(いへど)も、終(つい)には鎮撫(ちんぶ)行届(ゆきとど)かず、或(あるひ)は朝意(ちょうい)に背(そむ)き、又は脱走不軌(ふき)を計(はか)る者多からん。左(さ)すれば主人徳川慶喜は、公正無二の赤心(せきしん)、君臣の大義を重んずるも、朝廷へ徹せず。故(ゆへ)に余(よ)其の事を嘆(たん)し、大総督宮へ此事(このこと)を言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を達せん為(た)め是迄(これまで)参りしなり」と。
西郷氏曰
(いはく)、
「最早(もはや)甲州にて兵端を開きし旨(むね)注進あり。先生の言ふ所とは相違なり」と云ふ。余曰
(いはく)、
「夫(それ)は脱走の兵のなす処(ところ)なり。縦令(たとひ)兵端を開きたりとも何の仔細(しさい)もなし」と云ひければ、西郷氏曰、
「夫(それ)なればよし」と云
(いふ)て後
(あと)を問はず。
余曰、
「先生に於ては戦(たたかひ)を何時(いつ)迄も望まれ、人を殺すを専一(せんいち)とせらるるか。夫(それ)では王師(わうし)とは云ひ難し。天子は民の父母なり。理非(りひ)を明らかにするを以(もっ)て王師とす」と。西郷氏曰、
「唯(た)だ進撃を好むにあらず。恭順の実効さえ立てば、寛典(くわんてん)の御処置あらん」。余曰、
「其(その)実効と云ふは如何なる事ぞ。勿論(もちろん)慶喜に於(おい)ては朝命には背かざるなり」。
西郷氏曰、
「先日来(せんじつらい)静寛院宮(じゃうくわんいん)天璋院(てんしょういん)殿の使者来り、慶喜殿、恭順謹慎の事、嘆願すと雖(いへど)も、只(ただ)恐懼して更に条理(でうり)分らず、空(むなし)く立戻(たちもど)りたり。先生、是迄(これまで)出張、江戸の事情も判然し、大(おほい)に都合よろし、右の趣(おもむき)大総督宮へ言上(こんじゃう)致すべく、此処(このところ)に控へ居(お)るべし」とて、宮へ伺候
(しかう)す。
暫
(しばら)くありて西郷氏、帰営し、宮より五箇条の御書
(ごしょ)御下げ有
(あり)たり。其文
(そのぶん)に曰、
一、城を明渡(あけわた)す事
一、城中の人数を向島(むかふじま)に移す事
一、兵器を渡す事
一、軍艦を渡す事
一、徳川慶喜を備前へ預くる事
西郷氏曰
(いはく)、
「右の五箇条、実効相(あい)立つ上は、徳川家寛典(かんてん)の御処置も之(これ)有るべく」と。余曰、
「謹んで承(うけたまは)りたり。然れども右五ヶ条の内に於(おい)て、一ヶ条は拙者に於て何分にも御請(おう)け致し難(がた)き旨(むね)之(これ)有り候(そうろう)」。西郷氏曰、
「夫(それ)は何(ど)の箇条なるか」。
余曰、
「主人慶喜を独り備前へ預(あづく)る事、決して相(あい)成(なら)ざる事なり。何(なん)となれば此場(このば)に至り、徳川恩顧の家士(かし)、決して承伏(しょうふく)致さざるなり。詰(つま)る処(ところ)兵端(へいたん)を開き、空(むな)しく数万の生命を絶つ。是(これ)王師(わうし)のなす所にあらず。さすれば先生は只(ただ)の人殺しなるべし。故に拙者、此条(このじょう)に於いては決して肯(がえんぜ)ざるなり」。
西郷氏曰、
「朝命(ちょうめい)なり」。余曰、
「縦令(たとひ)朝命なりと雖(いへど)も、拙者に於て決して承伏せざるなり」と断言す。西郷氏又
(また)強
(しひ)て、
「朝命なり」と云
(いふ)。
余曰、
「然れば先生と余と、其(その)位置を置き易(か)へて暫(しばら)く之を論ぜん。先生の主人島津公、若(もし)誤りて朝敵の汚名を受け、官軍征討の日に当り、其君(そのきみ)恭順謹慎の時に及んで、先生余が任に居り、主家の為め尽力するに、主人慶喜の如き御処置の朝命あらば、先生其命を奉戴し、速(すみやか)に其君を差出し、安閑として傍観する事、君臣の情、先生の義に於て如何(いかが)ぞや。此儀(このぎ)に於ては鉄太郎、決して忍ぶ事能(あた)はざる所なり」と激論せり。
西郷氏、黙念
(もくねん)暫
(しばら)くありて曰、
「先生の説、尤(もっと)も然り。然らば即ち徳川慶喜殿の事に於ては、吉之助(きちのすけ)屹(きっ)と引受け取計(とりはから)ふべし。先生必ず心痛する事勿(なか)れ」と誓約せり。
後
(のち)に西郷氏、余に謂
(い)ふ。
「先生、官軍の陣営を破り此(ここ)に来(きた)る。縛(ばく)するは勿論(もちろん)なれども縛せず」と。余答
(こたへて)曰、
「縛(ばく)につくは余が望むところ、早く縛すべし」と。西郷氏笑
(わらっ)て曰、
「先(ま)づ酒を酌まん」と。数杯を傾け暇
(いとま)を告ぐれば、西郷氏、大総督府
(だいそうとくふ)陣営通行の符
(ふ)を与ふ。之を請
(うけ)て去る。
帰路
(きろ)急行、余神奈川駅を過
(すぐ)る頃、乗馬五六匹を牽
(ひき)行くあり。何
(いづ)れの馬なるかと尋ねしに、江川太郎左衛門
(えがわ・たろうざえもん)より出す処の官軍用馬なりと。其馬二匹を貸すべしと云ひ、直
(ただ)ちに益満
(ますみつ)と共に其馬に跨
(またが)り、馳
(はせ)て品川駅に到る。
官軍先鋒、既に同駅に在り。番兵、余に馬をとどめよと云ふ。余、聞かずして行く。急に二三名走り来
(きた)り、一人余が乗
(のり)たる馬の平首
(ひらくび)に銃を当て、胸間
(きょうかん)へ向け放発
(ほうはつ)せり。奇なる哉
(かな)、雷管
(らいくわん)発して弾丸発せず。益満
(ますみつ)驚きて馬より下
(お)り其兵の持
(もち)たる銃を打落
(うちおと)し、西郷氏に応接の云々
(うんぬん)を示すに、聞かず。伍長
(ごちょう)体
(てい)の人、出で来
(きた)り、其兵士を諭す。兵、不伏
(ふふく)ながら退く。
[薩藩、山本某と云ふ人なり]
若
(も)し銃弾発すれば其所
(そこ)にて死すべきに、幸
(さいはひ)に天の余が生命を保護する所なからんと、益満と共に馬上に談じ、急ぎ江戸城に帰り、即ち大総督宮より御下げの五ヶ条、西郷氏と約
(やく)せし云々
(うんぬん)を、詳
(つまびら)かに参政
(さんせい)大久保一翁
(いちおう)、勝安房
(かつ・あわ)等
(ら)に示す。両氏其他
(そのた)の重臣、官軍徳川の間、事情貫徹
(かんてつ)せしことを喜べり。旧主徳川慶喜の欣喜
(きんき)、言語を以て云ふべからず。
直
(ただ)ちに江戸市中に布告
(ふこく)を為
(な)したり。其大意、此
(かく)の如し。
大総督府下、参謀西郷吉之助殿へ応接相
(あい)済
(すみ)、恭順謹慎、実効相
(あい)立ち候
(さふらふ)上は、寛典
(かんてん)の御処置相
(あい)成り候
(さふらふ)に付
(つき)、市中一同、動揺致さず、家業致すべし
との高札
(こうさつ)を、江戸市中に立つ。是
(これ)に依
(よっ)て市中の人民、少しく安堵
(あんど)の色あり。
是より後
(のち)、西郷氏江戸に着
(ちゃく)し、高輪
(たかなは)薩摩邸に於て、西郷氏に勝安房
(かつ・あわ)と余と相
(あい)会し、共に前日約
(やく)せし四ヶ条は、必ず実効を奏すべしと誓約す。故に西郷氏承諾、進軍を止
(とど)む。
此時
(このとき)徳川家の脱兵
(だっぺい)なるか、軍装
(ぐんさう)せし者、同邸
(どうてい)なる後
(うしろ)の海に小舟七八 艘
(そう)に乗組
(のりくみ)、凡
(およ)そ五十人許
(ばか)り同邸に向ひ寄せ来
(きた)る。西郷氏に付属の兵士、事の出来
(いできた)るを驚き奔走す。安房
(あは)も余も是
(これ)を見て如何
(いか)なる者かと思ひたり。西郷氏神色
(しんしょく)自若
(じじゃく)、余に向ひ笑て曰、
「私が殺されると兵隊がふるひます」と云
(いひ)たり。其言
(そのげん)の確乎
(かくこ)として動かざる事、真に感ずべきなり。暫時
(しばらく)ありて其兵は何
(いづ)れへか去る。全く脱兵と見えたり。
此
(かく)の如きの勢
(いきほひ)なれば、西郷氏応接に来
(きた)る毎
(ごと)に、余往返
(わうへん)を護送す。徳川家の兵士、議論百端
(ひゃくたん)殺気云ふ可
(べか)らざるの秋
(とき)、若
(も)し西郷氏を途中に殺さんと謀る者あれば、余前約
(ぜんやく)に対し甚
(はなは)だ之を恥づ。万一不慮の変ある時は、西郷氏と共に死せんと心に盟
(ちか)って護送せり。
此日
(このひ)大総督府下参謀より急の御用有り之
(これ)出頭すべしと御達
(おんたっし)あり。余出頭せしに、村田新八
(むらた・しんぱち)出で来
(きた)り、「先日官軍の陣営を足下
(そくか)猥
(みだり)に通行す。其旨
(そのむね)先鋒隊より報知
(ほうち)す。我と中村半次郎
(なかむら・はんじらう)[桐野利秋]と足下を跡より追付
(おいつけ)切殺
(きりころ)さんとせしが、足下
(そくか)早くも西郷方へ到り面会せしに依
(よっ)て切損
(きりそん)じたり。余り残念さに呼出
(よびいだ)し是
(これ)を云へるのみ。別に御用向きは無し」と云ふ。
予曰
(いはく)、
「それはさも有るべし。予は江戸児(えどっこ)なり、足は最も早し貴君(あなた)方は田舎者にてのろま男故(ゆえ)、余が早きにはとても及ぶまじ」と云ふて、共に大笑
(おほわら)ひして別れたり。両士も其時軍艦にて陣営を護
(まも)りながら、卒然
(そつぜん)其職務を失
(しく)じりしを遺憾に思ひしと見えたり。
此
(かく)の如きの形勢なれば、予輩
(よはい)鞠躬尽力
(きっきゅうじんりょく)して、以て旧主徳川慶喜が君臣の大義を重んずるの心を体認
(たいにん)し、謹んで四ヶ条の実効を奏し、且
(かつ)百般の難件
(なんけん)を所置
(しょち)する者、是
(こ)れ則ち予が国家に報する所以
(ゆえん)の微意
(びい)なり。
明治十五年三月
山岡鉄太郎 誌(しるす)
出典:児玉四郎『明治天皇の御杖』
解説:[[新訳]鉄舟随感録 「剣禅一如」の精髄を極める]より
『慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記』という鉄舟の遺稿がある。維新の際に功績のあった人々に対して、明治政府の論功行賞(ろんこうこうしょう)が始められた時、過去を語ることが少なかった鉄舟は、その勲功(くんこう)調査に応じることを再三固辞したが、ついに右大臣の岩倉具視(いわくら・ともみ)から直接に求められるに及んで、ようやく認(したた)めたものだ。ただし、勲功調査とは別途に、岩倉個人に呈した書だった。己の功を自慢気に述べ立てることを嫌った鉄舟は、歴史の「証言」に資(し)するならば、という条件付きで呈上(ていじょう)したのである。以下、明治16年(1883)記のその『談判筆記』(『鉄舟居士の真面目(しんめんもく)』圓山牧田編集、全生庵発行、大正七年)にしたがって、細部は省略しながら、鉄舟の果たした大仕事を垣間見ることにする。
上野の寛永寺に閉居していた徳川慶喜は、すでに朝廷に対する恭順の意を固めていたし、譜代の家臣たちに厳命していた。その趣旨に反しようとする者は
「余に対して刃(やいば)をふるうに等しい」とまで通達していたのである。
純粋なその思い、赤心
(せきしん)をもって、こうして謹慎しているのだが、朝敵
(ちょうてき)の汚名を着せられたからには、もう自分の命はおぼつかないであろうし、
「これほどまでに人々に憎まれることになったのは、かえすがえす嘆かわしいことだ」と伺候
(しこう)した鉄舟の前で慶喜は落涙
(らくるい)した。
そこで、鉄舟は
「どうして、そのようなか弱きことをいわれるのですか」と述べ、
「謹慎というのは偽りで、何か企(たくら)まれていることがあるのですか」と問うと、慶喜は
「どのようなことがあっても、朝廷に背(そむ)かざる赤心を貫く」と答えた。
慶喜の強い決意を確かめた鉄舟は、
「その誠の赤心のうえでの謹慎ならば、それは朝廷に貫徹して、もちろん疑念は晴れるはずですので、その役目は自分が引き受け、必ず赤心が朝廷に通じるように尽力いたしましょう」と言い、次のように断言したのである。
「この鉄太郎の眼の黒いうちは、決して、ご心配には及びませぬ」。
その後、命をかけて大総督府に慶喜の赤心を伝える自分の考えを、鉄舟は一、二の重臣に打ち明けたが、「そんなことができるはがない」と一蹴されたので、未知の人だが、かねて胆略
(たんりゃく)優れた人物という評判を耳にしていた幕府の軍事総裁である
勝海舟(かつ・かいしゅう)を訪ねて、粘り強く説得した末に同意を引き出す。そして、海舟の家に預けられていた薩摩人の
益満休之助(ますみつ・きゅうのすけ)という者を同行
(このことは海舟に請われて鉄舟が承諾したと述べられている)して、直ちに駿府へと向かった。
さて、六郷川
(多摩川)を渡ると、すでにそこまで進軍していた新政府軍
(官軍)の先鋒隊の兵が、銃を持って駐屯
(ちゅうとん)している。鉄舟はそのど真ん中を通行したが、一人として制止する者がいない。彼は宿営
(しゅくえい)と思
(おぼ)しき家に乗り込むと、隊長らしい人物に大声で、こう断った。
「朝敵・徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と。宿営にいた百人ほどの人間は、一声も発することなく、鉄舟の方に目を向けたばかりであった。
それより横浜、神奈川、小田原を経て、益満を従えて昼夜歩きつづけた鉄舟は、駿府に着くと、大総督府下の参謀・
西郷吉之助(きちのすけ)隆盛(たかもり)の旅営に行った。その名はずいぶん以前から聞き知っていたが、もちろん、一面識もない西郷に面会を許されると、彼は切々とおよそ以下のようなことを訴えたのである。
「わが主人の徳川慶喜は、恭順の意志をもって謹慎しているが、臣下の者に対する鎮撫(ちんぶ)が行き届かないために、朝廷のお考えに背いている者が多いかもしれず、無二(むに)の赤心(偽りのない心)が朝廷に通じないことを嘆いている。拙者はそれを大総督宮(有栖川宮)に言上(ごんじょう)し、慶喜の赤心を伝えるためにこうしてやって来たのである。先生(西郷)は、それでも江戸へと進軍されるのか。それでは、人殺しではないか。王師(帝王の軍隊)とはいえぬ。天子(天皇)は民の父母であり、理非(りひ)を明らかにするのが、王師というものではないのか」
すると西郷が、
「恭順の実際を示せば、朝廷より寛大な処置が下されるであろう」と言い、大総督宮に伺いを立てて戻って来ると、大総督宮より下された左記の五箇条から成る書を呈した。
一 城(江戸城)を明渡(あけわた)す事
一 城中の人数を向島(むこうじま)へ移す事
一 兵器を渡す事
一 軍艦を渡す事
一 徳川慶喜を備前(岡山県)へ預(あずけ)る事。
西郷はこの五箇条の実効が成立すれば、徳川家に寛典
(かんてん)が下されるであろう、と言うのである。
鉄舟は
「謹んで承(うけたまわ)りました」と言った後で、ただし、慶喜を備前に預けるという条はとうてい承服
(しょうふく)できぬ、と言った。なぜならば、
「そうなれば徳川恩顧(おんこ)の臣がこれを受け容れず、ついには戦争が始まるし、その結果、数万の生命が絶たれることになる」からであり、その事態に至れば、
「先生は単なる人殺しになるであろう」と言うのだった。
「朝命(ちょうめい)なり」と西郷は頑なに主張するばかりである。鉄舟は激しく食い下がる。彼はこんなことを言った。
「もしも、慶喜が先生の主人の島津公で、先生がこの鉄太郎の立場にあったならば、朝命を奉戴(ほうたい)してご主君を差し出し、安閑(あんかん)として事を傍観されるか。どうですか」。この言葉を聞いて、西郷は黙っていたが、やがて口を開いた。
「先生(鉄舟)の説はごもっともである。徳川慶喜殿のことは、この吉之助が引き受け申した」と、西郷は言い、あとは二人の間で酒が酌みかわされた。
それからの経緯は省(はぶ)くが、西郷から与えられた「大総督府陣営の通行の符」を手にして江戸城に帰ると、鉄舟は参政(さんせい)の大久保一翁(忠寛)、勝海舟たちに五箇条の書を示し、加えて、西郷との談判の詳細を報告したのである。そして、江戸市中に高札(こうさつ)が立つ。その布告の大意は、左記の通りであった。
大総督府下参謀西郷吉之助殿へ応接相済(あいすみ)、恭順謹慎実効相立(あいたち)候上(そうろううえ)は、寛典の御処置相成(あいなり)候に付(つき)、市中一同同様不致(いたさず)、家業可致(いたすべし)。
後日、高輪(たかなわ)の薩摩藩邸で、勝海舟と西郷隆盛の史上有名な会談が行われる。その席には鉄舟も加わっている。こうして、江戸は戦火を免れたのだった。