2016年10月19日水曜日

「得体のしれない腰痛」[夏樹静子]







話:大村彦次郎


夏樹(静子)さんは『女優X―伊沢蘭奢の生涯』を書き終えた直後、「得体のしれない腰痛」に突然おそわれます。夏樹さん、54歳になって一ヶ月後のことです。

このときはまだ痛みではなく、なんとなく腰が頼りないといいますか、だるいとか辛いという感じだったらしいんですね。椅子に継続して座っていられないという風だったんです。

ところが、この症状は短期間のうちに、夏樹さんによれば「全身が異様にだるく、とくに腰から背中にかけて、鉄の甲羅でも張りつけられたようで、椅子に座るどころではない。椅子そのものが恐怖の対象」になってきます。「正座ができない。立っているのも辛い。痛みをこらえて歩く。途中やすむつもりで立ち止まれば、もっと痛む。要するに、存在自体が痛み」となってしまうんですね。

やむをえず外出するときには財布のなかのコインをすべて除きます。その財布もよします。バッグに紙幣をむきだしに入れます。1グラムでも軽くしたい。そういう思いからなんですね。で、自宅でスプーンを選ぼうとして、無意識のうちに小ぶりで軽そうなものを手にしていることに気づいたときには、われながら愕然としたそうです。

ま、わたしがこんな説明をくわえるより、夏樹さん自身のじかのお話を聞いてみましょう。






話:夏樹静子(60歳)
1999年4月4日「文化講演会・心のミステリー」


1993〜96年までの丸3年間、はげしい腰痛を味わいました。

1993年の1月のある朝、まあ、わたくしは主婦でございますから、家族を送りだしましたあとで書斎にはいりまして原稿を書きはじめるわけでございますが、突然その、椅子にかけられなくなっちゃったんですね。そのうち今度は、立ってもいられなくなって。すると思いますに、人間ね、腰が体をささえてくれてるんですね。

そうしておりますうちに痛みがでてまいりました。そして、もう一つはその、倦怠感をおぼえるようになりまして。そうしますと結局もう、座ってられない、立ってられない、痛い、倦怠感があるということになりますと、横になってるしかしょうがないわけですね、もう。



で、当然ながら検査をうけますね。わたくしは福岡に住んでおりますので、九大の整形外科、それから神経内科とかね。それから内臓が悪いんじゃないかということで、ぜんぶ検査をうけました。でも、何にもでてこないんですね。

そうしますとお医者さまがたが言うには、「あなたは長いこと座ってばっかりいて、運動不足のために筋肉が弱ったんだろう」と。それでわたしも非常に納得いたしましてね。それでね、体操とか水泳で、その筋肉をきたえるのがいいということで、水中で歩くのがよろしいとか言われましてね。

わたしもそう思い込むと単純でございますから、必死でやる人間でございまして、もう一週間に3〜4回もプールにいきまして。行きますとね、水中歩行っていうのはね、おもしろくもおかしくもないんですよ。ほんとに、これ。

(聴衆:笑)



それでも、とにかく治りたい一心で、3ヶ月、4ヶ月やっても何の効果もないんですね。で、まあ、いままでが西洋医学的な考え方でございますね。そうしますと一方では、ごぞんじのとおり東洋医学というのがございまして、針とかお灸とか整体、漢方薬のこういうのがあるとか。わたしは単純ですから、それ全部いくんですね。

(聴衆:笑)

そのうち今度は「霊が憑いてる」とかね。

(聴衆:笑)

「あんた、もう推理小説でいっぱい人ころしたから、

(聴衆:爆笑)

その被害者の霊がみんな、腰にこう取り憑いてる」とか。で、「お祓いをしなさい」と。

(聴衆:笑)



で、今度はね、池があったんですね、うちにね。なんか、家のなかに動かない水があるのは悪いそうです。で、「池を埋めましょう」と。最初のうちはこれ、せせら笑ってるわけですね。半年ぐらいたつと「まあ、埋めようか」とかなって、池を埋めたりしちゃって(笑)。とにかくもう、お祓いもやっちゃって(笑)。でも効かないですね。ほんとにありとあらゆるご祈祷したんですけれども、ギリギリギリギリ悪化するわけです。

もう最後は強いお薬まで、とにかく今、それを打ってくださいって。目眩がするばっかりで、なにも効かないんですね、それも。ペイン・クリニックっていう痛み専門のね、原因を治すよりも、とにかくまず痛みを止めましょうという、そういうクリニックがありますね。そういうこともやってもらいます。

もうその頃になりますと、仕事も当然できなくなりますが、連載なんていうのは土壇場キャンセル、いわばドタキャンはできないんですね。迷惑かけますからね。もう腹ばいで書きました、全部。



それでも一年くらいは、「なにかやったらウソのように治った」って、そういうものに自分もぶつかるだろうと思って、一年くらいはいたんでございますけれども。2年、3年くらいからね、治らないんじゃないか、と思いはじめたら、ほんとに人間、落ち込みますね。希望を捨てた途端に、もうドッと落ち込みます。

まず、眠れなくなりました。とにかくもう、薬、鎮痛剤が効かないわけですから、今いっとき、この痛み、この苦しみから逃れるためには、もう眠る以外にないわけですね。ですから睡眠薬を、悪い悪いと思いながら、ずいぶん飲みました。それで眠ってもね、はやばやと目が覚めてしまいます。そうしますと、たとえその時、たまたま痛みがなくてもね、もうその先行き不安で、けっして二度と朝まで眠れなかったですね。そんな思いをいたしました。

そうしますとね、もう治らないんだったら、なんの夢もない。楽しみもないし、家族に迷惑はかけるし、カッコ悪いし、もう死にたいなあ、もう人間やめたいという思いになります。



そのころになりますと、お医者さまがたが「こころの原因」、精神的な原因しかないよと。単純にいえばストレスでございますね。

ところがね、自分のことになるとね、ストレスって言われて、なかなか受け入れられないものですね。ああ、あれが原因かと、すぐに思い当たるようなことがあればね、たとえば亭主と毎日毎日けんかして、もう離婚でもめてるとかね。姑さんとずっともめてるとかね。そういうすぐわかるような、思いつくような原因があればね、ああ、そうかと思うんですが。まあ、わたくしもちろん、良いことばっかりではありませんけれども、とくにその大きな思い当たるほどの原因がなかったんですね。

それから、自分の性格にてらしましてね、だいたいわたくし、単純なおっちょこちょいでございまして、内向しない人間で。作家が内向しないというのは大問題だと思うんですけど。自分の性格として考えられない。

(聴衆:笑)

しかし、最大の受け入れられなかった理由は「症状が酷すぎる」と思った。たかが心因で、腰がですよ。こんな酷い症状が起こるわけがないということで、もう頑として受け入れられなかったんですね。





それでその、心療内科の先生にお会いしました。2時間ほど、いわゆる問診ですね。わたくしから話をします。もちろん椅子にかけてなんかしゃべれないから、すいませんと、横になって話をするわけです。

ここで心療内科の先生がおっしゃいましたのは、「まさにあなたは典型的な心身症である」と。まずもちろん、検査をしなければいけない。医学的なね。しかしながら、あなたはもう全部、いやというほど、くどいほど検査をやってる。そのうえであなたの話を聞いている、と。もうあなたは典型的な心身症だと言われました。

で、心身症の正しい定義は「精神的に健康な社会人がストレスや生活様式の悪影響によって、さまざまの身体的な症状を引き起こすことの総称である」と言われました。つまり「こころの問題」でおこる「身体の病気」の総称が心身症なのだ、と。だから、身体のどこに出てもおかしくないんだ、と。



で、その時もわたくしは非常に抵抗いたしまして。抵抗するというか、頭からまったく受けつけないというほど頑固でございまして。やはり「たかが心因で、こんな症状がでるとは思えません」と言ったら、その先生が「心因だからこそ、どんな烈しい症状でも起こりうるのですよ」と。そしたら、「信じなくてもいいから、入院してみませんか」と。

私そのとき、「信じなかったら効きませんよ」と言われたら行かなかったと思いますね。でも先生が「ちょっと別のことをトライしてみようという気持ちで来ませんか」とおっしゃった。それでわたくしは、96年の1月に心療内科に入院いたしました。



それからいろんな技法療法といいまして、そのへんが精神科とずいぶん違うんですけど、そのなかでも一番すごいやつですね。絶食療法というのを受けました。12日間、なんにも食べない。水分だけは毎日とるんですね。それと、点滴をうけるんです。点滴で必要な栄養素をいれるとききました。肉体的にはそういうことです。

精神的には、あらゆる情報をカットする。電話も、読書、新聞、ラジオ、いろんな面会者。ですから、個室のなかで接触するのは、ドクターとナースだけです。そして、なんにも食べないで寝てるわけであります。

その絶食療法をやりますよ。やってもいいですか、と聞かれたときに、「空腹」と「退屈」に耐えればいいのだと思っておりました。



ところが、いよいよはじまりますと、丸3年のなかの集大成のごとき、ものすごい痛みが来たのね。

そのときのドクターのお話がですね、「あなたは自分が意識している『自分のこころ』、それだけを自分の本音、自分の精神のすべてだと思っているだろう」と。「その精神のなかで『そんなに私はストレスの原因はありません』とか言っているけれども、”あなたの心”は『原因はない』と主張しているけれども、人間の心には意識と、その下に何倍もの潜在意識があるんだ。つまり、自分ではわからない、意識でない潜在意識があるんだ」と。

「あなたの潜在意識は、もう仕事に疲れ切っていたんだ」と。「もう『休みたい、休みたい』と言ってるんだ」と。しかし、「顕在している意識のほうは『やるぞ、やるぞ』と張り切っている」。どんどんどんどん、それが乖離していって、とうとう潜在意識が「もう病気になれば休んでくれる」と思って、その病気、疾病に逃避した、逃げ込んだという、そういう「疾病逃避」というのが、あなたの病気のカラクリなんだ、と言われました。



だから、「夏樹静子の葬式をだそう、代執しよう。命にはかえられないないでしょう」とおっしゃたんですね。

わたしホントに「そうだ。しょうがないや。わかりました。命にかえられないから、もう夏樹静子を捨てます」と。

で、その頃になってホントにようやく、「やっぱりストレスとか心因とかいう原因だったのかなぁ」と、つまり自分が心因だったのかなぁと思いだした頃から、ほんとにウソのように不思議なことですけれども、あの痛みが、激痛だったものが、少しずつ少しずつ、穏やかになっていった。



それでまあ、2ヶ月入院いたしまして、96年3月に退院をいたしました。

そのあと、ほぼ丸一年間、愚直なまでに主婦の暮らしをいたしまして、97年の3月に「夏樹静子も退院させよう」、つまり文筆に復帰してもよろしいということで、はじめて書きましたものが『椅子がこわい わたしの腰痛放浪記』という、わたしの事実通りを書いたわけでございました。

そうしますとね、すべての原因は「おのれの心のなかにあった」のだということを悟らされるのでございます。








話:大村彦次郎


夏樹さんの「得体のしれない腰痛」を「心身症」によるものだと診断した、その心療内科医の見識は大したものですね。この経験をつんだ内科医のかたは、夏樹さんにむかってこう言ったそうです。

「『夏樹静子』という作家の存在を、『出光静子』という存在が支えきれなくなった」

出光(いでみつ)はご本名ですね。

「身体を支えるべき腰にひどい疼痛が生じたのは、それが原因ではないのか」と。



夏樹さんは医師の強い勧めに、やや不承不承ではありましたが、これに応じまして、戦中戦後の10年ちかくをすごした熱海の病院に入院します。そして12日間の完全な絶食療法によって、この3年間になめてきた地獄の苦しみから救われるわけですね。

ちょうどその頃から、世間では心身症とか心療内科とかいって言葉がしばしば使われるようになりまして。また、精神衛生とか、こころの時代などの言葉も世間の人に耳慣れてきました。



で、夏樹さんは自分の体験した苦痛をありのままに客観視して、それによって自分も救われるし、同病の人たちにも少しは役立つだろうと思って、自分の闘病記を書きはじめたんですね。

ところが、それを知った夏樹さんのご主人の出光芳秀さんが、珍しく強硬に反対したんだそうです。「病がすっかり治ってから出してこそ価値があるんだ」と。

そう言われて、妻も夫の意見にしたがって、出版の時期を、書き上げたあと一年間ほど慎重におくらせます。これは賢明でしたね。1997年の初夏、はじめて文藝春秋から『椅子がこわい わたしの腰痛放浪記』という本になって刊行されます。



で、この本は予想外の反響をよびます。刊行直後、たびたびの書評にとりあげられまして、見知らぬ読者からたくさんの手紙をもらいます。

それまでの夏樹さんは、「わたしは自らの記録として、ひたすら正直に愚直なほどありのままに書いた闘病記だから、読者がそんなものに興味をひかれるはずはない」と思っていたんだそうです。

ところが本がでて以後、人に会うたびに開口一番ほとんど例外なく、「わるいけど面白かった」と言われたんですね。小説を面白がられるのならいいけれども、「いままで書いた彼女のどの小説よりも面白かった」などと言われると、今度はこちらが面白くなくなるんですね(笑)。





単行本の出版直後、むかしからの仲間でもありました小説家の森村誠一さんから、こんなことを言われたそうです。

「これを書いた以上、あなたには一つの責任が生じたのですよ。『再発しない』という責任です。これを読んで力をえた人は、あなたがまた病気にもどったら落胆するでしょう」

夏樹さんは森村さんのこの言葉を肝にめいじて、これを守ったそうです。







出典:NHKラジオ第2
カルチャーラジオNHKラジオアーカイブズ


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