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2017年5月26日金曜日

クマ撃退スプレーとは?



クマ撃退スプレー
『カウンターアソールト』
"Grizzly Tough" Pepper Spray
COUNTER ASSAULT




from: OUTBACK TRADINGI COMPANY 2016 Catalog


カウンターアソールトが誕生したのは、カウンターアソールト社の創業者、ウィリアム・J・ポンド氏が、バイクに乗って一人で放浪の旅をつづけていたときの、ある恐ろしい出来事がきっかけでした。

モンタナ州にはいり、グレイシャー国立公園にほど近い、ハングリーホース・ダム湖畔でキャンプをしていたときのことです。ウィリアム氏はグリズリーベアに、実際に襲われてしまいました。夜に到着した彼が、熟したハクベリーの繁る、クマの餌場のド真ん中にうっかりテントを張ってしまったのが原因でした。

その恐ろしい体験がきっかけとなり、ウィリアム氏は放浪の旅に終止符をうち、クマの攻撃を防ぐ方法の研究を、モンタナ大学のクマの研究者チームと共同ではじめたのでした。





カウンターアソールトの研究は、モンタナ大学のグリズリー研究チームによって、1981年に着手されました。そのリーダーのチャールズ・ジョンケル博士(モンタナ大学名誉教授)は、30年間で1,000頭以上のグリズリーベアやアメリカ黒熊、ホッキョク熊などの調査を手がけた、国際的に有名な研究者です。

6年間にわたる300回以上のテストで(そのうち77回は、実際にグリズリーベアが人を威嚇しているか、攻撃を仕掛けようとしたときにスプレーを噴射し、すべて追い払いに成功)、その素晴らしい効果が実証されています。しかも、製造元のカウンターアソールト社によって、現在も日々、改良がつづけられています。






日本では1987年、秋田県の大平山で、カウンターアソールトが初めて使用されました。使用したのは、アメリカ人のクマ研究家、テリー・ドミコ氏です。

アジアのクマを研究するために来日したドミコ氏は、クマの生態を研究していた米田一彦氏に案内されて入った秋田県大平山で、樹洞から突然飛びだしてきたツキノワグマに、アメリカから持参したカウンターアソールトを噴射して撃退しました。

このエピソードは、そのとき居合わせた動物写真家の大家、田中光常氏の著書『動物への愛限りなく(世界文化社)』の中でも紹介されています。



次にドミコ氏は「のぼりべつクマ牧場(北海道)」を訪れました。

そして、ヒグマ博物館学芸員の前田菜穂子氏と共同で、カウンターアソールトをヒグマに噴射する忌避実験をおこないました。その結果、カウンターアソールトは日本のヒグマにも忌避効果があることが、日本で初めて確認されました。

このように、カウンターアソールトは「ツキノワグマ」と「ヒグマ」にも撃退効果があると、専門家によって確認されている唯一のクマ撃退スプレーです。





その後、米田一彦氏は、調査地を秋田県から広島県に移し、環境省からの委託で、絶滅が危惧されていた西中国山地ツキノワグマ個体群の調査を開始しました。

米田一彦氏はこれまでに、ツキノワグマに6回ほど攻撃をうけたことがありますが、カウンターアソールトでいつも撃退しています。詳細については米田一彦氏の著書『山でクマに会う方法(山と渓谷社)』、『ツキノワグマのいる森へ(アドスリー)』、『生かして防ぐクマの害(農文協)』をご一読ください。






【知床でのクマ撃退スプレーの使用事例】

日時:2011年7月15日 午後8時15分頃
場所:北海道斜里町 漁港内
天候:晴れ
風速:0.2m/s


ヒグマとの距離 30〜40m

岸壁の上でヒグマを発見した私は、ハシゴで突堤へ降りた。

同時にヒグマの突進がはじまった。

夜間のため、ヒグマの姿や行動は細かく監視できなかったが、事前に突進の予兆を見出すことはできなかった。ヒグマとの距離はおよそ30〜40m。印象的なのは、その唸り声である。突進のリズムに合せて、短く、野太く発せられる呻きにも似た唸り声は、なんとも形容し難く、ヒグマが相当な興奮状態に追いやられていることを感じさせた。

その際、わたしは「非常にまずい状況に陥った」と感じた。漁港という特殊な環境にくわえ、夜間という悪条件が重なった。なによりも、私は幅2mほどの突堤の上にいて、両側は海と垂直の岸壁である。逃げ場はなく、行動の選択肢もほとんどない。同時に、過去の経験から「ブラフチャージ(威嚇突進行動)であり、突進が止まるかもしれない」という機体もあった。


ヒグマとの距離 20m

激しい唸り声とともに黒いシルエットと光る眼がちかづく。

かなり大型の個体であると推定された。冷静さを心がけるが、コントロールの難しい恐怖感に身体が支配されつつあった。左手に強力なスポットライト、右手にスプレー(カウンターアソールト)をすでに準備している。

「オイ! オイ!」と声をだしながら、後ずさりを開始する。これは意図したものというよりは、ほとんどクマの勢いに威圧されての反射的なものである。途中からは、ほぼ横向きに小走り状態になっていた。


ヒグマとの距離 10m

突進は止まらない。

いままでのケースと異なる危険な状況に陥ったことをハッキリと認識した。また、この突進が「威嚇ではない」と判断せざるを得なかった。

この段階でスプレー(カウンターアソールト)を使用することに決め、安全ピンを抜いた。ギリギリまでクマをひきつけ、効果が期待できる至近距離で噴射をおこなうこととした。これは中途半端な距離で使用することにより、クマの興奮をさらに高めるてしまうことを懸念したものである。また、2度目、3度目の攻撃の可能性を考慮して、スプレーの使用量を抑える意図もあった(スプレー連続噴射時間、7〜10秒)。

精神的な動揺はピークであったが、明確な行動が決まることで、若干の落ち着きを取り戻す。右手のスプレーを左手のライトと取り違えないように、改めて確認した。

後ずさりをやめ、クマに正対した。



ヒグマとの距離 3m

向かってくるクマの鼻先に狙いを定めて、スプレー(カウンターアソールト)を噴射。クマの顔面が白い煙につつまれると同時に、クマが180°反転し、尻が見えた。

「効いた」と確信した。

クマはそのまま一挙に後退。

噴射時間は5秒程度であるが、最初の2秒程度で効果があり、後半3秒は念のために長くスプレーを噴射しつづけた。風はほとんどなく(風速0.2m/s)、むせたりすることはなかった。

スプレーはまだ2/3ほど残っており、次回の攻撃に備えて、構えは崩さなかった。

その直後、応援車両が横づけされ、とりあえず緊急の事態を脱したことを確認した。


[カウンターアソールトを使用した職員(30歳)による話、おわり]







カウンターアソールトは、その多くの実績と、科学的なデータを元に「クマの追い払いに効果がある」と、アメリカで正式に認められているクマ撃退スプレーです。

IBA(国際クマ協会)でも、カウンターアソールトでクマの追い払いに成功した実例や研究が、これまでに多くの研究者から発表されています。EPA(米国環境保護局)からも登録されている商品です。

カウンターアソールトの主成分は、天然の赤唐辛子(Cayenne Pepper)から抽出した唐辛子エキス(カプサイシン)です。320万SHU※の超激辛な刺激で、クマの興奮を鎮め、クマの攻撃能力を追い払うわけです。

※SHU…スコビル熱単位(Scoville Heat Units)。辛さの基本単位として最も多く使用されている単位のこと。ちなみに、甘いバナナは0(ゼロ)SHU、日本で人気の高いハバネロ(Red Savina)は57万7,000SHU、世界一辛い Naga1 Jolokia Pepper が85万5,000SHUです。

カプサイシンは食品として利用されており、人や動物の体内に入っても害はありません。ただし、ガス状になったカプサイシン(CA)を浴び、吸い込むと、目や鼻、ノドの粘膜が焼けるように痛み、呼吸機能にも影響します。効果は短時間つづくだけで、毒性はありません。

2006年春から発売した「カウンターアソールト・ストロンガー」は、約10m(通常品は9m)、連続して約9秒(通常品は約7秒)、噴射することが可能です。






【危機管理 第1段階】
クマと遭遇した場合に備える

慌てず騒がず、落ち着くことが肝心。

クマとの距離が離れていて、クマがあなたに気づいていない場合は、静かにその場から立ち去る。

クマは100mを7秒台で走る能力があると言われている。木登りも泳ぎも達者である。このことを念頭にいれて行動すること。

至近距離で突然クマと遭遇し、クマから威嚇や攻撃を受けた場合の危険な行為は、急に立ち上がる、大声で叫ぶ、大きな音を出す、物を投げつける。これらの行為は不用意にクマを刺激して、逆に攻撃を誘発させる可能性が高い。

急に背中を見せ、走って逃げることは、自殺行為と同じで非常に危険。狩猟本能を呼び覚まされたクマは、反射的に追いかけて来る。最近のクマは鹿を襲って食べることもある。

あなたがクマに敵意をもっていないことを伝える。動かずにジッとしていること。「急」のつく行動はしない。クマが立ち去るまで静かに待つ。

子グマの近くには必ず親グマが隠れている。子グマしか見えないからと、不用意に近づくのは自殺行為である。また、親グマと子グマの間にはいってしまったら、確実に攻撃を受けるので注意すること。

【危機管理 第2段階】
クマが接近、攻撃してきた場合

カウンターアソールトを噴射して、クマを追い払う。

荷物や服を、クマとあなたの間に捨て、クマの関心がそれに移ったスキに、静かに逃げる。ただし、中には人間に異常に興味をもっているクマもいるので注意が必要。

「死んだふり」をしても助からない。クマは好奇心が強いので、あなたを噛んだり引っ掻いたりします。クマに攻撃をうけ、何も対処する方法がない場合の、最後の手段が「死んだふり」である。凹地があれば凹地に伏せ、頭や首筋、腹部などを腕で保護し、ダンゴ虫のように丸くなり、できるだけダメージの少ない体勢で、クマが攻撃を止めて立ち去るまでじっと耐え抜く。ただし、クマが付近にまだ隠れている場合もあるので注意する。



【クマ撃退スプレーを適切に使用するために】

1. スプレーをいつでも取り出せる場所に装着すること。

クマの攻撃や突進という行動に対処する場合、決定的に重要なのは「使用できる状態のスプレーが手元にある」ということ。常にスプレーをすぐに取り出せる位置に装着しておくこと。さらに、パニックになっても無意識で取り出せるよう、いつも同じ位置に同じ向きでスプレーを装着しておくことが望ましい。





2. スプレーの使用について、事前トレーニングが必要。

スプレーの使用方法は難しいものではない。しかし、切迫した状況下の恐怖や焦りといったヒューマンファクターを考慮すれば、


  1. スプレーをホルダーから抜き、
  2. ピンを外し、
  3. 適切な距離でクマに対して噴射する


という一連の流れを確実におこなうことは予想以上に難しい。クマの突進がはじまってから、スプレーを取り出していては間に合わない。また、発射のタイミングや射程距離は経験しなければわからない。

実際にスプレーを試射するという、実際の使用を想定したトレーニングが必須と考えられる。また、スプレーを装着するたびに、スプレーの位置とホルダーから引き抜く手順を実際に確認しておく癖をつけるようにすることをお勧めしたい。







2016年10月24日月曜日

氷のタケノコと、蚕のタマゴ[富士風穴]



NHKブラタモリ
「樹海の神秘」より





青木ヶ原樹海に眠る「富士風穴」。

富士風穴は、溶岩が流れてできたトンネルで、見つかったのは明治時代。天板が落盤して見えるようになった。その全長は200m以上。こうした溶岩トンネルは樹海のなかにたくさんある。


「火口から流れた溶岩の表面は、すぐに冷えて固まります。一方、内側はまだ熱く、柔らかい状態です。そこに次々に熱い溶岩が押し寄せ、やがて、固まった表面を破って溢れ出します。さらに、その表面の溶岩部分もまた固まります。この、固まっては破れるというサイクルが繰り返され、トンネルができるんです」



真夏には、地上と20℃以上も気温差がある富士風穴。

「風穴のなかの気温は、年間をとおしてほぼ0℃。真夏でも氷でおおわれています」

「冬のあいだの冷たい空気が、風穴のなかに溜まります。冷たい空気は重いので、夏になっても空気の入れ替えが起こらず、一年を通して低い気温のままだと考えられています」



「テニスコート一面ほどもある氷の空間。氷の地面から、まるでタケノコのように生える氷の柱、氷筍(ひょうじゅん)と呼ばれます。天井からひとしずくの水が落ちるたび、氷の柱は成長していきます」




栗林秀旭
「じつはこの富士風穴はね、日本有数のね、蚕(かいこ)の卵の貯蔵施設だったんですよ。日本全国から、遠くは福岡あたりからも蚕のタマゴを運んできたんです。当時は冷凍庫がありませんでしたから」



「日本を支えたた富士風穴の正体。それは蚕の卵の貯蔵施設でした。明治から昭和にかけて良質の生糸を大量に生産し、世界一の輸出国となった日本。養蚕業は近代化の礎(いしずえ)となりました。風穴のなかで卵を冷やすと、孵化する時期を遅らせることができます。それまでは年に一回、春におこなわれていた養蚕が、夏と秋もあわせて年3回できるようになったんです」



「明治から昭和にかけて日本全国に、天然の冷たい風を利用した貯蔵施設がありました。なかでも富士風穴は、その広さから日本最大の貯蔵施設でした」










「明治時代に書かれた富士風穴の断面図です。入り口の窪地には、作業する人たちが寝泊まりする小屋。穴のなかには卵を貯蔵する小屋が3つありました」




1922(大正11)年10月5日の新聞記事(山梨日日新聞)

氷柱垂下せる
富士風穴中へ
溶岩の険路を御疲労もなく御元気益々御旺盛

「大正11年、のちの昭和天皇が皇太子だったときに、富士風穴を訪れました」







出典:NHKブラタモリ「樹海の神秘」


2016年4月29日金曜日

「自然より自然である風景」[犬塚勉]



日曜美術館
アートシーンより




犬塚勉絵画展
より


キャンバスが草でほぼ埋め尽くされた頃、突然振り向き

「ひょっとすると真実を見つけたかもしれない」

と 真顔で語り出す。

「人を描かずして人を感じさせる。それも緑一色の絶妙なグラデーションで。人が、きれいな景色だ、と言うのとはまったく違う感覚で私は感動している」


『梅雨の晴れ間』
1986


『梅雨の晴れ間』犬塚勉


描きたいのは「風景」ではなく「自然」である

圧倒的な自然のみを描く

山へ、森へ、徹底的に歩き回ろう


犬塚勉



自然と一体化するように絵をかきたい。そう願った犬塚は、山に登り、体で感じとった自然の息吹そのものを描こうとしました。


犬塚勉絵画展
より


自らシャッターを切った写真をイーゼルの右端に貼る。しばらくじっと眺め、一気に描き始めた。

瞬く間に北岳からの稜線が浮かび上がり、清々しい大気が画面に広がる。

翌朝にはすべての石から光が放たれ、あっと息をのむようだった。


『縦走路』
1986

『縦走路』犬塚勉


「自然より自然である風景

中途半端な自然人ではいけない

徹底的な自然人でなければならない」


犬塚勉



身を削り精神を研ぎ澄ませて自然を描き、 ひたむきに山に登り続けた。

体力の限界に近い山行をくりかえす。


厳しい登山者のみに許された風景との出会い

鋭い観察者のみが見出しうる景色

それを絵画で表現する


犬塚勉


「自然」の何に魅かれているのかを探究するほどに、彼の登山は厳しさを増していった。
人が「生き、かつ死に得る」決定的な視覚体験を描きたいと願う。


「死の淵に己を追いつめ、やっと出逢うことの許される世界を体験せねばならない」


犬塚勉



犬塚の絶筆。

『黒く深き渓谷の入り口Ⅰ』
1988


「ただひたすら美しい

そして深い自然を想わせる

描いて、描いて、描きまくって

最後に色つきの水をこぼすとかして仕上げる」


犬塚勉


『黒く深き渓谷の入り口Ⅰ』犬塚勉


「岳人」2012年9月号より

渓谷をモチーフに「暗く深き渓谷の入口」を制作中の1988年9月23日

「もう一度、水を見てくる」

と家族に言い残して谷川連峰の赤谷川本谷に入渓。悪天候につかまり、稜線に抜けたところで遭難。二度と絵筆を握ることは叶わない、38 歳の、あまりに突然の死だった。






ザックに遺されていたのは

砕けたラーメン

大型カメラ

そして、真紅のモミジであった。








ソース:
犬塚勉絵画展
岳人 2012年 09月号 [雑誌]
日曜美術館アートシーン 犬塚勉「永遠の光、一瞬の風」








2015年5月20日水曜日

熊、人を助(たすく) [鈴木牧之]



鈴木牧之『北越雪譜』より


…

熊、人を助(たすく)

 人熊の穴に墜(おちいり)て熊に助けられしといふ話、諸書に散見すれども、其実地をふみたる人の語りしは珍ければこヽに記す。

 余(よ)若かりし時、妻有(つまあり)の庄に魚沼郡の内に在用ありて両三日逗留せし事ありき。頃は夏なりしゆゑ客舎(やどりしいへ)の庭の木かげに筵(むしろ)をしきて納涼(すずみ)居りしに、主人(あるじ)は酒を好む人にて酒肴をここに開き、余は酒をば嗜(すか)ざるゆゑ茶を喫(のみ)て居たりしに、一老夫こヽに来り主人を視て拱手(てをさげ)て礼をなし後園(うらのかた)へ行んとせしを、主(あるじ)呼(よび)とめ老夫を指(ゆびさし)ていふやう、

「此 叟父(おやじ)は壮年時(わかきとき)熊に助られたる人也、危(あやふ)き命をたすかり今年八十二まで健(すこやか)に長生(ながいき)するは可賀(めでたき)老人也、識面(ちかづき)になり給へ」

といふ。老夫莞爾(にこり)として再(ふたたび)去(さら)んとす。余よびとヾめ、「熊に助られしとは珍説(ちんせつ)也、語りて聞せ給へ」といひしに、主人(あるじ)余が前に在し茶盌(ちゃわん)をとりて「まづ一盃喫(のめ)」とて酒を満盌(なみなみ)とつぎければ、老夫筵の端に坐し酒を視て笑(ゑみ)ふくみ続(つヾけ)て三盌(さんばい)を喫し舌鼓(したうち)して大に喜び、

「さらば話説(はなし)申さん、我廿歳(はたちのとし)二月のはじめ薪(たきぎ)をとらんとて雪車(そり)を引(ひき)て山に入りしに、村にちかき所は皆伐(きり)つくしてたまたまあるも足場あしきゆゑ、山一重(ひとへ)踰(こえ)て見るに、薪とすべき柴あまたありしゆゑ自在に伐(きり)とり、雪車(そり)哥うたひながら徐々(しずかに)束(たばね)、雪車に積(つみ)て縛つけ山刀(やまかたな)をさしいれ、低(ひくき)に随(したがっ)て今来りたる方へ乗下(のりくだ)りたるに、一束(いっそく)の柴、雪車より転(まろ)び落(おち)、谷を埋(うづめ)たる雪の裂隙(われめ)にはさまり …凍りし雪陽気を得て裂る事常也… たるゆゑ、捨て皈(かえら)んも惜(をし)ければ、その所にいたり柴の枝に手をかけ引上んとするに、すこしも動(うごか)ず、落たる勢(いきほひ)に撞(つき)いれたるならん、さらば重(おもき)かたより引上んと匍匐(はらばひ)して双手(もろて)を延(のば)し一声かけて上んとしたる時、足に蹈(ふむ)力なきゆゑ、おのれがちからに己が躰(からだ)を転倒(ひきくらかへし)、雪の裂隙(われめ)より遥(はるか)の谷底へ墜(おちいり)けるが、雪の上を濘(すべり)落たるゆゑ幸(さいはひ)に疵(きず)はうけず、しばしは夢のやう也しがやうやうに心付、上を見れば雪の屏風を建(たて)たるがごとく今にも雪頽(なだれ)やせんと …なだれのおそろしき事下にしるす… 生(いき)たる心地はなく、暗(くらさ)はくらし、せめては明方(あかるきかた)にいでんと雪に埋(うまり)たる狭(せまき)谷間(たにあひ)をつたひ、やうやうにして空を見る所にいたりしに、谷底の雪中、寒(さむさ)烈しく手足も亀手(かがまり)一歩(ひとあし)もはこびがたく、かくては凍死(こごえしぬ)べしと心を励(はげま)し、猶途(みち)もあるかと百歩(はんちやう)ばかり行たりけん、滝ある所にいたり四方を見るに、谷間の途極(ゆきとまり)にて甕(かめ)に落たる鼠(ねずみ)のごとく、いかんともせんすべなく惘然(ぼうぜん)として胷(むね)せまり、いかヾせんといふ思案(しあん)さへ出ざりき」



 「さて是より熊の話也、今一盃たまはるべし」とて自(みづから)酌(つぎ)てしきりに喫(のみ)、腰より烟艸帒(たばこいれ)をいだして烟(たばこ)を吹(のみ)などするゆゑ、「其次はいかに」とたづねければ、老夫曰(いはく)、

「さて傍(かたはら)を見れば潜(くヾる)べきほどの岩窟(いはあな)あり、中には雪もなきゆゑ、はひりて見るにすこし温(あたヽか)也。此時こヽろづきて腰をさぐりみるに握飯(にぎりめし)の弁当もいつかおとしたり、かくては餓死(うゑじに)すべし、さりながら雪を喰(くらひ)ても五日や十日は命あるべし、その内には雪車哥(そりうた)の声さへ聞(きこゆ)れば村の者也、大声あげて叫(よば)らば、助(たすけ)くれべし、それにつけてもお伊勢さまと善光寺さまをおたのみ申よりほかなしと、しきりに念仏唱へ、大神宮をいのり日もくれかヽりしゆゑ、こヽを寝所(ねどころ)にせばやと闇地(くらがり)を探りさぐり這入りて見るに、次第に温(あたヽか)也。

 猶(なほ)も探りし手先に障(さはり)しは正しく熊也。愕然(びっくり)して胷(むね)も裂るやう也しが逃(にげる)に道なく、とても命の期(きは)なり死(しぬ)も生(いきる)も神仏にまかすべしと覚悟をきはめ、いかに熊どの我(わし)は薪(たきヾ)とりに来り谷へ落(おち)たるもの也、皈(かへる)には道がなく生(いき)て居(をる)には喰(くひ)物がなし、とても死(しぬ)べき命也、擘(ひきさき)てころし給へ、もし情(なさけ)あらば助たまへと怖々(こはこは)熊を撫(なで)ければ、熊は起(おき)なほりたるやうにてありしが、しばしありてすヽみいで我(わし)を尻にておしやるゆゑ、熊の居(ゐ)たる跡へ坐(すはり)しにそのあたヽかなる事巨燵(こたつ)にあたるごとく全身(みうち)あたヽまりて寒(さむさ)をわすれしゆゑ、熊にさまざま礼をのべ猶もたすけ玉へと種々(いろいろ)悲しき事をいひしに、熊手をあげて我(わし)が口へ柔(やはらか)におしあてる事たびたび也しゆゑ、蟻(あり)の事をおもひだし舐(なめ)てみれば甘くてすこし苦(にが)し。しきりになめたれば心爽(さはやか)になり咽(のど)も潤ひしに、熊は鼻息を鳴(なら)して寝(ねいる)やう也。さては我を助(たすく)るならんと心大におちつき、のちは熊と脊(せなか)をならべて臥(ふし)しが宿の事をのみおもひて眠気もつかず、おもひおもひてのちはいつか寝入(ねいり)たり。

 かくて熊の身動(みうごき)をしたるに目さめてみれば、穴の口見ゆるゆゑ夜の明(あけ)たるをしり、穴をはひいで、もしやかへるべき道もあるか、山にのぼるべき藤づるにてもあるかとあちこち見れどもなし、熊も穴をいでヽ滝壺にいたり水をのみし時はじめて熊を見れば、犬を七ツもよせたるほどの大熊也。又もとの窟(あな)へはいりしゆゑ、我(わし)は窟(あな)の口に居て雪車哥(そりうた)のこゑやすらんと耳を澄(すま)して聞(きき)居たりしが、滝の音のみにて鳥の音(ね)もきかず、その日もむなしく暮て、又穴に一夜をあかし、熊の掌(て)に飢(うゑ)をしのぎ、幾日(いくか)たちても哥はきかず、その心細き事いはんかたなし。されど熊は次第に馴(なれ)可愛(かあいく)なりし」



と語るうち、主人は微酔(ほろゑひ)にて老夫にむかひ、其熊は牝熊ではなかりしかと三人大ひに笑ひ、又酒をのませ盃の献酬(やりとり)にしばらく話(はなし)消(きえ)けるゆゑ、強(しひ)て下回(そのつぎ)をたづねければ、老夫曰(いはく)、

「人の心は物にふれてかはるもの也、はじめ熊に逢(あひ)し時はもはや死地事(ここでしす)と覚悟をばきはめ命も惜(をし)くなかりしが、熊に助(たすけ)られてのちは次第に命がをしくなり、助(たすく)る人はなくとも雪さへ消(きえ)なば木根(きのね)岩角(いはかど)に縋(とりつき)てなりと宿へかへらんと、雪のきゆるをのみまちわび幾日といふ日さへ忘(わすれ)て虚々(うかうか)くらししが、熊は飼犬(かひいぬ)のやうになりてはじめて人間の貴(たふとき)事を知り、谷間(たにあひ)ゆゑ雪のきゆるは里よりは遅くたヾ日のたつをのみうれしくありしに、一日(あるひ)窟(あな)の口の日にあたる所に虱(しらみ)を捫(とり)て居たりし時、熊窟(あな)よりいで袖を咥(くはへ)て引しゆゑ、いかにするかと引れゆきしにはじめ濘落(すべりおち)たるほとりにいたり、熊前(さき)にすヽみて自在に雪を掻掘(かきほり)一道(ひとすぢ)の途(みち)をひらく、何方(いづく)までもとしたがひゆけば又途(みち)をひらきひらきて人の足跡ある所にいたり、熊四方を顧(かへりみ)て走り去(さり)て行方しれず。

 さては我を導(みちびき)たる也と熊の去(さり)し方を遙拝(ふしをがみ)かずかず礼をのべ、これまつたく神仏の御蔭(おかげ)ぞとお伊勢さま善光寺さまを遙拝(ふしをがみ)うれしくて足の蹈所(ふみど)もしらず、火点頃(ひとぼしころ)宿へかへりしに、此時近所の人々あつまり念仏申てゐたり。両親はじめ愕然(びっくり)せられ幽霊ならんとて立さわぐ。そのはづ也、月代(さかやき)は蓑(みの)のやうにのび、面(つら)は狐のやうに痩(やせ)たり、幽霊とて立さわぎしものちは笑となりて、両親はさら也、人々もよろこび、薪とりにいでし四十九日目の待夜(たいや)也とていとなみたる仏事も俄(にはか)にめでたき酒宴(さかもり)となりし」

と仔細(こまか)に語りしは、九右エ門といひし小間居(こまゐ)の農夫(ひゃくしやう)也き。其夜燈下(ともしびのもと)に筆をとりて語りしまヽを記しおきしが、今はむかしとなりけり。

…





引用:鈴木牧之『北越雪譜 (岩波文庫 黄 226-1)』




2013年11月17日日曜日

「ハヤマ」と「ミヤマ」



話:坂本大三郎


…

ゾンビのようにふらふらになりながら、月山(がっさん)山頂のお社に着くと、僕たち以外にも、白装束を着て参拝する年配の方たちが目に付きます。お社では、月山の神や仏が祀られているだけではなく、死者の魂の供養もおこなわれていました。老人たちは自分たちの祖先の霊に出会うため、ここまでやって来ていたのです。

…

月山に限らず、古代から山は「生の世界」と「死の世界」の境界とも考えられているそうです。

人は死ぬと霊魂となって、しばらくは里に近い”端にある山”という意味の「ハヤマ」と呼ばれる低山(出羽三山では羽黒山)にとどまり子孫たちを見守り、三十三年ともいわれる長い時間をへて浄化され、奥深い山「ミヤマ(出羽三山では月山)」に登り、山の神になると云います。

…

大聖坊(羽黒山)に着いて、僕らは夜間抖擻(とそう)に出かけました。手向(とうげ)から少し離れた森の中を歩いていました。昨晩と同じように「死の世界」を感じます。

しかし、昼間、月山で感じた”死”とは種類が違うようです。月山はとても透き通ってクリアな世界でした。月山は、においもシンプルでしたが、羽黒の森の中は、どこか獣じみた、粘り気のあるにおいです。歩くたびに少し重みがあるような空気が身体にまとわり付いてくるような感じがします。それは不愉快であったり、恐ろしかったりはしません。ずっと身近にあったはずのもののようです。眠りにつくときに、目を瞑るとあらわれるような暗闇でした。

月山や羽黒の”闇の違い”を感じて、死者の霊が低山にとどまり、やがて高い山に登って神になると考えた古の人々の感覚が、現代人の自分の中にも同じように流れているように思えました。

…

羽黒山伏の秋の峰入り修業は「籠り行」とも言われ、東北を中心に東日本に広がる「ハヤマ籠り」という儀礼が強い影響をあたえているとされています。ハヤマとは、集落の近くにある低い山で、死霊の集う山です。死者の霊魂はハヤマを経てミヤマへと登って行きます。

ハヤマ信仰をもつ共同体の若者は、死者の埋葬地で死の世界に触れることで、新たに成人男性として生まれ変わることができると考えられました。生をも否定しかねない死の呪力が社会に躍動をあたえる原動力と考えられ、死の世界である山は、新たしい生命がやってくる生の世界でもあったのです。

ハヤマ籠りのような、男性が集団になって山などの聖地に籠る成人儀礼は、縄文時代からおこなわれていたと推測されます。それを裏付けるように、東北各地の低山では、死者の埋葬地と考えられる縄文時代の遺跡が多く見つかっています(羽黒山でも縄文遺跡が発見されています)。

ちなみに、列島各地にもハヤマは残っていて、現在は「羽山」や「葉山」と呼ばれています。

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引用:坂本大三郎『山伏と僕 』



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「うけたもう」 [羽黒山伏]


「うけたもう」 [羽黒山伏]



話:坂本大三郎


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山伏修業、諸注意

…装束を着けるまえに、成瀬くんから諸注意があります。まず修行中、携帯電話は非常時以外は使わないこと。もちろんテレビも見られず、パソコンも使えません。

また、返事は「はい」ではなく、「承(う)けたもう」で応えることも教わりました。

羽黒山伏の返事には、それ以外の言葉はありません。すべて受け入れ、どんなことも断らないという意味だそうです。

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引用:坂本大三郎『山伏と僕』



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2013年11月3日日曜日

年に2回、紅葉する北海道。「春紅葉」



話:Kage



僕が住むニセコをはじめとするカエデ類の多い北海道の山々は、なんと年に二度、山全体が紅葉する。

これは「春紅葉」という新緑の時期にカエデ類に起こる現象なのだが、新芽の光合成が本格化するまでは葉緑素が充分でないため緑色が薄く、木がもつ元来の色素(黄色や赤)が見えてしまうというものだそうだ。山に囲まれ、緑の多い鎌倉に育った僕だが、ニセコに移り住んで初めてこれを知った。

新緑に混じって黄色やオレンジ、赤に染まる様は、秋の紅葉とは一味違う美しさがある。時にはそこに山桜のピンクも混じり、まるで淡いパッチワークのようなのだ。

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抜粋:『POWDER SKI 』2014 WINTER
「春の紅葉の中をすべる」Kage

2013年10月22日火曜日

「匂い」と生命 [野口健]



話:登山家・野口健




(標高)6,000m越えると『匂い』がなくなるんですよ。

とくに氷河の上になると、匂いがスッと消えて。これは氷河に限らず、南極もそうだったし、砂漠もそうですよね。生き物がいなくなると匂いって消えるんですよ、スーッと。

で、匂いが消えると不安になっちゃうんですね。匂いを探しちゃうんですよ、無意識のうちに匂いを探す自分がいて。どっかで匂いって”命”なんですよね。生きているものがあるから匂いがあって。



ある時、僕はヒマラヤのマナスル(標高8,163m)って山に行ったんですけど、ここ雪崩がすごく多くて。雪崩ばっかは気をつけようがないので。確率なんですよね、運なんです。

だから、そこ行く前に僕の知り合いがね、一カ所案内してやるって京都の祇園に連れてってもらったんですよ。ほんで、芸者さんの横に座るじゃないですか。で、芸子さんの”うなじ”? 髪の毛の鬢づけと白粉(おしろい)塗ってますよね、あのミックスした匂いがね、ものすごく癒されたんですよ(笑)。

あんまり近づくと変態ですから、目をつぶって、できるだけ吸い込んでたら彼女が不審に思ってね。「なんで、そんなに匂いかぐんですか?」って聞いてきた。だから、「ヒマラヤって匂いがない世界でね。匂いがないって命がないでしょ。だから不安になってね。オレ来週からヒマラヤだから、今のうちにこの匂いを感じて、この匂いを肺に入れてヒマラヤに持って行きたい」って言ったら、意外とわかってくれたんです。



2〜3日したら、彼女から小包が届いて。何だろうと思って開けたら、缶詰がコロンと出てきた。見たらね、「京都の芸者のうなじの香り」っていう缶詰なんですよ。関西の方、何でもつくるんですね、売ってるんですよ(笑)。

そして手紙があって、「この缶詰を私と思ってヒマラヤに持って行ってくださいね」。もう、涙が出ましたね。

そんで僕、その缶詰もってヒマラヤ行ったんですよ。テントん中でブシュって開けましたら、香りが強すぎて目が痛くなって(笑)。そんで、いろいろ考えて、テントの外、3〜4mくらい遠くに置いて、風向きによって若干(匂いが)入ってくるくらいが丁度よかったですね。






ソース:SWITCHインタビュー
「野口健 × 平野啓一郎」


2013年9月28日土曜日

日本人女性初、プロ・クライマー「尾川とも子」



「私はよく『V14の岩を登るのは、天井に割り箸とペットボトルの蓋がついていて、それを伝って5m進むようなもの』と例えています」

そう言うのは、日本人女性初のプロ・クライマー「尾川とも子(おがわ・ともこ)」。昨年(2012)、女性として世界初となる最高難易度V14の岩場(カタルシス・那須高原)の登頂に成功した。

「指の第一関節も引っ掛からないような凹(へこ)みを頼りに岩場を登っていくんです。指の角度を1mmずらしながら、『こっちのほうが力が入る』などと研究しながら」








年月にして3年、回数にして500回くらい挑戦したというV14のカタルシス(那須高原)。

「さすがに100回くらい失敗した時は、10年くらいかかるんじゃないかなと思って、ため息ばかりでした」と尾川さんは言う。

「失敗を重ね続け、ある時『登ってやる』という感じではダメだと気づくんです。というのは、岩は湿度や気温、風向き、風速によって表情がまったく違います。『今日はこういう表情になるんだ』と理解して進んでいかないと、指の力の入れ方が変わってきます」



初めて見た時は「ドラゴンのように威圧感があった」というカタルシスの岩場。

しかし2年目くらいからは、「ああ、この凹み知ってる。この突起も知っているよ」という感じになってきたという。

「3年目に達成した時は、仲良しの友達にしか思えなかったですね。500回も挑戦していると『制覇』という気持ちにならないんですね」







「ある時期から考え方を変えました。一つ失敗するごとに『この指の形じゃダメだった』というヒントをもらったんだと、だから、私はカタルシスを登るのに『500のヒント』が必要だった。今はそう思っています」

ついに最高難度グレードV14の岩場(カタルシス)に登り切った尾川智子さん。

その功績が讃えられ、その年に世界で一番活躍したクライマーに贈られる「Golden Piton賞」を受賞(2012)。日本人3人目となる快挙であった(日本人女性としては初)。













(了)






ソース:致知2013年10月号
「プロの女性クライマーとして、いつもフロンティアでありたい」