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2013年3月20日水曜日

空海の「十住心論」をかじる




空海の論書にある「十住心論」には、人の心が進んでいく10の過程が記されている。

一、異生羝羊心(いしょうていようしん)
二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)

四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)

六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)

八、一道無為心(いちどうむいしん)
九、極無自性心(ごくむじしょうしん)

十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)






◎一、異生羝羊心(いしょうていようしん)


羝羊心というのは雄羊の心、すなわち動物的・本能的である。

「淫食を念ずること、かの羝羊の如し(雄羊のように、ただ性欲と食欲ばかりを思う)」



無明の闇は最も深く、自我に囚われ、所有への執着が凄まじい。

「たとえば、獣が陽炎(かげろう)を追って水を求め、蛾が華やかな火に飛び込んで身を焼くようなもの」

水に映った月を欲するが如し。



◎ 二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)



愚かな童子(愚童)の心にも、いつかは自らを慎み、他に施す心(斎心)が起こる。

「施心萌動して、穀の縁に遇うが如し(他に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するようなものである)」



人は「外の因縁」によって、道徳的・倫理的になっていく。

賢人の徳、自らの誤ちを知り、善行と悪行の因果(原因と結果)を知る。

「たとえば、自らは節食し、それを他の人々に与えることを喜び、足るを知る心が次第に起こる」



◎三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)


嬰児(嬰童)が母のふところに抱かれているように安らかなる心地(無畏心)。

しかし、次第に外の世間の苦しみに気づき始め、内には、自己との対峙・葛藤が芽生え出す。



そして生まれる宗教心。

「仏の戒めを知り、来世の安楽を願う」



ここまでの一〜三は、いわば俗世の心。

そして四以降は、悟り、そして境地、真理への心となっていく。






◎四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)


自我には実体がないこと(無我)、自分の感じ知ることは5つの要素(五蘊・色受想行識)が仮に和合したもにに過ぎないことを知る。

それは今までの無明を知ることであり、その闇の先のかすかな光に気づくことでもある。



いわゆる、禅の十牛図における「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。

しかしこの段階では、声聞(仏の言葉)を聞いて悟る者、「羊車の三蔵」である。



◎五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)


「苦」をもたらす「無明の種」は、ここで取り除かれる。

「無明、種を抜く。業生、己に除いて、無言に果を得」

無知(無明)の元(種)を抜き取って、迷いの世界(業生)を取り除く。そして唯一人、悟りの世界(果)を得る。



迷いや業には、その元がある。

「生けるものの心に煩悩が生じるのは、邪な思惟(不正思惟)を主因とし、無明を間接的な縁とする」

その起こり、縁起の法則を知ることで、自分一人の悟りは得ることができる。

これは、一人で努力・修行して得られる境地である(独覚)。






◎六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)


これは菩薩の境地。己のみの悟りから、他人の悟りへも心が向かう。

「無縁に悲を起こして、大悲はじめて発る」

物事の因果の種を知った己は、縁に囚われるということがなくなる(無縁)。それは、すべてのものが幻影であり、ただ心の働きだけが実在であるということを悟っているからである。



心のみが真実と悟る菩薩は、心に映るものすべては幻や陽炎のごとく「虚妄」であると知っている(唯識)。

その境地には言葉も文字もない。平穏無事の風が吹くばかり。



その菩薩の欲することは、すべての衆生を救うこと(他縁)。

他縁とは、縁に囚われずに、すべての人々に別け隔てなく慈悲の心を感ずることである。

小乗というのが己一人のためのものであれば、大乗というのは自他の境を虚しくするものである。



◎七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)


心は何ものによっても生じたものではない(不生)。

心は生じることもなければ、滅びもしない(不生不滅)。

物質に実体がなかった(無我)ばかりか、自分の心に起こることにも実体がないと悟る。



「心に映るものは本来、生じたり滅したりせず、静かに澄み渡っているばかりである」

その澄み渡るこころは自由自在。物の有無に迷うこともなければ、自利・他利の境もない(心王)。



「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来」

これら8つの不(八不)によって、実在からの迷妄は断ち切られる。

「一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり」

ひたすらに空を観じれば、心は静かに澄み渡り、なんらの相(すがた)なく(無相)安楽である。



◎八、一道無為心(いちどうむいしん)


「この心性を知るを、号して遮那という」

この心を知るものを、仏(大日如来)という。



この境地においては、すべてが清浄である(一如本浄)。人の持つ徳性は汚れに染まらないと観想し、すべての人の心は清浄であることを知るのである。

「すべての人に仏性を見、すべての教えは一道に帰する」



まるで澄み切った水が事物を映し出すがごとく(止観)、静かであってよく照らし、何を照らしても常に静か。

「心は清らかであり、心は外にもなく内にもない。その中間(中道)にもない」

その心は、欲の世界のものでもなければ、物の世界のものでもない。精神世界のものですらないのである。



「境智ともに融す」

主観も客観もともに合一しており、その心は虚空に同じ。

思慮や思慮のないことを離れた境地は、真実そのもの、悟りそのもの。これは空の悟り(無為)である。



◎九、極無自性心(ごくむじしょうしん)


「水は自性なし。風に遇うてすなわち波たつ」

水はそれ自体に定まった性質(自性)はない。風が吹けば波が立つだけである。

そこには一切の対立がない。



対立・矛盾がないゆえに、その世界には一つとして自性(固定的本性)をもつものがない。

宇宙の中のすべては、互いに交じり合い、互いに融け合っている。



「一と多の融合」

一人ひとりの心は、仏のそれと何ら変わるところがない。

「初発心のとき、すなわち正覚を成す」

華厳経は、初めて悟りを求める心を起こした時、たちまち正しい悟り(正覚)を成就する、と教えている。






◎十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)


「顕薬塵を払い、真言、庫を開く」

一般的な仏教(顕薬)は塵を払ってくれ、そして真言密教が庫の扉を開く。



残念ながら、この境地を説くことは許されていない。

容易く説いてはならない、と戒められているのである。

ゆえに「秘密」といい、すべての分別を超えた境地(荘厳心)がここにはある…。








◎虚空の箭(や)


「箭(や)を虚空に射るに力尽きて、すなわち下(おち)るが如し」

闇雲に矢を空に放っても、それはただ落ちてくるばかり。



これは空海の言葉であるが、的を知らずに矢を放つことの虚しさを説いている。

たとえば、空海の真言宗というのは、即身成仏、すなわち生きながらにして「仏」となることを肯定している。いわゆる自力本願である。

「十住心論」とは、その仏への道筋を示すものであり、たとえ分からなくとも、何となくそんな心の段階を踏んでいくのかということくらいは知ることはできる。



なるほど、虚空の箭(や)は十住心論によって、その的を得るのであった。

ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるかもしれない。

たとえそうだとしても、多少、的の方角が分かっているのは、じつに有り難い…。







出典:十住心論

2013年3月15日金曜日

「ありがとう」の反対語とは?



してもらったこと。

お返しをしたこと。

迷惑をかけたこと。



この3つの問いかけ。

それらを通じて、自分の内面を深く見つめていくのが「内観(ないかん)」。







ある男性は、重度の認知症になった母親の介護に葛藤を抱いていた。

「意志の疎通もできなくなった親を介護することに、どんな意味があるのか?」



はじめは内観にあまり乗り気ではなかったというその男性。

しかし、「あるイメージ」が浮かんだことで、みるみる内観が深まっていったという。



その「あるイメージ」とは、真っ黒な俵型のおにぎり。

男性が小学生の頃、友だちが家に遊びに来るたびに、母親は「ノリを巻いた真っ黒な俵型のおにぎり」をたくさんつくってくれた。



しかし、男性はそれが恥ずかしかった。

「ほかの家ではドーナツやクッキーが出てくるのに…。なんで、うちはおにぎりなんだよ…」



当時、男性の家では2人の姉が進学したばかりで、経済的にとても苦しかった。母親には、お腹を空かせてくる子どもたちに、お菓子を買ってあげる余裕がなかったのだ…。

熱々のご飯で手を真っ赤にしながら、たくさんのおにぎりを握る母親の笑顔。

その笑顔が俵型の真っ黒なおにぎりと結びついたとき、男性は気づかされた。母親の想いに…。そして、その想いは男性の胸をこれでもかと突き上げるのであった…。



以来、男性が母親の介護を苦にすることはなくなっていた。

「自分の中に鬼を発見すると、不思議と仏になる」

この言葉は、内観の創始者である吉本伊信(よしもと・いしん)氏の言葉だという。



「ありがとう」の反対語は何か?

それは「当たり前」なのではないか。



自分を中心に物事を見たとき、その心は「当たり前」で占められている。

しかし、その同じ物事を反対から見てみれば…。

きっと「ありがとう」で一杯なのだ…!





出典:致知2013年4月号
「『ありがとう』の反対語」

2013年3月11日月曜日

「行者帰りの精神」とは?



行者の世界には「行者帰りの精神」というのがあるそうだが…。

昔、修験道を開いた役行者(えんのぎょうじゃ)という人が、行の途中で「このまま進んだら自分の命が危ない」と判断して引き返してきたという難所がある。

「なんだ、行者らしくないじゃないか。命惜しさに引き返すなんて」

そう思うのは勝手であるが、行の一番の目的は「生きて行を終え、人生を深めること」。ゆえに、あえて役行者は引き返した。



その後日譚はといえば、役行者は2回目にその難所を克服している。

「無理はしないけれども、絶対に諦めない」

そんな精神が、「行者帰りの精神」なのだという。






出典:致知2013年4月号
「極限を通して見えてきたもの 塩沼亮潤」

2013年3月1日金曜日

技術だけからは見えてこない「知恵」



それは採澤さんが、子どもに頭部操法(整体)を行なっている時だった。

「その子がニョキニョキニョキって上に伸びてきたんです…!」

施術している子どもが、採澤さんに大きな気の動きを感じさせた。

「気がグゥっと通って、ゆるむ、みたいな…」



それまでは、ただ教わったことだけを施術しているだけだった採澤さんだったが、この子どものダイレクトな反応に、ある「気づき」を得る。

「あぁ、こういうことだったんだ、って腑に落ちる感覚がありました」と採澤さん。

当時27歳だった採澤和正さんは、サラリーマンをすっぱり辞めて、整体の仕事に飛び込んでいたのであった。







すべての収入を断ち切ってまで採澤さんが師事したのは、河野智聖師(心道・動体学)。

採澤さんにとって、整体の「型」を覚えるのにさほどの困難はなかった。しかし、「どこがどう歪んでいるのか、その異常がどこから来ているのか」、それがなかなか見えてこなかった。



「武術もそうだと思うんですけど、正拳突き自体がいくら強力でも、それが当たらなきゃ意味がないですよね。相手のスキが見えるようにならないと、使えません」と採澤さん。

その「スキ」を見せてくれたのが、先述した子どもだったのだ。河野師は出張に出ることも多く、その分、弟子の採澤さんは子どもの面倒を見ることが多かった。



河野師は、「技術をたくさん学んだからといって、それで独り立ちできるわけではない」と厳しく語る。

「習いに来る人たちは、どうしても技術を聞きたがる。でも、技術自体は意外に大きい問題ではない」と河野師。

「言ってみれば、『いい刀』だけ手に入れて、それを腰に携えていても、イザという時にそれを抜かざるを得ないのか、抜かずに済ませられるのか、それを判断できることこそが大事」







かつて、河野師のそのまたお師匠(野口晴哉)は、こう言っていたという。

「お茶を出すタイミング、お風呂のタイミング…。お茶は美味しく飲める温度なのか、お風呂は心地よい温度なのか…? その辺を『察する』ことが出来るようになったら、もう卒業だ」と。

そこにはやはり、「どんなに技術だけができてもダメだ」という教えが込められていた。



そうした教えを受け継いだ河野師、弟子の採澤さんを直接指導する時間はほとんどないという。

「直接指導の時間は、数えるほどしかなかったですね」と弟子の採澤さん。「先生からは技術伝授よりも、空気みたいな『それ以外の部分』から学んだことが大きかったです」。



「場」を整えておくこと、「先」を察するということ…、「流れ」のつくり方…。

「そういう目に見えない力を身につけていく、そういう事がじつは大切」と河野師。

「やっぱり技術がついたというよりも、自然にできてしまう身体になった、という感覚なんです」と弟子の採澤さん。



それを河野師は、潜在意識に「インプット」する、と表現する。

「メロディって、突然くるじゃないですか。武術や整体も同じで、潜在意識に入れておいたことは、無意識にもずっと考え続けているんです」と河野師。

「それが、ふとした拍子にパッと出てくる」



整体の時、自分をどんどん消して、自らを「無」にしていくと、相手がありありと見えてくる。そうして初めて、相手との「共鳴」が生まれるのだ、と河野師は語る。

子どもの頭がニョキニョキと伸びるように感じた時、きっと採澤さんはその子と共鳴していたのだろう。



「私が大事にしているのは、頭の知識以上に、身体に潜む『知恵』です」と河野師。

「知識」というのは、生まれてから学習する世界のことであるのに対して、河野師の言う「知恵」とは、「身体の中に何代も前から入っている全てのもの」だ。



「答えは全部、身体が持っている」と断言する河野師。

「頭に知識ばかりを詰め込むのではなく、逆に知識をどんどん削っていって、『知恵』を引き出していく。頭で考えるのではなく、『細胞の中から浮かび上がってくるもの』を大事にしていくのです」

河野師の言う知識には、表面的な技術という意味合いも込められているようだ。



施術中に子供が泣いたら、どうするのか?

そんな小さな対応にも、その人の培ってきたものが現れる、と河野師は言う。



刀を抜くか、抜かないかの判断力。

それさえ身についていれば、多少技術が劣っていたとて問題にはならない、と河野師。



師と弟子が共有する空気、そして時間。

「師がそこにいるだけで伝わってくる何か」

弟子入り2年目となる採澤さん、師と共鳴することにより、それを身体で感じ始めているようだ。

そして、その「何か」とは明らかに技術の先にあるもの、いや、技術の元にあるものだった…!






出典:秘伝
「整体に本当に必要なものを得る時間 内弟子・採澤和正」