「一身独立して、一国独立する」
明治時代を生きた福沢諭吉は、著書「学問のススメ」の中でそう繰り返している。
諭吉は言う、「人間が自分で衣食住をまかなうのは難しいことではない。そんなことはアリでさえやっている」と。
ところが、開国後の日本には「お上(かみ)頼りの百姓根性」が蔓延していた。
このままだと日本は「先導する人のいない盲人の行列」に成り果ててしまう。そう危惧した諭吉は、日本国民に発奮を促した。
「政府が悪いのではない。愚民が自分で招いた結果なのだ」と。
そして断言する。「この国民あってのこの政治なのだ!」。
「心事ばかりが高大で、働きが乏しい者は、常に不満を抱かざるを得ない」
それは「蠢愚(しゅんぐ)」、思うだけで動かなければ、それは無知で愚かなのだと、諭吉は痛烈であった。
そんな諭吉の話を、新渡戸稲造は子ども時分に聞いていた。
「福沢先生は、皆にお煎餅を配りながら話してくれた」
のちに「武士道」を記すこととなる新渡戸は、明治維新の時にはまだ6歳。武士として育てられた経験はあっても、武士として生きた体験はなかった(一方の諭吉は元々武士である)。
江戸時代の終焉とともに、日本からは「お上(かみ)」という価値観が消えた。
ところが、それに代わる新しい価値観がない。ゆえに当時、発狂する人が増えたのだ、と諭吉は指摘する(文明とは、たとえば聖書やコーランなどのように、何か帰依するものがないと上手く回らぬものであろうか)。
そんな迷妄の闇にあって、武士道というのは一つの光であったのかもしれない。
明治初期という時代は、江戸の侍の香りがまだ濃厚であった。
「日本人を一皮むけば、まだ侍だった」
ゆえにイザとなると日本は強かった。清(中国)よりもロシアよりも…。
新渡戸もまた熾烈である。
「食っていけないなら食うな。それでも学者なら死ぬまで学問を教え続けろ」と彼は言う。
「最後には腹を切れ」とまで、恐ろしい徹底さの中に彼はいた。
死が日常だった侍の世界。それは、「80くらいまでは生きるだろう」と漠然と思っている現代とは明らかに異なる。途中で殺されることも、ままあったのだ。
「武士に二言はない」というのは、そうした世界の中から生まれるものであり、現代の「謝れば許してもらえる」という謝罪文化はきっと、せせら笑われるであろう。
新渡戸稲造の著書「武士道」は、切腹の意義をこう記す。
「私は魂が鎮座している場所を開き、あなたにその様子を見せましょう。私の魂が清らかなのか、それとも汚れているのか。どうぞご自身でご確認下さい」と。
もしかしたら、新渡戸は武士を美化しすぎていたのかもしれない。それでも、彼はその香りに酔いしれたのだ。
「何年もの歳月が流れ、武士道の習慣が葬り去られ、その名さえ忘れ去られる日が来たとしても、その香りは空中を漂っているでしょう」
そして新渡戸はこう続ける。
「私たちはいつでも、遥か遠くの見えない丘から漂ってくるその香りを嗅ぐことができるのです」と…。
出典:致知2013年5月号
「日本復活の鍵は名著にあり 夏川賀央・奥野宣之」
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