「願いは叶えてもらうものではなく、通じるものだと思っております」
石清水八幡宮58代目の宮司、田中恆清さんは、そう言う。
「神々に対して、自分の思いが届く。届くということは通じること。それを願うのです」
その言葉に、テニスの松岡修造の言葉も思い出す。
「100回叩くと壊れる壁があったとする。でもみんな何回叩けば壊れるか分からないから、90回まで来ていても途中であきらめてしまう」
何回願えば、思いは神に通じるのか? そもそも、その神とは?
「何ごとの おはしますかは知らねども かたじけなさに 涙のこぼるる」
伊勢神宮に足を踏み入れた西行法師がそう詠ったように、神とは何かは「知らねども」、ありがたいような気持ちになってしまうものなのか。
ところで、「神も仏も」というのが日本人。
「これは世界でも例のない形で、ある宗教と宗教が結びつくことはありますが、結局どちらかが収奪という形になって、争いが生じてきました。日本の神道と仏教のように、仲良く補い合って生き続けるとはないのです」と田中宮司は言う。
仏間の隣りに神棚を祀り、結婚式には教会の神父に誓いを立てて、葬式となると寺の和尚に頭を下げる。
「このような暮らしに外国人は驚きますが、日本人は違和感を感じるどころか、それが当たり前として生きてきました。その寛容さは日本人の凄さでもあります」
大昔、日本に異国の仏教が伝わってきた時、欽明天皇はこう言ったという。
「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美をそなえ、いまだ見たこともない(日本書紀)」
欽明天皇はその美しさに惚れたのだ。
美しき日本の宗教。
神でも仏でもいい、とにかく願いを聞いてくれ。
惟神(かんながら)の精神というのは、意外と直感的なものなのかもしれない…。
出典:致知2013年5月号
「神道と仏教 凡神教としての神道」
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