話:本多静六
二杯の天丼はうまく食えぬ
随分とふるい話だが、私が苦学生時代に、生れて初めて一杯の天丼にありついた時、全く世の中には、こんなウマイものがあるかと驚嘆した。
処は上野広小路の梅月、御馳走してくれたのは金子の叔父であった。その時の日記を繰り返してみると、
「ソノ美味、筆舌ニ尽シ難ク、モー一杯食ベタカリシモ遠慮シテオイタ、ソノ価、三銭五厘ナリ、願ハクバ時来ツテ天丼二杯ヅツ食ベラレルヤウニナレカシ」
と記されている。
後年、海外留学からかえってきて、さっそくこの宿願の「天丼二杯」を試みた。ところが、とても食い尽くせもしなかったし、またそれほどにウマクもなかった。
この現実暴露の悲哀はなんについても同じことがいえる。ゼイタク生活の欲望や財産蓄積の希望についてもそうであって、月一万円の生活をする人が二万円の生活にこぎつけても幸福は二倍にならぬし、十万円の財産に達しても、ただそれだけでは何等の幸福倍化にはならない。
一体、人生の幸福というものは、現在の生活自体より、むしろ、その生活の動きの方向が、上り坂か、下り坂か、上向きつつあるか、下向きつつあるかによって決定せられるものである。つまりは、現在ある地位の高下によるのではなく、動きつつある方向の如何にあるのである。
従って、大金持ちに生れた人や、すでに大金持ちになった人は既に坂の頂上にいるので、それより上に向うのは容易でなく、ともすれば転げ落ちそうになり、そこにいつも心配が絶えぬが、坂の下や中途にあるものは、それ以下に落ちることもなく、また少しの努力で上へ登る一方なのだから、かえって幸福に感ずる機会が多いということになる。
すなわち、天丼を二杯も三杯も目の前に運ばせて、その一杯を --誰でも一杯しか食えるものではない-- 平げるのは、折角のものもウマク食えない。一杯の天丼を一杯だけ注文して舌鼓を打つところに、本当の味わいがあり、食味の快楽がある。
多少の財産を自ら持ってみて、私はこうした天丼哲学というか、人生哲学というか、ともかく、一つの自得の道を発見することが出来たのである。
…
引用:本多静六『私の財産告白』
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