2015年11月12日木曜日
悟りへの第一歩、「無」の体験 [スマナサーラ]
話:スマナサーラ(Sumanasara)長老
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)
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第7章 悟りについて知る
「ヴィパッサナー瞑想」をすると、悟りの境地へ行けると言いましたが、では、悟りとはいったい何でしょうか? それをわかりやすく説明してみます。
悟りを理解する上では、「ものごとは実体としては存在しない。すべてのものは波動である」ということが、大きなポイントとなります。ものごとは、実際には「もの」ではありません。
たとえば音について考えてみます。スピーカーから音が出てきます。その音は、スピーカーからエネルギーを出す、止まる、出す、止まる、出す、止まる、ということをしています。そう考えれば、音というのは音ではなく、波、つまり波動なのです。
スピーカーから音が出る、止まる、出る、止まる…、ということは、言い換えれば、エネルギーが生まれる状態、何もない状態、生まれる状態、何もない状態…、の繰り返しです。その回数や、音の高低や、音楽や、つまりは振動数が定まって、エネルギーが出て、消えて、出て、消えて、出て、消えて、ということです。仏教用語でいう「生(しょう)」と「滅(めつ)」です。
生滅は、波動を表しています。ものがあるわけではありません。音という何かがあるわけではありません。エネルギーとしては生滅、生滅、生滅、です。それを我々は音と言っています。
生滅の周波数が、どんどん、どんどん、高くなって、高くなって、高くなってくると、我々はそれを超音波と呼んでいますが、聞こえなくなります。さらに、さらに高くなるとどうなるかというと、我々はそれを光と言います。
物体についても、触れるとそれなりの周波数があるだけのことです。実際にあるのは、生(しょう)と滅(めつ)だけ。生まれる、消える。生まれる、消える。
耳についていえば、耳は物質ですから、耳があるということは、いつでも耳は、生まれて、消えて、生まれて、消えて、生まれて、消えて、その波動でいます。そこに音が生まれたとします。耳も物質として生滅を繰り返しています。耳が生まれた瞬間、音のエネルギーと、耳のエネルギーがぶつかります。瞬間的にぶつかったところで、認識が生まれるのです。
「あ、音だ」と認識します。
一つの波が出てきて、もう一つの波が出てきて、波がぶつかるのです。
ぶつかる場合は、その波が「生(しょう)」の状態、「有る」の状態でなくてはいけません。波が「滅(めつ)」の状態でいるときは、触れることは不可能なので、ふつうは認識しません。
ものごとの波動は生滅(しょうめつ)という言葉で理解します。また、「有(う)」と「無(む)」という言葉で理解してもよいです。現象は「有」の状態にいるときは認識します。
音で言うと、音の波が「有」の状態で、耳も「有」の状態でいるとき、音が耳に触れます。それは「触(そく)」と言うのです。「 触(そく)」は仏教の言葉であり、「パッサ(phassa)」と言います。
この触れること、「触(そく)」ということは、とても大事なことです。波が2つぶつかったら、どうなるでしょうか? 違う方向へ、違う波が生まれてしまうのです。それが心の波です。
「有」と「無」がぶつかると、心の波動がそれを認識します。そして、心の波動が周波数ではいちばん高いのです。
心の波動の周波数を説明するときに、われわれの知っているスピードを基準にするのが正しいことかどうかはわかりませんが、心の波動の周波数の速度は、光のだいたい17倍ぐらいです。いちばん速いとされる光の、およそ17倍の速さで心が生滅(しょうめつ)しているのです。ですから、本質的に心と物質とはすごく違うエネルギーです。
身体の「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」という波動が、外にある「色」「声」「香」「味」「触」という波動とぶつかると、そこで認識します。一方が「生(しょう)」、あるいは「有(う)」の段階にいて、一方も「有(う)」の段階でぶつかると、
「あ、音だ、音だ」
とか
「見える、見える」
「味わう、味わう」
「触れている、触れている」
などという認識になります。われわれの認識の世界は、ぜんぶ「有(う)」の世界です。私たちは、世界は「有る」と考えています。それは無理もない話です。音が「有(う)」の場合は聞こえているのだから。「無(む)」の場合はわかりませんから。
耳が「有(う)」で、音が「有(う)」のときに、ぶつかって認識します。
そして次に、耳が「無(む)」になり、音が「無(む)」になります。ぶつかっても認識しません。というよりも、ぶつかりません。どちらも「無い」のですから、ぶつかりっこありません。
そして次にまた、耳が「有(う)」になり、音も「有(う)」になるとまたぶつかって、それを認識します。ということは、われわれは「有る」ことしか知らないというわけなのです。ものの存在の一部しか知らないのです。半分しか知らないのです。すべての生命は「有(う)」だという邪見をもっています。邪見というより、間違った考えをもっています。
ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。
それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。そこまで「有(う)」論は発展しました。初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。
とかく人間は「有(う)」論しか語れません。「有(う)」論しか考えることができません。実際、「有る」ことは「有る」のです。でも、ものには「有る」だけではなくて、「無い」状態もあるのです。
瞑想していると、音は波であることが身にしみてわかります。生滅(しょうめつ)、生滅(しょうめつ)しています。自分の身体も瞬間、瞬間、生滅(しょうめつ)していることがよくみえてきます。
同じ音に対して、ときには良い音だととらえたり、ときには気持ち悪い音だととらえたり。同じ味に対しても、良い味だと思ったり、あまりおいしくない味だと思ったりしますね。ずーっと、波の流れ、生滅する流れがあることが、どんどんみえてきます。みえても残念ながら悟りは開けないのですが。
ずーっと瞑想を続けていくと、認識が変わってきます。ここに音があれば、それはいつでも「有る」と「無い」とであることがわかります。耳があれば、やはり「有る」と「無い」状態があるとわかります。
たとえば耳なら、耳の感覚がどんどん鋭くなって、徹底的にものすごくシャープになって、なんでも認識できる状態にまで観察の力が強くなります。そうなるためには、余計な思考や妄想はほとんどなくなっていないとできません。
そのとき、ちょっとしたズレが起こるのです。そのズレは、じつはいつでも起こっていますが、普段は気づきません。
たとえば、耳が「有(う)」で、音も「有(う)」であるとき、音を認識します。耳でも音でも一つが「無(む)」になったら認識しません。ズレというのは、耳が「有(う)」の瞬間なのに、音が「無(む)」の瞬間です。
妄想がほとんど消えている人は、これに気づくのです。初めて「無(む)」の存在も知るのです。初めて現象の「滅(めつ)」に気づくのです。
これこそが革命的な発見です。
今まであった実体論、魂論、自我意識…、それらが
「ただの勘違いでした」
「幻覚でした」
と瞬時にわかります。
これは、簡単に説明すれば悟りの第一段階です。
「生(しょう)」と「滅(めつ)」の両方を認識できる瞬間まで進むためには、いくつかの智慧の段階を進んでいかなくてはなりません。実況中継(ヴィパッサナー瞑想)さえしていけば、悟りに達するまでの過程は自然に起こります。
普通の状態では、ものごとがすべて生滅(しょうめつ)、有無(うむ)であっても、無い状態は見えないし、わかりません。でも、瞑想して、瞑想して、徹底的に感覚が鋭くなったら、「有(う)」もみて、「無(む)」もみえます。「無(む)」も体験します。体験したら、
「なるほど、実体が無いのだ、ものごとは波動だ」
と思います。悟りの第一段階が生まれます。
いつも耳で聞く音の聞き方は「有(う)」だけ選んでいます。でも波動なので、いつでも2つのものの波長が合っているわけではありませんから、時間のズレは絶えず起こっています。ただ、それを悟らないでいるだけです。
瞑想をずーっと続けて、徹底的に観察が鋭くなったら、ものごとが存在しない瞬間をつかまえます。そこで初めて、実体論、自我論、有身見(うしんけん)が消えます。自分の体験として理解するので、その後でどんな哲学を言われても、どんなお説教をされても変わりません。心が変わってしまうのです。
存在しない瞬間を体験でつかんだら、ものごとは実体として存在すると思わなくなります。それは悟りという体験です。それはかなり大変なことで、かなり修行が進んでいないと経験できません。本当は「存在しない瞬間を経験する」などということは、生命には絶対不可能というぐらいのことです。「有る」ものはつかめるでしょう。でも、「無い」ものをつかめということですから、本当は不可能です。それを一生懸命にやって可能にするのです。
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これこそが科学的な瞑想実践です。
主観を絶って、真理に達する方法です。
悟りを開けるかどうかはさておき、まずは実況中継(ヴィパッサナー瞑想)という、笑えるほど簡単な実践を行ってみましょう。
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これは、巨大な力をもっている心の能力を妨げる障害を取り除く方法です。心を清らかにする方法です。
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引用:アルボムッレ・スマナサーラ
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)
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