2016年9月20日火曜日

鈴木俊隆の『禅マインド』




鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
ヒューストン・スミスの『序文(Preface)』より抜粋引用



二人の「鈴木」。

鈴木大拙(すずき・だいせつ)の禅は「劇的」である。

鈴木俊隆(すずき・しゅんりゅう)の禅は「日常」である。



鈴木大拙の場合、悟りが焦点となっていた。そして、大拙の書くものが、あれほど人を引きつけたのは、大部分、その「非日常」的な状態に対して魅惑されたためであった。






鈴木俊隆の場合、悟り、あるいは、ほとんどその同義語といっていい見性(けんしょう)という言葉はほとんど出てこない。

師が亡くなる4ヶ月前、私は、鈴木(俊隆)老師に、その著書に悟りという言葉がほとんど出てこない理由を尋ねる機会があった。奥さんはいたずらっぽく、私の耳にささやいた。

「悟っていないからよ」

老師はあわてたふりをして、扇で奥さんを打ち、口に指を当て「しーっ! それをいってはいけないよ」といった。三人で大笑いしたあとに、師は

「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」

と簡潔にいわれた。












鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
リチャード・ベイカーの「はじめに(Introduction)」より抜粋引用





鈴木(俊隆)老師は、仏教を語るについて、普通の人の人生の状況からみると非常に難しいけれども、しかし、説得力のある方法をとりました。それはたとえば、

「お茶を飲んでいきなさい」

というようなシンプルな言葉のなかに、全部の教えを込めて伝えようとするものです。





鈴木老師は、カエルが非常に好きでした。

座っているときには眠っているようなのに、そばを通る虫には、全部気がついているのです。





師の全存在は、今ここのリアリティに生きるということの意味を表しています。

なにも言わなくても、あるいは何もしなくても、こうした人格に出会うことの衝撃は、人の人生を変えてしまうほどの力をもっています。しかし、弟子を本当に驚かせ、そして深めさせるのは、

師の非凡さというよりはむしろ、その完全な平凡さなのです。

師は、ただ自分自身であるだけなのです。












鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
松永太郎「訳者あとがき」より抜粋引用





アメリカの友人から教えられて、はじめて本書を読んだときの驚きをまだ覚えています。このような視点は、それまで聞いたことがなく、なんだ、そういうことだったのか、と目からウロコが落ちるような気がしたのです。





師の弟子であったデヴィッド・チャドウィック氏には、1999年に出版されたすばらしい老師の伝記『曲がったきゅうり(Crooked Cucumber)』があります。

「曲がったきゅうり」とは、たぶん「ボケなす」とか「唐変木」という意味だと思いますが、よくわかりません。鈴木老師の師、玉潤祖温和尚が師につけたアダ名です。

鈴木老師は本書のエピローグの最後に、次のようにいっています。

「東部ではもう、ルバーブを見ました。日本では春になると、きゅうりを食べるのです」





ある日、『参同契』の講義録を編集していて、私は

「あるがまま(things as it is)」

という言葉に出会いました。これは「things as they are」が文法的には正しいのではありませんか、とたずねると、師は「いや、私が意味したのは things as it is である」と言われました。





接心(せっしん、集中的に坐禅修行をおこなう合宿)4日目、私たちの足は痛み、背中も痛み、「いったいこんな苦痛に値するのかどうか」という疑いなどでいっぱいになったころ、鈴木老師はゆっくりと話をはじめました。

「いま、君たちが経験している問題というのは … 」

もうすぐなくなる、私たち誰もが、そう言われるものと思いました。

「 … 一生つづく」

と老師は言われたのです。

その言い方で、私たちはみな爆笑したのです。





ある女性の弟子が、感情にかられ、泣きながら問いました。

「なぜ、こんなに苦しみがあるのでしょうか?」

鈴木老師は答えました。

「特別、理由などはない」





ある弟子が尋ねました。

「もし、森のなかで木が倒れ、誰も聞いていなかったとしたら、木は音を立てたのでしょうか?」

鈴木老師の答え。

「どうでもよい」





鈴木老師の畳の部屋で、弟子が対面しています。弟子は、

「台所へ行って、盗み食いがやめれれないのです」

と言いました。鈴木老師は机の下からジェリービーンズを出して、

「すこし、どうかね」

と言われました。








最初の接心の初日が終わる前に、「私は到底できっこない」と思いました。主人の独参の日でしたが、主人は老師に、代わりに私に会ってくれるようにと頼んだのです。

「これは何かの間違いです。私にはできません。ただ主人と一緒に来ただけなのです」

「間違いではありません。もちろん、お帰りになるのはご自由です。ですが、どこにも行くところはありませんよ





「海のむこうで戦争しているのに、私たちは、ここで何をしているのですか?」

弟子のジョン・スタイナーが言いました。

老師は突然、猫がネズミを襲うよりもすばやく上座から飛び降りて、ジョンの後ろに回り、警策(きょうさく)で何度もジョンを打ち、叫びました。

「愚か者! 愚か者! 時間を無駄にしておる!」

老師は何度もジョンを打ったので、ジョンは前のめりに倒れてしまいました。

「夢を見ているのだ! 夢を見ているのだ! なんの夢を見ているのだ!?」



師が声を荒げたことを一度も聞いたことがなかった聴衆は、驚愕のあまり口も聞けませんでした。

師は息切れして、ほとんど聞き取れない声でいいました。

「怒っているわけではない。ただ … 」

息をついでから

「自分の靴ヒモも結べないのに、何をしようというのだ」











引用:鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)』



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