2016年9月22日木曜日

人間の面目をつぶした「科学の革命」[フロイト]



話:V.S.ラマチャンドラン





あまり知られていないが、フロイトの考えで興味深いのは、偉大な科学の革命には一つ共通する特徴があるのを見抜いたという主張である。ちょっと意外なことだが、それらはみな、宇宙の中心人物としての「人間」の面目をつぶし、あるいはその地位から追い落とすという。

フロイトによれば、第一はコペルニクスの革命で、それまでの地球中心の宇宙観を、地球は宇宙の小さな塵(ちり)にすぎないという考えに置き換えた。

二番めのダーウィン革命は、私たち人間を、たまたま進化した特性のおかげで少なくとも一時的には成功をおさめている、ひ弱で毛のない幼形成熟の類人猿とみなす。

第三の偉大な科学の革命は、彼自身の無意識の発見と、それに付随する見解、すなわち自分が自分の「管理者である」という認識は幻想にすぎないという見解である、とフロイトは(おだやかに)主張した。フロイトによれば、私たちが行うことはすべて、大鍋いっぱいに煮えたぎる無意識の情動や基本的欲求や衝動に支配されていて、私たちが意識と呼んでいるものは氷山の一角にすぎず、ただそれらの行為を事後に念入りに合理化したものでしかないという。



フロイトは偉大な科学の革命の共通点を正しく特定したと私は思う。

しかし彼は、なぜそうなのかということを説明しなかった。なぜ人間は喜んで「面目をつぶされ」たり、地位から引きずりおろされたりするのだろうか? 人類を小さくみせる新しい世界観を受け入れる見返りとして何を得ているのだろうか?

ここで物事を逆向きにすると、なぜ宇宙論や進化論や脳科学が専門家だけでなくすべての人にとってこんなに魅力的なのかという理由をフロイト流に解釈することができる。



人間は他の動物とはちがって自分が死ぬ運命にあることをはっきりと自覚し、死をおそれている。しかし宇宙の研究は、時間を超越した感覚や、自分はより大きなものの一部であるという気持ちを与えてくれる。

自分が進化する宇宙という永遠に展開するドラマの一部であると知れば、みずからの命に限りがあるという事実のおそろしさが軽減される。科学者が宗教的体験をするようになる場合があるのは、おそらくこのあたりのことが関係しているのだろう。

同じことが進化の研究にも言える。時間と空間の意識がもたらされ、自分自身を遠大な旅の一部と見ることができるからだ。脳科学も同じだ。



この革命で私たちは、心や体とは別に魂があるという考えを放棄した。それはおそろしいことではなく、解放をもたらすものだ。

もし人間をこの世界の特別な存在とみなし、無比の高みから宇宙を検分していると考えるなら、消滅は受け入れがたい。しかし単なる観察者ではなく、本当にシヴァ神の偉大な宇宙ダンスの一部であるとしたら、避けられない死も悲劇ではなく、宇宙との喜ばしい再結合とみなせるはずだ。


ブラフマンは全である。

姿も感覚も欲求も行為もブラフマンから生じる。しかしこれらは名称と形態にすぎない。ブラフマンを理解するには、ブラフマンと自己との同一性を、すなわち心の中心に存在するブラフマンを体験しなくてはならない。

人間はそうすることで初めて、悲しみや死から逃れ、すべての知識を超越する、精緻な真髄をそなえた存在になれる。

ウパニシャッド 前500年








引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




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