2016年9月23日金曜日
「納得のいくまで突き固める」[西岡常一]
話:西岡常一
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普通の住宅でもコンクリ(基礎)の上に木(土台)をやるということは一番悪いんですよ。木の寿命を一番縮める方法です。
在来工法でやっておけば、管理さえ良ければ300年は大丈夫です。建築基準法はあきまへん。
とにかくね、納得のゆくまで突き固めるちゅうことですな。
それはやっぱり棟梁の考えによりますわ。その土地のやらかいか、かたいかということを見分けるだけの力がないといけませんわな。それなら一週間で、これなら一月、二月で固めな、いけないということをね。
「地づき」とゆうんやな。全国同じようでしょうと思います。けやきとか松とか、ちょっと重いような木ですな、胴づきは。直径は20cmくらいがよろし。これを使うて、10人くらいで上から落として土を固める。当たる部分が小さいから、深いところまで固まるんです。今はランマーとかいう機械を使いますが、あれは表面だけ。表面だけがかたくなる。底までかたまりませんなぁ。
この頃はコンクリというものがあるんで、あれでもう土を深く固めずに上のほうへちょろちょろと、ま、仮の岩をつくって立てるんな考え方なあ。これでは基礎がしっかりしません。
だいたいコンクリートはもって100年ですから。1,000年もつコンクリートもありますよ。ギリシアの天然セメントね。火山灰がたまって、自然に天然のセメントになっている。そのかわりね、硬化が遅い。ポルトランドセメントの現在のセメントは3週間もすれば固まってしまうけれども、天然セメントはコンクリートしてから半年くらいせんと固まらない。しかし1,000年くらいもつ。ただ、材料がない。原料がない。
つき固めた土の上に礎石を置いて、その上に柱を立てる。
柱と柱の間を石でつなぐ。この辺では狭間石(はざまいし)ちゅうんですわ。それはね、柱と柱の間には壁があるでしょ。その壁を受けるために石を置くんですわ。壁木舞(かべこまい)が直接上にのる。壁止めですな。結局、狭間石は壁の根元に湿気が上がらんようにする、そのためのものでもあります。狭間石の下はそんなにどんどんつかなくてもちょっとつけばそれでよろし。
柱石(礎石)の石はどこの石がよいということはありませんが、切り石のほうがよろしな。この辺では柱石も狭間石も御影石を使っている家がありますが、御影石だったらかたくてええな。
建築基準法では、コンクリートの人工石の上に木の土台を置いて、その上に壁がのるんです。木を横にして。それはもうだめ。これをやるから20年しかもちません。
木を横に置くのは一番腐りやすい。結局水を含んだとき、木が縦にあると水が縦に動きますので乾きやすい。横にしてあると乾きません。それで早く腐るんです。
コンクリートに直接柱を立てると弱いです。柱石を置くべきです。コンクリートは湿気がないと粉になってしまうわけですわな。だから固まってあるためには水分をどっさり含んである。その上に木を横にしてあるからすぐに土台が腐ってしまう、シロアリがわく、こうゆうことです。耐用年数が非常に短い。
そうですか。工務店から床下にコンクリートを流すように勧められましたか。
床下は土をつき固めておくのがよいでしょう。土も生きているし木も生きているのやよって、自然に授かった命を生かすように。セメントは水分を呼び、シロアリの温床になるのではないかと思います。
在来工法の利点は、柱石の上に柱を直接立てることです。木材を横に寝かせる土台はなるべく使用しないことです。
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話:小川三夫
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地盤をつくるとき、まず表土を取るとかたい粘土の地山というのが出るわけだ。そこはもう地の一番かたいところなんだ。版築(はんちく)といって、地山まで掘った穴へ、同じ地山のところから土を取ってきて、ばらぱらっとまいてはトントン、トントンと地盤を高めていく。
法隆寺なんかそれで基壇をつくってある。この方法は、どういうわけか奈良時代まででなくなってます。いまの能率ではとてもやってられないですわな。
それから、つき上がったその上に石を置いて建物を建てるんだけど。そこまですればコンクリよりもずうっとかたいかたい地盤ができる。それをやってあるから、法隆寺は全然、不同沈下(均等でない沈み方)しない。
ふつうの家でも、やっぱし地山のところまで掘って土を固めてやれば絶対なんだ。しかし、地山の位置、これは土地によって深い、浅いがあるんや。ただ、割栗石をどんどん、どんどん入れて突いたからっていいもんじゃねぇわけだ。
そうなると、逆に家を建てるところは限られてくる。昔だったら「白い土の出るところへ建てろ」とか言った。それは石灰だから、そこへ住めば昔はカルシウムなんて薬ないし健康にもいい。そういうところまで話がいくと誰だってわかる。
そして、そこへ建てる建物は地盤がかたいから強い。
家を建てるのに四神相応の地、四方の神に相応した貴い地相をえらべと言うけれども、北側に山を背負っていて、南はずうっと低くて、東に清流が流れていて、西に道路があるっていったら、絶対に湿気もねぇし、風もこねぇし、最高なとこ。
そこを選んで建てる。地山の高いところだったら一番いい。法隆寺なんかぴたっといってるんじゃない。法隆寺は地山も高いんだ。
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話:田中豊助
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「明日、峯の次郎衛門どんでな、地形(じんぎょう)なんだ。5、6人あつめてくんねぇかな」
母は未亡人で生計のために農業だけでなくいろんな仕事をしていたから、村で顔がきいたようです。
昭和五、六年は昭和恐慌の頃、満州事変の頃です。
地形(じんぎょう)は農家の主婦たちの仕事で、近所づき合いの意味合いもあったと思います。裾をまくし上げて手甲、地下足袋でね。ときには嫁入り前の若い人もいました。
「井」の形に丸太を組んだ、高さ3mのやぐらがあって、その真ん中を木の大株の重りが上下する。木の株の4つのところ(4ヶ所)に柄がついています。この柄のところを麻縄でしばり、滑車でさらに縄を3つに分けてみんなで引きます。
落下させる部分を頭(かしら)が木株の柄をもって調節する。木株が上がって、合図で一斉に手をゆるめる。木株の重りがどすんと地面に落下します。
「えんやこりゃ」
とん、
「おっかぁのためなら、えんりゃこりゃ」
とん、
「もう一つおまけに、えんりゃこりゃ」
どん。
最後に、地固めのところには直径20〜30cmの丸石が投げ込まれる。
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母がよく自慢に話をしてくれたものです。
「この家は地形(じんぎょう)をひと月もかけてつくったから、明治43年(1910)の大水にも浸からなかったんだよ」
と。柱の元ばかりじゃなくて、敷地全体を地形(じんぎょう)して高くしてあったんです。
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やはり、ひと月もかけて地形(じんぎょう)を十分にやった家は、洪水にも地震にも強いということなんですね。
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木遣り地形(じぎょう)をやらなくなったのは、ちょうど満州事変がはじまった頃(昭和6年)。戦争がはじまるっていうのに、こんなみっともねぇことしてらんないって。
だから木遣り地形(じぎょう)は昭和8、9年でおしまいです。
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戦後、ランマーばやりになっちゃった。
どこでもやぐらに心棒でつかなくなっちゃった。
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引用:原田紀子『西岡常一と語る 木の家は三百年』
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