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2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻




…

九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。

…

書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。





…


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌

2018年5月9日水曜日

じつは生きていた杜根【三国志】


From:
宮城谷昌光
『三國志』




…

鄧(とう)太后の摂政がつづいている。安帝はすでに27歳である。それでも鄧太后はこの皇帝に新政をゆるさない。

政柄(せいへい)の所在に疑問をおぼえ、匡諌(きょうかん)の言を揚げた者がいなかったわけではない。それに関しては杜根(とこん)がもっとも有名である。

杜根は潁川(えいせん)郡定陵(ていりょう)県の出身で、父の杜安(とあん)はあざなが伯夷(はくい)であることからわかるように、少年のころから志節があり、13歳で太学にはいり、奇童とよばれた。のちに巴(は)郡太守となり、すぐれた行政をおこなったので天下にその名が知られた。

かれの志節は杜根にうけつがれたといってよい。杜根は永初(えいしょ)元年(107年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、郎中(ろうちゅう)となった。郎とは男子のことであり、古くは君主に近侍する者を郎中といったが、このころは新人官僚であるとおもえばよい。王朝では鄧太后が実験をにぎり、外戚の鄧氏が格別に恵顧(けいこ)されている実情をみて、

――帝は新政をおこなえぬほど幼くはない。

と、杜根はおもい、政事を帝に奉還すべき旨を上書して直諫(ちょっかん)した。若い正義感がそうさせたのであろう。

このときの鄧太后の怒りはすさまじかった。すぐさま杜根を執(とら)えさせて、縑(きぬ)の嚢(ふくろ)にいれ、殿上において撲殺(ぼくさつ)させた。嚢中(のうちゅう)の杜根はそれで息が絶えたはずであるが、じつは生きていた。執法者が杜根の声名を耳にしていて、

「手加減して叩け」

と、撲打する者にささやいたからである。

嚢は城外に運びだされた。そこで杜根は蘇生した。九死に一生を得た杜根であるから、あわてて逃げだしてもよさそうなのに、そうしなかったのは、かれの知恵が浅くない証拠である。

――太后は用心深い。かならず検視の者をよこすはずだ。

はたして、三日後に検視の役人がきた。杜根の佯死のすさまじさは、眼中に蛆(うじ)を生じさせたことである。むろんその蛆は近くの屍体(したい)から拾ってきたものであろう。精気のぬけた蒼顔(そうがん)にうごめく蛆をみた役人は、小さくうなずき、宮中にもどって、

「杜根はまちがいなく死んでいました」

と、鄧太后に復命した。

「さようか」

鄧太后は残酷さを嗜(この)む人ではない。しかし杜根のようにかるがるしく直言を呈する者が続出してはこまるので、みせしめのために、撲殺という宮中の耳目をそばだたせる処置をあえておこなったのである。

――杜根は何もわかっておらぬ。

鄧太后は荼(にがな)を口に哺(ふく)んだような顔つきをした。幼少のころの安帝は徳の豊かさを人に感じさせた。ところが、人の評価に辛さをもつ鄧太后の目からすると、成長した安帝は失徳者であった。安帝の教育をおこなうべき乳母も姦(わる)い。

王聖(おうせい)

という乳母には淑徳(しゅくとく)が欠けている。国難のさなかにいるのに、安帝に親政をおこなわせたらどうなるのか、火をみるよりもあきらかである。杜根にはそれがわかっていない、と鄧太后の胸は怒りでふるえるが、そのふるえには悲しみがまじっている。安帝を立てたのは、ほかでもない、鄧太后自身なのである。

安帝が聖徳をしめし、群臣を心服させ、人民に恵恤(けいじゅつ)をほどこし、蛮夷をなつかせ、鄧太后をうやまってくれる人であるなら、明日にでも政事を奉還するであろう。そうしないのは、鄧太后から危機意識が去らないからである。

――わたしと兄が国権を掌握しているかぎり、この王朝は頽弊(たいへい)しない。

楽観も悲観もしない鄧太后には自信があり、使命感さえある。王朝の運営者は驕ってはならないという自覚をもっていることも、和帝のころに専横(せんおう)をおこなった竇(とう)氏とはちがう。和帝の手足となって働き、竇氏を覆滅させた鄭衆(ていしゅう)を知っている鄧太后は、

――宦官(かんがん)には用心する必要がある。

ということさえ知っている。かれらをみくびると、突如、足もとをすくわれる。鄧太后には政治感覚がそなわっていたとみてよいであろう。その感覚が、杜根を撲殺する、という恫喝(どうかつ)を必要とした。事実、それ以来、百官や群臣から鄧太后の摂政を非難する声は揚がらなかった。



ところで、死亡したことになった杜根はどうしたか。

――これで追逮(ついたい)はない。

と、みきわめるや、逃竄(とうざん)した。杜根の郷里は潁川郡にあるが、もとよりそこに帰ることはできない。洛陽から南に奔(はし)ったことにさほどのわけがあろうとはおもわれないが、北方や西方にゆきたくなかったのは、異民族による寇擾(こうじょう)がたえまなかったせいであろう。

かれは荊州にはいり、南陽郡をぬけて南部に到った。南郡の郡府は江陵にあるが、そこまでゆかないうちに、宜城(ぎじょう)という大きな県の酒家に傭(やと)われた。宜城は名酒の産地である。怪しまれることなくその家に住み込んだ杜根は、なんと15年もそこですごしたのである。ただし酒家の主人はすくなからぬ人と接し、多くの人を使っているので、人をみる目をもっており、杜根に目をとめて、

――並の賢さではない。

と、看破し、ここにながれてきたわけを問わずに、かれを礼遇するようになった。



鄧氏の勢力が王朝から一掃されたあと、安帝の側近たちは、杜根の忠死について述べたので、安帝は杜根が死んだものとおもい、天下に布告して、せめて杜根の子孫について明らかにせよと命じた。

そのころ杜根が故郷の定陵県に帰ってきたので、県では大騒ぎになった。杜根の子孫についてしらべにきた中央の役人は、死んだはずの杜根に会って仰天し、すぐさま洛陽に報(しら)せをとどけた。

「杜根は生きていると――」

喜んだ安帝は公車(こうしゃ)をさしむけ、杜根を招聘(しょうへい)すると、ただちに侍御史(じぎょし)に任じた。宮中の取り締まりをおこなうところを御史台(ぎょしだい)といい、侍御史はそこの属官である。

杜根は安帝の崩御のあと、順帝(保)のときに、斉陰(せいいん)太守となり、それから官を去り家に還って78歳で歿した。かれなりに道義に遵(じゅん)じた生きかたをしたのであり、志節をつらぬいたといえるであろう。

…

From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 没落



2018年5月7日月曜日

梁鴻と、その妻【三国志『挙案斉眉』】


話:宮城谷昌光
『三國志』

…

厳光(げんこう)ほど有名ではないが、梁鴻(りょうこう)も特色のある人で、かれの妻は「挙案斉眉(きょあんせいび)」という語とともに、人々に感嘆された。

深趣(しんしゅ)をもった夫婦の話である。

梁鴻の父は王莽(おうもう)のときに城門校尉(こうい、首都の城門の警備)となり、脩遠伯(しゅうえんはく)に封ぜられた。けっきょく北地で亡くなったが、そのとき梁鴻はまだ幼く、にわかに乱世になったため、父の遺骸を棺(ひつぎ)に斂(おさ)められず、席(むしろ)で巻いただけで葬った。

のちに梁鴻は太学(たいがく)で学んだ。ちなみに洛陽に太学が設けられたのは建武五年(29年)のことである。当然、梁鴻の入学はそれ以後ということになる。家は貧しかったが、節操を尚(たっと)び、博覧であり、通じないものはないほどであった。

学業を畢(お)えてから、上林苑(じょうりんえん)のなかで豚を飼って暮らしていた。上林苑は洛陽の西、洛水(らくすい)の北岸にある。あるとき火を消し忘れて、その火がほかの舎(いえ)におよんでしまった。梁鴻は焼失した舎の主人をたずねて、損害の程度を問い、そのすべてを豚でつぐなうことにしてもらった。だが、主人は、豚を全部もらっても足りぬ、という。

「ほかに財はありません。わたしが小作になって働き、つぐなわしてください」

と、梁鴻はたのんだ。

「いいだろう」

そこで梁鴻は朝夕おこたらずに勤めた。尋常な勤めぶりではなかった。隣家の老人たちは人を視(み)る目をもっている。かれらは梁鴻がなみの人ではないとおもい、そろって舎の主人を責め、梁鴻は人の上に立つ人であると称(ほ)めた。主人はようやく梁鴻の異能に敬意をはらい、もらった豚をすべて還そうとした。が、梁鴻はうけとらず、上林苑を去って故里の扶風(ふふう)郡平陵(へいりょう)県に帰った。

扶風郡は右扶風(ゆうふふう、うふふう、とも読む)といったほうがよく、平陵県は前漢の首都であった長安から遠くない。その地の名家の主(あるじ)は、梁鴻の高節を慕い、娘をもらってもらいたいと申しこんだ。梁鴻はすべてをことわり、娶(めと)らなかった。

県内にある孟(もう)氏という家に娘がいた。容姿がまことに悪い。太っていて醜く、しかも色が黒い。ただし力は石臼(いしうす)をもちあげるほど強い。この娘はえりごのみをして嫁にゆかぬまま、30歳になった。

「なぜ、嫁にゆかないのか」

と父母にきびしく問われた娘は、

「梁伯鸞(はくらん)のような賢い人にとつぎたい」

と、うそぶいた。伯鸞は梁鴻のあざなである。うわさが梁鴻の耳にとどいた。何をおもったか、梁鴻はこの娘を娶ることにしたのである。喜んだ娘は木綿の着物に麻の靴、それに針箱、紡績の道具を作ってもらい、それらを嫁入り道具のなかに納めてから、絹の着物をまとい、着飾って梁鴻の家の門にはいった。

それから七日たっても梁鴻は口をきかなかった。妻は牀下(しょうか)にひざまずいた。

「ひそかに聞いたところでは、あなたは理想が高く、いくつかの縁談をしりぞけたそうですね。わたしもまたたやすく嫁にゆきませんでした。今こうして、あなたはわたしを択(えら)んでくださったのに、わたしのどこがいけないのでしょうか」

そう問われた梁鴻はようやく口をひらいた。

「わたしは裘褐(きゅうかつ)という質素な衣服を着て、ともに深山に隠れて暮らす者を求めていた。ところがおまえはぜいたくな綺縞(きこう、絹織物)を衣(き)て、白粉(おしろい)と眉墨(まゆずみ)で化粧をしている。そういう女をわたしが気にいるとおもうか」

すると妻はさわやかに破顔した。

「あなたの志を観ようとしただけです。わたしは隠れ栖(す)むための服をもってまいりました」

しりぞいた妻は、さっそく髪を引っ詰めにし、木綿の着物に着替え、針と糸を手にして、ふたたび夫のまえにあらわれた。それをみて大いに喜んだ梁鴻は、

「それでこそ梁鴻の妻である。いまからわたしに仕えることができよう」

と、いい、妻にあざなをつけて、徳曜(とくよう)、とよんだ。妻の本名は孟光(もうこう)である。

しばらく暮らしたあと、妻は夫に強い目をむけた。

「あなたはつねに患(わざわ)いを避けるために隠栖(いんせい)したいとおっしゃっていた。何をぐずぐずなさっているのですか。まさか人に頭をさげて、官に就(つ)こうとなさっているのではありますまいね」

このことばに梁鴻はすばやく反応した。

「よし」

と、いうや、かれは妻をともなって覇陵(はりょう)山にはいり、耕織(こうしょく)をおこなって暮らした。詩を詠み、書物を読み、琴を弾じて、娯(たの)しんだ。

ふたりがその山をでて函谷関をぬけ、関東の地にむかったのは、異民族である羌族や山賊の跳梁(ちょうりょう)が烈しくなったからかもしれない。そうでなければ、覇陵山でせっかく得た静寧(せいねい)を捐(す)てる理由がみつからない。

京師(けいし、洛陽の都)を通過するとき、梁鴻は、

「五噫(ごい)の歌」

を作って、歌った。噫は、ああ、というのにひとしく、嘆きの声である。歌の内容は、宮殿が嵬(たか)くそびえるほど人民の劬労(くろう)はながびく、というものであった。この歌が虚空を飛んで、ときの皇帝である章帝(光武帝の孫)の耳にはいるはずはないのだが、どういうわけか章帝が知ったのである。

「けしからぬ」

章帝は梁鴻を逮捕せよと命じた。が、道をいそいだふたりは役人の追跡のとどかぬところに到り、用心のため、梁鴻は姓を運期(うんき)、名を耀(よう)、あざなを侯光(こうこう)と改めた。かれらは東方の斉と魯のあいだに隠れ栖んだ。

しばらくして、ふたりはそこを去り、南方の呉へゆくことにした。役人の目を恐れたからであろう。隠者でありつづけることが王朝を批判することであるのは、後漢時代にはじまったことではなく、孔子が生きていた春秋時代、いや、上古(じょうこ)からあった。

おそらく梁鴻は旺盛な批判精神の持ち主であるがゆえに、王都の宮殿を遠望したとき、ついその精神をむきだしてしまったのであろう。呉へゆくときにも、かれは詩を作っている。詩人のことを騒人(そうじん)ともいうが、まさに梁鴻は愁えによって心の鎮まらぬ人であった。

かれは理想を求めて周流した孔子を想い、愛国の儒者といわれる魯仲連(ろちゅうれん)を尊敬し、呉王の位を辞退しつづけた王子・季札(きさつ)が住んだという延陵(えんりょう)をたずねてから、呉に到着した。

呉に皋伯通(こうはくとう)という大家がいる。ふたりはその家の軒下を借りた。梁鴻は人に傭(やと)われて舂米(しょうべい、米をつくること)の仕事をし、帰ると、いつも妻の孟光は膳をととのえて待っていた。

孟光は梁鴻のまえではけっして仰視せず、案(あん、膳)を挙げて自分の眉の高さに斉(そろ)えた。それを四字でいえば、挙案斉眉(きょあんせいび)ということになる。たまたまその光景を目撃した皋伯通(こうはくとう)は、かわったことをする、とおもい、

「あの傭者(ようしゃ)は、あのように妻をしつけている。凡人ではあるまい」

と、家人にいった。ここでようやく夫婦を家のなかにいれて住まわせることにしたのである。梁鴻は部屋にとじこもって十余篇の書を著わした。やがて病に苦しみ、もはやたすからぬとわかると、梁鴻は皋伯通に、

「むかし中原(ちゅうげん)諸国に使いをした延陵の季子(季札)は、帯同した自分の子が客死すると、贏(えい)と博(はく)のあいだの地に埋葬し、郷里に遺骸をはこばなかった。どうかわが子にも、わたしのなきがらを持ち帰らせないようにしてもらいたい」

と、たのんだ。うなずいた皋伯通は、梁鴻が亡くなると、呉の要離(ようり)という勇者の冢(はか)の近くに梁鴻を埋めた。要離を知らぬ者は呉にはいない。とはいえ、多少の説明は要るであろう。

春秋時代に呉に寿夢(じゅぼう)という名君は末子の季札を愛し、季札に王位を継がせようとした。が、季札が固辞したため、長男が継いだ。その兄弟は順々に王位を継いでゆくという約束をかわしたのだが、季札の番になると、またかれは辞退した。

そのため僚(りょう)という王子が呉王になったが、寿夢の嫡孫(寿夢の長男の子)である光(こう)は、季札が呉王にならないのであれば、王統を嫡流にもどすべきだ、と強く意(おも)い、王僚を襲う機会を待った。たまたま隣国の楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)という胆知にすぶれた士に謀(はか)り、専諸(せんしょ)という者をつかって王僚を暗殺した。専諸は魚の腸(はら)のなかに剣をかくし、魚をすすめつつ、その剣で用心深い王陵を刺殺したのである。

直後に位に即(つ)いた光が呉王の闔廬(こうりょ、闔閭)である。闔廬には懸念があった。王陵の子の慶忌(けいき)が他国にいて、かれが諸侯の力を借りて攻めてくることを恐れた。しかし慶忌を殺せる者がいない。ここで伍子胥に推薦されたのが要離(ようり)である。要離を慶忌に近づけ、信用させるために、闔廬はあえて要離に罪を衣(き)せ、要離の妻子を捕らえて焚(や)き殺した。出奔した要離は慶忌のもとへゆき、闔廬の無道を訴え、信用を得た。

やがてふたりは呉へゆくために江水(こうすい、長江)を渡ることになったが、江(かわ)のなかばに舟がさしかかったとき、要離は剣をぬいて慶忌を刺そうとした。殺気を察していた慶忌は体(たい)をかわすや、要離の髪をつかんで、水中に投げ落とした。要離が浮かんで舟にのぼろうとすると、また投げ落とした。みたびおなじことをした慶忌は、ついに、

「なんじは天下の国士である。なんじを殺さず、なんじの名を天下に知らしめてやろう」

と、いい、要離を岸にあげて、自身は対岸へ去って二度と呉の土を踏まなかった。復命した要離は、ねぎらう呉王のまえで、

「妻子を殺し、先王の子を殺そうとし、しかも相手に助けられました。不仁をおこない、不義を犯し、恥辱をあたえられたのです。生きてはいられません」

と、述べ、剣に伏して自殺した。要離とはそういう人である。

皋伯通(こうはくとう)が埋葬の地をさがしているとき、

「要離は烈士であり、伯鸞は清高である。ふたりを近づけるべきだ」

と、みなにいわれた。埋葬が畢(お)わると、妻子は郷里に帰った。

…



From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知

楊喜、楊宝、そして楊震【三国志『四知』】


話:宮城谷昌光
『三國志』

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劉邦と項羽が争っていた時代に功があって、楊喜(ようき)は赤泉(せきせん)侯に封じられた、と伝えられる。どのような功があったのか、といえば、こうである。

項羽の軍が大敗した垓下の戦いのあとに、項羽は逃げた。それを劉邦配下の騎兵が5,000騎で追った。そのなかの騎将のひとりが楊喜である。楊喜は28の従騎しかいない項羽にもっとも近づいたとき、目を瞋(いか)らせた項羽の叱声を浴びると、人馬もろともに驚いて、数里もひきさがった。しかし気をとりなおして、また追撃した。

烏江(うこう)にさしかかった項羽は、船に乗れば長江の対岸に逃げ去ることができるのに、馬をおりたものの船には乗らず、短兵をもって、迫りくる敵兵と戦った。そのとき項羽ひとりが撃殺した漢兵の数は数百であった。やがて項羽が疲れたのか、それともおのれの強さに虚しさをおぼえたのか、敵兵の眼前で、自分の首を刎ねて死んだ。

その首に飛びついたのは王翳(おうえい)という者であったが、首のない屍体に数十人が殺到した。項羽の体は四分五裂したといってよい。項羽の手でも足でももぎとれば、懸賞というべき千金と万戸の邑(ゆう)をわけあうことができるのである。

ついに王翳のほかに四人が項羽の体の一部を得た。その四人のなかに楊喜(ようき)がいた。執念の人ということができよう。けっきょくその五人はすべて封じられて侯となった。すさまじい話である。

…

居摂(きょせつ)二年に王莽(おうもう)は楊宝(ようほう)を召しだそうとして、華陰に人をつかわした。

――なまじ盛名があるので凶徳の手がおよんできた。と、おもった楊宝は家族や門弟に、「道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」と、いい、かれらをともなってゆくえをくらましてしまった。楊宝は王莽の政権を認めなかった。

いつ楊宝が華陰に帰ってきたのかはあきらかではないが、おそらく王莽の死後であり、光武帝が王朝をひらいてからであろう。

光武帝は、いわゆる優秀な官吏に疑念をいだいた人である。かれらはそろって博識多聞でありながら、王莽の偽善をみぬけず、王朝を崩壊させてしまった。知識の力は邪悪をのぞいて正義を樹(た)てる力にはならない。ほうとうに政府にとって必要な人とは、孝廉(こうれん)から心力を得た人をいうのではないか。つまり光武帝は道徳を重視したのである。

光武帝はそういう皇帝であったから、王莽に手を貸さなかった盛祥な清尚(せいしょう)な人物を求めた。楊宝のもとにも公車(こうしゃ)をやり、かれを召しだそうとした。しかしながら楊宝は、「わたしは老いており、しかも病がちです」と、ことわりを述べ、その車に乗らなかった。

楊宝は官界にあって名誉を得たい人ではなく、壮年のうちに隠居してしまったのである。老いた、というのは、謝辞を角だてぬ修辞のひとつにすぎぬであろう。いうまでもなく楊宝は死ぬまで官界に足を踏みいれなかった。

楊宝の晩年に生まれたのが、楊震(ようしん)である。

…

華陰における楊震の評判はたちまち高くなった。

「明経博覧(めいけいはくらん)」

と、いわれた。明経とは、経書を明らかに知っているということで、博覧とは、広く書物を読んで物事に通じているということである。驚異的な知識量をそなえた楊震について、多くの儒者が、

「楊伯起は関西(かんせい)の孔子である」

と、語るようになった。関西、関東といういいかたは古くからあり、関とは函谷関をいう。華陰は函谷関より西にあるから、関西なのである。

…

教授を業(なりわい)とした楊震は父の生き方にならったのか、官界に関心をもたず、郡の召しだしをこばみつづけた。

…

湖県で門人に顔をむけつづけている楊震は、洛陽のある東の空を遠望せず、和帝の成長にまったく無関心であるかのようであった。そういう楊震をみて人々は、

「晩暮(ばんぼ)だ」

と、いった。もうあの先生は人生の夕暮れを迎えている、とささやきあったのだる。実際、楊震は五十歳に近づきつつある。かれはときどき河水のながれをみながら、

――逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか。

と、つぶやいたであろう。懊悩がないことはない。

…

――わたしの生きかたは、あいまいだな。

自分をきびしく省(かえりみ)れば、そうである。楊震は官界を無視しつつも、厳光や梁鴻のようには生きられない。楊震のなかには浮沈する顕揚欲がある。地方にいて学者としての高名さを保っていることが、自尊心のついえをふせいでいるにすぎない。

「孔子は五十歳になって天命を知った。わたしも五十歳になれば、天命を知らねばならない」

楊震の心の声はそういうものであった。

その五十歳になったとき、ふしぎなことがあった。鸛雀(こうのとり)の群れが三匹の鱣(うみへび)をくわえて講堂のまえに飛来した。奇異の感に打たれた塾長がその鱣を取って、楊震にすすめ、

「鱣(うみへび)は、卿大夫(けいたいふ)の服の文様です。三つの数は、上台、中台、下台という三台の星、すなわち三公をあらわしています。先生はこれより昇進なさいます」

と、祝った。ちなみに、このことがあって、後世の者は講堂のことを鱣堂(せんどう)ともいうようになった。

――これが天命か。

楊震は豁然(かつぜん)とさとり、はじめて州郡の役所に出仕した。だが、楊震の身の上に奇異なことは生じないで、年月がおだやかにすぎていった。

…

鄧騭(とうしつ)は大将軍を拝命する。この大将軍は三公より上位にあるとおもえばよい。このとき王朝は羌(きょう)族の大叛乱という国難に直面していた。

叛乱の鎮圧に失敗して帰還した鄧騭(とうしつ)は、王朝に材幹(さいかん)が不足していることを痛感し、地方にいる賢人を中央に辟召(へきしょう)するという果断を実行した。群英が中央に集合した。王朝に新風が吹きこんだようであった。

楊震も群英のひとりであった。

…

鄧騭(とうしつ)は辟召(へきしょう)した九人のなかで、楊震、朱寵(しゅちょう)、陳禅(ちんぜん)、張皓(ちょうこう)という四人を自分の幕下に置いた。

それにしても、この四人はそろって年齢が高い。全員が六十歳に近かったといってもまちがいではないであろう。とはいえ、この四人は学問で心胆をきたえてきている。陳禅と張皓は『春秋』などを修めた学友であった。学びつづける者は老いぬのである。

やがて楊震は襄城(穎川郡)の令に転出し、ついで荊州刺史(監察長官)となった。荊州は広大である。南陽郡、南郡、武陵郡、江夏郡、長沙郡、零陵郡、桂陽郡という七郡をあわせて荊州というのである。

それから楊震は山東半島の東萊(とうらい)郡の太守に転ずることになった。

「四知(しち)」の逸話は、ここで生じた。


※「四知(しち)」とは、四者が知る、ということである。では、四者とは何であるのか。またその四者が何を知るというのか。


荊州から東萊郡へ赴任する楊震は豫州にはいり、それから兗州へむかった。兗州の山陽郡に昌邑(しょうゆう)という大きな邑(まち)がある。そこで一泊するつもりの楊震は、夜中に訪問者を迎えた。

――王密(おうみつ)か。

知人である。楊震が荊州刺史であったとき、茂才(もさい、秀才)に挙げたのが王密であり、楊震の推挙をうけた王密は昌邑の令になっていたのである。

久闊(きゅうかつ)を叙した王密はおもむろに懐から黄金十斤(きん)をとりだして楊震に遺(すす)めた。

しばらく黙っていた楊震がようやく口をひらいた。このときの楊震のことばは絶妙といってよい。

――故人(こじん)、君を知る。君、故人を知らざるは何ぞや。

故人とは、死者のほかに昔なじみという意味があり、この場合、楊震自身を指している。すなわち、わたしは君という人間を認めて推挙したのに、君はわたしがどういう人間であるかわかってくれないのは、どうしたことか、といったのである。

だが、この黄金に礼意をこめたつもりの王密は、

「暮夜(ぼや)のことです。たれも知りはしません」

と、軽い口調でいった。室内には楊震と自分しかおらず、しかも夜中であるから、黄金のやりとりに気づく者はひとりもいない。それゆえ、安心してお納めください、と王密はいったつもりである。

しかし、である。楊震は表情に厳色(げんしょく)をくわえた。

「天知る。地知る。我(われ)知る。子(なんじ)知る。たれも知らないとどうして謂(い)えるのか」

これが『四知(しち)』である。

どんな密事でも天が知り、地が知り、当事者が知っている。それが悪事であれば露見しないことがあろうか。

はっと顔色を変えて、黄金を懐にしまった王密は、愧羞(きしゅう)にまみれて退出した。

悪事ばかりでなく善行もやはり四者が知るのではあるまいか。

…

この『四知(しち)』という訓言(くんげん)を遺した人物の生死が、きたるべき時代の祆変(ようへん)と祉福(ちふく)とを予感させているようにおもわれるが、どうであろう。

…

東萊太守となった楊震は、こんどは涿郡の太守に転じ、元初四年(117年)に中央にもどった。

このころひとりの少年が黄門(こうもん、宦官)の従官になっていた。氏名を、

曹騰(そうとう)

という。かれの孫こそ、戦乱の世に雄張(ゆうちょう)した曹操である。

…



From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知

厳光と光武帝【三国志】


話:宮城谷昌光
『三國志』

…

光武帝は、いわゆる優秀な官吏に疑念をいだいた人である。かれらはそろって博識多聞でありながら、王莽の偽善をみぬけず、王朝を崩壊させてしまった。知識の力は邪悪をのぞいて正義を樹(た)てる力にはならない。ほうとうに政府にとって必要な人とは、孝廉(こうれん)から心力を得た人をいうのではないか。つまり光武帝は道徳を重視したのである。

光武帝はそういう皇帝であったから、王莽に手を貸さなかった盛祥な清尚(せいしょう)な人物を求めた。

…

このころ、厳光(げんこう)と梁鴻(りょうこう)を知らぬ人はいない。ふたりは隠遁(いんとん)の人である。隠れつづけようとしたがゆえに、高名になった。

厳光はあざなを子陵(しりょう)といい、とくに有名であるが、どういうわけか若いころから高名であった。光武帝とともに遊学したことがあり、光武帝が即位すると、姓名を変えて身を隠し、むろん友人である皇帝に会いにゆこうとしなかった。光武帝は、

――厳子陵は賢明であった。

と、憶(おも)いだして、会いたくなり、かれが行方不明であると知ると人相書きをつくらせて捜させた。のちに斉国から、

「いつも羊裘(ようきゅう)を着て、沢で釣りをしている男がいます」

という報告がとどけられた。もしやその男が厳光ではないかと疑った光武帝は、安車(あんしゃ、すわって乗ることができる老人用の車)と玄(くろ)と纁(うすあか)の絹を用意させて、使者を斉国へ遣(や)り、男を招聘しようとした。

使者が三度往復して、ようやく男が光武帝のいる洛陽に到着した。

――やはり、厳光か。

喜んだ光武帝は、この遠来の旧友を北軍の舎宅に泊まらせ、牀褥(しょうじょく、寝台と布団)をあてがい、皇帝の飲食をつかさどる太官に朝夕の膳を進めさせた。

司徒の侯覇(こうは)も厳光とは旧知のあいだがらであったので、使いを遣って厳光に書翰をとどけさせた。使者は書翰をわたしたあと、

「わが公(きみ)は、先生が到着なさったときき、すぐにもお伺いしたいとおもっていますが、仕事に追われ、参ることができません。どうか日暮れにでも、お話しにおでましください」

と、鄭重にいった。しばらく黙っていた厳光は、木の札を投げあたえた。いう通り、そこに書け、と厳光は無言で命じた。

「君房足下(くんぼうそっか)――」

君房とは、侯覇のあざなである。ちなみに侯覇が司徒であったのは、建武五年から十三年までのあいだである。

「位が鼎足(ていそく、三公)に至ったことは、はなはだ善(よ)ろしい。仁を懐(いだ)いて義を輔(たす)ければ、天下が悦(よろこ)ぶ。阿諛(あゆ)して従順であると、かならず領(くび)を絶(た)たれる」

それは、仁義を忘れなければ民の喜ぶ政治をおこなえるが、皇帝の機嫌をとって何でもはいはいと答えていると自分の首がなくなるぞ、というもので、忠告とも皮肉ともつかぬ内容である。

侯覇はその短信を一読するや、光武帝に奏上した。木の札に書かれた文を侍臣に読ませた光武帝は、笑いながら、

「狂人めが。昔と変わらぬな」

と、いい、その日のうちに厳光の宿舎に行幸(ぎょうこう)した。

光武帝の到着を役人に告げられても厳光は臥(ね)たままで起きようとしなかった。それを知った光武帝はみずから厳光の室(へや)までゆき、臥ている厳光の腹を撫でつつ、

「おい、おい、子陵よ、わしを助けて天下を治めてくれぬか」

と、たのんだ。ところが厳光はねむったままで応(こた)えず、しばらくしてから目をひらいて光武帝を熟視した。厳光は口をひらいた。

「昔、唐堯(とうぎょう、帝堯)の徳はいちじるしかったにもかかわらず、帝位をゆずられそうになった巣父(そうほ)は、けがれたことをきいたと耳を洗った。士にはもともと志(こころざし)がある。どうしてそのようなことをいってわたしに迫るのか」

巣父は古代の隠士である。後世に流布された話では、帝堯が許由(きょゆう)という賢人に帝位をゆずろうとしたところ、許由は耳がけがれたといい、穎水(えいすい)で耳を洗った。木の上で生活していた巣父は、それを知って、水がけがれたといって穎水を渡らなかったという。

厳光はわざと人名をまちがえたというより、巣父が耳を洗ったという別系統の話があったとおもったほうがよい。

そういわれた光武帝は、

「子陵よ、わしはけっきょくなんじを下におくことができそうにない」

と、いい、室をあとにして車輿(くるま)に乗り、嘆息して去った。厳光を臣下にすることをなかばあきらめた光武帝ではあるが、すぐに厳光を帰さず、宮中に招き、昔をなつかしみつつ語りあって数日をすごした。

光武帝はしんみりと厳光に問うた。

「朕(わし)は昔とくらべてどうであろうか」

「陛下は往時よりもましになった」

この感想は厳光のひそかな礼意であったかもしれない。諛媚(ゆび)とはかけはなれたところにいる厳光の率直な感想に、光武帝は喜びをおぼえたにちがいない。

ふたりはともに偃臥(えんが)した。夜中に厳光の足が光武帝の腹のうえに乗った。すると翌日、毎夜天文を観察している太史が、

「客星(かくせい)が玉座の星を犯しました。それも、はなはだ急でありました」

と、奏上した。光武帝は笑った。

「朕の旧友である厳子陵がいっしょに臥(ね)ただけである」

それから厳光は、皇帝を諫(いさ)める官職というべき諫議大夫(かんぎたいふ)に任ぜられたが、拝受せず、南へゆき、富春(ふしゅん)山(杭州)で耕作をおこなってすごした。

後世の人は厳光が釣りをおこなっていたところを、

「厳陵瀬(げんりょうらい)」

と、なづけた。建武十七年(41年)、ふたたび特別に召されたが、洛陽へはゆかなかった。80歳で、故里の会稽郡余姚(よよう)県の家で亡くなった。

人々はそういう厳光の生きかたをうらやむと同時に、皇帝の頼みをもことわって志をつらぬいた厳光の清尚(せいしょう)さを尊敬した。ちなみに、三国と晋の時代を生きた皇甫謐(こうほひつ)によって著(あら)わされた『高士伝』にも、厳光は採(と)られている。

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From:
宮城谷昌光
『三國志』