2018年5月7日月曜日
楊喜、楊宝、そして楊震【三国志『四知』】
話:宮城谷昌光
『三國志』
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劉邦と項羽が争っていた時代に功があって、楊喜(ようき)は赤泉(せきせん)侯に封じられた、と伝えられる。どのような功があったのか、といえば、こうである。
項羽の軍が大敗した垓下の戦いのあとに、項羽は逃げた。それを劉邦配下の騎兵が5,000騎で追った。そのなかの騎将のひとりが楊喜である。楊喜は28の従騎しかいない項羽にもっとも近づいたとき、目を瞋(いか)らせた項羽の叱声を浴びると、人馬もろともに驚いて、数里もひきさがった。しかし気をとりなおして、また追撃した。
烏江(うこう)にさしかかった項羽は、船に乗れば長江の対岸に逃げ去ることができるのに、馬をおりたものの船には乗らず、短兵をもって、迫りくる敵兵と戦った。そのとき項羽ひとりが撃殺した漢兵の数は数百であった。やがて項羽が疲れたのか、それともおのれの強さに虚しさをおぼえたのか、敵兵の眼前で、自分の首を刎ねて死んだ。
その首に飛びついたのは王翳(おうえい)という者であったが、首のない屍体に数十人が殺到した。項羽の体は四分五裂したといってよい。項羽の手でも足でももぎとれば、懸賞というべき千金と万戸の邑(ゆう)をわけあうことができるのである。
ついに王翳のほかに四人が項羽の体の一部を得た。その四人のなかに楊喜(ようき)がいた。執念の人ということができよう。けっきょくその五人はすべて封じられて侯となった。すさまじい話である。
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居摂(きょせつ)二年に王莽(おうもう)は楊宝(ようほう)を召しだそうとして、華陰に人をつかわした。
――なまじ盛名があるので凶徳の手がおよんできた。と、おもった楊宝は家族や門弟に、「道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん」と、いい、かれらをともなってゆくえをくらましてしまった。楊宝は王莽の政権を認めなかった。
いつ楊宝が華陰に帰ってきたのかはあきらかではないが、おそらく王莽の死後であり、光武帝が王朝をひらいてからであろう。
光武帝は、いわゆる優秀な官吏に疑念をいだいた人である。かれらはそろって博識多聞でありながら、王莽の偽善をみぬけず、王朝を崩壊させてしまった。知識の力は邪悪をのぞいて正義を樹(た)てる力にはならない。ほうとうに政府にとって必要な人とは、孝廉(こうれん)から心力を得た人をいうのではないか。つまり光武帝は道徳を重視したのである。
光武帝はそういう皇帝であったから、王莽に手を貸さなかった盛祥な清尚(せいしょう)な人物を求めた。楊宝のもとにも公車(こうしゃ)をやり、かれを召しだそうとした。しかしながら楊宝は、「わたしは老いており、しかも病がちです」と、ことわりを述べ、その車に乗らなかった。
楊宝は官界にあって名誉を得たい人ではなく、壮年のうちに隠居してしまったのである。老いた、というのは、謝辞を角だてぬ修辞のひとつにすぎぬであろう。いうまでもなく楊宝は死ぬまで官界に足を踏みいれなかった。
楊宝の晩年に生まれたのが、楊震(ようしん)である。
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華陰における楊震の評判はたちまち高くなった。
「明経博覧(めいけいはくらん)」
と、いわれた。明経とは、経書を明らかに知っているということで、博覧とは、広く書物を読んで物事に通じているということである。驚異的な知識量をそなえた楊震について、多くの儒者が、
「楊伯起は関西(かんせい)の孔子である」
と、語るようになった。関西、関東といういいかたは古くからあり、関とは函谷関をいう。華陰は函谷関より西にあるから、関西なのである。
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教授を業(なりわい)とした楊震は父の生き方にならったのか、官界に関心をもたず、郡の召しだしをこばみつづけた。
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湖県で門人に顔をむけつづけている楊震は、洛陽のある東の空を遠望せず、和帝の成長にまったく無関心であるかのようであった。そういう楊震をみて人々は、
「晩暮(ばんぼ)だ」
と、いった。もうあの先生は人生の夕暮れを迎えている、とささやきあったのだる。実際、楊震は五十歳に近づきつつある。かれはときどき河水のながれをみながら、
――逝(ゆ)く者は斯(か)くの如きか。
と、つぶやいたであろう。懊悩がないことはない。
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――わたしの生きかたは、あいまいだな。
自分をきびしく省(かえりみ)れば、そうである。楊震は官界を無視しつつも、厳光や梁鴻のようには生きられない。楊震のなかには浮沈する顕揚欲がある。地方にいて学者としての高名さを保っていることが、自尊心のついえをふせいでいるにすぎない。
「孔子は五十歳になって天命を知った。わたしも五十歳になれば、天命を知らねばならない」
楊震の心の声はそういうものであった。
その五十歳になったとき、ふしぎなことがあった。鸛雀(こうのとり)の群れが三匹の鱣(うみへび)をくわえて講堂のまえに飛来した。奇異の感に打たれた塾長がその鱣を取って、楊震にすすめ、
「鱣(うみへび)は、卿大夫(けいたいふ)の服の文様です。三つの数は、上台、中台、下台という三台の星、すなわち三公をあらわしています。先生はこれより昇進なさいます」
と、祝った。ちなみに、このことがあって、後世の者は講堂のことを鱣堂(せんどう)ともいうようになった。
――これが天命か。
楊震は豁然(かつぜん)とさとり、はじめて州郡の役所に出仕した。だが、楊震の身の上に奇異なことは生じないで、年月がおだやかにすぎていった。
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鄧騭(とうしつ)は大将軍を拝命する。この大将軍は三公より上位にあるとおもえばよい。このとき王朝は羌(きょう)族の大叛乱という国難に直面していた。
叛乱の鎮圧に失敗して帰還した鄧騭(とうしつ)は、王朝に材幹(さいかん)が不足していることを痛感し、地方にいる賢人を中央に辟召(へきしょう)するという果断を実行した。群英が中央に集合した。王朝に新風が吹きこんだようであった。
楊震も群英のひとりであった。
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鄧騭(とうしつ)は辟召(へきしょう)した九人のなかで、楊震、朱寵(しゅちょう)、陳禅(ちんぜん)、張皓(ちょうこう)という四人を自分の幕下に置いた。
それにしても、この四人はそろって年齢が高い。全員が六十歳に近かったといってもまちがいではないであろう。とはいえ、この四人は学問で心胆をきたえてきている。陳禅と張皓は『春秋』などを修めた学友であった。学びつづける者は老いぬのである。
やがて楊震は襄城(穎川郡)の令に転出し、ついで荊州刺史(監察長官)となった。荊州は広大である。南陽郡、南郡、武陵郡、江夏郡、長沙郡、零陵郡、桂陽郡という七郡をあわせて荊州というのである。
それから楊震は山東半島の東萊(とうらい)郡の太守に転ずることになった。
「四知(しち)」の逸話は、ここで生じた。
※「四知(しち)」とは、四者が知る、ということである。では、四者とは何であるのか。またその四者が何を知るというのか。
荊州から東萊郡へ赴任する楊震は豫州にはいり、それから兗州へむかった。兗州の山陽郡に昌邑(しょうゆう)という大きな邑(まち)がある。そこで一泊するつもりの楊震は、夜中に訪問者を迎えた。
――王密(おうみつ)か。
知人である。楊震が荊州刺史であったとき、茂才(もさい、秀才)に挙げたのが王密であり、楊震の推挙をうけた王密は昌邑の令になっていたのである。
久闊(きゅうかつ)を叙した王密はおもむろに懐から黄金十斤(きん)をとりだして楊震に遺(すす)めた。
しばらく黙っていた楊震がようやく口をひらいた。このときの楊震のことばは絶妙といってよい。
――故人(こじん)、君を知る。君、故人を知らざるは何ぞや。
故人とは、死者のほかに昔なじみという意味があり、この場合、楊震自身を指している。すなわち、わたしは君という人間を認めて推挙したのに、君はわたしがどういう人間であるかわかってくれないのは、どうしたことか、といったのである。
だが、この黄金に礼意をこめたつもりの王密は、
「暮夜(ぼや)のことです。たれも知りはしません」
と、軽い口調でいった。室内には楊震と自分しかおらず、しかも夜中であるから、黄金のやりとりに気づく者はひとりもいない。それゆえ、安心してお納めください、と王密はいったつもりである。
しかし、である。楊震は表情に厳色(げんしょく)をくわえた。
「天知る。地知る。我(われ)知る。子(なんじ)知る。たれも知らないとどうして謂(い)えるのか」
これが『四知(しち)』である。
どんな密事でも天が知り、地が知り、当事者が知っている。それが悪事であれば露見しないことがあろうか。
はっと顔色を変えて、黄金を懐にしまった王密は、愧羞(きしゅう)にまみれて退出した。
悪事ばかりでなく善行もやはり四者が知るのではあるまいか。
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この『四知(しち)』という訓言(くんげん)を遺した人物の生死が、きたるべき時代の祆変(ようへん)と祉福(ちふく)とを予感させているようにおもわれるが、どうであろう。
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東萊太守となった楊震は、こんどは涿郡の太守に転じ、元初四年(117年)に中央にもどった。
このころひとりの少年が黄門(こうもん、宦官)の従官になっていた。氏名を、
曹騰(そうとう)
という。かれの孫こそ、戦乱の世に雄張(ゆうちょう)した曹操である。
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宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知
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