2018年5月7日月曜日
厳光と光武帝【三国志】
話:宮城谷昌光
『三國志』
…
光武帝は、いわゆる優秀な官吏に疑念をいだいた人である。かれらはそろって博識多聞でありながら、王莽の偽善をみぬけず、王朝を崩壊させてしまった。知識の力は邪悪をのぞいて正義を樹(た)てる力にはならない。ほうとうに政府にとって必要な人とは、孝廉(こうれん)から心力を得た人をいうのではないか。つまり光武帝は道徳を重視したのである。
光武帝はそういう皇帝であったから、王莽に手を貸さなかった盛祥な清尚(せいしょう)な人物を求めた。
…
このころ、厳光(げんこう)と梁鴻(りょうこう)を知らぬ人はいない。ふたりは隠遁(いんとん)の人である。隠れつづけようとしたがゆえに、高名になった。
厳光はあざなを子陵(しりょう)といい、とくに有名であるが、どういうわけか若いころから高名であった。光武帝とともに遊学したことがあり、光武帝が即位すると、姓名を変えて身を隠し、むろん友人である皇帝に会いにゆこうとしなかった。光武帝は、
――厳子陵は賢明であった。
と、憶(おも)いだして、会いたくなり、かれが行方不明であると知ると人相書きをつくらせて捜させた。のちに斉国から、
「いつも羊裘(ようきゅう)を着て、沢で釣りをしている男がいます」
という報告がとどけられた。もしやその男が厳光ではないかと疑った光武帝は、安車(あんしゃ、すわって乗ることができる老人用の車)と玄(くろ)と纁(うすあか)の絹を用意させて、使者を斉国へ遣(や)り、男を招聘しようとした。
使者が三度往復して、ようやく男が光武帝のいる洛陽に到着した。
――やはり、厳光か。
喜んだ光武帝は、この遠来の旧友を北軍の舎宅に泊まらせ、牀褥(しょうじょく、寝台と布団)をあてがい、皇帝の飲食をつかさどる太官に朝夕の膳を進めさせた。
司徒の侯覇(こうは)も厳光とは旧知のあいだがらであったので、使いを遣って厳光に書翰をとどけさせた。使者は書翰をわたしたあと、
「わが公(きみ)は、先生が到着なさったときき、すぐにもお伺いしたいとおもっていますが、仕事に追われ、参ることができません。どうか日暮れにでも、お話しにおでましください」
と、鄭重にいった。しばらく黙っていた厳光は、木の札を投げあたえた。いう通り、そこに書け、と厳光は無言で命じた。
「君房足下(くんぼうそっか)――」
君房とは、侯覇のあざなである。ちなみに侯覇が司徒であったのは、建武五年から十三年までのあいだである。
「位が鼎足(ていそく、三公)に至ったことは、はなはだ善(よ)ろしい。仁を懐(いだ)いて義を輔(たす)ければ、天下が悦(よろこ)ぶ。阿諛(あゆ)して従順であると、かならず領(くび)を絶(た)たれる」
それは、仁義を忘れなければ民の喜ぶ政治をおこなえるが、皇帝の機嫌をとって何でもはいはいと答えていると自分の首がなくなるぞ、というもので、忠告とも皮肉ともつかぬ内容である。
侯覇はその短信を一読するや、光武帝に奏上した。木の札に書かれた文を侍臣に読ませた光武帝は、笑いながら、
「狂人めが。昔と変わらぬな」
と、いい、その日のうちに厳光の宿舎に行幸(ぎょうこう)した。
光武帝の到着を役人に告げられても厳光は臥(ね)たままで起きようとしなかった。それを知った光武帝はみずから厳光の室(へや)までゆき、臥ている厳光の腹を撫でつつ、
「おい、おい、子陵よ、わしを助けて天下を治めてくれぬか」
と、たのんだ。ところが厳光はねむったままで応(こた)えず、しばらくしてから目をひらいて光武帝を熟視した。厳光は口をひらいた。
「昔、唐堯(とうぎょう、帝堯)の徳はいちじるしかったにもかかわらず、帝位をゆずられそうになった巣父(そうほ)は、けがれたことをきいたと耳を洗った。士にはもともと志(こころざし)がある。どうしてそのようなことをいってわたしに迫るのか」
巣父は古代の隠士である。後世に流布された話では、帝堯が許由(きょゆう)という賢人に帝位をゆずろうとしたところ、許由は耳がけがれたといい、穎水(えいすい)で耳を洗った。木の上で生活していた巣父は、それを知って、水がけがれたといって穎水を渡らなかったという。
厳光はわざと人名をまちがえたというより、巣父が耳を洗ったという別系統の話があったとおもったほうがよい。
そういわれた光武帝は、
「子陵よ、わしはけっきょくなんじを下におくことができそうにない」
と、いい、室をあとにして車輿(くるま)に乗り、嘆息して去った。厳光を臣下にすることをなかばあきらめた光武帝ではあるが、すぐに厳光を帰さず、宮中に招き、昔をなつかしみつつ語りあって数日をすごした。
光武帝はしんみりと厳光に問うた。
「朕(わし)は昔とくらべてどうであろうか」
「陛下は往時よりもましになった」
この感想は厳光のひそかな礼意であったかもしれない。諛媚(ゆび)とはかけはなれたところにいる厳光の率直な感想に、光武帝は喜びをおぼえたにちがいない。
ふたりはともに偃臥(えんが)した。夜中に厳光の足が光武帝の腹のうえに乗った。すると翌日、毎夜天文を観察している太史が、
「客星(かくせい)が玉座の星を犯しました。それも、はなはだ急でありました」
と、奏上した。光武帝は笑った。
「朕の旧友である厳子陵がいっしょに臥(ね)ただけである」
それから厳光は、皇帝を諫(いさ)める官職というべき諫議大夫(かんぎたいふ)に任ぜられたが、拝受せず、南へゆき、富春(ふしゅん)山(杭州)で耕作をおこなってすごした。
後世の人は厳光が釣りをおこなっていたところを、
「厳陵瀬(げんりょうらい)」
と、なづけた。建武十七年(41年)、ふたたび特別に召されたが、洛陽へはゆかなかった。80歳で、故里の会稽郡余姚(よよう)県の家で亡くなった。
人々はそういう厳光の生きかたをうらやむと同時に、皇帝の頼みをもことわって志をつらぬいた厳光の清尚(せいしょう)さを尊敬した。ちなみに、三国と晋の時代を生きた皇甫謐(こうほひつ)によって著(あら)わされた『高士伝』にも、厳光は採(と)られている。
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