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2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻




…

九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。

…

書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。





…


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌

宇宙の最初の『巨大な鶏卵』【中国古代神話】


From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1





盤古(ばんこ)


宇宙の最初、そこには天地も日月もなく、それは暗黒の、混沌たる一つのかたまり、いわば巨大な鶏卵のようなものであった。

――やがて、そのなかに生き物が一つ芽生え、1万8千年かかって成長をとげ、盤古(ばんこ)という神になった。かれは暗黒のなかにじっとせぐくまって、生きておった。


ある日、すさまじい音がして突然に卵が割れ、内部の軽くて清らかな成分は、ふわふわと雲をなし上昇して天空となり、重くて濁った成分は、下に沈み固まって大地となった。

そこで自然に盤古(ばんこ)は突っ立って、頭と両手で天をささえ、両足で大地を踏みしめる形になった。

さて宇宙はすみやかに膨張し、毎日、天は一丈ずつ高くなり、地は一丈ずつ厚くなり、また盤古(ばんこ)の身もずんずん大きくなり、この膨張が1万8千年のあいだつづいた。

――今や、高い青空と広い大地との中間に、途方もない巨人たる盤古(ばんこ)が、天地の柱として突っ立っているのであった。


盤古(ばんこ)は、暗く静まりかえった広大な宇宙のただなかに、まさしく孤独のままで、辛抱づよく天空をささえ、長い時間を耐えたが、やがて疲れ果て、横たわって死んだ。

――すでに天地は固まっていて、この巨人の柱が抜けても崩れなかった。

盤古(ばんこ)が死ぬと、そのいまわのきわの声は雷となり、息は風となり、左眼は太陽に、右眼は月に、手足は山々に、血潮は川になるなど、身体の各部がすべてそれぞれに変化して、天地間の万物になった。


五色の石


天地が開け、山川草木や虫魚鳥獣はでそろったが、まだ人間はいなかった。

そのとき、女媧(じょか)という神が、土を水でこねて、初めて人間を造った。一つ一つ丹念に造っているわけにはゆかないので、しまいには、縄を泥に浸して引き上げ、したたり落ちた泥を人間にした。だから初期に造られたのは上等な人間になり、あとで造られたのは下賤の人間になった。


また、このころ、水神の共工(きょうこう)と火神の祝融(しゅくゆう)がケンカをして、ものすごい闘争を演じたが、ついに敗れた共工は不周(ふしゅう)山に頭を打ちつけて死んだ。その激しさに山が割れ、地が裂け、天空にヒビがはいった。

そこで女媧(じょか)は川の底をさぐって五色の石を拾い集め、火にかけて練り合わせ、これで天のヒビをつくろい、また巨大な亀を殺し、その四脚を切り取って、これを大地の四方に立て、天地の間の柱とした。

これで天地は崩れずに済んだが、このときから天は西北に傾き、そのため日月星辰は東にでて西に沈み、また地は東南にくぼみができて、そのため百川はここに流れ込み、海をなすようになった。


帝俊


人間生活に文明をもたらし、文化を開いた神々は、黄帝(こうてい)・神農(しんのう)・伏羲(ふくぎ)・帝嚳(ていこく)・帝俊(ていしゅん、舜)などであり、「三皇五帝」と呼ばれる諸神もしくは諸英雄がそれである。

そして、これらのなかでも最も重要なのは帝俊(ていしゅん)である。


帝俊(ていしゅん)には三妻があった。ひとりは娥皇(がこう)で、これは三身国を生んだ。その国人はみな一頭三身で、五穀をつくり、また虎・豹・熊などを使いならした。

もうひとりの妻は羲和(ぎか)で、10人の太陽神を生み、東海の海のはずれに住み、毎日ひとりずつ太陽を洗い上げては空にのぼすのであった。

もうひとりの妻は常儀(じょうぎ)で、この人は12月の月神を生み、西方の野に住んで月神のせわをした。


帝俊には后謖(こうしょく)や義均(ぎきん)をはじめ、なお多くの子孫があり、衣食住の法や工芸美術の道を人に教え、文明を大いに進歩させた。

なお帝俊の世には、美しい五彩の鳥が東方の野に舞い遊んでいたが、後世に太平の象徴と認められた鳳凰というのは、この鳥の一種である。


…

以上に述べたのは、中国の古代神話の一部分であるが、むかし中国ではこうした怪奇な物語は四書五経のような正統の経書に記録されず、神話伝説の類をおさめたものは雑説とか小説とかよばれる著述としてあつかわれた。

つまり本格的な学問や教養の対象とするに足りない、雑多な、価値の低い伝承とみられたのである。

…

From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1



2018年5月9日水曜日

じつは生きていた杜根【三国志】


From:
宮城谷昌光
『三國志』




…

鄧(とう)太后の摂政がつづいている。安帝はすでに27歳である。それでも鄧太后はこの皇帝に新政をゆるさない。

政柄(せいへい)の所在に疑問をおぼえ、匡諌(きょうかん)の言を揚げた者がいなかったわけではない。それに関しては杜根(とこん)がもっとも有名である。

杜根は潁川(えいせん)郡定陵(ていりょう)県の出身で、父の杜安(とあん)はあざなが伯夷(はくい)であることからわかるように、少年のころから志節があり、13歳で太学にはいり、奇童とよばれた。のちに巴(は)郡太守となり、すぐれた行政をおこなったので天下にその名が知られた。

かれの志節は杜根にうけつがれたといってよい。杜根は永初(えいしょ)元年(107年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、郎中(ろうちゅう)となった。郎とは男子のことであり、古くは君主に近侍する者を郎中といったが、このころは新人官僚であるとおもえばよい。王朝では鄧太后が実験をにぎり、外戚の鄧氏が格別に恵顧(けいこ)されている実情をみて、

――帝は新政をおこなえぬほど幼くはない。

と、杜根はおもい、政事を帝に奉還すべき旨を上書して直諫(ちょっかん)した。若い正義感がそうさせたのであろう。

このときの鄧太后の怒りはすさまじかった。すぐさま杜根を執(とら)えさせて、縑(きぬ)の嚢(ふくろ)にいれ、殿上において撲殺(ぼくさつ)させた。嚢中(のうちゅう)の杜根はそれで息が絶えたはずであるが、じつは生きていた。執法者が杜根の声名を耳にしていて、

「手加減して叩け」

と、撲打する者にささやいたからである。

嚢は城外に運びだされた。そこで杜根は蘇生した。九死に一生を得た杜根であるから、あわてて逃げだしてもよさそうなのに、そうしなかったのは、かれの知恵が浅くない証拠である。

――太后は用心深い。かならず検視の者をよこすはずだ。

はたして、三日後に検視の役人がきた。杜根の佯死のすさまじさは、眼中に蛆(うじ)を生じさせたことである。むろんその蛆は近くの屍体(したい)から拾ってきたものであろう。精気のぬけた蒼顔(そうがん)にうごめく蛆をみた役人は、小さくうなずき、宮中にもどって、

「杜根はまちがいなく死んでいました」

と、鄧太后に復命した。

「さようか」

鄧太后は残酷さを嗜(この)む人ではない。しかし杜根のようにかるがるしく直言を呈する者が続出してはこまるので、みせしめのために、撲殺という宮中の耳目をそばだたせる処置をあえておこなったのである。

――杜根は何もわかっておらぬ。

鄧太后は荼(にがな)を口に哺(ふく)んだような顔つきをした。幼少のころの安帝は徳の豊かさを人に感じさせた。ところが、人の評価に辛さをもつ鄧太后の目からすると、成長した安帝は失徳者であった。安帝の教育をおこなうべき乳母も姦(わる)い。

王聖(おうせい)

という乳母には淑徳(しゅくとく)が欠けている。国難のさなかにいるのに、安帝に親政をおこなわせたらどうなるのか、火をみるよりもあきらかである。杜根にはそれがわかっていない、と鄧太后の胸は怒りでふるえるが、そのふるえには悲しみがまじっている。安帝を立てたのは、ほかでもない、鄧太后自身なのである。

安帝が聖徳をしめし、群臣を心服させ、人民に恵恤(けいじゅつ)をほどこし、蛮夷をなつかせ、鄧太后をうやまってくれる人であるなら、明日にでも政事を奉還するであろう。そうしないのは、鄧太后から危機意識が去らないからである。

――わたしと兄が国権を掌握しているかぎり、この王朝は頽弊(たいへい)しない。

楽観も悲観もしない鄧太后には自信があり、使命感さえある。王朝の運営者は驕ってはならないという自覚をもっていることも、和帝のころに専横(せんおう)をおこなった竇(とう)氏とはちがう。和帝の手足となって働き、竇氏を覆滅させた鄭衆(ていしゅう)を知っている鄧太后は、

――宦官(かんがん)には用心する必要がある。

ということさえ知っている。かれらをみくびると、突如、足もとをすくわれる。鄧太后には政治感覚がそなわっていたとみてよいであろう。その感覚が、杜根を撲殺する、という恫喝(どうかつ)を必要とした。事実、それ以来、百官や群臣から鄧太后の摂政を非難する声は揚がらなかった。



ところで、死亡したことになった杜根はどうしたか。

――これで追逮(ついたい)はない。

と、みきわめるや、逃竄(とうざん)した。杜根の郷里は潁川郡にあるが、もとよりそこに帰ることはできない。洛陽から南に奔(はし)ったことにさほどのわけがあろうとはおもわれないが、北方や西方にゆきたくなかったのは、異民族による寇擾(こうじょう)がたえまなかったせいであろう。

かれは荊州にはいり、南陽郡をぬけて南部に到った。南郡の郡府は江陵にあるが、そこまでゆかないうちに、宜城(ぎじょう)という大きな県の酒家に傭(やと)われた。宜城は名酒の産地である。怪しまれることなくその家に住み込んだ杜根は、なんと15年もそこですごしたのである。ただし酒家の主人はすくなからぬ人と接し、多くの人を使っているので、人をみる目をもっており、杜根に目をとめて、

――並の賢さではない。

と、看破し、ここにながれてきたわけを問わずに、かれを礼遇するようになった。



鄧氏の勢力が王朝から一掃されたあと、安帝の側近たちは、杜根の忠死について述べたので、安帝は杜根が死んだものとおもい、天下に布告して、せめて杜根の子孫について明らかにせよと命じた。

そのころ杜根が故郷の定陵県に帰ってきたので、県では大騒ぎになった。杜根の子孫についてしらべにきた中央の役人は、死んだはずの杜根に会って仰天し、すぐさま洛陽に報(しら)せをとどけた。

「杜根は生きていると――」

喜んだ安帝は公車(こうしゃ)をさしむけ、杜根を招聘(しょうへい)すると、ただちに侍御史(じぎょし)に任じた。宮中の取り締まりをおこなうところを御史台(ぎょしだい)といい、侍御史はそこの属官である。

杜根は安帝の崩御のあと、順帝(保)のときに、斉陰(せいいん)太守となり、それから官を去り家に還って78歳で歿した。かれなりに道義に遵(じゅん)じた生きかたをしたのであり、志節をつらぬいたといえるであろう。

…

From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 没落



2018年5月7日月曜日

梁鴻と、その妻【三国志『挙案斉眉』】


話:宮城谷昌光
『三國志』

…

厳光(げんこう)ほど有名ではないが、梁鴻(りょうこう)も特色のある人で、かれの妻は「挙案斉眉(きょあんせいび)」という語とともに、人々に感嘆された。

深趣(しんしゅ)をもった夫婦の話である。

梁鴻の父は王莽(おうもう)のときに城門校尉(こうい、首都の城門の警備)となり、脩遠伯(しゅうえんはく)に封ぜられた。けっきょく北地で亡くなったが、そのとき梁鴻はまだ幼く、にわかに乱世になったため、父の遺骸を棺(ひつぎ)に斂(おさ)められず、席(むしろ)で巻いただけで葬った。

のちに梁鴻は太学(たいがく)で学んだ。ちなみに洛陽に太学が設けられたのは建武五年(29年)のことである。当然、梁鴻の入学はそれ以後ということになる。家は貧しかったが、節操を尚(たっと)び、博覧であり、通じないものはないほどであった。

学業を畢(お)えてから、上林苑(じょうりんえん)のなかで豚を飼って暮らしていた。上林苑は洛陽の西、洛水(らくすい)の北岸にある。あるとき火を消し忘れて、その火がほかの舎(いえ)におよんでしまった。梁鴻は焼失した舎の主人をたずねて、損害の程度を問い、そのすべてを豚でつぐなうことにしてもらった。だが、主人は、豚を全部もらっても足りぬ、という。

「ほかに財はありません。わたしが小作になって働き、つぐなわしてください」

と、梁鴻はたのんだ。

「いいだろう」

そこで梁鴻は朝夕おこたらずに勤めた。尋常な勤めぶりではなかった。隣家の老人たちは人を視(み)る目をもっている。かれらは梁鴻がなみの人ではないとおもい、そろって舎の主人を責め、梁鴻は人の上に立つ人であると称(ほ)めた。主人はようやく梁鴻の異能に敬意をはらい、もらった豚をすべて還そうとした。が、梁鴻はうけとらず、上林苑を去って故里の扶風(ふふう)郡平陵(へいりょう)県に帰った。

扶風郡は右扶風(ゆうふふう、うふふう、とも読む)といったほうがよく、平陵県は前漢の首都であった長安から遠くない。その地の名家の主(あるじ)は、梁鴻の高節を慕い、娘をもらってもらいたいと申しこんだ。梁鴻はすべてをことわり、娶(めと)らなかった。

県内にある孟(もう)氏という家に娘がいた。容姿がまことに悪い。太っていて醜く、しかも色が黒い。ただし力は石臼(いしうす)をもちあげるほど強い。この娘はえりごのみをして嫁にゆかぬまま、30歳になった。

「なぜ、嫁にゆかないのか」

と父母にきびしく問われた娘は、

「梁伯鸞(はくらん)のような賢い人にとつぎたい」

と、うそぶいた。伯鸞は梁鴻のあざなである。うわさが梁鴻の耳にとどいた。何をおもったか、梁鴻はこの娘を娶ることにしたのである。喜んだ娘は木綿の着物に麻の靴、それに針箱、紡績の道具を作ってもらい、それらを嫁入り道具のなかに納めてから、絹の着物をまとい、着飾って梁鴻の家の門にはいった。

それから七日たっても梁鴻は口をきかなかった。妻は牀下(しょうか)にひざまずいた。

「ひそかに聞いたところでは、あなたは理想が高く、いくつかの縁談をしりぞけたそうですね。わたしもまたたやすく嫁にゆきませんでした。今こうして、あなたはわたしを択(えら)んでくださったのに、わたしのどこがいけないのでしょうか」

そう問われた梁鴻はようやく口をひらいた。

「わたしは裘褐(きゅうかつ)という質素な衣服を着て、ともに深山に隠れて暮らす者を求めていた。ところがおまえはぜいたくな綺縞(きこう、絹織物)を衣(き)て、白粉(おしろい)と眉墨(まゆずみ)で化粧をしている。そういう女をわたしが気にいるとおもうか」

すると妻はさわやかに破顔した。

「あなたの志を観ようとしただけです。わたしは隠れ栖(す)むための服をもってまいりました」

しりぞいた妻は、さっそく髪を引っ詰めにし、木綿の着物に着替え、針と糸を手にして、ふたたび夫のまえにあらわれた。それをみて大いに喜んだ梁鴻は、

「それでこそ梁鴻の妻である。いまからわたしに仕えることができよう」

と、いい、妻にあざなをつけて、徳曜(とくよう)、とよんだ。妻の本名は孟光(もうこう)である。

しばらく暮らしたあと、妻は夫に強い目をむけた。

「あなたはつねに患(わざわ)いを避けるために隠栖(いんせい)したいとおっしゃっていた。何をぐずぐずなさっているのですか。まさか人に頭をさげて、官に就(つ)こうとなさっているのではありますまいね」

このことばに梁鴻はすばやく反応した。

「よし」

と、いうや、かれは妻をともなって覇陵(はりょう)山にはいり、耕織(こうしょく)をおこなって暮らした。詩を詠み、書物を読み、琴を弾じて、娯(たの)しんだ。

ふたりがその山をでて函谷関をぬけ、関東の地にむかったのは、異民族である羌族や山賊の跳梁(ちょうりょう)が烈しくなったからかもしれない。そうでなければ、覇陵山でせっかく得た静寧(せいねい)を捐(す)てる理由がみつからない。

京師(けいし、洛陽の都)を通過するとき、梁鴻は、

「五噫(ごい)の歌」

を作って、歌った。噫は、ああ、というのにひとしく、嘆きの声である。歌の内容は、宮殿が嵬(たか)くそびえるほど人民の劬労(くろう)はながびく、というものであった。この歌が虚空を飛んで、ときの皇帝である章帝(光武帝の孫)の耳にはいるはずはないのだが、どういうわけか章帝が知ったのである。

「けしからぬ」

章帝は梁鴻を逮捕せよと命じた。が、道をいそいだふたりは役人の追跡のとどかぬところに到り、用心のため、梁鴻は姓を運期(うんき)、名を耀(よう)、あざなを侯光(こうこう)と改めた。かれらは東方の斉と魯のあいだに隠れ栖んだ。

しばらくして、ふたりはそこを去り、南方の呉へゆくことにした。役人の目を恐れたからであろう。隠者でありつづけることが王朝を批判することであるのは、後漢時代にはじまったことではなく、孔子が生きていた春秋時代、いや、上古(じょうこ)からあった。

おそらく梁鴻は旺盛な批判精神の持ち主であるがゆえに、王都の宮殿を遠望したとき、ついその精神をむきだしてしまったのであろう。呉へゆくときにも、かれは詩を作っている。詩人のことを騒人(そうじん)ともいうが、まさに梁鴻は愁えによって心の鎮まらぬ人であった。

かれは理想を求めて周流した孔子を想い、愛国の儒者といわれる魯仲連(ろちゅうれん)を尊敬し、呉王の位を辞退しつづけた王子・季札(きさつ)が住んだという延陵(えんりょう)をたずねてから、呉に到着した。

呉に皋伯通(こうはくとう)という大家がいる。ふたりはその家の軒下を借りた。梁鴻は人に傭(やと)われて舂米(しょうべい、米をつくること)の仕事をし、帰ると、いつも妻の孟光は膳をととのえて待っていた。

孟光は梁鴻のまえではけっして仰視せず、案(あん、膳)を挙げて自分の眉の高さに斉(そろ)えた。それを四字でいえば、挙案斉眉(きょあんせいび)ということになる。たまたまその光景を目撃した皋伯通(こうはくとう)は、かわったことをする、とおもい、

「あの傭者(ようしゃ)は、あのように妻をしつけている。凡人ではあるまい」

と、家人にいった。ここでようやく夫婦を家のなかにいれて住まわせることにしたのである。梁鴻は部屋にとじこもって十余篇の書を著わした。やがて病に苦しみ、もはやたすからぬとわかると、梁鴻は皋伯通に、

「むかし中原(ちゅうげん)諸国に使いをした延陵の季子(季札)は、帯同した自分の子が客死すると、贏(えい)と博(はく)のあいだの地に埋葬し、郷里に遺骸をはこばなかった。どうかわが子にも、わたしのなきがらを持ち帰らせないようにしてもらいたい」

と、たのんだ。うなずいた皋伯通は、梁鴻が亡くなると、呉の要離(ようり)という勇者の冢(はか)の近くに梁鴻を埋めた。要離を知らぬ者は呉にはいない。とはいえ、多少の説明は要るであろう。

春秋時代に呉に寿夢(じゅぼう)という名君は末子の季札を愛し、季札に王位を継がせようとした。が、季札が固辞したため、長男が継いだ。その兄弟は順々に王位を継いでゆくという約束をかわしたのだが、季札の番になると、またかれは辞退した。

そのため僚(りょう)という王子が呉王になったが、寿夢の嫡孫(寿夢の長男の子)である光(こう)は、季札が呉王にならないのであれば、王統を嫡流にもどすべきだ、と強く意(おも)い、王僚を襲う機会を待った。たまたま隣国の楚から亡命してきた伍子胥(ごししょ)という胆知にすぶれた士に謀(はか)り、専諸(せんしょ)という者をつかって王僚を暗殺した。専諸は魚の腸(はら)のなかに剣をかくし、魚をすすめつつ、その剣で用心深い王陵を刺殺したのである。

直後に位に即(つ)いた光が呉王の闔廬(こうりょ、闔閭)である。闔廬には懸念があった。王陵の子の慶忌(けいき)が他国にいて、かれが諸侯の力を借りて攻めてくることを恐れた。しかし慶忌を殺せる者がいない。ここで伍子胥に推薦されたのが要離(ようり)である。要離を慶忌に近づけ、信用させるために、闔廬はあえて要離に罪を衣(き)せ、要離の妻子を捕らえて焚(や)き殺した。出奔した要離は慶忌のもとへゆき、闔廬の無道を訴え、信用を得た。

やがてふたりは呉へゆくために江水(こうすい、長江)を渡ることになったが、江(かわ)のなかばに舟がさしかかったとき、要離は剣をぬいて慶忌を刺そうとした。殺気を察していた慶忌は体(たい)をかわすや、要離の髪をつかんで、水中に投げ落とした。要離が浮かんで舟にのぼろうとすると、また投げ落とした。みたびおなじことをした慶忌は、ついに、

「なんじは天下の国士である。なんじを殺さず、なんじの名を天下に知らしめてやろう」

と、いい、要離を岸にあげて、自身は対岸へ去って二度と呉の土を踏まなかった。復命した要離は、ねぎらう呉王のまえで、

「妻子を殺し、先王の子を殺そうとし、しかも相手に助けられました。不仁をおこない、不義を犯し、恥辱をあたえられたのです。生きてはいられません」

と、述べ、剣に伏して自殺した。要離とはそういう人である。

皋伯通(こうはくとう)が埋葬の地をさがしているとき、

「要離は烈士であり、伯鸞は清高である。ふたりを近づけるべきだ」

と、みなにいわれた。埋葬が畢(お)わると、妻子は郷里に帰った。

…



From:
宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 四知

2016年6月16日木曜日

頭部移植をになう男、カナベーロ



UK『The Guardian』より



患者はロシア人、ドナーは中国人、執刀医はイタリア人
人類初の「頭部移植手術(Head Transplantation)」を
見届ける勇気はあなたにあるか?

一人の”はぐれ者”ドクターが、前代未聞の「頭部すげ替え手術」を計画。中国の支援で実現が決まり、2017年にも医学の歴史が変わるかもしれない。



トリノ市にあるコンクリート造りの大病院の外で、セルジオ・カナベーロ Sergio Canavero(51)が職員用の駐車場を使わせてもらえるよう、2人の警備員を説得していた。話の途中、彼は片方の手でノドをかき切るような仕草をした。ほかの人間がやったのなら脅迫と受け取られかねないジェスチャーだ。しかし警備員たちは「話はわかった」というように笑顔を見せ、車を通した。

「彼らに伝えたんだ。わたしは人類初の頭部移植手術をしようとしている男だってね」

と、カナベーロは言う。

「イタリア人はセレブに弱いのさ」



カナベーロは今年、2人の頭部を切り離すという長年の計画の詳細を公表し、世界的に有名になった。

1人目は(たとえば下肢の麻痺などの)病んだ身体をかかえた生きた人間。2人目は死亡した直後かまたは(事故で脳死になるなどして)死が避けられなくなった者だ。その後に、「1人目の頭」を「2人目の体」に接合する。脊髄をつなぎ、1人目の頭の持ち主が2人目の体を動かせるようにする。

医学用語で言うなら、人類初の「頭部身体吻合(ふんごう)」ということになる。










”国外追放”の憂き目に


彼はかつて、このトリノの病院で世界初の頭部移植を行うつもりでいた。1980年代に医学生として採用されて以来、ここでキャリアの大半を過ごしてきたのだ。やがてカナベーロは、本人が言うところの「大騒ぎ」を巻き起こす。

頭部移植に関する論文を医学誌に発表する一方、リマソルとベローナでTEDの講演を実施。それでメディアの注目をあつめ、一躍「セレブ」になったのだ。カナベーロの計画は国際的な教会から公然と批判され、イタリア医学会の主流派からも攻撃された。

今年(2016)2月、カナベーロは長年つとめてきた病院に、雇用契約を打ち切られた。

「わたしはノケ者にされたのさ」

イタリア国内で施術する道を断たれ、カナベーロは国外に目を向けなければならなくなった。

長い交渉の末、中国北部の都市ハルビンで行なわれることが決まった。ハルビン工業大学とハルビン医科大学が支援に回ることになっており、後者は早くもカナベーロに名誉教授の地位を与えている。中国側から病院とスタッフが提供されることになったおかげで、手術の準備は大方の予想より早く整う予定だ。カナベーロは2017年のクリスマスを目途(めど)にしている。



カナベーロは施術について極めて具体的なイメージをもっている。

近未来の手術室。

特殊なフレームにしっかりと固定された2人の身体。1人は麻酔をかけられた患者で、もう一人は脳死状態のドナーだ。

「特別あつらえのダイヤモンド製の係蹄(けいてい、針金の環を締めて組織を切断する器具)」か、「窒化ケイ素の破片でつくったナノナイフ」を使い(どちらにするかはカナベーロもまだ決めていない)、第5頸椎と第6頸椎とのあいだで首を切断する。麻酔をかけられた患者は、首を切断される前、摂氏10℃に冷やされる。

切断後は2つの身体を固定していたフレームが上下に分かれ、上部のパーツは頭部と一緒に回転する。それにより患者の頭部がドナーの身体の上に据えられる。



次は36〜72時間を要する長時間の外科手術だ。

医療スタッフは150人ほど必要で、そのうち約80人は外科医でなければならない、とカナベーロは考えている。手術費用はおよそ1,500万ユーロ(約20億円)で、彼も認めるとおり依然として民間のスポンサーが必要だ。

「当初は高額になるだろう。しかし技術が向上するにつれてコストは下がっていく」

その80人の外科医が、責任者の指示にしたがい、交代で手術室に詰める。脳内の血流をとり戻すために、頭部と身体をつなぐ動脈がまず接合されるだろう。カナベーロは気管や食道や脊柱などがつながれるあいだは脇で見守り、脊髄をつなぐ段になったら前面に立つつもりだ。機能的脳神経外科手術(神経機能障害を改善するための手術)が彼の専門なのだ。










月面着陸を超える「偉業」


患者が最終的に運動機能をとり戻すためには、2本の脊髄の内部に収まった何百万本という神経の一部をつなげなければならない。カナベーロは施術中にそうした接続を急速に増やす斬新なアイディアをもっている。

たとえば脊髄の接続箇所に弱い電気ショックを与えたり、ポリエチレングリコールと呼ばれる物質を満たすことで、このプロセスを加速したりするといった方法だ。

カナベーロの見るところ、脊髄内のすべての神経をつながなくても患者は一定の運動機能を取り戻せる。たとえば10〜20%でもいいという。



手術後は、動きを抑制するためもあり、患者は3週間ほど人為的に昏睡状態におかれる。つづいて数ヶ月間のリハビリだ。カナベーロは何らかの仮想現実シュミレータが、患者が見知らぬ身体に慣れるのに役立つはずだと期待する。催眠療法は有効かもしれない。

その後は回復、記者会見、ノーベル賞受賞(?)という流れだ。

「この手術のことは、100年後までテレビで報じられるだろう。月面着陸をはるかに超える偉業になる。その点は間違いないよ。人類史上で最も偉大な革命になるんだ。期待どおりの結果がでれば、だがね」



この計画に 絶対に欠かすことのできない「あるピース」は、すでにそろっている。

アメリカの学会で、カナベーロはワレリー・スピリドノフという人物を舞台上に呼んだ。ロシア出身のこの31歳のグラフィック・アーティストは重度の脊髄性筋萎縮症をわずらっており、生まれたときから車椅子の生活だ。

カナベーロのほうの準備がととのったら、スピリドノフは「いつでも実験台になる」と申し出ている。「首にナノナイフを入れられる最初の人物」になるのだ。



頭部移植を試みた例は過去にもあった。

1950年代にはソ連で「子犬」が、70年代にはアメリカで「サル」が、そして2013〜2014年には中国で何百匹という「マウス」が実験台にされた。子犬は一週間も生きられず、サルもそれをわずかに超える程度で死んだ。マウスの多くは約1日しかもたなかった。

ただし、これらのケースはいずれも頭部移植が可能かどうかを実証することが主目的であり、患者の生存は二の次だった。



カナベーロを招聘した中国ハルビンの医師、任小平はこの20年間、独自に頭部移植を研究し、前述のマウスの実験もおこなった。彼は、こうした大規模なプロジェクトではカナベーロのような「一匹オオカミ」が、よりいっそう重要になると語る。

「大人数のチームが必要になります。そこにはリーダーが必要です」

中国は近年、医学研究に巨額の金を注ぎ込んできた。わたしが取材した西側の医師たちは、中国の関与によってカナベーロの計画がかなり現実味のあるものになったことを認める。アメリカの医学誌『サージェリー』の編集者マイケル・サーは、以前からそれを見越していた。

「中国はある意味で、開拓時代の西部のようなものです。ほかの場所に比べて規制がかなり緩いんですよ」



カナベーロは近々ハルビンに旅立ち、2017年のクリスマスに向けて2年間の集中作業にとりかかる予定だ。妻と2人の子供たちを祖国にのこして。

カナベーロは言う。

「人生の2年間ぐらい、なんてことはない。代わりに世界を変えることができるんだから」

カナベーロは子供のころから、これを夢想していた。アメリカで猿の頭部移植が試みられたという新聞記事をよみ、人間の頭部移植は「自分が真っ先にやってみたい」と思ったのだ。

当時の彼は貧しく、育った環境は荒れていた。「それで強くなった」と彼は言う。18歳で医学校にはいり、2年もたたずして学術誌に論文を送るようになった。その頃から「すでに頭部移植を視野にいれていた」という。



80年代半ばにトリノの病院にうつり、機能的脳神経外科医としての修行をはじめた。

「わたしは昔から一匹狼だった」

それでも、同僚のなかに友達はいたのでは?

「ときには交流したさ。『交流』としか言えないな。学ぶ必要のあるときには交流し、その後は『我が道』に戻る。そういう道は一人で歩くしかないんだ」






変人か、超変人か


カナベーロは自分が「変わり者」であることに気づいている。

「人はわたしを変人あつかいするかもしれない。その通りさ! 変人でなければ、すべてを変えることなどできないんだ」

社会にとっての課題は、彼に言わせれば「変人と超変人を選り分けること」だ。

「どちらであるかは、たぶん事が終わってからでなければわからない」



命を賭してカナベーロの「最初の患者」になることを申し出ているスピリドノフも、よく似たことを言っている。

「天才もいれば、頭のおかしな人間もいます。プロジェクトが終わるまで、その区別はつかないかもしれません」

スピリドノフがこのプロジェクトに加わったのは2年あまり前だ。自宅でネットサーフィンをしていて、カナベーロのインタビューを見つけた。

「昔から科学にたずさわりたかったんです。でもロシアのラボで働くのは困難でした。障害者が働きやすい環境ではありませんからね。それでも大きな科学研究に参加することを、いつも夢みていたんですよ」



グーグルでカナベーロのメールアドレスを探し出すのに15分しかかからなかった。そのあいだに、スピリドノフは心を決めていた。

「かれは最初の志願者だった」

とカナベーロは言う。

「メールやスカイプで対話をかさねるうちに、『彼こそは打ってつけだ』と確信した」

心理テストも第三者の鑑定もなしに?

「ワレリー(スピリドノフ)は重い病気をかかえている。脊髄性筋萎縮症だ。心理的には、2人でずいぶんと話した。かれは強い男だよ」



カナベーロは「術後に何が期待できるか」を、スピリドノフに説明した。

「歩くことはできるだろう。走れるかどうかはわからない。それで満足かな?」

と。

スピリドノフは「満足だ」と答えた。

「手術して特別なことができるようになりたいわけではありません。望むのは、ごく普通のありふれた生活です。今のわたしは障害をかかえ、多くの限界に直面しています。術後はその限界がすこしでもなくなるように願っています」



スピリドノフの願いはどれほど実現性があるのだろうか?

中国ハルビンの任小平は「パーセンテージを示すことは難しい。ワレリー(スピリドノフ)は勇敢ですよ」と言う。

一方、米『サージェリー』誌のサーは、生存率を「98〜99%」と予想している。



そもそも施術地の第一候補はヨーロッパかアメリカだった、という。中国の後援を受けることについて、気がかりはないのだろうか。カナベーロは「施術の全過程を公開する」とかねてから公言してきたのだ。

「中国は中国だ。メディアは統制をうけている。しかし中国はこのことを喧伝し、西洋を悔しがらせたいはずだ。そのための計画が密かにすすめられていることは間違いない」

施術がテレビ中継されることさえあり得る、と彼は言う。



カナベーロは出し抜けに、

「おそらくスピリドノフは施術をうける最初の患者にはならないだろう」

と明かした。

「おそらく中国側は、中国人の患者でやりたがるだろう」

かれの予想では、それは末期ガンの患者になるはずだ。

「余命わずかな人間でテストをおこなうんだ。それがいわば アポロ10号で、ワレリー(スピリドノフ)は『アポロ11号』になる」






命は続いていく


カナベーロはこうした話を、どれも軽い口調で話す。「倫理的なためらい」は本当に感じないのだろうか。

「私はなんら非難されるいわれはない。手術をうけることを決断できるのは、それによって利益をえられる人間だけなんだ。君でも社会でもない。患者が決めるのさ」

手術が失敗しても、そこに価値はあるのだろうか?

「もちろんだとも。失敗しても、やはりそこから価値あるものを導き出せるはずだ」

彼は、人類初の心臓移植手術をうけた患者が、18日後に死亡したことを指摘した。それでも大きな進歩だった。



スピリドノフが回復して「新しい身体」に慣れ、やがて子供をもうけたら、それは誰の子供になるのか?

「問われてもいい唯一の倫理的な問題はそれだ。だが想像してほしい。きみの子供がいつか自動車事故に巻き込まれ、病院で脳死を宣告される。もはや手の施しようがない。しかし、こう考えてくれ。当直の医師のわたしが、君にこう告げる。

『お子さんの脳を救う手立てはありませんが、身体を譲っていただけるなら、いつか”新たな頭”とつながったその身体が、子をもうけるでしょう。その子はあなたの孫にあたります。命は続いていくんです!』

」

これはカナベーロにとって重要なテーマだ。彼がそのことを考えはじめたのは、わが子が誕生したときのことだった。

「2人の子供をこの世界に迎え入れたとき、わたしは『子供たちをより長く生かすために全力を尽くす』と誓ったんだ」







かれの施術が成功したら、いずれはそれが商業的に行われるようになる可能性もあるだろう。最終的にはヒトの寿命を延ばすことにもつながる、とカナベーロは考えている。死後に自分の頭部を冷凍保存する楽観主義者もいるほどだ。

施術にともなって派生する諸問題については、カナベーロは「われ関せず」の立場をとる。科学の世界では

「実行されることは実行される」

のだ。



カナベーロが自分の義務だと感じるのは、人々にそうした諸問題を熟考するよう促すことだけだ。たとえばヒトの寿命が延びるのなら、人口過密の問題はどう解決すべきか。カナベーロは、ほかの惑星を征服することも考えるべきだという。

すべての移植をまかなうだけの身体が手に入るのかと聞くと、彼はこう答えた。

「クローン技術を利用すればいいじゃないか」



…






from COURRiER Japon(クーリエジャポン) 2016年 01 月号



2016年5月17日火曜日

中国人とは… [樋泉克夫]




話:樋泉克夫


…


20世紀の中国を代表する英語の使い手、と称された林語堂は、昭和10年に『My Country and My People 』を出版しました。







そのなかで「民族としての中国人の偉大さ」と題し、次のように興味深いことを記しています。


「煩雑な礼節を制定する力量があると同時に、それを人生の一大ジョークとみなすことができる」

「罪悪を糾弾する力量があると同時に、罪悪に対していささかも心を動かさず、なんとも思わぬことすらできる」

「官吏に対する弾劾制度、行政管理制度、交通規則、図書閲覧規定など細則までよく完備した制度をつくる力量があると同時に、一切の規則、条例、制度を破壊し、あるいは無視し、ごまかし、もてあそび、操ることができる」


要するに、中国人は融通無碍で変幻自在、ひとことで言えば「なんでもあり」ということです。



…



引用:致知2016年6月号
樋泉克夫「生き方から考える中国の世界戦略」




2016年4月8日金曜日

99頭のオオカミ 【蔡國強「壁撞き」】



日曜美術館
アートシーン
2015年8月23日


蔡國強
帰去来





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壁撞き


2006年にドイツで発表した「壁撞き」。

群れをなして、ガラスの壁にぶつかっていく99頭のオオカミ。





決して壁を越えることはできません。透明な壁は、かつてドイツに存在したベルリンの壁と同じ3メートル。越えられないとわかっていても、また列に戻って挑戦する。

「絶えず繰り返し、循環するイメージに大きな意味がある」

と、蔡は言います。


蔡國強

「人間は社会の問題に直面するとき、いつも間違いとか悲劇を繰り返している。(私の作品は)皆、循環と関係があります。人間と自然のリズムと関係がありまして、私のタイトル『帰去来』、行って戻るというのも、戻ってはまた行くということですから。そういう感じでもあります」

…







2015年10月26日月曜日

平安貴族と『史記』



名高良史籍

名は高し 良史(りょうし)の籍(せき)

身毀妬臣年

身は毀(こぼ)たる 妬臣(としん)の年

㬢魄懸声値

㬢魄(ぎはく)声値(せいか)に懸(かか)り

爰言陵谷遷

爰(ここ)に陵谷(りょうこく)の遷(うつ)るを言う



すぐれた史官が編纂した典籍として『史記(しき)』の名声は高い。
ある年に嫉妬深い重臣の讒言(ざんげん)で、司馬遷(しばせん)の肉体はそこなわれたが
今では輝かしい日月の光が、その評価の上に降り注いでいる。
丘陵と渓谷とが移り変わるように、汚名も名誉に変わったのだ。


〜史記 ビギナーズ・クラシックス「はじめに」より〜


これは平安時代の初期、嵯峨(さが)天皇の弘仁五年(814)に成立した『凌雲集(りょううんしゅう)』(日本最初の勅撰漢詩集)に収められた、賀陽豊年(かやのとよとし)の「史記の竟宴(きょうえん)にして、賦(ふ)して太史公(たいしこう)が自序伝を得たり」という漢詩の末尾四句です。

当時の日本は、中国文化を摂取して国家の体制を整えることを急務とし、その一環として官人たちに漢籍の講義を聴かせていました。「竟宴(きょうえん)」とは講義の打ち上げパーティーです。パーティーでは、講義された漢籍に関係する人物や事項をテーマにした漢詩がつくられました。確かな年代はわかりませんが、おそらく弘仁年間の初めごろ、『史記』の講義が朝廷で行われ、その打ち上げパーティで豊年(とよとし)は「太史公(たいしこう)自序(じじょ)」というテーマを割り当てられて先の漢詩をつくったわけです。このころから日本で『史記』が本格的に読まれるようになりました。

それから200年ほど経つと、『史記』は平安貴族にすっかり浸透しました。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』には「書(しょ)は」の書き出しで、『白氏文集(はくしもんじゅう)』などと並べて『史記』が挙げられています。『紫式部(むらさきしきぶ)日記』には、父の藤原為時(ふじわらのためとき)が弟に『史記』を講義するのを側で聞いていた紫支部が、弟よりも早く正確に暗唱したので、「この娘が男であったなら」と父を嘆かせた話がでてきます。


…







2015年10月20日火曜日

切り株まもって待ちぼうけ [韓非子]



守株待兎
【しゅしゅたいと】

株を守りて兎(うさぎ)を待つ


中国の春秋時代、宋の国にある農夫がいた。畑の中に木の切り株があった。ある日、兎がその切り株にぶつかって、首の骨を折った。農夫は労せずして兎を得た。農夫は思った、この切り株で待っていれば、また兎が獲れる、と。しかし、待てど暮らせど、二度と兎は来なかった。

『韓非子』「五蠹」篇「守株」
宋人有耕田者。田中有株、兎走觸株、折頸而死。因釋其耒而守株、冀復得兎。兎不可復得、而身爲宋國笑。今欲以先王之政、治當世之民、皆守株之類也。

過去の幸運をあてにする愚かさのたとえ。


童謡『まちぼうけ』はこの故事にちなむ。

待ちぼうけ、待ちぼうけ
ある日せっせと、野良稼ぎ
そこに兎がとんで出て
ころりころげた 木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
しめた、これから寝て待とうか
待てば獲物が驅けてくる。
兎ぶつかれ、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
昨日鍬取り、畑仕事
今日は頬づゑ、日向ぼこ
うまい切り株、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
今日は今日はで待ちぼうけ
明日は明日はで森のそと。
兎待ち待ち、木のねっこ

待ちぼうけ、待ちぼうけ
もとは涼しい黍(きび)畑
いまは荒野の箒草(ほうきぐさ)
寒い北風木のねっこ





また『論語(论语)』には

工欲善其事,必先利其器

工、其の事を善(よ)くせんと欲せば、
必ず先(ま)ず其の器を利にす

という言葉がある。


2015年8月15日土曜日

国際連盟へ、別れのメッセージ [松岡洋右]1933年


壽府(ジュネーブ)訣別の際のメッセーヂ
FAREWELL MESSAGE
Yosuke Matsuoka(松岡洋右)

GIVEN OUT BY YOSUKE MATSUOKA ON THE EVE OF HIS DEPARTURE FROM GENEVA

February 25, 1933




About to leave Geneva, I cannot repress my deep emotion; I can hardly find words to express my thoughts. I left Tokyo with the determination to take any amount of pains to explain Japan's case and enable the people of Europe to understand our difficulties and our position. I was determined to prevent a clash between the League and Japan, to make it possible for Japan to stay in the League and to continue her cooperation in the interest of world peace. When I arrived in Geneva I dared permit myself to entertain some hope.

今ジュネーヴの地を去らんとするに当り感慨無量なるものがある。が、私は之を適切に表現する言葉を発見し得ない。日本の□□を説明し、欧州人に日本の立場と困難とを諒解せしむるためには如何なる努力をも吝まないといふ決意をもって私は東京をたった。連盟と日本との衝突を防ぎ、日本をして連盟に留まり、引続き世界平和の為にする日本の協力を可能ならしめんと決心してゐた。而してジュネーブに着いた時、私は敢て幾分の希望を抱いた。

Three months afterwards, I am leaving Geneva with that hope shattered, with mixed feelings of sadness and resignation. I am sad not for Japan, but for the League for taking such precipitate action. Time will show that it hurts the League more than Japan. I am sad most for China, for such action by the League not only will not solve anything but will add another element of confusion in the conditions of China, already bad enough as they are. It will only lay one more obstacle in the way of Japan's arduous fight against chaos.

三ヶ月の後、私はこの希望を粉砕され、悲しみと諦めとの混交せる感情の裡に、このジュネーヴの地を去るのである。私は日本の為に悲しむのではない。かかる早急軽率なる行為に出でた連盟のために悲しむのである。これがために傷くものは日本よりか寧ろれんめいであることを時が立証するであらう。而して私の最も悲むのは支那のためである。如何となれば連盟のかかる行動に実に何等問題を解決し得ないもにならず、支那の現状に対して更に混乱の石を投ずるものであるからである。この連盟の行動は混沌に対する日本の困難なる闘ひの道程に、更に一つの障害を加へるまでの事である。

The only good I can think, can come out of all this, will be incidentally to help further to unite the Japanese people, making them better realise the magnitude and the difficulties of Japan's task, and increase their determination to risk all to achieve their end - that is to recover and maintain peace and order throughout the region of Eastern Asia.

この連盟に於ける経緯から生まれるであらうと思惟しうる唯一つの良果は、偶々これにより日本国民をしてその任務の実に重大にして困難なることを一層深く認識せしめ、その目的、即ち東亜全域の平和と秩序の回復、維持、この目的達成のため、国を□するも、□て□せないといふ決意を固めしめ、□いて日本国民の一致団結を更に固むるであらうといふ事である。

If the League's action were only to produce that effect, Japan may even find cause, after all, to thank the League. In any case let us hope this action of the League will not widen the gap that separates East from West; however, none but God knows what the future holds in store for us all.

若しかヽる結果だけでも招来されたなら、日本は結局連盟に感謝すべき理由さへ発見する発見するに至るであらう。とまれ、この連盟の行動より□いて、東西を距つる溝渠を、更らに深くするやうな事のないやうにと、祈りたい。しかし、吾人の為に将来が何を齎らすかは、神のみぞ知りたまふ。

I hardly need to say there is no place in my soul for resentment or misgiving. I am sad it is true, but not disappointed; I am still hoping that some day Japan will be understood. I am leaving Geneva with the prayer, that the Members of the League may be enabled to see the light, and with ardent wishes for the success of the League. One consolation I have was the abstention of the Siamese Representative from voting yesterday. He represents the only Asiatic nation, besides Japan and Monchoukuo, which has a real national integrity and responsibility, with the will and ability to govern.

申す迄もなく私の魂の中には、聊かの反感も疑惑もない。私は悲みを抱いてをる。それは事実である。が、しかし、決して失望してはゐない。何時かは日本も諒解せられるであらう、との希望をなほ抱いて居る。私は連盟加盟国が、悟る時が来るやうにと、又連盟の将来に幸あれと祈りつつ、ジュネーヴを去るのである。私の唯一の慰安は昨日の連盟国代表の決議参加拒否、即ち棄権である。暹羅国は日本と満州国以外、誠に独立国の實を持つ唯一の亜細亜国民を代表するものである。

On leaving Geneva, I wish again heartily to thank the Members of the League for the labour so ungrudgingly given for the past seventeen months, in their earnest attempt to find a solution for the most complicated problem that the League has faced in the thirteen years of its existence. I wish also to express my thanks for the many courtesies, shown me and the Japanese Delegation, by the city of Geneva and the Genevese.

ジュネーヴを去るに当り、私は再び連盟の各員が、連盟創設以来十三年の間に当面せる最も困難な問題を解決するため、この十七ヶ月間に払はれた労を謝し、併せてジュネーヴ及びジュネーヴ市民諸君が、私及び日本代表部員に示された行為に対し、深甚の感謝を捧げるものである。







(了)




2015年8月13日木曜日

「日本切腹、中国介錯」論 [胡適]



〜話:加藤陽子〜


…

 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。それを説明するにはいろいろな方法があるのですが、まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。

 蒋介石は軍のトップとして中国国民政府を率いた人でした。彼は、軍事に関しては自ら行うわけですが、外交などの分野では、外務官僚といった専門のキャリアを持った人だけではなく、優れた才能を持つ人物を抜擢したことでも知られています。たとえば、1938年に駐米国大使となった胡適(こてき)は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人。胡適が書いた手紙は多く残されていますので、当時の中国側の外交戦略はかなり明らかにされています。

 胡適は1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行ったときにも駐米大使としてワシントンにいました。胡適のような人が相手では、日米交渉を行うために渡米した野村吉三郎などひとたまりもなかったのではないか、そのような想像をさせるほど、この人の頭は優れている。これからお話することは、鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生という、中国に生まれ一橋大学で博士号をとった大東文化大学の先生が明らかにしたことです。





 日中戦争が始まる前の1935年、胡適は

「日本切腹、中国介錯論」

を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。介錯というのは、切腹する人の後ろに立って、作法のとおりに腹を切ったその人の首を斬り落とす役割を意味します。それでは、当時の世界に対する胡適の考え方を見てゆきましょう。

 まず、中国は、この時点で世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままに振る舞えるのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。このことを日本側はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。

 うーむ。これは正しい観測ですね。実際の日米戦争(太平洋戦争)は1941年12月に始まりますし、日ソ戦争は太平洋戦争の最終盤、1945年8月に始まるわけですが、日中戦争は1937年7月に始まる。



 胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか? それを胡適は考えたのです。

 みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。

高校生:アメリカとソ連と日本を戦わせるための方法?

 そうです。日本を切腹へ向かわせるための方策ですね。日本人の私たちとしては、気の重くなる質問ですが。

高校生:国際連盟にもっと強く介入させるよう、いろんなかたちで日本の酷さをアピールする。

 蒋介石がとった方法を、さらに進めるということですね。正攻法です。でも、連盟はあまり力にはならなかったし、アメリカは加盟国ではなかった。これは少し弱いかな。

高校生:わからないけれど、ドイツと新しい関係ができてきたから、それを利用するとか…。

 くわしくは次の章でお話ししますが、ドイツが一時、中国を支えるようになるのは事実です。ですが、もっとアメリカとソ連にダイレクトにつながることですね。

高校生:まずはイギリスを巻き込んで、イギリスを介してアメリカを引き込むとか…。

 アメリカがイギリスを重視していたというのは当たっています。でも、イギリスはドイツとの対立が目前に迫っていて、この頃は余裕がなかった。





 それでは、そろそろ胡適の考えをお話ししますね。かなり過激でして、きっとみなさん驚くと思います。胡適は

「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2〜3年間、負け続けることだ」

と言います。このような考え方を蒋介石や汪兆銘(おうちょうめい)の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでも言えないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。

 1935年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満州事変、上海事変、熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満州事変では、蒋介石は張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は「これからの中国は絶対に逃げてはダメだと言う。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ、むしろ戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない」と言っています。日本の為政者で、こういう暗澹たる覚悟を言える人がいるだろうか、具体的にはこう言います。



中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。

我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、2〜3年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]

満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

”世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略”
石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』所収(東京大学出版会)





 先ほどご紹介した鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生による訳から引用したものですが、この思想は実に徹底していると思いました。こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などと言われて、抑えられたりしたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。

 私が、こうした中国の政府内の議論を見ていて感心するのは、政治がきちんとあるということです。日本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級の人々との会議で形式が整えられ、ひょいと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、「3年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない」との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに1945年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。

 それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。



以上のような状況にいたってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、3〜4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。

日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。



高校生:すごい…。

 日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。



 しかし、いま一人、優るとも劣らない迫力のある、これまたすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘(おうちょうめい)といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政権を南京につくった人物、つまり汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

 汪兆銘は、1935年の時点で胡適と論争しています。

「胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」

と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も、見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思い出してください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしたように、胡適の主張する「日本切腹、中国介錯論」ではダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みをもって日本と妥協する道を選択します。これまた究極の選択ですね。





 この汪兆銘の夫人もなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸(かんかん)だと批判されたときに、

「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがあるのか」

と反論したといいます。すさまじい迫力です。

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍にとって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとは言いません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。

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引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』