2018年5月9日水曜日
じつは生きていた杜根【三国志】
From:
宮城谷昌光
『三國志』
…
鄧(とう)太后の摂政がつづいている。安帝はすでに27歳である。それでも鄧太后はこの皇帝に新政をゆるさない。
政柄(せいへい)の所在に疑問をおぼえ、匡諌(きょうかん)の言を揚げた者がいなかったわけではない。それに関しては杜根(とこん)がもっとも有名である。
杜根は潁川(えいせん)郡定陵(ていりょう)県の出身で、父の杜安(とあん)はあざなが伯夷(はくい)であることからわかるように、少年のころから志節があり、13歳で太学にはいり、奇童とよばれた。のちに巴(は)郡太守となり、すぐれた行政をおこなったので天下にその名が知られた。
かれの志節は杜根にうけつがれたといってよい。杜根は永初(えいしょ)元年(107年)に孝廉(こうれん)に推挙されて、郎中(ろうちゅう)となった。郎とは男子のことであり、古くは君主に近侍する者を郎中といったが、このころは新人官僚であるとおもえばよい。王朝では鄧太后が実験をにぎり、外戚の鄧氏が格別に恵顧(けいこ)されている実情をみて、
――帝は新政をおこなえぬほど幼くはない。
と、杜根はおもい、政事を帝に奉還すべき旨を上書して直諫(ちょっかん)した。若い正義感がそうさせたのであろう。
このときの鄧太后の怒りはすさまじかった。すぐさま杜根を執(とら)えさせて、縑(きぬ)の嚢(ふくろ)にいれ、殿上において撲殺(ぼくさつ)させた。嚢中(のうちゅう)の杜根はそれで息が絶えたはずであるが、じつは生きていた。執法者が杜根の声名を耳にしていて、
「手加減して叩け」
と、撲打する者にささやいたからである。
嚢は城外に運びだされた。そこで杜根は蘇生した。九死に一生を得た杜根であるから、あわてて逃げだしてもよさそうなのに、そうしなかったのは、かれの知恵が浅くない証拠である。
――太后は用心深い。かならず検視の者をよこすはずだ。
はたして、三日後に検視の役人がきた。杜根の佯死のすさまじさは、眼中に蛆(うじ)を生じさせたことである。むろんその蛆は近くの屍体(したい)から拾ってきたものであろう。精気のぬけた蒼顔(そうがん)にうごめく蛆をみた役人は、小さくうなずき、宮中にもどって、
「杜根はまちがいなく死んでいました」
と、鄧太后に復命した。
「さようか」
鄧太后は残酷さを嗜(この)む人ではない。しかし杜根のようにかるがるしく直言を呈する者が続出してはこまるので、みせしめのために、撲殺という宮中の耳目をそばだたせる処置をあえておこなったのである。
――杜根は何もわかっておらぬ。
鄧太后は荼(にがな)を口に哺(ふく)んだような顔つきをした。幼少のころの安帝は徳の豊かさを人に感じさせた。ところが、人の評価に辛さをもつ鄧太后の目からすると、成長した安帝は失徳者であった。安帝の教育をおこなうべき乳母も姦(わる)い。
王聖(おうせい)
という乳母には淑徳(しゅくとく)が欠けている。国難のさなかにいるのに、安帝に親政をおこなわせたらどうなるのか、火をみるよりもあきらかである。杜根にはそれがわかっていない、と鄧太后の胸は怒りでふるえるが、そのふるえには悲しみがまじっている。安帝を立てたのは、ほかでもない、鄧太后自身なのである。
安帝が聖徳をしめし、群臣を心服させ、人民に恵恤(けいじゅつ)をほどこし、蛮夷をなつかせ、鄧太后をうやまってくれる人であるなら、明日にでも政事を奉還するであろう。そうしないのは、鄧太后から危機意識が去らないからである。
――わたしと兄が国権を掌握しているかぎり、この王朝は頽弊(たいへい)しない。
楽観も悲観もしない鄧太后には自信があり、使命感さえある。王朝の運営者は驕ってはならないという自覚をもっていることも、和帝のころに専横(せんおう)をおこなった竇(とう)氏とはちがう。和帝の手足となって働き、竇氏を覆滅させた鄭衆(ていしゅう)を知っている鄧太后は、
――宦官(かんがん)には用心する必要がある。
ということさえ知っている。かれらをみくびると、突如、足もとをすくわれる。鄧太后には政治感覚がそなわっていたとみてよいであろう。その感覚が、杜根を撲殺する、という恫喝(どうかつ)を必要とした。事実、それ以来、百官や群臣から鄧太后の摂政を非難する声は揚がらなかった。
ところで、死亡したことになった杜根はどうしたか。
――これで追逮(ついたい)はない。
と、みきわめるや、逃竄(とうざん)した。杜根の郷里は潁川郡にあるが、もとよりそこに帰ることはできない。洛陽から南に奔(はし)ったことにさほどのわけがあろうとはおもわれないが、北方や西方にゆきたくなかったのは、異民族による寇擾(こうじょう)がたえまなかったせいであろう。
かれは荊州にはいり、南陽郡をぬけて南部に到った。南郡の郡府は江陵にあるが、そこまでゆかないうちに、宜城(ぎじょう)という大きな県の酒家に傭(やと)われた。宜城は名酒の産地である。怪しまれることなくその家に住み込んだ杜根は、なんと15年もそこですごしたのである。ただし酒家の主人はすくなからぬ人と接し、多くの人を使っているので、人をみる目をもっており、杜根に目をとめて、
――並の賢さではない。
と、看破し、ここにながれてきたわけを問わずに、かれを礼遇するようになった。
鄧氏の勢力が王朝から一掃されたあと、安帝の側近たちは、杜根の忠死について述べたので、安帝は杜根が死んだものとおもい、天下に布告して、せめて杜根の子孫について明らかにせよと命じた。
そのころ杜根が故郷の定陵県に帰ってきたので、県では大騒ぎになった。杜根の子孫についてしらべにきた中央の役人は、死んだはずの杜根に会って仰天し、すぐさま洛陽に報(しら)せをとどけた。
「杜根は生きていると――」
喜んだ安帝は公車(こうしゃ)をさしむけ、杜根を招聘(しょうへい)すると、ただちに侍御史(じぎょし)に任じた。宮中の取り締まりをおこなうところを御史台(ぎょしだい)といい、侍御史はそこの属官である。
杜根は安帝の崩御のあと、順帝(保)のときに、斉陰(せいいん)太守となり、それから官を去り家に還って78歳で歿した。かれなりに道義に遵(じゅん)じた生きかたをしたのであり、志節をつらぬいたといえるであろう。
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宮城谷昌光
『三國志』
第一巻 没落
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