2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


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宮城谷昌光
『三國志』第一巻






九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。



書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。








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宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌

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