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2016年3月4日金曜日

「地図が不可欠の国」、日本


話:村越愛策


…

評論家の加藤周一氏(1919~2008)が、1982年9月のA紙文化欄に

「日本社会の七不思議」

として述べている中の

「地図が不可欠の国」

というところに目が止まりました。



いわく

「道路に名前が無く、目立つのは第一に商品の広告、第二に哲学的な標語であり、日本は道路標識の体系を伴わずに道路網を発達させた、おそらく世界唯一の国であろう。

さらにそれが不便ではないからではなく、現に集会の通知に番地だけでは誰も来られそうもないので、地図を同封している。

また、標識をつくる金がないからではない。標識をつくる費用は、道路建設に比べればタダのようなものである。

(中略)

なぜ標識を嫌うのか、少なくとも私には分からない…」

と。


…



引用:絵で表す言葉の世界―ピクトグラムは語る (KOTSUライブラリ)




2015年8月15日土曜日

国際連盟へ、別れのメッセージ [松岡洋右]1933年


壽府(ジュネーブ)訣別の際のメッセーヂ
FAREWELL MESSAGE
Yosuke Matsuoka(松岡洋右)

GIVEN OUT BY YOSUKE MATSUOKA ON THE EVE OF HIS DEPARTURE FROM GENEVA

February 25, 1933




About to leave Geneva, I cannot repress my deep emotion; I can hardly find words to express my thoughts. I left Tokyo with the determination to take any amount of pains to explain Japan's case and enable the people of Europe to understand our difficulties and our position. I was determined to prevent a clash between the League and Japan, to make it possible for Japan to stay in the League and to continue her cooperation in the interest of world peace. When I arrived in Geneva I dared permit myself to entertain some hope.

今ジュネーヴの地を去らんとするに当り感慨無量なるものがある。が、私は之を適切に表現する言葉を発見し得ない。日本の□□を説明し、欧州人に日本の立場と困難とを諒解せしむるためには如何なる努力をも吝まないといふ決意をもって私は東京をたった。連盟と日本との衝突を防ぎ、日本をして連盟に留まり、引続き世界平和の為にする日本の協力を可能ならしめんと決心してゐた。而してジュネーブに着いた時、私は敢て幾分の希望を抱いた。

Three months afterwards, I am leaving Geneva with that hope shattered, with mixed feelings of sadness and resignation. I am sad not for Japan, but for the League for taking such precipitate action. Time will show that it hurts the League more than Japan. I am sad most for China, for such action by the League not only will not solve anything but will add another element of confusion in the conditions of China, already bad enough as they are. It will only lay one more obstacle in the way of Japan's arduous fight against chaos.

三ヶ月の後、私はこの希望を粉砕され、悲しみと諦めとの混交せる感情の裡に、このジュネーヴの地を去るのである。私は日本の為に悲しむのではない。かかる早急軽率なる行為に出でた連盟のために悲しむのである。これがために傷くものは日本よりか寧ろれんめいであることを時が立証するであらう。而して私の最も悲むのは支那のためである。如何となれば連盟のかかる行動に実に何等問題を解決し得ないもにならず、支那の現状に対して更に混乱の石を投ずるものであるからである。この連盟の行動は混沌に対する日本の困難なる闘ひの道程に、更に一つの障害を加へるまでの事である。

The only good I can think, can come out of all this, will be incidentally to help further to unite the Japanese people, making them better realise the magnitude and the difficulties of Japan's task, and increase their determination to risk all to achieve their end - that is to recover and maintain peace and order throughout the region of Eastern Asia.

この連盟に於ける経緯から生まれるであらうと思惟しうる唯一つの良果は、偶々これにより日本国民をしてその任務の実に重大にして困難なることを一層深く認識せしめ、その目的、即ち東亜全域の平和と秩序の回復、維持、この目的達成のため、国を□するも、□て□せないといふ決意を固めしめ、□いて日本国民の一致団結を更に固むるであらうといふ事である。

If the League's action were only to produce that effect, Japan may even find cause, after all, to thank the League. In any case let us hope this action of the League will not widen the gap that separates East from West; however, none but God knows what the future holds in store for us all.

若しかヽる結果だけでも招来されたなら、日本は結局連盟に感謝すべき理由さへ発見する発見するに至るであらう。とまれ、この連盟の行動より□いて、東西を距つる溝渠を、更らに深くするやうな事のないやうにと、祈りたい。しかし、吾人の為に将来が何を齎らすかは、神のみぞ知りたまふ。

I hardly need to say there is no place in my soul for resentment or misgiving. I am sad it is true, but not disappointed; I am still hoping that some day Japan will be understood. I am leaving Geneva with the prayer, that the Members of the League may be enabled to see the light, and with ardent wishes for the success of the League. One consolation I have was the abstention of the Siamese Representative from voting yesterday. He represents the only Asiatic nation, besides Japan and Monchoukuo, which has a real national integrity and responsibility, with the will and ability to govern.

申す迄もなく私の魂の中には、聊かの反感も疑惑もない。私は悲みを抱いてをる。それは事実である。が、しかし、決して失望してはゐない。何時かは日本も諒解せられるであらう、との希望をなほ抱いて居る。私は連盟加盟国が、悟る時が来るやうにと、又連盟の将来に幸あれと祈りつつ、ジュネーヴを去るのである。私の唯一の慰安は昨日の連盟国代表の決議参加拒否、即ち棄権である。暹羅国は日本と満州国以外、誠に独立国の實を持つ唯一の亜細亜国民を代表するものである。

On leaving Geneva, I wish again heartily to thank the Members of the League for the labour so ungrudgingly given for the past seventeen months, in their earnest attempt to find a solution for the most complicated problem that the League has faced in the thirteen years of its existence. I wish also to express my thanks for the many courtesies, shown me and the Japanese Delegation, by the city of Geneva and the Genevese.

ジュネーヴを去るに当り、私は再び連盟の各員が、連盟創設以来十三年の間に当面せる最も困難な問題を解決するため、この十七ヶ月間に払はれた労を謝し、併せてジュネーヴ及びジュネーヴ市民諸君が、私及び日本代表部員に示された行為に対し、深甚の感謝を捧げるものである。







(了)




2015年8月13日木曜日

「日本切腹、中国介錯」論 [胡適]



〜話:加藤陽子〜


…

 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。それを説明するにはいろいろな方法があるのですが、まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。

 蒋介石は軍のトップとして中国国民政府を率いた人でした。彼は、軍事に関しては自ら行うわけですが、外交などの分野では、外務官僚といった専門のキャリアを持った人だけではなく、優れた才能を持つ人物を抜擢したことでも知られています。たとえば、1938年に駐米国大使となった胡適(こてき)は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人。胡適が書いた手紙は多く残されていますので、当時の中国側の外交戦略はかなり明らかにされています。

 胡適は1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行ったときにも駐米大使としてワシントンにいました。胡適のような人が相手では、日米交渉を行うために渡米した野村吉三郎などひとたまりもなかったのではないか、そのような想像をさせるほど、この人の頭は優れている。これからお話することは、鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生という、中国に生まれ一橋大学で博士号をとった大東文化大学の先生が明らかにしたことです。





 日中戦争が始まる前の1935年、胡適は

「日本切腹、中国介錯論」

を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。介錯というのは、切腹する人の後ろに立って、作法のとおりに腹を切ったその人の首を斬り落とす役割を意味します。それでは、当時の世界に対する胡適の考え方を見てゆきましょう。

 まず、中国は、この時点で世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままに振る舞えるのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。このことを日本側はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。

 うーむ。これは正しい観測ですね。実際の日米戦争(太平洋戦争)は1941年12月に始まりますし、日ソ戦争は太平洋戦争の最終盤、1945年8月に始まるわけですが、日中戦争は1937年7月に始まる。



 胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか? それを胡適は考えたのです。

 みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。

高校生:アメリカとソ連と日本を戦わせるための方法?

 そうです。日本を切腹へ向かわせるための方策ですね。日本人の私たちとしては、気の重くなる質問ですが。

高校生:国際連盟にもっと強く介入させるよう、いろんなかたちで日本の酷さをアピールする。

 蒋介石がとった方法を、さらに進めるということですね。正攻法です。でも、連盟はあまり力にはならなかったし、アメリカは加盟国ではなかった。これは少し弱いかな。

高校生:わからないけれど、ドイツと新しい関係ができてきたから、それを利用するとか…。

 くわしくは次の章でお話ししますが、ドイツが一時、中国を支えるようになるのは事実です。ですが、もっとアメリカとソ連にダイレクトにつながることですね。

高校生:まずはイギリスを巻き込んで、イギリスを介してアメリカを引き込むとか…。

 アメリカがイギリスを重視していたというのは当たっています。でも、イギリスはドイツとの対立が目前に迫っていて、この頃は余裕がなかった。





 それでは、そろそろ胡適の考えをお話ししますね。かなり過激でして、きっとみなさん驚くと思います。胡適は

「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2〜3年間、負け続けることだ」

と言います。このような考え方を蒋介石や汪兆銘(おうちょうめい)の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでも言えないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。

 1935年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満州事変、上海事変、熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満州事変では、蒋介石は張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は「これからの中国は絶対に逃げてはダメだと言う。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ、むしろ戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない」と言っています。日本の為政者で、こういう暗澹たる覚悟を言える人がいるだろうか、具体的にはこう言います。



中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。

我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、2〜3年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]

満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

”世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略”
石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』所収(東京大学出版会)





 先ほどご紹介した鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生による訳から引用したものですが、この思想は実に徹底していると思いました。こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などと言われて、抑えられたりしたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。

 私が、こうした中国の政府内の議論を見ていて感心するのは、政治がきちんとあるということです。日本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級の人々との会議で形式が整えられ、ひょいと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、「3年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない」との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに1945年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。

 それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。



以上のような状況にいたってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、3〜4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。

日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。



高校生:すごい…。

 日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。



 しかし、いま一人、優るとも劣らない迫力のある、これまたすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘(おうちょうめい)といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政権を南京につくった人物、つまり汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

 汪兆銘は、1935年の時点で胡適と論争しています。

「胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」

と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も、見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思い出してください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしたように、胡適の主張する「日本切腹、中国介錯論」ではダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みをもって日本と妥協する道を選択します。これまた究極の選択ですね。





 この汪兆銘の夫人もなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸(かんかん)だと批判されたときに、

「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがあるのか」

と反論したといいます。すさまじい迫力です。

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍にとって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとは言いません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。

…






引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』


憲法を書き換えた戦争 [日本とアメリカ]



話:加藤陽子(高校生に語って)





 戦争と社会契約


 新しい憲法、社会契約が必要とされる歴史の条件の一つは、「総力戦(total war)」という大変なものを戦うために国家目標を掲げなければならないということです。このとき、"by the people" 「国民によって」という言葉が必要になる。総力戦の一番単純な定義は「前線と銃後の区別がなくなること」です。また、青年男子の人口と動員された兵士の人口が限りなく一致していく戦争でもあります。

 第一次世界大戦期のヨーロッパ、第二次世界大戦期の世界、これはすべて総力戦下におかれた社会であったといえるでしょう。成年に達しない青少年を徴兵ではなく志願させるため、教育の分野に国家のリクルート(兵員調達)の仕組みが張りめぐらされる。このような戦いを国家が遂行するためには、労苦をしのぶ国民に対して、「民主主義の国をつくるため」というような国家目標が必要になるのはわかるでしょう。国家は、将来に対する希望や補償を国民にアピールしないことには、国民を動員し続けられなくなります。

 国民を国家につなぎとめるためには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがないように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。たとえば、アメリカが第一次世界大戦に参戦する際のスローガンは「デモクラシーが栄える世界にするための戦争」、「戦争をなくすための戦争」でしたし、対するドイツ・オーストリア側は「民族的存立を防衛するための戦争」と定義づけました。

 だいたい理解していただけましたか。これまで話してきたことは、戦争の犠牲の多さや総力戦という戦争の仕方それ自体が、戦争を遂行している国の社会を、内側から変容させざるをえない、という側面でした。


 それでは次に、少し違う角度から考えてみましょう。戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか? その前に、そもそも戦争に訴えるのは、相手国をどうしたいからですか?

高校生:相手国に、こちら側のいうことを聞かせるため。

 いいですね。政治の方法、つまり、外交交渉などで相手を説得できなかったときに、力で相手を自分のいいなりにさせる、ということですね。他にありますか。

高校生:相手国の軍隊を打ち破って、軍事力を無力化する。

 ほう。これも、なかなか鋭いです。相手国の主力軍隊を撃破してしまえば、あとは相手国は降伏するしかないという状態に追い込まれてしまう。






 戦争についての最も古典的な定義は、19世紀前半にクラウゼヴィッツが書いた『戦争論』のなかの、「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない」というものでしょうか。クラウゼヴィッツの書物は、ナポレオン軍に敗退し続けたプロイセン側から見た理想的な戦争、そのエッセンスを書いた本でした。政治の分野での交渉と武力による戦争を、ある意味、連続してとらえている点に特徴があります。

 戦争は政治の続きであるといった、このような考え方が一般的であったからこそ、第一次世界大戦で懲(こ)りた世界の国々、ことにアメリカが中心となって書き上げた不戦条約は、次のような内容で、戦争を禁止しようとしたわけです。1928(昭和3)年にできたこの条約は、戦前の日本政府も原調印国として参加していた国際条約でしたが、国家政策の手段としての戦争の放棄(第一条)と、国家間の紛争解決手段としての武力行使の違法か(第二条)をその内容としていました。

 このような条約ができてしまった場合、戦争の概念として許されるのは、自衛戦争と、侵略国に対する制裁行為の二つに限定されてしまいます。不戦条約ができるまでの長い道のりを考えれば、人類がいかに永らく、国家の政策の手段として、あるいは国家間の紛争解決の手段として、戦争をたくさんたくさん行ってきたかということが実感できますね。



 それでは、先の問いに戻りましょう。戦争というものは、敵対する相手国に対して、どういった作用をもたらすと思われますか? もう少しいえば、戦争で勝利した国は、敗北した国に対して、どのような要求を出すと思われますか?

高校生:負けた国を搾取する。

 厳しいですね。でも、それでは、すぐに復讐戦争が起きそうで、勝った側もおちおちしていられませんね。

高校生:占領して、敗北した国の構造を変えて、自分の国に都合のよいような仕組みに変える。

 ああ確かに、イラクに侵攻したアメリカが、その後やろうとして、なかなか果たせなかった、そして今でも果たせない願望ですね。今の答えは、とてもいいポイントをついています。






 それでは、そろそろ答えをば。

 戦争のもたらす、いま一つの根源的な作用という問題は、フランスの思想家・ルソーが考え抜いた問題でした。ルソーのこの論文は日本語訳がなかったこともあって、私はつい最近まで知らなかったのです。東大法学部の長谷部恭男先生という憲法学者の本『憲法とは何か (岩波新書)』を読んで、まさに目から鱗が落ちるというほどの驚きと面白さを味わいました。長谷部先生は、この本のなかで、ルソーの「戦争および戦争状態論」という論文に注目して、こういっています。

戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、という形をとるのだ

と。






 太平洋戦争の後、アメリカが日本に対して間接統治というかたちで占領する。われわれ日本人は、アメリカによる占領を、「そうか、アメリカは民主主義の先生として、日本にデモクラシーを教えてやる、といった考え方に立ってやって来たのだな」、というようなアメリカ固有の問題として理解してきました。けれども、ルソー先生は、こうした戦争後のアメリカのふるまいを、18世紀に早くもお見通しであったのでした。

 ルソーは、彼が生きていた18世紀までの戦争の経験しかないはずですから、19世紀に起きた南北戦争も普仏戦争も、20世紀に起きた第一次世界大戦も、本来、予測不可能だったはずです。けれども、非常に面白いことに、ルソーの述べた問題の根幹は、19世紀の戦争、20世紀の戦争、ました現代の戦争にもぴったり当てはまります。このようなすぐれた洞察を残せたからこそ、今の世にも名を残す哲学者であるわけですが。






 それでは、「戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国家の憲法に対する攻撃、というかたちをとる」とのルソーの述べた真理について、もう少しくわしく説明することにしましょう。

 ルソーは考えます。戦争というのは、ある国の常備兵が3割くらい殺傷された時点で都合よく終わってくれるものではない。また、相手国の王様が降参しましたといって手を挙げたときに終わるものでもない。戦争の最終的な目的というのは、相手国の土地を奪ったり(もちろんそれもありますが)、相手国の兵隊を自らの軍隊に編入したり(もちろんそれもありますが)、そういう次元のレベルのものではないのではないか。ルソーは頭のなかでこうした一般化を進めます。

相手国が最も大切だと思っている社会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいるのです)、これに変容を迫るものこそが戦争だ

といったのです。相手国の社会の基本を成り立たせる秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書き換えるのが戦争だ、と。

 とても簡単にいってしまえば、倒すべき相手が最も大切だと思っているものに対して根本的な打撃を与えられれば、相手に与えるダメージは、とても大きなものになりますね。こう考えれば、ルソーの心理もすとんと胸に落ちます。第二次世界大戦の、無条件降伏を要求する型の戦争を、なぜか18世紀の人間であるルソーが見抜いている。本当に不思議なことです。



 第二次世界大戦の終結にあたっては、敗北したドイツや日本などの「憲法」=一番大切にしてきた基本的な社会秩序が、英米流の議会制民主主義の方向に書き換えられることになりました。

 ですから、歴史における数の問題、戦争の目的というところから考えますと、日本国憲法というものは、別に、アメリカが理想主義に燃えていたからつくってしまったというレベルのものではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦の後には、「勝利した国が敗れた国の憲法を書き換える」という事態が起こっただろうと思われるのです。


 



 このあたりまできますと、戦争を考える面白さがだんだんとわかっていただけるのではないでしょうか。

 そして、次に気づくことは、では、相手国と自分の国、彼と我との間でなにが根本的に違っていたのだろうかということです。アメリカと日本が戦争をする。アメリカが勝利して日本の憲法を書き換えるとなったとき、このアメリカと日本の、最も違っていた部分はなにかというあたりを考えてほしいのです。

 では、戦前の日本の憲法原理って何でしょう? 戦前期の日本社会を成り立たせていた基本的な秩序とはどういうものか。事後的に見れば、アメリカが戦争の勝利によって、それを変えたということになります。最も簡単にいえば、二文字から三文字で表現できてしまう言葉ですが、何だかわかりますか?

高校生:天皇は神の子孫であり、その権力は絶対であること。

 いい線いってます。天皇が神であることを否定した、1946(昭和21)年1月1日のいわゆる「人間宣言」=神格化否定の詔書、をふまえた言い方ですね。アメリカとしては、天皇自らの言葉によって、神格化を否定させなければならなかったことからも、これが戦前期までの日本の原理の一つであったとわかる。


 



 二文字の答えまで、もう少しです。では、大日本帝国憲法で、現在の日本国憲法と最も違う部分はなんでしょうか。

高校生:国民ではなく、天皇が国家主権者。天皇が中心となって国を治めるという部分。

 はい、そうですね。大日本帝国憲法の条文上では、第一条「大日本帝国は万世一系の天皇之(これ)を統治す」と第四条「天皇は国の元首にして統治権を総攬(そうらん)し此(こ)の憲法の条規に依(よ)り之を行ふ」がこれにあたるわけです。天皇が日本の国を統治するという国の在り方や原理は、当時の言葉二文字で言えばなんと表現できるでしょうか。

高校生:国体。

 そう、さっき私が二文字です、といったとき、心に描いていた言葉は「国体」です。戦前期の憲法原理は一言でいえば「国体」でした。「天皇制」と言い換えてもかまいません。1925年に制定された治安維持法には「国体を変革し又は私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又は禁錮に処す」と書かれていましたが、この場合の国体は、天皇制ということです。

 アメリカは戦争に勝利することで、最終的には日本の天皇制を変えたといえます。現在の日本国憲法の前文部分、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」が、リンカーンの演説、人民の人民による人民のための(of the people, by the people, for the people)と同じだ、というところから話を始めたわけですが、この前文部分のすぐ前に「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」と書かれています。

 さて、そろそろ少し疲れてきましたか(笑)。

…





引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』




2013年5月13日月曜日

「日本のいちばん長い日」。慌てに慌てた玉音放送の原案







「耐え難きをー、耐え、忍び難きをー、忍び…」

ご存知、日本の敗戦を告げた玉音放送(1945年8月15日)。



この文面を巡って、大激論が巻き起こったという日本政府内。

なんと、その案は7回も書き直されていたのだという。



「第一案からはじまって、第二案、第三案…、それで最後の第七案。でもやっぱり、まだ直しが入っている」と、日本公文書館の専門官・大賀妙子さんは言う。

大賀さんの手にするのは「戦争終結ニ関スル詔書案」。当時の極秘資料である。

最終案となった第七案でもまだ修正されているのは、「戦局日に非にして(戦局が日に日に悪くなっていく)」という部分。



「これは阿南惟幾(あなみ・これちか)が、海軍と揉めたやつですね」

そう口を挟むのは、博学の太田光(爆笑問題)。

「なんで、知ってんの?」と、不思議がる相方の田中裕二。

「そりゃそうだよ。『日本のいちばん長い日』ですから」と太田。







爆問・太田の言う「日本のいちばん長い日」というのは、玉音放送までの24時間を描いた東宝の映画である(1967)。

山内聡演じる「海軍大臣・米内光政」は言う、「私は、『戦局日に非にして』でいいな。もはや我が国は、軍事的に崩壊してしまっておる」。

だが、三船敏郎演じる「陸軍大臣・阿南惟幾」は声を荒げて、断固反対する。

「これはあくまで、『戦局日に非にして』ではなく、絶対に『戦局必ずしも好転せず』と訂正すべきである!」



現実を率直に語ろうとした海軍大臣・米内光政に対して、陸軍大臣・阿南惟幾は、それは危険すぎると考えていた。

陸軍大臣・阿南の恐れていたのは、軍部によるクーデター。当時の陸軍の内部には降伏を認めずに、あくまで強硬に、徹底抗戦を唱える者が少なくなかった。そこにもし、「戦局日に非にして(日増しに悪くなって)」などと進んで負けを認めるような言葉を使ってしまえば、彼らが暴れだすかもしれない、と恐れたのである。



陸軍と海軍は、その最後の一語を巡って、揉めに揉めていた。

しかし時はもうない。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が落とされ、8月8日にはあろうことかソ連までが、条約を破って本土に攻撃を開始してきた(北方領土)。

それでも、政府内の議論には決着がつかない。そこで、議論の決着を待たずに、詔書の「清書作業」が始められた。問題の箇所は、「戦局日に非にして」のままにして…。



ところが、最後の最後で、阿南惟幾の案が通ってしまった。

これは困った。正式な詔書の文言を、「戦局日に非にして」から「戦局必ずしも好転せず」に書き直さなければならない。

だがもう、一から清書し直している時間など、ない…。



結局、どうなった?

国立公文書館に残る、正式な「終戦の詔書」には、その苦心が刻まれている。

その原本をよく見ると、紙の表面が削り取られた上に、「戦局必ズシモ好轉セス」と書かれてある。つまり、清書をやり直さずに、「戦局日ニ非ニシテ」の文言が刃物で削り取られたのである。

天皇の署名(自筆)と御璽(印)が入っている正式な詔書にも関わらず…!







それを見て、爆問・田中はビックリ。

「修正した跡があるもんね。だって、字の大きさとかも全然合ってない。詰まっちゃってる」

そりゃそうだ。元の文言であった「日ニ非ニシテ」は6文字、そのスペースに「必ズシモ好轉セス」の8文字が無理やりに押し込められているのだ。当然、文字が寸詰まりにならざるを得ない。



さらには、最終ページの天皇の署名と御璽(印)もおかしい。御璽が詔書の文章に重なってしまっている。これも普通では考えられない。

正式には、罫線の引かれたページのうち、後ろから残り7行分は御璽を押すスペースとして空けておかなければならない。ところが、詔書の文字が多すぎたあまり、御璽には6行分しかスペースが残されておらず、その結果、文字とかぶってしまったのだ。

通常であれば、全文書き直しのとんでもない大失態。だが、それがそのまま通ってしまうほど、時間がなかったのだろう。



余談ではあるが、強引に「必ずしも好転せず」を詔書に通した陸軍大臣・阿南惟幾、この文書に署名をした後しばらくして、自刃して果てた…。







(了)






出典:NHK探検バクモン
紙のみぞ知るニッポン

2013年3月19日火曜日

戦後の英雄政治家たちよ…



戦後の「壊滅的な敗戦」。

そのドン底から這い上がる「奇跡的な発展」に、日本の「政治」は大きく貢献していた(今では考えられないかもしれないが…)。

「世界でも稀に輩出するような『立派なリーダーの群像』が戦後を彩った(島田晴雄)」



吉田茂、日本の独立を成したあとの彼は、「朝鮮戦争に参加しない」という奇跡を演じてみせた。

アメリカから派兵の圧力が重くのしかかる中、吉田首相は「共産化への危惧」を盾に、朝鮮戦争への日本の不参加をアメリカに承服させたのである。

「それが戦後の平和日本の礎になった(島田晴雄)」






岸信介、彼の「安保改定」は国内では著しい不評を買ったものの、それは偉大な業績であった。

吉田総理が結んだ日米安保は、「植民地安保」とも揶揄されるほどに隷属的、そして屈辱的なものであった。ゆえに、岸総理は「この不平等を何とか変えたい」と願ったのである。



その不平等条約を是正するため、岸総理はアジア諸国、オーストラリアやニュージーランドを歴訪。賠償を確約していった。「ニュージランドでの謝罪演説では、スタンディング・オベーションが起きたとさえ言われる(島田晴雄)」

こうした「海外諸国の信頼」という成果とともにアメリカはワシントンに赴いた岸総理。安保改定の提案を行い、苦労の末に「対等に近い安保条約」を結ぶに至るのである。






その後、池田勇人総理が所得倍増計画を前倒しで達成すると、佐藤栄作総理のときに日本はOECD(経済開発協力機構)への加盟を果たす。つまり「先進国」の仲間入りをしたのである。

同佐藤総理は「沖縄返還」をも達成。田中角栄総理は、大戦後に断絶していた「日中国交」の正常化に成功する。

まさに、戦後の日本政治は「世界でも稀に輩出するような立派なリーダーの群像」に彩られていたのであった。






こうした卓抜したリーダーを支えたのは、「世界最強のシンクタンク」と言われた優秀な官僚集団である。

さらに当時の自民党は、多数の政党が入り乱れて成立していた経緯をもつため、「それらが常に内部で切磋琢磨し、政治力が磨かれた(島田晴雄)」。



政治・官僚・業界、これらの織りなす「鉄のトライアングル」。通常予算の倍以上もある特別会計は、このトライアングルを不動もののとしていた。

しかし、あまりに不動であったため、そこに安住してしまった自民党。

「そこから自民党の趨勢的凋落がはじまった(島田晴雄)」



自民党の得票数は続落。単独過半数は遠のき、公明との連立も不可欠に。

「6割が世襲議員で、政治は利権化し、新しい血が入らない(島田晴雄)」

現在の日本の低空飛行、それは「政治と官僚の劣化」が原因である、と島田氏は述べる。



過ぎ去りし英雄の群像たち…。

叩かれても叩かれても潰れなかった彼らであるが、悠久の歴史の中にあっては蜉蝣(かげろう)のように儚い。

先人たちの言う通り、不幸のタネは幸運な時に撒かれるものなのであろうか…。






出典:盛衰 島田晴雄