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2015年10月19日月曜日

IKEA創業者の「非調和性」



マルコム・グラッドウェル『逆転!』より


…


 革新者に求められるのは、調和性というよりむしろ「非調和性」だ。ケンカを売ったり、周囲を不快にさせるのではないが、誰もやろうとしないことにリスクを承知であえて挑戦するのだから、むしろ調和性とは対極ということになる。

 それは容易なことではない。非調和な人間がいると、社会は眉をひそめる。それに人間には、周囲から承認されたい本能がある。それでも、社会を変える力がある斬新な発想を実現するには、これまでのしきたりを壊す気概が必要だ。

「他人の気分を害したり、社会に物申すことを案じているようでは、どんなに新しいアイディアも前進しない」

とピーターソンは書いている。劇作家ジョージ・バーナード・ショーもこう言った。

「合理的な人間は、自分を世界に合わせる。非合理的な人間は、あくまで世界を自分に合わせようとする。したがって、あらゆる進歩は非合理的な人間にかかっている」



 その一例として、スウェーデンの家具販売店IKEA(イケア)の創業時のエピソードを紹介しよう。

 創業者のイングバル・カンプラード(Ingvar Kamprad)は、家具の値段は組み立て関係がかなりの部分を占めていることに気づいた。テーブルに脚をつけると、その作業に費用がかかるし、輸送コストも跳ねあがる。そこで組み立て前の家具を平たい箱に入れて出荷し、他店より安く販売した。

 



 ところが1950年代に危機が訪れる。安値販売を苦々しく思っていたスウェーデン国内の家具メーカーが、イケアの注文をボイコットしたのだ。窮地に追い込まれたカンプラードは、ポーランドに目をつける。バルト海を挟んだすぐ南にあり、木材資源が豊富で労働力も安い。ここがカンプラードの開放性だった。1960年代初頭には、海外生産という発想をもつ企業はまだほとんどなかった。

 ポーランドでの生産拠点づくりに動きだしたカンプラードだが、その道のりは険しかった。当時のポーランドは共産主義国家で、インフラはまったく整備されていなかった。まともな機械もなく、労働者の質も低い。法律の後ろ盾もなかった。ピーターソン国際経済研究所のフェロー、アンデーシュ・オスロンドはこう指摘する。

「カンプラードはいわばマイクロ・マネジャー(部下に細々と指示を出す、口うるさいタイプの上司)です。だから他の人間が失敗した分野で成功することができた。悪条件の国に進出して、生産を軌道にのせてみせたんです。こうと決めたら絶対に曲げない性格ですよ」

これが勤勉性である。



 カンプラードが凄かったのは、ポーランド進出を決断したのが1961年だったことだ。ベルリンの壁は物々しくそびえ、冷戦まっただ中。それから1年もたたないうちにキューバのミサイル危機が勃発し、あわや核戦争突入かというところまで事態はすすむ。そんな時代にポーランド進出とは、いまで言うなら「ウォールマートが北朝鮮に店を出すようなもの」だ。鋭く対立する陣営の国と商売をするなんて、ほとんどの人が想像もしなかっただろう。裏切り者の烙印を押されかねないからだ。

 だがカンプラードは違った。世間の評判など微塵も気にとめなかった。これが非調和性だ。

 家具を組み立てず、平べったいまま出荷する。メーカーのボイコットを受けると、海外に生産拠点を移す。こうした発想ができる人間からして少数派だ。そんな独創性に加えて、構想を実現するためには刻苦勉励を惜しまず、冷戦体制すらものともしない精神力をもつ人間となると…、めったにいるものではない。







 …



出典:マルコム・グラッドウェル『逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密』




2013年6月6日木曜日

「大きな努力で、小さな成果」 イエローハット創業者・鍵山秀三郎



「凄い社長がおられます!」

その部下は、異様に興奮していた。

「何か人と違うのか?」と、野村證券の杏中保夫は、部下に聞き正した。



「まったく違うんです!」

部下はその一点張り。それは言葉に表現できず、会ってみなければ分からないと言うのである。

そして杏中氏が会ったのが、イエローハットの社長「鍵山秀三郎(かぎやま・ひでざぶろう)」氏。

部下の言うとおり、確かに「何かが違う」。だが、その印象はやはり表現できない。



普通の社長であれば、この会社の今後の見通しはこうで、利益やシェアは…という話になるはずが、鍵山社長はニコニコしながら「そうですか、そうですか」と話を聞くばかり。

だが、鍵山社長のポロリとこぼした言葉は鮮烈だった。

「大きな努力で、小さな成果」



「えっ? 大きな努力で、小さな成果?」

逆じゃないか? 当時の野村證券はノルマ証券といわれたぐらいに「成績重視の会社」。まさに生き馬の目を抜く社会。そんな荒野で杏中氏は生きてきたのだ。

それが、鍵山社長は別の世界の住人のように、「小さな成果」に大きな努力を払っていると言うのである。



「これまで私は、『大きな努力で小さな成果』という話を大勢の人たちにしてきました」

と鍵山社長。

「しかし、いずれも否定されましたね。『ビジネスの世界でそんなこと言ってどうするんですか?』『そんな考えでは経営者の資格がない』と」

杏中氏も正直そう思った。証券業界というのは「小さな努力で、いかに大きな成果を求めるか」という世界である。



だが、鍵山社長はその腕一本で、一千億企業を築き上げた人物である。

「小さな成果」がそれだと言うのなら、いったいどれほど「巨大な努力」をしてきたというのか。



鍵山氏がカー用品業界に入ったのは20歳の頃。

当時「なんと質の悪い業界か」と鍵山氏は驚いたという。

「じつにあくどい。質の悪い仕事をしていました。たとえば職場が汚い、接客が乱暴。雪が降ったらタイヤチェーンの価格を10倍、20倍にする」



そうした悪事を一つ一つ潰していったという鍵山氏。

だが反発も食らった。時には業界全体から悪い評判を立てられたり、暴力団に監禁されたり、と散々な目にも遭わされた。

そうした妨害の中で若き日の鍵山氏はこう考えた。

「やっておけばよかった」とは思いたくない。「やっておいてよかった」と思いたい、と。







鍵山社長は大社長になってからも、下っ端のするような「掃除」を率先してやっていた。

「世の中には『上を向いて昇り続ける人』はいます。一方、『下を見て下へ行こうという人』は少ない。上に昇るのも大事だけれど、下に降りて下から物事を見つめるのも大事だ、というのが私の考えです」

鍵山社長はサラッとそう言う。功利主義に固まってしまったような、この世の中で。



そんな鍵山社長の「掃除」が評判を呼び、あるとき中国の科技大学に招かれた。

だが、中国で目にしたトイレは、日本ではあり得ないほどの惨状だった。

「水洗便所なのに水を流していないのです。『なんで自分が後の人のために流さなきゃいけないのか?』、そして後の人は『なんで自分が前の人の始末をしなくてはいけないのか?』と言って、その上に用を足してしまうんです」と、鍵山社長は当時の状況を振り返る。

中国の国民が「いかに自己中心的か」は、その便器に山となっていた糞便が雄弁に物語っていた。



さあ、どうする?

大勢の中国人学生たちが、鍵山社長の行動をじっと見守っている。

「私は『素手で』それをすべて処理しました」と鍵山社長。



科技大学の知的な学生たちは、こう考えていた。

「トイレ掃除など、なんと理に合わないバカなことを」と。

だが、そんなことを驚くほど大真面目に鍵山社長は、学生たちの前でやってみせた。しかも素手で(!)。

それは学生たちにとって「理外のこと」であった。頭で考えても分からない、それでも学生たちの心は「確かな何か」を感じていた。

鍵山社長は言う。

「それからです。学生たちが変わったのは」


自己中心的な人々は、とかく「自分に与えられた権利」を目一杯に使おうとする。だが鍵山社長は「権利を使い尽くしてはいけない」と話す。

「今はなんでも自分の権利を精いっぱい使おうという時代です。これが世の中を悪くしていると思うんです」







「ゼロから一までの距離は、一から千までの距離よりも遠い」

と、ユダヤの格言にある。

「気がつかないこと」がゼロであり、気がついてすぐに動けば、それが一になる。

ゼロのままであるのは「やっておけばよかった」の世界であり、一歩足を踏み出した世界は「やっておいてよかった」ともなりうる。



鍵山社長が掃除に勤しんで、はや50年以上。

「誰にでも出来ることを、誰にでも出来ないほど続けたい」と鍵山社長は言う。

「若い時は『わずか一日が自分の人生にそんなに影響するものではない』と思っていました。しかし今は『どの一日を抜いても、私の人生は変わっている』という感覚です」



「こんな世の中にしたままで、後世に置いていけない」

そんな想いが、鍵山社長を日々の掃除へと駆り立てる。

「やっておけばよかった」とは思わぬように…







(了)






出典:致知2013年7月号
「歩歩清風起こる 鍵山秀三郎・杏中保夫」

2013年6月4日火曜日

歩歩是道場。西郷隆盛




江戸末期、薩摩藩主・島津久光の逆鱗に触れた「西郷隆盛」

36歳で徳之島へ、さらに沖永良部島(おきのえらぶ・じま)へと遠島流罪となってしまう。



当時、沖永良部島に流されるというのは「死刑に次ぐ重刑」だった。

「西郷はその島で、戸も壁もない獣の檻のような吹きさらしの獄舎に幽閉された。同時に一族郎党を含め、西郷家の財産はすべて没収されていた」



この極限に絶望的な状況下、西郷は800冊の本を詰め込んだ行李3つを獄舎に持ち込んだ。そして猛烈に勉強していた。

西郷が友人(桂右衛門)に送った手紙には、こうある。

「牢中に召し入れられ、かえって身の為にはありがたく、余念なく一筋に志操をみがき候。ますます志は堅固に突き立てもうすことにて、御一笑くださるべく候」






禅の言葉に「歩歩是道場」というのがある。

「歩歩」というのは「いま・ここ」ということであり、自分の今いるところである。

それがそのまま道場である、と禅語は言うのであった。










出典:致知2013年7月号
「歩歩是道場」

2013年5月24日金曜日

20年間「無敗」の雀士、桜井章一







「日常の中に負い目があると、肝心なときの流れを逃してしまう」

すなわち、日常の中に負い目をつくらないことが、雀士「桜井章一(さくらい・しょういち)」の勝利への哲学の一つであった。







1960年代に裏稼業「麻雀の代打ち」となった桜井章一は、その後20年間「無敗」のままに引退したとされている(唯一、孫の刀でボコられたことはあるようだが…)。

一晩で九蓮宝塔以外の役満を全て和了したという伝説もある(イカサマかどうかは知らない)。







「平常心を失うと、運をもっていかれる」

そう言う彼は、あたかも人の心の内を見透かすように、「泥棒がその日に窃盗したかどうか分かる」と語っている。



 



心とともに、常に身体も整えていなければならないと考えていた桜井。

武術家・甲野善紀をして「正中面が立っている」と言わしてめたほど身体のバランスが整っていたという。







出典:日経サイエンス2012年5月号
「大学1年生に薦めたい本 森田真生」


2013年5月23日木曜日

情緒をもった「純粋な日本人」、岡潔




「人は皆、不死である。そのことがわからずに説明できることは何もない」

「岡潔(おか・きよし)」、直筆の色紙にはそうある。







彼は「数学者」であり、そして「純粋な日本人」であった。

「僕は、論理も計算もない数学をやってみたい」と語っていた三高時代。表面的なことを追いかけるだけでは、答えが見えてこないと感じていた。

フランスに留学すると、「幾何・代数・解析が三位一体となった美しい理論」を見事に展開。

その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられずに、「岡潔」というのは数学者集団によるペンネームであろうと思われていたという。



大学の教壇では「日本民族」を講義したという岡潔。

日本は「自他弁別・合理主義・物質主義」によって「無明」に位置してしまっていると述べている。

「無明」というが仏教用語である通り、岡は仏教に帰依していた。



「真善美妙を大切にせよ」と言った岡。

真には「知」、善には「意」、美には「情」が対応し、それらを「妙」が統括すると考えた。

日本民族は「知」が不得手であるとし、その代わりに「情」を大切にせよ、「日本民族は人類の中でもとりわけ『情の民族』だ」と述べている。



数学者としての岡は、まさにその「情」をもって数学的世界を創造したのであった。

数学であれ仏教であれ、岡にとってそれは表裏一体のものであったという。







そんな彼の理想は、日本の「神代」にあった。

素戔嗚尊(スサノオ)の「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を」という歌に代表されるのように、神代の日本には「矛盾のない知情意」があったのだ、と岡は言う。

日本に「無明」がはじまるのは、仏教伝来とともに「氏姓制度」が入ってきてから。自分と他人を隔てる「氏」が悪習となった、と岡は考えていた。



その無明は時代が下るとともに、広く広く広まっていく。

平安時代末期の僧・西行の「心無き 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」は、美しくも弱々しく

武士の世となった源実朝の「箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ」で、すっかり無明に呑まれてしまった、と岡は言う。

江戸時代の松尾芭蕉は、辛うじて神代の「情」を保ったものの、やがて不得手の「知」が暴走したがために、明治時代以降、日本民族は戦争漬けとなってしまったのだ、と岡は言う。



「氏」が日本に入り、自分と他人の区別が明確になり、それは「自他の対立」を生むことになった。「氏」という悪習に取り憑かれた日本民族は「小我」になってしまったと、岡は嘆く。

その「小我」から脱そうとしたのが「武士道」であり「大和魂」である。さらに進めば、自他を対立させずに衆善奉行できる「真我」や「大我」につながる、と岡は言う。



外側に参照する基準はない。唯一の基準は心の中に宿っており、日本民族にとってそれは「情(情緒)」だと、岡は言っている。

その情緒を大切にすることで、分別智と無分別智が働かせ、その上で「知」を身につけるべきだ、と岡は提唱している。

それが「日本の心」だ、と。







出典:Wikipedia「岡潔」


2013年5月11日土曜日

恐怖心を積み重ねた末に…。登山家・竹内洋岳




危険に対する「恐怖心」。

それは「克服したり打ち消したりしてはダメだ」と、登山家・竹内洋岳さんは言う。

「恐怖心があるがゆえに、それを利用して危険を察知し、危険を避けて進んでいくのです」



世界の山々で「危険な体験」を繰り返してきた竹内さん。危険に遭うたびに、その心には「恐怖心」が厚く積み重なっていったという。

それは登山家としての宝でもあった。

「危険に対する、より高度なセンサーを手に入れたようなものですから」



これから起こりうる危険を、いかにリアルに想像できるか。それが登山家が死を避けうる、精一杯の防御策であった。

「登山で相手にするのは、大自然という人間のコントロールを超える存在です。いくら自分ばかりが意気込んでも、天候に恵まれるなど『自然の了解』を得られなければ登頂は成功しません」と、竹内さんは語る。



時には「死んでしまう」という想像もしなければならない。

「死んでしまうと想像できるならば、どうすれば『死なずに済むか』を想像するのです。山の中では、想定外は存在しません。その時には命を落としているのですから」

そこまでの覚悟がなければ、山へは挑めない。竹内さんは、そう言うのであった。



だが、2007年の出来事は、その竹内さんの「想像」をはるかに超えてしまっていた。

標高8,035mのガッシャブルムⅡ。世界に14座しかない最難関の8,000峰の一つ。



「雪が少し落ちてきたな…」、そう思った時には、足元の雪が崩れていた。

ゴロゴロゴロゴロ

雪もろとも転がり落ちる竹内さん。



だが、これは雪山ではよくあることだ。

「途中にあった平らなところで止まるだろう」

竹内さんは、そう想像していた。



ところが、気づいた時には、その平らなことろは通り過ぎており、なおも転がり落ちている。

「この雪崩では、もう助からない…」

そう観念すると同時に、その瞬間、「怒り」が湧いてきた。

「自分の想像が及ばず、雪崩に巻き込まれてしまったことに無性に腹が立って、転がり落ちながら意識が途絶えるまで、怒り続けていたことを覚えています」と、のちに竹内さんは語っている。



雪崩とともに滑落した距離、およそ300m。

東京タワーから落ちたのと同じくらいの距離を落下した末、雪中深くに埋まってしまった竹内さん。その真っ暗闇の中、もう意識はない。

一緒に登っていた2人は、すでに死んでいた…。



幸いにも、竹内さんにばかりは奇跡が訪れた。

一日遅れで登ってきた別の登山隊によって発見され、雪の中から掘り起こされたのである。



だが、無茶苦茶になっていた竹内さんの身体を見て、ベースキャンプのドイツ人医師は絶望した。

「ヒロ…、残念だが、お前はもう助からない…」

背骨の一つが潰れ、肋骨は5、6本折れ、肺の片方も潰れている。さらには、凄まじい痛みのために、竹内さんは錯乱状態に陥っていた。



それでも諦めない人々は、大使館などを通じてパキスタン政府に働きかけ、禁止エリアまでヘリを手配してくれた。

そして、待ち構えていた日本大使館の方々は、瀕死の竹内さんを日本にまで送り届けてくれたのであった。



「あの時、私に関わってくださった方が一人でも欠けていたとしたら、私は助かっていませんでした」と、回復した竹内さんは、その感謝を口にする。

「積み木の山が、途中の木片を抜き取ると崩れてしまうように、これまでの出会いが一つ欠けても、きょうの自分はなかったと思います」



なぜ、生きられた?

あの時、一度死んだはずだ。

いまある命は、新しい命ではないか?



「山で与えられた命は、山で使わなければいけない」

そう一途に思った竹内さんは、まだ背骨にシャフトが入ったままの一年後、ふたたびガッシャブルムⅡに挑んでいた。一度は死んだ、あの山に。

そして、登頂を果たした。それが、助けてくれた人々に竹内さんが示す、最高の感謝の気持ちであった。



そして、次々と8,000m峰を登頂していった竹内さん。

ついには14全座の完登に成功。

それは、日本人としては初の快挙であった…!





出典:致知2013年6月号
「登り続けることで、次の山が見えてくる 竹内洋岳」

2013年3月28日木曜日

兄の死と弟と。剣聖・上泉伊勢守



兄の急逝。

それは、鹿島で剣術修行に明け暮れていた弟・源五郎にとって、まったく予期しない出来事であった。

いわゆる風邪の類いである虫気を患って床に伏せっていた兄・主水丞。病状が急変し、高熱に見舞われ急逝したのであった。わずか齢十九にしての夭折である。



上野国・上泉城からの早馬は、弟・源五郎のいる常陸国・鹿島へと、その急報を届けた。

茫然自失となりながらも、愛馬・新月を駆った源五郎。しかし時すでに遅く、兄の主水丞は青白い亡骸となっていた…。



悲嘆にくれる上泉一門。とりわけ母は気が違ったのではないかと思えるほどに錯乱していた。

兄の骸(むくろ)と母の狂乱。

それが、源五郎にはなぜか遠くに見える。すべての出来事が遥か遠くの世界で起こっているかのようだった。葬儀の最中でさえ、いったい自分がどこに居るのかも解らない…。



それは、見たこともない穴を覗くような気分だった。

突如として大口を開けた深い穴。それは奈落か。一瞬にしてその空虚に飲み込まれた源五郎。確固とした自己は失われてしまっていた。



魂のない抜け殻のような肉体として、源五郎は葬儀の場に居続けた。

「兄者はまだ死んでいないはず」

抜け殻だけの源五郎は、その死を実感できるはずもなかった。



しかしそれでも、死んだ兄が帰ってくるはずはない。

兄の死を上手く受け止められない源五郎。他の者に泪を見せることを頑なに拒み、心を揺らさぬように歯を食い縛り続けた。

兄を失った空虚な穴が悲しみに満たされるまで、源五郎はそれを感情として捉えられずにいたのである。



幼い頃の記憶

病弱ながらも元気だった頃の兄の笑顔

一緒に兵法修行を始めた庭

他愛もない兄弟喧嘩…



「あの時、兄者と組打ちをしておけばよかった…」

源五郎はつい一年半ほど前の晦日の夜を悔やんでいた。

自分が兄者を負かしてしまうのではないかという恐れから、兄との組打ちを断っていたのだった。自分はまだ修行の身で、それは禁じられていると嘘をついて…。

源五郎は、それを心底から悔いていた。



空虚の穴は、兄との思い出とともに次第に悲しみで満たされていく。

すると泪は自ずと湧き上がる。

それでも源五郎は一切の感情を表には出さなかった。まるで、己が泣くことによって兄の死を穢してしまうことを恐れるかのように…。



弱音を吐いた途端に、兄との大切な思い出が消えてしまいそうに思えた。

そのため、源五郎は葬儀の最中も、四十九日の法要が済んでも、他の者とろくに会話もせず、ただ一人きりで塞ぎ込んでいた。

うかとすると込み上げてくる悲嘆を必死で抑えつけながら、源五郎は黙々と木剣を振り続けていた。



そんな源五郎の行動は、周囲から奇異に見られていた。

兄の死に泣きわめくでもなく、嘆くわけでもなく、黙りこくったまま一人で過ごす弟。周囲はそんな源五郎の姿を訝しげに見ていた。

何か感情のない冷血な子供。



とりわけ母は源五郎を責め立てた。

「兄の死を悼んでいない!」

「兵法修行のことしか考えていない!」

そう罵られることもあった。



それらは、他人には窺い知ることのできない誤解であった。

それでも源五郎は言い訳するのが嫌だった。源五郎は悲しみとともに、そうした責めを黙って受け止め続けていた。

取り乱した母の恨み言には、一言も刃向かおうとはしなかった…。



源五郎の本当の心、それを理解していた人物がいたのは幸いだった。

「ワシはお前が兄を亡くした悲しみにどれほど耐えているかを知っている。無言のうちに何を噛み締めているかを解っておる。それを他の者に見せたくない心根も同じ男として解る」

源五郎の父は、無言のうちに全てを見抜いていた。


「源五郎、母を許してやれ。初めての子だった兄の死によって動顛しておる。だから、何も言わぬお前を兄の死を悼んでいないかもしれぬとしか、解せぬのじゃ…」

父はすべてを己の内に飲み込んだ漢(おとこ)の顔で源五郎を見つめていた。



源五郎が初めて堪えきれずになったのは、この時だった。

一筋の涙。

それがついに源五郎の眼から流れた。

そして、それが漢が最後に見せた泪となった…。





出典:「真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱 (新潮文庫)  海道龍一朗」

2013年3月19日火曜日

戦後の英雄政治家たちよ…



戦後の「壊滅的な敗戦」。

そのドン底から這い上がる「奇跡的な発展」に、日本の「政治」は大きく貢献していた(今では考えられないかもしれないが…)。

「世界でも稀に輩出するような『立派なリーダーの群像』が戦後を彩った(島田晴雄)」



吉田茂、日本の独立を成したあとの彼は、「朝鮮戦争に参加しない」という奇跡を演じてみせた。

アメリカから派兵の圧力が重くのしかかる中、吉田首相は「共産化への危惧」を盾に、朝鮮戦争への日本の不参加をアメリカに承服させたのである。

「それが戦後の平和日本の礎になった(島田晴雄)」






岸信介、彼の「安保改定」は国内では著しい不評を買ったものの、それは偉大な業績であった。

吉田総理が結んだ日米安保は、「植民地安保」とも揶揄されるほどに隷属的、そして屈辱的なものであった。ゆえに、岸総理は「この不平等を何とか変えたい」と願ったのである。



その不平等条約を是正するため、岸総理はアジア諸国、オーストラリアやニュージーランドを歴訪。賠償を確約していった。「ニュージランドでの謝罪演説では、スタンディング・オベーションが起きたとさえ言われる(島田晴雄)」

こうした「海外諸国の信頼」という成果とともにアメリカはワシントンに赴いた岸総理。安保改定の提案を行い、苦労の末に「対等に近い安保条約」を結ぶに至るのである。






その後、池田勇人総理が所得倍増計画を前倒しで達成すると、佐藤栄作総理のときに日本はOECD(経済開発協力機構)への加盟を果たす。つまり「先進国」の仲間入りをしたのである。

同佐藤総理は「沖縄返還」をも達成。田中角栄総理は、大戦後に断絶していた「日中国交」の正常化に成功する。

まさに、戦後の日本政治は「世界でも稀に輩出するような立派なリーダーの群像」に彩られていたのであった。






こうした卓抜したリーダーを支えたのは、「世界最強のシンクタンク」と言われた優秀な官僚集団である。

さらに当時の自民党は、多数の政党が入り乱れて成立していた経緯をもつため、「それらが常に内部で切磋琢磨し、政治力が磨かれた(島田晴雄)」。



政治・官僚・業界、これらの織りなす「鉄のトライアングル」。通常予算の倍以上もある特別会計は、このトライアングルを不動もののとしていた。

しかし、あまりに不動であったため、そこに安住してしまった自民党。

「そこから自民党の趨勢的凋落がはじまった(島田晴雄)」



自民党の得票数は続落。単独過半数は遠のき、公明との連立も不可欠に。

「6割が世襲議員で、政治は利権化し、新しい血が入らない(島田晴雄)」

現在の日本の低空飛行、それは「政治と官僚の劣化」が原因である、と島田氏は述べる。



過ぎ去りし英雄の群像たち…。

叩かれても叩かれても潰れなかった彼らであるが、悠久の歴史の中にあっては蜉蝣(かげろう)のように儚い。

先人たちの言う通り、不幸のタネは幸運な時に撒かれるものなのであろうか…。






出典:盛衰 島田晴雄

2012年10月16日火曜日

ある床屋のオヤジ、叱り叱られ…。


ある床屋のオヤジは、経営の神様「松下幸之助」にこう言い放った。

「あなたは自分の顔を粗末にしている。これは商品を汚くしているのと同じことだ。散髪のために時間をつくる心掛けがなければ、とても大を成さない」と。



当時の松下氏は「容貌をほとんど気にせず、頭髪もぞんざいだった」というが、いきなりの初対面で、床屋のオヤジ「米倉近(よねくら・ちかし)」氏はこんなことを言ったのだ。

しかし、対する松下氏はさすがである。「誠にもっとも千万。至言なるかな」と、それ以来、その床屋「米倉」を贔屓にするようになったというのである。この米倉というのは銀座の中央通りにあったという、一流のお客を相手にする理髪店だった。



時が下り、今度はその床屋のオヤジがお客に叱られる番に…。

母の影響から、米倉氏は大変に厚く観音様を信仰しており、ある時、米倉氏は店を留守にしてまで観音様を拝みに行っていた。

折り悪く、米倉氏がいないときに床屋に来た一人のお客、大竹竹次郎氏(松竹)。主人の不在を知ると、後日改めて来店することに。



後日、米倉氏と面と向かうや、開口一番、「開店中に主人が留守とはどういうことか! お客様に不自由をさせて、ご利益などあろうものか!」と懇々と諭しはじめる。「客商売は、客が店の信者なのだ!」

すっかり我が身を恥じた床屋の主人・米倉氏。「確かに、お客様を差し置いて、いくら観音様を拝んでも、ご利益などあろうはずもない。自分の生業こそが信仰だった…」と思い至る。



その時の確信が、「業即信仰」とのことである。

「世の中にある無数の業(仕事)には、それ自体に良し悪しがあるわけではない。その行を行う者の人格いかんによって、それが決まるのだ。業を高めることこそが、そのまま自己を高めることにもなる」

以来、「毎日が開業日」を口癖としたという米倉氏。「店というのは古くなると惰性に流され、だらしなくなる。毎日を開業日のように新鮮な気持ちで場を清めなければならない」。



そんな理容「米倉」、今は四代目。あと数年で100周年とのことである。





出典:致知2012年11月号
「業即信仰 米倉満」

2012年9月29日土曜日

玉石混交の「石」ばかりを収集したマンガ評論家、米澤嘉博



マンガ評論家「米澤嘉博」。

人呼んで「マンガ収集の鬼」。




米澤には自らに課した掟があった。

それは「すべてを受け入れる」。

「マンガのコレクターって、手塚治虫や石ノ森章太郎のような『宝石』のような作家をコレクションしている人はいっぱいいます。一方、米澤さんはコンビニで売られているレディースコミックなど、今は日常的に手に入るが、『コレクターがいない種類のマンガ』を非常に意識的に集められた。みんな読んでいたのに、後から読めなくなるというのを防ぎたいと考えていたんです。」

「マンガというのは玉石混交であり、たいていのコレクターは『宝石』の部分だけを集めたがるんですけど、米澤さんは『石コロがないと宝石も生まれない』という考え方の持ち主で、むしろピラミッドの『底辺部分の厚さ』が頂点の高さを支えている。その底辺こそが大事だと考えていたのです。」



米澤は有名な作品のみならず、これまで顧みられなかった漫画をも体系的に捉え直すために、前人未到の研究に挑むため、膨大な漫画を収集した。

「米澤さんはずっと家でマンガ本を収集していたんですね。家がマンガ本でいっぱいになると引越しをされて、残された家を倉庫として潰していくという形。転居した家の跡に、マンガの倉庫として潰された家々が点々としている。本人は『ヤドカリ生活』と呼んでいたそうです。」






出典:NHK 探検バクモン「愛と欲望のマンガ道」

2012年9月23日日曜日

ペテン師か? 大天才か? 「ヒトは100万年生きられる」


長髪、ボーボーのヒゲ、青ざめた肌…。

こんな不健康そうな人物が、「ヒトは100万年生きられる」と言っても、信じられるだろうか? 怪しすぎる…。

そんな彼が「ペテン師」と罵倒されるのも、やむをえない。



だが、そのペテン師は、ややもすると「大天才」かもしれない。

MITの学術雑誌「テクノロジー・レビュー」が、彼の理論を「反証」した者に2万ドル(160万円)もの懸賞金をかけたにも関わらず、並み居る天才たちは彼の論理に反証することができなかったのだ。



ペテン師か? 大天才か? その彼の名は、「オーブリー・デグレイ」。

エンジニアでもあった彼は、「寿命を延ばすのは、家や車の修理と同じことだ」と豪語する。

さらに、「あと10年でラットの寿命を3倍にしてみせる」と宣言。この大胆宣言は2004年になされたもの。とすると…、タイム・リミットまで「あと2年」。

彼の大ボラは、どこまで響くのか?





出典:WIRED (ワイアード) VOL.4 (GQ JAPAN2012年6月号増刊)
「『死なない』生命工学 オーブリー・デグレイの驚愕理論」

2012年9月20日木曜日

若き創業者たち


起業は25歳まで?

25歳以下で創業し、世界企業を創りあげた偉人たち。



17歳 IKEA : Ingvar Kamprad(1943)

18歳 Sharp : 早川徳次(1912)



19歳 Dell : Michael Dell(1984)

19歳 Facebook : Mark Zucherberg(2003)



19歳 WordPress : Matt Mullenweg(2003)

20歳 Suntory : 鳥井信治郎(1899)

20歳 Microsoft : Bill Gates(1975)

21歳 Seiko : 服部金太郎(1881)

21歳 Walt Disney : Walter Elias Disney(1923)

22歳 Apple : Steve Jobs(1976)



22歳 Virgin Records : Richard Branson(1972)

24歳 Panasonic : 松下幸之助(1918)



 24歳 Cirque du Soleil : Guy Laliberte(1984)

25歳 HP : William Hewlett(1939)

25歳 Bang & Olufsen : Peter Bang(1925)

25歳 Yahoo! : Jerry Yang(1994)

25歳 Google : Larry Page & Sergey Brin(1998)





出典:WIRED (ワイアード) VOL.4 (GQ JAPAN2012年6月号増刊)
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