2014年7月2日水曜日

女傑の母に導かれた「入神の妙技」 [遠藤時習]




遠藤勇五郎時習(ときしげ)

 ——女傑に育てられた伊達男



 遠藤時習(ときしげ)は時中の子である。父に従って射芸を学んだが、晩成の器であったのか、なかなか上達せず、堂射ができなかった。24歳のとき父に死別したが、時習は重症の「早気(はやけ)」になって、とても家業を継ぐどころではなかった。早気とは、弓を射る際に、十分に発射の機が熟さない早い時期に矢を発射してしまい失敗する射の癖である。種々の射癖のなかでも、最も直すのが難しい。

 そのころ山内致信の子の三保吉秀雄が、射芸に精通して既に一家をなしており、時中(時習の父)の後の仙台藩指南役に命ぜられる形勢となってしまった。



 時習の母は天厳院といい、天保12年に70歳で亡くなった人であるが、男勝りに女丈夫であった。そのような形勢を察すると、あるとき時習を一室に呼んで、涙ながらに云うには

「お前は射芸の家に生まれながら、未熟にして家業を継ぐのが難しい。大変残念なことであります。これでは、亡父の霊に対し一死をもってこれ謝るほかはありません。ゆえに母はすでに覚悟を決めました。お前の一箭により潔く瞑目しようと思います。お前もまたこの母を射たあと、射芸未熟のための過ちで母を射てしまったその罪は軽くない、よって自害しますと遺書をしたためて事後処理をしなさい。心広く思いやり深い藩公が我ら母子の心情を察せられて、あるいは家名存続の恩命に浴することもあるでしょう。これが祖先と亡夫とに対する唯一の途です。決して迷うのではありませぬぞ」と諭して聞かせた。

 時習もこのような母の命に従うよりほかに仕方がなかった。






 母子は射場を清めて、父祖の霊を祀り、母は正装して矢道におり、矢面に立った。子は日ごろ愛用の弓矢をとって射場に立つ。誠に悲壮な光景に、母子はしばらくのあいだ涙にむせんでいたが、そうしていてもきりがないと、母は子を励まして

「これも皆、父祖のため、家のためです。かならず卑怯未練があってはなりませぬ。その一矢をもって我を射止めなさい。射損じて無益の苦痛を与えてはなりませぬぞ!」と激励した。



 時習も今は仕方なし、もはやこれまでと覚悟を決めて、目を閉じて、心をこめて神仏に祈り、渾身込めて熱血を奮い立たせ、威風堂々と弓を満月に引き絞った。もし早気で矢を離せば、ただちに母の胸を射通すであろう。

 辺りはしんとして音もなく静まり、凄惨な気配がその場を満たした。さしもの早気も影を潜め、いよいよ機は熟して、まさに矢が弦を放れるかと思われたその刹那、たちまちに時習の射形が入神の妙技に変じた。

 そのとき母は一声高く、「善し、その呼吸を忘れるでない!」と叫んで矢面を避けた。

 時習はしばらく呆然として、酔ったような夢心地のようであった。その時まさに神秘の扉を開く鍵を得たかのように、豁然として悟るところがあったのである。



 それから何日も経たない間に、雪荷派の極意に達した。そのようにして成長した時習に、山内秀雄は受け継いでいた仙台藩の射芸指南役を譲ったのであった。






 時習は一度、江戸深川の堂に上ったが、三井某という書家に妨害されて新記録に失敗したことがあった。その後、再度試みたいと藩主伊達慶邦公に願い出たところ、お許しは出たが、「万一今回もまたその目的を達し得ないならば、帰藩するに及ばず」というきつい命令であった。

 時習を幼いときから養育した横山という足軽なども大変に心配をし、一緒に江戸に上り、成功を神仏に祈願していた。諸般の準備も終わり、いよいよその当日になり、担当の役人も早朝から出てきて、定刻ともなると見物人が市をなした。ところが肝心の時習の姿が見えない。



 皆が心配していると、そこへ遊郭帰りでほろ酔い加減で酒の香を漂わせながら、伊達な着物姿の時習がやって来た。

 堂に上がると諸肌を脱ぎ、初矢を放ったが通らない。ところが続く二の矢、三の矢は綿々として糸のごとくに切れ目なく、雲を起こし風を呼び、飛ぶがごとく流れるごとくに、見るも見事に通って行くので、見物人一同、思わず歓呼の声をあげてその妙技を誉め称えた。

 そしてついに、日矢数の総矢6,561本中、4,066本を通し、首尾よく「射越し」の新記録をだして、江戸一の名声を博して宿願を遂げたのであった。

 当時、江戸の花柳界に「勇五郎紋」という柄模様が流行したという。これは勇五郎時習が射越しをやったときの着物の模様をとったものだそうである。



 時習は嘉永4年5月に、行年55歳で没した。法名は霊鷲院秀嶽雄䠶居士。

 「勇五郎遠藤先生之墓」が仙台土樋の大蔵山松源寺に、いまも父・時中の墓とならんで建っている。








引用:
弓聖 阿波研造
附録Ⅱ 仙台藩雪荷派 仙台藩当流射芸史(樋口臥龍原作)




2014年7月1日火曜日

「はじめから矢先が的の中に入っている」 [竹内敏晴]




話:竹内敏晴



 このころ、急に思い出したことがあった。その一つは弓の修業についてであった。さしあたって今は弓について書く。からだの不思議に微妙な働きについて、驚くとともに、深い信頼感を私が持ち続けているように思うのは、この経験によるところがあるらしいから。



 私は13歳から弓術をはじめた。耳が悪化してほとんど完全に「つんぼ」になった時期である。ほかの運動は満足にできなかったのだろう。一年後に初段になり、15歳で二段、16歳で三段になった。第一高等学校でも弓術部に入ったのだが、運動部というものの考え方がまるで違うし、自分自身人生について悩みはじめたことと重なって、段を取ることはやめてしまったから、どれほどの技量に達したかはわからないけれども、ほぼ10年間、わたしは弓に熱中した。

 高等学校に入った頃は、生来の耳の病気が良くなって、からだ全体が非常に快調に成長しはじめた時期だったのかもしれない。わたしは猛烈な稽古をした。17歳の冬、寒稽古に、夜中の零時から次の日の零時まで24時間、不眠不休で弓を引いて一万一本射た記憶がある。的に向かって射たのが三千本くらいだったろうか、あとは巻藁に向かって射た。だれ一人助けてくれる人はいなかったから、そうするほかはなかったのだが、とにかく一万本を24時間で射たのは、たぶん明治以降は私一人が持っている記録ではないかと思う。そういう無茶なことをしたおかげで、私はほかの高等学校の運動部にまで有名になったらしい。

 確か19歳の秋、わたしは絶好調であった。弓をいっぱいに引き絞って、的をぴたっと狙う。狙うと的が非常に大きく見える。大きく見えるというのは、30m先の的が30m先で大きくなるのではない。ぐんと近づいてくる。反対にコンディションの悪いときは、的がはるか遠くに消えそうになって、どうしてもつかまえられない。狙えないことがある。この秋の絶好調のときには、ぴたっとからだが決まったとき、的に向かって弓を押している左手、つまり弓手が的の中に入っているように見えた。的が弓手のこぶしより手前、肘にあたりに見える。これでは、はじめから矢先が的の中に入っているわけだから、これはまあ、外れっこない。事実こういうときには絶対に外れない。

 絶好調のときにはこんなことが起こる。まず、第一の矢が的の真ん中の黒丸にあたる。次の矢を射ると、これが前の矢筈にガチンと当たる。実戦用の矢尻なら前の矢を裂いてしまうはずだが、うすい金属の帽子みたいな矢尻だから、前の矢の矢筈をカチンと欠いて、羽根を削ってピタリと並ぶ。さらに第四の矢がまた第一の矢筈に当たる。こんな経験がなんべんかある。

 これは10年ばかりたって、たまたま知人との思い出話のなかに浮かんできて、われながら不思議な気がしたのだが、そんなにちゃんと当たるはずはどう考えてもあり得ない。にもかかわらず当たるのはなぜか? 意識を超えた、きわめて微妙なからだのバランスのコントロールがあるのだろうと考えないわけにはいかない。



 実はその存在をもっと証明するような経験があった。まだ私が16歳、中学在学中だった。弓の稽古をしているうつに日が暮れてきた。戦争中のことで電力制限で電燈がつかない。弓術は矢を四本もって14、15射目から夕闇が濃くなって、的がほとんど見えなくなってしまった。しかし、それまで一本も的を外していない。記録がつくれそうなのにやめるのは残念なので、とにかく真っ暗な道場のなかで、足の位置だけをピチッときめて立ったまま動かないことにした。

 友達に射た矢をとってきてもらっては、またつがえてキリキリと引き絞る。的はまったく見えないのだが、張りつめた力のバランスがピッタリ成り立ったところで、パッと離す。パーンと当たった音がする。こうして、20射20中するというのはなかなかむつかしいことで、私は、最初の一本を外して20射19中とか、途中で一本外して20射19中とか、30射で28中とかはなんべんやったかわからないけれども、20射皆中はほとんどできなかった。その出来たまれな例がこのときであった。足の位置さえピタッとしておきさえすれば、的が見えなくとも当たる。体のバランスがきまっているときは、それほど微妙な正確さを持ってくるのだということは、少年の心におぼろげながら感動を残した。



 宮本武蔵がそばにたかってくるハエを箸でつまんで捨てたという話があるが、大正年代にいた中山博道という剣道の名人が同じことができたという。実際にそういうことはありうるだろうと信じて私は疑わない。からだと「もの」との関係は、それほどすばらしく精妙なのだ。ただ私には、それが年がら年中できたとは思えない。名人になれば、ある集中度を持とうとすれば、どんな状況でも必ずできるという状態を保ち続けられるのかもしれないが、しかし、それは肉体と精神とが最高のコンディションにあって、有機的につながっているときにのみ可能なのであって、常時できるかどうかは、保証の限りではないだろう、と思う。













評:日野晃



 おもしろいことに、竹内敏晴氏はオイゲン・ヘリゲル氏が学んだ阿波研造氏に、勝るとも劣らない弓の技術を身につけていたということだ。しかも、10代の半ばにしてだ。

 以前、弓術の話になったとき、竹内氏は「私は、阿波氏のように観念的なところに解決したくはない。すべてはからだの微妙なバランス感覚だとしています」とおっしゃっていた。また、「私は武道を否定します」とも明確におっしゃった。

 もちろん、阿波氏であれ竹内氏であれ、特別の人、つまり「達人」である。しかし、それらは結果論にすぎない。達人という体をつくりだしたのは、まぎれもなく達人以前の「身体(もちろん知性や内的なもの全てを含んだ)」なのだ。決して、摩訶不思議ななにかが突然、達人という身体をつくりだしたのではない。













出典: