2018年7月9日月曜日

「ネットフリックスの株は『神』と同じ」【The Economist】


From: The Economist July 6 2018




“If Jesus were a stock, he’d be Netflix,”

one savvy investor is said to have observed.


“You either believe or you don’t.”



ある名うての投資家は「ネットフリックスの株は神と同じ。信じるか信じないかのどちらかだ」と述べている。





2018年6月24日日曜日

惜敗率日本一と「アサガオの話」【野田佳彦】


From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)







惜敗率日本一の落選


1994(平成6)年4月、細川護煕(ほそかわ・もりひろ)が首相を辞任した。6月には、自由民主党、日本社会党、新党さきがけによる連立政権が発足。次回の選挙から小選挙区制が導入されるため、そのままでは不利になる小さな政党は、合流して新党を結成する流れとなった。

野田佳彦(のだ・よしひこ)が所属していた日本新党は、自由改革連合、民社党、新生党などとともに、新進党を結成した。こうして迎えた1996(平成8)年10月の衆議院選挙で、野田は国政二期目を目指し、新進党から出馬した。

野田の選挙区の千葉4区で、自民党からは田中昭一が立候補していた。野田の地道な活動に対する評価に、反「自社さ」政権の票を加えれば、さほど厳しい戦いとは思えなかった。しかし、この選挙区に、鳩山由紀夫や菅直人らが結成した旧「民主党」から立候補者が出たのである。反「自社さ」票が割れることが予想された。



開票率99%の時点で、野田は210票ほどリードしていた。

「当選確実」という報道も流れたため、メディアが事務所に来はじめていた。しかし、「残票が1%あるみたいですから、もう少し待ってください」と落ち着かせた。ちなみに「残票」とは、疑問票のうち、有効か無効かが一回では判断できずに残しておいた票のことだ。

残票の確認を終えた結果は、野田の逆転負けだった。

その差は、105票。惜敗率は、99.9%。惜敗率とは、負けた候補者の獲得票数を、最多得票者の獲得票数で割って算出する。数値が100%に近いほど「惜しかった」度が高いことになる。その選挙での野田の惜敗率は、全国一だった。

選挙区に立候補した候補者は、比例区に重複立候補していれば、惜敗率の高い順に比例復活するのだが、野田は重複立候補していなかったのだ。



しかし、「大敗」も「惜敗」も、敗北は敗北、落選は落選であった。

これは後でわかったことだが、疑問票のなかに、「野田佳彦」の名前とともに、「頑張れ」「祈る必勝」「毎朝、街頭ごくろうさま」「年金問題がんばってください」といった、手紙のような投票用紙がたくさんあったのだ。このような投票用紙は「他事記載」といって無効になってしまうのだ。

駅前演説などの、野田の地道な活動を知っている人たちの、野田に対する応援の気持ちが裏目にでてしまった。



当時の野田は、

「本当に負けた気がしない敗北です。しかし、これも天命と受け止めざるを得ません。いま、西郷南洲(隆盛)の次のような遺訓をかみしめています。

『人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己れを尽くし人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』

やはり、私の思いがほんのわずか、有権者に伝わらなかった部分が敗因です」

と語っている。






落選後の浪人の日々


それから3年8ヶ月、野田は浪人生活を送った。

苦しかったのは、「何でこんな負け方をしたのか」と納得できなかった点だ。一万票や二万票の差があれば、負けたことを実感し、どこが悪かったのかを反省して、「次こそ頑張ろう」と思える。しかし、野田に大きな期待をかけてくれた人たちの票が無効になってしまい、ほとんど勝っていた選挙で負けてしまった。

「なんで俺はこんな負け方をするのか」というのが腑に落ちず、もやもやしていた。「松下(幸之助)さんは、『運はある』と言ってくれたのに、なんで俺はこんなに運がないんだ」と。このように思い悩んでいるときが、いちばん悔しいときだった。

「一人ひとりを大切に」「一票一票が大事だ」と口では言っていた。しかし、本当にそれがわかっていたのだろうか。「あのとき、もう少し強くお願いしていたら、50票ぐらい増えたのかな」「あの人に、もっと強くお願いしたほうがよかったな」「あそこでは、ちょっと遠慮してしまったな」などと、くよくよ考えた。



ストンと腹に落ちたのは、一年ぐらい経ったときだった。それは、倫理法人会の集いに行って「アサガオの話」を聞いたときのことだ。

「アサガオが、早朝に可憐な花を咲かすにには、何がいちばん必要か?」

という問いかけがあった。

野田は、

「いちばん必要なのは、太陽の光だろう」

と思って聞いていた。が、その講師は、

「あえて、いちばん必要なものといえば、その前夜の闇と冷たさである」

と話した。それは、女性のアサガオ研究者の話を引用したものらしかったが、野田は、「これはアサガオの話じゃない、自分のことだ」と感じた。



夜の闇を知ってはじめて、明かりが嬉しいと思う。

冷たさを知ってはじめて、ぬくもりが嬉しいと思う。



このときの落選まで、野田は選挙で負け知らずだった。自分なりに苦しい思いで戦っていたが、大きな挫折を経験したことがなく、闇や冷たさが大事であることは知らなかった。

「そのことに気づくために、こんな負け方をしたのではないか」

と思ったのだ。そして、松下政経塾の『五誓』を思い出した。

『万事研修の事』

すべてのことが師になり、どんな経験も教訓になる、という教えだ。「そうか、この負け方こそ『万事研修』の一つなんだな」ということが実感できた。そして、この時期、松下幸之助や政経塾のことをよく思い出した。



この浪人時代がいちばん苦しかったのだが、同時に、最も人情の機微に触れた時期でもあった。

野田はのちに、「負けて良かったとは言えないが、すごく大事な経験をさせてもらった
と語っている。





From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)



「ピンクの机」とアインシュタイン【野田佳彦】


From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)







今年はじめ、ある新聞の投書に目がとまりました。

ある小学校の図工の授業で、机の絵を描いたそうです。生徒はみな、机を茶色で描きましたが、一人の少女だけが「ピンク色」の机を描きました。

そうしたら、先生にこっぴどく叱られて、泣きながら家に帰ったという、少女の祖母の投書でした。

これを読んで、とても悲しい気持ちになりました。こんな教育をしていたら、日本からピカソみたいな芸術家は絶対に生まれません。



10年ほど前にも、似たような新聞の投書がありました。

テストで「雪がとけたら何になる?」という問題が出されました。答えは水。しかし、ある少女は「春」と答えました。雪国に住む子どもだったのかもしれません。でも、答案用紙には「X」がついていたそうです。



「ピンクの机」を描いた子も、「春になる」と答えた子も、いずれもユニークかつ素敵な感性の持ち主ではないでしょうか。でも、子供の個性や創造性は、いっさい評価されないのが、現状の教育です。





野田はまた、千葉県の高校における「退学者数の増加」にも心を痛めている。(中略)学業不振や学校不適応などが主な原因であるが、なかには、たった一教科の単位を落としたために留年し、最終的に中途退学になってしまった生徒もいたという。

野田は、物理学者のアインシュタインが子供のころに、理科と音楽以外の教科がまったく駄目だったという話を挙げて、

「もし、アインシュタインが本県の公立高校に通っていたならば、はたして進級・卒業できるでしょうか?」

と、画一的な教育に疑問を呈している。そして、「さらば平均点、伸ばせ個性の芽」をスローガンにして、たびたび教育問題に斬り込んでいったのだ。





From:
素志貫徹
内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾 (著)



2018年6月7日木曜日

「カーツワイル朗読機」との出会い【TED】




ロン・マッカラム
Ron MacCallum
私の読書を可能にした技術革新
How technology allowed me to read




 1974年にアメリカのレイ・カーツワイルが 本をスキャンして読み上げてくれる機械を 作り始めました
In 1974, the great Ray Kurzweil, the American inventor, worked on building a machine that would scan books and read them out in synthetic speech. 

当時のOCRは単一のフォントでしか 正しく動作しませんでしたが CCDのフラットベッドスキャナと 音声合成の組み合わせにより どんなフォントにも対応する機械を作ったのです
Optical character recognition units then only operated usually on one font, but by using charge-coupled device flatbed scanners and speech synthesizers, he developed a machine that could read any font. 

洗濯機のように大きな彼の機械は 1976年1月13日に発売されました
And his machine, which was as big as a washing machine, was launched on the 13th of January, 1976. 

1989年の3月に 商用化されたカーツワイル朗読機に 初めて触れた私は驚きました
I saw my first commercially available Kurzweil in March 1989, and it blew me away, 

1989年の9月に私はモナシュ大学の 法学部で準教授として 指名されたタイミングで 法学部は私が使えるようにと 導入してくれました
and in September 1989, the month that my associate professorship at Monash University was announced, the law school got one, and I could use it. 

生まれて初めて 本をスキャナーに置くだけで 読めるようになったのです
For the first time, I could read what I wanted to read by putting a book on the scanner. 

人々に親切にする必要はなくなりました! (笑)
I didn't have to be nice to people!








2018年6月2日土曜日

心は世界を「逆さま」に映す


心は世界を逆さまに映す。

われわれはその像を見て、常ならざるものを常と、楽ならざるものを楽と、「われ」と「わがもの」ならざるものをそれらと見、浄らかならざるものを浄らかだと錯覚している。

この「逆さまの見方」〈顛倒〉が苦をもたらす。





From:
ブッダの言葉



野田佳彦の「素志」


From:
素志貫徹 内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾







「わたしは政治を変えたい。知恵と体力のかぎりを尽くして」

これは、松下政経塾の卒塾提言発表会において、野田佳彦青年が発した最初の言葉である。いわば、かれの素志である。

本書は、地盤・看板・カバンなしの一青年が、文字どおり徒手空拳で政治に挑戦し、日本の内閣総理大臣になっていったプロセスを紹介している。





松下幸之助塾主がご存命であれば、

「かつてない難局は、かつてない発展の基礎となるものである」

とお話になるであろう。





「演説の名手」といわれている野田は、この演説(民主党代表選挙)で、みずからをドジョウにたとえた。

「わたしの大好きな言葉、相田みつをさんの言葉に、

『どじょうがさ、金魚のまねすることねんだよなあ』

という言葉があります。ルックスはこの通りです。わたしが仮に総理になっても支持率はすぐ上がらないと思います。だから、解散はしません。ドジョウはドジョウの持ち味があります。金魚のまねをしてもできません。赤いべべを着た金魚にはなれません。

ドジョウですが、泥臭く国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。円高、デフレ、税制改革、さまざまな課題があります。重たい困難です。重たい困難ではありますが、私はそれをしょって立ち、この国の政治を全身全霊をかたむけて前進させる覚悟であります。

ドジョウかもしれません。ドジョウの政治をとことんやり抜いていきたいと思います」

開票作業がはじまり、みなが固唾を呑んで見守っていた。





From:
素志貫徹 内閣総理大臣 野田佳彦の軌跡
松下政経塾



山崎闇斎、最大の楽しみ[心の砥石]



From:
菜根譚講話 新訳
荻原 雲来






むかし会津藩主・保科侯がある日、藩の山崎闇斎(やまざき・あんさい)に向かい、

「先生は何をもって此の世の楽しみとなさるか」

と尋ねた。闇斎はしばらく考えたうえで、

「わたしに楽しみとするものが三つあります。一つは萬物の霊長たる人間と生まれたこと、二つは文治の天下に生まれて自由に書を読み、道を学ぶことのできること、三つは楽しみのなかの最も楽しいことでありますが、これは憚りあって申し上げかねまする」

と答えた。保科侯はそれを聞き、

「ぜひとも、その最大の楽しみを申してみよ」

といわれるので、闇斎は形を改めて、

「それでは申し上げますが、他でもありません。卑賤に生まれて大名に生まれたなかったことが、楽しみのなかの最も大なる楽しみでございます。

その理由は、大名の御殿のなかに生まれ、幼少のころから婦人の手でそだち、御側近侍の者どもから何事も御意(ぎょい)にかなうよう、御無理(ごむり)御尤(ごもっとも)と崇めたてまつられるから、事の善悪も物の道理も少しも知らず、自分ほど偉いものはないように思い、生まれつき賢明な君も、のちには東も西も知らぬような馬鹿殿様になってしまいます。

それに比べると、われわれ下賤の者は、上役からも同役からも、始終叱言(こごと)や忠告をうけるおかげで、是非善悪の何事たるかもわきまえ、自然と身を修め才を磨くことになります。人間としてこれほど有益なことはありません。それで私はこれを楽しみの第一としております」

と答えたので、保科侯も「なるほど」と感心されたという話がある。







「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆(さから)ふ」

『菜根譚』に云う、

耳中常聞逆耳之言
耳中(じちゅう)常に逆(さから)ふの言を聞き

心中常有払心之言
心中(しんちゅう)常に心に払(もと)るの事あらば

纔是進徳修行的砥石
纔(わず)かに是(こ)れ進徳修行的(の)砥石なり


From:
菜根譚講話 新訳
荻原 雲来



2018年5月30日水曜日

中村元と『ソフィーの世界』


From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
2014/7/24
植木 雅俊 (著)





それは、1991年の10月9日のことであった。その翌日の午後、出先で携帯電話が鳴った。妻の眞紀子からだった。緊張した声で、「中村先生が亡くなられたみたい」と告げた。86歳であった。





中村は、自らの最期について1986年に出版された『学問の開拓』に、

「わたくしは死の寸前まで机に向かい、自分のほそぼそとした研究をまとめ続けたいと願っている。筆をもったままコトリと息絶えれば、学者として、それはそれで本望であろう」(81頁)

と綴っていた。まさに、その通りの学者として本望の姿であった。



『ソフィーの世界』に学ぶ


中村の密葬が、10月12、13の両日にわたって行なわれた。

会場正面の向かって右側に、サールナートで発掘された穏やかな表情の初転法輪坐像」の写真(表紙カバーの写真)が掲げられ、その左側に左斜め前向きで合掌する中村の写真があった。中村の依頼で写真家の丸山勇氏の作品を引き伸ばしたもので、中村が初転法輪坐像に向かって合掌している構図になっていた。

会場では、アメリカから来日していたイナダの姿を見つけて驚いた人が多かった。筆者が、中村の病状を逐一知らせていたことで、駆けつけてきたと聞いて、「植木さん、ケンによく知らせてくれた。ケンとはもう三十年来、音信不通になっていた」と東洋大学教授(当時)の川崎信定(かわさきしんじょう)が喜んでくれた。イナダと同じ年齢の三枝も再会を喜んだ。





告別式で棺の中に花を添える時、中村の胸にヨースタイン・ゴルデル著『ソフ
ィーの世界』が置かれていた。

その理由を三木純子にうかがって、中村の学問に対する姿勢を改めて教えられる思いがした。その思いを本間に伝えると、「植木さん、それを書いてください」と言われ、『仏眼』に次のようにしたためた。



生涯求道の中村元先生を悼む

印度学仏教学の世界的大家、中村元博士が10月10日に亡くなられた。86歳であった。前号で紹介したように7月に決定版「中村元選集」を完結させたばかりであった。一つの大きな山を越えたことでホッとしたところへ、この夏の猛暑。8月末に体調を崩し、病床に臥す毎日だった。前号の記事「決定版r中村元選集』の完結に寄せて」を家族の方々が喜んで下さり、先生の枕元に置いて記念撮影をされたと、長女の三木純子さんからうかがった。恐縮の限りである。

10月12、13の両日、アメリカから駆けつけたケネス·K·イナダ博士夫妻をはじめ、三枝充悳、前田專學、奈良康明、川崎信定、田村晃祐(たむらこうゆう)、森祖道(もりそどう)博士ら、中村先生の教えを受けた人たちをはじめ、東方学院関係者、身内の方々で密葬が行なわれた。

式では中村先生が日ごろから日課として朗読していた「依文三帰(さんきえもん)」と「生活信条」を参加者全員で唱和した。その「生活信条」の全文は次の通りである。

み仏の誓いを信じ 尊い御名をとなえつつ、強く明るく生きぬきます
み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
み仏の教えにしたがい 正しい道をききわけて 誠のみのりをひろめます
み仏の恵を喜び 互いにうやまいたすけあい 社会のためにつくします

その一言一句を噛みしめながら朗読した。卓越した学者でありながらも、どこまでも謙虚で、慈愛溢れる中村先生の人柄の秘密の一端を垣間見る思いであった。

40歳にして初めて難解なサンスクリット語を学び始めた私に、中村先生は人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」と励ましてくれた。それは、中村先生自身の信条でもあったのだ。

30年近く前に出された「選集」に満足せず、大幅増補·改訂されて決定版「選集」を完結させた。80歳の時の年初の講義で「今年は9冊本を出します」と言って、本当に分厚い本を9冊出した。二百字詰め原稿四万枚がなくなって、8年がかりで作り直した『佛教語大辞典』の話は有名だ。中村先生は、「やり直したおかげで、ずっといいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と語っていた。その『佛教語大辞典』についても、晩年には「まだまだ手を入れたいところがある」とも口にしていた。





中村先生は、文字通り最後の最後まで研究の集大成に挺身しておられたのだ。告別式で奥様の洛子夫人が、「主人は、自分の何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と一言挨拶した。短いが、生涯求道の中村先生のすべてを物語っている言葉だった。

お別れの時、開かれた棺の中の先生の胸の上にはヨースタイン・ゴルデル著、池田
香代子訳『ソフィーの世界』(上·下)が置かれていた。





中村先生と『ソフィーの世界』――その組み合わせがなかなか理解できなかった。「何でだろう?」。長女の三木純子さんにうかがうと、中村先生のお孫さんが持っていたその本に興味を示し、中村先生はお孫さんから借りて愛読していたそうだ。検査入院の時や、地方に出かける時、純子さんが、「荷物は何を入れますか?」と尋ねると、いつも

「筆記具と『ソフィーの世界』」

というのが答えだったという。純子さんは, 「父が読みかけだったようなので、 "向こう“でゆっくりと読めるようにと考えて、棺に入れてあげました」と話してくれた。ペーパーバックのカバーは少し擦り切れていた。哲学を分かりやすく書いたものとして、話題になった書である。

中村先生は、日ごろから「分かりやすく説くのは通俗的で、わけの分からぬような仕方で説くのが学術的であるかのように思われているが、これはまちがいだ。分かりやすく説くのが学術的なのだ」とよく話されていた。この本についても、「これからの学者は、このように子どもや一般の人にも分かるように書かねばならない」「ワシも勉強せねばならぬ」と話されていたという。

中村先生がこの書を愛読されていた事実を知って、改めて中村先生の学問への態度を教えられた思いである。

この精神を継承することが中村先生への追善となろう。
中村先生のご冥福をお祈り申し上げます。

一九九九年十一月一日
合掌
(『仏眼』1999年11月15日号)



池田香代子の涙の感動と驚き


この記事を、『ソフィーの世界』の翻訳者である池田香代子に、逸早く知らせたくて郵送した。そして、池田からメールが届いた。11月28日のことだった。それは中村の誕生日に当たり、中村の納骨の日であり、メールを受信したのは、その納骨が行なわれている時刻であった。

そのメールには

『佛眼』をお送りくださり、ありがとうございました。なんだろうと思ってページを繰っていき、ご文章に行き当たって、ほんとうに驚きました。とっさに、涙があふれました。このような大碩学が、晩年、あの入門書を楽しんでくださり、行く先々にお持ちまわりになったとは。この本にたずさわった一人として、生涯、光栄に存じます。しかも、遠い旅立ちに、ほかにいくらでも、それこそいくらでもおありだろうに、あの本を故人にお持たせになったご家族のやさしいお心、故人とご家族の深い愛の絆を思って、ご家族もまたすばらしい方々だと感じ入りました。

中村元氏は、私は直接ご本を読むような器ではありませんが、サンスクリットの詩のご翻訳は昔から拝見していました。友人にサンスクリット学者がおり、「日本には中村元しかいない」と常々言っていました。『ソフィーの世界』の編集者と監修者は、中村氏がお亡くなりになったとき、お噂をしていたそうです。その二人にもすぐさま電話で植木様のことを伝え、電話口でそれぞれに涙ぐんでしまいました。

池田香代子

と記されていた。





From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
2014/7/24
植木 雅俊 (著)





2018年5月20日日曜日

落ちて下になるのは、バター面か?


From:
日経サイエンス2017年6月号
S.マースキー
「5秒ルール」を考える





コメディアンのブースラー(Elayne Boosler)は、豊富な人間経験についてこんな話をした。

「母は掃除が大の自慢で、いつも『うちの床に落ちたものは食べても大丈夫だよ』と言っていた」

「わたしんちの床も食べられる。どっさり落ちてるから」





テレビアニメ『ザ・シンプソンズ』のホーマーは、床に落ちている一切れのパイを見つけて言った。

「うまそうなフロア・パイ!」




さらにテレビドラマ『フレンズ』には、こんなのがあった。

レイチェルとチャンドラーが、玄関の床に落ちた厚切りのチーズケーキをつついて食べているところに、ジョーイがやってきて腰をおろし、ポケットからフォークを取りだして言う。

「いいねえ、なんのごちそう?」





ここで思い出すのは、バターを塗ったパンを落とした際に、バター塗り面が上になって着地したことに不安をおぼえたユダヤの老人についての有名な話だ。

ベタベタのバターが床に触れずにすむのは幸運に思えるかもしれない。だが、この世は憂き世であるからして、この老人は

「宇宙が創造主の遠大なる永遠の計画にそって機能していないのではないか」

と不安になった。そこで老人はラビに相談した。ラビは数日にわたって研究と熟慮を重ねたすえに、科学的な説明にたどりついた。いわく、

「バターを塗る面が間違っていたのである」





いずれにせよ、わたしの場合、下になるのは決まってバターを塗ったほうの面だ。





From:
日経サイエンス2017年6月号
S.マースキー
「5秒ルール」を考える

2018年5月19日土曜日

ひらかなかった落下傘【野田佳彦】


From:
10M TV オピニオン
松下幸之助
『俳優でもやるのかと思われるほど笑い方を磨け』


話:野田佳彦




わたしの地元(千葉県船橋市)に陸上自衛隊の第一空挺団の落下傘部隊があるじゃないですか。

その落下傘部隊が北海道へ演習にいって、300メートルのところから降下をしたのです。そうしたら、落下傘のひらかない隊員が一人いた。それで、

「予備傘は開いたのか?」

と聞いたら、予備傘も開かなかった。ということは垂直落下です。

「現場を確かめに行け」

ということで向かったら、その隊員が雪のなかに立っているというのです。

「突き刺さったのか? もっと近くに行って見ろ」

といって近づくと

「しゃべっている」

というのです。しゃべっているということは生きていたのですよ。


雪が30cmぐらい積もっていたのと、寸前に、落下の5メートル手前で、さっと落下傘が開きかかったことが、(落下速度が)時速14km以上だと死ぬのですけれど、13.数kmでギリギリとどまったという奇跡がおこったのですよ。

すごいのは、その隊員は、平素の厳しい訓練をそのまま地面に落ちるまでやろうと思って、気を失うこともなく、落下地点を見つめながら、どう着地するか諦めないでずっといたということです。

これなのです。

わたしは「これだ」と思いました。

「運」とは諦めないこと。

最後まで諦めないでいること。






From:
10M TV オピニオン
松下幸之助
『俳優でもやるのかと思われるほど笑い方を磨け』

2018年5月18日金曜日

怒る日本人、落ち着くタイ人


From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』





日常生活における仏教


さて、タイで生活していると、日本よりも格段に仏教を身近に感じるようになります。托鉢僧はバンコクの町中でもよく見かけますし、「本日は入安居のためアルコール販売できません」といった張り紙ひとつにも、仏教がタイの生活に根づいていることが感じられます。

とくに私の場合は公立学校で働いているため、さらに仏教や僧侶を身近に感じる機会にめぐまれました。朝礼では国歌斉唱のあとに毎朝みじかいお経を全校生徒(他宗教の生徒はのぞきます)が唱えますし、月初めには、長めのお経を30分ほどかけて、全校生徒で唱えます。

また、わたしが勤めている学校では、毎週金曜は朝礼前に僧侶が読経と説法をおこない、お布施の時間がもうけられています。そのほかにも、お釈迦さまの前世についての物語を2日かけて僧侶が語る「テートマハーチャート」という行事も毎年ひらかれています。

また、毎日ではないですが、朝礼時に全校生徒が3分ほど瞑想をおこなうこともあるし、遅刻がおおくて出席点があやうい生徒に、放課後に1時間単位で瞑想させることもあります。

このように、幼少期から身近にある仏教が、個々人の行動様式に一定の機能をはたしていることは十分考えられると思います。


怒りの対処の違い


たとえば「怒り」の感情に対して、日本人とタイ人ではその取り扱いかたがずいぶん違います。

日本ではとちらかというと、怒りに対して肯定的ではないものの、「怒らせる原因をつくった相手」のほうが悪く、TV番組などを見ていてもわかるように、「その怒りはごもっとも」といった文脈に帰結される場合も多いように感じます。

しかしタイにおいては、「怒りという感情に飲まれる」ことは、人間的に成熟していない、と一般的には理解されています。

余談ですが以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある日系企業において、日本人の上司が何度も同じ失敗を繰り返す部下のタイ人に対して、「なんど教えればわかるんだ」と怒りを露わにしたところ、当のそのタイ人の部下が「まあ落ち着いてください」とお菓子をさしだし、それを見た日本人の通訳が、あわててお菓子をとりあげた、という笑い話のような話なのです。

これは日本人的文脈からいうと、どうしてさらに火に油をそそぐようなことをするのだ、となるわけです。しかし、その部下のタイ人からすれば、そのときになすべき最優先事項は、怒りに飲み込まれ、我を失っている上司に冷静になってもらうことだったのでしょう。

日常的によく耳にするタイ語に「チャイイェン」という言葉があります。「チャイ」が心で「イェン」が冷たいという意味なのですが、これは冷たい心という意味ではなく、心を冷静に保つという意味合いをもちます。

だれかが怒りにかられていると、まず「チャイイェンコーン(まずは冷静になってから)」と言葉がけをし、そこから話をしましょうという姿勢をタイ人はよく見せます。日本人からしてみれば、「怒らせている原因をつくっているのは相手なのに、それに対して怒っている自分が、なぜ責められなきゃならないんだ」と、また怒りにかられてしまうという悪循環におちいるわけですが、「怒り」というのは、ご存知のように仏教的文脈においては、煩悩のひとつとして滅するべきものであり、どんな理由があるにせよ。良きものをなにも生み出さないという共通の考えがタイ人にはあるようです。

怒り狂う上司になんとか冷静になってもらおうと思ってとった、日本人の目からすれば「とんでもない」その部下の行動も、その文脈からみれば理解可能なものだといえるかもしれません。





From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』

2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻






九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。



書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。








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宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌