2014年5月30日金曜日

しゃがめないフランス人




引用:矢田部英正『日本人の坐り方







 フランスの民俗学者であるマルセル・モースは、ある文化や習慣によって培われた立居振舞いには固有の法則性があることを発見し、これを「身体技法(techniques du corps)」と名づけた。

 モースが身体技法論の着想を得たきっかけの一つには、彼が兵士として戦地に赴いたときの苦い経験がある。それは兵士たちが休息をとるときの出来事で、土壌がぬかるんでいたり、水たまりがあったりすると、フランス兵は休むために足を濡らしてしまったり、長靴を履いたまま立ち続けたりしなければならなかった。

 ところが一緒にいたオーストラリア出身の白人兵は、カカトの上にしゃがみ込んで身体を休めることができた。この点に関しては、オーストラリア人兵士に劣っていることを、認めざるを得なかった。



 「水(flotte)は彼らのカカトの下にあることになった」とモースの言ったこの坐り方は、単純に「しゃがみ込む姿勢」のことだった。

 そしてフランス人でも子どもたちは、当たり前のようにしゃがみ込むことができるのに、大人になるとこの姿勢ができなくなるのは、社会習慣による身体機能の退化であるとモースは考えた。そしてしゃがむ行為を「子どもから取り上げてしまうのは最大の誤りである」と強い調子で主張する。







 もっとも欧米社会は日本とちがい、学校でも家のなかでも靴を脱がない。したがって床に坐ったり、しゃがみ込んだりする姿勢については、衛生面からタブー視される雰囲気が社会全体に漂っているようなところがある。したがって床に坐る習慣をもたない欧米人の成人の足首は、当然の結果として極端に可動域が狭いことになる。

 それは程度の差こそあれ、和式のトイレに坐ることができなくなりつつある現代日本人にも、同様の身体の退化現象が起きているといえる。

 現代で「踵坐」というと、相撲取りの「蹲踞(そんきょ)」に見られるくらいで、昔の人のようにカカトの上に坐って作業をしたり、歓談をしたり、といったことはほとんど見られなくなった。床坐から椅子坐へと生活様式が変化していくなかで、地面にしゃがむことをしなくなり、マルセル・モースの賢察どおり、日本人の足首や股関節の柔軟性も大きく退化してきているだろう。










出典:矢田部英正『日本人の坐り方




「正坐」と言わない夏目漱石




引用:矢田部英正『日本人の坐り方







 「正坐」という言葉は、明治期の礼法教育が日本全国に普及させたひとつの坐り方を、唯一の正しい基準として結び固める役割を果たした。まさにそれは学校教育が新たに制定した近代日本の文化基盤のひとつとして、いまなお私たち日本人の意識を支配している。私たちが伝統文化であると思っていた「正坐」とは、まぎれもなく近代日本の教育推進策の産物だったのである。



 坐り方に関する言葉については、文学の世界に目を転じてみても、作家の世代によって明確な差があらわれているようにみえる。

 たとえば夏目漱石の小説には「正坐」という言葉が出てこない。武蔵大学で言語学を教えておられる小川栄一教授からご指摘をいただいて、全集を調べ直してみると確かにその通りであった。登場人物の坐り方をあらわす表現に、漱石は「端座(たんざ)」「かしこまる」、それから「跪坐」と書いて「かしこまる」と読ませたりする。



 たとえば明治38年(1905)から翌年にかけて書かれた『吾輩は猫である』を見ると、


此座布団の上に後ろ向きにかしこっまて居るのが主人である。

六尺の床を正面に一個の老人が粛然と端座して控えて居る。


などと出てくるが、「かしこまる」「端座」とは、いまでいう「正坐」の坐り方にちがいない。

※端座とは、端正に坐るということの他にも、坐次(席順)を重視した殿中の儀礼においては「下座の端から坐る」という折り目正しさも求められたことを意味している。







 登場人物はどちらもキモノを着ていたことが文脈から想像されるけれども、漱石が小説を発表しはじめる明治の終わり頃には、西洋化の国策が徐々に社会に浸透しはじめ、学校の教員も日常的にスーツやスラックスを着用して教壇に立つようになってきていた。

 小説のなかでは洋服で「正坐」をすることの不具合も描かれていて、たとえば『坊っちゃん』に出てくる酒宴の場面では、


おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡座(あぐら)をかいた。

うらなり君がおれの前へ来て、一つ頂戴致しましょうと袴のひだを正して申し込まれたから、おれも窮屈にズボンの儘かしこまって、一盃差し上げた。


とある。舞台となる四国の中学校教員の姿は、袴とズボンとそれぞれの出で立ちが描かれているけれども、やはり畳に床坐の場面では、洋服という服装は何かと「窮屈」を強いるものであったことが読み取れる。

 坊ちゃんの穿いていた、当時のスラックスがどのような形のものであったのか、想像の域を出ないけれども、腿や腰の身幅がピッタリとしたノータックのストレートスラックスだったかも知れない。とくにテーラー仕立てのスラックスの類いは、前後に足をまっすぐ見せるための折りたたみ線が入っているから、床に坐ると皺が定着して型崩れを起こしてしまう。

 いずれにせよ洋服は、床に坐ることを想定してつくられていないから、日本の伝統的な生活スタイルとは容易には折り合いがつかず、その微妙な感覚のズレを、どうも寛げない、落ち着けない、窮屈だとして、何となくからだが感じ取っていた時代の様子を、こうした小説の件(くだり)からも垣間見ることができる。







 「かしこまる」という言葉が内包する抑制感を、「正坐」と切り離せないものとして、漱石は捉えている。そして、慶応三年(1867)、つまり江戸時代の最後の年に生まれた夏目漱石の言語感覚には、「端座」「かしこまる」といった古来の呼び名が定着していて、「正坐」という近代の言葉は、馴染まなかったか、もしくは存在しなかったようである。

 ところがその弟子である寺田寅彦は、昭和七年(1932)に書いた「夏目漱石先生の追憶」という随筆のなかで、自宅における漱石の居ずまいを次のようにあらわしている。


 先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。

しかし自宅にいて黒い羽織を着て寒そうに正座している先生はなんとなく水戸浪士とでもいったようなクラシカルな感じのするところもあった。


 寅彦の描く「端然として正座」する漱石の坐り方は、かつて「端座」と言われていたものだろう。「端正」「端然」といった形容のなかにも、無駄のない、洗練された、古来の力強い形式が、生活空間のなかで静かに息づいている様子がみえるようだけれども、漱石の作品を読んだ後に、「正座」という言葉を普通に使っている寅彦の随筆を読むと、文体そのものにも近代的な明るさが感じられないだろうか。



 それに比べると、漱石の初期の小説は、『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』などにしても、内容はいたってユーモラスだけれども、「端坐」「かしこまる」といった人物を描くときの言葉遣いからして、だいぶ寅彦より古風な印象を受ける。

 もっとも夏目漱石は、英文学者から小説家へと転向し、漢文や俳句の素養もそなわった文化人である。一方、寺田寅彦は物理学者としての業績を残すかたわらで、随筆などに優れた才を発揮した人物であった。もとの頭脳が科学者である寅彦の明晰さは、その文体からも推し量れないではないが、二人の文豪の間にそうした素養のちがいはあったにせよ、「正坐」という言葉をめぐる両者の言語感覚の相違は、当時の日本に存在した全体的な言葉の潮流のあらわれと言える面もあるように思う。







 しかしながら、くり返し言うが、「正しい基準」というのは、それが定まると同時に基準と対立する「正しくないもの」を排除してしまう。

 近代以前は、「胡座(あぐら)」も「安坐」も「立て膝」も有用な坐り方として生活のなかに位置づけられていたのだが、「正坐」が正しい基準になってからというもの、いつのまにか基準から外れた「崩れた作法」とのレッテルを貼られてしまった感がある。しかしそれは永い永い日本の伝統から考えれば、ごく最近につくられた近代文化のなかの基準のひとつにすぎない、というのが本当のところではないだろうか。










出典:矢田部英正『日本人の坐り方



反物の寸法と、女性の坐り方




引用:矢田部英正『日本人の坐り方







 「端坐(正座)」の作法は、極めて格式の高い武家儀礼のなかで形式が定まった。ところが時代が下っていくにしたがって、この坐り方は女性たちの間で広まっていくことになる。実はこのことは、当時の服飾様式の変化と密接に結びついているようなのである。

 江戸時代の寛永年間(1624〜1644)、幕府が反物の寸法を改定する禁令を出したことがもとで、キモノの身幅が急に狭くなっていく。



 佐藤泰子氏の『日本服装史』によれば、室町時代の小袖は、丈が短く、身幅が広く、袖幅が狭いという特徴があり、こうした小袖の様式は江戸時代初期まで継承されていた。女性でもゆっくり胡座(あぐら)をかけるほど広かった身幅が、絹や綿の反物の寸法が改められ、それがもとで裁断の仕方も変化したため、寛永八年(1631)には、現代のキモノとほぼ同じ寸法に落ち着く。さらには、同時に起きた帯幅が太くなっていく傾向も女性の動作に大きな影響を与えるのだが、ここでは身幅の問題だけに絞ろう。

 キモノの寸法の変化は、着こなしや立居振舞の美意識が大きく変化したことを意味している。つまりキモノを着たときのシルエットを横に広げようとする室町風の美意識から、むしろ身幅を狭くして、縦方向の丈を長くとり、屋内では裾をひきずり、必要に応じて褄(つま)をとったりお端折(はしょ)りして裾を上げるスタイルを好しとする風潮へと、時代の要請が変化していったということである。

 キモノの身幅が狭まることによって、大股で歩いたり、足を横に広げたりすると、当然の結果として足が露出してしまうし、「胡座(あぐら)」や「安坐」の姿勢をとろうものなら下半身の奥まで人目にさらすことになりかねない。室町時代には女性も普通に行っていた「胡座」や「安坐」の坐り方が、江戸時代の女性にほとんど見られなくなるのは、おそらく幕府が改定した反物の寸法と密接な関係があるだろう。







 姿勢や作法の嗜(たしな)みは日々の動作すべてに関係するから、御上から口うるさく言われても、ついつい楽な方へと崩れてしまいがちになるのは、いまも昔も変わらないわれわれ庶民の心情であるかもしれない。そうした庶民の心裡を見越した徳川幕府は、反物の寸法に規制をかけることで、とくに女性が慎ましく膝を閉じて生活するように仕向けたのではないだろうか。

 女性が膝を開いて坐ることを「はしたない」と感じてしまう心理も、どうやらこうした幕府の禁令によって、政治的につくられたもののようである。












出典:矢田部英正『日本人の坐り方



2014年5月29日木曜日

氣は相対するものか? [藤平光一]




引用:藤平光一『氣の確立






 先生(植芝盛平)は「えいっ」と掛け声をかけ、これで氣が結べたとおっしゃる。しかし私には、なぜそれで氣が結ばれたことになるのか、皆目わからなかった。



 先生が氣結びをやれば、私も一緒にやったのだが、どうにも理屈に合わないような気がして仕方がなかった。仮に天と自分とが氣を結ぶとする。ということは、天と自分は相対していることになるはずだ。

 合気道というのは氣に合する道である。それはわかっていた。だから、相手が二でくれば、こちらは八を合わせて、二と八で十。五でくれば五で合わせて十にする。こうして相手の氣に合わせるのが合気道の極意だということである。



 しかし私は、どうしてもそれに納得がいかなかった。たとえば後に私は戦地で八十人の兵隊を預かっていたが、いくらなんでも八十人もの兵士すべての氣に合わせ切れるものではない。人によってそれぞれ違うし、全員に特徴がある。

 そのうち八人だけでもかかってくれば、その八人それぞれが違うのだ。一瞬の戦いのなかで、それぞれ別個に氣を合わせていくことなど、本当にできるのだろうか?



 やがて私は、天地が一つであることに気がついた。つまり、氣を天地に合わせるだけという、たった一つの方法でよかったのだ。

 なぜなら人間は、天地と対立するものではなく、天地の氣の一部なのである。それなのになぜ、わざわざ相対して結ばなければならないのか? そんな必要はない。

 先生が氣結び、氣払いと言ったために、今ではだれも本当の氣のことがわからなくなってしまった。氣結びだの、氣払いだのという言葉は、本質とは無縁のものなのである。










抜粋:藤平光一『氣の確立



リラックスしていればこその不動 [藤平光一]




抜粋:藤平光一『氣の確立







 当時、中野から慶応がある日吉まで行くには、渋谷経由で電車を使っていた。

 そのときの車中でも私は、いつも統一体の稽古をしていた。

 電車は嫌でも揺れる。最初は空手のように全身に力を入れていたほうが強いと思っていたので、思い切り力んで立つ。すると電車が左右に揺れるたびに、ばたんとひっくり返ってしまう。



 そのうち、リラックスすることの重要性がわかってきた。

 きっかけは電車の中の鉄柱だった。

 電車の中で鉄柱を見ていると、電車が動くときに鉄柱も一緒に動いている。ならば、この鉄柱になってしまえばいいのではないか、と思ったのだ。

 それにはまず、全身をリラックスさせることが重要だ。

 電車が動くと、自然に身体も動揺するのに任せていた。するとおもしろいことに、いつまでたってもひっくり返らない。



 たとえば高層ビルは、常に微動するように設計されている。逆に不動に設計してしまうと、風や地震で簡単にひっくり返ってしまうらしい。

 ということは、やはりそれも天地の理なのである。

 リラックスしていればこその不動——もちろん、ほんの少し、振動で揺れるぶんにはかまわない——なのだ。

 電車が動けば、乗っている人間の身体も揺れるのが当たり前だ。ところがそれに逆らい、常に電車が動く方向の逆へ身体を動かしていなければ不安になるのが人間だ。そこに力が入っていれば、当然のようにバランスを失い、ひっくり返る。何のことはない、自ら理不尽なことをしているだけなのだ。



 それを覚えてからは、船に酔うこともなくなった。素人は必ず、船の動きに抵抗する。しかし、長年、船に乗りなれた船員を観察していると、船の揺れるとおりに身を任せている。なんとも当たり前のことである。ならば、自分もそのとおりにと思い、船と一緒に動いていれば、逆に身体はぜんぜん揺れなくなる。

 つまりはそれが、リラックスなのである。



 私が最初にこのリラックスを意識したのは、一九会でのことだった。

 みそぎで疲れ果てて、そのまま合気道の道場に行けば、身体も思うようには動かない。

 ところが不思議なもので、その状態のほうが、なぜか相手の技にかからなくなるのだ。

 これは簡単な理屈で、それまで力を入れて相手の技に逆らっていた。ところが疲れ果てていれば、嫌でも力など入らない。つまり、力を抜いたほうが強いということだ。

 では、力を抜くとはどういうことか?

 それこそまさに、リラックスにほかならなかったのである。










出典:藤平光一『氣の確立



禅病 [藤平光一]




話:藤平光一(『氣の確立





 実を言うと、一時期は坐禅をやりすぎて、いわゆる「禅病」になったこともある。

 何を見ても「空(くう)、空…」——こうなると、ノイローゼの一人歩きといってもいい状態だ。駅のホームに電車が入ってきても、「これも空じゃないか」と思ったなら、平気で電車に向かって歩いて行ってしまう。

 もちろん本人は、心のどこかでわかっている。このまま電車に飛び込んだら死んでしまうな、とは感じている。しかし、まるで夢うつつのように、現実と空想の境目がわからなくなってしまうのである。

 だから、ビルの屋上に行って、ああ、きれいな花をとりましょうと、宙に踏み出して死んでしまう、などということが実際に起こる。

 現実と坐禅の境界線がわからなくなると、まさにその状態になる。

 道を歩いていても、蝶が舞う春先には、蝶の存在が信じられない。この蝶は、私だけに見えるのではないか、もしかしたら誰にも見えないのではないか。実際、手をのばしても蝶はつかまらない——だんだん現実というものに自信がなくなってくる。最後に苦しくなって、首を吊って死んでしまう人も出てくる。



 もちろん坐禅には坐禅としての効果や意義がある。しかし、坐禅だけでは神経衰弱になってしまうこともある。







抜粋:藤平光一『中村天風と植芝盛平 氣の確立



2014年5月28日水曜日

思い込みを除く、バルテュスの鏡




抜粋:NHK日曜美術館「バルティス 5つのアトリエ」



かのピカソをして、当代において最も重要な画家といわしめた巨匠。

バルテュス(1908-2001)

92歳で亡くなる間際まで絵筆を取りつづけた生涯は、つねに賞賛とそれと同等の誤解に満ちていました。彼の評価を二分してきたのは、少女をモデルにした官能的な作品の数々。

それをよりミステリアスにしているのが、彼のボヘミアンのような生涯です。旅するようにアトリエを移しながら、自らが信じる美を追求し続けました。







井浦新「バルテュスは、アーティストに愛されるアーティストというような印象が強いですね」

伊東敏恵「そうなんですよね。実際に、ミュージシャンのU2のボノやデビッド・ボウイが熱烈なファンだったそうで、ボノに関して言うと、実際にバルティスの葬儀にも参加をしていたり。あと、デビッド・ボウイは自分でバルテュスの肖像画を描いて、それをバルテュスにプレゼントしたりも」



ある時期から、まだ若い日本の女性を描いた作品を目立つようになります。彼女の名前は出田節子(いでた・せつこ)。のちに妻になる女性です。

2人の出会いは京都。バルテュスは、フランスで開く日本美術展の出展作品を選ぶため訪れていました。節子さんは上智大学でフランス語を勉強する20歳の学生。54歳のバルテュスは節子さんに心を奪われ、もう一度会って肖像画を描きたいと申し出ます。

以来40年、節子さんはバルテュスが息を引きとるまで側にいて、モデルとして妻として支えることになります。







節子「画家(バルテュス)は、画布に近づいて絵をかいて、そしてその絵がいいかどうかっていうのは、必ず離れて見るんですね。

”こうしたい”という強い思いがある場合は、思い込みの気持ちで物を見ることが多くなるので間違いがある。見つけられにくい、と。

で、(アトリエに)鏡が置いてございますけども、その鏡はやはり、その絵に写すことによって反対になりますでしょ。反対に絵を見ることによって、構図上の過ちというか、バランスの問題の間違いを見つけやすいということで、鏡をよく使って見てました」







彼が遺した言葉

「私は自分の絵を理解しようとしたことは一度もない。作品には何か意味がなくてはならないのだろうか? そう思ったから、私はめったに自分のことを話さなかった」






(了)




マテ茶の精神




サッカー大国、南米パラグアイ

小澤英明は、その異国の地にとびこんだ。18年間プレーしたJリーグを離れて。



「チームに溶け込もう、認められようともがいていた時、みんなが回し飲みしている飲み物があることに気付いたんです」

それが『マテ茶』だった。

マテ茶は、コーヒーと紅茶(中国茶・日本茶を含む)にならぶ”世界三大飲料”ともいわれている。



「最初は躊躇しましたが、勇気を出してその(回し飲みの)輪に加わってみました。するとチームメイトとの距離が一気に縮まった。日本で言う”同じ釜のメシをくう”みたいな感覚ですかね」と小澤は微笑む。

ビタミンやミネラルが豊富なマテ茶。肉料理中心の南米諸国にあって、マテ茶は”飲むサラダ”として日常に浸透しているという。

「これは何か力のある飲み物だと直観しました。味わいもスッキリして美味しいし、身体だけでなくメンタルに作用する部分があることも知ってほしい。今この一瞬を精一杯生きるという気持ちにさせてくれるんです」



パラグアイに渡り、早4年。

いまや小澤は、回し飲みにすっかり溶け込んでいる。

「あとでわかったことですが、回す方向は必ず時計回り。なぜかというと、”仲間たちと同じ時を刻む”という意味が込められているから」






(了)








2014年5月26日月曜日

虚体で立つ [斎藤豊]




「”動きから感情を抜いていくこと”は、形を練習するうえで非常に重要だ」

と斎藤豊師は語る。



この考えは、新たに稽古で取り組みはじめた天神真楊流柔術においても言えることだという。

「天神真楊流に『片胸取(かたむなどり)』という形があるのですが、座して向かい合った一方が相手の胸を取るとき、この形がきちんととれると相手が打ち込めない状態となるんです」

試しに、斎藤師が後ろに立てた膝を前へ倒したり元に戻したりすると、そのたびに相手の攻撃が届いたり届かなかったりする。

「これは捕の意志とは関係なく起こるんです。ある状況において必要な条件を満たせば、技はかかる。そこに感情や想いといったものが介在しないのが”術”だということです」

「形を練っていくうちに、”形とは、自由に動くときの身体の感覚、あるいはその身体そのものをつくるものだ”と考えざるを得ない状態になりました。そうした動きだからこそ、自分の身体や感覚に集中できるのが古流の形だとおもいます」



たとえば伝書には「虚体となりで立居る」とある。

「この立ち方は、”ぎりぎり立っていられる最低限の力で立つ”というものでした。最小の力で立つこと。そのバランスを保ちつつそのまま動くことで、相手は倒れてしまうのです」










出典:DVD付き 月刊 秘伝 2014年 05月号 [雑誌]
斎藤豊「伝書から紐解く”やわら”の術理の世界」



2014年5月19日月曜日

覚悟 [高橋歩]


”必要なのは勇気ではなく覚悟”

決めてしまえば、すべては動きはじめる(高橋歩)






ソース:高橋歩『FREEDOM




2014年5月15日木曜日

思案なし



話:手島堵庵




 東郭子いわく

 この(盤珪和尚の)不生といふはすなわち身どもがつねに言ふ”思案なし”のことでござるほどに、和尚の説法もおなじことでござる。不生といへばまだ聞きつけぬ人もござるゆへに、身どもは思案なしの所を知らしやれイといふ事でござるワイ。

 人はもと思案なしに見聞動きて、事欠けはござらぬ。思案なき時、我といふものはござらぬ。もし思案なき時、我といふものがあるといふ人があらば、どこにござったか云てみさッしやれイ、ありやしますまい。我がなければ私というものはござらぬ。

 『大学』には、みづからあざむく事なかれといふてあるは、人のせまい事をするは、みな思案が身の勝手をさせる事でござる。さすれば思案は本心に背くゆへ、何事でも思案が出たならば、その時はよくよく思ひわけて思案に流れないといふことでござるワイ。



 また問う、「こなたは思案なしで居よと、おほせられるども、私どもが思案なしに物事をとりさばきいたさば、如何やうな悪しきことをいたさうも知れませぬ。それでも思案なしに成り居るがようござりますか」

 東郭子曰、これは善い不審でござる。そうじて何事も思はぬといふことでござらぬ。思ふと、思案とは大いに違ふたことでござる。

 人は活動ゆへ少しの間も思はぬといふことはござらぬ。それをたとへば、本心は五体のごとし。首も、手足も、身うちが少しの間も動かずにいませうか、思ひは身の動くと同じことで、心の動くはたらきでござる所で、本心の通りにしたがひはたらいて善なもので微塵も本心の害はしませぬ。思案といふは、この思ひを汎めるをいひますワイ。



 むかしから、思案は悪ぢゃといふ人は一人もござらぬ。これは何れもの心得やすきために、身どもが初めて”思案はみな悪ぢゃ”といふて聞かせますことでござるワイ。思案がみな悪なわけをいふて聞かせませふ、よう聞かッしやれイ。

 先いづれも少しも思案せずに、今ここで何ぞ悪いことをしてみさッしやれイ。さアでけませうか、思案はたくみでごある。少しもたくみなしには、悪いことはできますまいが、なんとそうぢゃござらぬか。まだそれで合点がゆかずばたとへて聞かせませふ。

 朝寝所で目のあきたる時、そのまま起きれば、こころの内に何ともござらねども、かの悪な思案が出まして、今朝は寒いの、夜前夜ふかししたのと、身勝手をすすめて引きとめます。そこでまた本心が寝ていても気のすまぬ正直者ゆへ、思ひは善なもので、さやうの思案は無用といふて、起きんといたせば、また思案がさようにしては身がつづかぬの何のかのといふて止めます。しかれども、本心の光は強いもので、またそれを叱りまして、起きんとします。このせりあいの時が、そなたの紛らはしがるところでござるワイ。

 そこで世の人が善い思案と覚えているが、この本心の思ひのことでござるワイ。悪な思案の出たとき、またもとの本心の善な思ひかへすゆへ、その思ひも思案のやうに覚ゆれども、それは思案でござらぬ。



 また孟子も、心の官(やくめ)は思ふと仰せられて、人は善く思ふといふ心の善なはたらきがあるゆへ、本心に背かぬと仰せられたも、この思ひが悪な思案を選り分けますがゆへでござりますワイ。

 仏家にも正念(しょうねん)と申すは、この思ひのことでござる。有念(うねん)といふはみな煩悩で、思案のことでござるワイ。無念といふも正念のことでござる。無念といふは念のないといふことではござらぬ。念のないに無念といふことはありませぬ。正念なれば念を覚へぬゆへ、無念といひますワイ。無念と覚えたら、なんのそれが無念でござらふ。なんとさうぢゃござらぬか。






出典:手島堵庵『坐談随筆』



2014年5月9日金曜日

ふたつながらに厭わざる [李白]




相看両不厭

相(あい)看(み)て
両(ふたつ)ながら厭(いと)わざる



李白『独坐敬亭山』








やむをえざるに寓する [荘子]



无門无毒

門もなく毒(とりで)もなく
(心に)出入の門もつくらず守る砦もつくらず

一宅而寓於不得已

宅を一にして已(や)むを得ざるに寓す
心のすみかを一定させて、人の力ではどうしようもないものに身をまかせる








抜粋:『荘子 第1冊 内篇』人間世篇
翻訳:金谷治




2014年5月8日木曜日

犬に仏性ありや




趙州和尚 因僧問

趙州(じょうしゅう)和尚、因(ちな)みに僧問う
ある僧が、趙州和尚に問うた

狗子還有仏性也無

「狗子(くす)還(は)た仏性(ぶっしょう)有りや」
「犬にも仏性がありますか」

州云

州云く
趙州は答えた



「無」
「無い」






同一眼見 同一耳聞

同一眼(どういつげん)に見、同一耳(どういつじ)に聞く
(歴代の祖師らと)同じ眼で見たり、同じ耳で聞く



将三百六十骨節 八萬四千毫竅 

三百六十の骨節、八万四千の毫竅(ごうきょう)を将(も)って
360の骨節と8万4,000の毛穴すべてをもって

通身起箇疑団 参箇無字

通身に箇(こ)の疑団を起こして、箇の無の字に参ぜよ
からだ全体を疑いの塊りにして、この無の一字に参ぜよ



如奪得関将軍大刀入手

関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く
まるで関羽の大刀を奪い取ったがごとく

逢仏殺仏 逢祖殺祖

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す
仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺す







狗子仏性 全提正令

狗子(くす)仏性、全提(ぜんてい)正令(しょうれい)
犬に仏性あるかどうかと、丸出しされた仏陀の命令

纔渉有無 喪身失命

纔(わずか)に有無に渉(わた)れば、喪身(そうしん)失命(しつみょう)せん
有無の話をしたとたん、たちまち命を奪われる






抜粋:『無門関 (岩波文庫)
翻訳:西村恵信




大道無門




無門為法門

無門を法門と為(な)す
入るべき門の無いのを法門とする



従門入者不是家珍

門より入る者は是(こ)れ家珍にあらず
門を通って入ってきたものは、家の宝といえない

従縁得者終始成壊

縁に従(よ)って得る者は終始成壊(じょうえ)す
縁によってできたものは始めと終わりがあって、成ったり壊れたりする



無風起浪

風無きに浪を起こす
風もないのに浪をおこす

好肉剜瘡

好肉に瘡(きず)を剜(えぐ)る
きれいな肌にわざわざ瘡をえぐる



掉棒打月

棒を掉(ふる)って月を打ち
棒を振り回して、空の月を打つ

隔靴爬痒

靴を隔てて痒(かゆがり)を爬(か)く
靴の上から痒みを掻く



不顧危亡 単刀直入

危亡を顧みず単刀直入せん
身命を惜しむことなく、ずばりこの門にとびこむ



設或躊躇

設(も)し或いは躊躇せば
もし少しでもこの門に入ることを躊躇するならば

也似隔窓看馬騎

也(ま)た窓を隔てて馬騎を看(み)るに似て
まるで窓越しに走馬を見るように

眨得眼来 早已蹉過

眼(まなこ)を眨得(さっとく)し来たらば、早く已(すで)に蹉過(さが)せん
瞬きのあいだに、真実はすれ違い去ってしまうであろう




大道無門

大道無門
大道に入る門は無く

千差有路

千差(せんしゃ)路(みち)有り
到るところが道なれば

透得此関

此の関を透得(とうとく)せば
無門の関を透過して

乾坤独歩

乾坤(けんこん)に独歩(どっぽ)せん
あとは天下の一人旅






抜粋:『無門関 (岩波文庫)』 無門慧開の自序
翻訳:西村恵信




笠の上の笠



笠上頂笠

笠上(りゅうじょう)に笠を頂く

乾竹絞汁

乾竹(かんちく)に汁を絞る



引用:『無門関 (岩波文庫)』 習庵の序




「意訳は読むな!」


話:足立大進(円覚寺)


「不立文字」を標榜する禅に、典籍がもっとも多いのは奇妙である。

 他の宗門では、その宗祖の言行が教綱であり、そこに教理が立てられ、教化が行われる。まるで一本の傘下に帰するがごときである。

 一方、禅門では歴代の祖師は「直指人心」の旗印の下、それぞれ独自の宗風を挙揚される。喝雷棒雨の険峻あり、灰頭土面の応接ありである。把住・放行自在、ついには「逢仏殺仏・逢祖殺祖(臨済)」の活作略にいたる。

 接化の方便たるや、仏典・祖録は言うまでもなく、『四書五経』をはじめ中国のあらゆる文辞をもちい、さらに方言・俚語をも駆使し、じつに奔放なものである。まさに、千人の祖師あらば千本の傘の観をなした。そこに禅の本領がある。



 そうして用いられた禅語を網羅し、上梓することは至難のわざである。近年になって、禅語の意訳を付した『禅林句集』が幾種か刊行され、便利で役立った一面もあるが、それが意訳であるがために禅語本来の趣きが薄れ、妙味を損する弊も見られた。

「意訳は読むな!」と先師、朝比奈宗源老漢に叱責されることも多かった。

 岩波書店のご尽力をえて、やっと陽の目を見た。現代語訳と訳註もと求められたが、先師のお叱りもいまだ耳底にあり、割愛した。



胡言漢語休尋覓
胡言漢語(こごかんご)尋覓(じんみゃく)することを休(や)めよ

刹竿頭上等閑看
刹竿頭上(せっかんとうじょう)等閑(とうかん)に看(み)よ







引用:足立大進『禅林句集 (岩波文庫)