2016年1月19日火曜日

バックステージに消えた、スティーヴ・ジョブズ



話:David Gelles








1981年6月6日の土曜日、蒸し暑い夏のボストン。

ボストンコモン公園にほど近い巨大ホテル、パークブラザの天井の高いボールルームには、オタク風情の聴衆がシャンデリアの下でひしめき合い、時代の予言者として崇められている男の登場を待っていた。

群衆のほとんどは若い男性で、パーソナルコンピュータの熱狂的なファンであり、のちに私たちの生活も仕事も一変させる大革命の先陣を切るコンピュータマニアたちだ。彼らの待ち望んでいるゲストは、スティーヴ・ジョブズだった。





当時まだ26歳の若者だったジョブズは、ほんの数ヶ月前に突如、世界的なスターダムにのし上がっていた。彼が友人と設立した企業、アップルは、上場を果たしたばかりだった。フラッグシップとなる製品、アップルⅢは人々のテクノロジー利用に革命を起こし、彼の資産はすでに2億5,000万ドルに達していた。

ジョブズはボストンのアップル・フェスティバルでスピーチする予定だった。当時18歳のコンピュータの天才、ジョナサン・ローテンバーグがアップル製品の熱狂的ファンのために開いたイベントだ。それはジョブズの知らないところで企画されたものだったが、若く野心的なこの主催者に自分と共通するものを感じたのだろう、ジョブズは直前になって参加を承諾した。

贅肉のない細身の身体に堂々たる髭を蓄え、黒々とした長髪は耳を覆い首まで達していた。ダークスーツに青いドレスシャツ、ブラックタイといういでたちでなければフォークシンガーといったところだ。ワイドフレームの眼鏡が角ばった顔を半分以上覆っていた。彼は暑さのために上着を脱ぎ、肩にかけていた。



昼食後、ジョブズとローテンバーグはパークプラザに戻った。その日、数百人のファンたちは、最新のアップルコンピュータをいじくり回し、情報を交換し、コンピュータが自分の人生を、そして世界を今後数年でいかに変えるかを夢想していた。今や彼らはボールルームに集結し、自分たちの夢を実現させた男の登場を今か今かと待ち構えていた。

ジョブズは若さに似合わず沈着冷静で、億万長者に相応しい満足げな笑みを浮かべていた。とはいえ、1,000人近いもっとも忠実なファンを前にして、さすがのジョブズも緊張気味だった。彼らはジョブズの製品の初期からのファンであり、アップルを存続させるためにはなくてはならないハードコアユーザーだ。

基調講演の10分前、ステージの裏手では10代のローテンバーグがやはり神経を尖らせていた。基調講演の直前、二人は雑談しながらも気もそぞろだった。突然ジョブズが言った。

「ジョナサン、悪いけどちょっと失礼するよ」



ローテンバーグが振り返ると、すでにジョブズの姿はなかった。

本番直前のあがり性か?

トイレにでも行った?

あるいは、風変わりな行動で知られる彼一流のいたずら心だろうか?



長い数分間が過ぎ、ステージの向こうにはしびれを切らした聴衆が見えた。開始まであと4分。ローテンバーグはパニックに陥った。もしジョブズが恐れをなして逃げ出したのだとしたら、アップル・フェスティバルは最悪の結果を迎える。ローテンバーグはこき下ろされるだろう。

彼はジョブズの姿を求めてバックステージを捜し回った。さらに数分が過ぎた。ジョブズの姿はどこにもない。そしてついに、散らかった舞台裏の一角にジョブズの姿を見つけた。



ジョブズは地べたに足を組んで座っていた。

身体をまっすぐに伸ばし、壁を向いて微動だにしない。自分の人生でもっとも重大な瞬間の一つを目前にして、ジョブズは瞑想していたのだ。バックステージの混乱をよそにジョブズがさらに数分間の静寂のときを過ごすのを、ローテンバーグはじっと見つめていた。

ついにジョブズはおもむろに立ち上がり、ローテンバーグに笑顔を向けながらステージに向かって歩き出した。

カーテンの向こうから現れたジョブズにスポットライトが当たると、聴衆は熱狂の叫びを上げた。







混乱のさなかでのジョブズの冷静さと集中力は、彼を偉大なリーダーたらしめた資質の一つだ。彼は完璧とはほど遠い人間だったが、その集中力と洞察、想像力は、彼とアップル社を抜きんでた存在にした。

バックステージでジョブズは、聖なる存在に祈っていたのでも、曼荼羅をイメージしたり、マントラを唱えていたりしたわけでもない。おそらく彼は、瞑想の師に教わったシンプルなこと−−自分の呼吸と身体に注意を向け、心の中に湧き上がる考えを、判断を加えることなくただ観察する−−を行っていたに違いない。

彼は「マインドフルな瞬間」に浸っていたのだ。









引用:マインドフル・ワーク 「瞑想の脳科学」があなたの働き方を変える




2016年1月11日月曜日

「有為の奥山」とは? [ニー仏]



話:ニー仏(魚川祐司)







私の訳した本で、ウ・ジョーティカ師という方が書かれた『自由への旅』というウィパッサナー瞑想の解説書があります。そこで最初に言われていることが、

「瞑想はバーゲンではない」

ということなんですね。


−−バーゲン? 冬物とかの?(笑)


ではなくて(笑)bargain という英単語の基本的な意味は「取引」などですから、ここで言われているのは「瞑想は取引ではない」ということですね。


−−瞑想でお金を使った買い物をするわけではないし、それは当たり前のような気もしますが…。


そうですね。ただ、お金のやりとりはしないにせよ、私たちはしばしば瞑想実践に取引の文脈を持ち込みがちなんです。たとえば、「私は○○時間も瞑想したのだから、当然これだけの成果が得られなくてはならない」とか、「これだけのことをしたのだから、そろそろ悟れなくてはおかしい」とか。そんなふうに、「悟り」や「精神集中」や「リラックス」などの成果を”買う”ために、自分の時間や労力を”投資”するというイメージで瞑想を捉えてしまうわけ。


−−ああ、それはありますね。


まあ、ウ・ジョーティカ師によれば、アメリカには

「1,000ドル払えば、悟りにかかるのは3日だけ」

とか、そういう本当の「瞑想バーゲン」もあるみたいですが(笑)






さて、ではそのように瞑想を「取引」として行うことがなぜいけないのか? それを考えるために、ちょっと仏教用語を導入します。

有為(sankhata)無為(asankhata)

という言葉です。これ、聞いたことありますか?


−−聞いたことはありますけど、意味ははっきりとはわからないですね。


「休日を無為に過ごす」とか、そういう日常用語としても使いますからね。ただ、これは元々は仏教用語なんです。有為というのは「為すが有る」と書きますよね。つまり、形成されている、つくられている、造作されている、そうした物事や状態のことです。そして、形成されているということは、もちろん何かしらの条件があってそうなっているわけですから、それは conditioned すなわち「条件付けられている」という意味にもなる。

無為というのは、その逆ですね。形成されていない、つくられていない、造作されていない、だから unconditioned条件付けられていない。そのことを無為と称しているわけです。

−−なるほど。

それで、私たちが居るのは有為の世界なんですね。条件によって形成された、つまり縁起によって成り立っている現象の世界に私たちは生きている。仏教の原則的な目標は、その有為の条件付けられた状態から、無為の条件づけられていない状態、すなわち涅槃へと至ることです。


−−そうなんですか!


はい。たとえば「いろは歌」というのがありますね。これは空海がつくったと伝えられていて、だから仏教的世界観が語られている。


いろはにほへと ちりぬるを
わかよたれそ つねならむ

うゐのおくやま けふこえて

あさきゆめみし ゑひもせす


色は匂へど 散りぬるを
我が世たれぞ 常ならむ

有為の奥山 今日越えて

浅き夢見じ 酔ひもせず


というやつですね。ここで

「有為の奥山、今日越えて」

と言われているのは、そういうわけです。条件付けられていて、ゆえに無常である有為の現象を乗り越えて、無為の涅槃に至りましょうというのが、少なくともゴータマ・ブッダの仏教の場合は、基本的な教説の方向性ですからね。


−−「いろは歌」にはそんな意味が(笑)


じつはあったんです(笑)


−−じゃあ、その有為の現象を乗り越えて無為の涅槃に至るというのは…


「世界」の外に出てしまうことを意味しますよね。だから、仏教では有為の現象の世界のことを「世間(loka)」、そして涅槃のことを、それを超出した境域として「出世間(lokuttara)」と呼称しているわけです。










世に逆らうブッダの教え [ニー仏]






話:ニー仏(魚川裕司)




さて、「仏教はヤバいもの」というのは、私が仏教の話をするときにいつも最初に言うことなんです。なぜこれを最初に言うかというと、とくに近代日本で仏教が紹介される時というのは、この仏教の「ヤバい」ところをオブラートに包むというか、隠して話をすることが多いんですね。



まず、ゴータマ・ブッダが悟った後に説法を躊躇した、つまり他人に自分の悟った内容を語ることをためらって、一時は説法しないでそのまま死んでしまおうと思っていたことはご存知ですか?

−−ちょっと聞いたことがあります。梵天勧請(ブッダのところに梵天が現れて、説法してくれるようにお願いしたこと)の話でしたっけ?

それそれ。ではブッダがなぜ「自分の悟ったことは人に喋らないでおこう」と考えたのかというと、それは彼が自分の考えを

「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」

だと理解していたからです。





『スッタニパータ』の中ですが、「マーガンディヤ」という経典があります。これはどういう話かというと、マーガンディヤというバラモンがいたんですが、彼がある時ゴータマ・ブッダを見かけて、その立派な姿に惚れ込みまして、

「この人をぜひ自分の娘の婿にしたい」

と思ったんですね。ゴータマ・ブッダという人は、そんなふうに、パッと見た人が惚れ込んでしまうくらいの超絶イケメンであったと言われています。

さて、それでマーガンディヤの娘も評判の美人でしたから、きっとこれを見せれば喜んで承知するだろうと考えて、マーガンディヤは娘を連れてブッダのところに行った。

「ブッダさん、せっかくそんなに超イケメンで有能なのに、ボロい衣を着てフラフラ托鉢なんかして暮らしていても意味がないですよ。そんなことはやめて、うちのこの超美人な娘と結婚しませんか? 私の家は金持ちですから、それで楽しく暮らしてくださいよ」

と言ったわけです。要するに、ニートしてたら美人の女の子が連れて来られて、「この娘と結婚して、金持ちな我が家の息子になってください」と頼まれた、ということ。

−−魅力的なお誘いですね。

美人局かと思うくらい魅力的ですね(笑)。ところが、その魅力的なお誘いに対するゴータマ・ブッダの反応がこれまたすごかった。彼はそのマーガンディヤの美人の娘に対して、

「この糞尿に満ちた女が何だというのだ。私はそれに足でさえも触れたくない」

と言ったんです。

−−えっ?

つまり、美人といっても、それは要するに皮一枚のことで、その皮の下には大便や小便などが詰まっているわけです。だから美人とか何とか言ったところで、こんなものは「ただの糞袋ではないか」と。そんな汚い物には私は足も触れたくないと言ったわけですよ。

−−本当かもしれないけど、厳しいですね。

まあ厳しいというか、きついですよね。この話の凄いところとして、ブッダのその言葉を聞いたマーガンディヤの両親は、「この人は立派な人だ」と納得して、ちょっと悟ったらしいんですよ。

でも娘のほうは恨みに思ったんですって。一般の感覚で言うと当たり前だと思うんですけど(笑)。自分の見た目に自信があって、「私はかわいいのよ」と思っている女の人が、「お前の婿は決まったぞ」と連れて行かれたあげく、その相手に「こんな糞袋には足でも触りたくない」みたいなことを言われたから、ものすごく怒ったらしいんです。


… 


さきほど、ゴータマ・ブッダは自分の教えを「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」だと把握していたという話をしましたよね?

−−はい。されてましたね。

ではゴータマ・ブッダは、なぜ自分の教え(法、ダンマ)を「世の流れに逆らうもの」と考えたか? それは経典の同じ箇所の言葉によれば、世の中の人々が

「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜んでいる」

からである。だから、自分が教えを説いても無駄だろう、と考えたわけです。たとえば、かわいい女の子がいたら「かわいいなぁ」と思うし、おいしい食べ物があったら「おいしそうだ、食べたいなぁ」って思いますよね。つまり、人間の生には「欲望の対象」というのが常にある。そして、それを追い求めて、その対象をゲットすることで欲望が満たされたら、「あぁ楽しいなぁ、嬉しいなぁ、幸せだなぁ」と思う。それが普通の人間の生き方だということ。そうじゃないですか?

−−まぁ普通の人は、たいがいそうやって生きてますね。



ところが、ゴータマ・ブッダの教えは、そうのように人間が普通であれば自然に向かっていく方向性というものを否定して、それに

「逆流しなさい」

と教えるわけです。つまり、人間は自然なこととして「欲望の対象を楽しみ、欲望の対象にふけり、欲望の対象を喜ぶ」存在であって、そうすることで社会を成り立たせて生存を続けているわけだけれども、ブッダはそれをやめなさいと教えるということ。だからそれは「パティソータガーミン(世の流れに逆らうもの)」である。

−−なるほど…。だから、ゴータマ・ブッダは説法を躊躇したわけですね。



ゴータマ・ブッダは、それをやらないと(世の流れに逆らわないと)解脱には達することができないと言う。つまり、普通だったら当たり前のように楽しんでいる欲望の対象への執著を否定して、それがあるからこそ行われている

「労働と生殖をやめろ」

と言う。そのようにして、私たちが普通に自然に選択する生き方に「逆流しなさい」と教えているゴータマ・ブッダの仏教は、実は基本的には、少なくとも現在の日本人の私たちからしたら、「ヤバい」ものになるわけです。








以下、『ブッダのことば―スッタニパータ』より原文引用


マーガンディヤ

※伝説によると、かつてブッダがサーヴァッティーにいたときに、マーガンディヤというバラモンが、自分の娘を盛装させて同道し、ブッダの妻として受納するように乞うたときに、ブッダがこのように語ったという。原始仏教の戒律は厳しいものであった。のち出家した修行僧が婦人と交わるならば、それはバーラージカという大罪を犯したことになり、教団を放逐される。


(師ブッダは語った)

「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起こらなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ」

(マーガンディヤがいった)

「もしもあなたが、多くの王者が求めた女、このような宝が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」

マーガンディヤがいった、

「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、〈内心の安らぎ〉ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)

マーガンディヤがいった、

「もしも『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになることができない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます」

師は答えた、

「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたくしの説を)『ばかばかしい』と見なすのです。

『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、かれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか? 『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはならない。

(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘(とげ)のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。

想いを離れた人には、結ぶ縛(いまし)めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく」








2016年1月8日金曜日

原始脳(獣の脳)に誘拐されている人間脳 [スマナサーラ長老]


話:アルボムッレ・スマナサーラ





 …

普通の人々は原始脳(獣の脳)の司令で生きています。大脳を優先した生き方をしていません。原始脳は、生まれるときには神経細胞の配線がすでに完了しています。原始脳にはこれ以上、発達はありません。

対して大脳は発達しないまま・配線ができていないままの状態で人は生まれます。生まれてから長い時間をかけて大脳を配線するのです。「生涯学習」とは人気のあるフレーズです。勉強には終わりがない、死ぬまでやりなさい、という意味です。このテーマで言い換えれば、死ぬまで大脳の配線をしなくてはいけない、ということです。それでも未完成のままで死んでしまいます。

しかし、大脳の配線は決して終わらない作業ではありません。大脳の神経細胞は約140億個と推定されています。他の神経細胞も足してみると、1,000〜2,000億くらいになるそうです。やり方さえあれば、配線を完了することはできると仮定しておきましょう。



原始脳は獣の脳だとも言います。原始脳に思考能力はありません。外の世界を認識する能力もありません。原始脳にあるのは存在欲と恐怖感です。外の世界・現実を知る能力がないから、仏教的に無知・無明だとしているのです。無知・無明を土台にしているため、存在欲と恐怖感(怒り)が起こるのです。それは有名な貪瞋痴(とんじんち)です。

原始脳は生まれるとき、配線は完了しています。よくはたらきます。この獣の脳が発信する信号で、大脳がはたらきます。生きていきたいという存在欲の信号を出すのです。大脳が必死になって、生き延びるためにがんばるのです。そして、人間がおこなう勉強・研究などなど、すべての作業が、生き延びるという目的のためになされます。

それから原始脳は恐怖の信号を出します。大脳は必死になって、存在に邪魔なものを避ける技を身につけます。細菌の退治の仕方だけではなく、同じ人間をライバルとみなして人を殺す道具まで開発するのです。こうして原子爆弾も現れます。科学の進歩も大量破壊兵器の開発も、大脳がやっています。文化・文明も同じことです。生き延びることと敵を倒すことがメインテーマなのです。



要するに、大脳が原始脳に誘拐されているのです。大脳は誘拐犯の言うがままに行動しているのです。それで大脳の配線が現れますが、ろくな結果にはなりません。人間は獣のままです。貪瞋痴に支配されて生きています。存在欲とは、かなわない希望です。したがって、恐怖感(怒り)も消えません。いくら配線しても、問題はそのままです。生涯学習しても同じことです。

この状況は大脳にとって耐えがたいストレスです。死にたくないという気持ちはあっても、人は死ぬのだと大脳の方では知っています。しかし認めたくはありません。そこで誘拐犯にいくらか落ち着いてもらうために、大脳はイカサマを仕掛けます。「私が死んでも、私の魂は死にません」「死後、我々を永遠の天国に連れていく絶対的な神様がいます」などなどの妄想をつくります。

これで原始脳が落ち着きます。自分で自分を洗脳するのです。証拠は一かけらもないのに、魂の存在を信じる。絶対的神様、阿弥陀様、観音様などを信じる。信じる者は救われる、とも言います。実際は信じる者が救われるのではなく、信仰という麻薬で脳が機能低下するだけです。現実が分からなくなるだけです。



お釈迦様は脳の開発方法を見つけられました。正しい配線方法を見つけたのです。目的は、理性のある、世界を知る能力のある、判断能力のある大脳を誘拐犯(原始脳)から解放することです。そのための方法を見つけたのです。

お釈迦様が説かれる道は、大脳にたくさん仕事を与えることです。その仕事は一つも、原始脳の司令とは合いません。人が一度もやったことのない仕事です。それは気づき(sati)の実践です。慣れた仕事をするより、慣れていない仕事をする方がたくさん仕事をしなくてはいけません。じりじりと原始脳と関係のない配線が現れてきます。それは智慧が現れることであり、ものごとをありのままに観察できるようになったことであり、感情に支配されないようになったことであって、自分でもそれがよく分かります。

惛沈(こんちん)睡眠という煩悩があります。脳の成長を妨げる蓋(ふた)だとも言われています。しかし常識的に見れば、健康に生き延びるためには睡眠が必要だとされます。しかし残念です。身体の細胞は寝ません。寝ることも存在欲の一つの姿です。瞑想が進むと、惛沈睡眠が消えてしまいます。それは大脳が新しい配線を作ったということです。






お釈迦様のプログラムは必要な配線がかならず現れるようになっています。悟りに必要な能力は三十七菩提分法であると説かれています。それは脳の正しい配線の仕方を示す話です。修行者は必死に修行しているのです。大脳もどんどん配線をしています。

このように考えてみましょう。神経細胞がICだとします。ICがたくさんあっても、何の仕事もしません。正しく配線すると、ICは仕事をします。私たちが日常使っているパソコンなどは、ICの塊です。しかしびっしり配線されています。だから正しくはたらくのです。神経細胞の場合は、細胞から配線が出ています。それを適当に繋げてみるのです。しかし長い配線もあって、短い配線もあります。このアンバランスの状態でヴィパッサナー(観察瞑想)の汚れが現れるというわけです。一つも悪いものではないのです。がんばって作った配線です。しかし「配線ができた」と満足するのは危険です。

原始脳を抑えてはいますが、原始脳を制御してはいません。そこで大脳の配線は長すぎるものをカットしたり、短いものを延ばしてみたりして、原始脳に繋げなくてはいけないのです。原始脳に繋げたら、大脳が原始脳を管理することになるのです。神経回路は使わないとなくなります。そのうち原始脳の司令を受けていた神経回路が壊れてしまいます。獣の支配は終わります。それで貪瞋痴(とんじんち)が消えます。原始脳は大人しく、生命の基本的なはたらきを監督するようになります。例えば思考・判断能力の要らない消化システム、呼吸機能、心臓の動き、などなどです。



理性に基づいて貪瞋痴のはたらきを一時的に抑えて、計画的に大脳をはたらかせたのです。それによって、今までと違った新たな神経回路システムが現れました。それから、その神経回路を原始脳にも繋げて、配線完了しなくてはなりません。それは新たに作った神経回路を適当に切ったり張ったりして、調整しなくてはいけません。

ヴィパッサナー(観察瞑想)の障碍とは、そのとき起こる現象です。じつは障碍ではないのです。心が苦労して育てた能力です。しかし「それだけでは充分ではない」と大脳が発見します。それが障碍を乗り越えたことです。このプロセスさえも、もう一つの神経回路が生まれることなのです。

この状態は、仏教心理学で道非道智見清浄に達したことであると説かれています。仏教は心の科学であって脳科学ではないので、そのような説明になります。ここでは無理をして、現代の脳科学の知識の一部を使って説明してみました。






引用:ブッダの実践心理学―アビダンマ講義シリーズ〈第8巻〉瞑想と悟りの分析2(ヴィパッサナー瞑想編)




2016年1月3日日曜日

佐藤一斎『重職心得箇条』 (原文・現代語訳・評)








【安岡正篤】



佐藤一斎先生が自分の出身の岩村藩のために選定しました藩の十七条の憲法、これが「重職心得箇条」です。これは段々有名になりまして、伝え聞く諸藩が続々と使いを派遣してこの憲法を写させて貰ったということです。

それがどうしましたか、明治以来すっかり世に忘れられてしまいまして、自然、「重職心得箇条」というものの原稿の所在も不明になっていました。確か大正になりまして、ふとしたことから東京帝大の図書館の蔵書の中から発見され、改めて識者の間に注意を引くようになったという歴史があります。

これを読んでみますと、実に淡々として少しもこだわらずに極めて平明に重職の心得べき憲法を叙述しています。聖徳太子の十七条憲法なども非常に優れたものですが、この心得箇条も非常にくだけた文章で、しかも高い見識のもとに、国政にあずかる重要な職務にあたるものはかくしなければならんということを、実に要領よく把握している名作だと思います。






一.

重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、此の重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。

重役というのは国家の大事を取り計らうべき役職のことであって、その重の一字を失い、軽々しく落ちつきがないのは悪い。

大事に油断ありては、其の職を得ずと申すべく候。

大事に際し油断があるようでは、この職は務まらない。

先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。

まず挙動言語から重厚にし、威厳を養わねばならない。

重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙がるべく、物を鎮定する所ありて、人心をしづむべし、斯くの如くにして重職の名に叶ふべし。

重役は主君に代わって仕事をする大臣であるから、大臣が重厚であってはじめて、万事うまくいくし、物事をどっしり定めるところがあって、人心を落ちつかせることができるものである。それでこそ重役という名に叶うのである。

又小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず。

また小事にこせついていては大事に手抜かりがでてくる。小さなとるに足らない物を省けば、自然と大事に抜け目がなくなるものである。

斯くの如くして大臣の名に叶ふべし。

このようにして初めて大臣という名に叶うのである。

凡そ政事は名を正すより始まる。今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ。

およそ政事(まつりごと)というのは名を正すことから始まる。今まず重役大臣の名を正すことが政事の一番の本であり始めである。



【安岡正篤】

これは、明治、大正、昭和と、国政の 衝にあたった人達を順々に考えて参りましてもわかります。やはり西郷とか大久保とか、ああいう人々がおった時は、何ということなく、人心がどっしり落ちついている。それから後世になると段々軽くなる。軽くなるというと争いが始まり、浮調子になる。

重職というものは、何となくどっしりとして重みがあり、その人がおると人々が落ちつくというふうでなければならない。



二.

大臣の心得は、先づ諸有司の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。

大臣の心得として、まず部下、諸役人の意見を十分発表させて、これを公平に裁決するのがその職分であろう。

もし有司の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。

もし、自分に部下の考えより良いものがあっても、さして害のない場合には、部下の考えを用いる方が良い。

有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。

部下を引き立てて、気持ち良く積極的に仕事に取り組めるようにして働かせるのが重要な職務である。

又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。

また小さな過失にこだわり、人を容認して用いることがないならば、使える人は誰一人としていないようになる。

功を以て過を補はしむる事可也。

功をもって過ちを補わせることがよい。

又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。

また、とりたててえらいというほどの者がいないとしても、その藩ごとに、それ相応の者はいるものである。

人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。

択(え)り好みをせずに、愛憎などの私心を捨てて、用いるべきである。

自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。

自分流儀の者ばかりを取り立てているのは、水に水をさすというようなもので、調理にならず、味もそっけもない。

平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。

平生(へいぜい)嫌いな人間を良く用いる事こそが腕前である。

此の工夫あるべし。

この工夫がありたいものである。



【安岡正篤】

「自分流儀のものを取計るは、水へ水をさす類にて、塩梅(あんばい)を調和するに非ず。平生、嫌ひな人を能く用いると云うこそ手際なり」

これは一斎先生の「重職心得箇条」の中での一つの名言といわれるものであります。どうも人間というものは好き嫌いがあって、いやだ嫌いだとなると、とかくその人を捨てるものであります。

たとえ自分の気に入らなくてても、「できる」「これはよくやる」とか「これは正しい」「善い」ということになれば、たとえ嫌いな人間でもそれをよく用いる。才能を活用する。これが重職たるものの手際である。この工夫がなければならないということで、もっともな意見です。



三.

家々に祖先の法あり、取り失ふべからず。

家々には祖先から引き継いで来た伝統的な基本精神(祖法)があるが、これは決して失ってはならない。

又仕来(しきた)り仕癖(しくせ)の習いあり、是れは時に従って変易あるべし。

また、しきたり(仕来)、しくせ(仕癖)という習慣があるが、これは時に従って変えるべきである。

兎角目の付け方間違ふて、家法を古式と心得て除(の)け置き、仕来り仕癖を家法家格などと心得て守株(しゅしゅ)せり。

とかく目の付け所を間違って、祖法伝来の家法を古くさいと考えて除(の)けものにし、しきたり・しくせを家の法則と思って一生懸命守っている場合が多い。

時世に連れて動かすべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。

時世に連れて動かすべきものを動かさなければ、大勢はたたない(時勢におくれてしまって役に立たない)。



【安岡正篤】

「守株(しゅしゅ)」というのは、皆さんもご承知の名高い故事のある熟語です。

ある愚かな百姓が、どこからか追われてきたウサギが勢いこんで飛び込んできたとたん、切り株にぶつかって死んだ。ウサギを一匹うまく拾った。それから、この阿呆はいつもそこで、またウサギが出てきて鼻づらをぶつけて死ぬのを待っておったという故事。

これから愚かな習慣にとらわれることを守株(しゅしゅ)、株を守ると申します。



四.

先格古例に二つあり、家法の例格あり、仕癖の例格あり、先づ今此の事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜を考へて然る後例格を検し、今日に引き合わすべし。

昔からの習わしとか先例というものには二種類ある。一つは家法からくる憲法的なきまりであり、もう一つは因襲のきまりである。今、ある問題を処理する場合、こうあるべきだという自分の案をまず作成し、時と場合を考えた上で習わしとか先例とかを調べて、これで良いかを判断しなければならない。

仕癖の例格にても、其の通りにて能(よ)き事は其の通りにし、時宜に叶はざる事は拘泥すべからず。

単なる慣習からくる習わしや先例であっても、その通りで良い事はその通りにすれば良いが、時宜に合わない事には拘泥していてはならない。

自案と云ふもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病(つうへい)なるべし。

自案というものを持たずに、まず古い習わしとか先例とかから入っていくのは、当今の役人の共通の病気である。



【安岡正篤】

「時宜に叶はざる事は拘泥すべからず」

もはや時の宜(よろ)しきを得ない、時が変わってしまって適応できないことには拘泥してはならん。



五.

応機と云ふ事あり肝要也。

機に応ずということがあるが、これは重要なことである。

物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。

何事によらず、後からやって来る機というものは事前に察知できるものである。

其の機の動き方を察して、是れに従ふべし。

その機の動きを察知してそれに従うのがよい。

物に拘(こだわ)りたる時は、後に及んでとんと行き支(つか)へて難渋あるものなり。

物に拘っていて(この機をのがした時に)は後でとんといきつかえてどうにもならぬ。



【安岡正篤】

「物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也」

我々は注意しておると、後でどういうことが起こるかということが先に見える。だから医者が人体を診察すれば、これはこういう病気が起こるとか、こうなるとかがわかる。そこで、「その機の動き方を察して、これに従うべし」となります。



六.

公平を失ふては、善き事も行はれず。

公平を失っては善い事すらも行われない。

凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず。

だいたい物事の内に没頭してしまうと、どこが中か隅かもわからなくなってくる。

(しばら)く引き除(の)きて、活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし。

しばらく問題を脇に除けて、活眼でもって全体を見わたし、中をとるのがよい。



七.

衆人の圧服する所を心掛くべし。無利押し付けの事あるべからず。

衆人が服従するのを厭がるところをよく察して、無理押付はしてはならない。

苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。

きびしく人の落度などを追及することを威厳と考えたり、また自分の好むがままに私したりするのは、皆人物の器量の小さいところから生ずる病である。



【安岡正篤】

「少量の病なり」

知識というものはごく初歩というか、一番手近なもので、知識がいくらあっても「見識」というものにはなりません。見識というのは判断力です。見識が立たないと、どうも物事はきまらない。

見識の次に実行という段になると、肝っ玉というものが必要になる。これは実行力です。これを「胆識」と申します。知識、見識、胆識、これが「識」というものの3つの大事なことです。



八.

重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。

重役たる者、仕事が多い、忙しいという言葉を口に出すことを恥ずべきである。

仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり。

たとえ忙しくとも、忙しいといわない方が良い。

随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。

随分、手をすかせたりして、心の余裕がなければ、大事な事に気付かず、手抜かりが出るものである。

重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。

重役が小さな事まで自分でやり、部下に任せるという事ができないから、部下が自然ともたれかかって来て、重役のくせに仕事が多くなるのである。



【新井正明評】

常日頃、「忙しい、忙しい」と口癖のように言っておった重役が、先生(安岡正篤)の講義を聴いた後で、「勤向繁多という口上は恥ずべき事なり。たとえ世話しくとも世話しきと言わぬがよきなり、云々」には参った、と感想を述べていたのが印象的でした。



九.

刑賞与奪の権は、人主のものにして、大臣是れ預かるべきなり。

刑賞与奪の権は主君のもので、大臣がこれを預るべきである。

(さかし)まに有司に授くべからず。

逆様に部下に持たせてはならない。

斯くの如き大事に至っては、厳敷(きびし)く透間あるべからず。

このような大問題については厳格にして、ぬかりのないようにしなければならない。



十.

政事は大小軽重の弁を失ふべからず。

政事においては大小軽重の区別を誤ってはならない。

緩急先後の序を誤るべからず。

緩急先後の順序も誤ってはならない。

徐緩(じょかん)にても失し、火急にても過つ也。

ゆっくりのんびりでも時機を失することになり、あまり急いでも過ちを招くことになる。

着眼を高くし、惣体を見廻し、両三年四五年乃至十年の内何々と、意中に成算を立て、手順を遂(お)いて施行すべし。

着眼を高くし、全体を見廻し、両三年、四、五年ないし十年の内にはどうしてこうしてと心の中で成算を立て、一歩一歩と手順を踏んで実行しなさい。



十一.

胸中を豁大(かつだい)寛広にすべし。

心を大きく持って寛大でなければならない。

僅少の事を大造(=大層)に心得て、狹迫なる振る舞いあるべからず

ほんのつまらぬ事を大層らしく考えて、こせこせとした振舞をしてはならない。

仮令(たとえ)才ありてお其の用を果たさず。


たとえ素晴らしい能力を持っていても、それではその能力を発揮させることができない。

人を容るる気象と物を蓄うる器量こそ、誠に大臣の体と云ふべし。

人を包容する寛大な心と何でも受けとめることのできる度量の大きさこそが、まさに大臣の大臣たるところというものである。



十二.

大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元より也。

大臣たるもの胸中に一つの定まった意見を持ち、一度こうだと決心した事を貫き通すべきであるのは当然である。

然れども又虚懐公平にして人言を採り、沛然と一時に転化すべき事もあり。

しかしながら心に先入主、偏見をもたないで公平に人の意見を受け入れ、さっとすばやく一転変化しなければならない事もある。

此の虚懐転化なきは我意の弊を免れがたし。

この心を虚しうして意見を聞き一転変化することができない人は、我意が強いので弊害を免れることが出来ない。

能々(よくよく)視察あるべし。

よくよく反省せられよ。



【安岡正篤】

「沛然と一時に転化すべき事もあり」

「沛然(はいぜん)と」、つまり夕立ち・大雨が降ってくるように、大変な勢いで、からりと転化しなければならないこともある。

仕来り(しきたり)、仕癖(しくせ)というものは、あるにはあって、これも軽んずるわけにはいかないが、ある時期、ある必要な時には、今まで晴れておったのに、おやっというふうに雲が出てきてドーッと雨が降るように、一時に転化することが必要な時もある、ということです。



十三.

政事に抑揚の勢いを取る事あり。

政事においては抑揚の勢といって、或いは抑えたり、或いは揚げたり調子をとらねばならぬことがある。

有司上下に釣り合いを持つ事あり。

また部下上下の間に釣合いを持たねばならぬこともある。

能々(よくよく)(わきま)ふべし。

よくよくこれをわきまえねばならない。

此の所手に入て信を以て貫き義を以て裁する時は、成し難き事はなかるべし。

このところを充分心得たうえで、信を以って貫き、義を以って裁いていけば、成し難い事はないものである。



十四.

政事と云へば、拵へ事繕ひ事をする様にのみなるなり。

政事というと、こしらえ事、つくろい事をするようにばかりなるものである。

何事も自然の顕れたる儘(まま)にて参るを実政と云ふべし。

何事も自然に現われたままでいくのを実政というのである。

役人の仕組む事皆虚政也。

役人の仕組むような事は皆、虚政である。

老臣など此の風を始むべからず。

殊に老臣などは役人の模範であるから、こういう悪風を始めてはならない。

大抵常事は成るべき丈は簡易にすべし。手数を省く事肝要なり。

通常起こる大抵の仕事は、できるだけ簡易にすべきである。手数を省くことが肝要である。



【安岡正篤】

「手数を省くこと肝要なり」

論語のはじめに皆さんもよくご承知の「吾、日に三たび吾身を省みる」という語があります。この「省」という字を「かえりみる」と読んだのでは50点です。

「省」という字には、少なくとも2つの大事な意味がある。一つは「省(かえり)みる」ということ、もう一つは「省(はぶ)く」ということです。反省し、省(かえり)みることによって、不要なこと、無駄なことを省(はぶ)いていく、これが「省」という字の逸してはならない2つの大事な意味です。

だから論語のはじめのこの文章を、「吾、日に三たび吾身を省(かえり)みる」と読んだのでは50点だというのです。やはりここは「省(しょう)す」、あるいは「省(せい)す」と読まなければなりません。

古人はなかなか隅に置けないところがあり、役人という者はとかく無駄が多い、馴れて省みなくなる。ごたごたと仕事を複雑にする。そこで省(かえり)みて省(はぶ)かなければならない。というので、役所の名前に「省」の字をつけた。昔の人はよく考えたものです。今の役人もこういうことを覚えておき、省いていくことが肝要です。



十五.

風儀は上より起こるもの也。

風儀というものは上の方から起ってくるものである。

人を猜疑し蔭事を発(あば)き、たとへば誰に表向き斯様に申せ共、内心は斯様なりなどと、掘り出す習いは甚だあしし。

人を疑ってかかり、隠されている事まで発(あば)き、例えば「誰某に表向きこのように言ったけれど、実はこうなのだよ」などとほじくり出す習いは非常に悪い事である。

(かみ)に此の風あらば、下(しも)必ず其の習いとなりて、人心に癖を持つ。

上にこのような風儀があれば、下は必ず見習い、人心に悪い癖がつく。

上下とも表裏両般の心ありて治めにくし。


上下ともに心に表裏ができ、治め難くなってくる。

何分此の六(むつ)かしみを去り、其の事の顕(あらわ)れたるままに公平の計(はから)ひにし、其の風へ挽回したきもの也。

したがって、このようなむつかしみを去り、その事の現れたまま正直に公平にやれるよう、その風へ挽(ひ)き回したいものである。



【安岡正篤】

「上下とも表裡両般の心ありて治めにくし。何分此六かしみを去り」

表と裏がある、見えない所がある。陰で何をするかわからないというように「六(むつ)かしみ」を去って、ということ。この「六(むつ)かしみ」は当て字です。こういう所、大学者の一斎先生、一向にこだわらずに、五、六の「六」の字をくだけて使っている。

普通なら艱難の「難」の字を使うのですが、こういうユーモアといいますか、屈託がないといいますか、ここの文章の一つの特徴です。



十六.

物事を隠す風儀甚だあしし。

物事を何でも秘密にしようとする風儀は非常に悪い。

機事は密なるべけれども、打ち出して能(よ)き事迄も韜(つつ)み隠す時は却って衆人に探る心を持たせる様になるもの也。

大切な問題は秘密でなければならぬが、明け放しても差し支えのない事までも包み隠しする場合には、かえって人々に探ろうという心を持たせるようになってくる。



十七.

人君の初政は、年に春のある如きものなり。

人君が初めて政事をする時というのは、一年に春という季節があるようなものである。

先づ人心一新して、発揚歓欣の所を持たしむべし。

まず人の心を一新して、元気で愉快な心を持たすようにせよ。

刑賞に至っても明白なるべし。

刑賞においても明白でなければならない。

財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし。

財政窮迫しているからといって寒々とした命令ばかりでは、結局うまくいかないことになるだろう。

此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり。

ここを心得たうえでやっていきたいものである。



【安岡正篤】

「財帑(ざいど)窮迫の処より、徒(いたず)らに剥落厳沍(げんご)の令のみにては、始終行き立たぬ事となるべし」

金がない、予算がないというところから、いたずらに「あれもいかん」「これもいかん」という。「沍(ご)」は冷える、寒いという字ですから、きびしくしめ、寒々とした令だけの政治では、始終行き立たぬことになるだろうといって、最後に「此の手心にて取り扱いあり度(たき)ものなり」と結んでいる。








【安岡正篤】

いま読みました「重職心得箇条」は、じつによく機微をうがって、しかもあまり窮屈でなく、どこか余裕しゃくしゃくとしたところがあり、名作の名に恥じないものだと思います。

こういうものは、ただお話しただけでは印象にあまり残りませんので、耳と同時に眼を働かせて読み、読みながら聞くというふうにして、あとあとまで心に滲み残るように一緒に読みながらご説明した次第です。

先ほども申しましたように、重要な職務に当たりますと、知識をもつだけでは何にもならないので、知識に基づいて批判する、判断する、つまり見識を立てて、そうしてこれを実行しなければなりません。このように、先哲、先賢の言葉や行い、言行を知る、学ぶ、行う。これを「活学」というゆえんです。