2013年10月31日木曜日

「不動智」とは? [沢庵]



沢庵和尚の書翰より(柳生但馬守 宛)



諸仏不動智

と申す事。不動とは、うごかずといふ文字にて候。智は智慧の智にて候。

不動と申し候ても、石か木かのやうに、無性なる義理にてはなく候。向ふへも、左へも、右へも、十方八方へ、心は動きたきやうに動きながら、卒度(そっと)も止らぬ心を、不動智と申し候。

不動明王と申して、右の手に剣を握り、左の手に縄を取りて、歯を喰出し、目を怒らし、仏法を妨げん悪魔を降伏せんとて突立て居られ候姿も、あの様なるが、何国の世界にもかくれて居られ候にてはなし。容(かたち)をば、仏法守護の形につくり、体をば、この不動智を体として、衆生に見せたるにて候。

一向の凡夫は、怖れをなして仏法に仇をなさじと思ひ、悟に近き人は、不動智を表したる所を悟りて、一切の迷を晴らし、すなわち不動智を明(あから)めて、この身すなわち不動明王ほどに、この心法をよく執行したる人は、悪魔もいやまさぬぞと、知らしめんための不動明王にて候。

しかれば不動明王と申すも、人の一心の動かぬ所を申し候。また身を動転せぬことにて候。動転せぬとは、物ごとに留まらぬことにて候。物一目見て、その心を止めぬを不動と申し候。なぜなれば、物に心が止り候へば、いろいろの分別が胸に候あいだ、胸のうちにいろいろ動き候。止れば止る心は、動きても動かぬにて候。

たとえば、十人して一太刀づつ我へ太刀を入るるも、一太刀を受流して、跡に心を止めず、跡を捨て跡を拾い候はば、十人ながらへ働を欠かさぬにて候。十人十度心は働けども、一人にても心を止めずば、次第に取合ひて、働は欠け申すまじき候。もしまた一人の前に心が止り候はば、一人の太刀をば受流すべけれども、二人めの時は、手前の働き抜け申すべき候。



千手観音とて手が千御入り候はば、弓を取る手に心が止まらば、九百九十九の手は皆用に立ち申すまじく、一所に心を止めぬにより、手が皆、用に立つなり。観音とて身一つに千の手がいずれにあるべき候。不動智が開け候へば、身に手が千有りても、皆、用に立つということを、人に示さんがために、作りたる容(かたち)にて候。

たとえ、一本の木に向うて、その中に赤き葉一つを見ておれば、残りの葉は見えぬなり。葉一つに眼をかけずして、一本の木に何心もなく打ち向ひ候へば、数多の葉残らず目に見え候。葉一つに心をとられ候はば、残りの葉は見えず、一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候。これを得心したる人は、すなわち千人千眼の観音にて候。

また、なまもの知りなる人は、身一つに千の手・千の眼がござして有り難しと信じ候。いま少しよく知れば、凡夫の信ずるにても破るにてもなく、道理の上にて尊信し、仏法はよく一物にしてその理を顕はすことにて候。諸道ともにこの様のものにて候。神道は別してその道と見及び候。有のままにて思ふ凡夫、また打破ればなほ悪し。その内に道理あることにて候。この道、かの道さまざまに候へども、極所は落着き候。



さて初心の地より修業して不動智の位に至れば、立帰て、住地の初心の位へ落つべき仔細おんいり候。貴殿の兵法にて申すべく候。初心は身に持つ太刀の構へも何も知らぬものなれば、身に心の止ることもなし。人が打ち候へば、つひ取合ふばかりにて、何の心もなし。

しかる処にさまざまの事を習ひ、身に持つ太刀の取様、心の置所、いろいろのことを教へぬれば、いろいろの処に心が止り、人を打たんとすれば、とやかくして、ことのほか不自由なること、日を重ね年月をかさね、稽古をするにしたがひ、後は身の構へも太刀の取様も、みな心のなくなりて、ただ最初の、何も知らず習はぬ時の、心のようになる也。

これ初と終と同じやうになる心持にて、一から十まで数へ回せば、一と十と隣になり申し候。




(原註)
このことは私に百足(むかで)の話を思い出させる。百足が、どうしてそんなにたくさんの脚を、一時に揃えて動かすことができるのか、と尋ねられた時、その問が百足を「止め」て、それについて考えさせた。この「止る」ことと考えることが、脚の間に大混乱を起して、めいめい勝手に動こうとした。百足はそれで命を失った。荘子の渾淪の話も、これに関連して、はなはだ興味があろう。

※「渾淪」は混沌と同じで『荘子』應帝王に見える太古の伝説上の中央の神。耳、目、口、鼻の七つの穴がなかったので、南海・北海の神が返礼として七つの穴をうがったところ、死んでしまった。




話:鈴木大拙

仏教徒の修業も同じことである。その最高の段階に到達すれば、仏陀のことも法(ダルマ)のことも何も知らぬ無邪気な子供と同じようになれよう。

しかるときは、不動智は、結局、無智であり——両者は二ならず、一である、ということができる。ここには、ある点に対して、ある点を選択する際に、人を躊躇させるところの、分別智というものがなく、したがって、無念無想という心境の熟達にとって有害な「止まる」ということが、どこにも存しないからである。

無智の人は、智力をいまだ目覚まさぬから、素朴のままにある。賢い人は智力のかぎりを尽くしているから、もはや、それに頼らない。両者は睦まじい隣り同志である。「生ま知り」の人にかぎって、頭を分別でいっぱいにする。




引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書) 』 第四章 禅と剣道



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「迷」とは止まること。『無明住地煩悩(沢庵)』



話:鈴木大拙



つぎに示すのは、禅と剣道との関係について柳生但馬守に送った沢庵和尚の書翰である。それは『不動智神妙録』と題されている。沢庵は、このすぐれた剣士にあたえた書翰のなかに、無心(彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴した心理状態。仏教の語義からいうと、それは死生の二元論を超越すること)の意義をきわめて強調している。

無心はある点において「無意識」の概念にあたると見てよい。心理的にいえば、この心の状態は絶対受動のもので、心が惜しみなく他の「力」に身をゆだねるのである。この点で、人は意識に関するかぎりいわば自動人形になるのである。

しかし、沢庵が説くように、それは木石などの非有機的な物質の無感覚性および頼りない受動性と混同してはならぬ。「無意識に意識すること」——この目もくらむばかりの逆説以外に、この心的状態を叙述する道はない。



沢庵『不動智神妙録』

仏教の示すところによると、精神発展の段階が五十二あり、その一つを「止る」といい、それに至ると人は一点に定着して、自由に動くことができなくなる。剣道にもこれにあたるものがある。この段階を沢庵は無明住地煩悩といっている。

無明住地煩悩

無明とは、明になしと申す文字にて候。迷を申し候。その五十二位の内に、物ごとに心の止る所を、住地と申し候。住は止ると申す義理にて候。止ると申すは、何事につけても其事に心を止るを申し候。

貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切る太刀を一目見て、そのままにてそこにて合はんと思へば、向ふの太刀にそのままに心が止まりて、手前の働きが抜け候て、向ふの人に切られ候。これを止ると申し候。

打太刀を見ることは見れども、そこに心を止めず、向ふの打つ太刀に拍子を合わせ、打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度(そっと)止めず、そのまま付け入て、向ふの太刀にとりつかば、我を切らんとする刀を、我が方へもぎとりて、かえって向ふを切る刀となるべく候。

禅宗にはこれを還把槍頭倒刺人来ると申し候。槍はほこにて候。人の持ちたる刀を我が方へともぎとりて、還って相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。

向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働は皆抜け候て、人に切られべく申し候。敵に我心を置けば、敵に心をとられ候間、我身にも心を置くべからず。我身に心を引しめて置くも、初心の間、習入り候時の事なるべし。太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。

これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿これ御覚あるべき候。仏法と引当てに申すにて候。仏法には、この止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。





引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書)



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循環に陥る”分別” [禅問答]


「神鷲の忠烈」 堀越二郎、ゼロ戦の特攻を知る。



話:堀越二郎



十九年(1944)の十月下旬の新聞に、

「神鷲の忠烈、万世に燦たり」

「敵艦隊を捕捉し必死必中の体当たり」

という見出しで、神風特別攻撃隊の記事が大きく報じられた。私は、六月マリアナの陥落を知ったとき、日本の敗戦は決定したとは思っていたが、この記事を読んで「ついにここまで追いつめられたか」という感じをいっそう強くした。

その後も新聞などで、特別攻撃隊の敵艦への体当たり攻撃がつぎつぎと報道された。これらの特攻は、強大なアメリカ軍のフィリピン上陸作戦に対する総攻撃防御作戦を命じられた第一線の指揮官が、中央からの指令によらず、追いつめられて決行した用兵法であることが、新聞の報道で察せられた。

あまりにも力のちがう敵と対峙して、退くに退けない立場に立たされた日本武士が従う作法はこれしかあるまいと、私はその痛ましさに心の中で泣いた。ほどなく私は、この神風特攻隊の飛行機として零戦が使われていることを知った。


多くの前途ある若者が、けっして帰ることのない体当たり攻撃に出発していく。新聞によれば、彼らは口もとを強く引きしめ、頬には静かな微笑さえ浮かべて飛行機に乗り込んでいったという。

その情景を想像しただけで、胸が一ぱいになって、私は何も書けなくなってしまった。彼らがほほえみながら乗り込んでいった飛行機が零戦だった。ようやく気をとりなおし、この戦いで両親を失った人びとに代わってこの詞(ことば)を書くのだと自分に言いきかせながらペンを取ったが、書きながら涙がこぼれてどうしようもなかった。

そして、「襟を正して応へん」という題をつけて、その短文を書きあげたのは、依頼されてからひと月もたった二十年(1945)の正月休みのことである。私は、手ばなしで特攻隊をたたえる文など書けるはずがなかった。



なぜ日本は勝つ望みのない戦争に飛び込み、なぜ零戦がこんな使い方をされなければならないのか、いつもそのことが心にひっかかっていた。もちろん、当時はそんなことを大っぴらに言えるような時勢ではなかった。しかし、つぎのような一節だけでも強く訴えたかった。

 ……敵は富強限りなく、わが生産力には限界あり。われは人智をつくして凡(あら)ゆる打算をなし、人的物的エネルギーの一滴に至るまで有効に戦力化すべき凡ゆる体制を整へ、これを実行しつくしたりや、内にこれを実行し、外神風特攻隊あらばわれ何ぞ恐れん……

私がこの言葉に秘めた気持ちは、ひじょうに複雑なものであった。その真意は、戦争のためとはいえ、ほんとうになすべきことをなしていれば、あるいは特攻隊というような非常な手段に訴えなくてもよかったのではないかという疑問だった。






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2013年10月30日水曜日

斬るよりも心打つ「正宗」



話:鈴木大拙



正宗は鎌倉時代の後半にさかえた。彼の作品はその優れた質のために刀剣の蒐集家からひとしく賞せられている。切れ味に関するかぎりでは、正宗は彼の高弟の一人なる村正には及ばぬかもしれぬが、正宗には、正宗の人格からくる何か精神的に人を打つものがあるといわれている。

伝説とはいうのはこうだ。ある人が村正の切れ味を試そうと思って、水流にそれをおき、上流から流れてくる枯葉にむかって、どうするかを見守った。刃に出会った枯葉は、どれも二つに切られた。彼は、今度は正宗を立てたが、上から流れてくる木の葉はその刃に触れることを避けて行った。

これは驚くべき実験であった。正宗は人を斬るということに関心をもたなかった。それは切る道具以上のものだった。しかし村正は、切るということ以外に出られなかった。村正には心を打つような神聖なものは何もなかった。

村正は恐ろしいが、正宗は人情味がある。村正は専制的であるが、正宗は超人間的だ。柄に銘を刻むのは刀工の習慣であったが、正宗はほとんどこれをやらなかった。









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「一剣」問答 [楠木正成]



話:鈴木大拙



禅は活人剣と殺人刀ということを語る。そのいずれを、いついかなる風に、使うべきかを知るのは、すぐれた禅匠の働きである。

文殊菩薩は、右手に剣を、左手に経典をもつ。しかし、文殊菩薩の聖なる剣は、生きものを殺すためではなくて、われわれ自身の貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡を殺すためである。それはわれわれに向かって擬せられる。こうするのは、われわれの内部にあるものの反映であるところの外界の世界もまた、貪欲・瞋恚・愚癡から自由にされるからである。

不動明王もまた剣をもって、仏徳の流行をはばむ一切の敵を滅さんとする。文殊は積極的で、不動は消極的である。不動の憤怒は火のごとく燃え、敵の最後の陣営を焼き尽くすまでは消えない。

しかる後にふたたび元の容相をとり、彼がその侍者であり、示顕であるところの盧遮那仏(るしゃなぶつ)となる。盧遮那仏は剣を持たぬ。彼は剣そのもので、その内に全世界を容れつつ、寂然として不動なのである。



つぎの「一剣」問答が、これを意味する。楠木正成が湊川で足利尊氏の大軍を迎えようとしたとき、兵庫のある禅院にきて和尚に尋ねた。

生死交謝のとき如何(人が生死の岐路に立った時は、いかにしたらいいでしょうか)」

和尚が答えた。「両頭ともに裁断すれば、一剣天に倚って寒し(お前の二元論を断切れ。一本の剣だけを静かに天に向かって立たせよ)」



この絶対的な「一剣」は、生の剣でも死の剣でもない。そこから二元の世界が生じ、また、そこにおいて生死一切がその存在をもつところの、剣である。それは盧遮那仏自体である。これを把握するならば、路の岐れるところにおいて、いかに振る舞うべきかを知るのである。

剣は、いまや、宗教的直観の力や直進をあらわす。この直観は智力とは異なり、分離してそれ自身の通路を塞いでしまうようなことはない。うしろもわきも顧みないで前へ進む。








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引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書) 』 第四章 禅と剣道


2013年10月29日火曜日

上杉謙信と禅 [鈴木大拙]



話:鈴木大拙



上杉謙信と武田信玄とは、日本が戦国時代にあった16世紀の二名将であった。2人はその領地が相接していたので、一般にならび称せられ、彼らは幾度かその優越を争わねばならなかった。彼らは武人としても支配者としても、相伯仲した。

また、禅を学ぶ点でも同じであった。彼らは若いとき禅院で教育をうけ、中年にして剃髪して入道を称した(謙信は仏教僧侶と同様に肉食妻帯をしなかった)。謙信の俗名は輝虎、信玄は晴信である。が、法名のほうが知られている。

謙信はかつて、信玄が領民のための塩の欠乏にいたく悩んでいるのを知った時、寛大にも自分の領地からその必要な物資を敵に供給した(日本海に臨んでいるので越後は塩を十分産した)。



川中島の対陣戦の一つでは、謙信は敵の出方の遅いのに業を煮やして、一挙に勝敗を決せんものと単身、信玄の陣に乗り込んだ。謙信は敵将が数人の幕下とともに悠然と椅子に腰掛けているのを見るや、剣を抜いて信玄の頭上真向から斬りつけて、

「いかなるかこれ剣刃上の事」と禅問を発した。

信玄は少しも騒がず、そのとき彼の手にしていた鉄扇で襲いくる武器をかわして、

「紅炉上一点の雪」と答えたという。



謙信は僧・益翁のもとで熱心に禅を学んだ。師僧はつねに彼にこう言った。

「あなたが真に禅を会得せんと欲せるるならば、命を捨てて直下に死の穴に飛び込むことが必要です」

謙信はのちに彼の家臣たちに次のような訓戒をのこした。

「生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり。よくこの心を得て、守持するところ堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、なんぞ生死に関せんや。予、つねにこの理を明らかにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭うがごときは、いまだ武士の心胆にあらず」

ジャン拳の世の中 [新渡戸稲造]



話:新渡戸稲造



世の中というものはジャン拳の世の中で、生まれてから死ぬまでジャン拳しておる。

鋏(はさみ)を出すと、石には負ける。けれども、紙には勝つという。そんなら石が何にでも勝つかというに、紙には負けるではありませぬか。

ぐるぐる廻り、勝ったり負けたりする世の中で、あなた方が鋏(はさみ)を出してみて石には失敗しておる、しかし石には負けても紙には勝つということがある。







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3つの「ぽう」 [新渡戸稲造]

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福沢諭吉と新渡戸稲造の「せんべい話」



引用:新渡戸稲造『人格の養成

3つの「ぽう」 [新渡戸稲造]



話:新渡戸稲造



私の知人の世の中を永く見た人が言うたことがある、世の中は三つの”ぽう”で治まっておる。


一つは「鉄砲(てっぽう)」。これはまぁ、吾々が今日、新聞を取って見てもすぐわかる。

第二は「説法(せっぽう)」というので、すなわち宗教というのであろう。本願寺をはじめとして至るところに建っておる教会を見てもわかる。

第三の「女房(にょうぼう)」というやつ。これは恐ろしい勢力をもっておるのであるという。







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武士の最高なる者 [新渡戸稲造]

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引用:新渡戸稲造『人格の養成

武士の最高なる者 [新渡戸稲造]



武士道を「山」とたとえた新渡戸稲造

その山は麓から「ほぼ五帯に区分する」というが、その最高峰には…



話:新渡戸稲造

汝は峻険崎嶇(きく)たる山径を攀じ、至高の地帯に登りて、武士の最高なる者を見んとする乎。

ここに在りては、汝を迎うるに、すこぶる柔和なる民族の毫も軍人的にならず、その容貌態度ほとんど婦人に類するものあり。汝は彼らを見て武夫なるや否やを疑わんとす。汝は一見もって彼らを凡人視することもあらん。

彼らは尊大ならず。汝は容易に彼らに近づくを得べく、彼らの親しみ易きがゆえに、狎れ易しとなさん。されど汝は近づかざらんとするも能わざるがゆえに、彼らに接し来ることなるを知らん。彼らは貴賎、大小、老幼、賢愚と等しく交わり、その態度は嫺雅(かんが)優美なりというもおろか、愛情はその目より輝き、その唇に震う。

彼らの来るや、爽然たる薫風吹き渡り、彼らの去るや、吾人が心裡の暖気なお存す。学をてらわずして教え、恩を加えずして保護し、説かずして化し、助けずして補い、施さずして救い、薬餌を与えずして癒し、論破せずして信服せしむる。

彼らは小児のごとく戯れかつ笑う。彼らの戯は無邪気というもなかなかに、罪を辱かしむるものなり。彼らの笑は微かなりといえども、萎えたる霊魂を蘇生せしむ。彼らの小児らしきは、罪ある良心をして、純潔を羨望せしむ。彼ら泣かば、その涙は人の重荷を洗い去る。










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『葉隠』と禅

現代に続く「元服」の儀式

ジャン拳の世の中 [新渡戸稲造]



引用:新渡戸稲造『武士道の山

『葉隠』と禅



話:鈴木大拙



最近、中国の軍事行動に関連して、やかましく言われた一つの文章がある。

『葉隠(はがくれ)』というのであるが、それは文字通り「葉の陰に隠れる」意で、わが身を誇示せず、角笛を吹いて廻らず、世間の眼から遠ざかって、そうして社会同胞のために深情を尽くすのが武士の徳の一つだというのである。この書は種々の記録・逸話・訓言などから成っているが、その編纂はある禅僧が担当したのである。この仕事は17世紀の中葉に佐賀藩主の鍋島直重の下で着手された。

この書は、いつにても身命を捧げる武士の覚悟を極めて強調し、いかなる偉大な仕事も、狂気にならずしては、すなわち、現代語で表現すれば、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べている。

この力はときとして悪魔的であるかも知れぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えぬ。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ちのぼる。死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と提携するのはじつにこの点である。






引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書)


「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」



話:鈴木大拙



日本につぎの言い表しがある。

「天台は宮家、真言は公卿、禅は武家、浄土は平民」と。

この言葉は日本の仏教各宗の特色をよく表している。天台と真言は儀礼主義に富んでいて、その諸儀式を行うや、なかなか煩雑で、手のこんだ華麗豪奢なものがあるので、それが洗練された階級の嗜好に投ずるのである。浄土宗はその信仰と教義が単純であるから、おのずから平民の要求に応じている。

禅では究極の信仰に到着するために、最も直接な方法をえらんだほかに、これを遂行するに異常な意力を要求する宗教である。そして、意力は武人のぜひとも必要とするところのものである。もっとも、禅は意力だけでなく最後は直覚によって解決をつけるべきものではあるが。





引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書)

2013年10月26日土曜日

循環に陥る”分別” [禅問答]


話:鈴木大拙



一僧問う。「仏とは何ぞや」

投子、答う。「仏」



僧「道とは何ぞや」

投子「道」



僧「禅とは何ぞや」

投子「禅」



和尚は鸚鵡(おうむ)のごとく答える。彼は谺(こだま)そのものである。

事実、何ぞやというのは”最後の体験事実”だと断言するよりほかに、この僧の心をてらす法はないのである(碧巌集)。



この点を解くために、いま一つの例を挙げよう。

ある僧が、趙州(唐代の禅僧)に尋ねた。「『完全な道』には別に難しいことはないが、ただ”分別を嫌う”といわれています。『無分別』とはどういう意味ですか」

趙州がいった。「天上天下唯我独尊」

僧はまたいった。「それはなお一つの分別ではありませんか」

和尚の答は「咄、この愚かもの奴、分別なんていうものがどこにあるかい」

僧は一語も返せなかった(碧巌集)。



禅匠のいう”分別”とは、事実をそのままに受け取ることではなくて、これを反省して分析して概念となすことによって、知的作用を働かして、結局”循環論法に陥る”ということである。趙州の断定は決定的なもので、遁辞も論争も許さぬ。額面どおりのままでこれを受け取り、それで満足していなければならぬ。

われわれがそれを受け入れ損なった場合には、それはそのままにしておいて、どこか他に己の啓蒙を求めねばならぬ。この僧は趙州が何処にいるかを解することができぬものだから、さらに進んでいったのであった。「それはなお一つの分別ではありませんか」。事実上から見れば、分別は僧の側にあって趙州には無い。ゆえに、「唯我独尊」はここでは「この愚かもの奴」に変わった。

前にもいったように、「一即多、多即一」という句は、まず「一」と「多」という二概念に分析して、両者の間に「即」をおくのではない。ここでは分別を働かしてはならぬ。それはそのまま受け取って、そこに腰を落ち着けねばならぬ。これがここで必要な一切である。

和尚が打ったり、罵ったりするのは、いたずらに憤りを発したり、短気だからではない。それによって弟子たちを陥穽から助け出してやりたいとの老婆心からである。ここではいくら議論しても利益はないし、またいくら言葉の上で説服しようとしても無駄である。

ただ師家だけが、それを論理的な袋小路から転じて、新しい道を開く法を知っている。それゆえに、われらはただ彼に従えばよいのである。彼にしたがって行くことによって、われらはみな「本住地」に戻るのである。





引用:鈴木大拙「禅と日本文化


2013年10月25日金曜日

熱田神宮の守る「三種の神器」草薙神剣



今年2013年は

5月に「出雲大社」の大遷宮(60年に一度)

10月に「伊勢神宮」の式年遷宮(20年に一度)

この二大イベントが奇しくも重なった。



そして、さらには「熱田神宮(愛知)」も。

”伊勢の神宮、出雲大社、熱田神宮と、この大きな祭りが重なるのは、最小公倍数でみると「300年に一度」の確率だという(南里空海)”

※熱田神宮の式年祭は「100年ごと」。今年で1,900年。



ところで熱田神宮とは?

華々しく取り上げられる出雲・伊勢にくらべれば、熱田はあまり知られていない。しかし、熱田神宮は「三種の神器」の一つを御霊代(みたましろ)として祀る由緒正しき神社である。

その歴史は『熱田神宮宮記』にこう記されている。「皇位とともに伝わるべき由緒あるものとして、皇嗣が継承される『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』は、三種の神器の一つであり、この神剣を奉斎する熱田神宮の尊貴性は、今日においていささかもかわらない…」



歴代天皇が受け継いできた3つの宝「三種の神器」とは、「草薙神剣」のほか「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」、この3つをことをいう。

現在では、「草薙神剣」は熱田神宮に、「八咫鏡(やたのかがみ)」は伊勢神宮に、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」は皇居吹上御所に安置されているという。



「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」とは?

『熱田神宮宮記』はこう続く。

「御父・景行天皇から『形は我子なれど実は神人』との絶対の信任をお受けになっていた『日本武尊(やまとたけるのみこと)』は、弱冠16歳で熊襲(九州)を平らげられ、引き続き蝦夷(東北)征伐の大命を受けられた。

 このとき尊はまず伊勢におもむかれ、叔母・倭姫命(やまとひめのみこと)にいとまごいされたが、倭姫命はこのとき神慮によって『慎み怠りたまうな』とさとされて、神剣と燧袋(ひうちぶくろ)を尊に授けられ…。

 尊は神剣を奉じ勇んで尾張国(愛知)に入られ、駿河国(静岡)に至られた。時に、この国の賊らが偽って、尊を野に誘い、火を四方に放って失わんとしたが、尊は燧(ひうち)をもって向かい火をつけ、神剣の不思議な力で危難を免れ、賊徒をことごとく薙(な)ぎ滅ぼされたので、これから神剣を『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』と称すようになった」



以後、日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の帰途、伊勢の地(三重)で亡くなる。

尊がつねに身近に置かれていた神剣『草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)』は、かねて一族が斎場としていた「熱田」に卜(うらな)い定めて奉安された。時は景行天皇43年(西暦113年)。

以来、熱田神宮は”伊勢の神宮に次ぐ格別に尊い神社として、国家鎮護の特別な扱いをうけるようになる。人々は「熱田さま」と呼んで親しみつづけ、はや1,900年ということである。



熱田神宮の宮司、小串和夫氏は言う。

「草薙神剣は、基本的に誰も見ておりません。ご神体ですから、絶対に見ることはできないのです。ご皇室の皇位とともに継承されるべき神器ですから、幾重もの厳重なる箱に納められて、勅封がなされています。それは宮司といえども勝手に解いてはならないのです」

かつて、フランスのシラク大統領(当時)が来日した2000年、親日家の彼は「ご神体の草薙神剣を見せてほしい」と所望したことがあったという。だがもちろん、お見せするわけにはいかなかったという。



また、第二次世界大戦の大混乱期、熱田神宮も空襲で大きな被害を受けた。

小串宮司は言う。「戦時中の記録を見ますと、当時は宮内省と話し合いをして、いよいよ危なくなったときに、ご神体をご避難申し上げなければならくないということで、5月16日にご本宮の裏にある防空壕にお遷りいただきました。その数時間後に熱田神宮は被災して、ほとんどの建物を焼失してしまいましたから、危機一髪、まさにご神慮だと思いました」

戦後にアメリカのGHQが踏み込んできたときにも、ご神体は危ぶまれた。

「GHQが『ご神体を見せろ』と言ってきた時にはどうするか?ということで、ご神体を極秘裏に飛騨(岐阜)水無神社に一時的にお遷しし、状況をみて約一ヶ月してお還りいただきました」


最後に小串宮司は、こう言った。

「三種の神器をご覧になるとすると、陛下しかおいでにならない。われわれは絶対に、ご神体を見たり触れたりすることはありません」






(了)






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自己犠牲の神「八幡さま」



ソース:致知2013年11月号
「身を賭して守り抜かれてきたご神体 熱田神宮」

20代という飛行機 [TED]


話:メグ・ジェイ(Meg Jay)



20代の人たちは、ロサンゼルス国際空港から西のどこかに向けて、今まさに飛び立とうとする飛行機のようなものです。
Twenty-somethings are like airplanes just leaving LAX, bound for somewhere west.

 離陸直後にちょっと経路を変更するだけで、着陸地点がアラスカになったりフィジーになったりします。
Right after takeoff, a slight change in course is the difference between landing in Alaska or Fiji.

同様に、21歳や25歳もしくは29歳でも、1回の素晴らしい会話や1度の転機、1つの優れたTEDトークが何年にも、または何世代にも渡って絶大な影響を与えることができるのです。
Likewise, at 21 or 25 or even 29, one good conversation, one good break, one good TED Talk, can have an enormous effect across years and even generations to come.








引用:TED Talks
メグ・ジェイ「30歳は昔の20歳ではありません」


2013年10月24日木曜日

相矛盾した「航続力」「速度」「格闘力」 [ゼロ戦]



話:堀越二郎






席上私は、機(のちのゼロ戦)の設計内容をひととおり説明したあと、かねて思い悩んでいた問題を、すなおにぶつけてみた。

「計画説明書のなかに示すように、エンジンの性能向上がなく、その上もしも定回転プロペラが使えないものとして、性能を平均的に要求値に近づけようとすると、計画要求より速度が約15km低く、格闘性能は九六式艦戦二号一型(現行の戦闘機)より劣るものにならざるを得ません。エンジンの性能が向上し、定回転プロペラの信頼性が高まれば、話は別ですが…」

と説明し、さらに次のようにつけ加えた。

「『航続力』『速度』『格闘力』の3つの重要さの順をどのように考えておられるのでしょうか、それをおうかがいしたいと思います」



これに対し、終始鋭い目つきで私の発言を見守っていた源田実少佐は、机の上に出されていたお茶を一気に飲みほして立ちあがり、

「九六艦戦が戦果を挙げえたのは、相手より『格闘力』がすぐれていたことが第一です。もちろん、計画要求は確実に実現してもらわねばならないが、堀越技師の質問にあえて答えるとすれば、『格闘力』を第一にすべきだと考えます。これを確保するためにやむをえないというならば、『航続力』と『速度』をいくらか犠牲にしてもいたしかたないと思います」

と、はっきりした語調で意見を述べた。これは私を信頼したうえでの答えと感じられた。



しかし、源田少佐のこの意見に対しては、同じパイロット側から反対意見が出た。

「異議あり!」といって立ちあがったのは、航空廠の柴田武雄少佐だった。精悍だが愛嬌をたたえた風貌をし、まれに見る”名戦闘機乗り”であると同時に、誠実で、典型的な武人であった。

その柴田少佐が、ふだんの人なつっこい顔を紅潮させて、つぎのように力説した。

「戦訓が示すとおり、敵戦闘機によるわが攻撃機の被害は、予想以上に大きいので、どうしても『航続力』の大きい戦闘機でこれを掩護する必要があります。また、逃げる敵機をとらえるには、すこしでも速いことが必要です。格闘性能の不足は、操縦技量、つまり訓練でおぎなうことが可能だと思います。いくら攻撃精神が旺盛で、技量にすぐれているパイロットでも、飛行機の最高速度以上を出すことは不可能だし、持ちまえの性能以上の長距離を飛ぶこともむずかしい。だから、『速度』『航続力』を格闘性能よりも重く見るべきだと思います」



「しかし…」と、また源田少佐が立ちあがり、両者の白熱した議論がくりかえされた。両者はたがいに譲らず、また、この論争の黒白を判定できる人もいなかった。

私は、この2人の息づまるような論戦を聞きながらこう考えた。「この2人の意見は、だれが見てもそれぞれ正しいことを言っているのであり、それゆえに議論は永久に平行線をたどるだろう。この”交わることのない議論”にピリオドを打つには、設計者が現実に要求どおりの物をつくってみせる以外にはない。私としては、いままでに決めた設計方針にそって、重量軽減と空力的洗練を、徹底的にやりとおそう。そして、エンジンの馬力向上と定回転プロペラの実用化を促進してもらおう」。

そうする以外に、残された道のないことを、深く心に刻んだのであった。これ以後、わが十二試艦戦は、『零戦』として雄飛するまでに、あらゆる角度から試験と審査を加えられ、”あっぱれな若武者”に鍛え上げられていくことになるのである。







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引用:堀越二郎『零戦 その誕生と栄光の記録

”どぶ泥”とロバ [禅問答]



話:鈴木大拙



唐代に一僧あり、投子(とうす・大同禅師)に尋ねた。

「一切の音はみな仏陀の声であると思いますが、そう解してもいいでしょうか?」

「それでいい」と和尚は答えた。

僧はさらに一歩を進めて、「それでは和尚さんの声も、ぶつぶつ発酵する”どぶ泥”の音と違いないでしょうか?」

投子はこれを聞くや、かの僧に一棒を喰らわした。


僧はまた尋ねた。「悟った人にとって、つまらぬ誹謗的な言葉でもみな究極の真理を表すものだと断定してよろしいでしょうか?」

師が答えた。「よろしい」と。

すると僧は進んで、「では、和尚さんを驢馬(ろば)だといってもよろしいでしょうか?」

和尚は依然としてまた彼を打った。





投子は僧の知的解釈をただちに斥けて、一棒を喰らわしたのである。僧のほうでは、自分の言葉は最初の断定から論理的に続いているのだから、和尚はおそらくこれに加えるところはあるまいと思ったのだ。

和尚は、あらゆる禅匠と同じく、かかる僧に対しては言葉による説明の無益なるを知った。言葉の上の詮議は”一つの複雑”から”他の複雑”に入って、終わるところを知らぬからである。くだんの僧のごときに観念的理解の虚偽を悟らせる唯一有効な道は彼を打つことである。

そして、「一即多、多即一」の意味を彼自身に体験せしめることである。この僧にとっては論理的夢遊病より醒めることが必要である。ゆえに投子は手洗い法にでたのである。





引用:鈴木大拙『禅と日本文化


2013年10月23日水曜日

ハッキリした丸暗記と、あいまいな意味 [素読]



話:小林秀雄



昔は、その時期(子供がものを覚えるある時期)を狙って”素読”が行われた。だれでも苦もなく古典を覚えてしまった。これが、本当に教育上にどういう意味をもたらしたかということを考えてみる必要はあると思うのです。

素読教育を復活することは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とをもっていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを、昔は暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは悪い合理主義ですね。

『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れない。それなら意味を教えることは、じつに曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。

そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法がいちばん忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまず何をおいても、『万葉』の歌と同じような意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。

実際問題としてこの方法が困難になったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです。私が考えてほしいと思うのはその点なんです。古典の現代語訳というものの便利有効は否定しないが、その裏にはいつも逆の素読的方法が存するということを忘れてはいけないと思う。

 …







引用:小林秀雄『人間の建設』


「知らなかったから越えられた」 [自転車・世界一周]



話:のぐちやすお



これまでに2回の自転車世界一周を実践し、107ヶ国12万kmを走ってきた(総走行距離35万km)。そして今もなお、毎年1回は長距離を走ることで、海外サイクリングの感覚を維持できるように努めている。そんなことを30年以上も続けてきた。

 …

『自転車漂流講座』シリーズを手にしていただいた方はすでにご存知のはずだが、私はメカに疎い。一緒に走っていると、「その程度の知識でよくもまあ何事もなく世界が走れましたね」と言われるほどだ。

しかし時として、知識は邪魔になることがある。現に、カーボン・フレームとアルミ・フレームの違いは知らなくてもサハラ砂漠は越えられたし、ブラケットという名を知らなくてもアンデス山脈は越えられた。けれども、わずかなリムのブレが気になるような、常に効率のよい走りを求めるサイクリストだったら、そんな悪路には手が出せないだろう。むしろ、”知らなかったから越えられた”と私は確信している。

 …

実践はいかなる能書きにも勝る。

たとえ、こういう状況ならこういう行動がベストである、と説いたところで、当人がそれだけの場数を踏んでいなければ説得力はない。だから漂流講座シリーズの当時から、すべてにおいて実践の結果だけを踏まえた内容に徹してきた。

しかし私とて、すべてを試してきたわけではない。一度経験して得た結果とはいえ、周囲の条件が変わってくれば結果も自ずと違ってくる。だから、これらの記載がすべてにおいて正しいとは私自身思っていないが、まちがってはいない。

 …

最後にこれだけは断言できる。心底自転車が好きで、どうしても我が目で世界を見てみたいという好奇心さえあれば、誰だって世界一周できる。






引用:のぐちやすお『自転車で地球を旅する

「自身が一本の竹となって竹を描け」



話:鈴木大拙



『中国の神秘思想と近代絵画』の著者ジョージ・ダスイット(Goergecs Duthuit)は禅的神秘思想の精神をよく理解しているようだが、彼に従えばこうである。



「中国の美術家が絵を描くとき大事なことは、思索の集中ということと、その意志の命に応じて一気呵成に手を下すことである。彼らの伝統は、まず仕事を始める前に、その描くものを全体として見る、というより感じるようになっている。

 『考が乱れていては外的状態の奴隷となる』。さらに曰く、『絵を作らんと意図して、熟思し、しかるのち筆を走らせるものは、絵画の術からはなはだしく外れる』。これは一種の自動機械的運動の類であるようにも見える。

 曰く、十年間、竹を描け、そして自身が一本の竹となって竹を描け。このようにして描くとき、竹に関する一切を忘却せよ、と。間違いなき技術はすでに手にはいっているので、いまはただ天来の興に身を任せるのだ」



自分が竹となること、竹を描くとき竹と同一化したことさえ忘れること。これは竹の禅ではなかろうか。これは画家自身のなかにもあれば竹のなかにもあるところの、「精神の律動的(リズミック)な動き」とともに動くことである。彼に必要とするところは、この精神をしっかり把握して、しかもこの事実を意識しないことである。

東洋人はその文明の初期より以来、芸術と宗教の世界でなにか成就せんと欲する場合には、まずこの種の修業に専心するように教えられてきた。禅は事実、つぎの言葉にそれをあらわしている。「一即多、多即一」。これが十二分に理解されたとき創造の天才が生まれる。





引用:鈴木大拙『禅と日本文化

「わび」とは?



話:鈴木大拙



”わび”の真意は「貧困」、すなわち消極的にいえば「時流の社会のうちに、またそれと一緒に、おらぬ」ということである。貧しいということ、すなわち世間的な事物(富・力・名)に頼っていないこと、しかも、その人の心中には、なにか時代や社会的地位を超えた、最高の価値をもつものの存在を感じること、—これが”わび”を本質的に組成するものである。

”わび”はソロー(アメリカの自然詩人)の丸太小屋にも似たわずか二、三畳の小屋に起臥して、裏の畑から摘んだ蔬菜の一皿で満足することであり、静かな春の雨の蕭々たるに耳を傾けることでもある。

それは事実、「貧困」の信仰、おそらくは日本のような国には極めてふさわしい道である。近代西欧の贅沢品や生活の慰安物がわが国を侵すようになっても、なお、わび道に対するわれわれの憧憬の念には根絶し難いものがある。知的生活の場合でも、観念の豊富化を求めないし、また、派手でもったいぶった思想の配列や哲学大系のたてかたも求めない。

神秘的な「自然」の思索に心を安んじて静居し、そして環境全体と同化して、それで満足することの方が、われわれ、少なくともわれわれのうちにある人々にとって、心ゆくまで楽しい事柄なのである。たとえいかに「文明化」した人工的な環境に育つようになったとはいえ、私たちの心のなかには、みな自然の生活状態に遠くない原始的単純性に対して、生得の憧憬をもっているように思われる。しばらくでも自然の懐に帰って、直接その鼓動を感じようと欲するのである。




引用:鈴木大拙『禅と日本文化

剣匠の教え [不立文字]



話:鈴木大拙


日本の剣匠たちはしばしば禅の鍛錬法を用いる。

一人の熱心な弟子が剣術を習いたいというのでやってくる。山中の小庵に隠棲していた先師は、やむをえず、それを承知する。ところが、弟子の毎日の仕事は、師を助けて、薪を集め、渓流から水を汲み、材木を割り、火を起し、飯を炊き、室や庭を掃くなど、家事一般の世話をさせられるのである。べつに規則正しく剣術法を教えられることもない。

日数がたつにつれて、若者は不満をおぼえてきた。自分は召使として働くため老先生の許にやってきたわけではなく、剣道の技をおぼえるためにやってきたのだ。そこである日、師の前にでて、不平をいって教えを乞うと、師匠は「うん、それなら」という。

その結果、若者は何一つの仕事も安心の念をもってすることができなくなった。なぜかというに、早朝飯を炊きだすと、師匠が現れて、背後から不意に棒で打ってかかるのだ。庭を掃いていると思っていると、何時何処からともなく、同じように棒が飛んでくる。若者は気が気でない。心の平和をまったく失った。何時も四方に眼を配っていなければならなかった。

かようにして数年たつと、はじめて、棒がどこから飛んでこようとも、これを無事に避けることができるようになった。しかし、師匠はそれでもまだ、彼を許さなかった。

ある日、老師が炉で自分の菜を調理していたのを見て、弟子は好機逸すべからずと考え、大きな棒を取り上げて、師匠の頭上にうちおろした。師匠はおりから、鍋の上に身を屈めて、なかのものを掻き回しているところだったが、弟子の棒は鍋の蓋で受けとめられた。

このとき弟子は、これまで至りえなかった、自分の知らない剣道の極意に対して、はじめて悟りを開いた。彼はそこで本当に師匠の比類なき親切さを味わいえたということである。



ここに禅の鍛錬法の一風変わったところがあるのだ。それは真理がどんなものであろうと、身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に訴えぬということである。

事実、いかなることでも皆、真に「伝え難き」もの、すなわち論議を主体とする悟性の限界を超えたものである。それゆえ、禅のモットーは「言葉に頼るな(不立文字)」というのである。

この点において、禅は科学(または科学の名によって行われる一切の事物)とは反対である。禅は体験的であり、科学は非体験的である。





 引用:鈴木大拙『禅と日本文化