2018年5月30日水曜日

中村元と『ソフィーの世界』


From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
2014/7/24
植木 雅俊 (著)





それは、1991年の10月9日のことであった。その翌日の午後、出先で携帯電話が鳴った。妻の眞紀子からだった。緊張した声で、「中村先生が亡くなられたみたい」と告げた。86歳であった。





中村は、自らの最期について1986年に出版された『学問の開拓』に、

「わたくしは死の寸前まで机に向かい、自分のほそぼそとした研究をまとめ続けたいと願っている。筆をもったままコトリと息絶えれば、学者として、それはそれで本望であろう」(81頁)

と綴っていた。まさに、その通りの学者として本望の姿であった。



『ソフィーの世界』に学ぶ


中村の密葬が、10月12、13の両日にわたって行なわれた。

会場正面の向かって右側に、サールナートで発掘された穏やかな表情の初転法輪坐像」の写真(表紙カバーの写真)が掲げられ、その左側に左斜め前向きで合掌する中村の写真があった。中村の依頼で写真家の丸山勇氏の作品を引き伸ばしたもので、中村が初転法輪坐像に向かって合掌している構図になっていた。

会場では、アメリカから来日していたイナダの姿を見つけて驚いた人が多かった。筆者が、中村の病状を逐一知らせていたことで、駆けつけてきたと聞いて、「植木さん、ケンによく知らせてくれた。ケンとはもう三十年来、音信不通になっていた」と東洋大学教授(当時)の川崎信定(かわさきしんじょう)が喜んでくれた。イナダと同じ年齢の三枝も再会を喜んだ。





告別式で棺の中に花を添える時、中村の胸にヨースタイン・ゴルデル著『ソフ
ィーの世界』が置かれていた。

その理由を三木純子にうかがって、中村の学問に対する姿勢を改めて教えられる思いがした。その思いを本間に伝えると、「植木さん、それを書いてください」と言われ、『仏眼』に次のようにしたためた。



生涯求道の中村元先生を悼む

印度学仏教学の世界的大家、中村元博士が10月10日に亡くなられた。86歳であった。前号で紹介したように7月に決定版「中村元選集」を完結させたばかりであった。一つの大きな山を越えたことでホッとしたところへ、この夏の猛暑。8月末に体調を崩し、病床に臥す毎日だった。前号の記事「決定版r中村元選集』の完結に寄せて」を家族の方々が喜んで下さり、先生の枕元に置いて記念撮影をされたと、長女の三木純子さんからうかがった。恐縮の限りである。

10月12、13の両日、アメリカから駆けつけたケネス·K·イナダ博士夫妻をはじめ、三枝充悳、前田專學、奈良康明、川崎信定、田村晃祐(たむらこうゆう)、森祖道(もりそどう)博士ら、中村先生の教えを受けた人たちをはじめ、東方学院関係者、身内の方々で密葬が行なわれた。

式では中村先生が日ごろから日課として朗読していた「依文三帰(さんきえもん)」と「生活信条」を参加者全員で唱和した。その「生活信条」の全文は次の通りである。

み仏の誓いを信じ 尊い御名をとなえつつ、強く明るく生きぬきます
み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
み仏の教えにしたがい 正しい道をききわけて 誠のみのりをひろめます
み仏の恵を喜び 互いにうやまいたすけあい 社会のためにつくします

その一言一句を噛みしめながら朗読した。卓越した学者でありながらも、どこまでも謙虚で、慈愛溢れる中村先生の人柄の秘密の一端を垣間見る思いであった。

40歳にして初めて難解なサンスクリット語を学び始めた私に、中村先生は人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」と励ましてくれた。それは、中村先生自身の信条でもあったのだ。

30年近く前に出された「選集」に満足せず、大幅増補·改訂されて決定版「選集」を完結させた。80歳の時の年初の講義で「今年は9冊本を出します」と言って、本当に分厚い本を9冊出した。二百字詰め原稿四万枚がなくなって、8年がかりで作り直した『佛教語大辞典』の話は有名だ。中村先生は、「やり直したおかげで、ずっといいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と語っていた。その『佛教語大辞典』についても、晩年には「まだまだ手を入れたいところがある」とも口にしていた。





中村先生は、文字通り最後の最後まで研究の集大成に挺身しておられたのだ。告別式で奥様の洛子夫人が、「主人は、自分の何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と一言挨拶した。短いが、生涯求道の中村先生のすべてを物語っている言葉だった。

お別れの時、開かれた棺の中の先生の胸の上にはヨースタイン・ゴルデル著、池田
香代子訳『ソフィーの世界』(上·下)が置かれていた。





中村先生と『ソフィーの世界』――その組み合わせがなかなか理解できなかった。「何でだろう?」。長女の三木純子さんにうかがうと、中村先生のお孫さんが持っていたその本に興味を示し、中村先生はお孫さんから借りて愛読していたそうだ。検査入院の時や、地方に出かける時、純子さんが、「荷物は何を入れますか?」と尋ねると、いつも

「筆記具と『ソフィーの世界』」

というのが答えだったという。純子さんは, 「父が読みかけだったようなので、 "向こう“でゆっくりと読めるようにと考えて、棺に入れてあげました」と話してくれた。ペーパーバックのカバーは少し擦り切れていた。哲学を分かりやすく書いたものとして、話題になった書である。

中村先生は、日ごろから「分かりやすく説くのは通俗的で、わけの分からぬような仕方で説くのが学術的であるかのように思われているが、これはまちがいだ。分かりやすく説くのが学術的なのだ」とよく話されていた。この本についても、「これからの学者は、このように子どもや一般の人にも分かるように書かねばならない」「ワシも勉強せねばならぬ」と話されていたという。

中村先生がこの書を愛読されていた事実を知って、改めて中村先生の学問への態度を教えられた思いである。

この精神を継承することが中村先生への追善となろう。
中村先生のご冥福をお祈り申し上げます。

一九九九年十一月一日
合掌
(『仏眼』1999年11月15日号)



池田香代子の涙の感動と驚き


この記事を、『ソフィーの世界』の翻訳者である池田香代子に、逸早く知らせたくて郵送した。そして、池田からメールが届いた。11月28日のことだった。それは中村の誕生日に当たり、中村の納骨の日であり、メールを受信したのは、その納骨が行なわれている時刻であった。

そのメールには

『佛眼』をお送りくださり、ありがとうございました。なんだろうと思ってページを繰っていき、ご文章に行き当たって、ほんとうに驚きました。とっさに、涙があふれました。このような大碩学が、晩年、あの入門書を楽しんでくださり、行く先々にお持ちまわりになったとは。この本にたずさわった一人として、生涯、光栄に存じます。しかも、遠い旅立ちに、ほかにいくらでも、それこそいくらでもおありだろうに、あの本を故人にお持たせになったご家族のやさしいお心、故人とご家族の深い愛の絆を思って、ご家族もまたすばらしい方々だと感じ入りました。

中村元氏は、私は直接ご本を読むような器ではありませんが、サンスクリットの詩のご翻訳は昔から拝見していました。友人にサンスクリット学者がおり、「日本には中村元しかいない」と常々言っていました。『ソフィーの世界』の編集者と監修者は、中村氏がお亡くなりになったとき、お噂をしていたそうです。その二人にもすぐさま電話で植木様のことを伝え、電話口でそれぞれに涙ぐんでしまいました。

池田香代子

と記されていた。





From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
2014/7/24
植木 雅俊 (著)





2018年5月20日日曜日

落ちて下になるのは、バター面か?


From:
日経サイエンス2017年6月号
S.マースキー
「5秒ルール」を考える





コメディアンのブースラー(Elayne Boosler)は、豊富な人間経験についてこんな話をした。

「母は掃除が大の自慢で、いつも『うちの床に落ちたものは食べても大丈夫だよ』と言っていた」

「わたしんちの床も食べられる。どっさり落ちてるから」





テレビアニメ『ザ・シンプソンズ』のホーマーは、床に落ちている一切れのパイを見つけて言った。

「うまそうなフロア・パイ!」




さらにテレビドラマ『フレンズ』には、こんなのがあった。

レイチェルとチャンドラーが、玄関の床に落ちた厚切りのチーズケーキをつついて食べているところに、ジョーイがやってきて腰をおろし、ポケットからフォークを取りだして言う。

「いいねえ、なんのごちそう?」





ここで思い出すのは、バターを塗ったパンを落とした際に、バター塗り面が上になって着地したことに不安をおぼえたユダヤの老人についての有名な話だ。

ベタベタのバターが床に触れずにすむのは幸運に思えるかもしれない。だが、この世は憂き世であるからして、この老人は

「宇宙が創造主の遠大なる永遠の計画にそって機能していないのではないか」

と不安になった。そこで老人はラビに相談した。ラビは数日にわたって研究と熟慮を重ねたすえに、科学的な説明にたどりついた。いわく、

「バターを塗る面が間違っていたのである」





いずれにせよ、わたしの場合、下になるのは決まってバターを塗ったほうの面だ。





From:
日経サイエンス2017年6月号
S.マースキー
「5秒ルール」を考える

2018年5月19日土曜日

ひらかなかった落下傘【野田佳彦】


From:
10M TV オピニオン
松下幸之助
『俳優でもやるのかと思われるほど笑い方を磨け』


話:野田佳彦




わたしの地元(千葉県船橋市)に陸上自衛隊の第一空挺団の落下傘部隊があるじゃないですか。

その落下傘部隊が北海道へ演習にいって、300メートルのところから降下をしたのです。そうしたら、落下傘のひらかない隊員が一人いた。それで、

「予備傘は開いたのか?」

と聞いたら、予備傘も開かなかった。ということは垂直落下です。

「現場を確かめに行け」

ということで向かったら、その隊員が雪のなかに立っているというのです。

「突き刺さったのか? もっと近くに行って見ろ」

といって近づくと

「しゃべっている」

というのです。しゃべっているということは生きていたのですよ。


雪が30cmぐらい積もっていたのと、寸前に、落下の5メートル手前で、さっと落下傘が開きかかったことが、(落下速度が)時速14km以上だと死ぬのですけれど、13.数kmでギリギリとどまったという奇跡がおこったのですよ。

すごいのは、その隊員は、平素の厳しい訓練をそのまま地面に落ちるまでやろうと思って、気を失うこともなく、落下地点を見つめながら、どう着地するか諦めないでずっといたということです。

これなのです。

わたしは「これだ」と思いました。

「運」とは諦めないこと。

最後まで諦めないでいること。






From:
10M TV オピニオン
松下幸之助
『俳優でもやるのかと思われるほど笑い方を磨け』

2018年5月18日金曜日

怒る日本人、落ち着くタイ人


From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』





日常生活における仏教


さて、タイで生活していると、日本よりも格段に仏教を身近に感じるようになります。托鉢僧はバンコクの町中でもよく見かけますし、「本日は入安居のためアルコール販売できません」といった張り紙ひとつにも、仏教がタイの生活に根づいていることが感じられます。

とくに私の場合は公立学校で働いているため、さらに仏教や僧侶を身近に感じる機会にめぐまれました。朝礼では国歌斉唱のあとに毎朝みじかいお経を全校生徒(他宗教の生徒はのぞきます)が唱えますし、月初めには、長めのお経を30分ほどかけて、全校生徒で唱えます。

また、わたしが勤めている学校では、毎週金曜は朝礼前に僧侶が読経と説法をおこない、お布施の時間がもうけられています。そのほかにも、お釈迦さまの前世についての物語を2日かけて僧侶が語る「テートマハーチャート」という行事も毎年ひらかれています。

また、毎日ではないですが、朝礼時に全校生徒が3分ほど瞑想をおこなうこともあるし、遅刻がおおくて出席点があやうい生徒に、放課後に1時間単位で瞑想させることもあります。

このように、幼少期から身近にある仏教が、個々人の行動様式に一定の機能をはたしていることは十分考えられると思います。


怒りの対処の違い


たとえば「怒り」の感情に対して、日本人とタイ人ではその取り扱いかたがずいぶん違います。

日本ではとちらかというと、怒りに対して肯定的ではないものの、「怒らせる原因をつくった相手」のほうが悪く、TV番組などを見ていてもわかるように、「その怒りはごもっとも」といった文脈に帰結される場合も多いように感じます。

しかしタイにおいては、「怒りという感情に飲まれる」ことは、人間的に成熟していない、と一般的には理解されています。

余談ですが以前、こんな話を聞いたことがあります。

ある日系企業において、日本人の上司が何度も同じ失敗を繰り返す部下のタイ人に対して、「なんど教えればわかるんだ」と怒りを露わにしたところ、当のそのタイ人の部下が「まあ落ち着いてください」とお菓子をさしだし、それを見た日本人の通訳が、あわててお菓子をとりあげた、という笑い話のような話なのです。

これは日本人的文脈からいうと、どうしてさらに火に油をそそぐようなことをするのだ、となるわけです。しかし、その部下のタイ人からすれば、そのときになすべき最優先事項は、怒りに飲み込まれ、我を失っている上司に冷静になってもらうことだったのでしょう。

日常的によく耳にするタイ語に「チャイイェン」という言葉があります。「チャイ」が心で「イェン」が冷たいという意味なのですが、これは冷たい心という意味ではなく、心を冷静に保つという意味合いをもちます。

だれかが怒りにかられていると、まず「チャイイェンコーン(まずは冷静になってから)」と言葉がけをし、そこから話をしましょうという姿勢をタイ人はよく見せます。日本人からしてみれば、「怒らせている原因をつくっているのは相手なのに、それに対して怒っている自分が、なぜ責められなきゃならないんだ」と、また怒りにかられてしまうという悪循環におちいるわけですが、「怒り」というのは、ご存知のように仏教的文脈においては、煩悩のひとつとして滅するべきものであり、どんな理由があるにせよ。良きものをなにも生み出さないという共通の考えがタイ人にはあるようです。

怒り狂う上司になんとか冷静になってもらおうと思ってとった、日本人の目からすれば「とんでもない」その部下の行動も、その文脈からみれば理解可能なものだといえるかもしれません。





From:
サンガジャパンVol.29
長尾俊哉
『タイの普通の暮らしから見えてくる仏教に根ざした社会のあり方』

2018年5月17日木曜日

空前の字典というべき『説文解字』【三国志・許慎】


From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻






九月、帝闕(ていけつ)に書物をはこんできた者がいる。

氏名は許沖(きょちゅう)といい、書物を献上にきたのである。

「臣(わたし)の父は、もと太尉南閣祭酒(たいいなんかくさいしゅ)の慎(しん)と申します。賈逵(かき)から古学を学びました。父はいま病なので、臣が父の著作を献上にまいりました」

と、許沖はいい、うやうやしく上書をさしだした。

「さようか。殊勝である。詔書を賜れば、嘉納(かのう)されたことになる。それまで待て」

そういわれた許沖は、翌月にその書物が皇室におさめられたことを知る。許沖には布四十匹が下賜された。


国家の大事件でもないので、『後漢書』にはそれについて記さず、明帝期に創修され、班固(はんこ)から蔡邕(さいよう)まで超一流の学者がたずさわって纂修されたといわれる『東観漢記(とうかんかんき)』には建光元年の項さえなく、『資治通鑑』の九月には、北辺での攻防が記されている。



書物献上の記述はみあたらない。

ほとんど注目されなかったこの書物こそ、空前の字典というべき『説文解字』であった。著者は許慎(きょしん)である。





許慎がどういう人物であるかは、『後漢書』に伝があり、わずかに書かれている。それによると、許慎はあざなを叔重(しゅくじゅう)といい、汝南郡召陵県の出身である。性格は淳篤で、少壮のころに経籍を博(ひろ)く学び、大儒で高慢であるとさえいわれる馬融(ばゆう)につねに尊敬された。

当時の人々は許慎のことを「五経無双の許叔重」と、いった。五経とは『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の経書をいう。

かれは郡の功曹となり、孝廉(こうれん)に推挙され、再遷(さいせん)して洨(こう)県の長となった。召陵の自宅で歿した。生年と歿年は、まったくといってよいほどわからない。


許慎の非凡さは、日常つかいなれている物に目をとめて、凝視しつづけ、思索を深め、思考を広げていったことにある。その物とは、文字、である。許慎は漢字の非凡さに最初に気づいた人でもある。

――文字は、なぜこの形になり、この音になり、この意味になるのか。

許慎の研究が稿本(こうほん)となっていちおうの完成をみたのは、和帝期の永元12年(100年)である。その年から執筆をはじめたという説もないことはない。それから21年後にあたるこの年に、十五巻(十四篇と後叙)、13万3,441字が安帝に献呈された。

説文解字という四字をいれかえると解説文字になり、すなわち、文字の解説である。たとえば、「一(いつ)」とは何であるのか。許慎はこう解く。

これ初め太始(たいし)、道は一に立つ。

天地を造分(ぞうぶん)し、万物を化成(かせい)す。

およそ一の属(ぞく)はみな一に从(したが)う。

道家(どうか)の教義は物の本義にむかい、儒家は転義にむかう。許慎の解説は道家的である。

太始は元始といいかえてもよい。道は、天道であると同時に人の道である。造分は、造り分ける。化成は、成長させる、あるいは、形を変えて別の物にする、ということである。





けっきょくこの字典は、学界のなかで絶対的な地位を占め、その支配力は20世紀の後半までおよんだ。

後漢王朝以降、いくたび王朝が興亡したか。が、『説文解字』は滅びなかった。個々の漢字とその全体を考えるとき、許慎の説にまさる説(体系)を呈示できた者はいなかった。

ところが、日本で昭和48年(1973年)に、『説文新義(せつもんしんぎ)』という書物が刊行された。著者は白川静(しらかわ・しずか)である。

白川静は許慎の知らなかった甲骨文字を研究することによって、先人がなしえなかった許慎の呪縛を解くことに成功した。その偉業は絶賛されるべきものであり、漢字を使用する民族にもたらされた恵訓(けいくん)の巨(おお)きさははかりしれない。

白川静は涵蓄淵邃(かんちくえんすい)の人である。








From:
宮城谷昌光
『三國志』第一巻
謳歌

宇宙の最初の『巨大な鶏卵』【中国古代神話】


From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1





盤古(ばんこ)


宇宙の最初、そこには天地も日月もなく、それは暗黒の、混沌たる一つのかたまり、いわば巨大な鶏卵のようなものであった。

――やがて、そのなかに生き物が一つ芽生え、1万8千年かかって成長をとげ、盤古(ばんこ)という神になった。かれは暗黒のなかにじっとせぐくまって、生きておった。


ある日、すさまじい音がして突然に卵が割れ、内部の軽くて清らかな成分は、ふわふわと雲をなし上昇して天空となり、重くて濁った成分は、下に沈み固まって大地となった。

そこで自然に盤古(ばんこ)は突っ立って、頭と両手で天をささえ、両足で大地を踏みしめる形になった。

さて宇宙はすみやかに膨張し、毎日、天は一丈ずつ高くなり、地は一丈ずつ厚くなり、また盤古(ばんこ)の身もずんずん大きくなり、この膨張が1万8千年のあいだつづいた。

――今や、高い青空と広い大地との中間に、途方もない巨人たる盤古(ばんこ)が、天地の柱として突っ立っているのであった。


盤古(ばんこ)は、暗く静まりかえった広大な宇宙のただなかに、まさしく孤独のままで、辛抱づよく天空をささえ、長い時間を耐えたが、やがて疲れ果て、横たわって死んだ。

――すでに天地は固まっていて、この巨人の柱が抜けても崩れなかった。

盤古(ばんこ)が死ぬと、そのいまわのきわの声は雷となり、息は風となり、左眼は太陽に、右眼は月に、手足は山々に、血潮は川になるなど、身体の各部がすべてそれぞれに変化して、天地間の万物になった。


五色の石


天地が開け、山川草木や虫魚鳥獣はでそろったが、まだ人間はいなかった。

そのとき、女媧(じょか)という神が、土を水でこねて、初めて人間を造った。一つ一つ丹念に造っているわけにはゆかないので、しまいには、縄を泥に浸して引き上げ、したたり落ちた泥を人間にした。だから初期に造られたのは上等な人間になり、あとで造られたのは下賤の人間になった。


また、このころ、水神の共工(きょうこう)と火神の祝融(しゅくゆう)がケンカをして、ものすごい闘争を演じたが、ついに敗れた共工は不周(ふしゅう)山に頭を打ちつけて死んだ。その激しさに山が割れ、地が裂け、天空にヒビがはいった。

そこで女媧(じょか)は川の底をさぐって五色の石を拾い集め、火にかけて練り合わせ、これで天のヒビをつくろい、また巨大な亀を殺し、その四脚を切り取って、これを大地の四方に立て、天地の間の柱とした。

これで天地は崩れずに済んだが、このときから天は西北に傾き、そのため日月星辰は東にでて西に沈み、また地は東南にくぼみができて、そのため百川はここに流れ込み、海をなすようになった。


帝俊


人間生活に文明をもたらし、文化を開いた神々は、黄帝(こうてい)・神農(しんのう)・伏羲(ふくぎ)・帝嚳(ていこく)・帝俊(ていしゅん、舜)などであり、「三皇五帝」と呼ばれる諸神もしくは諸英雄がそれである。

そして、これらのなかでも最も重要なのは帝俊(ていしゅん)である。


帝俊(ていしゅん)には三妻があった。ひとりは娥皇(がこう)で、これは三身国を生んだ。その国人はみな一頭三身で、五穀をつくり、また虎・豹・熊などを使いならした。

もうひとりの妻は羲和(ぎか)で、10人の太陽神を生み、東海の海のはずれに住み、毎日ひとりずつ太陽を洗い上げては空にのぼすのであった。

もうひとりの妻は常儀(じょうぎ)で、この人は12月の月神を生み、西方の野に住んで月神のせわをした。


帝俊には后謖(こうしょく)や義均(ぎきん)をはじめ、なお多くの子孫があり、衣食住の法や工芸美術の道を人に教え、文明を大いに進歩させた。

なお帝俊の世には、美しい五彩の鳥が東方の野に舞い遊んでいたが、後世に太平の象徴と認められた鳳凰というのは、この鳥の一種である。




以上に述べたのは、中国の古代神話の一部分であるが、むかし中国ではこうした怪奇な物語は四書五経のような正統の経書に記録されず、神話伝説の類をおさめたものは雑説とか小説とかよばれる著述としてあつかわれた。

つまり本格的な学問や教養の対象とするに足りない、雑多な、価値の低い伝承とみられたのである。



From:
竹内 照夫
四書五経入門―中国思想の形成と展開
 (平凡社ライブラリー) 単行本 – 2000/1/1



2018年5月16日水曜日

「16年間で2歳しか老化しなかった人」の話


From:
レイ・カーツワイル
Ray Kurzweil
『シンギュラリティは近い』


デザイナー・ベビーブーマー


病気の進行や老化を遅らせるための情報はすでに十分でそろっているので、わたしを含むベビーブーマーは、バイオテクノロジー革命が頂点を極めるまで、この健康をいじできるだろう。そしてバイオテクノロジー革命そのものが、ナノテクノロジー革命への架け橋となる。

わたしは、長寿研究の最先端にいる医学博士、テリー・グロスマンとの共著『素晴らしい未来への航海――永遠の命を手に入れる(Fantastic Voyage: Live Long Enough to Live Forever)』で、画期的な長寿へと導く3つの架け橋(現有の知識、バイオテクノロジー、ナノテクノロジー)について説いた。

その本に、こう記している。

「同世代の人の中には、老化を人生のひとつの過程として潔く受け入れようとする人もいるが、わたしの考えは違う。老化は『自然なこと』かもしれないが、頭がさびついたり、感覚が鈍くなったり、体が硬くなったり、性欲が衰えたり、なんであれ人間の能力が失われていくのを肯定的にとらえることなど、私にはできない。わたしから見れば、何歳になっていても病気と死は不幸な出来事であり、克服すべきものなのだ」






その本で「第一の架け橋」とみなした「現有の知識」には、知識を最大限に活用し、老化を大幅に遅らせ、心臓疾患や癌、Ⅱ型(インシュリン非依存型)糖尿病、脳卒中といった深刻な病を治すことも含まれる。

われわれは、事実上、自分の生化学的組成をプログラムし直せるようになった。つまり、現有の知識を積極的に活用すれば、大多数の病気を支配する遺伝的運命を克服できるところまで来ているのだ。「遺伝でほとんど決まっている」というのは、健康と老化に対してこれまでと変わらず、受け身でいる人の逃げ口上である。

わたし自身の話が教訓になるだろう。

20年以上も前に、わたしはⅡ型糖尿病と診断されたが、従来の治療では悪化する一方だったので、発明家としての観点から、この健康を脅かす難問に取り組んだ。専門文献を読み漁り、独自のプログラムを開発し、ついに糖尿病の治癒に成功したのだ。

1993年に、この経験をもとにして健康に関する本(『健康的な生活を送るための10%の解決策(The 10% Solution for a Healthy Life)』)を書いた。今もその症状や合併症はまったく出ていない。





40歳のとき、わたしの生物学的年齢は38歳前後だった。

現在56歳だが、グロスマンの長寿クリニックで生物学的年齢を総合的に(さまざまな感覚の鋭敏さ、肺活量、反応時間、記憶力、その他のテストによって)測定したところ、40歳という結果がでた。

生物学的年齢の測定方法についてはいろいろは意見があるが、わたしの点数は40歳の平均値と一致している。つまり、この一連のテストによると、過去16年間で、それほど老いていないことになる。それはいくつも受けた血液検査の結果とも一致しているし、実感でもある。

こうした結果は偶然の産物ではない。わたしは自らの生化学的組成を果敢に再プログラムしてきたのだ。毎日サプリメントを250粒摂取し、週6回、静脈内投与(基本的には栄養補給剤を直接血流に注入し、胃腸管を迂回させる)を受けている。その結果、体内の代謝反応はそうしなかった場合とは格段に違ってきた。



ケンブリッジ大学遺伝学科の科学者、オーブリー・デ・グレイは生物の基礎となっている情報プロセスを変化させて老化を阻止することを、深い洞察力をもって熱心に訴えている。

デ・グレイは家のメンテナンスをたとえに使っている。

家はいつまで使えるだろう? それは、あなたの手入れ次第だ。なにもしなければ、じきに屋根から雨漏りしはじめ、家は風雨に侵され、やがて崩壊する。しかし先手をうって構造を手入れし、壊れたところは全て直し、危険に対処し、新しい部材や技術をもちいて修繕やリフォームをしていれば、基本的に家の寿命に限界はなくなる。

われわれの身体や脳も同じことだ。

唯一の違いは、家を手入れする方法は熟知していても、生命の生物学的原則は、まだ完全にわかっていないところにある。しかし、生命の生化学的なプロセスと反応経路への理解が急速に深まるにつれて、その知識もかなりの速さで増えている。

そして老化とは、否応なく前進させられる一本の道ではなく、関連するプロセスのまとまりと見なされるようになってきた。





From:
レイ・カーツワイル
Ray Kurzweil
『シンギュラリティは近い』

認知症は『アロマ』で予防できますか?


From:
週刊東洋経済 2016年10/8号



浦上克哉
『認知症予防のQ&A』






認知症予防に、アロマは効果があるのですか?


認知症では、物忘れがはじまるよりも先に、匂いがわからなくなる症状がよくみられる。

アルツハイマー型認知症の原因物質の一つに、アミロイドβタンパクが脳にたまると、まず嗅神経がダメージをうける。そのダメージが、隣接している「海馬」(脳のなかで記憶をつかさどる部位)にも広がり、記憶障害が起こると考えられている。

嗅神経には「適度な刺激を与えると再生する」という、とてつもない能力がある。だから嗅覚をはたらかせるほど脳が活性化する。アロマセラピーが有効なのはこのためだ。





私たちの研究では、介護老人保健施設で軽度から中等度のアルツハイマー型認知症の人をふくむ77人にアロマをもちいた調査を実施し、多くの人に認知機能の改善効果がみられた。

高齢になると、メラトニンというホルモンの分泌が減り、眠りが浅くなる。そして本来は睡眠中に分解されるアミロイドβタンパクが溜まりやすくなる。これを防ぐには、昼間は活動的に過ごし、夜はゆっくり休んで、生活のリズムを整えることが大事だ。

私たちの研究グループは、アロマオイルの使い分けで生活にメリハリをつけ、いい睡眠につなげる方法を提唱している。



昼間用のオイルは、集中力や記憶力を向上させ、交感神経を刺激するブレンドにしている。ローズマリー・カンファーとレモンの組み合わせがベスト。日中はアロマペンダントやシート(パッチ)をもちいて連続使用する。

夜間は、副交感神経を刺激し、リラックスしてぐっすり眠れるよう、真正ラベンダーとスイートオレンジの組み合わせがよい。就寝の一時間もど前から、芳香器をもちいて寝室全体に香りをひろげる。

本来、メラトニンの分泌をうながすには、昼間に日光をあびるのが理想的。しかし外出がままならない高齢者もいるだろうから、手軽に利用できる点でアロマは有用なツールである。





何歳ごろから予防を考えるべきでしょうか?


認知症の発症は、大部分が65歳をすぎてから。ところが認知症の6~7割をしめるアルツハイマー型において、アミロイドβタンパクが溜まりはじめるのは、発症の20~30年前だとわかってきた。

逆算すると、40~50代の段階から積極的に予防に取り組めば、認知症になる人をもっと減らせるようになり、発症の時期をさらに遅らせることができると私は考えている。





From:
週刊東洋経済 2016年10/8号


「楽をしたければ『直後に思い出せ』これが記憶の鉄則である」


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週刊東洋経済 2016年10/8号




篠原菊紀
『効率的な記憶術 7つのワザ』


ポイント1
覚えようとせずに、直後の思い出す


記憶には、

①覚える=記銘
②覚えておく=保持
③思い出す=想起

の3つの段階がある。3つは本来は別々の働きで、脳のなかで働く部位も違っている。しかし、記憶の神経ネットワークとしては一体化して働いている。記憶するとは、このつながりを強固にすることである。神経ネットワークの部分部分だけをつくることはできないのだ。

だから、何かを覚えたいのならば、一方通行でやみくもに詰め込もうとせず、いったん情報を入力したら「思い出す(想起する)」ところまでしておくことが肝要だ。


米ワシントン大学の研究グループが実施したこんな実験がある。

2つのグループに「およそ250の単語からなる文章を記憶する課題」を与えた。片方のグループは7分間記憶し、さらにもう7分間を記憶する時間にあてた。もう一方は、7分間記憶し、7分間を覚えた文章をできるだけ「書き出す」ことにあてた。それから両グループに確認テストをした。

作業直後である5分後には、「記憶、さらに記憶」のグループのほうが成績がよかった。ところが2日後は「記憶して書き出す」のグループのほうが良好な成績だった。これは1週間後でも同じだった。


脳は、インプットよりもアウトプットを重視する。「出力依存性」をもつ。

記憶に深く関係する海馬は、思い出したり、使ったりすると、それが自分にとって大事なことだと判断するようで、それだけしっかり覚えようとしてくれる。

資格試験の試験勉強でも、単に読んで、蛍光マーカーをひくよりも、読んだ直後に目をつぶって思い出してみたほうが、長く頭のなかに定着する。受験勉強ならば、チェックテストを多用したり、誰かに説明したりすることだ。記憶を引き出すことが効果をうむ。

楽をしたければ、直後に思い出せ。これが記憶の鉄則である。






ポイント2
覚えようとせず、すぐに使う

効率よく記憶するためには、「直後に思い出す」とならんで「直後に使う」ことが大事である。

2011年にサイエンス誌に掲載された有名な論文がある。

短い科学論文を、大学生200人に5分間、読んでもらった。その後、大学生を4つのグループに分け、

「読んだ後に何もしない」
「10分間、何度も繰り返し読む」
「10分間で内容をまとめるコンセプトマップをつくる」
「10分間で読んだ内容に関する自由なエッセーを書く」

を課した。

1週間後にどれだけ記憶しているかのテストをしたが、その前に記憶に対する自信をたずねた。被験者には「すごく自信がある」から「まったく自信がない」まで、自信の度合いを回答してもらった。

「何度も繰り返し読んだグループ」が最も高い自信を示す一方で、「エッセーを書いたグループ」は自信が最も低かった。

結果が興味深い。論文の中身をたずねる質問でも、そこに書かれたことから類推しうる事項をたずねる関連質問でも、成績が最も良かったのは「エッセーを書いたグループ」だった。

エッセーを書くことは、読んだ内容を思い出しながら、それを組み合わせてアウトプットしようとする行為だ。この実験からは、直後に思い出すだけでなく、直後に思い出しつつ使うと、「記銘、保持、想起」のネットワークが強化されることがわかった。

想起(再生)することと、「使う・組み合わせて答えを考える」ことで記憶は強固になる。なにもエッセーを書く必要はない。箇条書きのような短い文章をいくつか書くだけで効果がある。






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週刊東洋経済 2016年10/8号