2015年7月21日火曜日

弓と呼吸と [黙雷禅話]



〜話:黙雷禅師〜


三橋飛騨守の禅機


昔、三橋飛騨守といふ町奉行があったが、彼は禅機を得たる一名士であった。あるとき部下の輩を集めて弓術大会を開いた。そのとき賞品を与えたやり方が中的者(的に当てた者)の他に不中的者のもの(的を外した者)までにも与えられた。そこで中的者は多少不満に思ふて

「中不中(当たる当たらぬ)を論ぜず賞誉せられたは如何なる御意見か」

と尋ねると、奉行は呵々と一笑して

「『能射者不当的』だ。的に当てた貴様ら、矢を放つまでに呼吸が三度変わった。能く当てぬ方は的にこそ放づれたれ(外れたれ)、その呼吸はじつに平然であった。だから当てた方は実戦に間にあはぬ弓で、当てなかった方がかえって実戦に大威力を現はすのだ。実地の用は中(当たる)と不中(当たらぬ)に関せず、その態度その心持ちの如何にある。呼吸まで変えて的に中てたとて、それが何の功名であるか」と。






出典:竹田黙雷『黙雷禅話




2015年7月15日水曜日

山岡鉄舟と西郷隆盛



〜話:行徳哲男〜




 ピーター・ドラッカーは日本民族こそ「世界最強の”問題処理民族”である」と言っている。日本民族は大化改新、応仁の乱、蒙古襲来、明治維新、第二次世界大戦、オイルショックなどさまざまな国難をことごとく乗り切ってきたのだ、と。






 ドラッカーは明治維新を称えてこう言う。「明治維新は人類がなした最高の奇跡である」と。明治維新はなぜ”維新”であって革命ではないのか。革命とは火と血がともなうものだが、維新には一条の炎も燃えず、一滴の血も流れなかった。まさに無血革命という奇跡が明治維新なのである。

 江戸城の無血開城といえば勝海舟と西郷隆盛が主役だが、幕府方の使者として命懸けで敵陣を突破して駿府に赴き、西郷を涙ながらにかき口説いて江戸攻めをやめさせた「山岡鉄舟」の存在も忘れてはならない。鉄舟がいなければ間違いなく江戸は火の海になっていた。そうなれば、日本は戦乱に乗じた外国勢力の植民地となっていたであろう。まさに西郷と鉄舟の会談こそ、日本の一大転換点であったのだ。






 本陣で西郷と面談した山岡は「官軍は無理無体に人民を殺すのですか」と迫る。「朝敵を討つためだ」と答える西郷に、山岡は「江戸には朝敵など一人もおりません」と食ってかかる。「徳川慶喜がおるじゃないか!」「徳川慶喜は恭順の者でございます」「恭順の誠が見えぬ!」「それはあなたが耳を覆い目をふさいでいるからだ」。火花を散らす会話が続き、ついに「今さら退けぬわ」と西郷が山岡をはね返すと、「不忠だ、西郷殿、日本一の逆賊になりますぞ」と山岡は叫ぶ。しばしの睨み合いののち、西郷は山岡に問う。

「敵陣深く一人で乗り込んできて、その場で斬られたらどうするつもりだった」。

答えて山岡、

「もとより覚悟の上」

この一言を聞いて、西郷は江戸攻めの中止を決める。覚悟ある人間同士が交わった瞬間である。






 江戸攻めを中止するために総督府は五ヶ条の命令を出す。その最後の一ヶ条を山岡は承服しない。それは「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条文であった。大恩ある主君を敵藩に監禁させるなどできないというのが拒絶の理由であった。対立は平行線を描き、西郷は席を立とうとする。そこで山岡は涙ながらに訴えるのである。

「西郷先生、仮にあなたの御主君の島津公が朝敵の汚名を着せられ、その汚名をそそぐ方法がないまま、朝命によって敵藩に差し出せと迫られたら、先生は平気で島津公を人質としてお出しになりますか」

 西郷は涙ながらの一言に胸打たれた。そして、自らも目に涙を浮かべながら、「慶喜公のことは自分が万事引き受けましょう」と申し出る。この涙の場面が日本の夜明けをもたらしたと言っても過言ではない。



 西郷は山岡鉄舟をこう評したという。

「徳川公は偉い宝をお持ちだ。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。金もいらぬ名誉もいらぬ、命もいらぬといった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に日本の大事を誓い合うわけにはまいりません。本当に無我無私、大我大欲の人物とは、山岡さんのごとき人でしょう」と。







 西郷の推挙により明治天皇の侍従となった山岡は、西洋のものを何でも取り入れようとする明治天皇を諌めた。激怒した天皇は山岡と「相撲で決着をつけよう」と言い、巨漢の山岡に土俵に叩きつけられてしまう。憤然として自室に戻る天皇を見て、誰もが山岡にお沙汰が下るものと思った。山岡もまた、それを覚悟し、一晩中廊下で禅を組んだ。しかし、気を鎮めた天皇は「鉄舟こそ本当の忠臣だ」として、何もとがめをせず、逆に侍従長に抜擢した。






引用:行徳哲男『感奮語録




2015年7月10日金曜日

驀直去(まくじきこ) [行徳哲男]



「属国になれ」

今から700数十年前、時の超大国モンゴルは日本に使者をよこしてきた。

受けて立ったは北条時宗、弱冠17歳。






行徳哲男「もともと時宗というのは大変にひ弱で、病弱でもあり精神的にも女々しさをもっていました。そんな時宗の行ったのが、モンゴルの使者たちに酒と女をあてがうことでした」

この酒と女の策は、意外にも奏功した。使者たちは酒食に溺れ、「属国になれ」に対する返答を先延ばしにすることができたのである。

行徳哲男「だが、ふたたび返事を迫られたとき、時宗はどうしていいか分からない。そこでこの若者、そのどうしようもない思いを無学祖元禅師にぶつけました」



すると無学祖元、

「驀直去(まくじきこ)」

ただその一言を時宗に授けたのみで、姿を消した。



行徳哲男「若き時宗には、驀直去(まくじきこ)の教えが解けませんでした。かれは何日も座り続けます。しかし解けません。最後は自分の額を壁にたたきつけます。血しぶきが舞い、血だらけになりました。その瞬間、若者は悟りました」

来ていたモンゴルの使者41名すべてを並べると、次々と首をはねた。



怒れるモンゴル、10万とも15万ともいわれる大軍、4000隻で九州を襲った。

その結果は周知の通り。神風の助けもあって、見事、世界の最強軍団を追い払うことに成功したのである。





ところで、国を救うこととなった「驀直去(まくじきこ)」とは如何なる教えか?

行徳哲男「”驀”は驀地(まっしぐら)という字ですから”一直線”ということです。”直”は素直の直です。最後の”去”というのは”突き抜ける”ということ。だから『お前は酒と女をあてがう、そんな小賢しさで国が救えるか』という教えです」

この「驀直去(まくじきこ)」は、それ以来、禅の公案(問答)となる。「大事到来、いかにしてこれを避くべくや(大事が来たら、どうすればそれを避けられるか)」という問いである。

行徳哲男「その答えは『夏炉冬扇(かろとうせん)』という教えです。”夏炉”というのは夏の囲炉裏と書くわけです。そして冬の扇です。”夏の暑いときに囲炉裏にあたっておけ、冬の寒いときには扇をつかえ”と言ったわけです。これは、暑いのなら暑さの中に浸りきれ、寒いのなら寒さの中に浸りきってしまえ、ということです。つまり、苦しかったら苦しみの中に浸りきって、それを突き抜けろと言っているのです」



かつて、僧・良寛は言った。

苦しきときは苦しむがよき候(そうろう)

悲しきときは泣くがよき候

死ぬるときは死ぬるがよき候



行徳哲男「時宗は若かったから、大事を避けようとしました。それに対して、無学祖元はビシッと喝を食らわしたわけです。そして夏炉冬扇の世界に入った時宗は、それから名君になっていくのです」






出典:10ミニッツTVオピニオン
行徳哲男「驀直去(まくじきこ)」北条時宗と無学祖元




「玉簾不断」 [榊原鍵吉と山田一徳斎]


〜話:大森曹玄〜




 先師山田一徳斎先生が、まだ榊原鍵吉先生の門下生として修行中のこと、一日、大雪の降る中を先生のお供をして九段坂下にさしかかったとき、どうしたハズミか榊原先生の足駄の鼻緒がプツリと切れた。

 さすがの剣豪もこの不意打ちには身をかわす間もなく、横倒しにドッと投げ出された、と見えた一刹那、ヌッと片腕をのばして倒れんとする師の巨躯を支えたのが、お供の山田次朗吉であった。しかも一方の手ですばやく自分の下駄をとって、榊原先生の足の下にさしこんだ。頑固者で有名な榊原先生もこの石火のはたらきには辞する余裕もなく、ノメル足を弟子の下駄の上でふみこたえるほかはなかった。

 このときの気合、間髪容れざる動作、これこそ剣の至極であるとして、そのことがすぐれた剣技とともに、のちに山田先生が直心影流十五世の的伝者となる一因をなしたのである。


 
 このように前後を裁断して、絶対現在になりきり、そこに全生命力を最高度に発揮する剣境を、辻月丹の無外流では「玉簾不断」と呼んでいる。玉簾とはいうまでもなく滝のことである。滝は一条の連続した水流のように見えるが、実は一滴一滴断絶した水滴の重なり合ったものである。その一滴一滴を充実することによって、はじめて連続不断の瀑流が成り立つのである。

 白隠和尚が正念相続とは、数珠玉の一顆一顆になりきることで、それに通してある紐のようにのべつくまなしになることではない、という意味のことをいっているのも、思い合わされて興味深いものがある。





引用:大森曹玄『剣と禅 (禅ライブラリー)




「睡中かゆきをなづ」 [伊藤一刀斎]


〜話:大森曹玄〜




 足利末期の剣者として特筆すべきものに伊藤一刀斎がある。かれは通称を弥五郎と呼び、伊豆の人とも関西の生まれともいわれ、生国も死処も明らかでないが、身の丈は群を抜き、眼光は炯々として、いつもふさふさとした惣髪をなでつけ、ちょっと見ると山伏かなにかのような風態で、実に堂々とした偉丈夫だったという。



 彼がまだ鬼夜叉と呼ばれた青年のころ、ある日、師の鐘巻自斎に向かってこう言ったものである。

「先生、わたくしは剣の妙機を自得しました」

これを聞いた自斎は大いに怒って「未熟者が何をいうか」とののしったが、かれは平然として、

「しかし先生、妙とは心の妙である以上、自分みずから悟る外はないではありませんか。決して、師から伝えられるものではないと思います」

と抗弁して一歩もゆずらなかった。こんな押し問答がなんべんか繰り返されたのち、それではというので師弟の間で技をたたかわせることになった。ところが師の自斎は三度たたかって三度とも敗れてしまったので、大いに驚いてそのわけを聞くと、かれは曰く、

「人は眠っている間でも、足のかゆいのに頭をかく馬鹿はありません。人間には自然にそういうはたらきをする機能が具わっているのです。その機能を完全にはたらかせることが剣の妙機というものだと思います。先生が私を打とうとされるとき、先生の心は虚になっています。それに反し、わたくしはいま申したような自然の機能(はたらき)で危害をふせぎますから実です。実をもって虚に対すれば勝つのは当然でしょう」

 そう説明されてみれば、いかにも当然の理屈なので、自斎もうなずくほかはなかった。

 この「睡中かゆきをなづ」という言葉は、千葉周作の『剣法秘訣』の中にもあったと記憶するが、鏡が物体を写すような無心のはたらきを表わす言葉として、古来の剣客が好んで用いたものかもしれない。







 その後、一刀斎は剣の妙旨を授けてもらうべく、鎌倉の鶴岡八幡宮に祈ったことがある。三七二十一日の間、至誠をかたむけて参籠精進したが、ついに期待したような奇蹟は現われなかった。満願の日になっても、依然として神示はなかった。失望したかれは、自分の誠心の足らぬためかと、悄然として拝殿を降りて帰りかけた。

 そのとき、物蔭に黒い影がチラリと動く気配が感じられた。途端に、あたかも睡中にかゆいところをなでるように、無意識の間に手が動き、刀が鞘走ってその影を斬りすてていた。いや影を見た−−というよりは感じたのと、斬ったのとがほとんど同時といってよいほどに間髪を容れない心・手一如の速さだった。

 かれは振り向きもせずその場を立ち去ったが、後年その出来事を回顧して「あれこそ自分が八幡宮に祈って得られなかった夢想の場である」と気づき、その時の体験を組織して夢想剣と名づけたと伝えられている。



 この話の真実性は疑わしいともいわれているが、その内容には否定しがたい剣禅の妙機がふくまれている。このときの一刀斎のはたらきは、その直感、思惟、行為の三つが何のズレもなく、一刹那のあいだに即一的に行われたのである。もちろんこれには剣技が反射作用的に無意識的に発揮できるまでに、千錬万鍛されていなければならないことはいうまでもないが、同時に一刀流の言葉でいえば、無念にして対者の想を写しとるところの「水月移写」という、心境の錬磨が十分にできていなければなし得ないはずである。

 「水月移写」ということについて『一刀斎先生剣法書』には

「月、無心にして水に移り、水、無念にして月を写す、内に邪を生ぜざれば、事よく外に正し」

と説明している。







引用:大森曹玄『剣と禅 (禅ライブラリー)




2015年7月6日月曜日

「猫でも渡るぞ」 [沢庵和尚]



〜話:加藤咄堂〜




 宗矩(むねのり)一日雨降るの中を、ヒラリと庭の飛石(とびいし)に下り、またヒラリと縁に帰り、電光石火、衣袂(いべい)少しも潤はず。沢庵(たくあん)に誇りていふ。

「和尚、これが出来るか」

沢庵、悠々として庭に下り来り、衣袂ことごとく潤ふ。すなわち宗矩(むねのり)を顧みて曰く

「此(かく)の如くにして正しきに適(かな)ふ。卿(おんみ)の為すところは軽業師(かるわざし)の行ふ道のみ」と。



又一日、五寸ばかりの細長き板を縁と縁とに渡して、

「柳生(宗矩)殿、これが渡れるか」と。

宗矩(むねのり)、

「これは嬰児(あかご)でも渡れる」

といふと、さればかくして渡り得るかと、其の板を屋上に架す。宗矩、色少しく阻む。和尚、大笑していふ、

「猫でも渡るぞ」と。

板動かずして、心まづ動く。和尚これを戒めたるなり。







出典:加藤咄堂『剣客禅話




2015年7月1日水曜日

盲人、丸太橋をわたる [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜


無眼流

 無眼流(むがんりゅう)の開祖・反町無格(そりまちむかく)、諸国武者修行の途、或る山間を過ぎ谿間(けいかん)に一独木橋の架せるに遇ふ。渡らんとすれば橋揺(ゆる)ぎ、脚下を見れば懸崖数十丈、水激して岩を噛む。渡らんとして渡る能(あた)わず。

 如何(いかが)はせんと佇(たたず)みしに、偶々(たまたま)来り合わせし一盲人の、橋の袂(たもと)にて下駄を脱ぎ、これを杖に通して帯の後(うしろ)に差し、匍匐して何の苦もなく渡り過ぎしを見。おもへらく眼の開(あ)きたる者は、心その為めに動かされ、恐怖の念、内に満ちて渡る能(あた)わざるも、 眼なき者は他に動かさるるものなきが故に、かえって虚心坦懐、もって胆力を養ふべし。

 我もまた盲人の如くにして渡るべしと、渡り終って大いに悟るところありて、ついに一流を工夫して無眼流と名づけしと、談は『剣道』に出(い)でたり。かくの如きもまた禅家のいわゆる無念無想の趣(おもむき)を得たるものにあらずや。





引用:加藤咄堂『剣客禅話




当意即妙 [宮本武蔵]



〜話:加藤咄堂〜


 宮本武蔵の剣機禅機については、勝海舟の『氷川清話』に当意即妙の一話を挙ぐ。

 宮本武蔵と云ふ人は大層な人物であったらしい。剣法に熟達しておったことは勿論の話だが、それのみならずこの人は仇(かたき)があったので、初めは決して腰から両刀を離さなかったが、一旦豁然として大悟するところがあって、人間は決して他人に殺されるものでないと云ふ信念ができ、それからといふものは、まるで是迄(これまで)の警戒を解いて、何時(いつ)も丸腰で居(お)ったそうだ。

 ところが或る時、武蔵が例の通り無腰で庭前の涼台(すずみだい)に腰をかけて団扇(うちわ)であおぎながら、余念もなく夏の夜の景色に見とれていたのを、一人の弟子が先生を試さんと思って、いきなり短刀を抜いて涼台の上に飛び上った。武蔵はアッといって忽(たちま)ち退くと同時に、涼台に敷いてあった筵(むしろ)の端をつかまへて引っ張った。すると、そのはずみで弟子は涼台から真っ逆さまに倒れ落ちたのを見向きもせずに、平然として「何をするか」と一言いったばかりであったそうだ。

 人間も此(この)極意に達したらどんな場合に出合っても大丈夫なものさ。いわゆる心を明鏡止水(めいきょうしすい)のごとく磨き澄ましておきさえすれば、何時(いつ)如何なる事変が襲って来ても、それに処する方法は自然と胸に浮かんで来る。いわゆる物(もの)来りて順(じゅん)応するのだ云々。





引用:加藤咄堂『剣客禅話




猿の剣術 [剣客禅話]



〜話:加藤咄堂〜


 新井白蛾の『牛馬問』に柳生但馬守、猿殿を二疋(ひき)飼いたまひ、常々打太刀(うちだち)にして剣術したまひしに、この猿ども至極(しごく)業(わざ)に通じて、初心の弟子衆はいつも此の猿に負けしとなり。

 ここに或る浪人、槍を自慢にて何とぞ柳生公へ出合(であひ)たしと思ひ、縁を求めて至り対面の後、「さて私儀、少々槍を心がけ居り候(さふろう)。憚(はばか)りながら御覧くだされ」と言ふ。但州公、聞きたまひ、

「安きことながら、まづ此の猿と立ち合ひ見られよ」

とある時、件(くだん)の浪人、大いに腹だちし顔色にて「これはあまりなること」と申すに、「もっともなれども先(ま)づ立合(たちあひ)見られよ」とある故、是非なく竹刀(しない)を持ちかかりければ、猿も竹具足に面をかけ小さき竹刀を持って、互いに立ち合ふ。

 かの者ただ一突(ひとつき)につき倒さんとかかりしに、猿つかつかとくぐって何の造作もなく件(くだん)の男を打ちたり。案に相違し、今一度と望みければ、また一疋の猿を出(い)ださるるに、立合ひてまた猿にたたかる。

 大いに面目を失い帰り、それより四五十日ほどは夜をもって日につぎ精心に工夫をつくし、また柳生の許(もと)へ行き対面の上、「さて件(くだん)の猿と立合い申したく」と望みければ、但州聞きたまひ、見申すに

「その方、工夫先日よりも殊(こと)の外(ほか)上達なり。今度は猿でもなかなか勝つこと成りがたし。それとも立合い見られ候(さふら)へ」

とて、猿を出さるるに、互いに相向かひ、いまだ槍を出(い)ださざるに猿大いに啼きて逃げしとなり。件(くだん)の男も、但州の門弟となり、奥義を伝へたりといふ。これ猿さへも学ぶところを知れば、人中の有無を知る云々となり。槍いまだ出でざるに心機まづ彼れを突く剣の心法なるもの之にても知り得べきか。





 引用:加藤咄堂『剣客禅話