2017年9月23日土曜日

もし起動が10秒速くなれば…[Steve Jobs]


 If it could save a person's life, could you find a way to save ten seconds off the boot time.
もし10秒、起動が速くなれば、何十人もの命が救えるんだ。

Steve Jobs
スティーブ・ジョブズ



〜引用:『人生を変えるスティーブ・ジョブズスピーチ』





ある日、ジョブズが Macintosh の起動が遅く、イライラしているときに、担当者を呼び出して

「もっと起動を速くろ」

と不満をぶつけていました。言い訳をする担当者を無視して、次に出てきたのがこの言葉です。さらにジョブズはその理由を

「将来的には、マックユーザーは500万人に達する。彼らが1日一回は起動すると仮定するとして、起動時間を10秒短くすれば何が起こるか? 500万人分だから、1日で5,000万秒も短縮できる。一年なら、人間の寿命の何十倍にもなるだろう。考えてみろよ。もし10秒起動が速くなれば、何十人もの命が救えるんだぞ」

と、かなり強引なこじつけを唱えます。しかし、それからわずか2〜3ヶ月後には、起動時間が10秒以上短縮されたのです。このようにジョブズには、マックチームに「現実歪曲空間(Reality Distortion Field)」と名付けられた不思議な力があったとされています。それは現実的に厳しいスケジュールや常識的に難しい要求でも、ジョブズに説得されてしまうと、誰でも何でも受け入れてしまうという能力でした。ジョブズならではの説得力というよりも、何とかしてみようと思わせる人間力があったのかもしれません。








過去に払うことのできる経緯[Karina Galperin]



El mejor homenaje que podemos hacerle al pasado es mejorar lo que recibimos.

過去に払うことのできる 最高の敬意は 過去が与えてくれたものを 自らの手で改善することです

Karina Galperin
カリーナ・ガルペリン



引用:
カリーナ・ガルペリン「発音通りに言葉を綴ろう」





2017年9月6日水曜日

Stay Hungry. Stay Foolish [Steve Jobs]




Steve Jobs SPEECHES 人生を変えるスティーブ・ジョブズ スピーチ

スタンフォード大学、学位授与式でのスピーチ



I am honored to be with you today at your commencement from one of the finest universities in the world.
本日は、世界でも有数の大学の一つとされる大学を卒業するみなさんとご一緒することができ、光栄に思います。

I never graduated from college. Truth be told, this is the closest I've ever gotten to a college graduation.
事実を申し上げますと、私は大学を卒業していません。ですから、これが私には大学卒業に最も似た体験です。



Today I want to tell you three stories from my life.
本日、私は、みなさんに人生から学んだ3つのおとをお話したいと思います。

That's it.
それだけです。

No big deal.
大したことではありません。

Just three stories.
たったの3つです。



The first story is about connecting the dots.
一つ目は「点と点をつなげる」ことについてです。

I dropped out of Reed College after the first 6 months, but then stayed around as a drop-in for another 18 months or so before I really quit.
私は、リード大学を最初の6ヶ月で退学しましたが、それから本当に大学を去るまで18ヶ月間ほど、居座っていました。

So why did I drop out?
なぜ、私は退学をしたのでしょうか?



It started before I was born.
私が生まれる前の話です。

My biological mother was a young, unwed college graduate student, and she decided to put me up for adoption.
若い未婚の大学院生だった、私の生みの母親は、私を養子に出すことにしました。

She felt very strongly that I should be adopted by college graduates, so everything was all set for me to be adopted at birth by a lawyer and his wife.
彼女は、大学を卒業した人に私を引き取ってほしいと強く考えており、生まれた際には弁護士夫妻との養子縁組を整えていました。

Except that when I popped out they decided at the last minute that they really wanted a girl.
しかし、私が生まれた際、最後の瞬間に、彼らは「本当は女の子がほしい」と言い出しました。

So my parents, who were on a waiting list, got a call in the middle of the night asking: "We have an unexpected baby boy; do you want him?"
そこで養子縁組待ちのリストに載っていた私の両親のところに深夜、「思いがけず男の子が生まれましたが、養子縁組をしますか?」と電話がかかってきました。

They said: "Of course."
私の両親は「もちろん」と答えました。

My biological mother later found out that my mother had never graduated from college and that my father had never graduated from high school. She refused to sign the final adoption papers.
私の生みの母親は、その後、私の母親が大学を卒業していないことを知り、最終の養子縁組書類に署名をするのを拒否しました。

She only relented a few months later when my parents promised that I would someday go to college.
私の両親が私を大学に行かせるこをと約束したため、数カ月後に彼女はようやく署名をしました。こうして私の人生が始まりました。



And 17 years later I did go to college.
17年後、私は大学に通っていました。

But I naively chose a college that was almost as expensive as Stanford, and all of my working-class parents' savings were being spent on my college tuition.
しかし、何も考えずスタンフォード並みに学費が高い大学を選んでしまい、労働者階級の両親の貯蓄をすべて学費につぎ込むことになってしまいました。

After six months, I couldn't see the value in it.
6ヶ月後、私は大学に価値を見出すことができませんでした。

I had no idea what I wanted to do with my life and no idea how college was going to help me figure it out.
私は人生で何がしたいのか、それを見つけるにどう大学が役に立つのかがわかりませんでした。

And here I was spending all of the money my parents had saved their entire life.
そして大学にいることで、私は両親が生涯をかけて蓄えてきたお金をすべて使いきってしまいます。

So I decided to drop out and trust that it would all work out OK.
私は退学することを決心し、それですべてがうまくいくだろうと信じていました。

It was pretty scary at the time, but looking back it was one of the best decisions I ever made.
そのときは少し不安がありましたが、振り返ってみると私がしたこれまでのなかで最高の決断の一つだったと思います。

The minute I dropped out I could stop taking the required classes that didn't interest me, and begin dropping in on the ones that looked interesting.
退学をしたときから、私は興味のない必修科目を受講することを止め、それよりもより興味を持てる講義を聴講し始めました。



It wasn't all romantic.
もっともすべてが良かったというわけではありません。

I didn't have a dorm room, so I slept on the floor in friends' rooms, I returned coke bottles for the 5 cents deposits to buy food with, and I would walk the 7 miles across town every Sunday night to get one good meal a week at the Hare Krishna temple.
私には寮の部屋がなかったので、友達の部屋の床で寝て、食料品を買うためにコーラの瓶を返却して5セントをもらったり、ハーレ・クリシュナ寺院でのおいしい食事をもらおうと、毎週日曜日の夜は7マイルも歩いて街を抜けて歩いて通っていました。

I loved it.
あれは大好きでした。

And much of what I stumbled into by following my curiosity and intuition turned out to be priceless later on.
そして私の好奇心と直感で動き回ったことが、後にかけがえのないものになりました。



Let me give you one example:
ひとつ例を挙げてみます。

Reed College at that time offered perhaps the best calligraphy instruction in the country.
リード大学は当時、おそらく国内のカリグラフィの教育においては最高だったと思います。

Throughout the campus every poster, every label on every drawer, was beautifully hand calligraphed.
大学構内のすべてのポスター、棚に貼ってあるラベルは美しい手書きのカリグラフィでした。

Because I had dropped out and didn't have to take the normal classes, I decided to take a calligraphy class to learn how to do this.
私は退学をし、通常の講義を受ける必要がありませんでしたから、カリグラフィの講義に出て、その方法を学ぼうと思ったわけです。

I learned about serif and san serif typefaces, about varying the amount of space between different letter combinations, about what makes great typography great.
セリフとサンセリフの書体や、異なった文字の組み合わせによって文字の空きを調整したり、最も美しい文字は何かなどを学びました。

It was beautiful, historical, artistically subtle in a way that science can't capture, and I found it fascinating.
それは、きれいで、歴史があり、繊細な芸術性を持っており、科学でとらえきれず、私を虜にさせました。



None of this had even a hope of any practical application in my life.
これが私の人生の中で実際に何か役に立つとは思いもしませんでした。

But ten years later, when we were designing the first Macintosh computer, it all came back to me.
しかし10年後、私たちが最初の Macintosh Computer をデザインしていたときに、すべてが甦ってきたのです。

And we designed it all into the Mac.
そして私たちは Macintosh の中にそのすべてを入れました。

It was the first computer with beautiful typography.
それは美しい書体を持った最初のコンピュータでした。

If I had never dropped in on that single course in college, the Mac would have never had multiple typefaces or proportionally spaced fonts.
もし私が大学であの講義を聴講していなかったら、Macintosh は多数の書体や字間調整機能もなかったでしょう。

And since Windows just copied the Mac, it's likely that no personal computer would have them.
そしてウィンドウズは Macintosh をコピーしたものなので、パソコンがそのような機能を持つことはなかったでしょう。

If I had never dropped out, I would have never dropped in on this calligraphy class, and personal computers might not have the wonderful typography that they do.
もし、私が退学をしていなかったら、カリグラフィの講義を聴講することもなかったでしょうし、パソコンが今のような美しい書体を有することもなかったでしょう。

Of course it was impossible to connect the dots looking forward when I was in college.
もちろん、大学にいたときは、先のために「点と点をつなげる」ことは不可能でした。

But it was very, very clear looking backwards ten years later.
しかし10年後に振り返ってみると非常にクリアにわかります。



Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards.
繰り返して言いますが、先を考えて「点と点をつなげる」ことはできません。できるのは、振り返ってつなげることだけです。

So you have to trust the the dots will somehow connect in your future.
だから、あなた方は、将来なんらかの形で「点と点がつながる」ことを信じるしかないのです。

You have to trust in something - your gut, destiny, life, karma, whatever.
勇気、運命、人生、カルマなど何でもいいので何かを信じなくてはなりません。

This approach has never let me down, and it has made all the difference in my life.
道から外れていようと、いつか「点と点がつながる」ことを信じることが、自分自身の心に従う自信を与えてくれます。それが月並みな道であったもあなたを導いてくれるでしょう。そして大きな違いが生まれてくるのです。







My second story is about love and loss.
2つ目の話は、「愛」と「敗北」についてです。

I was lucky - I found what I loved to do early in life.
私は、人生の早い段階で好きなことが見つかったので幸運でした。

Woz and I started Apple in my parents garage when I was 20.
ウォズと私は、私が20歳のときに、私の両親のガレージでアップルを創業しました。

We worked hard, and in 10 years Apple had grown from just the two of us in a garage into a $2 billion company with over 4000 employees.
私たちは懸命に働き、私たちがガレージで始めたアップルは、10年で4000人以上の従業員がいる20億ドルの企業に成長しました。

We had just released our finest creation - the Macintosh - a year earlier, and I had just turned 30.
私たちの最高の作品、Macintosh をリリースしてからちょうど1年後、私が30歳になったときです。

And then I got fired.
私は解雇されました。



How can you get fired from a company you started?
どうすれば自分が立ち上げた会社から解雇されるのでしょうか?

Well, as Apple grew we hired someone who I thought was very talented to run the company with me, and for the first year or so things went well.
実は、アップルが成長していったのに合わせ、私は非常に有能だと思う人材を招いていたのですが、それは最初の1年ちょっとはうまくいきました。

But then our vision of the future began to diverge and eventually we had a falling out.
しかし、われわれの将来展望が分離していき、結局、亀裂が生じてしまったのです。

When we did, our Board of Directors sided with him.
そのとき取締役会は向こうに味方をしたのです。

So at 30 I was out.
そして私は30歳のときに追い出されました。

And very publicly out.
それは公然と追い出されたのです。

What had been the focus of my entire adult life was gone, and it was devastating.
大人になってからの人生を費やしてきたものがなくなったのです。衝撃的でした。



I really didn't know what to do for a few months.
数ヶ月間、私は何をすればいいのか本当にわかりませんでした。

I felt that I had let the previous generation of entrepreneurs down - that I had dropped the baton was it was being passed to me.
私は、前の世代の起業家から託されたバトンを落としてしまったと感じました。

I met with David Packard and Bob Noyce and tried to apologize for screwing up so badly.
私は、デビット・パッカードやボブ・ノイスに会い、台無しにしてしまったことを詫びました。

I was a very public failure, and I even thought about running away from the valley.
非常にはっきりとした失敗だったので、私はバレーから逃げ出そうとさえ考えました。



But something slowly began to dawn on me -
しかし、じょじょに何かが見えはじめました。

 I still loved what I did.
わたしは自分がしてきたことをまだ愛していたのです。

The turn of events at Apple had not changed that one bit.
アップルでの出来事があっても、その思いは全く変わりませんでした。

I had been rejected, but I was still in love.
わたしは拒否をされましたが、まだ好きだったのです。

And so I decided to start over.
そして、もう一度やり直そうと決心しました。



I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me.
そのときはわかりませんでしたが、振り返ってみると、アップルから追い出されたことは今までに私に起こった最高の出来事でした。

The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything.
以前ほどすべての物事に対して確証はなくなりましたが、成功者という重みが、もう一度初心者という軽さに置き換わったのでした。

It freed me to enter one of the most creative periods of my life.
私は自由となって、人生で最も創造的な期間を迎えることができたのです。



During the next five years, I started a company named NeXT, another company named Pixar, and fell in love with an amazing woman who would become my wife.
その後の5年間で、わたしは NeXT という名の会社を創業し、ピクサーという別の会社も立ち上げ、わたしの妻となる素敵な女性とも恋に落ちたのです。

Pixar went on to create the worlds first computer animated feature film, Toy Story, and is now the most successful animation studio in the world.
ピクサーは世界初のコンピュータ・アニメーション映画の『トイ・ストーリー』をつくり、今では世界で最も成功したアニメーション・スタジオになっています。

In a remarkable turn of events, Apple bought NeXT, I returned to Apple, and the technology we developed at NeXT is at the heart of Apple's current renaissance.
重いがけないおとに、アップルが NeXT社を買収し、わたしはアップルに戻り、わたしたちが NeXT社で開発した技術がアップルの現在の復興の中核にあります。

And Laurene and I have a wonderful family together.
そして妻ローレンと私はともに素敵な家族となりました。







I'm pretty sure none of this would have happened if I hadn't been fired from Apple.
私はアップルを追い出されなかったら、これらの出来事は何ひとつ起こらなかっただろうと確信しています。

It was awful tasting medicine, but I guess the patient needed it.
それはかなり苦い薬でしたが、患者には必要だったのでしょう。

Sometimes life hits you in the head with a brick.
時々、人生には頭をレンガで殴られるようなことが起きます。

Don't lose faith.
信念を失ってはいけません。

I'm convinced that the only thing that kept me going was that I loved what I did.
わたしは自分がしてきたことを愛していたからこそ続けられたのだと確信しています。

You've got to find what you love.
あなた方も愛すべきものを何か見つけてください。

And that is as true for your work as it is for your lovers.
それは仕事でも恋愛でも同じです。

Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do.
仕事があなた方の人生の大部分を占めるでしょうが、本当に満足する唯一の方法は、その仕事を愛してやまないことです。



If you haven't found it yet, keep looking.
もし、まだ見つけられていないのであれば、探しつづけてください。

Don't settle.
そして立ち止まらないでください。

As with all matters of the heart, you'll know when you find it.
あなたがそれを見つけたとき、自然にそれがわかるでしょう。

And, like any great relationship, it just gets better and better as the years roll on.
そして素晴らしい関係のように、それは年を重ねていくごとに良くなっていくのです。

So keep looking until you find it.
だから探しつづけてください。

Don't settle.
立ち止まってはいけません。







My third story is about death.
3つ目の話は、「死」についてです。

When I was 17, I read a quote that went something like:
17歳のとき、次の言葉をどこかで読みました。

"If you live each day as if it was your last, someday you'll most certainly be right."
「毎日、それが人生最後の日だと思って生きれば、いつか必ずそのとおりになるだろう」

It made an impression on me, and since then, for the past 33 years, I have looked in the mirror every morning and asked myself:
これは、私にとって印象的で、それ以来、これまでの33年間、わたしは毎朝、鏡を見てそして自分自身に問いかけています。

"If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?"
「今日が人生最後の日だとしたら、今日しようとしていることは、やりたいことだろうか?」

And whenever the answer has been "No" for too many days in a row, I know I need to change something.
「ノー」という日が、あまりにも多く続くようなら、何かを変える必要があるとわかります。



Remembering that I'll be dead soon is the most important tool I've ever encountered to help me make the big choices in life.
あらゆるものは間もなく死んでいくということを意識することは、重大な選択を迫られたときの最も重要なツールです。

Because almost everything - all external expectations, all pride, all fear of embarrassment or failure - these things just fall away in the face of death, leaving only what is truly important.
なぜなら、ほとんどすべてのもの、外部からの期待、プライド、屈辱や失敗に対する不安、これらは死に直面したとき、本当に重要なもののみが残るからです。

Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose.
死に向かっていると意識することは、何かを失ってしまうという考えに陥ってしまうことを避ける最善の方法です。

You are already naked.
あなた方はすでに丸裸なのです。

There is no reason not to follow your heart.
心に従わない理由はないのです。



About a year ago I was diagnosed with cancer.
一年ほど前、わたしはガンだと診断されました。

I had a scan at 7:30 in the morning, and it clearly showed a tumor on my pancreas.
朝の7時30分にスキャンを受け、そして膵臓に明らかな腫瘍が見つかりました。

I didn't even know what a pancreas was.
それまで、膵臓が何なのかさえ知りませんでした。

The doctors told me this was almost certainly a type of cancer that is incurable, and that I should expect to live no longer than three to six months.
医師たちは、このタイプのガンは治る見込みがほとんどないと私に告げ、長くても3ヶ月から6ヶ月の生命でしょうと言いました。

My doctor advised me to go home and get my affairs in order, which is doctor's code for prepare to die.
主治医は、自宅に戻ってそのときに備え、身辺整理をするようにアドバイスをくれました。

It means to try to tell your kids everything you thought you'd have the next 10 years to tell them in just a few months.
これからの10年間に子どもたちに伝えようとしていたことを全て、たった2、3ヶ月の間でそれをするようにという意味です。

It means to make sure everything is buttoned up so that it will be as easy as possible for your family.
家族があらゆることに安心して対処できるようにしておくようにという意味です。

It means to say your goodbyes.
別れを告げるようにという意味です。

I lived with that diagnosis all day.
わたしは一日中、診断結果を考えていました。



Later that evening I had a biopsy, where they stuck an endoscope down my throat, through my stomach and into my intestines, put a needle into my pancreas and got a few cells from the tumor.
夕方おそくに、わたしは検査を受け、のどから内視鏡を入れ、胃をとおって腸内に入り、膵臓に針を刺して、腫瘍から細胞をいくつか採取しました。

I was sedated, but my wife, who was there, told me that when they viewed the cells under a microscope the doctors started crying 
わたしは鎮静剤のせいでわかりませんでしたが、妻によれば、採取した細胞を顕微鏡でのぞいていた医師たちが泣きはじめたというのです。

because it turned out to be a very rare form of pancreatic cancer that is curable with surgery.
なぜなら、それが手術の可能な、かなり珍しい膵臓ガンだとわかったからでした。

I had the surgery and I'm fine now.
わたしは手術を受け、いまはありがたいことに元気になりました。

This was the closest I've been to facing death, and I hope it's the closest I get for a few more decades.
これが私が最も死に直面した出来事で、もう何十年かはこれ以上近くならないように願っています。

Having lived through it, I can now say this to you with a bit more certainty than when death was a useful but purely intellectual concept:
この経験をしたからこそ、わたしはあなた方に「死」が、有益ではあるけれど、単に知的概念だったときよりも少しだけ確実性をもって言えるのです。



No one wants to die.
誰も死にたくありません。

Even people who want to go to heaven don't want to die to get there.
天国に行きたいと願う人々でさえ、そこに行くために死にたいとは思わないでしょう。

And yet death is the destination we all share.
しかし、「死」は私たちすべての行き着く先です。

No one has ever escaped it.
誰も逃れることはできません。

And that is as it should be, because Death is very likely the single best invention of Life.
そして、それはそうあるべきで、「死」は生命の最高の発明でしょう。

It is Life's change agent.
それは生命の進化の代理人です。

It clears out the old to make way for the new.
古いものを取り、新しいもののための道をつくります。

Right now the new is you, but someday not too long from now, you will gradually become the old and be cleared away.
ちょうど今、あなた方は「新しいもの」ですが、今からそう遠くない間に徐々に「古いもの」となり、除かれるでしょう。

Sorry to be so dramatic, but it is quite true.
ドラマティックであり申し訳ありませんが、それが真実なのです。



Your time is limited, so don't waste it living someone else's life.
あなた方の時間には限りがあり、ほかの誰かの人生を生きて無駄にしないでください。

Don't be trapped by dogma - which is living with the results of other people's thinking.
ドグマにとらわれないようにしてください。他の人々の思考の結果と一緒に生きることになります。

Don't let the noise of other's opinions drown out your own inner voice.
他人の意見にあなた自身の内なる声がかき消されないように。

And most important, have the courage to follow your heart and intuition.
そしてあなたの心や直感にしたがう勇気をもつことが最も重要なことです。

They somehow already know what you truly want to become.
心や直感は、あなたが本当に何になりたいのかを、すでに知っているのです。

Everything else is secondary.
ほかの全てのことは二の次です。



When I was young, there was an amazing publication called The Whole Earth Catalog, which was one of the bibles of my generations.
わたしが若い頃、『The Whole Earth Catalog』という素敵な書籍があり、わたしの世代においてはバイブルの一つでした。

It was created by a fellow named Stewart Brand not far from here in Menlo Park, and he brought it to life with his poetic touch.
ここからそう遠くないメンローパークに住む、スチュアート・ブランドという男性の作品で、彼の詩的な表現はそれに生命を吹き込んでいました。

This was in the late 1960's, before personal computers and desktop publishing, so it was all made with typewriters, scissors, and polaroid cameras.
1960年代の終わりだったので、パソコンやデスクトップ印刷の前、すべてタイプライターやハサミ、ポラロイドカメラでつくられていました。

It was sort of like Google in paperback from, 35 years before Google came along:
Google が登場する35年も前、ペーパーバック版の Google のようでした。

it was idealistic, and overflowing with neat tools and great notions.
理想主義的ですばらしいツールや考えが詰まっていました。







Stewart and his team put out several issues of The Whole Earth Catalog, and then when it had run its course, they put out a final issue.
スチュアートと彼のチームは『The Whole Earth Catalog』を何度か発行し、そしてひと通りやり終えると、最終号を出しました。

It was the mid-1970s, and I was your age.
1970年代半ば、わたしがみなさんと同じ年の頃です。

On the back cover of their final issue was a photograph of an early morning country road, the kind you might find yourself hitchhiking on if you were so adventurous.
その最終号の背表紙は、あなたが冒険好きならヒッチハイクをするときに目にするような、早朝の田舎道の写真でした。

Beneath it were the words:
その下に、次のような言葉が添えられていました。

"Stay Hungry. Stay Foolish."
「ハングリーであれ。愚かであれ」



It was their farewell message as they signed off.
それが彼らの別れのあいさつだったのです。

Stay Hungry.
ハングリーであれ。

Stay Foolish.
愚かであれ。



And I have always wished that for myself.
わたしは、自分もいつもそうありたいと願っています。

And now, as you graduate to begin anew, I wish that for you.
そして今、卒業して新しい人生をはじめるあなた方にも、そう願っています。

Stay Hungry.
ハングリーであれ。

Stay Foolish.
愚かであれ。

Thank you all very much.
ありがとうございました。










Steve Jobs SPEECHES 人生を変えるスティーブ・ジョブズ スピーチ



2017年8月13日日曜日

鏡に映った自分を、敵と間違えたアメリカ[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







脅威とは何か


日本の興亡を見直すことは重要なことである。この問題は、日本国民の懲罰の正当性にかかわるだけでなく、2回の世界大戦を経験した混乱の時代に、アメリカの外交政策の舵をとるものの資質にかかわっているからである。

この時代を通じて、支配的な世界管理体制とされてきたのは、常に、そして不思議にもイギリス型「安全保障」システムと呼ばれる力の均衡政策だった。イギリスは、仮想敵グループとの均衡を維持するため、伝統的、かつあからさまに、時の弱小国を傍につけてきた。このシステムは、現実には、イギリス帝国の権益を伸ばし、イギリスの覇権に刃向かいそうな国の出現を阻むためにつくられたものなのだ。

アメリカは1812年戦争(米英戦争)以来、伝統的にこのシステムに従ってきた。しかし、第二次世界大戦直前までは、このシステムに対してどういう姿勢をとっているのか、はっきりしなかったし、政策立案者も態度を明確にしていなかった。世論も意識してこのシステムを支持しているわけではなかった。

イギリスが直接支配する広範な地域で、平和を維持し、あるいは安定をもたらし、生活水準を向上させるという点では、このシステムは明らかに失敗だった。今日、アメリカ政府が世界に向けて、このシステムを強化していく考えを明らかにしているだけに、このシステムが極東でどのように機能したかが、きわめて重要な問題となってくる。



力の均衡政策の失敗を最も鮮やかに浮かび上がらせるのは、日本の近代における米英と日本、米英とロシアの関係である。

史実から端的にいうなら、イギリス型「安全保障」体制はまさしくボウリング場だ。たくさんの国がピンのように並べられ、倒されたり、立てられたりしてきた。まずロシアを倒すために日本が立てられた。そして、日本が「信頼できない」とわかると、日本を倒すために、ソ連が立てられた。これがヤルタである。しかし、ソ連も日本以上に「信頼できない」ことがわかったので、今度は中国を立てようとしている。「進歩的」な蒋介石のもとに強力な中央政権をつくって、もう一度ソ連を倒させようというのだ。

私たちが韓国の「安定化」を図っているのも、同じ目的からである。そして、日本列島はそうした活動の基地として考えられている。もしこの愚行が止められなければ、あるいは戦争がなければ、この先20年ぐらいのうちに、私たちは日本かソ連をもう一度立て、中国を倒そうとするかもしれない。



こういう国際関係の愚かさは、1947年3月19日付ニューヨークタイムズの記事「ソ連の拡張が内包するアメリカの危機」によく表れている。「世界征服」を目指す日本の神話的野望について教えてくれた、例のオットー・D・トリシャス記者の報告だが、それによると

「もし中国がソ連あるいは共産主義の手に落ちれば、我が国が日本から守り抜いたもの、つまり中国を共産主義ロシアに与えることになる」

そして彼はさらにこう予測するのだ。

「ソ連の中国征服によって、アメリカの影響力と利益は中国から完全に締め出されるだろう。これは、日本による征服以上に徹底したものになる。それだけでなく、アジア全域で共産主義の地滑りが起こり、人類の半分がわれわれの敵になることを意味する」

そしてトリシャス記者は、「中国を外国の支配に委ねようとする反乱勢力を断固粉砕しようとしている」蒋介石総統を「支持する」ことが解決の道だという。



私たちの新聞を埋めるこういう論評、感情的に「共産主義の脅威」と「ソ連を押しもどす」必要性を叫ぶ政策立案者と政治家の意見を聞いてみると、私たちはいったい何のために日本を「罰しよう」としているか、わからなくなる。

こうなったら、日本の軍部指導者に勲章を、日本国民にカリフォルニアを贈るべきだ。彼ら日本人は「中国を征服」しようとした、非難することはできる。しかし、日本の指導部が満州と中国における行動を説明するのにつかった言葉と、今日私たちアメリカの政策立案者や著名な評論家がアメリカの政策を説明するのにつかっている言葉は、まったく同じなのだ。

日本は彼らの行動について、われわれが満州と中国に軍隊と行政官と資金を送ったのは、われわれの「条約上の権利」を強化し、「共産主義の脅威」を抑え、混乱状態に秩序をもたらし、国家の存立を保全し、外国勢力と国内の軍閥支配からこの地域を解放し、極東の平和と秩序を促進するためである、と言っていた。

この主張は、私たちが朝鮮占領と対中国政策を説明するときの論理とまったく同じである。蒋介石政権に対する巨額な借款、政治的支援、「顧問」の提供、蒋介石軍の増強と内戦中の兵員輸送の援助などの目的は、かつて日本が掲げていた目的と同じである。この政策が日本に関して間違っているなら(私たちはそれを罰している)、私たちに関しても間違いだ。



国際関係に対する私たちの行動がいかにばかげているか、これもニューヨークタイムズを読めば明らかだ。バージニア選出のハリー・F・バード上院議員の発言をあつかったワシントン発の記事(1946年1月31日付)はこういう。

ハリー・F・バード上院議員は本日、ソ連が千島列島を完全に支配しているのに、アメリカが占領した島を国連の信託統治下に置くというのは「愚かなことである」と述べた。同議員はかねてから、太平洋の重要な米軍基地は米国独自の支配下に置くべきであるという意見を、率先して唱えている。

直接引用された同上院議委員の発言は「重要な基地はアメリカが完全支配すべきであるというのが、国民の「事実上一致した感情である」というものである。この問題で国民投票したわけではないのだから、同上院議員がどうやって、一致した国民感情を知ったのか、明らかではない。今日ソ連が千島列島を完全支配している」のは、アメリカ大統領とイギリス首相がパワーポリティクスの典型的密約で決めたことだ。

ソ連はいま、旅順と満州で守られているが、これは連合国首脳間の協定によって「合法的」なのだ。日本も、同じようにして朝鮮と旅順に出ていったのである。



どうやら私たちの政策は、まずよその国の力を強化し、次いでその国に対抗するために自分の力を強化するというものらしい。もしこの政策の狙いがはっきり見えたら、アメリカ国民は「一致して」反対するだろう。

アメリカは戦時中はソ連に協力していたのに、戦後は手のひらを返したようにソ連を敵視している。この豹変をみる日本と「後れた」地域は、いまの教育者である私たちアメリカが、自分たちに何を教え、どういう国になってほしいと思っているのか、混乱するに違いない。

私たちアメリカは現在、「ソ連を押しもどす」そして「共産主義の脅威と戦う」ことを政策として明らかにしている。これは実に日本が、彼らの全近代をかけて実践してきた政策だ。そして、そのために現在どんな扱いを受けているか、思い知らされていることだ。それだけに、私たちがどうやってこの政策を実行していくのか、日本にしてみれば考えるだけで頭がこんがらがってくるだろう。



私たちがいいつづけてきたように、日本が「世界の脅威」、「千年を超える内戦の歴史の中で培われた世界征服の野望でまとまる」民族であるなら、ソ連は極東において歴史的に正しかったわけだ。そして、米英両国の政策担当者は、1894年から1905年まで、その正しいロシアに日本を刃向わせていたのだから、これはまさに「犯罪的に無能だった」ということになる。

今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅威」であり、日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の米英両国の政策担当者は「犯罪的に無能だった」ということになる。

そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。



私たちの政策担当者は、パールハーバー以前の政策と現在の政策をどう整合させようとしているのか。

何百万の生命と何十億ドルに相当する物量と人力をかけて、私たち自身の民主主義をぶち壊してしまう前に、政策担当者は「脅威」の実体について、もっと透徹した思索をめぐらし、揺るぎない決断を下すべきなのだ。






パワーボリティクスは逆噴射する


国際関係は歴史と同様複雑である。事実をめぐっていつも「解釈」が対立する。

イギリスの安全保障システム(今日ではアメリカの「防衛」システムだが)は、多くの権威によって正当化され、褒めそやされている。しかし、私たちアメリカが掲げる平和と人類の幸福という目的に即してこのシステムを見ると、明らかに不利となる事実を2つ指摘することができる。

第一は、日本はイギリスとアメリカの全面的協力がなければ、軍事大国になることができなかったということである。第二はソ連に関する事実である。イギリスのパワーポリティクスの絶えざる刺激がなかったら、ソ連はどうだったのだろうか。はっきりしているのは、平和を維持し、ソ連を抑止する目的でデザインされたイギリスのシステムは、そのいずれの目的も果たせなかったということである。パワーポリティクスは、日本とソ連では明らかに逆噴射したのだ。



アメリカ人がこの2つの事実から学ぶべきことは、「リーダー」は進路を示さなければならないということである。国際問題でリーダーシップを発揮しようという大国が、隠蔽しようが明示しようが、対立ブロック形式の意図をもって、あからさまに軍拡の道を歩み、隣接の、あるいは遠隔の政権を武装化するなら、その結果は12歳の子供でも予言できる。私たちアメリカは本当に平和を愛しているのか。もし愛しているなら、政策を通して私たちの特性をもっとはっきり示すべきだ。

西洋列強が日本に教えた最初の教科は「力は報われる」ということだった。これに対して、日本の近代史がアメリカ国民に教えているのは「パワーポリティクスは逆噴射する」ということかもしれない。

もし私たちが次の世代に「平和は報われる」という信念を教えたいのなら、やがて制動が利かなくなる「脅威」の創出を止めて、平和の可能性に対する確信を示すべきだ。平和教育は、基地、巨大軍備、軍隊の海外駐留、中国の(その他どこであれ)軍閥の支援、あるいはパワーポリティクス信奉者の旧式な尊大さをもって、成就できるものではないだろう。



今日、極東に平和と秩序をもたらそうしている計画は、かつて失敗したものと同じである。日本は同盟国として信頼できないことが証明された、だから、見せしめに厳しく罰しなければならない、そして中国は日本に代わる近代国家としてつくり上げられなければならない、という。

中国は強力な中央政府のもとに統一されなければならない、制度を近代化する必要がある、国をまとめるために近代的通信網を整備しなければならない、工業化を促進しなければならない、中国が名実ともに大国になるためには、強力な近代的軍事国家にならねばならない、そのためには、輸出をさかんにし、戦争に必要な物資、機械、武器を輸入できるようにしなければならない、という。中国は民主主義諸国と協力して、ヤルタでチャーチルとルーズベルトが同席させたソ連を、極東から締め出す役割を担わなければならない、という。

いまにしてみれば、この政策によって日本は平和と秩序にではなく、戦争と混乱に行き着いたことがわかる。しかし、後知恵で賢くなるのは簡単だ。アメリカ人が本当に平和を求めるなら、事の前に賢くならなければならない。

過去に失敗した政策が、将来に成功するはずがない。成功するという人は、能天気な希望的予測と、日本人は生来好戦的で中国人は生来平和を愛しているというずさんな論理を信じているのだ。「条件さえ与えられれば、すべての人間は好戦的になる」、これが事実だ。私たちはかつて、そういう条件を日本人に与えた。そして今度は中国人に与えようとしている。



日本人が最初に学んだ教訓は、国際関係における「合法性」とは、すなわちパワーポリティクスであるということだった。これに対して、日本の歴史が西洋諸国に教えるのは、パワーポリティクスにおける「安全な」同盟国はいつまでも安全であるわけではないということだろう。

日本を近代的軍事・工業国家に育てる中で、いくつかのことが見落とされていた。つまり、工業化はダイナミックなシステムに向かうこと、力はさらなる力の必要と渇望を生み出すこと、そして「安全な」同盟国は力を強めるにしたがって安全でなくなること、パワーポリティクスが支配する競争世界で、ひとたび覇権の拡大(あるいは「合法的」拡張)に向かうと、物資と市場を競争相手の国に依存しているという事実が不安感と不信感を醸成させ、より多くの物を求めずにはおかない過剰「安全性」に駆り立てること、西洋列強がコミットメントでアジアに深入りし、日本がコミットメントで満州と華北に深入りしたように、コミットメントというものは国家を追い込むものであること、が見落とされている。

このように、日本の最初の教育は、私たちにとって単なる学問ではないのだ。もし私たちアメリカがその教訓をしっかり学ぶなら、いまからでも、破局にいたるのを防げるかもしれない。



しかし現実の政策では、私たちは19世紀と今世紀初めの過ちを、驚くほど正確に繰り返している。

私たちアメリカは現在、ソ連の「脅威」にあまりにもとらわれすぎている。だから、私たちが戦争支援勢力にするため大急ぎで軍事国家に育てている「後れた」地域と小国が、やがて私たちの「脅威」になることを考えてもみない。私たちは蒋介石政権を支援し、中国の支配者にした。この政策によって、恐らく、中国「共産党」はソ連の庇護を求めるようになるだろう。そして人民の正当な革命であるべきものを、パワーポリティクスの複雑かつ破壊的ゲームに引きずり込み、中国人民をまたぞろ私たちの犠牲にするのだ。

この本で考えているのは極東の問題である。しかし、アメリカが強力な「防衛システム」をさらに教科しようとして、南アメリカの「共和国」(アルゼンチンなど)を武装させ、さまざまな工業開発計画で援助していることについて語るのは、けっして無関係ではないと思う。私たちの安全保障の将来を危険にさらすには、これ以上結構な政策はないのである。人口過密の小さな列島、日本が半世紀をかけて行き着いた先がここであった。

やがて南アメリカが世界国家の意識に興奮するとき、あるいは、軍事的に十分強くなって私たちの経済支配と人種的優越性に怨みを抱くとき、彼らはどこまで行っているのだろうか。投入装置がこれほどまでに進歩した今日、ひとつの国を軍事国家にすることは、途方もなく無神経な行為である。私たちは現在の外交政策の指導者(ほとんどが職業軍人とザイバツ)は、力と栄光の夢にまどわされて、日本軍部がアジア支配の妄想にとりつかれたように、現実が見えなくなっている。



アメリカ人にいますぐ答えてもらいたい。

「私たちの力の機械は、すでに私たちの制御能力の及ばないところに飛び出してしまったのだろうか? それとも、まだ機械を制御し、行く先を変える余地が残されているのだろうか?」



(完)





出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』





2017年8月10日木曜日

日本はいかに拡張主義でなかったか[WW2]



話:ヘレン・ミアーズ







歴史の証言


「日本人は生まれつき軍国主義者であり、拡張主義者である」という宣伝文句ほど、私たちを混乱させるものはない。パールハーバー以前のどんな参考書でもいいから、ざっと目を通せば、それが正しくないことがわかるのだ。

この宣伝文句の大きな問題点はそこにあるのではない。こんなことをいったら、日本人だけでなく、政治意識をもつアジアの人々には、アメリカ人がおろかしくみえる、ということなのだ。

私たちアメリカが日本にきた目的は、軍国主義的侵略性をもって生まれた日本人を「改革」することである。この「生まれつきの軍国主義」なるものを、日本人の過去に求めるとすれば、16世紀、朝鮮に攻め入った孤独な将軍の失敗の記録ぐらいのものだ。

しかし、この遠征をとらえて日本民族を「生まれつき軍国主義者」と決めつけるなら、スペイン、ポルトガル、イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして私たちアメリカ自身のことは、どう性格づけしたらいいのだろう。これら諸国の将軍、提督、艦長、民間人は15世紀から、まさしく「世界征服」を目指して続々と海を渡ったではないか。



日本とアジアの目で見ると、日本に歴史的侵略の罪を着せる私たちアメリカ人の姿は、自分のガラスの家を粉々に壊している(自分の罪を棚に上げて、他人を非難している)立派な紳士だ。

私たちの非難は、むしろ、「明治までの日本がいかに拡張主義でなかったか」、これに対して「ヨーロッパ諸国がいかに拡張主義であったか」をきわだたせる。

秀吉の軍隊が朝鮮から追い払われた同じ時期、スペインはペルーとメキシコを征服し終え、フィリピンに地歩を固めていた。ポルトガルは世界を駆け巡り、ジャワ、インド、マレーの沿岸地帯、マカオ、中国沿岸部に及ぶ広大な帝国を築きつつあった。イギリス、オランダはスペイン、ポルトガルと競いながら、徐々にポルトガル領の大部分とスペイン領の一部を収め、中国、日本を目指していた。

17世紀初め、日本が孤立主義にこもったのは、ヨーロッパ諸国の「歴史的拡張主義」のせいなのだ。



17、18、19世紀、日本が世界から身を退いて独自の社会を発展させている間、ヨーロッパ人たちは爆発的拡張をつづけていた。

秀吉の職業軍人集団であるサムライ階級が、茶の湯に親しみ、花を活け、本来の仕事がなくなった無聊を隠遁的芸事で慰めていたとき、イギリス、オランダ、フランス、ロシアは貿易、征服、戦争、植民地化といった本当の意味の帝国の建設を目指して、東西南北に広がっていた。

今日、「世界支配の歴史的野望」を告発されている日本人が、ヨーロッパの獲得したものを数字でみれば、ある種の当惑を覚えるに違いない。



パールハーバー当時、イギリスの本土面積(9万4,278平方マイル)は、日本列島(14万6,694平方マイル)より小さく、本土人口も日本より2,800万人少なかったが、「1,353万9,111平方マイル」の帝国と連邦、「300万平方マイル」のアジア領土、「350万マイル」の太平洋の領土、5億人の上に君臨していた。

本土人口900万、面積1万2,704平方マイルのオランダは、アジアの太平洋島嶼地域73万5,000平方マイル余を含む「78万9,961平方マイル」を支配していた。

本土人口約4,200万、本土面積21万2,659平方マイルで日本よりかなり大きいフランスは、アジア大陸の27万7,800平方マイル、アジア・南太平洋の海外領土24万3,584平方マイルを含む「342万2,300平方マイル」を支配していた。

ソ連は本土面積630万平方マイル、本土人口1億8,300万人で、全支配面積は「881万9,791平方マイル」にのぼっていた。

そして、「歴史的拡張主義者」の日本がパールハーバー当時、太平洋地域で支配していた面積は「全体のわずかに0.2%」だった。



こうした中でアメリカの立場は興味深い。当然のことながら、私たちアメリカ人は自分たちのことを侵略的民族であるとは思っていない。もし誰かにアメリカは「世界支配の歴史的野望」をもって行動していたなどといわれようものなら、私たちは震え上がってしまうだろう。

それでも、私たちの国と文明の発達を、前近代の日本と比較すれば、違いは驚くべきものである。私たちは初めてこの地に移ってきてから300年の間に、先住民、イギリス、メキシコ、スペインを打ち破り、フランスを脅かし、国家統一のための内戦を戦い、大陸の302万2,387平方マイルを獲得して定着した。

そして、国境を越えて進出し、ときには大陸の縁から7,000マイルも外に出て大国と戦ったり、現地住民の反発を抑えて「71万2,836平方マイル(日本列島の5倍に相当する面積)」の海外領土を得たのである。



日本人は民族として活動を開始してから1868年の近代に入るまでの、少なくとも1,800年の間、「征服」して住みついたのはわずかに自分たち自身の島の南と中央だけ、面積にして9万1,654平方マイルの領土にすぎない。1853年、ペリーが「門戸を解放した」ときには、日本人は海外領土をもっておらず、日本固有の北の島に細々と植民しているだけだった。

近代に入ってからパールハーバーまで82年間の日本は、本土人口7,200万、全人口9,000万、領土面積は17万9,257平方マイル(北海道を含む)の帝国だった。ほかに中国・関東州の租借地(1,438平方マイル)と、1932年に傀儡国とした満州を支配していた。

しかし、これらの領土は日本全土からわずか600マイルしか離れていない。そして日本がこの支配権を得るにあたっては、とくに満州の場合、事実上何らの反対も受けなかった。彼らはまた、委任領(カロリン、マーシャル、マリアナ)を統治していたが、これはわずか830平方マイルにすぎず、しかも国際連盟から任されたものだ。



私たちアメリカが最初に入植した13の地域は「86万8,980平方マイル」の面積をもっていた。これに対して日本の南の三島は「9万1,654平方マイル」にすぎなかった。

私たちアメリカ人は初めから土地が狭いといってあがいていたのに、世界で「最も残忍な侵略者」日本人は、1,800年間、狭い領土に満足していた。

ペリーが日本の門戸を開いたときの私たちアメリカ大陸の人口は「2,300万」をわずかに超える程度だったが、小さな日本の人口は「3,300万」だった。それでも世界に出かけて「門戸を解放」させようとしたのは私たちアメリカ人のほうだった。



日本人はこうした事実から、私たちアメリカ人による非難は、西洋の猛烈な対アジア拡張政策から注意をそらすための策謀と考えるだろう。

実は、西洋の拡張政策のほうが日本人の本性や伝統社会より、近代極東の混迷にずっと大きな役割を果たしているのだ。







出典:ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡:日本』