2021年4月27日火曜日

正史『三国志』姜維伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳



蜀書

姜維伝


姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。


幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄(ていげん)の学問を好んだ。郡に出仕して上計掾(じょうけいえん)となり、州に召し出されて従事に任命された。父の姜冏(きょうけい)は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇し、身をもって郡将を守って戦場で死亡した。そのため姜維に中郎の官を贈り、本郡の軍事に参与させた。


建興六年(228)、丞相諸葛亮の軍が祁山に向った。そのとき、天水の太守はたまたま巡察に出かけ、姜維および功曹の梁緒(りょうしょ)、主簿の尹賞(いんしょう)、主記の梁虔(りょうけん)らが随行していた。太守は蜀軍が今にもおし寄せんとしており、諸県も呼応していると聞くと、姜維らすべてが異心を抱いているのではないかと疑った。そこで夜半逃亡して上邽(じょうけい)にたてこもった。


姜維らは太守が逃亡したのに気づくと追いかけたが、城門にたどりついたころには、城門はすでに閉ざされ、中に入れてくれなかった。姜維らが連れだって冀県に帰ってくると、冀県もまた姜維を入れてくれなかった。姜維らはそこでいっしょに諸葛亮のもとへ赴いた。


たまたま馬謖が街亭で敗北し、諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。そのため姜維は母と離ればなれになってしまった。諸葛亮は姜維を召し出して倉曹掾(そうそうえん)とし、奉義将軍の官位を加え、当陽亭侯に封じた。時に二十七歳であった。


諸葛亮は留府(りゅうふ)長史の張裔(ちょうえい)、参軍の蔣琬(しょうえん)に手紙を送って、「姜伯約(維)は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、彼のもっている才能を考えると、永南(李邵)。季常(馬良)らの諸君る及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である」と述べた。


また、「まず中虎歩軍の兵五、六千人を教練する必要がある。姜伯約は軍事にはなはだ敏達していて、度胸もあるうえ、兵士の気持を深く理解している。この男は漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有しているゆえ、軍事の教練が終ったら、宮中に参上させ、主上にお目通りさせてもらいたい」ともいった。後に中監軍・征西将軍に昇進した。



十二年(234)、諸葛亮がなくなると、姜維は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍となって、諸軍を統率し、平襄侯に爵位をあげられた。


延照元年(238)、大将軍蔣琬に随行して漢中に駐屯した。蔣琬が大司馬に昇進した後、姜維は司馬に任命され、たびたび一軍を指揮して、西方へ侵入した。


六年(243)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史を兼任した。


十年(247)、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに録尚書事となった。この年、汶山(びんざん)郡平康県の蛮族が反乱を起し、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。また隴西・南安・金城の諸郡の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水(とうすい)の西で合戦した。蛮王の治無戴(ちぶたい)らが全部落をあげて降伏したので、姜維は彼らをつれて帰還し 〔成都の近くの繁県に〕安住させた。


十二年(249)、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。〔姜維が〕大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。



十六年(253)春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて〔武都より〕石営(せきえい)に出、董亭(とうてい)を経て、南安を包囲したが、醜の雍州刺史陳泰(ちんたい)が包囲を解かんとして洛門(南安の東南にある)に到達し、姜維は兵糧尽きて撤退帰国した。


翌年、督中外軍事の官位を加えられた。ふたたび隴西に出陣したところ、狄道(てきどう)を守備していた県長の李簡(りかん)が城を挙げて降伏した。進攻して襄武を包囲し、魏の将徐質(じょしつ)と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は敗退した。姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関(かかん)・狄道・臨洮(りんとう)の三県の住民を控致して帰還した。


のち十八年(二五五)、また車騎将軍夏侯覇らとともに狄道に出、洮水の西において魏の雍州刺史王経(おうけい)をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題(しょうだい)に駐屯した。


十九年(256)春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済(こせい)としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。そのために姜維は段谷(だんこく)において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地で騒乱がおこり不安定になった。姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。


二十年(257)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反逆し、関中の兵を分けて東方へ下った。姜維はその虚に乗じて秦川(しんせん)へ向おうと欲し、またも数万の軍勢を率いて駱谷(らくこく)に出、ただちに沈嶺(ちんれい)に到達した。当時長城(沈嶺のすぐ北にある城)にはたいへん多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやってきたと聞き、人々は恐れおののいた。魏の大将軍の司馬望(ぼう)が守備に当り、鄧艾もまた隴右より駆けつけ、みな長城に陣を張った。姜維は前進して芒水(ぼうすい)に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。司馬望・鄧艾は渭水にそって防禦のとりでを固めた。姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。


景耀元年(258)、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、成都に帰還した。ふたたび大将軍に任命された。


昔、先主は漢中のおさえとして魏延を駐留させ、外敵を防ぐために諸陣営には充分な兵を置き、敵が来攻してる、侵入できないように配慮しておいた。興勢(こうせい)の役のとき、王平が曹爽に対抗できたのも、すべてこの制度が続いていたおかげであった。


姜維は建議して次のように述べた、「諸陣営を交錯させて守備するのは、〔乱暴な侵入者に備えて〕『門を幾重にも設け』たという『周易』(繋辞伝下)の趣旨に合致してはおりますが、しかし、敵の防禦にはさわしい対策であっても、大勝を博するわけにはまいりません。敵が来るとしても、諸陣営はすべて武器をとりまとめ兵糧を集め、引き退いて漢・楽の二域に行き、敵の平地への侵入を許さず、さらに関所の守りを大切にして防禦に当らせるのがよいでしょう。有事の際には、遊撃隊(ゲリラ)を両城からくり出して敵の隙をうかがわせます。敵軍は関所を攻撃しても抜くことができず、野に放置された穀物もないとなると、千里の彼方から兵糧を運ぶことになり、自然に疲弊欠乏するでしょう。撤退のときにはじめて諸城からいっせいに出撃し、遊撃隊と力をあわせてたたき伏せる、これこそ敵を顧滅する方策です。」


その結果、督漢中の胡済(こせい)を漢寿(かんじゅ)まで退かせ、監軍の王含(おうがん)に楽城を守らせ、護軍の蔣斌(しょうひん)に漢城を守らせた。また西安・建威・武衛・石門・武城・建昌。臨遠においてすべて防禦陣を築いた。


五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和(こうわ)に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中(とうちゅう)に駐屯した。姜維はもともと故郷を離れて蜀身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら功績を立てることができずにいるうち、臣官の黄皓(こうこう)らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇(えんう)が黄皓と結託した。しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もまたそれを疑っていたので、危倶の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。



六年(263)、姜維は後主に上表して、「聞きますれば、鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入口と陰平橋のたもとをそれぞれ固めさせ、危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。


黄皓は鬼神や座の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、後主にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。


鍾会が駱谷に向い、鄧艾が沓中に侵入しようというときになってはじめて、右車騎将軍の廖化を沓中にやって姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董蕨(とうけつ)らを陽安関の入口に向わせ、諸陣営の外にぁって救援態勢をとらせることにした。陰平(沓中への道筋に当る)まで来たとき、魏の将諸葛緒(しょかつしょ)が建威に向ったと聞いたため、留まってこれを待ち受けた。


一ヵ月あまりたって、姜維は鄧艾に撃破され、陰平に引き退いた。鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して関口(陽安関口)に進撃させたため、蔣舒(しょうじょ)は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。鍾会は楽城を攻撃したが、落すことができないまま、関ロがすでに落ちたと聞き長駆して進撃した。張翼・董厥(とうけつ)がやっと漢寿に到達したところで、姜維・廖化は陰平を捨てて退却してきて、ちょうど張翼・董厥らと出会い、そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。


鍾会は萎維に文書を送り述べた、「あなたは文武両面にわたる才能をもたれ、世人をしのぐ策略を胸に抱かれ、功業を巴・漢の地にあげられ、名声は中華の地にまで聞えわたり、遠きも近きもあなたに心を寄せないものはございません。過去に思いを馳せるたびに、かつては〔国を異にしても〕大きな理想に心を通わせたことを考えるのです。呉の季札(きさつ)と鄭(てい)の子産(しさん)の交情(春秋時代、二人は国を異にしながらよく理解しあった)は、友情のあり方というめのを理解しておりました。」


姜維は返書を出さず、軍営をつらね要害を固めた。鍾会は抜くことができず、はるか遠方から兵糧輸送を行なっているため、帰還の相談をしようと考えた。


ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて綿竹においてし諸葛瞻(しょかつせん)を撃破した。後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。


姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を固守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧(けんねい)に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。ついで後主の勅令をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、浩の陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。


鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預(とよ)に向って、「伯約(姜維)を中原の名士と比較すると、公休(諸葛誕)や太初(夏侯玄)でも彼以上ではあるまいな」といった。


鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした。姜維に兵士五万人を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して、鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。



郤正は論文を書いて姜維について述べた、「姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが、粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥の間で音楽を奏させるたのしみももたず、あてがわれた衣服をまとい、備えつけの車と馬を使用し、飲食を節制して、ぜいたくもせず倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な者を激励しょうとしたり、自己の欲望を抑制し断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というるのは、つねに成功者をたたえて失敗者をけなし、高いものをさらにもちあげ、低いのをさらに抑えつけるものであって、誰も彼も姜維が身を寄せる場所もなく、その身は殺され一族は根絶やしにされたことをとりあげ、それを理由に非難をあびせ、もう一度検討しなおそうとはしないが、これは『春秋』が示す価値判断のたてまえとは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は、当然その時代の模範なのである。」


昔、姜維といっしょに蜀にやってきた人たちのうち梁緒(りょうしょ)は大鴻臚(だいこうろ)に、尹賞(いんしょう)は執金吾に、梁虔(りょうけん)は大長秋にそれぞれ官位が上がったが、みな蜀の滅亡より先に没した。


評にいう。蔣琬は万事きっちりしていて威厳があり、費禕は寛容で人を差別なく愛し、ともに諸葛亮の定めた規範をうけ継ぎ、その方針に沿って改めなかった。そのために辺境地帯は安定し、国家は和合した。しかしながら、小さな町を治める道を充分にわきまえず(広都の長であったころの蒋腕をさす)、公務以外の場における身の処し方を充分わきまえていなかった(魏の降人に殺された費禕をさす)。


姜維はほぼ文武両面の才を備え、功名をあげることを志したが、軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征をくり返し、明晰な判断を充分にめぐらすことができず、最後は身の破滅を招くことになった。『老子』に、「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る(小さな魚を煮るのにつつきまわしてはいけないように、煩瑣な法令で民に干渉してはならない)」と述べている。ましてせせこましい小国において、たびたび民の生活を乱すような行動をおこしてよいものだろうか。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


2021年4月24日土曜日

正史『三国志』黄忠伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

黄忠伝



黄忠は字を漢升といい、南陽郡の人である。


荊州の牧劉表は彼を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐(りゅうばん)とともに長沙の攸(ゆう)県を守らせた。


曹公は荊州をうち破ると、かりに裨(ひ)将軍の官につけ、そのまま元の任務を取りおこなわせ、長沙太守の韓玄の統制下においた。


先主が南方の諸郡を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり、つき従って蜀に入国した。葭萌(かぼう)より任を受け、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠はつね にまっ先に駆けて陣地をおとし、その勇敢さは三軍の筆頭であった。益州が平定された後、討虜将軍に任命された。


建安二十四年(219)、漢中の定軍山において、夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に精悍であったが、黄忠は鋒を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鍾と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほどで、一度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北を喫した。征西将軍に昇進した。



この年、先主は漢中王になり、黄忠を後将軍に起用するつもりであったが、諸葛亮が先主に申し出た、「黄忠の名声人望は、もとめと関羽馬超と同列ではありません。それを今ただちに、同等の位につかせようとしておられます。馬超・張飛は近くにいて、自分の目で彼の手柄を見ておりますから、まだご趣旨を理解させることができましょうが、関羽は遠くでこれを聞いて、おそらく喜ばないにちがいありません。どうもよくないのではないでしょうか。」


先主は、「わしが自分で彼に説明しよう」といい、かくて関羽らと同等の官位につけ関内(かんだい)侯の爵をたまわった。


翌年逝去し、剛(ごう)侯の諡号を追贈された。子の黄叙(こうじょ)は早逝しており、後継者はなかった。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


2021年4月23日金曜日

正史『三国志』馬超伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

馬超伝



馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。


父の馬騰は、〔後漢の〕霊帝の末期、辺章や韓遂たちとともに西州で旗あげした。初平三年(192)、韓遂と馬騰は軍勢を率いて、長安に赴いた。漢朝では、韓遂を鎮西将軍に任じて金城に帰還させ、馬騰を征西将軍に任じて郿に駐屯させた。後に馬騰は長安を襲撃したが、敗北して涼州に逃げ帰った。


司隷校尉鐘繇は関中の抑えとして赴任すると、韓遂と馬騰に文書を送って、服従する場合と反抗する場合の利害について説明してやった。馬騰は馬超を鐘繇のもとにやり、彼につき従って平陽県にいる郭援と高幹を討伐させたところ、馬超の将軍龐徳(悳)は みずから郭援の首級をあげた。


後に、馬騰は韓遂と不仲になり、都に戻ることを願った。そこで〔馬騰を〕召し寄せて衛尉とし、馬超を偏将軍に任じ都亭侯に封じて、馬騰の部下を掌握させた。



馬超は軍勢を統率したのち、韓遂と連合するとともに、楊秋・李堪・成宜らとよしみを結び、軍を進めて潼関までやってきた。


曹公はただ一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹公をつかまえるつもりだったが、曹公の左右を警護する将の許褚が目をいからせて彼を睨んでいるので、思いきって手を下せなかった。


曹公は賈詡の策略を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、軍はそのため大敗北を喫した。馬超は逃走して諸蛮族を配下におさめた。曹公は安定まで追撃したが、ちょうど北方で事件がおこったので、軍を引いて東に帰った。


楊阜は曹公に進言した、「馬超は、〔前漢の〕韓信・鯨布のような武勇をもち、羌族の心をよくつかんでおります。もし大軍が引き上げたあと、彼に対する防備を厳重に行なわないならば、隴上の諸郡はわが国の領土ではなくなるでしょう。」


馬超ははたして諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、隴上の郡県はすべてこれに呼応した。涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。馬超はみずから征西将軍と称し、幷州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。


韋康のもとの吏民楊阜(ようふ)・姜叙(きょうじょ)、梁寛(りょうかん)・趙衢(ちょうく)らは、共謀して馬超を攻撃した。楊阜と姜叙が鹵城で兵をあげ、馬超は出陣して彼らを攻めたが、下すことができなかった。〔その隙に〕梁寛と趙衢が冀城の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることができなくなった。進退谷(きわ)まってあわてふためき、かくて漢中に逃走して張魯のもとへ身を寄せた。


張魯はともに事を計るに足らぬ人物だったので、内心いらだちを覚え、先主が成都にいる劉璋を包囲したと聞くや、密書を送って降伏を願い出た。



先主が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、まっすぐに城下に到着した。城中はおそれおののき、劉璋はただちに降伏した。馬超を平西将軍に任じて、臨沮を治めさせ、前のとおり都亭侯に封じてやった。


先主は、漢中王になると、馬超を左将軍。仮節に任じた。章武元年(221)、驃騎将軍に昇進し、涼州の牧を兼務し、斄郷(りきょう)侯に爵位があがった。


辞令にいう、「朕は、不徳の身をもって、至尊の位を継ぎ、宗廟を継承することになった。曹操父子は、代々罪行を重ねており、朕はそのため心痛み、あたかも頭痛を病んでいるかのようである。四海の内は怨み憤って、正義に帰順し根本に立ち帰らんとし、氐族・羌族も服従し、獯鬻(くんいく、北方異民族)までも道義を慕っている。君の信義は北方の地に明らかで、威光と武勇はともに輝きわたっている。だからこそ君に任務を委ね、ほえたける虎のごとき勇猛さをかかげて、万里の彼方まで正しく治め、民衆の苦しみを救わせるのである。さあ、わが朝の教化を広め明らかにし、遠近の民をなつけ安んじ、賞罰を慎重にとり行ない、よって漢朝の王者たるべき幸運を固め、天下の人々の望みに答えよ。」


二年(222)逝去した。時に四十七歳であった。


死にのぞんで上疏し、「私の一門、二百人あまりは、曹孟徳によって誅殺されほとんど絶滅いたしましたが、ただ従弟の馬岱だけが残っております。衰えた家の祭記を継ぐべき男として、そのことをくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。あとはいい残すことるありません」と述べた。


馬超に威侯の諡号を追贈した。子の馬承が後を継いだ。馬岱は平北将軍の位にまでのぼり、陳倉侯にまで睡爵位があがった。馬超の娘は、安平王劉理の妻となった。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


正史『三国志』趙雲伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

趙雲伝



趙雲は字を子龍といい、常山郡真定県の人である。


もと公孫瓚の配下であったが、公孫瓚が先主を派遣して田楷を助けて衰紹を防がせたとき、趙雲は随行することとなり、先主の主騎になった。


先主が曹公によって当陽県の長阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。〔おかげで〕どちらも危難を免れることができた。牙門将軍に昇進した。


先主が蜀に入国すると、趙雲は荊州に留まった。


先主は葭萌から引きかえして劉障を攻撃し、諸葛亮を召しよせた。諸葛亮は趙雲や張飛らを率いてともに長江をさかのぼって西上し、郡県を平定した。江州に到着すると、趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都でおち合うことを命じた。成都が平定されたのち趙雲を翊軍(よくぐん)将軍に任じた。


建興元年(223)、中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯に封じられた。昇進して鎮東将軍になった。



五年(227)、諸葛亮に従って漢中に駐留した。翌年、諸葛亮は出兵し、斜谷街道を通ると宣伝した。曹真は大軍を派遣してこれにあたらせた。諸葛亮は趙雲と鄧芝に命じて曹真の相手をさせておき、自身は祁山を攻撃した。趙雲と鄧芝の軍が弱小なのに対して敵は強力だったので、箕谷で敗北したが、しかし軍兵をとりまとめて守りを固め、大敗にはいたらなかった。軍が撤退すると、鎮軍将軍に位を下げられた。


七年(229)、逝去し、順平侯の諡号を追贈された。それより前、先主の時代には、ただ法正だけが諡号を贈られた。後主の時代になって、諸葛亮は世をおおう功績・徳義を立て、蔣琬と費禕は国家の重責を荷ったために、また諡号を受けた。陳祇は寵愛されて、特に格別のご汰を受け、夏侯覇は遠方より国家に帰順し、そのためにやはり諡号をおくられた。この時になって関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠および趙雲がはじめて諡号を追贈された。当時の世論は名誉としてもてはやした。


趙雲の子の趙統があとを継ぎ、官は虎賁中郎。督行領軍にまで昇った。次男の趙広は牙門将となり、姜維に随行して沓中に行き、前線で戦死した。



評にいう。


関羽・張飛はいずれも一万人の敵を相手にできる男と賞讃され、この時代の勇猛の臣であった。関羽は曹公に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を釈放し、ともに国士の風格があった。しかし、関羽は剛情で自信をもちすぎ、張飛は乱暴で情をもたず、その欠点のため身の破滅を招いたのは、道理からいって当然である。


馬超は武力と猛勇をたのんでその一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。しかしよく窮地から抜けでて安泰を招来したのは、まだましではなかろうか。


黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、灌嬰・滕侯(夏侯嬰。いずれも漢の高祖の武臣)のともがらであろうか。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


正史『三国志』張飛伝

 

正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳


蜀書

張飛伝



張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いときに関羽とともに先主に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。


先主が曹公に従って呂布を破り、とるに許に帰ると、曹公は張飛を中郎将に任命した。先主は曹公に背いて、衰紹・劉表のもとへ身を寄せた。劉表が死ぬと、曹公が荊州に入ってきたので、先主は逃げて江南へ向った。


曹公は、これを追撃すること一昼夜、当陽の長阪で追いついた。先主は曹公が突然押し寄せたと聞くと、妻子を棄てて逃走し、張飛に二十騎を指揮させて背後を防がせた。張飛は川をたてにして橋を切り落し、目をいからせ矛を小脇にして「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。



先主は江南を平定し終ると、張飛を宜都の太守、征虜将軍に任命し新亭侯に封じた。後に南郡に転任した。先主が益州に入り、〔漢中征討から〕引き返して劉璋を攻撃したとき、張飛は諸葛亮とともに、流れをさかのぼって攻め上り、手分けして郡県を平定した。


江州に到達すると、劉璋の将で巴郡太守の厳顔を撃破し、厳顔を生け捕りにした。張飛は、厳顔をどなりつけ、「大軍がやってきたのに、なぜ降伏せず、あえて抗戦したのか」というと、厳顔は、「あなた方は無礼にも、わが州を侵略した。わが州には首をはねられる将軍がいるだけで、降伏する将軍はいないのだ」と答えた。張飛は立腹して、側近の者に引っ張って行かせ、首を切らせようとしたが、厳顔は顔色ひとつ変えず、「首を切るのなら、さっさと切ればよい。どうして腹を立てることがある」といった。張飛は見事だと感じ、彼を釈放し、招いて賓客とした。


張飛は通過する場所ですべて勝利をおさめ、先主と成都において落ち合った。益州を平定し終ると、諸葛亮・法正・張飛および関羽に、金各々五百斤・銀千斤・銭五千万両・錦千匹を賜わり、その他の者にはそれぞれ格差をつけて恩賞を賜与した。張飛を巴西の太守に任命した。



曹公は張魯を破ると、夏侯淵と張郃を駐留させて漢川を守備させた。


張郃は、別に諸軍を指揮して巴西をくだし、そこの住民を漢中に移住させようとして、宕渠(とうきょ)・蒙頭(もうとう)・盪石(とうせき)に軍を進め、張飛と相い対時すること五十日以上に及んだ。張飛は精鋭一万余人を率いて、別の街道から張郃の軍を迎えて交戦したが、〔張郃の軍は〕山道が狭いため、前と後ろが救け合うことができなかった。張飛はかくて張郃を撃破した。張郃は馬を乗り棄てて山づたいに、ただ供まわりの配下十人余りとともに間道をぬって退却し、軍を引きあげ南鄭に帰ったので、巴の地方は平静さを取り戻した。


先主は漢中王となると、張飛を右将軍・仮節に任命した。章武元年(221)、車騎将軍に栄転し、司隷校尉を兼務し、昇進して西郷侯に封ぜられた。


その辞令にいう、「朕は皇統を承けて、かしこくも大業を継ぎ、あだなすものを除き動乱を鎮めたが、いまだその道を明らかにせぬままである。現在、逆賊が害をなし、民衆は塗炭の苦しみを蒙り、漢室を思慕する士人は、鶴のように首を伸ばして待ち焦がれている。朕はそのため心痛み、座しても席におちつかず、食べてる味がわからないほどである。〔そこで〕軍を整え宣誓して、まさに天罰を下そうとしている。君の忠義と勇気は召虎(周の宣王のとき、淮夷を討った召の穆公)と等しく、その名は遠近に鳴りひびいていることを思うがゆえ、特に命令を宣示し、爵位を昇進させ、都を司る役目(司隷校尉)を兼任させたのである。よって大いに天威を用い、徳義をもって服従する者を慰撫し、刑罰をもって反抗する者を制裁して、咲の意志に沿え。『詩経』にいうではないか、『害毒を与えてはならぬぞ。厳しく責めたててはならぬぞ。わが王国に来たりて服従させよ。汝のすぐれた徳と大きな仕事を考え、汝に恵みを賜う』と。がんばってくれよ」



そのむかし、張飛の勇猛ぶりが関羽に次ぐものであったので、魏の謀臣程昱たちはみな関羽と張飛には一万人を相手にする力があると賞讃していた。


関羽は兵卒を好遇したが、士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった。先主はいつもこれを戒めて、「君はあまりにも刑罰によって人を殺しすぎるうえに、毎日兵士を鞭で叩いている。しかも彼らを側近に仕えさせているが、これは禍いを招くやり方だぞ」といっていたが、張飛はそれでも改めなかった。



先主が呉を討伐するにあたって、張飛は一万の兵を率い、閬中から出て江州で落ちあうことになった。出発に際して、その幕下の将張達と范彊が張飛を殺害し、その首を持ち、〔長江の〕流れに乗って孫権のもとへ出奔した。


張飛の軍営の都督が上表して先主に報告したところ、先主は張飛の都督から上奏文がとどけられたと聞くと、「ああ、張飛が死んだ」といった。


張飛に桓侯の諡号を追贈した。


長男の張苞は若死したので、次男の張紹があとを継ぎ、官位は侍中。尚書僕射にまで昇った。張苞の子の張遵は尚書となり、諸葛瞻に随行して、綿竹において鄧艾と戦って戦死した。



正史『三国志』

陳寿著 井波律子訳