2013年3月31日日曜日

どうしても「中心より上」にいってしまう人間



たとえば、A4の白紙を目の前にして、その「中心」に点を打つことはできるだろうか?

「中心に打てるのは、10人中1〜2人くらいですよ」と杉浦康平さんは言う。

左右は中心に打てたとしても、天地(上下)はたいていの人が中心よりも「5〜6mm上」になってしまうのだという。



それは、なぜなのか?

「『上方転移』といって、人間の身体の構造によるものらしいです」と杉浦さんは説明する。

「心臓は人体の中心より上にありますし、脳も上部にありますから、人は上へ上へと向かう『心理的な運動感』があるようです」



なるほど、錯覚のような「認知の偏り」が人にはあったのだ。

道理で、頭デッカチになりやすい訳だ…。






出典:目の眼 2012年 01月号 [雑誌]
「グラフィック・デザイナー 杉浦康平」

2013年3月30日土曜日

『燕子龕禅師』王維



『燕子龕禅師』王維

行くには栗を拾うの猿を随え[行随拾栗猿]

帰りては松に巣くえる鶴に対(むか)う[帰対巣松鶴]



行くときは栗を拾う猿を供にし、帰れば松に巣をいとなむ鶴と対するのだ。





出典:墨 2011年 12月号 [雑誌]

2013年3月29日金曜日

書家の求める美



「書家の言葉は『見る言語』です」

書家・杭迫柏樹(くいせこ・はくじゅ)さんは、そう言う。



「たとえば書の表現において、『叫ぶ』感じは一字とか二字の作品になります。『しゃべる』もしくは『つぶやく』感じならば、同じ速度ではなくメリハリをつけます」

筆の止まると進む。つまり「運筆」によって、書家はその時々の心境を明らかにしていくのである。



「書は『線の芸術』です。なぜなら、そこに人間の心情が吐露されているからです」と杭迫さんは言う。「その心象表現を突き詰めていくと、書美の究極は『線一本』、『点一つ』でも成り立つと考えています」。

打てば快音の響きがし、切れば血の出るような線。

杭迫さんはそうした美を求めながら、常々筆を持っているのだという。



「書家というのは、筆触感を求めて一生苦労して死んでいくわけです」

杭迫さんは毎朝4時には起床し、朝食までは必ず臨書をして筆感触を磨いていると話す。

「運筆を通して自分を掘り下げ、哲学をしているとも言えます」

畢竟、書はその人の人間性と大きく関わらざるを得ないのだ。






出典:墨 2011年 12月号 [雑誌]
「漢詩を書く極意とは 杭迫柏樹」

2013年3月28日木曜日

兄の死と弟と。剣聖・上泉伊勢守



兄の急逝。

それは、鹿島で剣術修行に明け暮れていた弟・源五郎にとって、まったく予期しない出来事であった。

いわゆる風邪の類いである虫気を患って床に伏せっていた兄・主水丞。病状が急変し、高熱に見舞われ急逝したのであった。わずか齢十九にしての夭折である。



上野国・上泉城からの早馬は、弟・源五郎のいる常陸国・鹿島へと、その急報を届けた。

茫然自失となりながらも、愛馬・新月を駆った源五郎。しかし時すでに遅く、兄の主水丞は青白い亡骸となっていた…。



悲嘆にくれる上泉一門。とりわけ母は気が違ったのではないかと思えるほどに錯乱していた。

兄の骸(むくろ)と母の狂乱。

それが、源五郎にはなぜか遠くに見える。すべての出来事が遥か遠くの世界で起こっているかのようだった。葬儀の最中でさえ、いったい自分がどこに居るのかも解らない…。



それは、見たこともない穴を覗くような気分だった。

突如として大口を開けた深い穴。それは奈落か。一瞬にしてその空虚に飲み込まれた源五郎。確固とした自己は失われてしまっていた。



魂のない抜け殻のような肉体として、源五郎は葬儀の場に居続けた。

「兄者はまだ死んでいないはず」

抜け殻だけの源五郎は、その死を実感できるはずもなかった。



しかしそれでも、死んだ兄が帰ってくるはずはない。

兄の死を上手く受け止められない源五郎。他の者に泪を見せることを頑なに拒み、心を揺らさぬように歯を食い縛り続けた。

兄を失った空虚な穴が悲しみに満たされるまで、源五郎はそれを感情として捉えられずにいたのである。



幼い頃の記憶

病弱ながらも元気だった頃の兄の笑顔

一緒に兵法修行を始めた庭

他愛もない兄弟喧嘩…



「あの時、兄者と組打ちをしておけばよかった…」

源五郎はつい一年半ほど前の晦日の夜を悔やんでいた。

自分が兄者を負かしてしまうのではないかという恐れから、兄との組打ちを断っていたのだった。自分はまだ修行の身で、それは禁じられていると嘘をついて…。

源五郎は、それを心底から悔いていた。



空虚の穴は、兄との思い出とともに次第に悲しみで満たされていく。

すると泪は自ずと湧き上がる。

それでも源五郎は一切の感情を表には出さなかった。まるで、己が泣くことによって兄の死を穢してしまうことを恐れるかのように…。



弱音を吐いた途端に、兄との大切な思い出が消えてしまいそうに思えた。

そのため、源五郎は葬儀の最中も、四十九日の法要が済んでも、他の者とろくに会話もせず、ただ一人きりで塞ぎ込んでいた。

うかとすると込み上げてくる悲嘆を必死で抑えつけながら、源五郎は黙々と木剣を振り続けていた。



そんな源五郎の行動は、周囲から奇異に見られていた。

兄の死に泣きわめくでもなく、嘆くわけでもなく、黙りこくったまま一人で過ごす弟。周囲はそんな源五郎の姿を訝しげに見ていた。

何か感情のない冷血な子供。



とりわけ母は源五郎を責め立てた。

「兄の死を悼んでいない!」

「兵法修行のことしか考えていない!」

そう罵られることもあった。



それらは、他人には窺い知ることのできない誤解であった。

それでも源五郎は言い訳するのが嫌だった。源五郎は悲しみとともに、そうした責めを黙って受け止め続けていた。

取り乱した母の恨み言には、一言も刃向かおうとはしなかった…。



源五郎の本当の心、それを理解していた人物がいたのは幸いだった。

「ワシはお前が兄を亡くした悲しみにどれほど耐えているかを知っている。無言のうちに何を噛み締めているかを解っておる。それを他の者に見せたくない心根も同じ男として解る」

源五郎の父は、無言のうちに全てを見抜いていた。


「源五郎、母を許してやれ。初めての子だった兄の死によって動顛しておる。だから、何も言わぬお前を兄の死を悼んでいないかもしれぬとしか、解せぬのじゃ…」

父はすべてを己の内に飲み込んだ漢(おとこ)の顔で源五郎を見つめていた。



源五郎が初めて堪えきれずになったのは、この時だった。

一筋の涙。

それがついに源五郎の眼から流れた。

そして、それが漢が最後に見せた泪となった…。





出典:「真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱 (新潮文庫)  海道龍一朗」

2013年3月27日水曜日

「犬に体罰はいらない」 盲導犬訓練士「多和田悟」



「犬ってね、楽しくなきゃ仕事をしないんですよ」

そう言うのは、盲導犬の訓練士「多和田悟(たわだ・さとる)さん。



「我慢して仕事やるなんていう犬、見たことない」

多和田さんは、世界で30人しかいないという国際盲導犬連盟の査察員に選ばれた唯一の日本人。そう、「伝説の盲導犬訓練士」である。







盲導犬をつくっているというその場所は、まるでドッグラン。

「遊んでるみたいでしょ」と多和田さん。

たとえ盲導犬といえども、犬には人のために仕事をしているという意識はない。ただ、訓練士のお姉ちゃんと遊びたいのだ。

「まず、お姉ちゃんに夢中なんですよ。ああやって、頭さわってもらって。だって、叱っても問題しか起こらないしね(笑)」



そのお姉ちゃんは、犬が正しい行動をとると「Good」という言葉を連発。

褒められて楽しいと感じれば、犬はまた褒められたくて、同じ行動をとるようになるという。それは次第に高度な技術へと発展していく小さな第一歩である。

多和田さんは言う。

「褒めて育てる。犬の能力を最大限に引き出すには、それしかない」



しかし、「ただ褒めるだけではダメだ」とも多和田さんは言う。

大切なのは「褒めるタイミング」なのだという。

「褒める時、やり終わってから言わないの。もう遅い」



「たとえば、Sitと言って座らせて…、ほら、座りが完成する前にGoodって言ってるでしょ」

とらせようと思った行動が終わる前に「Good」と褒めてあげる。アクションを起こした瞬間に褒めることで、犬にその行動が正しいことを伝えるのである。

というのも、犬は最初、その行動が正しいかどうか分からないので、少し迷っている。その迷った背中を押してあげるのが、訓練士たちの「褒めるタイミング」なのである。







「犬にものを教えるのに体罰は必要ありません」

多和田さんは、そう断言する。

「いい子だね、いい子だね、こればっかりですよ。もう、ただのバカ親父ですよ(笑)」



犬の心は、純粋すぎるほどにシンプルである。

その点、「いや、そうじゃないもん!」と歯向かうことのある人間とは大きく異なる。しかし、たとえ複雑な人間の心とはいえ、その根底に根差すのは盲導犬のようなシンプルさではなかろうか。







現在、日本で活躍する盲導犬は1,043頭。

これは圧倒的に足りない数字だ。盲導犬の希望者はその3倍の3,000人を超えるというのだから。

じつは、訓練をへて最終的に盲導犬になれるのは、3〜4割と意外に難しい。それでも、多和田さんを始めとする訓練士たちは、日夜の努力を惜しむことがない。



「褒めて、育てて、”ワン”ダフル!」







 (了)



出典:探検バクモン
「盲導犬でワンダフル!」

2013年3月26日火曜日

棋譜に隠されていた主君の真意。真田昌幸



真田昌幸はあることを思い立ち、主君・武田信玄から預かったままになっていた「碁盤と碁石」を引っ張り出してきた。

「思えば、御屋形さまからお預かりしたこの品が、形見分けとなってしまった…」

この時、主君・信玄はすでにこの世になかった。しかし、信玄の遺言により、その死は秘されたままである。



黒石を掴み、碁盤の上に置いていく昌幸。

形をなしたのは六連銭。それは最後に主君と打った六子局だった。

碁打ちとは不思議なもので、対局が終わった後でも、己と相手の打った手を最初から並べ直すことができる。なぜならば、その一手一手にすべて意味があるからだ。



脳裏にはっきりと焼き付いている棋譜を、静かに並べ始める昌幸。改めて並べ直してみると、信玄のこの上なく鋭い手筋が碁盤の天面に浮かび上がってくる。

「まるで、御屋形さまの一手一手が真剣の切っ先のように繰り出されている!」

信玄の打った白石には、どれも裂帛の気魄が籠っていた。相手に六子の優位を与えての一局は、かの信玄といえども、相当に難しかったようである。



そして、いよいよ勝負を分けた「天元への一手」。

昌幸が放ったその一手より先は、まるで新たな一局が始まったかのようであった。



「これは…」

信玄と対局した時の昌幸は、ただただ夢中で打っていただけで、主君の深い真意には気づけていなかった。

信玄は碁盤を地図に見立てて軍略を考えることも多く、囲碁の手合いを通して、軍略用兵の真髄を伝えてくることも多かったのである。



「石の死活は、兵の死活と同じである」

それが信玄の教えであった。



石を並べながら、昌幸は信玄の真意に気づき始めていた。

天元の一手の後、信玄の白石の一つ一つは生命が宿ったかのごとく躍動している。まるで謡曲を舞うように活き活きとしている。

「いま、やっと、わかった。御屋形さまはこの対局を心の底から愉しまれていたのだ…」



信玄の応手からは、軍略兵術の香りは消えていた。そこには何の邪気もない。昌幸を負かそうともしていなかった。

「かように面白き碁、かほどに気分の良い夜もないわ」

対局の後、主君はそう言って笑っていた。



気がつくと、碁石の代わりに大粒の泪が碁盤の上に落ちていた…。

この一局は、あの三方ヶ原の一戦の直後に打たれたもの。信玄がこの世を去る、ほんの少し前のことであった。



「御屋形さま…、不甲斐ない昌幸を許して下さいませ…。童の如く泪を流し尽くさねば、立ち上がれそうにありませぬ…」

碁盤の前で震え続ける昌幸。武将としての鎧を脱いだままに…。



「しかし、泪が枯れたのならば、立ち上がらなければならない…!」

人知れず心に鎧をまとい、主君の死を踏み越えて…。






出典:歴史街道 2012年 10月号 [雑誌]
「我六道を慴れず 真田昌幸 連戦記」

2013年3月25日月曜日

歌を読む



漢詩選


楓葉(ふうよう)庭に翻る秋去るの日

西窓斜日落霜滋(しげ)し

愚僧掃後優閑の境

榻に坐し茶を煎じ静かに眉を展(の)ぶ

〜晩秋所懐(澤田宗博)〜



短歌選


線量の 高くもがざる豊作の 柚子が黄に照り冬陽を返す(高松こと)

パソコンを 打ちつつ話す医師多し 患者のわれと向き合わずして(中西勝美)



俳句選


鋭角に 迫りて来るや冬の月(村田文夫)

除雪車の 音に目覚めし夜明けかな(伊藤吉一)

着ぶくれて 能舞ふごとき思ひなり(橋口俊司)

濡縁の 猫と語らう冬日和(村上要)



一声を 置きて野鳥の飛び去りぬ(櫛田賢治)

被災せる 友に送りぬ蜜柑箱(柴田和子)

鱈ちりの 炊けて真白き具材かな(石田浩道)

建てかけの 家の木組みや冬の星(北郷聖)

古傷も 撫でてやりたる初湯かな(飛田正勝)



川柳選


雑念を 払いのけたらボテけゆく(櫛田賢治)

どっかりと 座る人ほどイエスマン(鳥居豊彦)

節電が 昔の知恵を掘り起こす(小久保左門)

子の未来 親の鏡に映らない(橋口俊司)






出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]


2013年3月24日日曜日

日本伝統の建築様式「大仏様」。なぜ天竺様とも言うのだろう…。



平安時代の末期、治承4年の暮れ、奢れる平家は東大寺を焼いた(旧暦1180年12月28日)。

世に言う「南都焼討」。平重衡(たいらのしげひら)による兵火であった。

「大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った(Wikipedia)」



その再建を託されたのは、当時61歳の僧「重源(ちょうげん)」。

長きにわたり宋(中国)に留学していた重源は、その間、寺院の建立や修復に数多く立ち合っており、その経験は豊富であったという。



そして、できた新しい大仏殿。

その建築技法は、中国の福建省あたりで見られた様式だったというが、当時の人々はこのような建築物を見慣れていなかった。

「インド(天竺)あたりから伝わったのではないか?」

見慣れぬ再建大仏殿は、そんな風に考えられていた。それゆえ、この建築様式が「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれるようになった。



そして、それはそのまま「大仏様(だいぶつよう)」とも言われるようになり、わが国の寺院建築の三本柱の一つに数えられるようにもなった。

※ちなみに、その3つとは「和様」「大仏様(天竺様)」「禅宗様(唐様)」である。

しかし、大仏様の建築物として現存するものは少ない(東大寺南大門や浄土寺浄土堂など)。それもそのはず、この建築様式は鎌倉時代初期の限られた時期だけに用いられたものだったのである。





大仏様(天竺様)の特徴はと言えば、「最小限の材料」で大建築を可能にすることであった。

というのも、鎌倉時代の初期、すでに森林資源が枯渇しており、奈良や京都の近くでは満足な材料を得ることが適わなくなっていた。重源が大仏殿を再建した時も、その用材は遠く山口県の山奥から伐り出してきたのである。

それゆえ、その長距離の輸送には自ずと限界があり、大仏殿も「必要最小限の資材」でまかなうしかなかったのであった。



なるほど、重源の大仏殿の「見慣れぬ建築様式」は、そんな必要から生まれたものであったか。

その後、東大寺がふたたび兵火にさらされるのは戦国時代。永禄10年10月10日、かの梟雄・松永久秀らの軍勢が大仏もろとも豪火に包むのであった…。






出典:大法輪
「雑学から学ぶ仏教 寺院の建築様式について」

2013年3月23日土曜日

「ヒト」とは? そして人間になった。



「人(ひと)」という古い日本語の由来は「霊処(ひと)」、つまり「霊(ひ)がとまるところ」という説がある。また、「ひ」は「日」に通じ、「日の徳にとまるところ」というものもある。

「私たちの祖先は、太陽に明るく照らされ、神霊が宿るところが人間だという見方をもっていたようです(光延一郎)」

いわば、日本人は「天」を見て、そして人を見たのだ。



さて、次は西洋へと目を転じてみよう。

ギリシャ語の「人」は「アントロポス」。「花開く」という意味。ラテン語では「ホモ」、これは「大地」。旧約聖書に登場するアダムという最初の人の名は、「アダマー(地面)」に由来し、「土の塵」からできたことを示唆している。

なるほど、西洋の人々は「地」を見て、そこから人を見たのだ。



ところでラテン語では、「人格」を「ペルソナ」というが、その語源は「仮面」だという。これは、英語のパーソンにも派生する言葉だ。

土くれから生まれたヒトが、人間という仮面をかぶる…。

それはなんとも、人の間に生きる「人間」らしい姿ではあるまいか…。






出典:大法輪2013年3月号
「日本人のためのキリスト教入門 光延一郎」

2013年3月22日金曜日

日本と朝鮮半島の狭間で…。苦悩の対馬



「国境の離島」の苦悩

日本と朝鮮半島の間に位置する「対馬(つしま)」。その島主「宗義智(そう・よしとし)」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵には頭から反対だった。



というのも、対馬という貧しい島は、朝鮮との交易に頼らなければ生きていけない。島からの生産物だけでは、食料が絶対的に不足しているのだ(現代に至ってさえ、島の主食の生産量は島民の2ヶ月分しかない)。

「極端にいえば、ある時期の対馬は朝鮮を『宗主国』とせざるを得ないような状況に置かれていた(童門冬二)」



それでも、狂ったような秀吉の朝鮮出兵は敢行された。

交易の利を知る商人連中は皆反対だった。堺の元商人・小西行長も、博多の豪商・島井宗室も。秀吉の側近の石田三成でさえ反対であり、徳川家康もそうだった。

それでも、秀吉は朝鮮に大軍を送ったのだった…。






狂った秀吉の死後、その後の国政を担うこととなった徳川家康は、「全方位外交」という平和的な方針を持っていた。そして、その方針には当然、痛く傷ついてしまった日鮮の国交回復も含まれていた。

「朝鮮との和親の義を打診せよ」

その命を受けた対馬島主・宗義智(そう・よしとし)は、喜び勇んだ。「願ってもない…!」。



慶長四年(1599)、宗義智は朝鮮に和議の使者を送る。しかし、朝鮮に駐留していた明(中国)の将は、その使者を捕縛すると、北京へと護送してしまった。それは、次の使者も、また次の使者も同様だった。つまり、最初の三度の使者は皆、捕らえられてしまったのだ。

そして慶長六年(1601)、四度目の使者となった石田甚左衛門はようやく、朝鮮からの返書を持って戻ってくることができた。



その返書にはこうあった。「朝鮮からの拉致者をすべて送還せよ」。

そこで宗義智は、その返書の言に従うべく諸大名に呼びかけ、秀吉の朝鮮出兵で連行してきた朝鮮の人々を可能な限り送り返した。この慶長六年(1601)から九年(1604)にかけて、朝鮮に送還した男女は延べ1,702人に上ったという。

対馬という島は、日本の果てだったかもしれないが、朝鮮の釜山港からはわずか50kmも離れていない。その交易を再開することは、島主・宗義智の悲願であったのだ。そうした立場は、同じく国境の離島である琉球(沖縄)にも多分に似通っていたであろう。



慶長十年(1605)、徳川家康は京都・伏見城にて、朝鮮からの使者である孫文或(そん・ぶんいく)、そして僧の松雲(しょううん)と会見。

そしてここに、「日鮮両国は国交を回復する」との原則が定められることになった。



和議成立の褒美として、対馬島主・宗義智には肥前(佐賀)に二千石を加増、朝鮮使の僧・松雲には、日本の僧にとって最高の名誉である紫衣を与えられた。

喜んだのは朝鮮王(光海君)も同様。彼も家康同様、全方位外交には賛成だったのだ。






こうして日鮮の国交はスムーズに回復したかに見えた……が、その裏では大変なことが起こっていた。

「国書の改竄(かいざん)」

対馬島主・宗義智は、日本側の国書を勝手に書き換えてしまっていたのだ…。それは国境の離島の苦悩の末であり、切羽詰まった現場の苦渋の表れでもあった。



実は、朝鮮側からは「日本の謝罪文」を提出せよ、と言われていた。つまり、徳川家康に「詫び状」を書けというのだ。まさかこんなことを家康に言えるわけがない。

また、朝鮮側の国書の宛名が「日本国王」となっていたのも問題だった。この宛て書きは「もともと宗主国が従属国に出す文書」で使用されるもの。つまり、日本は朝鮮に従属国扱いされていたのである。

家康の肩書きも問題だ。もし「日本国王」と記せば、朝鮮側に日本が従属国であることを認めることになる。そして、それ以上に天皇の存在を無視するという無礼も犯すことになる。



これら3つの問題を回避するため、対馬島主・宗義智は日本の国書を改竄したのであった。

家康の肩書きは「日本国源家康」と曖昧なものとし、この和議は日本から詫び状を送ったという形ではなく、朝鮮から申し出されたものとした。



「国境の離島」の苦悩。

その責めを、現場の島主ばかりに負わせられようか…。

もとはと言えば、耄碌老人の暴挙がその因であったのだ…。







(了)



出典:致知2013年4月号
「林羅山 国書改竄事件 童門冬二」

2013年3月21日木曜日

血液型の「歴史」を知る。



血液型には「歴史」がある。



もっとも古い歴史を持つのは「O型」。

そのルーツは約4万年前。アフリカ生まれのクロマニヨン人に由来する。彼らの血液型は皆、O型だったのだ。

その最も長い歴史ゆえに、今なお「世界で最も多い血液型」はO型なのである。



次に出現するのは「A型」。

紀元前2万5,000年から1万5,000万年頃、アジアや中東で「農耕」を始めた民族の中から生まれたのだ。



クロマニヨン人のO型が「狩猟民族」を象徴しているのに対して、A型は「農耕民族」のそれである。

狩猟民族と農耕民族では「食べ物」が異なる。肉を食う奴らと、コメ(もしくは小麦)を食う者どもの差である。だから、O型とA型で消化器官や免疫系が異なるのは至極当然のことである。



さらに時代が下り、紀元前1万5,000年前から1万年にかけて、ヒマラヤ山岳地帯には「遊牧民」が現れた。彼らが「B型」の祖である。

彼らの食するのは干し肉やチーズなどの保存食。O型(狩猟民族)やA型(農耕民族)とは、一風異なる食生活であった。



最後に登場するのは「AB型」。

まだ1,000〜1,200年ほどの浅い歴史しかないと考えられている。そのため、AB型は世界の人口の5%以下しか今だ存在しない。

AB型は、文字通りA型(農耕民族)とB型(遊牧民)の足し算の結果である。それゆえ、その両者の特徴をバランスよく受け継いでいるといえる。



なるほど、確かに血液型には歴史がある。

それぞれの暮らし方によって食事が変わり、血が変わっていったのだ。「食べ物で治せない病気は、医者でも治せない」、そう言ったヒポクラテスの言葉は、あたかも食生活の深い歴史を彼が知っていたかのようだ。

食生活とともに深い歴史をもつ血液型。それが今なお、我々の体質に影響しているということも十分に頷ける。



O型は「元・狩猟民族」であるだけに、肉類の消化に長けている人が多いという。A型は「元・農耕民族」だから、穀物や野菜を消化する酵素をたくさん持っている。

肉に強いO型の人は、夜中に焼肉を食らうのも是である。しかし、肉に弱いA型の人は、太ったり胸焼けを起こしてしまうかもしれない。






その食材が「栄養」となるか、もしくは「毒」となるか?

それを決める因子の一つが、食物に含まれている「レクチン」というタンパク質だと考えられている。

レクチンというのは、血液に混ぜると血液を糊のように凝集させる力がある。身体(血液型)に合わないレクチンは、血液をドロドロにしてしまう。逆に血液型に合うレクチンであれば、血液はむしろサラサラになる。






同じ肉でも、人の反応はさまざまだ。

ヨーロッパ系のO型にとって肉は必須。しかし、アジア系のO型は魚の方を必要とする。いずれにせよ、両系統とも消化器系と免疫系は他血液型よりは強靭である。ただ、小麦やトウモロコシなど(穀類)が合わない人もいるという(生粋の狩猟民族?)。

A型の人の中には、肉の脂肪が苦手という人がいる。それは純粋たる農耕民族の血が濃いためであり、彼らの胃酸がO型の人々よりも少ないからである。牛乳などの乳酸品や卵などが不得手な人も多い(消化器系が繊細なため、野菜は人一倍必要とするのだが…)。



ヒマラヤの厳しい山岳地帯に順応していった歴史をもつB型の人々。彼らは環境の変化に柔軟に適応できる資質をもつ。

しかし、海が遠かったせいか、カニやエビなどの甲殻類、もしくは貝類などのレクチンが有害となることがあるという。なぜか、ナッツや種子類を避ける人も多いのだとか。農耕チックな種にも縁遠いということか…。



AB型はその歴史が浅いせいか、免疫系が弱く感染症にも気をつけなければならない。

彼らにO型の要素はないからか、肉は得意としないものの、B型の順応力がそれをカバーする。そしてA型同様、野菜中心の食生活が肌に合うようだ。






人によっては、上述した体質が強く当てはまる人もいるかもしれない。そうした人々はきっと、血液型の歴史を色濃く受け継いでいるのだ。

一方で、何万年という歳月を経て、その特色が薄まっている人々も多い。そうした人々がほとんどだろう。



ゆえに、食物の相性はそれほど気にしすぎる必要もない。

「合うものを普段5食べていたら、1か2増やして、合わないものを1か2減らして食べると良いでしょう(中島旻保)」

バランスをとるためには、それほど極端になる必要はないとのことだ。











関連記事:

「酵素」を意識した食生活 [鶴見隆史]

疲れた日には「チキン料理(胸肉)」、そしてアップル・パイ

3日に一度「朝カレー」のススメ



出典:致知2013年4月号
「血液型の特性を知って健康になる 〜食べ物と血液型との意外な関係〜」

2013年3月20日水曜日

空海の「十住心論」をかじる




空海の論書にある「十住心論」には、人の心が進んでいく10の過程が記されている。

一、異生羝羊心(いしょうていようしん)
二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)

四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)

六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)

八、一道無為心(いちどうむいしん)
九、極無自性心(ごくむじしょうしん)

十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)






◎一、異生羝羊心(いしょうていようしん)


羝羊心というのは雄羊の心、すなわち動物的・本能的である。

「淫食を念ずること、かの羝羊の如し(雄羊のように、ただ性欲と食欲ばかりを思う)」



無明の闇は最も深く、自我に囚われ、所有への執着が凄まじい。

「たとえば、獣が陽炎(かげろう)を追って水を求め、蛾が華やかな火に飛び込んで身を焼くようなもの」

水に映った月を欲するが如し。



◎ 二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)



愚かな童子(愚童)の心にも、いつかは自らを慎み、他に施す心(斎心)が起こる。

「施心萌動して、穀の縁に遇うが如し(他に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するようなものである)」



人は「外の因縁」によって、道徳的・倫理的になっていく。

賢人の徳、自らの誤ちを知り、善行と悪行の因果(原因と結果)を知る。

「たとえば、自らは節食し、それを他の人々に与えることを喜び、足るを知る心が次第に起こる」



◎三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)


嬰児(嬰童)が母のふところに抱かれているように安らかなる心地(無畏心)。

しかし、次第に外の世間の苦しみに気づき始め、内には、自己との対峙・葛藤が芽生え出す。



そして生まれる宗教心。

「仏の戒めを知り、来世の安楽を願う」



ここまでの一〜三は、いわば俗世の心。

そして四以降は、悟り、そして境地、真理への心となっていく。






◎四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)


自我には実体がないこと(無我)、自分の感じ知ることは5つの要素(五蘊・色受想行識)が仮に和合したもにに過ぎないことを知る。

それは今までの無明を知ることであり、その闇の先のかすかな光に気づくことでもある。



いわゆる、禅の十牛図における「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。

しかしこの段階では、声聞(仏の言葉)を聞いて悟る者、「羊車の三蔵」である。



◎五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)


「苦」をもたらす「無明の種」は、ここで取り除かれる。

「無明、種を抜く。業生、己に除いて、無言に果を得」

無知(無明)の元(種)を抜き取って、迷いの世界(業生)を取り除く。そして唯一人、悟りの世界(果)を得る。



迷いや業には、その元がある。

「生けるものの心に煩悩が生じるのは、邪な思惟(不正思惟)を主因とし、無明を間接的な縁とする」

その起こり、縁起の法則を知ることで、自分一人の悟りは得ることができる。

これは、一人で努力・修行して得られる境地である(独覚)。






◎六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)


これは菩薩の境地。己のみの悟りから、他人の悟りへも心が向かう。

「無縁に悲を起こして、大悲はじめて発る」

物事の因果の種を知った己は、縁に囚われるということがなくなる(無縁)。それは、すべてのものが幻影であり、ただ心の働きだけが実在であるということを悟っているからである。



心のみが真実と悟る菩薩は、心に映るものすべては幻や陽炎のごとく「虚妄」であると知っている(唯識)。

その境地には言葉も文字もない。平穏無事の風が吹くばかり。



その菩薩の欲することは、すべての衆生を救うこと(他縁)。

他縁とは、縁に囚われずに、すべての人々に別け隔てなく慈悲の心を感ずることである。

小乗というのが己一人のためのものであれば、大乗というのは自他の境を虚しくするものである。



◎七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)


心は何ものによっても生じたものではない(不生)。

心は生じることもなければ、滅びもしない(不生不滅)。

物質に実体がなかった(無我)ばかりか、自分の心に起こることにも実体がないと悟る。



「心に映るものは本来、生じたり滅したりせず、静かに澄み渡っているばかりである」

その澄み渡るこころは自由自在。物の有無に迷うこともなければ、自利・他利の境もない(心王)。



「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来」

これら8つの不(八不)によって、実在からの迷妄は断ち切られる。

「一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり」

ひたすらに空を観じれば、心は静かに澄み渡り、なんらの相(すがた)なく(無相)安楽である。



◎八、一道無為心(いちどうむいしん)


「この心性を知るを、号して遮那という」

この心を知るものを、仏(大日如来)という。



この境地においては、すべてが清浄である(一如本浄)。人の持つ徳性は汚れに染まらないと観想し、すべての人の心は清浄であることを知るのである。

「すべての人に仏性を見、すべての教えは一道に帰する」



まるで澄み切った水が事物を映し出すがごとく(止観)、静かであってよく照らし、何を照らしても常に静か。

「心は清らかであり、心は外にもなく内にもない。その中間(中道)にもない」

その心は、欲の世界のものでもなければ、物の世界のものでもない。精神世界のものですらないのである。



「境智ともに融す」

主観も客観もともに合一しており、その心は虚空に同じ。

思慮や思慮のないことを離れた境地は、真実そのもの、悟りそのもの。これは空の悟り(無為)である。



◎九、極無自性心(ごくむじしょうしん)


「水は自性なし。風に遇うてすなわち波たつ」

水はそれ自体に定まった性質(自性)はない。風が吹けば波が立つだけである。

そこには一切の対立がない。



対立・矛盾がないゆえに、その世界には一つとして自性(固定的本性)をもつものがない。

宇宙の中のすべては、互いに交じり合い、互いに融け合っている。



「一と多の融合」

一人ひとりの心は、仏のそれと何ら変わるところがない。

「初発心のとき、すなわち正覚を成す」

華厳経は、初めて悟りを求める心を起こした時、たちまち正しい悟り(正覚)を成就する、と教えている。






◎十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)


「顕薬塵を払い、真言、庫を開く」

一般的な仏教(顕薬)は塵を払ってくれ、そして真言密教が庫の扉を開く。



残念ながら、この境地を説くことは許されていない。

容易く説いてはならない、と戒められているのである。

ゆえに「秘密」といい、すべての分別を超えた境地(荘厳心)がここにはある…。








◎虚空の箭(や)


「箭(や)を虚空に射るに力尽きて、すなわち下(おち)るが如し」

闇雲に矢を空に放っても、それはただ落ちてくるばかり。



これは空海の言葉であるが、的を知らずに矢を放つことの虚しさを説いている。

たとえば、空海の真言宗というのは、即身成仏、すなわち生きながらにして「仏」となることを肯定している。いわゆる自力本願である。

「十住心論」とは、その仏への道筋を示すものであり、たとえ分からなくとも、何となくそんな心の段階を踏んでいくのかということくらいは知ることはできる。



なるほど、虚空の箭(や)は十住心論によって、その的を得るのであった。

ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるかもしれない。

たとえそうだとしても、多少、的の方角が分かっているのは、じつに有り難い…。







出典:十住心論