2015年11月24日火曜日

「一粒の塩(a grain of salt)」の話 [ティク・ナット・ハン]



話:ティク・ナット・ハン(Thich Nhat Hanh








It's like when nuclear scientists say that to understand an elementary particle and really enter into the world of the infinitely small, you have to become a participant and not an observer anymore.

素粒子を理解し極小の世界に入るためには、観察者(observer)であることをやめ参加者(participant)になる必要がある、とある核物理学者は述べています。

In India they use the example of a grain of salt that would like to know how salty the ocean is.

インドには、海がどれほど塩辛いのか知ろうと試みた一粒の塩(a grain of salt)の話があります。

How can a grain of salt come to know this?

一粒の塩はどうすればいいのでしょうか?

The only way is for it to jump into the ocean, and the understanding will be perfect;

ただひとつ、海に飛びこめばわかります。そうすれば完璧に理解できるでしょう。

the separation between the object of understanding and the subject of understanding is no longer there.

そのとき理解の対象(the object of understanding)理解の主体(the subject of understanding)との隔たりはなくなります。

In our time, nuclear scientists have begun to see that. That is why they say that in order to really understand the world of the elementary particle, you have to stop being an observer, you have to become a participant.

現代では、核物理学者がそのことを悟りはじめているのです。真の理解のためには、観察者(observer)ではなく参加者(participant)になりなさいと言っているのですから。








引用:
Thich Nhat Hanh『Transformation and Healing: Sutra on the Four Establishments of Mindfulness
ティク・ナット・ハン『ブッダの〈気づき〉の瞑想



2015年11月23日月曜日

ジャータカ『兎の話』 [スマナサーラ長老]




手塚治虫『ブッダ』は、焚き火に飛び込むウサギのシーンで幕をあける。





吹雪に行き倒れる僧侶

その身を案じる、クマ、キツネ、そしてウサギ。

これら3種の動物たちは、それぞれ彼らの糧を僧侶に与えようと考える。クマは魚を、キツネはブドウを。だが、ウサギだけは雪中に食を見い出すことができなかった。

ウサギは僧侶に「火をおこせ」と求める。

そして、その火に飛びこみ、自らの身を焼くのである。








「アシタさま、ウサギが自分で自分の身を焼いて、その僧に食べられるなんて…」

アシタ「その話は、わしの師、ゴシャラさまのご体験によるものじゃ。だから、ほんとの出来事だよ。ゴシャラさまは、この信じられぬ出来事に、強いショックをおうけになってな…。そのまま、まるで魂をぬかれた人のようにフラフラと里へおり、そのまま10日も寝込んでしまわれた」






この話は、仏教の経典『ジャータカ(お釈迦さまの前世物語)』に語り継がれているものである。

以下、スリランカ初期仏教長老、スマナサーラ氏の語るジャータカ、『兎の話』である。






〜話:スマナサーラ長老〜



兎の話



その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりました。その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありました。

彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりました。その時兎は・悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。



ある満月の日、兎は修行しようと思いました。三匹の友人も誘いました。皆、大変喜んで修行することに決めました。修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。

兎は、 「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」 と、注意しました。

そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけました。キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけました。猿は木からマンゴーを取って来ました。兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。

その代わりに、大きな悩みが出てきました。食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。何か自分が偽善行為をやっているような気もしました。

「偽善になってはたまらない。誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めました。兎は、修行のために命まで賭けました。



天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きました。

皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねました。カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しました。サッカは 「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きました。

(そして)「何か食べ物をください」と、兎に頼みました。

兎は、「それは良かった。誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。

サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りました。兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みました。



身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。

兎は乞食に尋ねます。「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。あまりにも涼しいのです」

サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」

サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、山を絞り、液体を出して(溶岩では?)、月に兎の形を描き遺しました。





引用:ジャータカ物語「兎の話」







2015年11月22日日曜日

あと一歩、あと半歩… [宮本祖豊]



話:宮本祖豊(みやもと・そほう)





大学受験につまづいて、自分自身を振り返ると、決して東大に入れるような賢い頭ももっていないし、裕福な家庭というわけでもなかった。痛感したのが、自分自身の徳のなさでした。徳を積むために一生を歩んでいきたいという思いから、宗教に興味をもつようになったんです。

そういう中で、天台大師智顗の『摩訶止観(まかしかん)を読んで非常に感銘を受けまして、一生勉強するならこういうものを勉強してみたいと思い定めたわけです。





もう一つは、伝教大師最澄上人が19歳でこの比叡山に入ってきたときの誓いの文章『願文(がんもん)を読んで、千年以上も昔にこんな心の澄んだ人がいたのかと。これも非常に感銘を受けて、仏道修行をするなら是非こういう精神が生きている場所でやってみたいという思いから、比叡山に入れていただいたわけです。








行ですから、やっぱり何度も壁はやってきます。

私にとって最大の難関であったのは、浄土院で最澄上人に仕える前に、身も心も清めるために行う「好相行(こうそうぎょう)でした。

浄土院の拝殿の奥の間で、『仏名経(ぶつみょうきょう)』に説かれている三千もの仏の名前を一仏一仏唱えながら、焼香し、お花を献じ、そして五体投地、つまり両膝、両肘、額を床につけて礼拝し、そして立って、また体を折り曲げて礼拝する。三千仏ですから、これを一日三千回おこないます。それを仏さんが目の前に立つまで続けるのです。

歴代の満行者はだいたい3ヶ月、30万回ほどで目の前に仏さんが立つと言います。ところが、私は何ヶ月やっても見えてこないのです。



見えるまでは何年でも続けなければならないのですが、行の最中はずっと眠らず、横にもなりませんから、どんどん痩せて首が細くなり、首がガクッと落ちて上がらなくなる。両手両足は割れて血が溜まり、膿んでくる。

そのうち目の焦点が合わなくなり、平衡感覚をつかさどる三半規管までが狂ってきて、立っていられなくなり、9ヶ月たってとうとうドクターストップがかかりました。



礼拝を続けながら体力を回復させ、一年近くかかって再開しました。

今度こそは、と決死の覚悟で臨んだのですが、やはり仏さんは一向に現れない。季節は冬になって、手足はまた割れて化膿し、体もどんどん冷たくなって麻痺し、顔は蝋人形のように真っ白になる。死がそこまで迫っている感覚がありました。

行の最中に、師僧や兄弟子が励ましに来るんですがそうなると、もうかける言葉もないんですね。その時に師僧の堀澤祖門(ほりさわ・そもん)師が何とおっしゃったかというと、

「死になさい」

と。



結局、再開して9ヶ月で二度目のドクターストップがかかり、さすがに三度目はお許しをいただけないだろうと観念していたら、もう少し体がもちそうだという検査結果が出て、再開しました。

私の心境としては、

もはや出し尽くしてしまって、どうしようもない

という思いでした。いまから振り返ると、仏さんを感得するには、そういう精神状態になることが求められていたわけですが、二度のストップがかかるほど、私は多くの煩悩を抱えていたということなのでしょう。



その囚われが、死の淵まで追い込まれて、ようやく消えたようで、三度目の行がはじまって、一ヶ月ほどで目の前に仏さんが立ちました。

約600日、100数十万回の五体投地をへて、好相行(こうそうぎょう)を満行し、ようやく浄土院に入ることができたんです。







もう二度と立ち上がりたくない、という限界まで来たときに、

あと一回

あと半歩

と、また立ち上がる。その積み重ねが、壁をやぶることにつながっていくのです。



あと一回やったら今度は死のう

あともう一回

もう一回…

と、ギリギリのところで、なお前に出たからこそ、超えられたのだと思います。



印象に残っているのは、

「痛みを忘れなさい」

というお師匠さんの言葉です。

行の最中は、立ったり座ったりで膝を床につけます。何十万回と礼拝していますので、当然ヒザの骨が出てきて、床に当たるたびに脳天を突き抜けるような凄まじい痛みに見舞われる。

そんな状況でどうやって痛みを忘れるのかと言えば、とにかく全身全霊で声を出して礼拝すること。その一点に集中することでもって、痛みを越えるほどの集中力が発揮され、越えた時でなければ仏さんを見る境地には至らないんだ、と。

無になる、無心になることが、いかに難しいことか。ギリギリのところで集中しなければ到達しえない境地であることを実感しました。





人は誰しも壁にぶつかる時があります。切羽詰まる、という言葉がありますけど、実はその "詰まる" ことが大切なんだろうと思いますね。生きるか死ぬかのギリギリまで追い詰められること、その経験というのは、行の上では非常に大切なことでもあります。

つまづくのは嫌だ、という人もいます。ところが、つまづくことは決して悪いことではなくて、前に進もうとするからつまづいて転ぶわけです。端(はな)から前に進もうと思わなかったら転ばないんですよ。

前に向かうというその姿勢がじつは大切で、そういう姿勢を貫いていればこそ、切羽詰まったときに、奇跡としか思われないような力が引き出されるのではないでしょうか。だからこそ辛いときでも、あと一歩、あと半歩、と前に進み続ける。そういう姿勢がやっぱり必要なんだろうと思います。





満行したのは平成21年9月11日ですが、不思議と達成感は湧いてきませんでした。

一生が修行であり、死ぬまで自分の精神レベルを上げていくという目的がありますので、ある一定の期間が終わったからこれでいい、という気持ちにはならなかったのです。これからどれだけ前向きに進むかが大事であり、籠山行も私の精神レベルを上げる一つの試みにすぎません。それが無事に終わったというだけの話なのです。

籠山行は、世間から隔絶された環境で自分の悟りを求める自分だけの行、すなわち自行ですが、いよいよこれから人のために尽くす行、化他行(かたぎょう)がはじまるのだと思いました。




世間で荒行、苦行といわれる行も、やっている本人はそんな思いでやっているわけではないんですね。自ら身を投じているわけですから、荒行というのは "よそから見た言葉" です。

千日回峰行にしても十二年籠山行にしても、決してその独特の体験そのものに意味があるわけではなく、逆に、その一瞬一瞬をどのように生きるかということが一番大切です。単に生きるのではなく、一瞬一瞬を生き切るということ。行とは、そのことの大切さを改めて感じさせてもらうものだろうと思います。

この一瞬を極めていく

一瞬一瞬を生き切ることが、とても大事だと思います。それは100年生きるつもりでいたら、決してわからないことです。

この世が無常であると気づくこと。

それが、いま一瞬を生き切ることの原動力となるのです。









出典:『致知』2015年12月号
宮本祖豊「極限の行に挑む」




汗、大用現前 [平澤興]



〜話:平澤興〜





暑くなりますと、誰しも汗をかきます。

「大変汗が出てありがとうございます」と喜んでおる人はないと思うのでありますが、医学的に申しますと、汗が出るので温度の調節ができるのであります。我々の全然知らん間に温度が上がれば自然に汗が出るような仕掛けになっているのであります。

若さにもよりますし、人にもよりますが、1〜2リットルくらいの汗が一日に出ております。だいたい50〜60kgの身体の人で1リットル汗を出しますと、体温にしまして10℃くらい下げる放熱量があります。36℃の人がもし汗が出ないとすれば、それだけで死んでしまうかもしれません。

そう思ってみますと、汗そのものはそうありがたいことではないのでありますが、汗を出すという働きは大切です。実は汗だけではありません。汗腺といえども、広い意味の内臓であります。要するに内臓というものは、そんな具合に暑ければ暑いように、ちゃんとしかるべく働いてくれるわけであります。



禅語に

大用現前(だいゆう・げんぜん)

という言葉があります。

天地宇宙の真理というものは、そんなに変わるものではなくて、現に落ち着いて見れば、そんなに心配するようなことはない、皆あるべき姿にあると、そういう言葉だそうであります。

永平寺の道元禅師が、これでは難しくてわかりませんから、日本の歌につくりかえて、

水鳥の ゆくもかえるも あと絶えて
されども道は 忘れざりけり

と詠んでいます。

水鳥は帰ってしまって跡はなくなるが、それで結局また道を間違えないでちゃんと戻っていく。そんなようなもので、細かなことにこせこせしなくても自然には自然の道があるというような意味のようであります。





同じ解剖学者でも、卒業してしばらくの間は、本に書いてあることが一通りわかれば、一通りわかったような錯覚を起こします。私自身もそういう時代がありました。

しかし勉強すればするほど、心臓や肺はもちろんでありますが、ただそれらをつくる一つの細胞の構造もわからなくなってくるのであります。毎年、細胞の構造などについてノーベル賞を与えられておりますが、なるほどノーベル賞といえばすごい研究でありますが、自然の生命から考えたら、全くその中の

"針の頭のような点"

のことでしかないのであります。







引用:『致知』2015年12月号
平澤興「人間、この不思議なるもの」
平澤興 講話選集『生きる力』より




生命史上、3回の大進化 [致知]



〜『致知』2015年12月号より〜





先日、上野の国立科学博物館で開催されていた『生命大躍進展』を見て、38億年前に地球の水中に生まれた単細胞生物が人類になるまで、3回の大躍進があったことを知った。





第一の大躍進は5億年前。

生命が目をもったことである。

地球に誕生した生命は、30億年以上ものあいだ、単細胞生命のままだった。約5億年前、なぜか遺伝子が4倍になり、余分の遺伝子が新しい機能を進化させ、複雑な形をした目をもつ生物が突如あらわれた。

その代表格はアノマロカリスという、エビのような形をした体長1mほどの肉食動物。高性能の目を武器に、獲物を巧みに捕らえた。よく見える目の獲得は、生存競争における優位性の獲得であったのだ。






第二の大躍進は、哺乳類が胎盤を獲得したこと

胎内で育てることで、赤ちゃんの生存率が高まったのである。

どうして胎盤を手に入れることができたのか。1億7千年前、その頃の哺乳類に強力なレトロウイルスが流行した。多くは命を落としたが、生き残った哺乳類の体内でレトロウイルスが生殖胎の内部に入り込み、ウイルスの遺伝子が組み込まれ、胎盤ができたのだという。

ウイルス感染という逆境が、生命を進化させたのだ。






第三は、哺乳類が大脳新皮質を獲得。

脳が大きくなったこと

脳の形成に働く遺伝子には、アクセルとブレーキの役割をするものがある。哺乳類は一時的にブレーキ遺伝子が故障し、それによって脳細胞が増殖、大脳新皮質が形成される要因になったという。

遺伝子の故障という不慮の事故で、人類は言葉と知性を獲得したのである。






村上和雄
「人間の持っている遺伝子情報は、一粒の米を60億に分けたほどの極小スペースに、1ページ千文字で、千ページある大百科辞典、3,200冊分が入っている」


桜井邦朋
「太陽の中心核では、4つの水素が融合して1つのヘリウムをつくるが、水素の質量の0.7%がエネルギーに転換して放出され、それによって太陽は輝いている。

この放出量が0.71%だったら星の進化スピードが早すぎて、太陽はすでにない。

0.69%だとスピードが遅くなりヘリウムが結合できず、137億年たっても炭素がつくられず、生命は生まれていない」






引用:『致知』2015年12月号
特集「人間という奇跡を生きる」




2015年11月19日木曜日

速水御舟、迷いなき境地 『炎舞』



〜NHK日曜美術館
 「どんどん破壊せねばならない 日本画家・速水御舟」より〜










そのころ御舟ぎょしゅう)は、写実一辺倒だった画風に行き詰まりを感じていました。

速水御舟(はやみ・ぎょしゅう)
「自然に直面した写実のみになってきた。けれども、何かそれだけでは済まない問題が常に往来している。この無味乾燥を打破して、本当の何ものかをつかみ出さなければならない悩みを背負っているような気がする」



御舟は武蔵野にある禅寺、平林寺(埼玉・新座市)の門をたたきます。

座禅をくみ、日中は堂内の掃除にはげむ毎日。

御舟は修行僧とおなじ生活を9ヶ月間おくり、心の目でものを見るという禅の教えに近づこうとしました。



大正14年夏、避暑におとずれた軽井沢で御舟は、焚き火と、それに群がる蛾(が)の美しさに心奪われました。

毎日、家族のものに焚き火をおこさせ、御舟はその前で写生をくりかえし行い、炎を見つめつづけました。

『炎舞』大正14年(山種美術館蔵)






変幻する炎の神秘が、深みのある朱で描かれています。

闇と炎の境には、金泥をもちいて微妙な色調の変化が加えられています。

我が身を焦がしながら舞う蛾の群れは、妖しい輝きをはなっています。



御舟は弟子に、

「絵をつくる前に、人間をつくれ。人間のできていないものに、いい絵はかけるはずがない」

と言ったといわれています。

『炎舞』は御舟が31歳の若さで到達した境地をあらわしています。



村上隆
「この『炎舞』の蛾のスケッチを見たことがあるんですけど、けっこう相当やってるんですよね。そういう自分の画力に対する自信と、自分の心の中を見つめたという自信が合体して、迷いがないですよね。… これはもう、ぜんぜん迷いがなくて、自分の人生の哲学と、絵をかくという行為が見事に合体している瞬間だとおもうんですよ。そういう奇跡的な瞬間て、だんだんだんだん積み上げられるわけじゃなくて、やっぱり何年に一回とか、一生に一回か二回しかないかもしれないぐらいの、奇跡的な出会いの瞬間だと思うんですよね」

「まだ31歳だったんですよね、この奇跡がおきたときは」












引用:NHK日曜美術館
「どんどん破壊せねばならない 日本画家・速水御舟」

2015年11月18日水曜日

ブッダの言葉『スッタニパータ』 [YouTube朗読]



Suttanipāta
スッタニパータ


ブッダのことば
中村元




本書の解説に、中村元氏は言う。

「『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、現代の学問的研究の示すところによると、仏教の多数の諸聖典のうちで最も古いものであり、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダ(釈尊)のことばに最も近い詩句を集成した一つの聖典である。シナ・日本の仏教にはほとんど知られなかったが、学問的には極めて重要である。これによって、われわれはゴータマ・ブッダその人、あるいは最初期の仏教に近づきうる一つの通路をもつからである。



仏教の開祖であるゴータマ・ブッダ(釈尊)を歴史的人物として把捉するとき、その生き生きとしたすがたに最も近く迫りうる書、少なくともそのうちの一つは『スッタニパータ(Suttanipāta)』であると言っても過言ではないだろう」



YouTube 朗読
スッタニパータ(Suttanipāta)
梅尾泰巌(寂静山禅定院)

※朗読文はほぼ、中村元『ブッダのことば』どおりである。



スッタニパータ
第一 蛇の章





スッタニパータ
第二 小なる章





スッタニパータ
第三 大なる章





スッタニパータ
第四 八つの詩句の章





スッタニパータ
第五 彼岸に至る道の章











以下、アルボムッレ・スマナサーラ長老(スリランカ)による『スッタニパータ(パーリ語原文)』の朗読。

宝経
ラタナ・スッタン Ratana Suttam

慈経
メッタ・スッタン Metta Suttam

勝利の経
ヴィジャヤスッタン Vijayasuttam





アルボムッレ・スマナサーラ(Alubomulle Sumanasara)1945〜
ブッダの日常読誦経典[完全版 CD BOOK] (3675)

パーリ語による読経CDブック
『スッタニパータ』はじめ多数収録




2015年11月12日木曜日

悟りへの第一歩、「無」の体験 [スマナサーラ]



話:スマナサーラ(Sumanasara)長老
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)





第7章 悟りについて知る


「ヴィパッサナー瞑想」をすると、悟りの境地へ行けると言いましたが、では、悟りとはいったい何でしょうか? それをわかりやすく説明してみます。

悟りを理解する上では、「ものごとは実体としては存在しない。すべてのものは波動である」ということが、大きなポイントとなります。ものごとは、実際には「もの」ではありません。



たとえば音について考えてみます。スピーカーから音が出てきます。その音は、スピーカーからエネルギーを出す、止まる、出す、止まる、出す、止まる、ということをしています。そう考えれば、音というのは音ではなく、波、つまり波動なのです。

スピーカーから音が出る、止まる、出る、止まる…、ということは、言い換えれば、エネルギーが生まれる状態、何もない状態、生まれる状態、何もない状態…、の繰り返しです。その回数や、音の高低や、音楽や、つまりは振動数が定まって、エネルギーが出て、消えて、出て、消えて、出て、消えて、ということです。仏教用語でいう「生(しょう)「滅(めつ)です。

生滅は、波動を表しています。ものがあるわけではありません。音という何かがあるわけではありません。エネルギーとしては生滅、生滅、生滅、です。それを我々は音と言っています。



生滅の周波数が、どんどん、どんどん、高くなって、高くなって、高くなってくると、我々はそれを超音波と呼んでいますが、聞こえなくなります。さらに、さらに高くなるとどうなるかというと、我々はそれを光と言います。

物体についても、触れるとそれなりの周波数があるだけのことです。実際にあるのは、生(しょう)と滅(めつ)だけ。生まれる、消える。生まれる、消える。

耳についていえば、耳は物質ですから、耳があるということは、いつでも耳は、生まれて、消えて、生まれて、消えて、生まれて、消えて、その波動でいます。そこに音が生まれたとします。耳も物質として生滅を繰り返しています。耳が生まれた瞬間、音のエネルギーと、耳のエネルギーがぶつかります。瞬間的にぶつかったところで、認識が生まれるのです。

「あ、音だ」と認識します。

一つの波が出てきて、もう一つの波が出てきて、波がぶつかるのです。



ぶつかる場合は、その波が「生(しょう)」の状態、「有る」の状態でなくてはいけません。波が「滅(めつ)」の状態でいるときは、触れることは不可能なので、ふつうは認識しません。

ものごとの波動は生滅(しょうめつ)という言葉で理解します。また、「有(う)「無(む)という言葉で理解してもよいです。現象は「有」の状態にいるときは認識します。

音で言うと、音の波が「有」の状態で、耳も「有」の状態でいるとき、音が耳に触れます。それは「触(そく)と言うのです。「 触(そく)」は仏教の言葉であり、「パッサ(phassa)」と言います。



この触れること、「触(そく)」ということは、とても大事なことです。波が2つぶつかったら、どうなるでしょうか? 違う方向へ、違う波が生まれてしまうのです。それが心の波です。

「有」と「無」がぶつかると、心の波動がそれを認識します。そして、心の波動が周波数ではいちばん高いのです。

心の波動の周波数を説明するときに、われわれの知っているスピードを基準にするのが正しいことかどうかはわかりませんが、心の波動の周波数の速度は、光のだいたい17倍ぐらいです。いちばん速いとされる光の、およそ17倍の速さで心が生滅(しょうめつ)しているのです。ですから、本質的に心と物質とはすごく違うエネルギーです。



身体の「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」という波動が、外にある「色」「声」「香」「味」「触」という波動とぶつかると、そこで認識します。一方が「生(しょう)」、あるいは「有(う)」の段階にいて、一方も「有(う)」の段階でぶつかると、

「あ、音だ、音だ」

とか

「見える、見える」

「味わう、味わう」

「触れている、触れている」

などという認識になります。われわれの認識の世界は、ぜんぶ「有(う)」の世界です。私たちは、世界は「有る」と考えています。それは無理もない話です。音が「有(う)」の場合は聞こえているのだから。「無(む)」の場合はわかりませんから。



耳が「有(う)」で、音が「有(う)」のときに、ぶつかって認識します。

そして次に、耳が「無(む)」になり、音が「無(む)」になります。ぶつかっても認識しません。というよりも、ぶつかりません。どちらも「無い」のですから、ぶつかりっこありません。

そして次にまた、耳が「有(う)」になり、音も「有(う)」になるとまたぶつかって、それを認識します。ということは、われわれは「有る」ことしか知らないというわけなのです。ものの存在の一部しか知らないのです。半分しか知らないのです。すべての生命は「有(う)」だという邪見をもっています。邪見というより、間違った考えをもっています。



ものは「有る」けれど、魂はやっぱり「有る」けれど、神様はやっぱり「いる」のでしょうけれど、それは半分の世界です。仏教は、そういう「有(う)」と「無(む)」の論を語りました。

それが大乗仏教では、法身(ほっしん)という概念が出てきて、大宇宙を支配している法身如来、大日如来がいると言ったりしています。そこまで「有(う)」論は発展しました。初期仏教の、世界は「有(う)」と「無(む)」からできているというポイントからみれば、それは正しいとは言えません。

とかく人間は「有(う)」論しか語れません。「有(う)」論しか考えることができません。実際、「有る」ことは「有る」のです。でも、ものには「有る」だけではなくて、「無い」状態もあるのです。



瞑想していると、音は波であることが身にしみてわかります。生滅(しょうめつ)、生滅(しょうめつ)しています。自分の身体も瞬間、瞬間、生滅(しょうめつ)していることがよくみえてきます。

同じ音に対して、ときには良い音だととらえたり、ときには気持ち悪い音だととらえたり。同じ味に対しても、良い味だと思ったり、あまりおいしくない味だと思ったりしますね。ずーっと、波の流れ、生滅する流れがあることが、どんどんみえてきます。みえても残念ながら悟りは開けないのですが。

ずーっと瞑想を続けていくと、認識が変わってきます。ここに音があれば、それはいつでも「有る」と「無い」とであることがわかります。耳があれば、やはり「有る」と「無い」状態があるとわかります。



たとえば耳なら、耳の感覚がどんどん鋭くなって、徹底的にものすごくシャープになって、なんでも認識できる状態にまで観察の力が強くなります。そうなるためには、余計な思考や妄想はほとんどなくなっていないとできません。

そのとき、ちょっとしたズレが起こるのです。そのズレは、じつはいつでも起こっていますが、普段は気づきません。

たとえば、耳が「有(う)」で、音も「有(う)」であるとき、音を認識します。耳でも音でも一つが「無(む)」になったら認識しません。ズレというのは、耳が「有(う)」の瞬間なのに、音が「無(む)」の瞬間です。

妄想がほとんど消えている人は、これに気づくのです。初めて「無(む)」の存在も知るのです。初めて現象の「滅(めつ)に気づくのです。



これこそが革命的な発見です。

今まであった実体論、魂論、自我意識…、それらが

「ただの勘違いでした」

「幻覚でした」

と瞬時にわかります。







これは、簡単に説明すれば悟りの第一段階です。

「生(しょう)」と「滅(めつ)」の両方を認識できる瞬間まで進むためには、いくつかの智慧の段階を進んでいかなくてはなりません。実況中継(ヴィパッサナー瞑想)さえしていけば、悟りに達するまでの過程は自然に起こります。

普通の状態では、ものごとがすべて生滅(しょうめつ)、有無(うむ)であっても、無い状態は見えないし、わかりません。でも、瞑想して、瞑想して、徹底的に感覚が鋭くなったら、「有(う)」もみて、「無(む)」もみえます。「無(む)」も体験します。体験したら、

「なるほど、実体が無いのだ、ものごとは波動だ」

と思います。悟りの第一段階が生まれます。



いつも耳で聞く音の聞き方は「有(う)」だけ選んでいます。でも波動なので、いつでも2つのものの波長が合っているわけではありませんから、時間のズレは絶えず起こっています。ただ、それを悟らないでいるだけです。

瞑想をずーっと続けて、徹底的に観察が鋭くなったら、ものごとが存在しない瞬間をつかまえます。そこで初めて、実体論、自我論、有身見(うしんけん)が消えます。自分の体験として理解するので、その後でどんな哲学を言われても、どんなお説教をされても変わりません。心が変わってしまうのです。

存在しない瞬間を体験でつかんだら、ものごとは実体として存在すると思わなくなります。それは悟りという体験です。それはかなり大変なことで、かなり修行が進んでいないと経験できません。本当は「存在しない瞬間を経験する」などということは、生命には絶対不可能というぐらいのことです。「有る」ものはつかめるでしょう。でも、「無い」ものをつかめということですから、本当は不可能です。それを一生懸命にやって可能にするのです。





これこそが科学的な瞑想実践です。

主観を絶って、真理に達する方法です。

悟りを開けるかどうかはさておき、まずは実況中継(ヴィパッサナー瞑想)という、笑えるほど簡単な実践を行ってみましょう。





これは、巨大な力をもっている心の能力を妨げる障害を取り除く方法です。心を清らかにする方法です。








引用:アルボムッレ・スマナサーラ
現代人のための瞑想法―役立つ初期仏教法話〈4〉 (サンガ新書)