2016年3月26日土曜日

「あなたを、なだめたくて」 [ノリーナ・ベンツェル]



話:クリストファー・マクドゥーガル




私にとってのアラビアのロレンス --

ヒロイズムは美徳ではなくスキルだ

と初めて気づかせてくれた人物-- は、ペンシルヴェニア州の片田舎で小さな小学校を運営する大きな丸眼鏡の中年女性だった。





2001年2月2日、ノリーナ・ベンツェルが校長室にいたとき、山刀(マチェーテ)をもった男が校内に併設された幼稚園の園児たちに襲いかかった。

そのあとに起きたことを知ってから10年、私は今になってようやくある疑問の答えがわかりはじめている。

なぜ、彼女はあきらめなかったのか?

戦闘経験のない42歳の小学校校長が、逆上した陸軍退役軍人を相手に、木の枝も真っ二つにできる刃物で切りつけられながら、どうやって戦いを --執拗に、素手で、160cmという小柄な身体で-- つづけられたというのか?

立ち向かう不屈の精神があったことも驚きだが、本当の謎は

勝ち目はないとすぐにわかったはずなのに、どうやって食い下がったのか

だ。というのも、それがヒロイズムにつきまとう忌まわしい真実だからだ。試練がスタートするのに、こちらの準備を待ってはくれないし、疲れたからといって終わるわけでもない。タイムアウトもウォーミングアップもトイレ休憩もなしだ。

たまたま頭痛がする日のことものあれば、ふさわしいパンツをはいていないこともあるだろうし、あるいは気づくと --ノリーナのように-- スカートにローヒールの靴という格好で学校の廊下にいて、足元の床が自分の血でみるみるうちに滑りやすくなっているかもしれない。



マイケル・スタンキウィッツは、ボルティモアのハイスクールの社会科教師で、3番目の妻に去られてから怒りと被害妄想でいまにも破裂しそうになっていた。脅迫行為が原因で解雇され、入院させられ、あげくには投獄された。

釈放後、彼はマチェーテ(山刀)を手にし、ペンシルヴェニア州ヨーク郡の静かな田園部にあるノースホープウェル・ウィンターズタウン小学校に車を走らせた。そこは以前、義理の子供が通っていた学校だった。



昼休み直前、ノリーナ・ベンツェルがふと窓の外に目をやると、ふたりの子供を連れた母親の背後に、入り口から忍びこむ人影が見えた。何者か確かめにいくと、見知らぬ男が付属の幼稚園をじっとのぞいていた。

「失礼ですが」

ノリーナは言った。

「どなたかお探しでしょうか?」

スタンキウィッツが向き直り、ズボンの左脚からマチェーテ(山刀)を引き抜いた。それをノリーナの喉元に切りつけると間一髪はずれ、首から下げたプラスチック製のIDカードが切り裂かれた。

悲しくもやけにはっきりした考えが彼女の頭をよぎった。まわりに助けてくれる人はいない。ここにいるのは自分ひとり。

つぎの数秒間にどうするか

で、誰が生きてこの学校を出るかが決まる。



ノリーナは悲鳴をあげて逃げてもよかった。

身体を丸めて慈悲を乞うことも、スタンキウィッツの手首に体当たりすることもできただろう。だが彼女は

腕を顔の前でX字形に交差させ、後ずさりした。

スタンキウィッツは、なおも切りつけ切り裂こうとしてきたが、ノリーナは攻撃をかわし、相手から決して目を離さず、差をつめて倒そうとするのを許さなかった。



ノリーナスタンキウィッツを誘い出して教室から遠ざけ、廊下を校長室に向かった。そしてどうにか部屋に入ると、ドアのボルトをかけ、深傷(ふかで)を負った血まみれの手で、室内待機警報を作動させた。

一瞬おそかった。

ちょうど園児が何人か教室から出たところで警報が鳴ったのだ。

スタンキウィッツはその園児たちに襲いかかった。教師の腕に深傷を負わせた彼は、女児ひとりのポニーテールを切り落とし、男児ひとりの腕を折った。



園児たちは校長室のほうに逃げ、そこでノリーナはまたスタンキウィッツと対峙した。

マチェーテ(山刀)が両手に深く切りつけられ、指が2本切断された。ノリーナはもはやこれまでと見え、スタンキウィッツは新しい犠牲者を求めて振り返る。

ノリーナが跳んだのは、そのときだ。

抱きついて両腕を巻きつけ、ありったけの力でしがみつくと、男はジタバタもがき--

カタッ

マチェーテ(山刀)を落とした。養護教諭がつかみ、廊下へ隠しに駆けだした。スタンキウィッツがよろよろとデスクに倒れこんでも、ノリーナはまだ背中にかじりついていた。



まもなくサイレンと雷鳴のような足音が近づいてきた。

ノリーナは血液を半分ちかく失ったが、病院に担ぎこまれて一命をとりとめた。

スタンキウィッツは投降した。



この衝撃後の数日間には、”運”と”勇気”が語られることが多かった。だが、さまざまな要因のうち、いちばん重要でなかったのがこの2つだ。

勇気はあなたを苦境に追いやる。必ずしもそこから脱出させてくれない。そして、相手がすべって転びでもしないかぎり、マチェーテ(山刀)を手に襲いかかってくる男と戦って勝つことに、運はなんの関係もない。

ノリーナ・ベンツェルが生き延びたのは

一連の決断を即座に、ありえないほどの重圧がかかるなかで下し、その成功率が生死の分かれ目となったから

だ。





腕を交差させて後ろに下がったとき、彼女が本能的にとったのは、まさしくパンクラティオンで推奨される姿勢だった。

この古代ギリシャのルールのない格闘技は、第二次世界大戦中に”天の双子(heavenly twins)”ことビル・サイクスとウィリアム・フェアベアンに採用され、現在もその接近戦のテクニックが特殊部隊につかわれている。

ノリーナはあわてて足がもつれることも、行き止りに逃げこむこともなく、

わざと後退する作戦

を採った。アドレナリンが限界値に達するままにしていたら、エネルギーが燃え尽きて、打つ手はなくなっただろう。ところがガス欠になったのはスタンキウィッツのほうで、ノリーナは待っていた好機をものにすることができたのだ。



身体の強さや体格、残忍さの勝負になっていたら、ノリーナは手も足も出なかった。そこで力をぶつけ合う代わりに、彼女はもっといい解決策をみつけた。

筋膜、つまり皮膚の内側で身体を包んでいる繊維質の結合組織を頼った

のだ。人間の上半身には、胸を横切り一方の手からもう一方の手にまで走る帯状の筋膜がある。スタンキウィッツを両腕で包むことで、ノリーナ

その筋膜の輪を閉じた。

いわば人間投げ縄となって、スタンキウィッツの腕を太いゴムケーブルで縛り、彼の力を無効にしたわけだ。



だが、そうするために、ノリーナはまず自分の扁桃体を制御しなくてはならなかった。

扁桃体は恐怖の条件づけに関わる脳の部位だ。そこは長期記憶にアクセスし、過去にやったことのなかに現在やろうとしていることと似たものがないかスキャンする。

もし一致するものがヒットしたら、先に進んでいい。筋肉はほぐれ、心拍数は安定し、疑念は消える。だが過去に、たとえば高い木から下りた形跡が見つからなかった場合、扁桃体は神経系にその行為を中止するよう圧力をかける。

扁桃体こそ、人が消防士の用意したハシゴに乗らずに焼け死に、ライフガードの首から手を放そうとせずに溺死する原因だ。5歳のころは自転車に乗るのがむずかしいのに、5年ぶりに乗るのはたやすい理由でもある。一度おぼえたら、扁桃体はその行動を認識してゴーサインを出す。

あなたの扁桃体は判断しない。反応するだけだ。

だから扁桃体を詭計(トリック)にかけることはできない。訓練(トレーニング)するしかないのだ。



ほとんどの人は、いくら強くても、また勇敢であっても、マチェーテ(山刀)で襲撃されるという異常事態に見舞われたら扁桃体が圧倒され、その場で動けなくなる。

ノリーナが天才的だったのは、自分のスキルに合った戦略を見つけたことにあった。戦うことはできなくても、抱きしめることなら得意だ。

腕で人を包みこむのは慣れた動作だから、感覚器も反対しなかった。

ノリーナがそのハグをやってのけたのは、直感的にひらめいたからだ。つまり、スタンキウィッツの怒りを抑えつけるのは無理でも、鎮めることならできるんじゃないか、と。



「私は、あなたの身体に腕をまわしました」

マイケル・スタンキウィッツに判決が下された日、彼女は証言台から被告にそう告げる。

「あなたを、なだめたくて」

スタンキウィッツは、じっと彼女を見つめた。

そして声に出さずに「ありがとう」と口にすると、禁固264年の刑に服するために連れていかれた。





では、マチェーテ(山刀)をもった狂人の襲撃に、どう備えたらいいのか?

その質問は私の口をついて出るとバカみたいに感じられるし、状況を考えれば無作法といってもいい。私は今、ノリーナの学校にいる。あの襲撃からようやく一年といったところだ。だがノリーナも内心、ずっとおなじことを自問してきた。

「外で話しましょう」

と彼女は提案する。上品で上機嫌、子供たちに魅了されている彼女は、教師となって17年がたった今も、休み時間にはしゃぎまわる彼らを、仕事の合間に眺めるのが好きだ。

腕は、稲妻のような傷跡に覆われている。

4回の再建手術をへて、手の機能はだいぶ回復したものの、まだ自分の手という感じはしない。いつも冷たく痺(しび)れ、こんな暖かい秋の午後にもカイロを握りしめたままだ。それでも、夫や子供たちとまた手をつないだり、ペン州立大ブルーバンドの同窓会でアルトサックスを吹いたり、運動場でわれわれの姿を見るなり駆け寄ってくる児童の髪をクシャクシャにすることはできる。



「おかしな話に聞こえるでしょうが、

あの日は準備ができていたのです

」とノリーナは言う。

そうだったに違いない。彼女は落ち着いていて、理性的で、強かった。パニックを起こすことも、死を受け入れるつもりもなく、選択肢を検討し、次にどう動くかプランを立てていた。彼女の反応は行き当たりばったりだったのではない。

自然で、意図的だった。

意図的どころか、「天から導かれた」感じだったという。ただ実際は、内面から導かれていた。彼女は何をすべきか知っていて、

身体はそれをどのようにすべきかを知っていた

のだ。



「この子たちを大切にするという理由で、わたしを英雄とお呼びになるなら、それもけっこうです。でも、

毎日仕事でしていることです

」とノリーナは言う。これは興味深い手がかりだ。



彼女が落ち着いていたのは、状況が熱を帯びたときに冷静でいられる訓練を積んだ終生の教師だからだろうか?

視線を合わせたままだったのは、かんしゃくを起こす子供や興奮した親に毎日そうやって接しているからだろうか? 

手がサックス吹きとして何十年も練習した位置に上がったこと、そして彼女が両腕で攻撃をそらしたり防御したりする両手利きだったことは偶然だろうか?



ほんの数分、彼女と校庭にいるだけで、この子たちのために死ぬまで戦おうとした理由はわかる。

依然として不可解なのは、とりわけノリーナにとっては

なぜ勝てたのか

だ。







引用:ナチュラル・ボーン・ヒーローズ―人類が失った"野生"のスキルをめぐる冒険




2016年3月24日木曜日

脂肪と筋膜 [Natural Born Heroes]



話:クリストファー・マクドゥーガル







ナチスでさえクレタ上陸時には、

まったく異質な戦い

に突入したことに気づいていた。戦争犯罪で死を宣告された日、ヒトラーの最高司令部総長は、ニュルンベルク裁判の判事たちのせいにはしなかったし、敗戦を兵士のせいにせず、失望を総統のせいにすることもなかった。彼らが責めたのは

〈英雄たちの島〉

だったのだ。

「ギリシャ人の信じがたいほど強力な抵抗に遭い、ドイツのロシア侵攻には2ヶ月以上の致命的な遅れが生じた」

とヴィルヘルム・カイテル将軍は、絞首刑に処させる直前に嘆いた。

「この大幅な遅延がなかったなら、戦争の結末はちがっていた…。今日ここには、ほかの人間が座っていただろう」

そして、ギリシャのどこよりも独創的で、迅速で、我慢強いレジスタンスが展開されたのが

クレタ島

だった。とすると、彼らはいったい、どんな手を使ったのだろう?





その問いが謎ではなかった時代があった。

人類の歴史上、長きにわたり英雄の技術(Art)とは、なにか偶然に身につく類いのものではなかったのだ。それは最適な栄養、肉体のセルフコントロール、心を整えること(Mental conditioning)に徹した、多分野にまたがる努力の賜物だった。英雄のスキルは研究され、訓練され、磨きあげられ、親から子、教師から生徒へと受け継がれた。

英雄の技術とは勇敢であることではない。

要求にかなう能力があることであり、勇敢さはそこでは関係なかった。大義のために倒れることがあってはならず、けっして倒れないための手立てを見つけることが目標だった。

アキレウス(アキレス)やオデュッセウスをはじめ、古典的な英雄は死ぬという考えを嫌い、人生の一瞬一瞬を切り開いていった。英雄が不滅となるチャンスはひとつ、闘士(champion)として記録されることで、チャンピオンというのは愚かな死に方をしない。すべては、強さ、耐久力(endurance)、敏捷性(agility)といった、

自分がそんなものを持ち合わせているとは多くの人が気づいていない、とてつもなく豊かな資質

を解き放つ能力にかかっていた。



英雄たちは、糖の即効性に頼るという、現在おなじみのやり方ではなく、

体内の脂肪を燃料にする方法

を身につけた。あなたの身体のざっと5分の1は、蓄積された脂肪だ。それは上質な熱エネルギーで、点火されるのを待っていて、食べ物をまったく口にしなくても山を登り下りするのに余りあるほどのパワーがある。ただし、そのやり方を知っていれば。

Fat as Fuel
燃料としての脂肪

という秘訣を、耐久レースに挑むほとんどのアスリートは忘れているが、これを復活させると目覚ましい効果が得られる。史上最も偉大なトライアスロン選手、マーク・アレンが大躍進を遂げたのは、

炭水化物の代わりに体脂肪を燃焼させる方法

を発見してからだ。それは競技に対する彼のアプローチを一新させ、アレンはアイアンマン世界選手権を6度制覇、出場したほぼすべてのレースで3位以内に入り、1997年には「世界一壮健な男(World's fittest man)」と認められた。



英雄たちは筋肉で身体を大きくすることもなかった。代わりに頼りにしていたのが、

身体のゴムバンドともいえる強力な結合組織、筋膜

の無駄のない効率的な力だ。





 ブルース・リーは、女性が創始した唯一の武術、詠春拳に魅せられるまでは並みの武術家だった。詠春拳は筋肉の代わりに

筋膜の伸縮力

を使う。ブルース・リーは筋膜のパワーを利用することに熟達し、寸打(One inch panch)を完成させて、拳をかすかに動かすだけで、自分の2倍の体格の男を部屋の向こうへ突き飛ばしてみせた。

筋膜の力は誰にでも平等に具わった、尽きることのない資源

だ。これこそマサイ族の戦士がジャンプの儀式で頭の高さまで跳ねることができる理由だし、史上最も破壊力があるといえる護身術、ギリシャのパンクラティオンとブラジリアン柔術の真髄にもなっている。





英雄は不測の事態に対処できなければならなかった。

彼らは”自然な動き(Natural movement)”を練習することで、脳の扁桃体を鍛えた。ナチュラル・ムーブメントこそ、かつて人類が知っていた唯一の動き方だ。人間は、さまざまな地形をなめらかに移動できなければ生き延びることすらままならなかった。行く手に障害物があれば、身体を曲げてよけ、果敢に跳んで正確に着地しなければならなかった。

1900年代前半、フランスの海軍将校ジョルジュ・エベルはひたむきにナチュラル・ムーブメントの研究に取り組んでいた。子供たちが遊ぶ様子、--走ったり高いところに登ったり取っ組みあいをしたり-- を見て、

自発的で即興的な動き

の重要性を理解するようになったのだ。エベルからナチュラル・ムーブメントを学んだ弟子たちは、強さ、速さ、敏捷性、耐久力のテストで、世界クラスの十種競技選手にひけをとらない得点を記録した。



だからこそギリシャ人は英雄の出現を待たなかった。代わりに自分たちでつくりあげたのだ。

彼らが完成させた英雄食は、空腹を抑え、力を高め、体脂肪を高性能燃料に変換する。ギリシャ人は恐怖やアドレナリンの放出を制御するテクニックを開発し、筋肉よりもはるかにパワフルで効果的な身体の弾性組織、筋膜に秘められた驚異的な強さを活かすことを学んだ。2000年以上もまえに、

われわれ誰もの内にいる英雄

を解き放つことに本気で取り組んだのだ。そしてそのまま、彼らは姿を消した。





英雄のスキルは、いまやバラバラになっているが、少し探せばどれも見つかる。

ブルックリンの公園の茂みに分け入った元バレリーナは、古代ギリシャ人が頼りにしていたのと同じスーパーフードを買いもの袋いっぱいに詰め込んで戻ってくる。ブラジルでは、かつての海辺の行商人がナチュラル・ムーブメントの失われた技術を復活させているところだ。さらに、アリゾナ州の人里離れた黄塵地帯オラクルでは、寡黙な天才が偉大なアスリート数人、--そしてなぜか音楽畑のジョニー・キャッシュとレッド・ホット・チリ・ペッパーズ-- に

体脂肪を燃料として使う古来の秘密

を教えてから砂漠へと消えた。



だが、最高の学習ラボは敵陣の山中の洞窟にあった。第二次世界大戦中、ギリシャの羊飼いたちと英国の若いアマチュアたちの一団が、10万人のドイツ軍と戦う計画を立てた場所だ。

彼らは生まれついての強靭な身体をもつわけではなく、専門の訓練を受けたわけでも、勇敢さで知られていたわけでない。お尋ね者で、見つかりしだい即刻処刑だと宣告されていた。

ところが彼らは、断食すれすれの食事だけで突き進むことができた。追跡され、つけねらわれるうちに、より強くなっていた。

Natural Born Heroes
生まれついての英雄たち

となり、史上最大の英雄オデュッセウスにならって、自分たちなりのトロイの木馬を企てようと決意したのだ。それは決死のミッションだった。誰にとっても、つまり、この古代の技術を習得していない者にとっては。







引用:ナチュラル・ボーン・ヒーローズ―人類が失った"野生"のスキルをめぐる冒険




2016年3月7日月曜日

予期せぬ偶然 [石川直樹]


話:石川直樹





写真の面白いところは、予期せぬ偶然が写りこむこと

ぼくは撮影に向かう際、漠然を行き先を決めることはあっても、撮りたい写真のイメージを事前に固めることはありません。なぜなら、狙ったものを思い通りに撮れたときほどつまらないものはなくて、撮る前に意図していた通りになんて絶対撮りたくない。

自分が気づかなかったものまで写り込むからこそ、写真は面白いと思っていますし、予想とは違うものに出会うから旅は楽しいわけです。





旅をするとき、ぼくは常に出会いがしらの偶然を大事にしています。

風景を目の前にして、何かを待ったりせず、演出したりせず、何かと出会って、自分の体が反応した風景をそのまま撮る。

雨が降っていれば雨の風景を撮り、曇っていたら曇りの風景を撮り、たまたま晴れていたら晴れの風景を撮る。天候待ちなんてしません。

自分の主観で目の前の世界をねじ曲げたくないんです。

だから、意識的にフレーミングするというよりは、反応だけでシャッターを切る。ただ、そこにあるものをそのまま撮る。それは案外難しいことでもあって、でもそうした撮り方がぼくの写真の根底にあるんだと思います。









引用:CANON PHOTO CIRCLE 12月号
石川直樹「Encounter Nature 日本の風土」




写真の強さ・やさしさ、「縦軸の未知」 [竹沢うるま]


話:竹沢うるま & 長倉洋海








長倉 竹沢さんは3年かけて世界一周したんですよね。なぜ旅に出ようと思ったんですか?

竹沢 行きたい理由は、いまだに自分でも分かってないんです。衝動としか言いようがないですね。ただ、当初は1年で帰るつもりだったのが、結局その衝動を消化するのに3年必要でした。

長倉 旅のなかで変化したことはありましたか?

竹沢 先ほど未知のものに興味があると言いましたが、旅をはじめた当初は、知らない場所を訪ねるといった、地理的な未知を求める旅だったんです。しかし、世界中の僻地で暮らしている人たちと出会い、過酷な環境でも生命力に満ち溢れている彼らの姿を見て、その心の中や生きる力の源を知りたいと思うようになったんです。

地理的な未知が「横軸の未知」なら、心の中の未知は「縦軸の未知」

と言えると思うのですが、旅のなかで僕が追い求めるものが、横軸から縦軸に変わったんです。





竹沢 写真って、強さか優しさのどちらかに偏るものだと思うんですね。そして、

強さが写っているいる写真は客観性が際立ち、優しさが写っているものは、その人の主観が感じられる。








引用:CANON PHOTO CIRCLE 12月号
「世界を撮り続ける写真家2人が語る」


「絵文字の著作権を放棄します」 [勝見勝・東京オリンピック]


話:村越愛策





東京オリンピックは絵文字で


1960年の春、東京オリンピックを4年後に控えた日本の組織委員会のなかに、デザイン懇話会が設けられました。その座長に、冒頭に紹介した勝見勝先生が選ばれたのです。勝見先生は

「地球のあらゆる地域から人々が集まり、さまざまな言語が飛び交う国際行事では、たとえ公用語が決まっていても視覚言語の役割は大きい」

として「デザイン計画はすべてそれに基づく」というポリシーに沿って進めることを提案されました。



1964年の大会終了後、その結果は各国関係者に大きな影響を与えることになったのです。スイスで発行されていたグラフィック・デザインの専門誌『グラフィス=GRAPHIS』は

「1949年の国際道路標識は、部分的な成功を収めた実例であるが、この種のシンボルはあらゆる人種と文明のなかで容易く識別されなければならない。こうした課題のすべてが1964年に開催された東京オリンピックによって提起された。

旅行者で日本語のわかる人は例外であり、70ヵ国以上の参加者にとって唯一の共通点はシンボルのみである。勝見勝氏をリーダーに、若いデザイナーたちがスポーツをはじめ各種の施設シンボルのデザインに当たったが、これらのシンボルが次の大会にも採用されることによって、万国共通の視覚言語として磨き上げられることを望んでいる」

と記しています。





「わたしは直接オリンピックの仕事をしておりませんが、同じ時期に日本の表玄関となる東京・羽田空港のサインや絵文字にたずさわっていました。オリンピック以前の日本には、アメリカ人を除くと外国人が比較的少なかったためか、英語の案内だけでした。

しかしオリンピックとなると世界中から人々がやってきます。そのときに英語からフランス語、スペイン語、ロシア語、中国語、ドイツ語など、と各国語で場所などの案内を表記するのは不可能です。それで勝見先生は『絵文字をつくろう』と提案したのです」

これは2011年、小学館から出版された野地秋嘉氏の著書『TOKYOオリンピック物語』のなかの私の言葉です。同書には続けて

「オリンピックの絵文字は12人のデザイナーが3ヶ月かかって製作した。作業が終わったとき、勝見は『諸君、まことにありがとう』と頭を下げた。その後、書類を配り『皆さんのサインを下さい』と言った。書類の中身を確かめると、そこには

『私の描いた絵文字の著作権を放棄します』

と記されていた。これに戸惑うデザイナーたちに勝見は言った。

『あなたたちの仕事は素晴らしい。しかしそれは社会に還元すべきものです。誰が描いたものとしても、これは日本人のやるべき仕事なんです』

」と、野地氏が同書に後述しています。



勝見氏はまた、次のような言葉を残しています。

「わが国には視覚言語などという生硬な語呂よりも前に、ちゃんと『絵ことば』という用語があり、また紋章という世界でも最も完成した視覚言語の一体系が存在していた。オリンピックは国際的な広がりをもち、条件もきわめて複雑多岐にわたっていたが、本質においては紋章と同じであったと思っている。

ただ戦後の視覚文化の国際的風潮を踏まえてサイン言語の重点的使用に踏み切らせたものは、私のなかの文明批評と時代感覚だったといえるかもしれない」

と。








引用:絵で表す言葉の世界―ピクトグラムは語る (KOTSUライブラリ)



アララト山の宇宙人


話:村越愛策




気も遠くなるような永いあいだ、地球という星を見てきた宇宙人の長(おさ)は

「あの星はどうなってるんだ?」

ということで、地球人そっくりさんに命じて「またチョッと行って見てこい」と指令を出した。宇宙船が地球に近づくと、一面の青い海と赤茶けた大地のほかには何も見当たらない。着地しようとして

「何か目印はないか?」

と見回すと青い海が南東から北西に帯状にあり(ペルシャ湾、約200km×900km)、その延長線上に、雪を頂いた山が見えた。

「おっ! これは格好な目標だ」

ということで着陸。あとになって我々がわかったのは、ここが肥沃な三日月地帯といわれる、人類が文明というものをもった初めての地だったのである。目立つ雪を頂いた山は、トルコとイラクの国境にある旧約聖書で有名なアララト山(5,165m)である。





さて、宇宙船で飛来した女性たちは、のちにメソポタミアと呼ばれる地域の男たちに愛されたようだが、彼女たちは豊満な体つきをして優しい物腰で喜びを全身であらわした、とは、粘土板に書かれた叙事詩の主人公・ギルガメッシュ王の言葉である。ところが、この王様が実在の人物であったかどうかは定かではない。

日本ではその昔、天皇のことを「すめら・みこと」といったが、それはどうも「シュメルのみこと」が語源らしい。スメラ、スメロ、シュミとは、シベリア、モンゴルからウラル、インドといった広大な地域で「世界の山」を意味しているそうだ。高いもの、崇拝するものがシュメルなのである。



20世紀の初めに、イラクから半欠けの粘土板が出土した。それに書かれた楔形文字を解読したところ、粘土の円盤に書かれているのは、2時から8時方向へは

「地球への飛行方法」

であるらしい。5時半あたりに「現在のペルシャ湾とそっくりの図」がある。8時から2時にかけては

「宇宙への帰還方法」

で、9時にセット、その右が「ロケット」、その右が「上昇」「山」とつづき、「投下」「完了」とある。9時半の三角部には「神エンリルは数々の惑星を通り抜けた」とあり、「火星」「木星」とつづく。10時半には「高く高く蒸気の雲」と読めるそうだ。

なお、円盤の中心はアララト山ではないかと推測されている。





上記は『銃・病原菌・鉄』の著者、ジャレド・ダイヤモンド博士によるが、彼は宇宙人の存在を確信しているようだ。一万年前に飛来した宇宙人は、メソポタミアの肥沃な三日月地帯がまだ混沌としていたので、その千年後に飛来して初めて人類と接触したらしい。

博士は、この地帯が農耕に適した最初の地域だった、と同書で詳しく述べている。さらにアフリカで生まれた人類の進歩があまりにも遅々としていたことから、宇宙人はこの地で人類の進歩を促したのではないか、と彼は記している。







引用:絵で表す言葉の世界―ピクトグラムは語る (KOTSUライブラリ)




2016年3月4日金曜日

「地図が不可欠の国」、日本


話:村越愛策




評論家の加藤周一氏(1919~2008)が、1982年9月のA紙文化欄に

「日本社会の七不思議」

として述べている中の

「地図が不可欠の国」

というところに目が止まりました。



いわく

「道路に名前が無く、目立つのは第一に商品の広告、第二に哲学的な標語であり、日本は道路標識の体系を伴わずに道路網を発達させた、おそらく世界唯一の国であろう。

さらにそれが不便ではないからではなく、現に集会の通知に番地だけでは誰も来られそうもないので、地図を同封している。

また、標識をつくる金がないからではない。標識をつくる費用は、道路建設に比べればタダのようなものである。

(中略)

なぜ標識を嫌うのか、少なくとも私には分からない…」

と。






引用:絵で表す言葉の世界―ピクトグラムは語る (KOTSUライブラリ)