2018年4月30日月曜日

思考によって脳はどう変化するのか?【脳の記憶術】


話:レイ・カーツワイル




脳スキャンが、樹状突起スパインの成長や、新シナプスの形成を検知できるほどの高解像度を達成したことから、われわれの脳が、文字どおり我々の思考を後追いすべく、成長し、適応していくさまを目にすることができる。

これにより、デカルトの格言「われ思う、ゆえにわれあり」の意味に新たなニュアンスが加わった。



アラバマ大学のエドワード・タウブは、手の指からの触覚入力の評価をつかさどる皮質の領域を研究した。

楽器の演奏経験のない人と、弦楽器の演奏家とを比較すると、右手の指の操作をつかさどる脳の領域に差異は見られなかったが、左手の指の領域については大きな差が見られた。触感の分析につかわれる脳組織の量に比例した大きさで両手の絵を描いたなら、音楽家の左手の指(弦を押さえるほう)は馬鹿でかくなる。

弦楽器の練習を子どものころから始めた人のほうが違いは大きかったが、「40歳でバイオリンをはじめたとしても、脳の再組織化はおこる」とタウブは述べている。



「人間は、受け取る入力をもとにして、脳を作りあげていくのです」と、ポール・タラル(ラトガーズ大学)は言う。



脳が自身を配線し直すきっかけを与えるには、思考を身体の動作で表現する必要さえない。

ハーヴァード大学のアルヴァロ・パスクァル-レオネ博士は、ボランティアの人々に簡単なピアノの練習をしてもらい、練習の前と後の脳をスキャンした。ボランティアたちの脳の運動皮質は、練習の影響を直接うけて変化した。

博士はその後、2番めのグループに、ピアノの練習をしていると考えるだけで、身体の筋肉はどこも実際には動かさないよう指示した。これでも、運動皮質のネットワークには、同じくらい顕著な変化があらわれた。



マイケル・A・コリコスは言う。

ニューロンの長期にわたる変化は、1時間の学習コースのなかでニューロンが4回刺激されて初めて起こる。シナプスが実際に枝分かれし、新しいシナプスが形成され、永続的な変化がおこり、おそらくは、生涯それが続くことになる。

人間の記憶になぞらえるとこうだ。

なにかを1度、目にしたり聞いたりすると、そのことは頭の中に数分は残るだろう。重要なことでなければ、だんだんぼやけていき、10分後には忘れている。しかし、もう一度それを見たり聞いたりして、1時間の間にそれが何度も起こったら、もっと長い期間にわたってそのことを覚えていることになる。何度も繰り返された事柄は、生涯にわたって忘れないこともある。

ひとつの樹状突起に2つの結合が新たに作られたら、その結合はとても安定していて、失われてしまう恐れはまったくない。こういうものが、一生涯にわたって続くと期待できる種類の変化だ。






From:
ポスト・ヒューマン誕生 
コンピュータが人類の知性を超えるとき
レイ・カーツワイル (著)

アストロドームとムーンライトテントの連結方法【モンベル】


From:
アストロドーム取扱説明書【モンベル】




モンベル
Mont-bell
アストロドームムーンライトテントの接続方法
Astro Dome
Connecting a Moonlight Tend


アストロドームは、3ヵ所にムーンライトテント3型・5型・7型が連結可能。



アストロドームSは、1ヵ所にムーンライトテント3型・5型のいずれかを連結可能。



1.組み立ててペグで固定したアストロドーム出入口のメッシュ生地のジッパーを全開にし、メッシュ生地だけをトグルで留めます。

If the Astro Dome is staked down, unzip the entrance's mesh door and secure with the toggles.


2.アストロドーム外側の出入口のジッパーを開け、全開にします。

Unzip and open the entrance's outer door.



3.ムーンライトテント入口の上端を、アストロドーム出入口に合わせます。

Line up the top of the Moonlight Tent's entrance with the entrance of the Astro Dome.



4.アストロドームムーンライトテントの隙間を埋めるために、アストロドーム入り口のジッパーを、ムーンライトテント入口の上端の高さに合うように閉めます。

Pull the Astro Dome entrance's zipper down to meet the top of the Moonlight Tent.



5.アストロドーム外側の生地と、ムーンライトテントフライシートを一緒に巻き上げます。

Take the Moonlight Tent's rainfly and the Astro Dome entrance, and roll them up together.



6.ムーンライトテントフライシートのトグルを、アストロドームリングに通します。

Take the Moonlight Tent's rainfly toggle and loop it through the Astro Dome's ring.



7.巻き終えたムーンライトテントフライシートの末端部のSカンを、ムーンライトテントコーナーのリングに接続させます。ムーンライトテントもペグで固定してください。

Connect the Moonlight Tent rainfly's hook to the ring on the bottom corners of the Moonlight Tent. Stake the Moonlight Tent with pegs.




2018年4月29日日曜日

捨てられた原稿4万枚、「怒ったって出てこないでしょう」【中村元】


From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)





●4万枚の原稿行方不明事件を乗り越えて


『佛教語大辞典』の原稿は、19年かけて1967年に完成した。中村元が、オーストリア学士院遠隔地会員に選ばれた年である。200字詰め原稿用紙、約4万枚に約3万語が収録されていた。

その原稿を木製のリンゴ箱に入れて、出版社に渡した。ところが、その年の12月初め、出版社がリンゴ箱に入れた原稿を紛失してしまった。出版社の社長が重病になり、間もなく亡くなった。そこへ、都の道路拡張のために移転命令が出た。移転騒動の混乱のなかで原稿が行方不明になってしまったのだ。

古紙回収業者から製紙会社までのリサイクル関係者に探してもらったり、新聞やテレビなどのマスコミを通じて、「見つけたら届けてください」と懸賞金つきで呼びかけたが、出てこなかった。引っ越し騒ぎのドサクサの中であったためか、どうもゴミと間違えて出されてしまったようだ。


出版社の人が謝りに来たが、中村は怒らなかった。

「怒ったって出てこないでしょう」

というのだ。しかし、一ヶ月ほどは呆然として何も手につかなかった。中村は、その時のことを振り返って、

「まるで土足で顔を踏みつけられたような感じがしたのは確かである」

と語った。そんな時に、原稿の整理を手伝った洛子夫人が

「あなた、ボーッとしていてもしょうがないでしょう。やり直したらどうですか」

と言った。

「早くやり直したほうがよい」と言った人がもう一人いる。中村敏夫だ。すでに述べたことだが、中村元は、東方学院の講義の最中に、この中村敏夫の名前をしばしば挙げて、”実力主義の人”と評して紹介していた。

中村元の話の断片からは、中村敏夫は一高時代以来の友人で、弁護士として、東方学院の設立の時にも法律面からのバックアップをした。その中村敏夫は『佛教語大辞典』の原稿が紛失した時には、夫人と一緒に大晦日の日に駆けつけてきて、やり直すための費用として多額の私財を提供したということまでは理解していた。


●逆縁が転じて毎日出版文化賞受賞


原稿がなくなってからというもの、中村は一ヶ月ほど呆然としていたが、洛子夫人や中村敏夫の言葉に励まされ、不死鳥のごとく1968年1月に作業を再開した。

中村は、『佛教語大辞典』の「あとがき」で、その作業について次のように8段階に分けて詳細に記している。

第1段階…1968年1月から数十人の人に語彙・解釈の募集を手伝ってもらうとともに、中村が原稿執筆を開始。

第2段階…同年末に出来上がった原稿を五十音順に並べる作業を開始。

第3段階…学園紛争が甚だしくなり、共同作業の場所がなくなって中断状態となり、中村の単独作業が続いた。

第4段階…出版社の分室で土曜・日曜などに泊まり込みで原稿の整理・完成に従事した。

第5段階…完成を急ぐあまり多くの人に加勢してもらったのはいいが、原稿にムラがあり、一貫した視点で独創的な意味を持たせるためにも、「他人の協力をあてにするという横着な態度」をやめて、1969年秋に集団作業を中止。中村が自分独りで原稿を書き続けた。

第6段階…原稿を確定する仕事に取り掛かる。この第5と第6の段階に2年間を要している。

第7段階…作業が出版社の手に移る。中村は、仏教語の採録に努め、増補の原稿を書き続ける。

第8段階…校正の作業


この間には学園紛争が勃発し、作業を行う場所を転々と流浪した。原稿整理や、加筆のために自宅も使った。洛子夫人も原稿整理を手伝った。

こうして1975年2月、作業再開から8年目にして『佛教語大辞典』が刊行された。『佛教語邦訳辞典』に着手してから数えると30余年がかりの労作である。紛失した原稿では3万語であったが、4万5千語に増えていた。

難解と思われてきた仏教用語の説明が平易な言葉でなされていて、分かりやすい。サンスクリット語、パーリ語、チベット語の原語も挙げて、巻末にはサンスクリット語、パーリ語、チベット語索引も備えているので、仏教用語の梵語辞典、巴利(パーリ)語辞典、西蔵(チベット)語辞典としても活用することが可能である。




紛失した原稿は、200字詰め原稿用紙で4万枚であったが、今度は10万枚にも及んでいて、はるかに内容の充実したものになっていた。

中村は「やりなおしたおかげで、前のものよりもずっと良いものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と言った。

中村は、この体験をはじめとする自らの人生を振り返り、順縁と思われたものが悪い結果につながり、逆縁と思われたものが良い結果を招くこともあり、仏教の説く順縁と逆縁は固定的なものではなく、変転するものだと語った。

原稿の行方不明事件をはじめとして、いろんなことがあったが、1975年11月に、中村は『佛教語大辞典』で賞のなかでも老舗中の老舗といわれる毎日出版文化賞の特別賞を受賞した。







From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
植木 雅俊 (著)

知識の構造化とは?【小宮山宏】


話:小宮山宏




個別の研究内容を収集し関連づけることによって、新しい知識を生成する仮想例を紹介しよう。スティーブン・クレインス東大助教授の作である。


「アリスは、米国の自動車会社で燃料電池のLCA(ライフ サイクル アナリシス)の仕事をしていたが、その実用化はまだまだ先のことだと発表した。

アントンは、北海道大学の触媒研究者で、高活性な酸化触媒を発見したが、共同研究先の化学企業では用途が見つからなかった。

スーザンは、MITの薄膜研究者で、高密度膜の生成が目的であるが、実験では多孔性膜が生成されて困っていた。

ジョージは、ケンブリッジ大学の流体力学の研究者で、最近細い管に低抵抗で液体を流す機構を見い出した。


上記の研究は相互に何も関連がなく、お互いに相手の研究結果を自分の研究と関連づけることはなかった。

これらの研究に対して、東京大学のスティーブンは、アントンの触媒をスーザンの方法で加工した。それから、ジョージの流路を熱除去に適用することに思い至り、アリスのLCAを適用してみたところ、燃料電池の性能はケタ違いに改良され実用可能であることを発見した。

その新知識をベースに起業した。

現在、燃料電池自動車が環境問題に大いなる寄与をする時代がくると期待されている」


上記は、知識の収集と統合による問題解決の例である。適切な知識を適切に動員することは、複雑な問題解決の鍵である。しかし、単に知識を収集して統合すれば新知識が生成される訳ではない。

ここで利用される思想と方法論が、知識の構造化である。知識を構造化して問題解決に成功した例は、さまざまな分野で報告されはじめている。知識の構造化が、大学のアカデミックな問題から産業界の現実的な問題まで幅広く適用されるようになるであろう。






From:
『知識の構造化』
小宮山宏 著

10歳のころの記憶を忘れない理由


話:レイ・カーツワイル




ニューヨーク大学医学部の神経生物学者、ウェン・ビヤオ・ガンは、成体マウスの視覚皮質スパインを観察し、スパインのメカニズムに長期記憶が保持されうることを示した。

「たとえば10歳の子どもが、ある情報を保存するのに1,000個のニューロン間結合をつかっているとします。その子が80歳になったとき、いかなる変化が起きていても、結合の4分の1はまだ存在しています。こういうわけで、子ども頃の体験をずっと覚えていられるのです」

ガンはさらに説明をつづける。

「学習して記憶するにあたって、新しいシナプスをたくさん作って古いシナプスを捨てる必要は実際にはないだろう、というのが我々の考えでした。短期の学習や記憶のためには、すでに存在するシナプスの強度を修正するだけでいいと。ところが、長期記憶を達成するために、少数の新しいシナプスが作られたり、取り除かれたりすることもあるようなのです」

接続の4分の3がなくなっても記憶が損なわれない理由は、符号化という方法が、ホログラムの方法と似た性質をもつからのようだ。

ホログラムでは、情報は、広範囲に拡散されたパターンの中に保存されている。ホログラムの4分の3を破壊しても、解像度は4分の1にはなるが、全体のイメージは損なわれない。

レッドウッド神経科学研究所の神経学者、ペンッティ・カネルヴァによる研究からは、記憶はニューロンの集合全体を通じて広範囲に動的に分配されている、という考えが導き出されている。これでなぜ、古い記憶が「色あせ」(記憶の解像度が減少するから)ながらも持続するのかがわかる。





From:
『シンギュラリティは近い』
レイ・カーツワイル著


2018年4月28日土曜日

「右」「左」という言葉をつかわない民族【TED】






私の好きな例を いくつかお話ししましょう
So let me tell you about some of my favorite examples. 

まず 私が研究する機会のあった― オーストラリアの アボリジニの話から始めましょう
I'll start with an example from an Aboriginal community in Australia that I had the chance to work with. 

これはクウク・サアヨッレ族の人々です
These are the Kuuk Thaayorre people. 

ヨーク岬半島の西端の ポーンプラーウに住んでいます
They live in Pormpuraaw at the very west edge of Cape York. 

クウク・サアヨッレ語の 面白いところは
What's cool about Kuuk Thaayorre is, 

「左」や「右」という言い方はせず
in Kuuk Thaayorre, they don't use words like "left" and "right," 

あらゆることを 東西南北の方角で 言い表すことです
and instead, everything is in cardinal directions: north, south, east and west. 

文字通りに 「あらゆること」を表します
And when I say everything, I really mean everything. 

「あら 南西の脚にアリがいるわよ」 みたいな言い方をするんです
You would say something like, "Oh, there's an ant on your southwest leg." 

あるいは「コップを少し 北北東にずらして」とか
Or, "Move your cup to the north-northeast a little bit." 

挨拶にしても クウク・サアヨッレ語では
In fact, the way that you say "hello" in Kuuk Thaayorre is you say, 

「どちらの方に行くの?」と言い
"Which way are you going?" 

それに対する答えは
And the answer should be, 

「ちょっと北北東の方へ あなたは?」という具合です
"North-northeast in the far distance. How about you?"

考えてみてください 一日の中で
So imagine as you're walking around your day, 

会う人 会う人に
every person you greet, 

向かう方角を 言わなきゃいけないんです
you have to report your heading direction.

(笑)
(Laughter)

方角に鋭くなることでしょう
But that would actually get you oriented pretty fast, right? 

どの方角に向かっているのか 分からないと 挨拶もできないんですから
Because you literally couldn't get past "hello," if you didn't know which way you were going. 

実際このような言語を話す人たちは 方角をとても良く把握しています
In fact, people who speak languages like this stay oriented really well. 

かつて人間に可能だと 思われていたよりも ずっとです
They stay oriented better than we used to think humans could. 

生物学的な理由により この面で人間は 他の動物より 劣ると思われていました
We used to think that humans were worse than other creatures because of some biological excuse: 

人間は嘴や鱗に 磁石がないからと
"Oh, we don't have magnets in our beaks or in our scales." 

でも 言語や文化が そうすることを求めるなら
No; if your language and your culture trains you to do it, 

できるようになるんです
actually, you can do it. 

世界には方角を本当によく 把握している人々がいます
There are humans around the world who stay oriented really well.

これが 私たちのあり方と いかに違うか分かるように
And just to get us in agreement about how different this is from the way we do it, 

ちょっと目を閉じて いただけますか
I want you all to close your eyes for a second 

では 南東を 指差してください
and point southeast.

(笑)
(Laughter)

目は閉じたままで
Keep your eyes closed. 

指差して
Point. 

じゃあ 目を開けていいですよ
OK, so you can open your eyes. 

皆さん あっちを指したり こっちを指したりで
I see you guys pointing there, there, there, there, there ... 

どっちなのか 私も分かりませんが—
I don't know which way it is myself --

(笑)
(Laughter)

皆さん あんまり 助けになりませんでした
You have not been a lot of help.

(笑)
(Laughter)

どうも この会場にいる人は 方角には疎いようです
So let's just say the accuracy in this room was not very high. 

言語によって認知力に 大きな違いが生じているということです
This is a big difference in cognitive ability across languages, right? 

皆さんのようなグループでは
Where one group -- very distinguished group like you guys -- 

どっちがどの方角なのか 分かりませんが
doesn't know which way is which, 

別のグループでは
but in another group, 

5歳児に聞いても 正しい答えが返ってきます
I could ask a five-year-old and they would know.

(笑)
(Laughter)




From:TED
レラ・ボロディツキー
Lera Boroditsky
言語はいかに我々の考えを形作るのか
How language shapes the way we think



「2つの言語をもつことは、2つの魂をもつことである」【Charlemagne】




神聖ローマ皇帝 シャルルマーニュは
Charlemagne, Holy Roman emperor, said, 

「第2の言語を持つのは 第2の魂を持つことである」と言いましたが
"To have a second language is to have a second soul" -- 

これは言語が現実を作り出すという 強い主張です
strong statement that language crafts reality. 

一方で
But on the other hand, 

シェイクスピアは ジュリエットに言わせています
Shakespeare has Juliet say, 

「名前が何だというの?
"What's in a name? 

バラは別の名前で呼ぼうと 変わらず いい香りがするでしょう」
A rose by any other name would smell as sweet." 

これは名前によって現実は変わらないと 言っているように聞こえます
Well, that suggests that maybe language doesn't craft reality.





レラ・ボロディツキー
Lera Boroditsky
言語はいかに我々の考えを形作るのか
How language shapes the way we think

「さまざまの人があって良かった」【松下幸之助】


花は桜だけ

木は杉だけ

鳥はウグイスだけ

この日本の山野に
もしこれだけの種類しかなかったとしたら

とてもこの自然の豊かさは
生まれ出てこなかったであろう。

いろいろの花があって
よかった

さまざまの木があって
よかった

たくさんの鳥があって
よかった

人もまた
さまざま

自分と他人とは

顔もちがえば
気性もちがう
好みもちがう

それで
よいのである

いろいろの人があって
よかった

さまざまの人があって
よかった

松下幸之助


抜粋:
『さまざま』
松下幸之助




From:
道をひらく
松下幸之助

「自分が身にまとっている一切を捨てて、なお保たれているもの――、それが仏じゃ」


From:
善の研究 ─まんがで読破─
Teamバンミカス (著), 西田幾多郎  (編集)



「禅は、俗世のもの一切を捨てるための修行かの」



「自分が身にまとっている一切を捨てて、なお保たれているもの――、それが仏じゃ」




From:
善の研究 ─まんがで読破─
Teamバンミカス (著), 西田幾多郎  (編集)

ノコギリで手足を切り落とされても…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




このようなたとえ話があります。

もし盗賊たちがやってきて、ノコギリで私たちの腕や手足の一本一本を切り落としたときに、たとえ一筋でも怒りや憎悪の念を感じたなら、仏さまの教えに従っていないのだ…、というものです。





痛みを感じたら、その痛みによって引き起こされる嫌な気持ちや、恐れの感情に気づいて、はっきりと認識し、嫌な感情が消えていくまでを、しっかりと経験します。

痛みに対する反応が消えて無くなったときに初めて、痛みを痛みそのものとして、あるがままに観察することが可能になります。

瞑想が十分に安定して、痛みに動じなくなったその時に、痛みの内に入って、痛みと呼ぶものが一体なにから成り立っているのかを観ることが可能になります。

そして、不快なもの、嫌なものという痛みに対する認識が覆されるのを目の当たりにして、驚かされることでしょう。「痛み」や「不快さ」の代わりに、「緊張」「熱」という、よりシンプルな身体的感覚が体験されはじめるからです。さまざまな身体的感覚が働きあって、「痛み」という感覚・感触をつくりだしているのです。

そして、このように痛みが経験されるとき、そこには苦しみがないことに気づいてください。この認識はとても重要ですから、忘れないでください。このように観察され体験された「痛み」は、もはや「dukkha(苦しみ)」ではありません。

痛みから生じる「苦」というのは、実際には「痛みとの関わり方」「自分と痛みとの関係性」のことなのです。






From:
Samga Japan Vol.29

「イラッ!」としたらば…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




あなたはイライラする瞬間に気づきますか?

たとえば、このような場面をみてみましょう。

あなたはリトリートに参加して瞑想しています。静けさのなか、心がゆっくりと落ち着いていくのを感じています。その時、ドタバタと遅れた人が部屋に入ってきました。

「なんと不注意な!」

あなたは深く息を吸って、気を取り直し、ゆっくりと集中を高めていきます。すると今度は、すぐ背後で誰かが大きく咳をしました。これにはやはり、イラッとします。

さらには、数々の無明のベールを通り抜け、いよいよ真理の深みに到達せんとする、その時、力強いクシャミが鳴り放たれます。…もう、たくさんです。

「ここにいる瞑想者には、マナーというものがないのか!」

このような小さな苛立ちが起こったら、ただちに他の誰も自分を怒らせることはできないことを思い出さなければいけません。そして、邪魔をした人に心から感謝をしましょう。なぜなら、その人はそうと知らずに、私たちがどこでつまずいているかを教えてくれたからです。



ヴィパッサナー瞑想を正しく行じるならば、私たちをイラッとさせるものなど、何ひとつないでしょう。「イラッ」とする感覚それ自体も、観照され経験される瞑想の対象になるからです。

もし、瞑想の邪魔をされたと感じてイラッとしたときは、修行に対して狭い視野になっていないか、確認しましょう。「修行はこうあるべきだ」「瞑想者ならこうするべきだ」といった理想に陥っている自分の心の状態に気づいてください。

これらの「~すべき」「~ねばならない」などの言葉は、自分のつくりあげる「理想」から生まれます。そして、この理想に縛られた狭い視点をよりどころに、私たちは関わる人や事柄を思い通りにしようと試みます。それは瞑想意外の時間、日常の生活のいたる場所で当然おこることです。



私たちの注意を引きつけながら、森羅万象は生じては消えてゆきます。

今日一日、明晰な気づきの内にとどまって、すべての「すべき」と「ねばならない」を捨ててしまいましょう。



「すべての現象は過ぎ去っていく」ということを、もう一度思い出してください。






From:
Samga Japan Vol.29

「嫌!」という心の反応が消えはじめると…


From:
Samga Japan Vol.29





話:バンテ・ボーディダンマ




自分以外には誰も、心理的な苦痛を自分に与えることはできないことを、まずは正直に認めなければなりません。

私たちの「dukkha(苦)」――苛立ち、不満、苦しみ――の答えは、心の中にあるからです。

この事実は、他人のせいにすることで得てきた安堵感を奪いますが、代わりに自分の心に責任を持ち、困難なことであっても、状況を解決するための力が与えられるでしょう。



私たちは、これらの感情・感覚を、機嫌を損ねた子供のように扱う必要があります。

自然界の台風と同じように、感情や感覚のエネルギーを現れるままにまかせると、エネルギーを使い果たしたあとで、自ずと消滅するものです。



仏さまは「feeling in feelings(感覚を感覚の中で)」経験するという言葉で、感覚に開いていくことを説いています。



何よりも大切なのは、自分自身が苦しみを作り出す、そのカラクリにしっかりと気づき、その気づきと認識を、苦しみを終わらせるための、さらなる動機づけとしていくことです。

これは、私たちにできることです。



瞑想中の姿勢から生じる、身体の痛みというものがあります。

膝の痛みは、過ぎ去るのを待つことができないほど、ひどい痛みになりがちです。ずいぶん昔のことになりますが、禅の修行をはじめたばかりの頃、痛みを我慢して座りつづけたことが原因で、私の膝は脱臼するクセがついてしまいました。

このようなときは無理をせず、椅子に座り、痛みがひくのを待つことも、とても大切なことです。

その一方で、脈打つ膝の痛みは、気づきや智慧にとっては、非常によき友であると言えます。何より、痛みは忍耐と寛容を教えてくれます。加えて、強い痛みは感覚への集中を助けてくれます。

そして、観察と経験を通して「痛み」が、私でも、私のものでもない「無我」であることを教えてくれます。私たちの好き嫌いにかかわらず、また私たちの意向に関わりなく、痛みはそれ自体の不満(苦)を表現するのですから。



「痛み」と、その反応としての「苦」を識別します。

この身体の痛みからくる「苦」は、仏さまが「dukkha-dukkha(苦苦)」と呼ぶ、苦痛を苦とする状態のことです。

この「痛み」と「苦」を識別することは、とても大切なことです。そして、悟りに至ったときに消滅するのは、この2つのうちの「苦」のほうだと言われています。

身体がある限り、身体の痛みは自然なこととして起こりつづけることでしょう。しかし、「嫌!」という心の反応が消えはじめると、「痛み」との新しい関係がはじまります。

痛みがあっても、完全に落ち着いた穏やかさのなかに留まりつづけることが可能になります。心の平安と静けさが、痛みが私たちを苦しめているのではなかったことに、気づかせてくれるでしょう。

痛みではなく、心の反応の仕方が「苦」をもたらしていたのです。



実際のところ、「痛み」というものは存在しません。

存在しているのは、さまざまな身体的感覚だけです。この気づきとともに、「痛い」という感覚さえもが消滅していきます。

この段階において、「無常」の真理がはっきりと認識されはじめます。あらゆる感覚が、一瞬一瞬に生じ、そして消え去っていきます。すべてが束の間に過ぎていく一連のエネルギーでしかありません。

その時には、身体の痛みは瞑想者にとって祝福となるでしょう。






From:
Samga Japan Vol.29

枯れるときには枯れてゆく【松下幸之助】


春になれば
花が咲き

秋になれば
葉は枯れる

草も木も
野菜も果物も

芽を出すときには
芽を出し

実のなるときには
実をむすぶ

枯れるときには
枯れてゆく

そこには
何の私心もなく
何の野心もない

無心である

虚心である

時節はずれに
花が咲けば

これを
狂い咲きという

それでも花ならば
まだ珍しくてよいけれど

人間では
処置がない

進退を誤った人間は

笑っただけでは
すまされそうもない

ときには
花をながめ

野草を手に取って
静かに自然の理を案じ

己の身の処し方を
考えてみたいものである

松下幸之助


抜粋
From:
『自然とともに』
松下幸之助




From:
道をひらく
松下幸之助

坐禅をうまくやるコツ



「ところで、坐禅をうまくやるコツって、あったりします?」


僧「いえ、ないですね」


僧「仏の道はみな同じようで、それぞれに異なる。ですから、自分の法は、各々にしかわからないのです」






From:
善の研究 (まんがで読破 MD129) 
文庫 – 2014/1/30
西田幾多郎  (著)