2013年7月16日火曜日

科学は「破壊」か「建設」か 岡潔




「人間の建設」より岡潔の言葉



何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうか。

ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるのです。もし建設が一つでもできるというなら認めてやってよいのですが、建設はなにもしていない。

だから、いま考えられているような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら相似的な学説がなにかあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。



だいたい自然科学で今できることと言ったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人類の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論はべつにして、たとえば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。

私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習ったのですが、多分いまでも葉緑素はつくれないのです。一番簡単な有機化合物でさえつくれないようでは、建設ができるとは言えない。



いまの機械文明を見てみますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろな動力によってすべてが動いている。石炭、石油。これはみなかつて植物が葉緑素によってつくったものですね。それを掘り出して使っている。

ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電などといっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱は、このまま掘り進んだら、すぐになくなってしまいそうなものですね。そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力電気だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。

つまりいまの科学文明などというものは、殆どみな借り物なのですね。自分でつくれるなどというものではない。だから学説がまちがっていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設は何もできません。
いかに自然科学だって、少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変わるでしょう。





引用:「人間の建設 (新潮文庫) 」岡潔・小林秀雄 P.55〜57

2013年7月11日木曜日

「酵素」を意識した食生活 [鶴見隆史]



現代人の身体には、栄養よりも「酵素」が不足しているというのだが。

「酵素とは何か? 家の建築にたとえてみるとわかりやすいでしょう。この場合、建築に必要な『資材』が栄養素であり、建築にたずさわる『作業員』が酵素です」

そう言うのは、鶴見クリニック院長の「鶴見隆史(つるみ・たかふみ)」先生。



たとえ栄養は足りていても、身体の組み立てを行う作業員「酵素」が足りなければ、人間の生命活動は滞ってしまう。戦後日本の食生活は、食品を通じての酵素の摂取量が大幅に減ってしまっている、と鶴見先生は言う。

「人間の体で毎日作られる酵素の量はほぼ一定です。そしてその生産量は、年を取るにつれて次第に減っていきます。いわば携帯電話の電池のようなもので、充電をしても新品の頃のようにはだんだん長く持たなくなっていくのです」

一日の酵素の生産量が限られているということは、「一生涯に生産される酵素の量」も同様に限られているということである。そのため、酵素の量が「人の寿命」をも左右するのだとか。

「ゆえに酵素の無駄使いを少しでも減らすことは、健康や長寿のためには何よりも大切です」と鶴見先生は言う。








先生は小さい頃、小児喘息で悩まされていたという。だが、祖母が「生キャベツ」を朝に夕に山盛り食べさせてくれたことで、あれほど苦しんでいた喘息がピタッと治まったのだそうだ。

当時、その治癒の理由はわからなかったというが、大学の時に出会った書「酵素栄養学(エドワード・ハウエル著)」にその理由が示されていた。

「とくに印象的だったのは、病気になるのは『火を通したもの』を食べる人間と家畜だけであり、『生もの』を食べる野生の動物に病気はないという指摘でした」と先生は言う。



食べ物に含まれる「酵素」は高温によって死んでしまう。つまり、「火を通したもの」ばかりを食べていると身体に必要な酵素が補給できないというのである。

その点、かの「生キャベツ」には酵素がふんだんに含まれており、それが喘息を癒したのだろうと考えられた。

スコットランドの研究者オアー氏らの実験によれば、加熱した食物だけを与えられたネズミには、繁殖能力の低下や感染症など、さまざまな病気が現れたという。








「人間の身体を『樹木』にたとえると、根っこは腸内壁の絨毛、土壌は腸中の栄養物。樹木が根を通じて土壌の栄養を吸収するように、人間の腸絨毛が栄養を吸収するのです」と先生は言う。

さらに最近の研究によれば、人間の「免疫力」の80%は腸にあるとのこと(小腸70%、大腸10%)。つまり、腸はそれほど重要であり、その活動には「酵素」が必要とされるのだそうである。

もし酵素が不足すれば、腸内の栄養物は腐敗して毒物となり、自身の身体を傷つける「活性酸素」を生み出してしまう。たとえば、自分のおならや便が臭い匂いはその警告信号だという。








「酵素を阻害する物質は、主に4つ。それは『重金属』『薬』『種』『白砂糖』です」と先生は言う。

「重金属」はヒ素、水銀、鉛、カドミウムなど公害問題でお馴染みの面々。「薬」というのは人が作り出した「化学物質」。

「種」というのは、人間の身体に入ると酵素の働きを止めてしまうらしい。そして「白砂糖」というのは、大量に酵素を浪費してしまうのだとか。








では、どのような食が酵素を補給できるのか?

酵素は48℃以上の加熱によって死滅してしまうということから、「生」で食べるののは大変に良いという。

「酵素を効率良く摂るためには、良質な水分やビタミン、ミネラル、食物繊維が豊富な野菜や果物から撮るのが一番です」と鶴見先生は語る。

生野菜や果実をすりおろしたり、ジュースにしたりするのは、酵素摂取を多いに助けるという。砕かれることで、酵素が細胞外に出てきて、吸収できる酵素量は何倍にもなるのだという。








世間では「生ものが身体を冷やす」という俗説があるが、本当に身体が健康になった時、酵素は抹消の毛細血管まで血液を送って身体をむしろ温める、と先生は言う。

また、「酵素は胃の中で死んでしまう」という話もある。確かに胃で不活性化する酵素もあるそうだが、それは一時的なもので腸にまで至れば再び活性化するのだそうだ。








ソース:致知2013年7月号
「酵素ジュースで健康長寿 鶴見隆史」


孟子の「放伐論」。2つの中心


孟子の「放伐(ほうばつ)論」というのがある。

それは、「家臣が主を弑してよいものか」という論であり、孟子はその正当性を認めている。



孟子いわく、「仁をだめにする者、この者を『賊』と呼び、義をだめにする者を『残』と呼びます。『残賊の者』はもはや君主ではなく、ただの一人の男です」

つまり、「悪王」はもはや「主ならず」ということで、「放伐」を正当としているのである。具体的に孟子は、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したことを正しいことと認めたのである。

孟子はこううそぶく。「紂(殷の紂王)という一人のただの男を武王が誅殺したとは聞いていますが、臣が君主を殺したとは聞いていません」








古代中国において、夏王朝から「世襲」となってしまったことが、時に「暴君」を出してしまう原因とも考えられており、ゆえに君主打倒を正当化する「放伐論」が起こってきたといわれている。

だが、その考え方はある意味危険であり、世を乱す因ともなりかねない。とくに、万世一系の天皇家を戴く日本ではそうした思想が危険視され、「孟子の書を乗せた中国の船は、日本に着く前に沈む」と言われていたそうだ。



たとえば、幕末の「吉田松陰」などは孟子の放伐論に激しく異を唱えている。

吉田松陰いわく、「君主と父親はその第一義である。わが君を愚として他国へ去るのは、わが父が頑愚として家を出て、隣家の翁を父とするようなものである」








儒教の教えは吉田松陰のそれよりは穏やかで、「父子天合」に対して「君臣義合」とある。もし父が間違った行いをした場合、子は「三たび諫めて聴かざれば、すなわち号泣してこれに従う」。だが君主に対して臣は「三たび諫めて聴かざれば、すなちこれを去る」とある。

つまり、父には絶対服従だが、君主には条件付きであり、時には去るという選択肢が残されている。だが、孟子の放伐論を認めるものではない。



第二次世界大戦末期、神風特攻隊というのは命を捨てて君に仕えるという「絶対服従」を強いたものであったが、これは「父親と君主」の関係同様、「家族と国家」の関係を考えさせるものである。

これに関して、島田虔次は「朱子学と陽明学」という書で、こう述べている。「儒教的世界は、いわば国家と家族との『2つの中心を有する楕円』である。修身斉家治国平天下は、この楕円をあくまで楕円たらしめようとする理想主義であって、それをいずれか一方の中心へ収斂させて円にしようとするのではない」

※「修身斉家治国平天下」と島田がいうのは、「礼記」大学にある言葉で、「まず自分の行いを正せば(修身)、家庭が整い(斉家)、そして国家が治まる(治国)。それが天下を平らかにするということである」という教えである。



つまり、父親と君主の中心点が同じでないように、家庭と国家のそれも異なると島田は言うのである。

それはいわば「本音と建前」の中心が一致していないようなものであり、もしそれを無理に同じとしてしまうと、まことにおかしなことにもなってしまうのだろう。カミカゼのそれのように…。






信長と沢彦。岐阜と岐山



「その岐山の名を、信長殿が岐阜とされたのだなぁ?」

「岐阜」という地名は、中国の「岐山(きざん)」から採られている。その昔、戦国時代の話である。



中国の岐山というのは、古代中国「周の武王」が根拠地にしたところであり、黄河源流、渭水のほとりに位置した。周の武王という人は、君主であった「殷の紂王」を殺して天下を獲った人物。

織田信長が美濃(現在:岐阜県)の稲葉山城を攻め獲った時、「天下布武」という野心があったのは明らかであり、それは周の武王の志にも通ずるものがあったのだろう。ゆえに信長は稲葉山を「岐山」と改めたかったのだという。



しかし、それではあまりに天下への野心が露骨すぎる。そう言って反対したのは「僧・沢彦(たくげん)」。信長の幼い頃から脇についていた僧である。

「『岐山』という名にすれば、武田信玄も上杉謙信などの歴史を知る武将たちは、『信長め、思い上がったか』と悪口を言うでしょう。少しお控えくだされ。岐山の山を低くしましょう。丘にしましょう。岐阜とお命名ください。『阜』というのは丘の意味です」

さすがの信長も、僧・沢彦の意見には苦笑して従ったという。



また、僧・沢彦は稲葉山城が「高い山の頂」にあったことにも苦言を呈している。

「そんな山の上から下を見下ろしていても、地べたを這いずり回っている民の汗と涙の苦しみはわかりますまい。麓へ降りなさい」と。

やはり、その言に従った信長。麓の井ノ口というところに降り、そこに政庁を開いたという。







2013年7月9日火曜日

赤ん坊と「涅槃」 岡潔の言葉



抜粋:「人間の建設」より岡潔の言葉



赤ん坊がお母さんに抱かれて、そしてお母さんの顔を見て笑っている。

その頃ではまだ「自他の別」というものはない。母親は他人で、抱かれている自分は別人だとは思っていない。しかしながら、「親子の情」というものはすでにある。

自他の別はないが、親子の情はあるのですね。



そして「時間」というようなものがわかりそうになるのが、だいたい生後32ヶ月過ぎてからあとです。そうすると、赤ん坊にはまだ時間というものはない。

だから、そうして抱かれている有様は、自他の別なく、時間というものがないから、これが本当の「のどか」というものだ。
それを仏教で言いますと「涅槃」というものになるんですね。



のどかというものは、これが平和の内容だろうと思いますが、自他の別なく、時間の観念がない状態でしょう。

それは何かというと「情緒」なのです。自他の別もないのに、親子の情というものがありえる。それが情緒の理想なんです。矛盾でなく、初めにちゃんとあるのです。

だから、時間・空間が最初にあるというキリスト教などの説明の仕方ではわかりませんが、私の世界観はつまり、最初に情緒ができるということです。







抜粋:「人間の建設」岡潔・小林秀雄

2013年7月8日月曜日

日本人の精神を培ってきた「実語教」



日本人が江戸時代、寺子屋で学んだという「実語教」

作者は「弘法大師(空海)」、平安時代に成立し、鎌倉時代に普及した書物だという。



その書は、こう始まる。

「山高きがゆえに貴からず

 樹あるをもって貴しとす」

山は高いからといって価値があるわけではない、そこに材となる木が育つからこそ貴(とうと)いのだ、と。



そして、こう続く。

「人肥えたるがゆえに貴からず

 智あるをもって貴しとす」

人は太っているから尊いわけではない、知恵があるからこそ貴い。



「富はこれ一生の宝、身滅すればすなわち共に滅す

 智はこれ万代の財、命終わればすなわち随(したが)って行く」

富は一代限りののものだが、知恵は世代を超える。お金だけを後に残しても、知恵ある教育がなければそれは一代で使い尽くされてしまう。だが、知恵を次の世代に教えていけば、財(たから)は万世のものとなる。



「玉磨くざれば光なし、光なきを石瓦とす

 人学ばざれば智なし、智なきを愚人とす」



「倉の内の財は朽つることあり、身の内の才は朽つることなし

 千両の金を積むといえども、一日の学にはしかず」







江戸時代の子供たちは、こうした文を「素読」していたと、齋藤孝教授(明治大学)は言う。そして、こうした古典が「精神の柱」となっていったのである、と。

「ここで、『精神』と『心』を分けて考えてみましょう。心はちょっと『移り変わりやすいもの』なんですね。一方、精神というのは心と違って『変化しない』んです」と齋藤教授は言う。

たとえば、武士道の精神は昨日と今日で変わることはない。論語の精神などは2,500年も前から変わらない。



「情に棹させば流される」と夏目漱石が言ったように、心は流れやすい。一方の精神には「芯」があり、「柱」となりうる。

心を「感情」とすれば、精神は「意志」となろうか。








とかく不安定な心は精神という支えなしには折れやすい。

「その折れやすさたるや、ポッキーのように、それで折れる? という感じなんですよ」と、齋藤教授は明治大学の学生を見て感じているという。

「学生たちは不安定な心で人格を支えようとしているから、心が折れやすい。精神で支えれば人格は安定するのです」と教授は言う。



江戸時代の子供たちの人格を支えた精神とは、冒頭の「実語教」をはじめとした「童子教」や「論語」などによって培われていたという。

「智に働けば角が立つ」とも夏目漱石は言ったが、精神を養う「智」はむしろもっと心の内側にあるようにも思う。その点、外側にひけらかすような智は、やはり角が立つのかもしれない。








以下、実語教の続き(中略あり)。



「師に会すといえども学ばざれば、いたずらに市人に向かうがごとし

 習い読むといえども復せざれば、ただ隣の財を数えるごとし」



「富貴の家に入るといえども、財なき人の為はなお霜の下の花のごとし

 貧賤の門を出ずるといえども、智ある人の為にはあたかも泥中の蓮のごとし」



「己が身をば達っせんと欲せば、まず他人の身を達っせしめよ

 他人の愁いをみては、すなわち自らともに患うべし

 他人のよろこびを聞いては、すなわち自らともに悦ぶべし」



「それ習い難く忘れ易しは、音声の浮才

 また学び易く忘れ難しは、書筆の博芸」













(了)






ソース:致知2013年7月号より
「『実語教』で生き方を学んできた日本人 齋藤孝」

書籍「日本人の美伝子」



素晴らしい芸術作品の放つ「高貴な気」

それに触れた時、人の「美しさを感じる遺伝子」にスイッチが入るという。

この「美の遺伝子」のことを、著者は「美伝子(びでんし)」と呼ぶ。



古代より日本に根づく「美伝子」とは?

日本文化の本質や、国家の特性とは?



人を癒すという美伝子が織りなす芸術国家論。

著者は、天皇陛下御即位20年に奉祝画「平成鳳凰天来之図」を謹筆された日本画家「藤島 博文」









2013年7月5日金曜日

政教分離は「先進国の鉄則」。靖国問題



政治問題に「宗教」を絡めてはならない。

これは先進国の間で守られる「国際社会の鉄則」だ、と歴史学者の渡部昇一教授(上智大学)は言う。



「ヨーロッパにおける三十年戦争(1618〜1648)を終結させた『ウェストファリア条約』があります。三十年戦争はプロテスタントとカトリックの『宗教戦争』です。その条約締結以来、先進国の間では『政治問題に宗教を絡めてはならないことが決まりました」

これは400年近く経った今も、先進国間では固く守られているという。

「アメリカのブッシュ前大統領がイラクに軍を派遣した時、テロ行為は厳しく批判しつつも、イスラム教それ自体については一言も批判しなかったのはそのためです」と渡部教授は言う。



では、なぜ日本は「靖国参拝」を他国にとやかく言われるのか?

これは「宗教問題」ではないのか?








渡部教授は「『宗教問題に口出ししないのは先進国の常識です。それができない国は先進国に値しない』くらいのことをハッキリ言ってあげたらいいのです」と言う。

「靖國参拝がこじれた時、政府がすぐに『それは宗教問題である』と断じれば、良識ある世界の国々は『そうか、宗教問題には口出ししてはいけないな』と納得します」



ところが残念ながら、日本の靖國参拝に口出しするは「良識ある先進国」ではないようである。

具体的に申し上げれば、それは世界広しといえども「中国と韓国」の2カ国だけである。しかも、それは戦後40年も経ってからの話である。








昭和60年(1985年)、時の首相「中曽根康弘」氏は、内閣総理大臣として靖國参拝を参拝。

この時はじめて中国が「いわゆる(第二次世界大戦の)A級戦犯が祀られている靖國神社に首相が『公式参拝』することは中国人民の感情を傷つける」と激しく日本に抗議。

もしここで、中曽根氏が「靖國参拝は国内問題であり、宗教問題である」と毅然としていたら、その後の展開はどうなったかわからない。だが現実は、中国の抗議を飲んで以後の参拝を取りやめてしまった。



日本がすんなり中国の言い分を聞いたことにより、この時以来、靖國参拝は「外交カード」と化したといえる。時は中国が成長路線へと転じ、国力と自信を増しつつある頃でもあった。

ちなみに韓国が抗議をはじめたのは、それよりもずっと後の話で、顕著になったのは盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領あたりからである。






先進国である日本には、「政教分離の原則」がある。

それは、日本国憲法第二十条第三項に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」と記されている。

この点、中韓の抗議を別にしても、国内問題として「政府公人の靖國参拝」は日本国憲法に抵触する恐れがある。



それを懸念したのが、昭和50年(1975年)の「三木武夫」元首相。

彼は、「総理としての参拝ではなく、渋谷区南平台の一住民、三木武夫として参拝する」と言った。実際に彼は、公用車を使わずにタクシーで靖國神社に乗り付け、そして記帳の際は「内閣総理大臣」の肩書きを外して「三木武夫」とだけ記した。

以後、「福田赳夫」「大平正芳」「鈴木善幸」各首相も同様、「私的参拝」という立場での参拝となった。








靖國神社に限らず、終戦直後は「公的資格での神社参拝」が禁じられていた。それはアメリカのGHQが「神道指令」によって、それを禁じたからである。

「そんなことは馬鹿げている!」と怒ったのは、「吉田茂」元首相。彼はアメリカ軍の占領直後から明治神宮や伊勢神宮、熱田神宮などを平然と参拝していた。

しかし、靖國神社となるとさすがにGHQの目が厳しく、吉田茂氏をもってしても容易には参拝が叶わなかった。



吉田茂氏が首相として靖國神社に参拝するのは、昭和26年(1951年)。サンフランシスコ平和条約が締結され、日本が独立を果たしてからである。

条約が結ばれたのが9月。その直後10月の「秋の例大祭」、吉田茂氏は靖國神社に参拝。日本の主権回復を奉告したという。以後、日本の首相は靖國神社の催す「春秋の例大祭」に参拝する流れができあがる。

この頃、靖国参拝は国内問題にもなっておらず、むしろメディア各社は好意的に扱っていた。








だがその後、先に記した通り、福田赳夫氏の時に国内問題から「私的参拝」となり、中曽根康弘氏の時から他国の抗議を受けて「参拝取りやめ」となったのである。

その参拝中止から16年後の2001年、「小泉純一郎」元首相が靖國参拝を復活。

これは日本国内でも「憲法違反」として大変問題視されたわけだが、小泉元首相による参拝違憲訴訟のすべては原告の敗訴。つまり、日本国憲法の定める「政教分離の原則」には違反しないと判断されている。



つまり、靖國参拝で問題となるのはもはや「中国と韓国」の2カ国による外圧のみ。

だが、先進国における国際社会の鉄則は、冒頭で述べたように「政教分離」。先進国間であればあり得ない国際問題である。

安倍首相は中韓の抗議に対して国会で問われ、「国のため尊い命を落とした英霊に対して、尊崇の念を表すのは当たり前だ。閣僚はどんな脅かしにも屈しない。その自由は確保していく」と内政干渉を毅然としてはねつけた。

それは今年(2013)の靖国神社の春季例大祭に3閣僚、国会議員168人が大挙して参拝したことを受けての言だった。



とかく感情論にもなりがちな靖国問題であるが、国際社会には厳然としたルールがあり、欧米社会はその法に敬意を払う習慣がある。つまり、公的な問題解決は法に訴えねばならぬのであり、裁判所の判決は飲まなければならないということだ。

それは不幸にして、日本人には疎い感覚でもあるのだが…。













(了)






ソース:致知2013年7月号
「歴史の教訓 渡部昇一」
「知っておきたい靖國神社参拝問題 基礎知識」

2013年7月3日水曜日

「長州ファイブ」と森有礼。「5」の不思議



幕末最末期、長州の「田舎の若者5人組」は海外渡航の禁を犯して、イギリスへと辿り着く。

のちに「長州ファイブ」と呼ばれる5人組である。彼らはロンドン大学に入学し、西洋文明の最新知識を存分に吸収して日本へと戻って来る。



この5人のうち、「伊藤博文」は明治新政府の初代首相に就任。

ほか、「井上馨」は外務卿、「遠藤謹助」は造幣局長、「井上勝」は鉄道庁長官、「山尾庸三」は工部卿と、近代日本の礎を築く人材となるのであった。








彼ら長州ファイブに見られる数字「5」。

この数字は日本に馴染み深い。たとえば江戸時代の隣保制度である「五人組」。これは古代律令国家時代からの「五保の制度」と基本的には同じである。

いまでも田舎の地方などでは、結婚式などに「向こう三軒両隣」を招くしきたりが残る。それは、正面(向こう)の「三軒」と左右両隣「二軒」の合わせて「五軒」を指している。



なぜ「5」なのか?

対人関係が「2人」や「3人」の場合、その各点を結んでできる図形は、2人なら直線、3人なら三角形。その内部に「対角線」は生じない。つまり、2や3ではその関係性はその数字を上回ることがない。

ところが、「5つの点」を結べば外形は「五角形」で、その内部には「星形」の対角線が現れる。つまり、線は5本ではなく対角線も含めた「10本」。これを人間関係に当てはめれば、5人が「10通り」の多彩さに彩られるのである。

それが「5人の人間関係」の生む可能性である。



「口数が少ない物知りもいれば、気は優しくて力持ちもいる。スポーツは駄目でもメカには滅法強い奴もいたり、誰よりも情報の早い奴などなど、そんな多様な人材が不思議な関係を構築する。その『下限人数が5人』なのです」と、占部賢志教授(中村学院教授)は言う。

かの「長州ファイブ」もお互いの個性が強すぎて、国内では対立が絶えなかったという。ところが海の外ロンドンでは互いに切磋琢磨、意気投合。



同時期、ロンドンには新政府の文部大臣となる森有礼(もり・ありのり)もいたというが、彼は「薩摩藩士」。当時の長州藩士とは犬猿の仲である。ところが両者、ロンドンでは交流が芽生え、協力関係も生まれたという。

のちに森有礼の所蔵アルバムからは「長州ファイブ」の写った写真が発見される。撮影されたのは幕末の1863年、場所はイギリス・ロンドン。この写真は、「友情の証」にと長州藩士から贈られたものだった。

日本の「薩長同盟」を先立つこと3年、藩士同士は遠くロンドンの地で不思議な邂逅を果たしていたのであった。








(了)






ソース:致知2013年7月号
「甦れ、向こう三軒両隣の文化 占部賢志」

2013年7月1日月曜日

ヴァイオリンは神の賜、人の声



ヴァイオリンという楽器は、1500年代の初頭に突如この世に現出したという。

そして、その形は最初に完成したままの姿で、いまも何ら変わるところがない。まるでヴァイオリンが「神からの賜物」であるかのように。



ギリシャの詩人はこう詩を詠んだ。

「山に建っていた時は木陰で人を憩わせ、いまはヴァイオリンになって歌で人を憩わせている」



その音色は、あらゆる楽器の中で最も「人間の声」に近いといわれている。








(了)






ソース:致知2013年7月号
「思い出を奏でる津波ヴァイオリン」