2014年12月12日金曜日

木挽頭の一念 『火天の城』より



山本兼一「火天の城」より






 天正五年(1577)の正月は、静かに明けた。新春とはいえ、湖国はまだ冬めいた気候で、北から重い雲のたれ込める日が多い。安土でも、ときに雪がちらつく。そんな日は、墨で描いた山水画の世界にいる錯覚をおぼえた。

 又右衛門は、到来物の赤かぶの漬け物を持って、浜の木場をたずねた。木挽頭(こびきがしら)の庄之介は、飛騨山中の生まれでこれが大の好物である。



「まこと、よい材木がそろうたな。悔しいが、飛騨の檜(ひのき)より上物じゃ」

 いつ訪れても、庄之介は木曾檜の話からはじめた。よほど、気に入ったらしく、八間の大丸太のそばに掛け小屋を作り、いつもそこで丸太を眺めていた。

 大鋸(おが)くずの火で手をあぶり、麦湯を飲み、赤かぶを食った。又右衛門と同じ申年(さるどし)生まれの庄之介は、なんの気負いも衒(てら)いもなく、ただ木だけを見つめて生きている男だ。どの材木をどこに使うべきかには、庄之介の助言が欠かせない。

「正直なところ、わしはあの丸太を見とると、逃げだしとうなるんじゃ」

「そんなものかな。どうしてだ」

「木目を数えてみたのよ。いっとう太いのが2,583本、あとの二本が、2,467本と2,432本だ。年輪の数でいえばな、もっと太いのを挽いたこともある。それでも、この檜は特別だ。まるで違うとる」

「やはり、御神罰が気にかかるか」

 大丸太が、伊勢神宮の御備木(おそなえぎ)であることは、庄之介に話してある。

「そのことではない。御遷宮に使うかどうかは、所詮、人の世で決まったこと。木に関わりはない。それより、これを見てくれ」

 取り出したのは、六尺四方はある大きく薄い雁皮紙(がんぴし)だ。そこに、髪の毛ほどの線で、同心円が隙間なく描いてある。円と円の間隔は、わずか一厘か。

「木口に紙を当て、年輪を写し取ったのだ。どこぞに歪みでもないかと目を凝らしたが、そんなものはありゃせん。おそろしいほど丸い。ただただ、ひたすらどこまでも丸いのだ。信じられるか、これが」

 檜の年輪の丸さより、それを克明に写し取った庄之介の執念に、又右衛門は感嘆した。

「凄いな」

「おそろしいほど素直でまっすぐな木だ」

「いや、檜ではない。おぬしの一念だ」

「そんなもの、あの檜に向き合うには、屁のつっぱりにもならぬ。一寸百目のこの線で言えば、わしらの一生は、わずか五分じゃ」

 庄之介と話していると、又右衛門はいつも愉快になる。心がときほぐされる気がしてくる。常人が見落とすなにかを、この頭(かしら)はいつも見すえている。

「これだけきちんと丸い檜だ。柱にして、もすもわずかでも柾目(まさめ)がゆがんでおれば、どんな言い訳もきかぬ。すべて、わしのせいだ。わしの心胆が曇っておるせいだ。八間の長材、よほど腹をすえてからでなければ、とてものこと挽(ひ)けぬな」

 又右衛門は頭をさげた。庄之介の意地がありがたかった。

「柱立ては夏のつもりだ。まだ時間があるゆえ、ゆっくりやってくれ」

「親柱は、三本でよいのか」

「三角に立てれば天主は歪まぬ。案ずることはない」

「なら、折れた一本はどうする。仕口で継ぐのか。せいぜい五間か六間にしかならぬだろうが」

「それで頼む。こんど届いた朽木谷(くつきだに)の松はどうだ。すこし脂(やに)が多い気がするが...」

 いくら話しても、木の話は尽きない。庄之介は、自分が見た木のすべてを記憶しているようで、又右衛門が、あの時のあの木は...、と水を向けると、その木を挽いたときの大鋸(おが)の感触まで、鮮明に語るのだった。

「そうだ。このあいだ柿を挽いたら、黒柿であった。珍品だ。まだ見せてなかったな」

 黒柿は、茶室の炉縁に珍重される。使えば信長がよろこぶだろう。銘木ばかり保管してある場所に見に行くことにした。


...





出典:山本兼一「火天の城




美と沈黙 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜


...

美は人を沈黙させます。

どんな芸術も、その創り出した一種の感動に充ちた沈黙によって生き永らえて来た。どの様に解釈してみても、遂に口を噤むより外にない或るものにぶつかる、これが例えば万葉の歌が今日まで生きている所以である。つまり理解に対して抵抗して来たわけだ。

解られて了えばおしまいだ。解って了うとは、現物はもう不要になるということです。


...


言霊を信じた万葉の歌人は、 言絶えてかくおもしろき、と歌ったが、外のものにせよ内のものにせよ、言絶えた実在の知覚がなければ、文学というものもありますまい。


...






出典:小林秀雄「栗の樹」



2014年11月21日金曜日

culture と technique [小林秀雄]




〜話:小林秀雄〜



 一体文化などという言葉からしてでたらめである。文化という言葉は、本来、民を化するのに武力を用いないという意味の言葉なのだが、それを culture の訳語に当てはめて了ったから、文化と言われても、私達には何の語感もない。語感というもののない言葉が、でたらめに使われるのも無理はありませぬ。

 culture という言葉は、極く普通の意味で栽培するという意味です。西洋人には、その語感は十分に感得されている筈ですから、culture の意味が、いろいろ多岐に分れ、複雑になっても根本の意味合いは恐らく誤られてはおりますまい。果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それが culture だ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させることが、cultivate である。自然を材料とする個性を無視した加工は technique であって、culture ではない。technique は国際的にもなり得よう、事実なっているが、国際文化などというのは妄想である。意味をなさぬ。






出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




2014年11月6日木曜日

対面、官兵衛と半兵衛 [吉川英治]



〜吉川英治「黒田如水」より〜





「お幾歳(いくつ)にならるる」

「ちょうどでござる」

「三十歳よな。それではわしの方がずんと兄だ。九ツも上だから」

 初対面の彼にたいして、秀吉は敢て「兄」ということばを用いた。官兵衛は心中にその過分な辞をすこし疑ったが、秀吉はさらにそれを不当とは思っていないらしく、ふと、横の座を顧みて、

「…すると、お許(もと)と官兵衛とは、ちょうど二つちがいになるな。官兵衛が一ばん年下で、次にお許、その上がかくいう筑前か。思えばわしもいつかもう若者の組には入らなくなって来つるわ。さりとて、まだまだ、大人の組にも入りきれぬしのう」

 と自嘲をもらして、また大いに笑った。そこにいた一個の人物も、ことばなく黙然と微笑した。初めにちょっと会釈しただけで、ついまだ一語も発せずに秀吉のわきにひたと坐っている一武人である。面(おもて)は白く筋肉は痩せて、たとえば松籟(しょうらい)に翼をやすめている鷹の如く澄んだ眸(ひとみ)をそなえている。官兵衛はさっきからひそかに気になっていたので、

「こちらは、誰方(どなた)でござるか。ご家中の方でいらせられるか」

 と、今をその機(しお)と、秀吉に向って訊ねてみた。

「お。こなたの人か」

 秀吉はまじめに紹介(ひきあ)わせを述べた。

「竹中半兵衛重治(しげはる)。ご承知もあろうが、美濃岩村の菩提山の城主の子じゃ。いまはこの筑前の軍学の師でもあり、家中のひとりでもあるが、信長卿より羽柴家へ付け置かるるという特殊な関係になっておるので、いつ召し戻されるやも知れぬと、秀吉も内心常に恟々(きょうきょう)としておる厄介な家人だ。それだけに謂わば筑前の無二の股肱。いや官兵衛、御辺(ごへん)とならば、きっと肝胆(かんたん)相照らすものがあろうぞ。刎頸(ふんけい)を誓ったがよい」



 秀吉のことばが終ると、その半兵衛重治は初めて静かに向き直って、初対面のあいさつをした。その音声(おんじょう)は秀吉とちがって雪の夜を囁く叢竹の如く沈重であり、言語はいやしくもむだを交じえない。そして一礼のうちにもその為人(ひととなり)の自ら仄(ほの)かに酌(く)めるような床(ゆか)しさと知性の光があった。

「えっ、あなたが竹中殿で。おくれました。それがしは」

 と、官兵衛もあわてて礼をむくいたが、秀吉と話している分には、さほどでもない自己の卑下(ひげ)が、この半兵衛に対しては、なぜかはっきり抱かずにはいられなかった。やはり自分は田舎侍であったという正直な負(ひ)け目である。しかし相手がそれを見下しているような倨傲(きょごう)でないことは十分にわかっていた。



 それにしても彼は、羽柴家の家中に、これほどな人物が甘んじて仕えていることが、何かあり得ない事を見たような気がした。美濃菩提山城の子竹中重治といっては、世上の軍学者でその名を知らない者はないほど夙(つと)に聞こえている大才である。ある意味で織田家中の羽柴秀吉という一将の名よりも、有名なことでは半兵衛重治のほうが聞こえているかもわからない。

 若年、多くは帝都にいたと聞いている。それもたいがい大徳寺に参禅していたもので、ひとたび国許から合戦の通知をうけるや否、馬に乗って一鞭(いちべん)戦場へ駆け、また一戦終ると、禅の床に姿が見られたとは、都あたりの語り草にもなっている。

 その戦場に在る日は、つぶ漆のあらあらとした鎧に、虎御前(とらごぜ)の太刀を横たえ、

コノ若殿、魁(サキガケ)ニ御在(オワ)セバ、軍中、何トナク重キヲナシ、卒伍(ソツゴ)ノ端々ニマデ心ヲ強メケル

とは家中のみでなく一般の定評だった。軍学の蘊蓄(うんちく)は当代屈指のひとりと数えられ、戦うや果断、守るや森厳(しんげん)、度量は江海(こうかい)のごとく、その用兵の神謀は、孔明、楠の再来とまで高く評価している武辺(ぶへん)でもある。



 秀吉のごときはその渇仰者(かつごうしゃ)の随一人であった。彼がまだ洲股(すのまた)の城にいて、ようやく一個の城砦を狭い領土とをはじめて持ったとき、早くもこの若き偉材を味方に迎えんとして、半兵衛重治の隠棲していた栗原山の草庵へ、何十度となく、出廬(しゅつろ)を促すために通ったことは、世間に余りに知れわたっている話である。その事を、むかし漢土において、劉玄徳が孔明の盧を叩いた三顧の礼になぞらえて、

(羽柴筑前の熱心は、ついに臥龍(がりょう)半兵衛を、自己の陣営へひき込んだ)という者もあった。

 いずれにせよ、この戦国において、この事ほど武辺の話題になったことはない。ただ惜しむらくは、竹中半兵衛ほどな人物に、なぜか天は逞(たくま)しい肉体を与えなかった。弱冠から多病の質である。それだけが惜しまれてもいたし、秀吉もまた、破れ易い名器を座右に置いているように、いつも一方ならぬ気遣いをしているようであった。

 中国の僻地(へきち)にいるかなしさには、黒田官兵衛も疾(と)く噂は聞いていたが、およそのことを想像して、忘れるともなく忘れていた。今、あらゆる予備的な世評をいちどに思い出して、厳然と、その存在と人物の重さに、襟を正さしめられたのは、まさに今夜その人と間近に対(むか)い合ったときからであった。





 秀吉も酒を愛し、竹中半兵衛もすこし嗜(たしな)む。加うるに、官兵衛との三人鼎坐(ていざ)であったが、量においては、官兵衛が断然主人側のふたりを凌いでいる。

 夏の夜はみじかい。殊に、巡り合ったような男児と男児とが、心を割って、理想を断じ、現実を直視し、このとき生れ合わせた歓びを語り合いなどすれば、夜を徹しても興は尽きまい。





「明日でも、お目にかかれば、御辺もまた信長様のご風格をよく察するであろうが、ご主君も陽気がお好きで、ご酒をあがられるとよく小姓衆に小唄舞(こうたまい)など求められ、ご自身も即興を微吟(びぎん)あそばしたりなされる。官兵衛、御辺には何ぞ芸があるか」

 秀吉の横道ばなしに、官兵衛はやや業を煮やして、「小唄舞も仕(つかまつ)る。猿舞も仕る」と、嘯(うそぶ)いて答えた。

 すると秀吉は、「それは器用な男だ。どうじゃ一さし舞わんか」と、自分の持っていた扇子を与えた。

「ここではご免です」と官兵衛は手を振って断った。そして隅の方に眠たげにひかえている小姓へ向い、硯筥(すずりばこ)を求めて、その扇子へ何やらしたため終ると、「殿こそ、お謡(うた)いください」と、秀吉の手へ返した。



 酬(むく)われた一矢(いっし)を苦笑してうけながら、秀吉は脇息(きょうそく)から燭の方へ白扇を斜めにしながら読んでいた。

更(ふ)けてのむほど
酒の色
かたりあふほど
人の味
夜をみじかしと
誰かいふ
いづみ、尽きなき
さかづきを

「半兵衛。この裏へ、何ぞ認(したた)めてつかわせ」

 巧みに交(か)わして、秀吉はそれを、竹中半兵衛へあずけた。半兵衛は筆をとって、裏面へ、

与君一夕話
勝読十年書

 と書いて、「殿のおいいつけなので、ぜひなく汚しました」と、さしだした。

 ふと手に取ったが、官兵衛は、じっと見つめている眼から、次第に酒気を払って、まだ墨の乾かぬ白扇をそっと下へ置き直すと、ていねいに両手をつかえて、半兵衛へ、「ありがとうございました」と頭を下げた。

 眼もとに深淵の波紋のような笑(え)みをちらとうごかしながら、半兵衛重治も、「わたくしこそ」と、膝から両手を辷(すべ)らせた。

 もう夜が明けていた。寺房の奥では、勤行(ごんぎょう)の鐘の音がしているし、寺門に近い表のほうでは厩の馬がいなないていた。







出典:吉川英治「黒田如水


2014年11月4日火曜日

日本人のお月見 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 知人からこんな話を聞いた。

 ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をしていた。もっとも月見の宴というような大袈裟なものではなく、集まって一杯やったのが、たまたま十五夜の夕であったというような事だったらしい。平素、月見などには全く無関心な若い会社員たちが多く、そういう若い人らしく賑やかに酒盛りが始まったが、話の合い間に、誰かが山の方に目を向けると、これに釣られて誰かの目も山の方に向く。月を待つ想いの誰の心にもあるのが、いわず語らずのうちに通じ合っている。やがて、山の端に月が上ると、一座は、期せずしてお月見の気分に支配された。暫くの間、誰の目も月に吸寄せられ、誰も月の事しかいわない。

 ここまでは、当たり前な話である。ところが、この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと思える一座の雰囲気(お月見の気分)が、どうしても理解出来なかった。そのうちの一人が、今夜の月には何か異変があるのか、と、茫然と月を眺めている隣りの日本人に、怪訝な顔附で質問したというのだが、その顔附が、いかにも面白かった、と知人は話した。

 スイスの人だって、無論、自然の美しさを知らぬわけはなかったろうし、日本にはお月見の習慣があると説明すれば、理解しない事もあるまい。しかし、そんな事は、みな大雑把な話であり、心の深みに這入って行くと、自然についての感じ方の、私たちとはどうしても違う質がある。これは口ではいえないものだし、またそれ故に、私たちは、いかにも日本人らしく自然を感じているについて平素は意識もしない。たまたまスイス人といっしょに月見をして、なるほどと自覚するが、この自覚もまた、一種の感じであって、はっきりした言葉にはならない。スイス人の怪訝な顔附が面白かったで済ますよりほかはない。



 この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。特に、文学なり美術なりは、この細かな感じ方が基礎となって育って来た。意識的なものの考え方が変わっても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変わらない。

 いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、ずい分手間がかかった事になる。妙な事だ。

 お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。文化という生き物が、生き育って行く深い理由のうちには、計画的な飛躍や変異には、決して堪えられない何かが在るに違いない。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」お月見




2014年11月3日月曜日

カメラと露出計 [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 私は、持物をどこかに置き忘れる癖があって、例えば帽子でも傘でも、いくつ買ってもむだなのである。カメラと露出計を持って旅行に出かけるのを見て、家内は、どうせ持って帰りはしない、請合っておく、と言った。彼女の予言は、いまいましいが的中した。まず露出計が、ある日エジプトのルクソールのホテルで、姿を消した。何処に置き忘れたかわからない。もっともわかるくらいなら紛失もしまい。

 ところが、これが後日判明した。エジプトからギリシアにまわり、ローマでゆっくりしている間に、それまで撮った写真を現像させてみたところ、ルクソールの沙漠(さばく)の中の廃墟で、同行の今日出海君を写したもののなかに、露出計が見つかった。彼の傍の石の上に、はっきり写っていたのである。その日、写真を撮ったのはそこが最後で、二人はそこからまっすぐホテルに帰り、私は露出計の無いことに気がついたのであるから、置き忘れた場所は、まさに、その石の上であったことに間違いはない。

 写真を眺めて、ヤッ、ここにあった! と大きな声を出した私の顔を、今君は見て、馬鹿野郎、と言った。何もローマから取りに行きたいと言うのではない。私が大声を発したのは、事実を確かめ得た歴史家としての喜びを表わしたに過ぎないのである。つまらぬ冗談をいうと人は笑うであろうか。



 さて、ローマでぶらぶらしているうちに、ある日、今度はカメラをどこかに置き忘れた。多分、タクシーの中であろうが、カメラがカメラを撮影するという奇跡は起こり得ないから、今もってこれはどこだかわからない。どうせ二つともなくすのなら、カメラの方を先きになくせば、露出計は俺がもらっておいたのに、と今君は言った。私は、別段がっかりもしなかった。それどころか、今までよくもったものだ、と感心した。そういう心理の動きは、私のようによく物をなくす人間には、習慣上備わっているものだ。

 ところがカメラをなくしてみて、意外な発見をした。実は、カメラなぞ私には邪魔だったのである。われながら小まめにパチパチ写していた間は、結構楽しかったのであるが、カメラがなくなってみて、こうさばさばした気持ちになるところをみると、ただ楽しかったような気がしているだけの話だったに相違ない。私には心の奥底で、カメラのメカニズムに屈従するのが、いつも気に食わなかったのかも知れない。

 いずれにせよ、首根っこからぶら下がった小さな機械が紛失したおかげで、私の視力は、一度失った気持ちのよい自由感を取戻したという感じは、大変強いものであった。このことは、私に文学の仕事の上でのリアリズムという言葉の意味について、今更のようにいろいろのことを考えさせた。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)」写真




解釈を拒絶して動じないもの [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 歴史の新しい見方とか解釈とかいう思想からはっきりと逃れるのが、以前には大変難かしく思えたものだ。そういう思想は、一見魅力ある様々な手管(てくだ)めいたものを備えて、僕を襲ったから。

 一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。

 晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の魂に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんな事を或る日考えた。









出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)
無常という事




2014年11月2日日曜日

林檎と文化 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜




 二十分ばかりお話をいたします。文化ということについて。文化という言葉がたいへん流行しておりますが、その言葉の意味を正確に知っている人が非常に寡(すくな)い様で残念だと思っております。

 今日使われている文化という言葉、これは勿論翻訳語でありますが、文化という言葉は昔から支那にあった、これは政治的な意味があって、武力によらず民を教化するという意味であった。そういう意味の文化という言葉をそのまま英語のculture或は独逸語のKulturという言葉に当てはめて了った。どっちにしろ意味はまるで違うんで、誰が訳したか知りませんが、こういうふうな訳のために、文化と言っても僕等には何が何やらわからなくなって了った。言葉に語感がないという事は恐ろしい事です。ただ文化文化とウワ言の様に言っているのです。

 だけどもカルチュアという言葉は西洋人にとっては、母国語としてのはっきりした語感を持っている筈だ。耳に聞いただけで誤解しようがないのです。カルチュアというのは畑を耕やして物を作る栽培という意味だ。カルチュアという言葉にしたって決して単一な意味ではないが、どんな複雑な意味に使われ様と、カルチュアと聞けば、西洋人には栽培という意味が含まれていると感ずる。これが語感である。

 ジンメルは文化を論じて、そういう点に及び、こういう意味の事を言っています。例えば林檎(りんご)の木を育て、立派な林檎を成らす。肥料を工夫したり、いろいろな工夫を施して野生の林檎からデリシャスだとか、インドだとかいう立派な実を成らすことに成功したならば、その林檎の木は比喩的な意味にしろ、カルチュアを持ったことなんです。だけども、林檎の木を伐ってその林檎の木の木材でもって家を建てたり、下駄を造ったりしても、それは原始的な林檎の木が文化的な林檎の木になったことにはならない。つまり栽培が行われたのではないからです。

 すると、こういう事になります。林檎自身にもともと立派な実を成らす素質があった。本来林檎の素質にある、そういう可能性を、人間の智識によって、人間の努力によって実現させた。そういう場合に林檎の木を栽培したという。だが林檎の木自身に下駄になる素質はない。勝手に人間が下駄を造ってしまった。林檎の木自身ちっとも知らないことです。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)




詩人の言葉 [小林秀雄]


〜話:小林秀雄〜




 ドガが慰みに詩を作っていた時、どうも詩人の仕事というものは難かしい、観念(イデ)はいくらでも湧くのだが、とマラルメに話したら、マラルメは、詩は観念で書くのではない、言葉で書くのだ、と答えたと言う。



 詩人は、ありの儘(まま)の言葉を提げて立っている。彼は、言葉に関して、決して器用な人間ではない。みんなそう思っているが、詩人に関する最大の誤解である。彼は実は、原始人なのだ。音や形や意味が離れ離れになっていない、一つの言葉、それは例えば目の前の一枚の紅葉の葉っぱの様に当たり前であり、ありの儘だ。これだけを信じて疑わぬ事が、そんなに難かしい事なのであろうか。やはり難かしい事らしい。








出典:小林秀雄「栗の樹 (講談社文芸文庫)



2014年11月1日土曜日

小林秀雄の自惚れ



〜話:小林秀雄〜




 高等学校の一年生の時、はじめて志賀直哉氏に会ったとき、聞いた話のうちでまだよく覚えている言葉がある。言われた通り僕が実行し、言われた通りになったからよく覚えているのだろう。

「君等の年頃では、いくら自惚(うぬぼ)れても自惚れ過ぎるという事はない。自惚れ過ぎていて丁度いいのだ。やがてそうはいかない時は必ず来るのだから」

 以来僕は自惚れる事にかけては人後に落ちまいと心掛けた。何が何やら解らなくなっても、この位物事が解らなくなるのは大した事だと自惚れる事にしていた。「改造」に初めて懸賞論文を出した時も、一等だと信じて少しも疑わず、一等賞金だけ前借りして呑んで了い、発表になって二等だったので大いに弱った。







ソース:小林秀雄「栗の樹




キツネの死んだふり [小林秀雄]



〜話:小林秀雄〜




 先日、ハドソンの「ラ・プラタの博物学者」を読んでいたから、死を装う本能について狐のことが書いてあって、思わず吹き出した。

 狐は危険が迫ると死んだ振りをする。時々うす眼を開けてもう大丈夫かどうか確かめる。大丈夫と見定めるとそろそろ立ち上がって逃げ出す。ところが、こいつがうまく行かない場合があるそうだ。狐の術策は極めて巧妙で犬などは完全に欺されるそうだが、あんまり巧妙すぎて本当に死んで了うという場合があるので、或る男が実験をしたら胴体を切断して了うまで死んだ振りをしていたという。








ソース:小林秀雄「栗の樹




2014年10月20日月曜日

幸せの両面 [足立大進]



〜話:足立大進〜


 心の幸せについて、仏教ではこんな面白い話がある。


 昔、インドに非常に貧しい青年がいました。青年は、町外れの見るに耐えないあばら屋に住んでいました。不幸のどん底に居た青年は「幸せになりたい」と願いを立てます。「幸せになるには、まず美しい妻を娶りたい」、こう考えた青年は妻を迎えるために一心不乱に仕事をし、お金を稼ぎました。

 ところが、お金というものは追っかけて稼ごうとすると、なかなか溜まらないものです。そこで青年は一計を案じ、古道具屋で幸せの女神像を買って来てお祀りし、「幸せになるように」と一生懸命に拝んだ。ところが、二年経っても三年経っても、幸せになれません。青年はとうとう匙(さじ)を投げて、「もう諦めた。私は明日死のう」と考え、床に就きます。

 その日、夜もだいぶ深まった頃、トントンと戸を叩く音がします。「空耳かなぁ、それとも狐が狸かなぁ」と思いながら、ガタピシの戸を苦労して開けました。すると、そこには春の朧月のなか、花の精かと思うような美しい女性が立っています。青年が「何ですか?」と尋ねると、女性は「あなたのところへ伺ったんです」と言います。「お門(かど)違いではありませんか。私の家は、あなたが起こしになるようなところじゃありませんよ」と言うと、美しい女性はほほえみながら、「いいえ、始めからお宅を目指して参りました。私は、あなたが日ごろ祈り続けていらっしゃる幸せの女神でございます」と答えます。青年は心の中で、やったーと喜び、「どうぞどうぞ」と女性を招き入れました。

 すると、幸せの女神の後ろからもう一人、別の女性がついてきます。「お伴がいらっしゃるんですか」と青年が尋ねると、女神は「妹と一緒に参りました」と言います。女神さま一人でも充分なのに、二人です。青年は大喜びで、現代であればガッツポーズをしながら、「ささ、どうぞどうぞ」と言って、二人を招き入れました。


 さて、行灯(あんどん)に火を入れて、二人の顔を見てみますと、姉さんのほうはとびっきり美しい。しかし、妹を見てびっくりしました。醜女(しこめ)と言いますが、言いようもないほど醜い女性でした。「本当に妹さんなんですか」と訊くと、女神は「確かに実の妹でございます。不幸の女神で黒闇女(こくあんにょ)、黒耳(こくに)と申します」と言います。

 青年は、幸せの女神はいいけれど、不幸の女神は困ると考え、「お姉さんだけ残っていただいて、妹さんはお帰りくださいませんか」とお願いした。そうしましたら、姉さんは「それは無理な注文です。私たちはいつも二人一緒でございます。二人一緒に置いて頂けないなら、帰らせていただきます」と言います。結局、青年の家には、吉祥女(きっしょうにょ)という幸せの女神と、黒闇女(こくあんにょ)という不幸せの女神が二人一緒に居ることになりました。


 私たちが日常生活の中で幸せだと感じているときも、必ず反対のものがそこにくっついています。幸せと不幸せは背中合わせです。すべての物事に、ただ一面ということはありません。常に相対立するものが存在する。一見、幸せそうに見える人にも、何かしら悲しみや苦労があるのです。どちらが良い悪いではなく、一面にとらわれず、両面を見ることこそ大切なのです。







出典:『即今只今』足立大進



2014年10月19日日曜日

雪山童子と諸行無常 [足立大進]


〜話:足立大進〜


 お釈迦さまがこの世にお生まれになるよりもずっと前、前世で「雪山童子(せつせんどうじ)」だった頃のお話です。

 雪山童子が山の中でひとり悶々と悩み、修行をなさっていました。そこへ帝釈さまが、羅刹(鬼)に姿を変えて現れます。雪山童子があんまり苦しんでいるので、ちょっと助けようと「諸行無常、是生滅法」とお唱えになりました。それを聞いた雪山童子は「なんと素晴らしい言葉だ」とハッとします。

 ところが、目を開いて見回してみても、あたりには誰も居ません。「今のは誰のお声だろう」と思っているところへ羅刹が現れた。「今のお声は、あなたさまでしょうか」と雪山童子が尋ねると、羅刹は「そうだ」と答えます。そこで「その続きがあれば、ぜひ聞かせて下さい」とお願いすると、羅刹はこう言います。「それどころじゃない。私はここ数日、何も食べていない。飢えと渇きで苦しんでいる。私は生きた人間の肉を食いたいのだ。飲みたいのは人間の血だ」。

 雪山童子は覚悟を決めて「続きの半偈(残りの句)をお説きいただけるならば、私の身体を差し出しましょう」と約束します。そこでようやく、羅刹に化けた帝釈さまは「生滅々已、寂滅為楽」と残りの二句をお唱えになります。それを聞いた雪山童子は、その言葉を後の世の人のために、周りの石や壁、木や道に石で書き留めました。手当たりしだいに書きつけたあと、「これでもう大丈夫」と木に登り、羅刹に食われるために身を投じられます。

 すると帝釈さまは、羅刹の姿から帝釈天に戻り、空中で雪山童子の身体を受け止めて、地上に安置し、礼拝をなさいました。



「諸行無常」

諸行は無常である。諸行というのは迷った心の働きを言います。「この世の中の一切のこと」と申し上げてもいいでしょう。あなたの心の迷いも、この世の中の一切のこともすべて移り変わるものだ。

「是生滅法」

是(これ)は生滅の法であるからである。生まれてきたものは消えていく。この世のすべては移り変わる。これが生滅の法である。

「生滅々已、寂滅為楽」

その生滅の法を滅し已(おわ)ったならば(そこを離れたならば)、寂滅をもって楽と為す。寂滅とは悟りの世界、無事の世界を指します。そこが楽である、お浄土である。と、こういう意味です。



 昔はお葬式で「野辺(のべ)の送り」というものがありました。私が田舎の寺に小僧に行った頃は、まだ火葬がそれほど主流ではなく、ほとんどが土葬でした。土葬の際は、棺桶を担いでお墓まで持って行きます。これが「野辺の送り」です。

 野辺の送りのいちばん先頭は松明(たいまつ)や鍬(くわ)を持って歩きます。その次に、四人の人が竹にぶら下げた白い旗を持って歩きます。これを四旗(しはた)と言います。その旗、それぞれに書いてある言葉が「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「是生滅法(ぜしょうめっぽう)」「生滅々已(しょうめつめつい)」「寂滅為楽(じゃくめついらく)」という四つの句です。



2014年10月18日土曜日

仏教の「同時」 [足立大進]


〜話:足立大進〜


 幼い子供たちが庭で遊んでいた。その中の一人が急に転んで、わぁーんと泣き出した。見ていると、一人の女の子がそばに駆寄った。

 さて、女の子はどうするのだろう。こんな場合、二つのやり方が考えられます。一つは、黙って起こしてやる。もう一つは「さあ、起きなさい」と励ましてやる。このどっちであろうかと眺めていたら、意外にも女の子は、泣きじゃくっている子のそばにゴロンと転んだ。そして、泣き虫の顔を見て、ニッコリ笑いました。すると、泣いている男の子も、目にいっぱい涙をためたまま笑った。そこで女の子が「起きようか」と言うと、男の子は「うん」とうなずいて、そのまま起き上がった。よく晴れた日の、ほほえましい出来事でした。

 私もそうですが、子供を前にすると、つい上から見て、手を貸して起こしてやろうと思います。しかしこの小さな女の子は、泣いている男の子のそばに転んでニッコリ笑った。転んで泣き止まぬ子供のそばに自分も転んで、相手と同じ世界で「起きようか」と誘う。相手との苦しみの共感であり、相手と共同の場に生きる。仏教では「同時」と言う。人の苦しみや悲しみを、まったく同じように共感することはできませんが、少しでも同じ世界に近づく努力はできるのです。






出典:『即今只今』足立大進




2014年8月26日火曜日

読書亡羊 [荘子]




臧與穀二人相與牧羊、而倶亡其羊。

臧(ぞう)と穀(こく)と、二人相い与(とも)に羊を牧(か)いて、倶(とも)に羊を亡(うしな)う。

臧と穀とが、二人でいっしょに羊飼いをしていたが、二人ともその羊を逃がしてしまった。



問臧奚事、則挾筴讀書。問穀奚事、則博塞以遊。

臧に奚(なに)をか事とせると問えば、則ち筴(さく)挟(わきばさ)みて読書す。穀に奚をか事とせると問えば、則ち博塞(はくさい)して以て遊ぶ。

臧は何をしていたかというと、簡策(しょもつ)をかかえて読書をしていたのだし、穀は何をしていたかというと、賭けごとをして遊んでいたのだ。



二人事業不同、其於亡羊、均也。

二人の者、事業はからざるも、其の羊を亡うに於いては均(ひと)しきなり。

この二人のものは、していた事こそ同じでないが、羊を逃がしたという点では同じである。








出典:荘子 外篇  駢拇篇 第八




2014年8月11日月曜日

「時計はあるが、時間がない」…ブータン人が見たニッポン




話:辻信一



わがブータン人の友、ペマ・ギャルポが来日した。

関東から関西へ、そして南九州へと旅をしながら、ペマは各地で講演を行った。回を重ねるごとに舌は滑らかになり、話にも磨きがかかる。たとえばこんな調子だ。

「日本人はとにかく忙しい。いつも時間がないと言っている。日本人は世界最高の時計をつくるが、肝心の時間がない。ブータン人は時計をつくれないが、時間だけはたっぷりある」



各地で日本の印象を問われた。

「失礼を承知で正直に答えます。大都会では、日本人は人間というよりロボットです」

乗り物の中で寝ている人が多いことに、まず驚いた。

「私はこれまで、立って寝るのは馬だけだと思っていたが、日本では人間もやっている」



起きている人は皆、携帯に釘付けだ。

「携帯が現れる前は、耳も目ももっと安らかで、口も鼻も幸せだったのではないか。一年に一日でもいいから、携帯を使わない日を定めたらどうでしょうか。かつてご先祖さまたちが、何を見て、何を聞き、何を嗅いでいたかを思い出すきっかけになる」

そして、こう付け加える。

「ブータンには、”幸せの5つの扉”という言葉があります。足、手、口、耳…。その扉を通じて世界を歩く、感じる、味わう、見る、聴く。一体それ以上に何が必要でしょうか?」



彼の口癖は、「生まれる時も死ぬ時も、この身一つ」。

「ブータンでは、足るを知ることこそが、幸せの鍵だと考えています。欲望に駆られるほど、私たちは不幸せになっていくのです」








出典:BE-PAL (ビーパル) 2014年 07月号 [雑誌]
辻信一「本物を生きている者たち 〜to」



2014年7月2日水曜日

女傑の母に導かれた「入神の妙技」 [遠藤時習]




遠藤勇五郎時習(ときしげ)

 ——女傑に育てられた伊達男



 遠藤時習(ときしげ)は時中の子である。父に従って射芸を学んだが、晩成の器であったのか、なかなか上達せず、堂射ができなかった。24歳のとき父に死別したが、時習は重症の「早気(はやけ)」になって、とても家業を継ぐどころではなかった。早気とは、弓を射る際に、十分に発射の機が熟さない早い時期に矢を発射してしまい失敗する射の癖である。種々の射癖のなかでも、最も直すのが難しい。

 そのころ山内致信の子の三保吉秀雄が、射芸に精通して既に一家をなしており、時中(時習の父)の後の仙台藩指南役に命ぜられる形勢となってしまった。



 時習の母は天厳院といい、天保12年に70歳で亡くなった人であるが、男勝りに女丈夫であった。そのような形勢を察すると、あるとき時習を一室に呼んで、涙ながらに云うには

「お前は射芸の家に生まれながら、未熟にして家業を継ぐのが難しい。大変残念なことであります。これでは、亡父の霊に対し一死をもってこれ謝るほかはありません。ゆえに母はすでに覚悟を決めました。お前の一箭により潔く瞑目しようと思います。お前もまたこの母を射たあと、射芸未熟のための過ちで母を射てしまったその罪は軽くない、よって自害しますと遺書をしたためて事後処理をしなさい。心広く思いやり深い藩公が我ら母子の心情を察せられて、あるいは家名存続の恩命に浴することもあるでしょう。これが祖先と亡夫とに対する唯一の途です。決して迷うのではありませぬぞ」と諭して聞かせた。

 時習もこのような母の命に従うよりほかに仕方がなかった。






 母子は射場を清めて、父祖の霊を祀り、母は正装して矢道におり、矢面に立った。子は日ごろ愛用の弓矢をとって射場に立つ。誠に悲壮な光景に、母子はしばらくのあいだ涙にむせんでいたが、そうしていてもきりがないと、母は子を励まして

「これも皆、父祖のため、家のためです。かならず卑怯未練があってはなりませぬ。その一矢をもって我を射止めなさい。射損じて無益の苦痛を与えてはなりませぬぞ!」と激励した。



 時習も今は仕方なし、もはやこれまでと覚悟を決めて、目を閉じて、心をこめて神仏に祈り、渾身込めて熱血を奮い立たせ、威風堂々と弓を満月に引き絞った。もし早気で矢を離せば、ただちに母の胸を射通すであろう。

 辺りはしんとして音もなく静まり、凄惨な気配がその場を満たした。さしもの早気も影を潜め、いよいよ機は熟して、まさに矢が弦を放れるかと思われたその刹那、たちまちに時習の射形が入神の妙技に変じた。

 そのとき母は一声高く、「善し、その呼吸を忘れるでない!」と叫んで矢面を避けた。

 時習はしばらく呆然として、酔ったような夢心地のようであった。その時まさに神秘の扉を開く鍵を得たかのように、豁然として悟るところがあったのである。



 それから何日も経たない間に、雪荷派の極意に達した。そのようにして成長した時習に、山内秀雄は受け継いでいた仙台藩の射芸指南役を譲ったのであった。






 時習は一度、江戸深川の堂に上ったが、三井某という書家に妨害されて新記録に失敗したことがあった。その後、再度試みたいと藩主伊達慶邦公に願い出たところ、お許しは出たが、「万一今回もまたその目的を達し得ないならば、帰藩するに及ばず」というきつい命令であった。

 時習を幼いときから養育した横山という足軽なども大変に心配をし、一緒に江戸に上り、成功を神仏に祈願していた。諸般の準備も終わり、いよいよその当日になり、担当の役人も早朝から出てきて、定刻ともなると見物人が市をなした。ところが肝心の時習の姿が見えない。



 皆が心配していると、そこへ遊郭帰りでほろ酔い加減で酒の香を漂わせながら、伊達な着物姿の時習がやって来た。

 堂に上がると諸肌を脱ぎ、初矢を放ったが通らない。ところが続く二の矢、三の矢は綿々として糸のごとくに切れ目なく、雲を起こし風を呼び、飛ぶがごとく流れるごとくに、見るも見事に通って行くので、見物人一同、思わず歓呼の声をあげてその妙技を誉め称えた。

 そしてついに、日矢数の総矢6,561本中、4,066本を通し、首尾よく「射越し」の新記録をだして、江戸一の名声を博して宿願を遂げたのであった。

 当時、江戸の花柳界に「勇五郎紋」という柄模様が流行したという。これは勇五郎時習が射越しをやったときの着物の模様をとったものだそうである。



 時習は嘉永4年5月に、行年55歳で没した。法名は霊鷲院秀嶽雄䠶居士。

 「勇五郎遠藤先生之墓」が仙台土樋の大蔵山松源寺に、いまも父・時中の墓とならんで建っている。








引用:
弓聖 阿波研造
附録Ⅱ 仙台藩雪荷派 仙台藩当流射芸史(樋口臥龍原作)




2014年7月1日火曜日

「はじめから矢先が的の中に入っている」 [竹内敏晴]




話:竹内敏晴



 このころ、急に思い出したことがあった。その一つは弓の修業についてであった。さしあたって今は弓について書く。からだの不思議に微妙な働きについて、驚くとともに、深い信頼感を私が持ち続けているように思うのは、この経験によるところがあるらしいから。



 私は13歳から弓術をはじめた。耳が悪化してほとんど完全に「つんぼ」になった時期である。ほかの運動は満足にできなかったのだろう。一年後に初段になり、15歳で二段、16歳で三段になった。第一高等学校でも弓術部に入ったのだが、運動部というものの考え方がまるで違うし、自分自身人生について悩みはじめたことと重なって、段を取ることはやめてしまったから、どれほどの技量に達したかはわからないけれども、ほぼ10年間、わたしは弓に熱中した。

 高等学校に入った頃は、生来の耳の病気が良くなって、からだ全体が非常に快調に成長しはじめた時期だったのかもしれない。わたしは猛烈な稽古をした。17歳の冬、寒稽古に、夜中の零時から次の日の零時まで24時間、不眠不休で弓を引いて一万一本射た記憶がある。的に向かって射たのが三千本くらいだったろうか、あとは巻藁に向かって射た。だれ一人助けてくれる人はいなかったから、そうするほかはなかったのだが、とにかく一万本を24時間で射たのは、たぶん明治以降は私一人が持っている記録ではないかと思う。そういう無茶なことをしたおかげで、私はほかの高等学校の運動部にまで有名になったらしい。

 確か19歳の秋、わたしは絶好調であった。弓をいっぱいに引き絞って、的をぴたっと狙う。狙うと的が非常に大きく見える。大きく見えるというのは、30m先の的が30m先で大きくなるのではない。ぐんと近づいてくる。反対にコンディションの悪いときは、的がはるか遠くに消えそうになって、どうしてもつかまえられない。狙えないことがある。この秋の絶好調のときには、ぴたっとからだが決まったとき、的に向かって弓を押している左手、つまり弓手が的の中に入っているように見えた。的が弓手のこぶしより手前、肘にあたりに見える。これでは、はじめから矢先が的の中に入っているわけだから、これはまあ、外れっこない。事実こういうときには絶対に外れない。

 絶好調のときにはこんなことが起こる。まず、第一の矢が的の真ん中の黒丸にあたる。次の矢を射ると、これが前の矢筈にガチンと当たる。実戦用の矢尻なら前の矢を裂いてしまうはずだが、うすい金属の帽子みたいな矢尻だから、前の矢の矢筈をカチンと欠いて、羽根を削ってピタリと並ぶ。さらに第四の矢がまた第一の矢筈に当たる。こんな経験がなんべんかある。

 これは10年ばかりたって、たまたま知人との思い出話のなかに浮かんできて、われながら不思議な気がしたのだが、そんなにちゃんと当たるはずはどう考えてもあり得ない。にもかかわらず当たるのはなぜか? 意識を超えた、きわめて微妙なからだのバランスのコントロールがあるのだろうと考えないわけにはいかない。



 実はその存在をもっと証明するような経験があった。まだ私が16歳、中学在学中だった。弓の稽古をしているうつに日が暮れてきた。戦争中のことで電力制限で電燈がつかない。弓術は矢を四本もって14、15射目から夕闇が濃くなって、的がほとんど見えなくなってしまった。しかし、それまで一本も的を外していない。記録がつくれそうなのにやめるのは残念なので、とにかく真っ暗な道場のなかで、足の位置だけをピチッときめて立ったまま動かないことにした。

 友達に射た矢をとってきてもらっては、またつがえてキリキリと引き絞る。的はまったく見えないのだが、張りつめた力のバランスがピッタリ成り立ったところで、パッと離す。パーンと当たった音がする。こうして、20射20中するというのはなかなかむつかしいことで、私は、最初の一本を外して20射19中とか、途中で一本外して20射19中とか、30射で28中とかはなんべんやったかわからないけれども、20射皆中はほとんどできなかった。その出来たまれな例がこのときであった。足の位置さえピタッとしておきさえすれば、的が見えなくとも当たる。体のバランスがきまっているときは、それほど微妙な正確さを持ってくるのだということは、少年の心におぼろげながら感動を残した。



 宮本武蔵がそばにたかってくるハエを箸でつまんで捨てたという話があるが、大正年代にいた中山博道という剣道の名人が同じことができたという。実際にそういうことはありうるだろうと信じて私は疑わない。からだと「もの」との関係は、それほどすばらしく精妙なのだ。ただ私には、それが年がら年中できたとは思えない。名人になれば、ある集中度を持とうとすれば、どんな状況でも必ずできるという状態を保ち続けられるのかもしれないが、しかし、それは肉体と精神とが最高のコンディションにあって、有機的につながっているときにのみ可能なのであって、常時できるかどうかは、保証の限りではないだろう、と思う。













評:日野晃



 おもしろいことに、竹内敏晴氏はオイゲン・ヘリゲル氏が学んだ阿波研造氏に、勝るとも劣らない弓の技術を身につけていたということだ。しかも、10代の半ばにしてだ。

 以前、弓術の話になったとき、竹内氏は「私は、阿波氏のように観念的なところに解決したくはない。すべてはからだの微妙なバランス感覚だとしています」とおっしゃっていた。また、「私は武道を否定します」とも明確におっしゃった。

 もちろん、阿波氏であれ竹内氏であれ、特別の人、つまり「達人」である。しかし、それらは結果論にすぎない。達人という体をつくりだしたのは、まぎれもなく達人以前の「身体(もちろん知性や内的なもの全てを含んだ)」なのだ。決して、摩訶不思議ななにかが突然、達人という身体をつくりだしたのではない。













出典: