2015年8月31日月曜日

英語で読む「内閣総理大臣談話2015」その1


Statement by Prime Minister Shinzo Abe
内閣総理大臣談話

Friday, August 14, 2015
平成27年8月14日
Cabinet Decision
閣議決定


(Paragraph1)

On the 70th anniversary of the end of the war, we must calmly reflect upon the road to war, the path we have taken since it ended, and the era of the 20th century. We must learn from the lessons of history the wisdom for our future.

終戦七十年(the 70th anniversary)を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓(the lessons of history)の中から、未来への知恵(the wisdom for our future)を学ばなければならないと考えます。


(Paragraph2)

More than one hundred years ago, vast colonies possessed mainly by the Western powers stretched out across the world. 

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地(colonies)が、広がっていました。

With their overwhelming supremacy in technology, waves of colonial rule surged toward Asia in the 19th century. 

圧倒的な技術優位(supremacy in technology)を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。

There is no doubt that the resultant sense of crisis drove Japan forward to achieve modernization. 

その危機感(sense of crisis)が、日本にとって、近代化(modernization)の原動力となったことは、間違いありません。

Japan built a constitutional government earlier than any other nation in Asia. The country preserved its independence throughout. 

アジアで最初に立憲政治(a constitutional government)を打ち立て、独立(its independence)を守り抜きました。

The Japan-Russia War gave encouragement to many people under colonial rule from Asia to Africa.

日露戦争(The Japan-Russia War)は、植民地支配(colonial rule)のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。


(Paragraph3)

After World War I, which embroiled the world, the movement for self-determination gained momentum and put brakes on colonization that had been underway. 

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決(self-determination)の動きが広がり、それまでの植民地化(colonization)にブレーキがかかりました。

It was a horrible war that claimed as many as ten million lives. 

この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争(a horrible war)でありました。

With a strong desire for peace stirred in them, people founded the League of Nations and brought forth the General Treaty for Renunciation of War. 

人々は「平和」を強く願い、国際連盟(the League of Nations)を創設し、不戦条約(the General Treaty for Renunciation of War)を生み出しました。

There emerged in the international community a new tide of outlawing war itself.

戦争自体を違法化(outlawing)する、新たな国際社会の潮流が生まれました。


(Paragraph4)

At the beginning, Japan, too, kept steps with other nations. 

当初は、日本も足並みを揃えました。

However, with the Great Depression setting in and the Western countries launching economic blocs by involving colonial economies, Japan's economy suffered a major blow. 

しかし、世界恐慌(the Great Depression)が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化(economic blocs)を進めると、日本経済は大きな打撃(a major blow)を受けました。

In such circumstances, Japan's sense of isolation deepened and it attempted to overcome its diplomatic and economic deadlock through the use of force. 

その中で日本は、孤立感(sense of isolation)を深め、外交的、経済的な行き詰まり(deadlock)を、力の行使(the use of force)によって解決しようと試みました。

Its domestic political system could not serve as a brake to stop such attempts. In this way, Japan lost sight of the overall trends in the world.

国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢(the overall trends)を見失っていきました。


(Paragraph5)

With the Manchurian Incident, followed by the withdrawal from the League of Nations, Japan gradually transformed itself into a challenger to the new international order that the international community sought to establish after tremendous sacrifices. Japan took the wrong course and advanced along the road to war.

満州事変(the Manchurian Incident)、そして国際連盟(the League of Nations)からの脱退(the withdrawal)。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲(tremendous sacrifices)の上に築こうとした「新しい国際秩序(new international order)」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道(the road to war)を進んで行きました。


(Paragraph6)

And, seventy years ago, Japan was defeated.

そして七十年前。日本は、敗戦しました。


(Paragraph7)

On the 70th anniversary of the end of the war, I bow my head deeply before the souls of all those who perished both at home and abroad. I express my feelings of profound grief and my eternal, sincere condolences.

戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念(profound grief)を表すとともに、永劫の、哀悼の誠(sincere condolences)を捧げます。







(つづく)



田中角栄の「ブッダ・フェース」



〜話:山折哲雄〜


 昭和60年、6月26日朝のことだった。当時の新聞各紙の社会面に、田中角栄元首相の近況を告げる記事が大きな活字で載っていて、驚かされた。「角さん」はこの年の2月27日に脳梗塞で倒れて入院していたが、それ以来、4カ月ぶりにその姿を人々のまえに現したからだった。

 それらの紙面には、東京目白の私邸でソファに腰かけてくつろぐ3枚の写真がのっていた。ソファに腰かけてはいるけれども、そのすぐそばには車椅子がおいてある。脳梗塞で右半身が麻痺、言語障害も引きおこしていて、リハビリに励んでいる病状をそれとなく写しだしていた。3枚の写真では、書類や手紙を手にしているのは左手であり、右手はいずれも力なく、ソファやからだに添えられたままだった。



 たまたま載っているあるコメントに目がとまった。それは当時、社会保険中央総合病院で脳神経外科部長をつとめる三輪和雄さんの談話であったが、氏は記者の質問につぎのように答えていた。

 顔の左頬の筋肉が軽い麻痺を示し、右腕と右足も麻痺していると類推できる。脳卒中などの後遺症で、穏やかな「ブッダ(仏陀)フェース」になることがあるが、元首相の表情は憂鬱そうで、生気のないのが気がかりだ。

 その記事を読んで、私は心にひっかかるものを感じた。「脳卒中の後遺症で、穏やかな”ブッダ・フェース”になる」というくだりである。「仏陀の顔」というのは、いうまでもなく悟った人間の理想的な表情をいったものだ。日本人であれば、仏教を信ずる者も信じない者も、誰しもが思いおこす、あの静かな深味のある顔である。その「ブッダ・フェース」がいったいどうして脳卒中などの後遺症で、たまたま穏やかになった顔をいいあらわすのに用いられているのか。






 それが気になっていて、数日たってから私は三輪さんに電話をかけて、くわしい事情をきいてみた。すると即座に、あれは記者がいってきたのに答えたものだといわれる。田中元首相の顔は医学の世界で「ブッダ・フェース」といわれるものではないかと聞いてきたので、そうかもしれないと答えた…。

 けれども三輪さんは、それに話をつなげて、「じつは西欧の近代医学の教科書には、そのようなことが書かれていたのだが、現在はそのように東洋の仏教を差別するような言い方はしていないはずです」と答えられた。

 私は一瞬、なるほどと思いながら、同時にブッダの表情は、西欧人にとって必ずしも価値ある表情とみなされてはいないということを知らされて、胸を衝かれたのである。



 実例をもう一つ紹介しよう。米国のジョンスン大統領の時代にラスクという国務長官がいたが、彼は「個人的な感情を一切顔にあらわさない」ということで有名な人物だった。どんな政治的な激動期に入っても、いったい何を考えているかわからない不気味な男であるということで、マスコミの評価はあまり良くなかった。政治家というのは、自分の感情をもろに出したほうが大衆の人気を博するのだが、彼はまったくそういうことをしないタイプの人間だった。

 そんなラスクを皮肉って、新聞記者たちに「彼の顔はブッダのような顔である。何を考えているかわからない。気味の悪い顔である」と書きたてたのである。私はあらためて、西欧人と東洋人のあいだの価値観の根深い違いを思い知らされたような気がした。









出典:月刊「武道」2015年9月号
山折哲雄「文武一如」


2015年8月30日日曜日

念流「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」


〜話:念流二十五世、樋口十郎右衛門源定仁〜


 念流(ねんりゅう)は

「後手必勝(ごて・ひっしょう)」

徹底的な護身を旨とした自衛の剣です。その理念として、すべての人生に通ずる剣法であること、和の剣法であり、人を倒すことを目的とせず、

「十分の負けに十分の勝ちあり」

の精神をもつことを掲げています。念流十四世定高の

「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」

の教えのように、「勝つことを求めず、守りに徹し、最後に相手の負けを認めさせる」剣術です。あくまでも争うことを善とせず、「剣は身を守り、人を助けるために使うもの」と考えています。



 当流に入門した門弟は、後ろ足に重心を置いた八文字型の「足捌き(あし・さばき)」を学びます。上体は常に相手を真正面で受け止めるため、体を開くことはありません。加えて全身、とくに下半身の鍛錬を行います。これを「体作り(たい・づくり)」と言います。当流の業(わざ)は、すべてこの所作の上に成り立っているため、これを身に付けなければ、数々の業を身に付けることはできません。

 当流の「気合(きあい)」は古来より連綿と継承され、そこに「手の裏(うち)」の極意があります。「気合」は単に声を出しているわけではなく、全身の動作と連動した呼吸法です。体の動きは「形(かた)」、呼吸は「気合」で覚えます。当流の「気合」と「手の裏」は、道場で先輩を真似ることで身に付くのが理想です。これを「見盗り稽古(みとり・けいこ)」と言います。



 当流の初心者への稽古は、体得を主体とし、言語による指導はできるかぎり避けています。指導者が言語化した情報はそれを体得した者は理解できるのですが、初心者にとっては理解不能どころか、誤解を生む可能性があります。身に付いてきたと思う時期に、指導者の言語でその動きを体系化しながら頭に刷り込む作業は必要です。しかし、基本は単純だからと、言語で教えようとしてもまったく身に付きません。

 基本に忠実、そして人の動きを見て覚えると上達は早いものです。頭で覚えたことは、それを修正したときに狂いが生じます。当流では一度できあがりつつある形を、もう一度崩すくらいの激しい稽古をしつつ、本当の業と体の習得を目指します。これを何度も繰り返していくのが念流の稽古です。それには10年、20年かかります。



 剣の動き、体の動き、これはその人のこころの表れです。当流では、お互いの気合が合えば「剣と剣がクモの糸で引かれ合うように動いていく」と言われます。無駄のない剣の動き、その体の動きには、その人の瞬時のこころを感じるときがあります。恐れ、怒り、気負いがあれば、剣と体は離れ、その動きはぎこちなく、無駄に速くなったりするものです。こころ静かに相手の動きを見て、気合、気配を感じながらその流れに逆らわずに剣を使えば、速くも遅くもなく、剣と体は同体となり無駄なく動きます。

 当流には「気位(きぐらい)」という言葉があります。「気位」とは相手が感じるものであって、自分が感じるものではありません。自分で感じてしまっては、うぬぼれや自信過剰です。相手に剣を向けるとき、この時点では勝負は誰にもわかりません。勝ちを意識しても負けを意識しても、体と思考は硬直してしまいます。自分の剣の「心」を信じ、相手の剣と交わるまでは体の力も抜いて、臨機応変に変化できるように気を保ちます。「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」の精神が「気位」につながります。



 剣はその刃で人を殺(あや)めることのできる道具です。剣はその剣尖を相手に向けた瞬間よりその意味が生まれます。木剣であれ、当流の袋竹刀(ふくろ・じない)であれ、その剣には刃があります。

 しかし、道場では往往にしてその刃の存在を忘れて単なる棒の稽古になる場面があります。剣術の稽古で危険なのは、この剣の意識の低いときです。相対した者の意識と、剣に対する恐れを感じ、自らは「気位」を保ち、相手の「心」をとることが当流の修行です。

 当流の剣術は、その人を育てる慈しみのこころを持つ師の剣を受けること、そして信頼関係のある門弟同志が剣を交えることでしか修行できません。それこそが、当流が「和の剣」と言われた所以であり、念流創始者である慈恩和尚の名前の由来と私は信じています。




出典:月刊「武道」2015年9月号
樋口十郎右衛門源定仁「念流随想」


2015年8月22日土曜日

「スーパー捕食者」人間 [AFP]



〜話:AFP通信〜




人間が成魚を殺す割合は、海洋捕食動物より14倍も高い傾向がみられるという。また、人間がクマやライオンなどの大型陸生肉食動物を殺す割合は、野生の捕食動物の9倍だという(Science誌)。

なるほど人間は、成体の動物や魚を過剰に殺す「スーパー捕食者だ」。





人間が行う狩りは、海の自然界で行われている狩りの方法とは180°異なる。海では、大半の捕食動物が主に狙うのは成熟していない個体で、成体は約1%しか捕食されない。

漁業に関して、トム・ライムヒェン教授とダリモント教授は「成熟していない幼魚で、より小型の魚に重点を置くように」と呼びかけ、「成魚は繁殖に関して有用であり、繁殖が可能なあいだにより多くの卵を産めるように捕食対象から外すべきだ」と主張している。







出典:AFP BB News
人間の「スーパー捕食者」傾向に見直し必要、研究




2015年8月19日水曜日

ダルマ蔵相[高橋是清]



〜話:阿部真之介『非常時十人男』〜


高橋是清





高橋さんの進退と斎藤内閣


 第六十四回議会も無事にすんだ。二十二億の空前の非常時代予算もほとんど全院一致で通過した。これで非常時は解消したのだ。昭和七年末、鈴木総裁に対して、高橋蔵相が、

「自分としては先の臨時議会に財界応急策を樹て、今議会で財界根本方策を樹立した上は、もはやその職責を尽くしたものとして、蔵相の職を退きたいと思っている。だからせめて本議会だけは国家のため何ぶん穏やかに援助して頂きたい」

と申し出で、斎藤内閣の進退について、暗黙に諒解を遂げてあった時期が来たのだと政友会は観測を下して、ここに斎藤内閣桂冠説が政界を蔽うに至った。果たして政友会の観るごとく非常時局が済んだかどうかは第二の問題として、高橋蔵相が辞めることは、斎藤首相がたびたび言明したように、斎藤内閣を危殆に瀕せしむることなのだ。

 そこで首相ばかりでなく、現内閣の三大支柱の一である荒木陸相まで、高橋蔵相に非常時は未だ解消したものではない。ここで蔵相が辞めることは、国家にとって決して望ましいことではない旨を力説して、蔵相の辞意を翻させようとしている。それほど蔵相・高橋是清子の存在は我が国財界にとって、重要な一礎石になっているのである。



 では誰が高橋をこれまでにしたかということになるのであろうが、しかし彼の場合にあっては「何が」という方が妥当している。彼の足跡を見るとき、常に彼は国家の非常時に際会している。そして、それをともかくも切り抜けてきている。で、その度ごとに彼は、一歩一歩人間として完成の途(みち)をたどって来ているのだ。また経済界における信用を増し、重きを加えてきているのだ。ここに彼の強みがあると言わなければならない。

 彼が初めて国家の大事に直面したのは、日露戦争のときだった。そのとき彼は日本銀行副総裁だった。政府がいよいよ開戦と決意し、松方正義、井上馨の二元老が財政上の世話をすることになたが、当時日本には金がなかった。そこで明治二十七年二月十日、宣戦の詔勅が下ると間もなく、彼は松方元老のところに呼ばれて

「日露両国は開戦のやむなきに至ったが、さきに立つ金がない。この上は外債を募集するより外に方法はないが、君は欧米に行って募債に尽くしてくれ」

と頼まれ、井上 侯からもたってという話で二月二十七日、外債募集の大任を帯びてロンドンに出張した。そして、わが関税の収入を担保として、世界財政の桧舞台に立って非常に苦心惨憺して、第一回の一億円をはじめとして、五回にわたって十億七千万円という当時の我が国力としては極度の外債募集に成功したことは、今に語り草として伝えられているところであるが、このとき翁は英国の財界の巨頭ロスチャイルドにその手腕と誠実とを認められ、それが成功の因となったのである。



 翁の手記によると、明治三十九年の末、外債募集も終わったので、帰国の挨拶のためにロスチャイルドを訪問すると、彼は改まった口調で、

「今回の日本外債の成功の原因はロシアとの開戦の名義が正しかったためで、日本への同情の結晶である。決して日本の財力に与えられた信用の結果ではない。日本もこの点を留意して今後信用を高めるため、第一に国民の負担を軽くし、これによって国内の産業を発展せしめ、第二に日本に減債基金制度を設けて外債の整理をしなければならない」

と教えたという。そしてこれが日本の減債基金制度の基(もと)となったものだと称して、功をロスチャイルドに帰している。この点などまったく翁らしい面目が躍如としているところである。この功績によって翁は華族に列せられ男爵となった。






高橋翁と田中男の腹芸


 その次は、例の第五十二議会の片岡直温蔵相の失言から巻き起された、我が国金融界空前のパニックの後始末で、鈴木商店の破綻から台湾銀行の取付けとなり、若槻内閣は台銀救済のため、日銀から二億円を貸し出さしめ、その補償を政府がするという緊急勅令案が、枢密院の否決するところとなったため、昭和二年四月十七日、闕下に辞表を捧呈した。

 ところが十八日になると日本銀行の貸出しは空前の激増を示して八億七千万円となり、前日の五億八千万円に比べてわずか一日で二億九千万円増加したのであった。十九日になると政友会の田中義一男に大命が降下した。が蔵相となってこの難局に当たろうという人がいない。田中男は参内の帰途、赤坂表町の私邸に翁を訪うて、切に財界救済のため出盧を乞うた。

 ところで当時、田中男と翁との関係はどういうことになっていたかというと、翁は原敬氏の内閣にやはり蔵相として在職していた。時に原氏は東京駅頭に兇手に倒れ、政友会総裁のお鉢は党の長老である翁のところに回ってきた。そして政友会総裁なら下院に議席を持たなければというので子爵を令息に譲り、上院議員を辞めて丸腰となって原敬氏の郷里、盛岡市から下院に立候補し、政友本党の田子一民氏と火の出るような戦いをして、天下の視聴を大慈寺墓畔に集めたものだ。こうして護憲内閣に政友会の首領として入閣したのに、党内の策士のため追い出されて、その後に田中義一が入って総裁となったのである。してみれば普通の人としては、どんなに懇請されても「出る幕ではありません」と固辞しそうなところを、しかも当時病気していたのに、一身を国家に捧げて出盧を肯んじたのであるから、とうてい常人にできない腹芸の持ち主なのだ。

 で、二十日に親任式に臨んだが二十一日は十五銀行が休業となり、同日一日だけで日銀の貸出し六億三千万円、兌換券の発行額二十三億一千余万円という空前の巨額となり、紙幣が足りなくて五十円札、二百円札が急造されて市中に出たが、この二百円札などは鼠色片側刷りで、裏は真っ白というお粗末千万のものであった。



 こういう状態なので翁は一刻も猶予できないと翌二十一日の閣議で

一、二十一日間の支払い猶予令を布くこと。
二、臨時議会を招集して台銀救済、財界安定の法案の協賛を求めること

の二項目を決定し、各銀行は二十二、三日の両日、自発的に休業させた。その結果どういうことになったかというと、二十一日間のモラトリアム緊急勅令案は枢府を通過し、予期された二十四日の銀行休業明けの再取付け騒ぎも起らず、財界安定法案も五月四日から五日間招集された臨時議会で、乗員の阪谷男から

「今や日本は怒涛さかまく海の中に乗り入れた船のようなものである。高橋という老船長が舵をとって、一生懸命にこの波を乗り切って、彼方の岸に達せんとして苦心している。このごとき場合、その船長の耳傍(そば)に行って、あっちへやれ、こっちへやれと指図することは断じて面白くないことである。この際はよし不満足な点があっても、我々は高橋蔵相の人格と手腕と徳望に信頼して、一言一句の修正なく、この両案に賛成したい」

というような賛成演説もあって通過し、また案ぜられたモラトリアムの延期期間満了後の動揺もなく、この未曾有の財界の恐慌を乗り切って、阪谷男の知己の言に酬(むく)い、これで就任当初の目的が遂げて飄然と六月二日三土文相に後事を託して桂冠してしまった。



担ぎ上げられた高橋翁


 それに次いでは、一昨年の若槻内閣の退却後に成立した犬養内閣への入閣だ。この時は事が新しいだけに読者諸君もよくご存知のように、経済国難の声が日本中に漲っていた。ときに民政党内閣は安達、富田の協力内閣実現運動にひっかかって変態的の政変が起った。西園寺公は、憲政の常道にしたがって政友会総裁犬養毅を後継内閣の首班に奏薦した。

 そこで政友会内閣成立という段取りになるのだが、ここで一番問題になったのは何といっても満州事変が起っている際であり、経済国難の叫びが挙がっている時だから、陸相と蔵相に人を得なければならない。陸相のほうは幸いに荒木貞夫中将が引き受けたが、蔵相に誰を据えるかが問題、するとさすがは犬養木堂で、内閣総理大臣の前官礼遇を受けている高橋是清翁を訪ねて

「現下の時局は重要問題が山積しているが就中(なかんずく)財界の対策については最も深甚の考慮を遂げ、善処せねばならぬと信ずる。自分も老躯を顧みず大命を拝したる以上、全力を傾注して多難なる時局に処し、大任を全うすべく最後の御奉公を尽くしたい決心であるから、ぜひ貴下の御援助を乞う」

と口説いたところ、気のよいお爺さん、すぐと承諾してしまった。


 驚いたのは主治医で、七十八歳の爺さんが蔵相の激職に耐えられるものかと心配して、健康診断にとんで来たりなんかしているのに、当人、案外しっかりしいて、

「医者からはえらく厳しく申し渡されて、人には『面会を十分で切り上げろ、その後ですぐ寝ろ』なんてやられてるし、酒も不味くてあまりやりたくてもやれんという塩梅だからね。しかし、この重大な時にそんなことも言っては居られない。いったん大任を御引き受けした以上は、身体の続くかぎりやるつもりだ」

と家の子、郎党を喜ばせたり、心配させたりしたものだ。世間でもこの病蔵相の出演に犬養内閣の初登場を喝采をもって迎えた。



 で、翁は予定された通り赤字時代を救うために金の輸出禁止という荒治療を振るってしまった。翁の説に従えば、財界の不況深刻なところへ正貨が流出するから、従って金利が騰(あが)って金融が梗塞するのだと。正貨の流出が止まったらこの反対現象が招来されて、財界は景気が回復するというのであった。この財政策が当を得たものか得なかったかは、諸君のすでに切実に感じられていることであろうし、翁の財政的手腕まであげつらうことは本稿の目的でないからこの辺でやめるが、高橋蔵相というと「放漫政策のインフレ景気病患者」だと思い込んでいるらしいのに、去る一月二十八日の下院の予算委員会で、民政党の田中貢から

「インフレーションの浸透は経済界に種々の影響をあたえているが、そのうち最も注意すべきは思惑人気の発生で、民間会社のうちには、この表面的な景気の出たのに乗じて増配を企てるものがある」

と突っ込んだのに対して蔵相は

「常に機会のあるごとに整理の必要を言明しているが、情けないことに会社の重役というものは、徒らに株主の機嫌のいいように配当する。増配より整理に力を入れて会社を強固にすべきにかかわらず、なかなかやらない。政府はこういうことのないように経済界に希望する」

とインフレ景気に頂門の一針をあたえている通り、単なる放漫居士でないことを一言しておく。



非常時内閣の鉄柱


 で、今度の斎藤非常時内閣なのだが、五一五事件の直後の日本の与論はどうなっていたかというと、満州事変にともなう対外硬はもちろんとして、国民一般に望んだものは、円価の暴落による物価の騰貴、財界不況による失業、ことに農村方面においては生産品の価格の暴落と負債の増加などを、強力な挙国一致的な政府の手で救えということであった。そこで重臣の意向も決定し、斎藤実子を首班とする協力内閣となったが、軍部を除いては一流の政治家を集めるということはできなかった。

 こうした国家の重大な場合にも政党人は自派に有利な展開を計ってばかりいて、伴食でもなんでも、国家のために一身を賭して尽くすという純粋な気持ちになれないものとみえる。で、入閣を承諾したのはいずれも腕はともかくとして、顔ぶれからいえば第二流的な人物ばかりであった。こうした中に過去の閲歴をかなぐり捨てて勇敢に飛び込んだのは、民政党の山本達雄男、政友会では高橋是清だったのである。この二人あるために、斎藤内閣もいささか重きをなすようになったのである。

 特に高橋蔵相は非常な期待を一身に負わされて入閣したのだった。犬養内閣でも大鉄骨だったように、斎藤内閣でもその留任がオール日本の財界から望まれていたのだから大したものだ。政友会では党の代弁者として後に残してきたように思っているが、この代弁者少しも党の思惑通りにならない。単に一個の国家の重臣・高橋是清として、非常時予算を切り盛りしているのだから、この点確かに輿望に副(そ)うていることになる。で、政友会から蔵相問責などとび出るのである。

 臨時議会では時局匡救予算として二億六千三百万円の協賛を得て、主としてこれを土木事業費にあてようとして。この手腕についてはまた論ずるに人があるから何ともいわれないが、翁ならこそまず思い切ってここまでやったのだと思う。



 翁が健康上かなり無理をするので、愛弟子の三土忠造君がびっくりして、八月の酷暑の最中そんな乱暴なことをして、もしものことがあったら大変だと勧告に出かけたが、翁は

「この非常時に、わしの一身の勝手など許されぬ」

と断じて譲らない。で三土氏も

「主治医に相談したのですか」

と妥協を申し込んだところが

「馬鹿なことを言っては困る。主治医の耳に入れば無論止められるに決まっている。わしはもうこの頃は死を覚悟しとる。この際国家のためだ、君もわしのことを心配してくれるのは有難いが、医師には言ってくれないように頼む」

と悲壮な覚悟を洩らして、三土氏を感激させたそうだが、そのくらいの決心はもちろん持っていたであろうし、また持ち得る人でもある。






 そうした無理がたたって臨時会議後、身体を悪くして葉山に静養していた。政友会のほうではどうもあまり言うことをきいてくれないし、それに翁が辞めれば後任難で政府がつぶれるとみているものだから、高橋蔵相辞職説を盛んに伝える。世間でも年が年だし病気ならばと思っていると、皮肉な親爺だけに、辞めるかどうかとききに行った新聞記者の

「蔵相を辞(よ)されるんではないですか」

というのに返答して

「どうしてどうして。そんなんならここまで来て静養しないよ。みんな充分静養させてくれるつもりなんだろう。訪問客もあまり見えないよ」

とやっつけている。しかもそのすぐ前に首相と三土鉄相の訪問を受けていながら。



 が、12月に入って寒さのために、身体がきかなくなってまた臥床した。すると政友会のほうでは気が気でないものだから、病蔵相をめぐって何とか彼(か)とかやろうとする。政府の方でもまた政友会を押さえるには蔵相を頼るより他ないのだから、また翁に期待している。という具合で翁が六十四議会は、政府として非常時局対案の提出時機だから、この議会さえ乗り切ればということになって、鈴木総裁に援助を乞い、同時側近者の隠退希望に応じようという気持ちになったものらしいが、これが盛んな政変説を生む原因となったものだ。

 六十四議会では前述のように二十二億余円の大予算をとおし、大部分を公債によって、増税しないという方針を採ったものだ。この予算は金額が大きいために、蔵相の日頃の放漫財政の顕れのように世間で噂され、議会でも質問されたが、蔵相、無頓着のようなとぼけたところがあるのに、気になったとみえていささかしょげていたところが、米国の経済学者で、エール大学の教授のアーヴング・フィッシャー氏の最近の著『好景気及び不景気論』を読んだところが、その財政理論が高橋財政理論と少しも違わないことを発見して、子供のように喜んで、さっそくその翻訳を知己に配布したが、これなども蔵相の気持ちが実によく浮かんでいるように思える。



高橋翁とインフレ政策


 話が理に落ちてばかりいるから、ここらで転向しようと思うが、翁は前に述べたようにインフレーションの権化みたいと見られているが、翁に

「あなたの政策はインフレーションですな」

ときけば必ず

「ノー」

と来る。そして

「インフレーションとは戦後のドイツ政府が紙幣を乱発して、マルクの相場を激落させたようなことをさすので、今度のは政府は増税を不可として、公債を発行して日銀が背負いこんだだけで、真のインフレとは違うよ。けれども先頃の農村救済は農村に金をバラ撒くという意味で、インフレになりそうだったな」

と答えるだろう。難しい理論は抜きにして、翁の家庭はまたインフレでなくて、デフレーション政策を採っている。質素にとなかなかのしまり屋で、畳は赤くなり、洋服は洋行時代のお古という風だが、また一方下の人には、農村救済のようにインフレ政策で、思いやりのある実によい御主人様だ。これは翁のもちろん人格にもよるけれども、幼い時からの境遇にもよるものと思われる。



 翁の前半生は翁の語るところによると突飛の連続である。実父は川村庄右衛門という徳川幕府の御絵師で画名を探昇といった。この人と同家の侍女北原きんとの間にもうけられたのが翁で、和喜次という幼名であった。

 両親が結婚できないので里子にやられたが、その先が仙台の藩士・高橋覚治是忠、そこで高橋姓を名乗り、是清となったが十二歳のとき藩から選ばれて、横浜に行ってパーラー夫人という人から英語を教わった。十五歳のとき今度は米国へ留学させられたが、留学生の会計方が公金を拐帯してしまったので万里の異境で進退に困った末、さっそく労働者になってパンを得たというのだから、その時分からあまり物事に屈託もなかったのだろう。翁はそれから同藩の先輩・富田鉄之助に救われて労働者から抜け出し、やや勉強して帰朝したが、横浜税関を通るとき、米国仕込みのハイカラ振りを見せてやろうと、大声で米国の流行歌を歌いながら通ったというのだから呆れる。

 ここで面白いのは、翁はどんなに困った時でも猟官運動をしなかったことで、常に向こうから転がって来るぼた餅を待っていたものだ。これは八十歳の今日まで同じことで、しかも運勢は翁のもとにまたよい地位を運んでくるから不思議なものだ。この時も帰朝したが職がない。ブラブラしていると英語ができるという評判から、共貫義塾というところから雇いに来て先生となった。この塾生中に奥田義人や大岡育造、犬養毅などいるのだから愉快だ。この生徒から翁も政治意識を吹きこまれたらしい。この時の月給が四十五円、今と物価のけたが全然違う時分だったから四十五円とは大変な月給なのだ。有るにまかせて若い元気で遊ぶ。徹底的に耽溺した結果教師をやめて、惚れていた東屋の桝吉という芸妓の家に転がりこんで居候になってたが、遊んでいるのが具合いが悪いところから、茶気満にも箱屋になった。この箱屋先生、桝吉のところに通っていた千葉周作のところの若先生に刀を持って追いかけられ、涼み台の下に逃げこんで命拾いしたというのだから滑稽だ。

 しかしこの無限軌道的人物は、いつまでも箱屋などしていない。今度は肥前の唐津にまた英語の先生に雇われて行った。この時の月給は百円、そのうち六十円を学校に寄付して四十円で暮らしていたが、学校が旧城内にあるところから、豚を飼って養っていたそうで、英語の教師ながら殖産のために計画したものとかで、将来の理財家たることが、この時から約束されていたものである。

 唐津の学校が廃され、東京に再び舞い戻り、大学予備校などで相変わらず英語を教えていたが、今度は農商務省に雇われたようだ。ここでは翁の虎の巻は百科事典だった。およそありとあらゆる知識は、百科事典から摂取した。統計的ではないが、恐ろしく広汎な知識をもつようになった。






翁と原敬氏との縁


 時の農商務大臣が井上馨侯で、この人に認められるとともに一人の知己を得た。それは後に翁と切っても切れない仲となった当時の農相秘書官・原敬である。そのうちに累進して特許局長となったときにペルーの銀山問題が起き上がった。これはアメリカの詐欺師に当時の大官がひっかかったのが問題で、ペルーに大銀山があるというところから、翁は特許局長の栄職をなげうって、鉱夫を率いて渡米した。行ってみたところが、それは全くの廃坑で、事業はすっかり失敗し、世間から一時はまるで見はなされてしまった。

 だが人生七転び八起きで、当時の日銀総裁に川田小一郎という傑物がいた。この男が翁のことをききこんで拾い上げ建築掛に雇ってくれた。翁はこの川田から教えられるところが非常にあった。川田の態度には国家のために自己を没却するというところがあった。また思い切った所信を断行することもあったが、義によっては反対者をも助けるという風だった。川田の下にあって翁は人格と経済上の修練を得たのであった。

 この日銀に入ってから、さすがの達磨さんも、ようやく地盤が安定して動揺しなくなった。そして建築部長から栄進して日銀の副総裁となったが、この時の総裁が現在同僚の山本達雄男である。でこの二人がここで正副総裁になったが、二人の仲はこれが初めてでなくて、その前に正金に手をつないで川田総裁時代に入っている。そしてこのとき翁のたてた偉功は、正金の現在の海外為替相場の建値(たてね)を発表するようになったことで、それまでは、ロンドンの銀塊相場が香港に入り、それがさらに香上銀行の相場となって決定してから正金がこれに追随して発表してきたものだ。それでは貿易上からいっても日本の大変な不利益というので正金独自の建値を発表するように改めたことで、それがため正金の信用の増加は無論のこと、どれだけ海外との取引上、貿易商が利益を得たかはいうまでもないことである。



山本内閣で最初の入閣


 こういういきさつから、翁はその後、正金の頭取になった。そして日露役には前記のように在外財務官として赫々たる功績をたて、ついで山本内閣に蔵相として初めて入閣し、政友会に入会した。その後、内閣に席を列すること六度、そのうち二回は首相の印綬を帯びた。

 その間に翁の飄々乎とした人格は築き上げられたもので、その蔵相としての手腕については若槻礼次郎のごとく精密でなく、また勝田主計のように緻密でもない。そこが放漫だといわれる所以で、これは必ずしも当たっていないようだ。政友会の蔵相として、党の本来の立場である積極政策を採るのは、蔵相個人の意思をもってしてはどうにもならないものだからである。翁として、他の蔵相級の人物とかけはなれているのは常に大綱を掴んでいて、これを一断するの果敢な胆力をもっていることだ。これもまた、過去の経歴の集積した結果であろう。

 斎藤非常時内閣が、二十二億の膨大な予算案を提出して、毫も財界の不安を招来せず、信任を受けているのは一に翁の在るがためで、もし翁が何らかの野心をもち、己れのためにするという意思をもっていたなら、とうてい現在のイデオロギーをもつ軍部はもちろん、国民の指示を絶対に得られないであろう。

 斎藤非常時内閣は、翁の進退問題で難局に立ったが、翁も政友会への言質と、国家への自己の信念のためにまた板ばさみになっている。朋党重きか、国家軽きかはわれわれの言をまたないところだが、政党人の苦悶はまたここにあるのではないか。英国の労働党のマクドナルドが、大英国のために多年自分が育て上げ、培った労働党を分裂させてまでも、挙国一致内閣に留まった先例もある。名利を求めない翁のことだから、またこの先例を踏襲するかもしれない。そして八十の老爺として最後の御奉公をするところに死に場所を見出すかもしれない。翁本来の面目が発揮されるかどうか、翁を知る者にとっては斎藤内閣の命運とともに非常に興味深いものであるのである。








引用:阿部真之介『非常時十人男』昭和8年




2015年8月17日月曜日

「ゴム人形」から「非常時外相」へ [内田康哉]



〜話:阿部真之介『非常時十人男』〜


内田康哉


内田さんと正義外交と


 日本の国際連盟脱退が、正式に決定される日、昭和八年三月二十七日のあの歴史的な臨時枢密院御前会議が、全日本国民の緊張裡に、宮中東溜間で開かれる前の晩、外務大臣・内田康哉さんはしみじみと所懐の一端を語った。

「余は満州事変の中途から外務大臣に就任した。その以前には満鉄総裁として事変に関係していたのだから、ここに日本がいよいよ連盟を脱退するに際し、深く深く重大なる責任を痛感する。しかし余の責任と国家の問題はむしろ今後にある。余は全力を尽くして来たるべき何局に死をもってあたる決心だ。連盟脱退は正義外交当然の結果として帰着するところに帰着したまだ。正義外交ー策謀や小手先戦術を弄するのではなく、国民大衆の与論とともに命を鴻毛の軽きに比して一路邁進するのが余の信条である」

 なんという力強い自信に満ちた言葉ではないか。内田さんが国民歓呼の嵐を浴びながら外相に就任して以来、危機を孕んだ非常時日本丸の船長として幾多の難局に遭遇しながらも、毫も国威を失墜せずますます帝国の面目を中外に発揮してきた。鳩のようなあの優しかった目は、祖国愛に燃えて緊張に充血し、全世界を相手に正義一点張りの奮闘。そしてついに最後の勝利ー国際連盟をまったく無力な空虚な機関に変質してしまったわけだ。米国大統領なども日本の底力の強さに驚嘆し、連盟の無気力無方針にあきれて、

「国際連盟は日本によって全くその正体を暴露してしまった。連盟は世界平和確保の実力があるのでなく、欧州の内紛を勝手気ままに饒舌するグループに過ぎない」

と言っている。傲慢な米大統領にかぶとを脱がせ、ついにこの言葉を吐かせるに至ったものはまったく内田外相の力だ。内田さんは日本の外交史上に空前の功績を残した偉大な歴史的存在であるばかりでなく、非常時日本の檜舞台に輝く立役者だ。

 内田さんは綽名(あだな)をゴム人形と言われているが、いまや平和のゴム人形は国難に硬化して剛鉄製の人形に、否、国民大衆の熱烈なる支持と与論の空気を充満して空高く上がったアドバルーンだ。全世界の眼という眼がアドバルーンのかすかな動きさえも見逃すまいと、驚異の瞳を輝かしている。



軍服を着た外交官


 ありし日の内田康哉伯、ゴム人形とか後入斎とかいうニックネームで、外交官としてもあまりパッとした色彩のなかった内田さんは、非常時の今日「武装せざる将軍」とか「軍服を着た外交官」と賛美の異名で呼ばれている。それは内田さんが非常時斎藤内閣の外務大臣に迎えられた時からで、直情径行正義心に強い内田さんの人間としての先天的な性格が時局にアピールしたためでもあり、この性格を国民が支持鞭撻してよくこの本領を発揮させたためでもある。

 内田さんのこうした一本気を代表する面白い逸話がある。それはずっと昔、日露の風雲がようやく告げつつあった明治三十六年の頃だった。当時外務大臣であった内田さんが、一夜築地の瓢屋(ひさごや)で飲んでいると、隣りの部屋で大勢の女どもに取り巻かれながら、陽気に馬鹿騒ぎをしている一座がある。はじめのほどは我慢していたが、こっちは大事な国事を論じて、露国を撃つか、打たぬかの大議論の最中だ。人の憂いも知らないで、今日この頃どこの馬の骨か知らないが底抜けのドンチャン騒ぎをしているとは怪しからん、と思うと内田さん持ち前の性格ムラムラと癇癪玉が膨れてきた。

「騒々しいぞ、静かにしろ!」

 ついに爆発、大喝一声、隣り座敷にむかって怒鳴りつけた。すると響きの声に応ずるがごとく、

「なにが騒々しい、そちらこそ静かにしたらどうだ、馬鹿ッ」

 老人の声だ。それから老人の声がアハハハと高笑いになって、女どもの黄色い声が爆発した。内田君もう我慢できない。それにだいぶ酒も回っている。やにわに「何をッ」と立ち上がった。そばでお銚子を持っていた内儀が、内田さんのただならぬ気色にびっくりしてとめた。

「あなた、お隣りは伊藤さんですよ。侯爵ですよ。およしなさい」

 それがかえって内田さんの癇に障った。純真無垢、年が若くて直情の彼、

「何ッ、伊藤だ。侯爵だッ、侯爵もクソもあるものか、国家重大の秋(とき)をどう考えている、そんなドンチャン騒ぎをしてもいい時か、莫迦ッ、静かにしろッ、静かに」

 内田君は伊藤博文の弱腰外交に憤慨していた矢先だから、酒の勢いにかねての憤懣も手伝って、わざと聞こえよがしに大声で怒鳴った。伊藤博文は書生流の人だから、無論黙っていない。声とともにづかづかと襖を開けて来た。内田君を見下ろしながら、

「内田ッ、いま怒鳴ったのはお前か、おれの前でもう一度言ってみろ!」

 へこたれると思いの外、内田君は昂然と肩を聳やかしつつ、

「侯爵あんたは、ここでこそ大きな顔をしているが、あの弱腰外交はなんです。あんたのような弱腰は、もっと静かにするもんでしょう。静かになさい」

とつけつけやったものだ。伊藤博文怒るまいことか、真っ赤になって、

「なにが弱腰だ、若僧のくせに生意気なことを言うな」

 途端、手が伸びた。伊藤さんの手は内田君の頬っぺたをビシリと撲りつけた。すると内田君も承知せず、立ち上がって俄然武者ぶりつき、取っ組み撲り合い、杯盤狼藉の乱闘を演じたわけだ。



 翌朝、酔いが醒めてから、いくら酒が手伝ったとは言いながら、時めく元老を撲ったのだから、どう考えても少しやり過ぎたと思って、さっそく外相の小村寿太郎のところへ身の仕末の相談に行ったところ、

「ナニ、そこが伊藤さんの好(よ)いところだ。まあ黙ってほったらかしておけ、心配せんでもいいことぢゃ」

と言う。果たして伊藤さんからは、なんの文句も来なかった。



 ワシントン会議のときも内田さんは外務大臣の要職にあったが、そのときアメリカ大使は幣原男だった。当時、東京ワシントン間の政府の暗号電信が、アメリカ国務省の諜報部員の手で秘かに傍受され解読されていたことは、東日発行のヤードレー著『米国の機密室』などに暴露されているが、その頃ワシントン会議では各国とも莫大な宣伝費を使って、盛んに暗躍していたので、内田さんは幣原大使にむかって公用電報で、

「各国とも盛んに金を使って、宣伝をやっているようだが、日本でも対抗上やる必要がないか」

と問い合わせると、幣原大使から

「金を使って空宣伝をやってみたところで、本当の国策遂行にはいっこう役に立ちそうにも思われない。奇手を弄して一時の利をねらうよりも、正々堂々たる方針で真っ向から進んだほうが、大局から見て有利の策と思う」

と変電が来た。内田さんは折り返し

「貴見と卑見はまったく同じだ。あくまでこの正々堂々たる態度でゆくことにしよう」

といってやった。この往復電信がそっくりそのまま「機密室」の手で盗読された。その結果、アメリカ政府は「日本人というものは正直なものだ」という印象を強くし、とくに内田外相と幣原大使に対し深い信用を抱くようになったという。こうした真っ正直さが、こんどの国際連盟紛糾の際にも、内田外相が外務大臣である日本政府の信用を、大いに助けたことは疑いない。



満州事変と対軍部関係


 内田さんと満州との関係はかなりに深い。しかし初めから内田康哉自身、満州問題その他の国難外交に最も適した手腕を持っていたのではなく、非常時の日本のあわただしい情勢と、国民大衆の燃ゆるがごとき自主外交確立への要望が、内田さんをすっかり非常時外相たるべき意識に転換させたのだ。

 満州事変突発の当座は、さすがの内田さんもあまりの不意打ちに全然見当がつかなかったらしい。多門師団が長駆ハルピン攻撃に移ろうとした際、内田さんは対部では「内田は駄目だ、性根を叩き直してやらねばならん」と猛烈な反内田熱が巻き起こったくらいだ。このため軍部と満鉄との関係がすっかり疎隔してしまったが、内田さん根が明敏見通しの立派に利く人だったので、満州事変の本質について、わずか二週間ばかりの間にすっかり見解を訂正し、新しい事態に応ずる確固たる目算と正しい計画を立派に立てた。それから後は軍部との関係も円滑になり、さらに政府を動かして新政策の樹立に画策するなどで「満鉄に内田あり、なお老いず」の声が油然として朝野に湧き起こったのである。

 内田康哉伯が外相に就任、晴れの親任式に臨むべく東京駅についたのは昭和七年七月五日、ちょうど国際連盟から派遣されたリットン卿以下の調査団が入京した一日あとだった。認識不足と誤謬欠陥の目をもった調査団と、世界の誤解から日本の正しい態度を闡明(せんめい)すべく嵐のごとき拍手に迎えられて登場した内田さん。思えばこの両日の東京こそは、世界のあらゆる眼を集めた焦点だったのだ。内田さんは親任式後、見るからに悲壮そのものといった面持ちで、国民にむかって決意を語った。

「満州事変以来、わが国は不幸にも各国から誤解されている。わが国の行動は明白なる自衛手段であって満州問題の複雑性と緊密性とが、世界に正しく理解されないのは残念である。わが国の外交方針はなんら変更する必要がない。依然として正義に立脚して堂々主張すべきを主張するにすぎぬ」

 国民はこの言葉を聞いて、内田さんを「非常時日本の非常時外相」と呼んだ。とくに誰が叫びはじめたともなしに非常時外相と呼ばれるところに、国民の新外相に対する期待が大きかった。非常時、全世界の誤解と猜疑の冷たい眼(まなこ)の中に孤立する日本を、永遠不動の確固たる基礎に安定せしむべく、内田さんのまったく献身的な活動が開始されたのである。

 従来の霞ヶ関外交、順調な時代に処する連盟中心主義の諒解と同情に阿諛するその日暮しの外交。それが定石外交として長い間、日本の外交の根幹をなしていたものだが、支那のように無軌道式な出鱈目(でたらめ)な国を相手にする場合は、何の権威もない外交を根底から覆して、自主的な東洋モンロー主義を高唱するのが、内田さんの第一の仕事だった。腰の弱い何事も事なかれ第一の霞ヶ関外交にひどい憤懣を感じていた国民は、果然拍手と喝采の旋風を巻き起こした。決断の早い、意思の強い、合理的な、押しの太い内田さんの外交ぶりは、早くも百パーセントの信頼を獲得した。

 内田さんと支那との関係を見ると、原敬氏の寵児として清国公使となり、明治三十八年には小村全権大使とともに満州善後協定を締結して、今日の満州の礎石を据えている。若槻内閣のとき、満鉄総裁として奮起を促され、外務大臣たること今度で四度だ。斎藤首相が組閣以来、外相の椅子を内田伯に予定して今日まで待っていたのもむべなるかなである。



内田外交、第一の偉業は


 新外相内田さんの、第一偉業は、希望と光明に燃えて独立した新興満州国に対し、連盟各国へ先手を打っていち早くも承認したことだ。内田さんは満州即時承認の急先鋒である。条約はふみにじる、既得権は侵害する、排日排貨を高唱して故意に喧嘩を売る国際ギャング「支那」を相手にしていたのでは、まるで正義に立脚したわが国の行動も、豚に羽布団を被(かむ)せるようなものだ。正しい理想の下に生まれた満州国を速やかに承認して、和平の礎石を固くするのが世界各国のために望ましい、というのが内田さんの持論である。熱烈なる和平を翹望(ぎょうぼう)するがゆえの武力行使、砲煙が消え、銃剣の叫喚がなくなった後に見えるものは、平和を確保された満州でなければならぬ。というのが内田さんの理想である。

 この点では内田伯は満鉄総裁時代から、しばしば満州国首脳部と会見して厳然たる信念を固めていたのである。外交総長の謝介石氏と会見した折にも、「満州国の承認問題は深甚なる考慮をはらうと約束した」と自身公言した。また内田伯が満州問題に関する限りは、軍部とまったく同一意見であったから、閣内においても軍部とまったく一身同体、協力一致して適切なる功果をあげた。



 松岡、長岡、佐藤三代表の寿府(ジュネーブ)派遣、わけても首席全権たる松岡代表は、まったく内田外相の銓衡(せんこう)によるものである。松岡洋右氏は語学の点において、頭脳の点において、鮮やかなる外交手腕において、現代日本が持ちうる最上級の人物だ。

 堅く結ばれた内田松岡の協力的な奮闘は、世界各国の新聞紙に大々的に報道されたが、十一月二十日の国際連盟理事会が近づくにつれ、内田さんは全精力を傾けつくして国務に精励、来る日も来る日も朝から晩まで着電、対策、訓電、会議の繰り返しで、内田さんにはまったく日曜も休日もなかった。朝早く自宅を出て、外務省に直行、省内の協議から閣議に列席。軍部との打ち合わせなど、あの丸々と肥った内田さんも外相就任以来めっきり目方を減らした。そのほか激務を割いては、わざわざマイクロフォンの前に立ち、声を嗄らして国民の奮起を促すなど、まったく血みどろの奮戦ぶりが連続した。無論、内田さんの手元には連日「進め内田将軍」「祖国の護り神内田外相」といった感謝と激励の手紙が山積した。

 かくて連盟中心の軟弱外交がすっかり跡を断ち、包容性と弾力性に富んだ自主的な日本外交が、内田さんの燃ゆるがごとき努力によって樹立されたわけだ。世間では松岡全権の奮闘ばかり見て、松岡を声援し指導し天晴れ国際舞台の花形役者たらしめた内田さんの涙ぐましい苦心を忘れているものもあるが、松岡全権の輝かしい名声の大半は、まったく内田さんの断固たる決心に負うものが多い。

 内田さんが寝食を忘れ、一意報国の念に燃えて献身的な努力をはじめたのは、例の十九国委員会善後のころからだ。委員会は十二月十五日決議案を起草し、日支両国に内示して同意を得ようとしたが、草案はリットン報告書第九章第十章をそのまま鵜呑みにした、すなわち満州国独立を否認せんとする指導原理を高調したものであり、帝国政府の断じて受諾しえないものであるから、内田さんは全権宛に断固たる訓電を発して、帝国の決意をほのめかしたが、その要旨は

「草案は満州国の現実を無視したもので、受諾はできない。帝国は第三国の介入を排除して紛争はあくまで日支直接交渉の方針だ。連盟に対し何らの責任なき米露招請は最後まで反対する。特に理由書末尾において『満州における現政権の維持および承認は問題の解決と認むるを得ず』との見解は帝国最高国策と顕然相反するものだから、かくの如き断案は抹殺せられなければならない」

というのである。支那の主張とは無論正面衝突だ。だが内田さんは徒らに戦いを好む人ではない。平和を熱愛する人であるから、日支妥協に奔走していた英国の請いを容れ、一月四日、内田さんは駐日英大使リンドレー氏と快く会見したが、やはり握手するわけにはいかず、一月九日、内田外相は定例閣議で

「英国大使が訪ねて来て、米露の招聘は断念するし、満州における現政権の維持ならびに承認は問題の解決に非ずという句は削除するから、なんとか打開の 途(みち)を発見したいと頼みに来たが、私は日本帝国の態度は確定的のもので一歩も譲歩の余地がないから拒絶した」

と報告している。



リットン報告と内田さんの信念


 ついでドラモンド事務総長と杉村事務次官とが、再三会見して作った共同試案は、よほど日本の主張に接近したものだが、内田さんはこれをもってなお国家百年の大計を樹立するものでないと認め、種々修正の指令を発したが、十九ヶ国委員会は不遜にも日本の修正要求を顧みず、一切の調停手段に見切りをつけて高圧的に第十五条四項を適用する形勢だ。こうした連盟の急迫せる風雲に鑑み、松岡首席全権から請訓がやって来たので、内田さんはこれくらいに屁こたれてどうなるものかと二十日早朝、左のごとき緊急回訓を発した。

一、非連盟国の削除は絶対的条件だ。

一、代表部は政府の修正要求に邁進せよ。

一、修正はまず満州の独立を否認するがごとき一切の字句の削除、リットン報告書第九章のごとき帝国の立場を不利に陥る条項の抹殺。

一、満州問題に関するかぎり、政府の態度と決意は確固不動のものだから決して事態を悲観するな、悠容たる心境をもって局面にあたり万全の策を期せ。


 ところが十九国委員会は、わが修正案を拒絶し、連盟規約第十五条第四項に移ることとし、ドラモンド総長にその準備を命じ、委員会は、和協失敗の報告とともに、総会に提出する勧告案作成に着手した。こうした決議はわが軍部を極度に憤慨させたし、陸軍当局では非公式に

「最悪の場合に際し、連盟脱退もとより恐るることではない」

といよいよ決意を固め、内田さんも脱退は毫も恐れぬ、十九ヶ国委員会はたとえ和平的努力を放棄しても、われらは連盟の蒙を啓き、その謬見を修正するため最後まで努力を継続すると、危機に臨んであくまで従容、天晴れ英雄としての気概を示していた。



 かくて連盟の雲行きは、最初予定されていた険悪な途(みち)を進んでいった。連盟はあくまで日本の主張をふみにじり、極東の平和を撹乱しようとするが、内田外相がかの臨時議会でやった焦土外交の決意は依然変わらなかった。とくに一月二十一日第六十四回議会でやった内田さんの演説は、軟弱外交から確固たる自主的外交に移り極東モンロー主義を高唱せるものとして有名であるが、同時に内田さんの全幅的な外交方針を吐露したものである。すなわち内田さんの非常時日本に対する外交イデオロギーの表現ともみるべきもので、その大要を示すと、

一、日満議定書 満州国に対する脅威は同時に日本の脅威である。このため日満議定書に調印し、共同して国家の防衛にあたる。東洋平和の礎石はここから築かれるものだ。

一、東洋平和保全 満州国は健全な発達を遂げている。兵匪は漸次壊滅し、通商貿易も次第に盛んとなっていることは、帝国の見解と行動が少しも誤らなかったことを証明するものだ。支那もこの点を理解し、日満支三国が相寄り相助けてこそ、はじめて東洋の和平が保全されるものと思う。

一、連盟と日本 連盟には帝国政府は誠実に協力し世界平和のための努力を惜しむものでない。ただ連盟が事態を正視せず、欧州の先例や過去の事情に基づき、規約を形式的に適用せんとするのは、かえって紛糾を拡大し、連盟の権威を傷つくるもので、世界平和のためまことに遺憾のことと思う。

一、日蘇不侵略条約 この問題については、幾多の議論が岐(わか)れているので、現存条約以外改めて不可侵条約の商議締結を行うには、時機いまだ熟しない。しかし日本はソヴィエトに対しいささかも侵略の意図があるものではない。

一、一般軍縮会議 軍縮は世界最大の平和事業で、政府は熱誠なる寄与強力に努力することは、終始変わりない、政府は世界海軍軍備に対し重大なる縮減をもたらすべき提案を、進んで会議に提出したのは、まったくこの目的に外ならない。

一、帝国外交の根本義 帝国外交の根本義は東洋の平和ひいては世界平和の確保に存することは多言を要しない。帝国は世界のいずこに対しても領土的野心を持っていない。また世界のいずことも事を構えんとするものではない。帝国の企図するところは国際正義に基づき、帝国の生命線を確保するとともに、その隣接諸邦と協力提携して、東洋の康安を維持し、もって世界平和に貢献せんとするものである。しかして東洋における権威と実力とをもって右目的達成に貢献せんとするのは、日本国民の信念であり、覚悟であり、同時に明治以来の日本外交の根本義も、実にここに存するのであります。



連盟脱退と四国の反響


 内田外相は一月三十一日、興津に西園寺公を訪問、時局に関する報告をなしたうえ、翌一日の閣議において正式決定を見、しかるのち天皇陛下に拝謁仰せつけられ、御裁可を経た帝国政府の回訓を代表部に訓電し、爾来、日本の立場が最もデリケートな進行をなしていたので、内田さんは健康も顧みず、早朝に登庁し、協議、会見、対策と夜自宅へ帰るのは、深更の二時、三時になることは珍しくなかった。

 だが、十九国委員会は規約第十五条第四項に基づく報告書と勧告案をついに採択するに至ったため、政府は二月十七日臨時緊急閣議を開催、勧告案を中心として帝国政府の態度につき、慎重協議を重ねたが、内田さんは勧告案そのものについては断固反対することに腹を決め、松岡代表より、一、勧告案反対、一、満州国反対取消、一、日支直接交渉、一、交渉委員会設置反対を表明せしめることとし、ついで荒木陸相とともに、

「この場合、十九国委員会において採択された勧告案に対し反対する以上は、潔く連盟より脱退すべし」

と主張し、各閣僚を動かして、いよいよ脱退の方針を樹立させたが、二月十九日、斎藤首相は西園寺公と会見して、その意向を聴取したところ、まったく内田さんの意見と同意見だったので、二十日またも緊急閣議を開き、重要協議を開いたうえ、連盟総会における帝国全権の反対投票を決定し、最後に政府の最高方針として、連盟総会が最後まで帝国の主張を顧みず十九国委員会の勧告案を採択し、なんらの誠意を示さざるにおいては、帝国政府としては連盟との関係を断ち、独自の見解において東洋平和の責任を果たさなくてはならぬ。よってこの場合には正式に日本帝国は連盟から脱退することにした。



 当時、朝野のある部分には、こうした事態の進行に驚愕して連盟脱退阻止の策動が行われた。軟弱外交の総本山たる幣原前外相は、まず元老重心の間をかけ回って熱心に暗中飛躍を試み、これと関係深い財界の一角も相当動かされた。

 民政党はここぞとばかりに軟弱外交の旗色を盛り返さんと焦った。若槻総裁は連盟脱退のやむなきを決したという報告に接したとき、それは真実かと疑い、唖然として言うところを知らなかったとのことである。さらに憫笑の至りに堪えないのは、鈴木政友会総裁の態度である。

 鈴木政友会総裁は政権獲得の便宜上、しきりにその輩下を使って軍部にサービスを持ちかけたが、もとより外交上、国防上になんらの信念も主張もあるわけではない。ただ政権獲得に熱中したまでのことで、閣議決定の前、鈴木総裁と斎藤首相との会見が行われた際、世上には政権授受の黙約成立せりと伝えたが、事実は斎藤内閣の連盟非脱退方針に同意を表し、軟弱外交をコミットしていたものと言われている。

 果たせるかな、こうした空気から閣議は一時政党出身各大臣によって、軟弱外交の声かなり優勢となったが、こうした勢いを見事粉砕したのは、内田外相や軍部大臣およびその背後にある国民的与論の重圧であった。



 かくて二月二十四日の国際連盟総会は、日本代表と暹羅代表とを除いて、例の十九国委員会勧告および報告書案を満場一致をもって可決してしまった。枢府の一角や、民間の一部には、事ここに至った内田外交について、かれこれ誹議するものもあるが、これは帝国の立場を真に理解したものではない。内田外相は正義公道の日本精神に対し、俯仰天地に恥じざる堂々たる外交ぶりで一貫した。

 しかも過去数ヶ月にわたって、隠忍自重、よく日本の立脚地を説明し、忍ぶべきは忍び、譲歩すべきは譲歩してきたにかかわらず、連盟をほとんどこれに耳をかさず、依然頑迷なる主義を固持してきたため、勢いの赴くところ内田正義外交は爆発して、ついに連盟脱退の男らしき行動にでたもので、もとより日本国民大衆の嵐のごとき賛同と拍手を内田さんにおくったものである。



西園寺公、三十年の愛顧


 非常時日本の立役者、内田さんは本年六十九歳。慶応元年八月、肥後国の八代郡和歌島村に呱々(ここ)の声をあげた。お父さんは獣医で、内田さんは素直な坊ちゃんとして生育した。

 明治二十年東大政治科の出身である。同期生はまったく秀才ぞろいで、一木喜徳郎が首席、内田さんは次席、ついで早川千吉郎、鈴木馬左也、林権助、林田亀太郎、浅田知定という順序で、内田さんは、首席を一木さんに奪われたことをひどく残念がったという。

 明治二十二年、山縣内閣の農商務大臣、陸奥宗光に認められて秘書官となった。これは実に内田さんの福道出世の端緒であった。陸奥が第二次伊藤内閣の外務大臣となるや、内田さんもその秘書官となってはじめて外交畑に入ったわけで、外交史上の異彩、内田康哉は第一歩をここに印したわけだ。

 明治二十八年、西園寺臨時外相のもとに、幸運はふたたび彼の身にめぐって、内田さんは秘書官兼書記官として破格の知遇を蒙った。西園寺公の内田さんに対する信頼は、爾来三十余年後の今日まで変わるところなく、連盟脱退前後において内田さんがよく閣議を統一し、その指導的存在であったことも、まったく公の愛顧があったからだ。それから第二次西園寺内閣で外務大臣となり、さらに原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣の外相となったが、この間、内閣総理大臣代理たること二回であった。



 内田さんは生来、頭もあれば腕もあった。だが天才的頭脳とか、巌石を打ち砕く鉄腕家といったタイプではない。いわゆる「平凡なる人傑」というべき人だった。

 小村寿太郎は、どんな重大な場合でも、静かに階段を上がり、悠然大臣室に入ったといわれるが、内田さんはまったく正反対、重要問題が起こると、バタバタ階段を駆け上がり、飛ぶがごとく大臣室に這入(はい)りこむ。このため霞ヶ関の属僚連は大臣の駆け足いかんによってジュネーブの空気がわかったと言っている。

 こうした風格が西園寺公には「間違いのない外務大臣」と愛せられ、原敬には「創作せざる外務大臣」として信頼されたといわれる。内田さんは外交の創作よりも、外交の取り扱いを得意とする外交家である。



 昭和六年、迎えられて満鉄総裁となり、ついで非常時局に際会して外務大臣の重責を担当したものだが、内田さんの処世訓は

「人に迷惑をかけないとともに、他人からも迷惑をかけられぬこと」

であって、間違いのない男として外交畑に活躍してきたのも、まったくこの処世訓からだ。日本は今、完全に連盟と袂を分かって、世界から孤立しているが、内田さんが外務大臣であるかぎり、この孤立は「恐怖なき孤立」であり、同時に「名誉の孤立」である。つまり内田さんはどこまでも「間違いのない男」として、大衆とともに歩む人だからだ。



世界を睥睨する難局外交官


 脱退の後に来たものは、南洋委任統治問題である。列国は日本の脱退から、国際連盟の無力ぶりを暴露させられた腹いせに、盛んにドイツその他の関係国にけしかけているが、軍服外交官内田康哉さんは、

「南洋は断固武力をもって死守する」

と声明したため、列国は怖気(おじけ)がついて沈黙のかたちだ。かくのごとく日本外交は、内田さんによって毅然として泰山のごとき威容と実力を発揮しつつある。内田さんのあの大きな目玉が、世界をにらみ回しているかぎり、極東の平和はいよいよ確固たる基礎に安定するだろうし、非常時日本の難局を打開しつつ、正義の大旆(たいはい)をかざして堂々驀進する内田外交こそは、世界外交史上に不朽の光輝を残すであろう。






引用:阿部真之介『非常時十人男』1933年




2015年8月16日日曜日

秋山真之との憶い出 [松岡洋右]



〜話:松岡洋右〜


国家多事の秋に秋山中将を憶ふ


 私が故秋山海軍中将と知合いになったそもそも初めは上海においてである。そのころ私は三十歳で上海に領事としてしばらく赴任していたことがある。そのとき今の侍従長の鈴木貫太郎大将と秋山真之中将が南清警備艦隊の艦長として上海に来られた。私は自分の職責上自然、警備艦隊との交渉が多い。したがって秋山中将との往来も相当頻繁であって、ついには非常に懇意に交際をすることになった。

 そういう風にして交際をすることになったが、秋山中将と私との上海における交際の期間は、比較的短かった、けれどもどういうわけか当時の秋山艦長と私の間は、最初から一見旧知のごとき感を持ち、非常に懇意であった。秋山艦長は時には私の上海における官舎へ来て、二人で深夜まで互いに飲み、互いに談じて、ついには秋山中将は官舎に泊っていったりされたこともあった。そうして私の一身上の事となると、秋山さんも非常に憂いたり、心配されたりしてくれるような間柄になり、ずっと後年までそういう状態であった。

 大正五年に私が大病の後アメリカから帰って来て、その秋、観菊御宴に招かれて行った時にも、あの多勢の人の中をしきりに私を探しておられたということであった。すなわち「松岡を死なしては…」と言いながら探しておられたという話である。しかしそのとき私はとうとう会うことができなかった。



 秋山中将の人格に関しては、私が蛇足を加えるまでもないように、その生存中からすでに定評のある人で、私もその偉い人格に親しく接し、また親しい知己の感までもあったような間柄になったという事を、今日でもなお自分の一生において、特に非常に貴い、かつ有益なる記憶として存するのである。私も秋山中将のことを憶うと、いつでも必ず想起する一つの挿話がある。

 それは当時、上海における南清警備艦隊司令官は寺垣中将(そのときは少将)であったが、その下に鈴木貫太郎、秋山真之の両氏が各々艦長であった。ちょうどその頃、かの有名なイギリスのキッチネル将軍が日支両国を漫遊に来たことがある。そして上海にやって来た。そこで寺垣司令官はイギリス総領事館においてキッチネル将軍に敬意を表された。そのとき秋山中将(そのときは大佐)と私とが同道した。そうして秋山大佐が寺垣司令官のために通訳の労を取られた。日英両将軍の間によもやま話が交換された。

 それからたしかその翌日の夕方であったと思うが、私はキッチネル将軍とふたたびある宴会の席上で一緒になった。そのとき私はキッチネル将軍にむかって「あなたは昨日、寺垣司令官との会見において通訳の労を取られたキャプテン秋山は、何人であるか御存じであったか」と問うた。ところがキッチネル将軍は怪訝な顔をして、「イヤ、あの人は初会見の人で知らない、またあなたのお尋ねの意味はどういう意味であるか」と問い返した。そこで私は

「あれが有名な日本海海戦のキャプテン秋山である」

と言ったところがキッチネル将軍は、非常な驚きの眼をみはって、「それはしまった。自分はちっとも知らなかった。それならキャプテン秋山と大いに話をしてみたかったのだ」と答えられた。

 私も前日の会見の時に、私からでもそのことを簡単にキッチネル将軍に告げたらばよかったと思うたけれども、それは後の祭りである。ここがやはり我々日本人の特性なんだ、「この人が有名なキャプテン秋山大佐である」というような、いかにも不躾(ぶしつけ)な紹介を私どもはちょっとしかねたのである。西洋人ならばすぐするところであろう。また秋山真之中将も自分から「私が、その日本海海戦のキャプテン秋山だ」と言わなかったのである。しかしともかくもキッチネル将軍は非常に残念がっておった。キッチネル将軍その人も英雄であったかもしれないが、他の欧米人と等しくキッチネル将軍自身また非常な英雄崇拝者であった。






 秋山中将については、前にも述べたように私どもが妄評蛇足を加える必要はない。しかし私の眼に映じた秋山真之中将その人について、あえて自分の印象を言えば、一見豪放磊落な人であったけれども、またその裏に非常な周密な思慮と細心の用意をもっている人である。そうして頭脳は恐ろしく明晰で澄んでいた。ひとり軍事のみならず政治の方面、ことに上海方面へ行かれた関係でもあろうが、支那問題には非常に興味をもたれて、明快なる頭で支那問題の研究を相当深くしておられる。対座しておってもいつも話の要点を直ちにつかんでいく人である。一言にして言えば、私はこれくらい物分かりの早いと思った人は稀である。

 そうして人間秋山としては非常に単純で、情の深い人である。ただちに信を人の腹中に置くというような人で、ああいう人は情的方面からいえば容易く人に騙される人であったろうと思う。私もいささか愚かなところがあって、そういう傾きのある点を自らも知っている。そこが秋山中将と私が非常に同気相求めた点かもしれない。当時の人で秋山将軍を憶い出すと同時に、眼の前に浮かぶよく似た人と思えるのは山座圓次郎氏である。

 我々はいまや国家非常時に際会して、内外ともに多事なる秋にあたり、実に秋山中将のごとき英傑を憶い出すことが大切である。秋山中将のごときは教育によってできる人物ではない。生まれつきであるから作ろうにも作れないのである(昭和七年八月)。






引用:秋山真之会『秋山真之』昭和8年




松岡洋右の胆力、国際連盟を呑む [非常時十人男]



〜話:阿部真之助『非常時十人男』〜


松岡洋右



彼を送った感激の日よ


 真に文字通り、この非常時日本の前途と、全国民の輿望と運命とを、双肩に荷負って、昭和七年十月二十一日、暴風雨の如き国民の見送りを受けつつ東京駅頭を出発して以来四ヶ月余り、ほんとど全くの不眠不休で全世界を相手に戦い抜いた松岡洋右氏!

 恐らくはこの非常時日本の舞台に踊る幾人かの、我等の持つ英雄のうち、氏ほどに華々しく、氏ほどに男らしく、そして氏ほどに、本当にこの非常時日本の全国民が、その信頼と声援とを送って惜しまなかった人は他にあるまい。いや、ここ何十年来にもなかったといっても、あながちに過言ではないかも知れない。

 がしかしそれだけに、松岡氏のジュネーヴにおける働きは、真に困難なものでなければならなかった。しかも松岡氏の彼地における活躍振りが、如何にめざましいものであったかは、国民が著しく知っている通りである。



国民の輿望を一身に集めて


 そもそも松岡洋右!と云う名前が、今度の支那事変に際して、はっきり表面に現れて来たのは、例の上海事変が勃発し、氏が芳澤外相の私的代表として上海へ出かけ、各国大公使の間に立って折衝これつとめた時からである。当時、恐らくは国民のある一部のものの間では、松岡氏が上海に行くときいて

「果たして松岡が乗り出したか!」

と、なぜとはなく期待していたものの実現を見た時の如くに、ある心強さを感じたものも決して少なくはなかったことだろう。がやがて、国際連盟関係が紛糾し始めるに及んで、氏は遂に、非常時日本の全権大使として、ジュネーブに乗り込むことになったのである。しかしこの時にもまた国民は、

「松岡ならば、必ずやこの難場を見事に切り抜け、全世界の各国を相手に一歩も引けはとらないであろう」

と、氏の人格、手腕、胆力等々に絶大の信頼をかけることを忘れはしなかった。当時ある口さがなき童らは、「またしても松岡をジュネーヴに送るとは、今の霞ヶ関には松岡以外に人物はいないのか?」などと悪口もしたけれど、果たして今の霞ヶ関に松岡だけの人物が他にいるかいないかはしばらく別問題としても、しかしそれはつまる所は、この非常時日本を双肩に負うて、この難場に向かってビクともせずに世界各国を相手どって喧嘩の出来る腕と頭と口と腹のとのある人物は、松岡氏を措いては他にはないかの如くに見えるほど、実に適材適所であったことを物語っていると見られないことはない。

 のみならず事実においても、外交界における松岡氏に対する信頼が如何に絶大なものであったかは、氏を今度のこの重大なる責任を持った全権大使に推した内田外相を常に「ゴム、ゴム」と一言のもとにいってのけて余り相手にせず、あまつさえ大正十年、内田外相がどうしても手放さぬといってきかないのを無理矢理辞表をたたきつけて外務省を飛び出し満鉄に移ってしまって以来、ついに霞ヶ関には戻って来なかった松岡氏であったけれど、しかも内田外相はその松岡氏にこの大任を依頼したのである。

 世間ではこの内田ゴム外相の推薦を、近頃のフェアー・プレーとして賞賛しているけれど、もちろん内田外相のこの眼識の高さと信頼の厚さとは、さすがと充分に称賛されてよいのであろうけれど、しかしそれと同時に、また、かくまでに内田外相をして信頼せしめた松岡氏その人の、人格、手腕、才能、胆力など、などの非凡なものであったことも、充分に認めなくてはならない所であろう。

 かくして松岡氏は、この非常時日本の全国的な信頼と輿望と声援によって遠く、ジュネーヴに送られたのであったが、しかも氏はよくそれらのすべてに、ものの見事に答えたのである。



誠と熱と胆の外交


 だが、あるいは世間ではいう人があるかも知れない。「今度の対連盟戦は、結局誰がいったって同じなので、わが既定方針に違反するものには、如何なるものに対しても絶対反対という方針のもとに戦ったのであるから、恐らく他の誰がいったって松岡くらいのことは出来たろう」と。

 あるいはこの言葉は、ただ結果からだけ見たならば本当であるかも知れない。だがしかし一体松岡氏を措いて、他に誰があれだけの熱とまことと腹の外交が出来たであろうか? そして結果は遂に最悪の場合に立ち至りはしたけれど、しかも尚、日本の極東における立場と満州国独立の理由とを、事実においては各国に納得させ得たであろうか? 更にまた、他の誰が、あれだけの人気を、世界各国の間と、世界のジャーナリズムの上とにかち得ることが出来たであろうか? 大いに疑問の所といわざるを得ない。

 元来松岡氏は、誠実と熱と胆力と闘志の人だといわれている。そのうえ更に、頭がよく、縦横の機略に富み、非常に雄弁であり、明朗快活な性格の持ち主だという。氏は昭和七年十月二十一日ジュネーヴに向けて東京駅頭を出発する直前、その心境を近親の者に次のように語っている。

「私は正直に是なりと思ったところを邁進するばかりだ。それは『誠実』だ。誠実でことに当ったら、国境を越え民族を超越して納得してくれるに違いない。いわゆる、人を相手にせず天を相手にするのだ」

 これはすなわち松岡氏の念願とするところの「まこと」の外交の信念であり、「明るい、熱」の外交の信念である。この「誠実の外交」そして「明るい、すなわち率直な、熱意の外交」という信念は、松岡氏の、おそらくは生まれるからの念願ともいうことが出来るのであって、氏が、十七年間もの長い外交官生活を弊履の如く捨て去って満鉄にいった動機というのも、現在の霞ヶ関が、徒らに繁文褥礼であり、秘密主義をこととして、少しも「誠実の外交」「明るい、すなわち率直な、熱意の外交」という信念を持っていないのに、腹を立てたのだともいわれているのを見ても分ることであろう。

 氏は当時のその心境を次のように語っている。

「今度のジュネーヴの戦いはわれわれだけの戦いじゃない。わが日本帝国の、全国民の戦いだ。そしてそれは日本の生か死かの戦いである。キリストが一番憎んだのは偽善だ。われわれ日本人が一番嫌いなのも偽善だ。真に平和を念願する正直な外交は歓迎するが、世にいわゆる外交というものは、わが輩は若い時から大嫌いだ。もしこの世界にいわゆる外交なるものがなかったならば、世界はもっと平和であり、人類はもっと幸福だったろう。これ先年わが輩が外交官生活をやめた少なくとも一つの理由なのである」

 この言葉に見ても、如何に氏が「明るい、率直な、誠実な外交」を望んでいるかが分かるであろう。かつて第五十九回議会の予算総会で、当時外相であった幣原氏に向かって、その官僚的秘密外交の事実を遠慮なく指摘して、幣原氏をして顔色なからしめたという逸話も、つまるところは、氏のこの日頃よりの「明るい、率直な、誠実な外交」に対する念願の発露に他ならなかったのである。この常に一つの信念に向かって、誠実に、明るく、率直にという氏の念願は、無論そのまま、今度のジュネーヴの国際連盟会議にも遺憾なく発揮されたのである。



 まず氏は一行と共に昭和七年十一月十八日、ジュネーヴのコルナヴァン駅に到着したのであるが、その日の夕方、氏はレマン湖畔のメトロボール・ホテルのホールに、ほとんどホテル全部を占領しているかの観ある日本人全部を集めて立食の宴を張るとともに、早くもその席上で、ジュネーヴ到着第一声を発したのであった。がその演説においても、氏はこの信念を判然と物語っている。

「今度の会議は決して単なる一満州国問題の解決だけではない。日本の極東における大責任と大抱負を宣明し、世界人道の根本に立脚して平和的日本精神を発揚せねばならないのである。破滅に向かいつつある西洋文明に代わに崇高なる東洋精神を持ってせんとするのである。これはまことに歴史の上に一期を画すべき重大事業である。自分の眼中には外交官なく、軍人なく、新聞記者もない。ただ赤裸々の日本人の姿がうかぶのみでえある。九千万の同胞はこの点においても一致団結、この松岡を導いてくれるのを感ずる。自分には何ら秘すべきものなく、何らやましいこともないから、何人の前に出ても断固として所信を披瀝するであろう。われに技術なく、策略もない。そんなものはこの際不用である。ただ誠実だにわれにあらば、何も恐れるに足らぬ。日本国民は今や上下をあげて堅い決心をしている。すなわち『自ら顧みて直(ただし)くんば千万人といえども我往(ゆ)かん』、この覚悟である」

 この演説は、氏の国を思う心のほどがほとばしり出て、並みいる一同をして感激の波に酔わしたのであるが、それとともに、ここに現れている氏の、どこまでも、いわゆる「外交」などという「技術」や「策略」に依ることなしに、真心をもって、正直に、明るく、堂々と事に当ろうという信念こそは、また一同に深き感激を与えたのである。



松岡氏の動かざる信念


 ただ誠実だにわれにあるならば、何も恐るるに足らぬ。自ら顧みて直(ただし)くんば、千万人といえども我れ往(ゆ)かん。

 何という強い信念であろう。そしてこれこそ、まことに我等日本人が世界各国に向かって言いたかったことではなかったろうか。すなわち松岡氏はこの強い信念のもとに、明るく正直に、ありのままに、世界各国に向かって、今度の満州問題を、上海事件を、そしてそれから極東における日本の立場を、満州の立場を、また支那の国状を説いたのである。自ら顧みて直(ただし)くんば、千万人といえども我往(ゆ)かん! この信念があったればこそ、松岡氏は堂々と各国代表を説いて回れたのである。これは実に、松岡氏ならでは出来ない芸当ではなかったのではあるまいか?

 しかも松岡氏のこの明るい誠実の外交は、ついに立派に功を奏したのである。それは実に昭和七年十二月八日、国際連盟特別総会の第三日目であった。この日こそ、松岡外交!がついに世界の外交を動かした、その当日であった。



 が、これよりさき松岡氏は、十一月二十一日午前十一時、レマン湖畔の連盟本部、鏡の間に開かれた「理事会」第一日より、二十二日、二十三日、二十四日、二十五日、と五日間、連日に渡って、あるいは支那代表を相手に、あるいは世界各国代表を相手に、あるいは小国代表の陰謀組を相手に、あるいは議長を相手に論戦をし、更に十二月に入っては、六日より開かれた特別総会において、盛んに論戦をくり返して来たのであった。

 まず十二月二十一日の理事会第一日は、実に松岡氏の演説によって火蓋は切られたのであったが、その演説中に氏は

「今日の支那の如く、外国の陸海軍が駐在するが如き状態の国が、一体世界のどこにあるであろうか? そしてこれは一体何を物語るのであろうか?」

と述べて、つづいて支那の排外事情やボイコットの実情を述べ、リットン報告書の誤りや認識不足を完膚なきまでにやり、

「余は理事会がしばらく忍耐し、今日までもっぱら寛大に支那に与えた忍耐を、少しばかり日本に与えられんことを要求する。日本はいずれの国家とも戦争を欲するものではなく、現在以上の領土をも望まない。日本は侵略国にあらず、日本は深くかつ熱心に、偉大なる隣邦の福祉を希求するものである」

と、堂々一時間半の演説を結んでいる。これに対して支那代表の顧維鈞氏は、松岡氏の演説に反駁を加えたのであったが、その演説は松岡氏に比して余りに見劣りがして気の毒であったことは、当時の新聞が報じているところである。が、ここに面白い逸話のあることは、この日、支那代表がその演説を終わると、松岡氏はつかつかと顧維鈞氏の側により

「やあ、素晴らしい出来でした。お祝いします」

と言って握手したということである。これは悪くとればいや味にもとれるが、しかし松岡氏と顧氏とは、古くからの友達である。だから松岡氏のような、率直な、明快な人には、公人としては激論しても、一私人に帰った時には、心から友達の成功を祝い合うという気持ちになれるのであろう。これなど、いかに松岡氏が、明るい誠実な性格の持ち主であるかという、最もよい証拠になるのではあるまいか。



胆すでにして連盟を呑む


 かくして第一日は終わり、明くれば理事会第二日目である。この日、松岡氏は原稿なしの長時間の演説をしたのであるが、服装まで灰色の瀟洒たる背広服であったというのは、いかに氏が、この会議を呑んでかかっていたかというよい証拠で、その胆力の大きさにはむしろ驚くべきものがあるのではないか。

 しかもこの日の演説においては、前日の顧維鈞氏の反駁論に対して、こっぴどい反駁を加え、顧維鈞氏が知ったか振りに引き出した豊臣秀吉や田中義一男の上奏文などに対しては、日本開闢以来二千六百有余年間に、ただ一人の豊臣秀吉しかいなかったという事実は、日本国民がいかに非侵略国民であるかを物語っているではないかと言い、また田中義一男の上奏文に対しては、その真相を明らかにし、これに見ても、いかに支那は悪宣伝の巧みな国であるかを見よとやっつけ、さらに支那の排日 貨運動や、排日教育の事実を詳述するなど、まったく会場全体を魅了し去った感があったという。しかもこの松岡氏の所論に圧せられた支那代表は、堂々数時間に及ぶ松岡氏の演説に対して、僅かに二十分に足りない反駁をしたのみにすぎなかった。

 かくして松岡氏は理事会第三日にも第四日にも、ほとんど傍若無人と見えるほどに、縦横に活躍し、時にはデ・ヴアレラ議長とわたり合って、まったくこれをたじろかせなどしつつ、理事会五日間を、完全に氏の独舞台としてしまった。しかもこの間、松岡氏は飽くまで堂々と、明るく、誠実に、だからしたがって闘争的に、腹のすわった、熱意のある戦い振りを示して来た。この鮮やかな戦い振りは、明らかに我々日本人の溜飲をさげるに充分なものであった。

 しかしこの松岡氏の努力にもかかわらず、日支間の主張の隔たりは依然として遠く、ついに何等の解決点も見出し得ないままで、十二月六日からの特別総会に入ることとなってしまったのである。



 ついに特別総会のその日は来た。この日より四日間、全世界の視聴を、レマン湖畔の一ヶ所に集注せしめつつ開かれる会議こそは、まさにわれら日本の前途を決すべき会議である。

 しかも松岡氏は数日来、昼は会議や内外関係要人との会見応酬に寸暇もなく、夜は二時三時の明け方までも、長岡、佐藤両全権をはじめ、他の人々と協議をとげ、あるいは会議の原稿作成にあたり、朝は七時をすぎれば床を蹴って早くも会議関係書類の研究に没頭するなど、その活躍ぶりは、まったく涙の出るまでにいじらしくも男々しいものであったという。

 かくしてやって来た総会第一日の朝の松岡氏の眉 宇には、さすがに決心の色がほの見え、この日特に氏は皇太后陛下より御下賜のカフス・ボタンを佩用、さらに重要書類を入れたポート・フォリオの中には、明治大帝の召された羽二重の御召物を奉書の紙に包んで、護神として納めていたのであった。これを見ても当日の松岡氏の覚悟のほどは、うかがい知ることが出来るであろう。

 が、それかあらぬか総会第一日の空気は、俄然日本側に有利に展開されたのであった。そしてそれまで理想論から支那を支持してきた国の中にも、日本の立場を是認しようという機運さえ生じてきたくらいであった。これは実に、一重に当日の松岡氏の、誠実真摯な演説の賜に他ならなかったのである。



 けれども総会の空気は、第二日に至って、いわゆる小国側の理想論と策動とにより、小国共同の反日的決議案が提出されるに及び、俄然まったく一変して険悪なるものとなってしまった。この小国側提出の総会決議案が、果たしてどう取扱われるかによって、わが日本は重大な場面に立ち至らなくてはならなくなったのである。

 こうして第二日は暮れて、第三日の朝は来たのであったが、この日に至り、ついに松岡氏は猛然と立って、実にフランス代表ボンクール氏をして

「これこそは実に歴史的大演説である」

と絶叫せしめた、大熱弁を振い、世界の外交をして動揺せしめたのであった。それはさきに書いた、昭和七年十二月八日、その日のことである。



闘志満々、連盟相手の大喧嘩


 総会三日目は、午前十時五十分に開かれた。まずトルコ及びメキシコ代表の演説が終わった時、松岡氏は突如発言を求めた。そして静かに立ち上がった。松岡氏は今や、前日、スペイン、アイルランド、スウェーデン、チェコの四国から提出された決議文、すなわち我が軍事行動を自衛権を逸脱せるものとし、満州国不承認の宣言を、連盟の名によってなそうという決議文に対して、即時脱退をとして、雌雄を決しようとしているのである。松岡氏の口からは第一言がもれた。

「余はスペイン、アイルランド、スウェーデン、及びチェコスロバキア代表によって提出され、だたいま配布された決議案を読んで、遺憾の意を感ずるものである。本総会において各代表が述べられた如く、吾人は世界諸国民間の諒解を確立し、和協によって日支問題の解決を得る目的をもってここに集合しているのである。いま吾人の前に提出せられている決議草案は、現実の状態にも、またリットン報告書中に記載せられおる調査判定にもそわず、またわれわれが、ここに集まれる所以の、国際連盟自身の主義にも一致しない言辞をもって綴られている。同決議案は明らかに理由なき非難的精神をもって書かれたものであって、かくの如きは余の全然適正なりとなすあたわざるところである。ゆえに余はここに連盟の利益のために、本決議案の撤回を要求する。しかしてもし容れられざる場合には、余は総会議長に対して、総会の認識力を知るために同決議案を表決に問うべきことを要求する」

そうして松岡氏はさらに語を強め

「最後に余をして付言せしめよ。すなわち本決議案の取扱い如何によっては、余といえどもかかることの招来すべしとは思わぬが、提案者自身の意図せざる、または期待せざりし結果をも招来するにいたらんことのあるべきを恐るるものである」

と闘志満々、ここに至ってはじめて氏は氏の持てる胆の太さを発揮し、自分の所信に向かっては千万人といえども我行かんの慨を見せて、総会に大喧嘩を吹きかけていったのであった。



火と燃ゆる熱弁に泣く


 この予期せざる松岡氏の、闘志満々たる反対に出会って、今更のごとく驚いたのは小国側の策士連であった。彼らはまったく度を失って、会議中も会場にいたたまらず、別室に寄り集まって前後策に腐心するなど、醜態のかぎりを尽くしたが、ドラモンド事務総長などに泣きつき、辛うじて面目だけは保てることとなってようやく愁眉を開いたという有様であった。

 かくてその日の午後、再会の会議において、松岡氏はいよいよ総会最初の大演説に入ったのである。それは実に一時間半にあまる熱弁であった。まず最初には、支那代表を軽くたしなめ、さらに小国側に対しては、その常に感じつつある不安に対しては大いに同情するも、今度の日支事件に関するかぎり、日本の満州や上海においてとった行動に対する非難については、痛烈な反駁を加え、そして松岡氏は静かに結論に入っていった。

「今や、日本九千万の国民は一人の如くに結束して立っているのである。それは単なる軍人の行動ではない。国民全体の行動なのだ。満州問題は日本にとっての死活の問題である。そのためには日本は、いかなる連盟の制裁をも恐れはしない。さらに余をして予言せしめよ。支那は次の十年間、おそらく二十年間はまったく統一しないであろうし、強固なる政府も持ち得ないであろう」

 誰かこれに反対を称え得るものがいるか? と言わんばかりに、はっきりと言い切って松岡氏は全会場をぐっと見回す。この松岡氏の一言に支那代表は淋しげにうつむいているのみだ。松岡氏はさらに語をつぐ。

「もし諸君が、この複雑きわまりなき満州問題を審議せんと欲するならば、一層深くより多くの事実について知らなくてはならない」

と、ここでまた再び支那の実情をこと細かに論じ尽くし、ますます支那代表をうつむかしめつつ、

「これが極東の実情である。真相である。この実情に直面して、いったい今日までどこの国が責任と実力とをもって極東の平和を守ってきたか、それは日本ではないか。諸君、この事実を直視して何と考えるか?」

と、策動止むなき小国側の代表たちをぐっと睨んで身動きもさせぬ。

「日本が連盟に加入したのは、アメリカも加入すると思ったからだ。ところがアメリカは加入を肯(がえん)じなかった。ロシアも連盟外にいる。この二大非連盟国に挟まれ、支那という擾乱常なき国を相手にする日本に対し、どうして連盟規約を手加減もせず適当できようか。日本は連盟に忠実であり、その義務を守ってきたが、何の酬(むく)いを受けたであろうか? 日本は極東の平和を維持し、共産主義跋扈の防御線をなしているのに、なにゆえに連盟は日本に対して無理解であるか。支那の尻馬にばかり乗らず、正道に立ち帰って日本の行動と立場を理解するだけの親切が連盟にないのか」

 松岡氏の心情はここに至って、まさに白熱しようとしている。そしてさらに語はつづく。

「日本は世界の世論から感謝されこそすれ、非難される覚えはない。しかし世界の世論が反対でも、日本は正義を信じて進み、世界の世論をして日本の正義を認めしめる確信がある。それは実にナザレのキリストの心境と同じだ。二千年の昔、ナザレのキリストは世界の世論によってはりつけにされた。しかし今や世界は、キリストの前に膝まづいているではないか」

 松岡氏の演説が終わると、会場が割れるかと思われるばかりの拍手であった。それはついぞ日本代表に送られたことのなかった拍手である。と見ると、列席していた日本人は、誰も彼もみんな泣いていた。嬉しかったのだ。それは日頃から言いたくて堪らないことを、そのまま、これほどはっきり言ってくれたことはなかったからなのだ。今まで常に欧米諸国に遠慮し、押さえられて、言いたいことも言い得なかった鬱憤が、一時に晴れたからなのだ。

 やがて松岡氏が自席に戻ると、まず第一にフランス代表のボンクール陸相がとんで来た。つづいて英国代表のサイモン外相が来た。旧友の英国陸相ヘールシャム卿が来た。つづいて誰彼の差別なく松岡氏は握手ぜめにあっていた。わけてヘールシャム卿は松岡氏に抱きつきながら

「何という素晴らしさだ! 三十年間の私の外交生活中、これほど素晴らしい演説をきいたのは初めてだ!」

と大声に叫んだという。またフランスのボンクール氏は

「この演説こそ、ヴェルサイユ会議におけるクレマンソーの猛虎演説に比すべき、歴史的大雄弁だ!」

と感嘆していたということである。



松岡誠実外交、ついに勝つ


 かくして松岡氏は、異常なる努力と成功とを納めたはずであったけれども、しかもその結果は、ついに最悪の場合となってしまった。がしかしそれは松岡氏の手腕、人格、努力が不足していたからとはいわれない。否、むしろ松岡氏なればこそ、その誠実と熱とをもって、事実においては日本の立場と、満州国との特殊的立場とを、各国に承認させたのだと見るべきではないであろうか。正に松岡氏の「明るい、誠実の外交」の勝利! なのだ。果たして然りとするならば、松岡氏の得意や、いかばかりであろうだろう。

 元来松岡氏は少年時代から、明るい、誠実な、曲がったことのきらいな、闘争的な性格であったということだ。松岡氏は長州室積港の古い廻漕問屋『今五』の次男として生まれたのであったが、当時から「喧嘩松岡」という仇名があったくらいの喧嘩好きの少年で、ついに「洋右少年のあるところ喧嘩あり」ではあったけれど、それがことごとく、悪をこらす正義の喧嘩であったとは、今も町の老人たちが話すところだという。

 また氏はたとえ先生であっても、間違ったことは決して許さなかったということで、授業時間でも、もし何か先生が間違った理屈でも言おうものなら、持ち前の雄弁を発揮してまくし立て、たちまちにしてやりこめて授業も何もめちゃくちゃにしてしまったものだという。そのため当時の室積町の小学校の教員室には、松岡時間という言葉ができていたくらいだったということだ。

 こうした少年時代の逸話から見ても、いかに氏が、正しいことのためには、敢然として千万人といえども行かずにはいられない性格の人であるかということを、知ることができる。そして松岡氏は見事にこの性格のために、あの大任を無事つとめ、あまつさえ成功したのである。

 また氏がいかに誠実なる人格であるかということは、その美(うるわ)しい家庭生活を見れば一目瞭然である。というのは、氏の家庭は生活、政治家としては珍しいほど、暖かく美しいもので、一点の疑惑も一点の不満もなく、明朗鏡の如きものであるという。また氏は非常な親孝行で、どんな忙しい時でも、ほとんど毎月のように、日本にいるかぎりは、郷里三田尻にいる母親の機嫌を伺うために帰省することを怠ったことはないという話である。

 現に氏の母堂は九十一歳の高齢で、今日も三田尻に余生を送っているが、この老母が、雨の日を除き、毎朝身を清めては氏神に詣で、氏の全権としての大任が成就するようにと願をかけているという話が、ジュネーブにいる氏の耳に入った時、氏はびっくりして、特に放送局の局員に依頼し、

「どうか、これからは家の中からおがんでくれるように、母親に伝えてくれ」

とたのんだという話は、あまりにも有名なことである。


 また親に篤い氏は、同時に子供に対しても誠実なる父親である。氏には六人の子供さんたちがあるが、氏はどんな忙しい旅行の時でも、必ずこの子供さんたちに絵葉書を書くことを忘れないという。現に今度のジュネーブからも、僅かなひまを見ては子供さんたちへの便りは怠らなかったということだ。

 この明朗なる家庭の夫! この誠実なる人の子! そしてこの誠実にして温良なる人の親! かくあってこそ、はじめて氏の「明るき、率直な、誠実」の外交は生まれ出てくるのである。



松岡氏の有力なる武器は?


 が、ここでさらに忘れてならぬことは、氏があれほどまでに、世界各国の代表を向こうに回して、堂々一歩もひかぬ論陣を張り得たのは、以上のようなよき人となりの他に、氏は日本有数の支那通であると同時に、満州というものに対して、身をもってこれを愛する愛情を持っていたこと、そしてそれと同時に、氏は外務省でも、「仏語の佐布利(さぶり)、英語の松岡」といわれるくらいの、一流の語学の天才であったということである。

 というのは、氏は十四歳の年に、早くも従兄につれられて渡米し、それから後は、北米オレゴン州のポートランドで学僕をしたり、またスコットランド人の牧師さん姉弟に、実の子のように愛されて教育されたり、それからまたある時は、オークランドの果樹園でさくらんぼ取りに雇われたり、やがて苦学しつつハイスクールを経てからは、やはり苦学しつつオレゴン州立法科大学に学んでここを卒業し、帰朝して外交官試験に一番でパスして、今日ある生涯の第一歩を踏み出したので、その少青年時代をまったくアメリカに過ごした氏は、酔えば英語でくだを巻くというほどまでに、完全に英語をマスターしている一人なのである。この素晴らしい語学の力が、氏の今度の大任を、成功裏に完(まっと)うせしめることに力あったことは、否めない事実であろう。

 次に氏は、外交官試験を一番でパスしたそもそもその初めから、領事官補として上海へ赴任せしめられたほど、氏の外交官生活も、またその後の生活も、支那とは切っても切れぬものであると同時に、ことに満州には氏の残してきたたくさんの仕事さえあるのである。

 現に氏は上海総領事より関東都督府の外事課長、秘書課長、文書課長に、やがてそれからロシアとアメリカを経てふたたび日本に帰り、それから外務省をとび出して、満鉄の理事となり、この間に張作霖その他の人々と知るようになったのであるが、満鉄理事としては氏は畢生の努力を払って、満州のために吉敦鉄道や鄭洮線鉄道などを敷いている。

 これに見ても分かるように、氏と支那、ことに満州との関係は、決して昨日今日のものではないのである。ばかりか氏が満鉄にいる間、常に夢みつつあったのは満蒙鉄道網であったのだけれど、その後日本の権益が支那によって冒される度に、この氏の残してきた満州の事業は片っ端からこわされていっていた。これはいかに氏にとって悲しい口惜しいことであっただろう。

 つまるところはこうした氏の日頃からの口惜しさが、満州国問題に対しては、いかなるものが来ようとも一歩も退かぬぞという強い信念を、氏の頭に生まれしめたのであったと見ることは、必ずしもあて推量ではない。

 がいずれにせよ、このよき人となりと、この素晴らしい語学の才と、この満州に対する愛情と、この支那に対する正確なる知識とが、松岡氏をして世界の外交界に立って、一歩も退かず、堂々日本の主張を主張して、世界各国に耳を傾かしめさせたのである。

 帰朝して後の氏の前途には、必ずや輝かしい幾多のものが待ちかまえている。そしてそれはあるいは、国民の望みつつあるところであるかも知れない。






(了)






引用:阿部真之助『非常時十人男』




2015年8月15日土曜日

「物は八分目にしてこらゆるがよし」 [松岡洋右]


〜話:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』〜


松岡洋右の手紙

 戦争(第一次世界大戦)が終わり、1919(大正8)年1月18日からパリ講和会議が始まります。約半年間の会議は終わり、6月28日、ヴェルサイユ講和条約が締結されました。この会議は「世紀の見物(みもの)」といわれ、講和会議に直接関係する外交官以外にも、世界各国から優秀な若い人材が集まったことでも知られています。ドイツが休戦に応ずるきっかけをつくった、アメリカ大統領ウィルソンの十四ヵ条を書いたといわれる、若き秀才、ウォルター・リップマンなどは、会議に出席するため「どのような資格でもかまいません。参加させてください」とウィルソンの側近に頼み込み、会議にかかわったといいます。

 さて、会議の終わった一ヶ月後の1919年7月27日、松岡洋右(まつおか・ようすけ)は、牧野伸顕(まきの・のぶあき)に宛てて手紙を書きました。その手紙が国会図書館の憲政資料室に残っています。牧野は大久保利通の子供で、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)とともに全権となった人物です。

 松岡は長州、つまり山口県の出身でした。松岡の家は元は名家でしたが、維新期に没落します。松岡はアメリカに渡ったのち苦学してアメリカの大学を卒業し、日露戦争まっただなかの1904(明治37)年10月、その年の外交官試験に首席で合格した人物です。その名前は、1933(昭和8)年3月、満州国をめぐる問題で日本が国際連盟を脱退する際、全権として最後の演説をし、国際連盟総会の議場から去っていく映像で著名な人物です。



 さて、手紙の日付は1919年7月のことですから、脱退どころか連盟もまだできていない頃です。松岡はパリ講和会議に報道係主任として行きました。報道係主任というのは、いわゆる情報宣伝部長のこと。松岡は、プロパガンダの専門家として会議の期間中、牧野を支えていたわけですが、半年にわたって、ともに一大国際会議を戦ってきた二人が、戦いが済んだのちにどのような意見を交換していたのか、興味ぶかいところですね。文章は簡単な表記にしてあります。読んでみましょう。

いわゆる二十一ヵ条要求は論弁を費やすほど不利なり。そもそも山東問題は、到底、いわゆる二十一ヵ条要求とこれを引き離して論ずるあたわず。しかも二十一ヵ条要求については、しょせん、我においてこれを弁疏(べんそ)せんとすることすら実は野暮なり。我いうところ、多くは special pleading にして、他人も強盗を働けることありとて自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは畢竟窮余の辞なり。

 内容を要約しますと、松岡の主張はこうです。いわゆる二十一ヵ条要求は日本側が弁明すればするほど不利となる。そもそも山東問題は二十一ヵ条要求と分離して論ずることはできない。日本側が弁明するのは無駄なことだ。日本の弁明は、しょせん、「泥棒したのは自分だけではない」といって自分の罪を免責しようとする弁明にすぎず説得的ではない、と。なかなか素敵なことをいっていますね。松岡はアメリカの大学を、すごく苦労して卒業した人です。special pleading というのは、特別訴答(とくべつそとう)と訳される法律用語でして、ここでは、自己に有利なことのみを述べる一方的な議論、という口語的な意味で使われています。こういう片寄った議論をしていてはだめだと松岡は述べているのです。

 日本が(パリ講和会議で)批判をあびたのは山東問題のことです。日本は1914年8月、「中国に還付するの目的をもって」といいながら開戦(第一次世界大戦)したのに、1915年5月、二十一ヵ条要求を袁世凱(えんせいがい)につきつけて、山東に関する条約というものを無理矢理でっちあげた、と。中国に返還するためといってドイツから奪ったのに、結局、日本は自分のものにしてしまったとの、世界および中国からの非難が激しかったことがわかります。



 手紙文からは松岡の苦悩が伝わってくるようです。自分は頑張ってプロパガンダをした。けれど、他の人だって強盗を働いているのだから自分が咎められる筋合いはないという弁明は、「人を首肯(しゅこう)せしめるは疑問」、つまり本当に人を納得させることはできないといっている。

 松岡といえば、連盟脱退演説をしたり、のちに第二次近衛文麿(このえ・ふみまろ)内閣のとき日独伊三国軍事同盟を締結したり、どちらかといえば極端な外交を行う人物というイメージがありますが、この時点での松岡は、実にまっとうな苦悩を抱える外交官であったということになります。このような胸をうつ手紙を書いた松岡のことは、ぜひ忘れないでほしい。

 松岡は、日本政府に対してかなり批判的な気持ちを抱きながら、パリ講和会議での自分の職務に任じていたことがわかる。世界を説得できていないことを自覚しつつ報道係を務める。これはなかなかにつらいことだったでしょう。このような松岡の苦悩一つとってみても、改造運動の要求として掲げられた包括的な十一項目などに、外交官のなかからも共鳴する動きが出てくるだろうと予想できるわけです。





 さて、パリ講和会議のところで出てきた松岡洋右(まつおか・ようすけ)を覚えていますか。彼はなんとその後、外交官を辞め、立憲政友会に属する衆議院議員になっていました。松岡は、1930(昭和5)年12月からの通常国会で代議士として初めての演説を行うのですが、そこは松岡のこと、この後、世のなかを席巻するフレーズ、

「満蒙は我が国の生命線である」

とやったのです。満州事変の9ヶ月も前、時の浜口雄幸(はまぐち・おさち)内閣の外相、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)のすすめる協調外交への批判演説で使いました。

 松岡の主張は、第一に、経済上、国防上、満蒙は我が国の生命線(Life line)であること、第二に、我が国民の要求するところは、「生物としての最少限度の生存権」であること、にありました。満蒙という土地が生命線、生物としての最少限度の生存権といった表現で形容されているところがミソです。つまり、満蒙は日本という国家の生存権、主権にかかわると述べたわけです。





 国際連盟脱退のときの外相は内田康哉(うちだ・やすや)でした。この人は焦土(しょうど)外交というフレーズで有名です。1932年8月25日、なにを思ったのか内田外相は、衆議院の答弁のなかで、満州国承認の決意を表明した際、

「国を焦土にしても」

という強い言葉を使う。このときの内田外相の真意は、現在の研究によって明らかにされています。酒井哲哉という東大の国際関係論の先生や井上寿一という学習院大学の先生が解明しました。このときの内田としては、満州国に関する問題で日本が強く出れば、おそらく中国の国民政府のなかにいる対日宥和派の人々が日本との直接交渉に乗りだしてくるだろう、そういうもくろもがあったのです。

 宥和(ゆうわ)というのは敵対せず協調するという意味で、この方針をとる人々のなかには、中国政府のトップにいた蒋介石もいました。蒋介石としては、連盟がなにもできないことを見越して、ならば、日本と決定的に対立する前に、国内で中国共産党を打倒しておくべきだ、と考えるようになっていました。事実、1932年6月中旬に中国政府は秘密会議を開いて、まずは国内で共産党を敗北させ、その後日本にあたるとの方針を決定し、蒋介石は駐日大使をわざわざ呼んで、「日本に対しては提携主義をとる」こと、日中両国の宥和を少しずつ進めてゆくことを伝えたのです。7月には、共産党を囲い込んで殲滅する四度目の戦いを蒋介石は始めます。



 つまり、ここからは、内田外相の方針が中国政府内の方針の変化にきちんと対応しようとしていたものだったということがわかるのです。ですから1933年1月19日、内田は自信満々で、昭和天皇に対して、「連盟のほうはもう大丈夫です、もはや峠は超えました、脱退などせずに大丈夫そうです」と報告していたほどです。

 この、天皇に対する内田の奏上(天皇に対して申し上げるという意味)を聞いて、とても不安に思った人物がいました。それは、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣でした。内大臣というのは、天皇の側に仕えて、政治問題など天皇の職務全般を補佐するための要職です。その牧野は自分の日記に「お上(かみ)は恐れながら、全然ご納得あそばされたるようにあらせられず」と書いています。難しい表現ですが、意味するところは、天皇は内田の奏上に対してまったく納得していない、ということです。昭和天皇としては、強硬姿勢をとりつつ中国側を交渉の場に引きだそうと考えた内田のやり方に強い不安と不満を感じていたのですね。



 内田のやり方に不安を感じていたのは天皇や牧野だけではありませんでした。パリ講和会議で牧野と組んで日本の正当性を世界にアピールしていた、あの松岡洋右もその一人でした。松岡は、国際連盟でリットン報告書が審議される場に、再び日本全権として立った人物です。

 松岡が内田外相に対して、そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に留まらせるように頑張っている妥協策もうまくいかないですよ、どこで妥協点を見いだすか、よく自覚されたほうがよいですよ、と書いて送った電報が残っていますので、それを読んでおきましょう。難しい言葉は平仮名に直してあります。1933年1月末の電報です。

申し上げるまでもなく、物は八分目にしてこらゆるがよし。いささかの引きかかりを残さず奇麗さっぱり連盟をして手を引かしむるというがごとき、望みえざることは、我政府内におかれても最初よりご承知のはずなり。日本人の通弊(つうへい)は潔癖にあり。[中略] 一曲折に引きかかりて、ついに脱退のやむなきにいたるがごときは、遺憾ながらあえてこれをとらず、国家の前途を思い、この際、率直に意見具申す。

 どうですか。どうも私は「松岡に甘い」と、日頃教えている学生にもよく言われますが、これだけの文章を、連盟脱退かどうかという国家の危機のときに、外相に書けるというのは立派なことだと思います。物事はなにごとも八分目くらいで我慢すべきで、連盟が満州問題にかかわるのをすべて拒否できないのは、日本政府自身、よくわかっておいでのはず。日本人の悪いところは何事にも潔癖すぎることで、一つのことにこだわって、結局、脱退などにいたるのは自分としては反対である、国家の将来を考えて、率直に意見を申し上げます、このように松岡は内田に書く。

 ここで松岡が妥協しろといっているのは、イギリス側が日本に対して提議した二つの宥和方針で、①連盟の和協委員会の審議に、アメリカやソ連など、現時点での連盟非加盟国も入れて、彼らにも意見を聞いてみよう、②日中二国ももちろん当事国として和協委員会に入ってください、というものでした。これは1932年12月、イギリス外相のサイモンによって提案されました。しかし、内田は断乎反対します。アメリカやソ連が加わったら、よけい日本に厳しい結論が出てしまうと内田は考えたのでしょう。

 しかし、これは間違いで、当時のアメリカは不況のまっただなかにあって、他国に目を向ける余裕がなかった。さらに1932年11月、民主党のフランクリン・D・ローズヴェルトが大統領に当選したことで、これまで日本に対して厳しいことを言っていたスティムソン国務長官がハル国務長官に交代する事情もあり、アメリカは国内問題に集中する、つまり非常に孤立的な態度をとる。世界のことなんて関係ない、という態度をとる時代がしばらく続きます。ソ連もまた、1931年12月に、日本に対して不可侵条約締結を提議してきたほどでした。農業の集団化に際して、餓死者も出るほどの国内改革を迫られていたのが当時のソ連でしたので、いまだ日本と戦争する準備などはなかったわけです。

 松岡だけが妥協しろといっていたのではなくて、たとえば、連盟の会議のために陸軍から派遣されていた建川美次(たてかわ・よしつぐ)もまた、陸軍大臣に宛てた秘密電報で、1932年12月15日、「この際、大きく出て、彼ら(米ソ)の加入に同意せられてはいかがかと存す」と書いていました。つまり、ここでいう彼らの加入というのは、アメリカとソ連を加えることですね。陸軍の随員までもが、妥協しろと書き送っていた点に注意してください。




抜粋引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ




国際連盟からの脱退 [半藤一利]



〜話:半藤一利『昭和史1926-1945』〜





42対1の決議

 昭和8年(1933)年2月25日の閣議では、陸軍大臣・荒木貞夫(あらきさだお)大将と外務大臣・内田康哉(うちだやすや)が

「ここまでくれば、国際連盟から脱退だ」

と主張しはじめます。この時は他の閣僚には「まだまだ」と言う人もいて、斎藤実(さいとうまこと)首相も「とんでもない」というので、結論は持ち越されました。ところがここでまた新聞がやりはじめるんですね。「一体ぜんたい今の内閣はなんなんだ、こんなに国際連盟からひどいことを言われてヘーコラするのか」と。

「これ実にこれ等(ら)諸国に向って憐(あわれみ)を乞う怯懦(きょうだ)の態度であって、徒(いたず)らにかれ等の軽侮の念を深めるのみである。…わが国はこれまでのように罪悪国扱いをされるのである。連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない」

 つまり、今日本が連盟で孤立しているというのなら連盟の外にいても同じ孤立じゃないか、どこに違いがあるのか、ならば憐れみを乞うようなことはするな、いい加減にしろ。これが毎日新聞(当時は東京日日新聞)2月18日の記事です。閣議で「国際連盟脱退だ」の主張が押さえつけられた直後にやり出したわけです。



 1933年2月20日、ついに国際連盟は、日本軍の満州からの撤退勧告案を総会で採択しました。その知らせが届くと同時に、日本政府は断固、国際連盟からの脱退という方針を決定せざるを得なくなります。22日、新聞は一斉に「いいぞいいぞ」とその脱退に向けての国策を応援し盛り立てます。当時の朝日新聞には、隅のほうに小さく、

「小林多喜二(こばやしたきじ)氏、築地で急逝、街頭連絡中に捕わる」

の記事が載っています。プロレタリア文学の旗手といわれた小林多喜二が殺されたのがちょうどこの時でした。特別高等警察(特高)が猛威をふるっていたのですね。

 正式には2月24日、国際連盟は総会で、日本軍の満州撤退勧告を42対1、反対は日本のみで採決します。全権大使の松岡洋右(まつおかようすけ)は、長い巻紙を読みながら演説をぶち、「さようなら」と言って席を立って、撤退勧告が採決された際の既定の国策どおり、日本は国際連盟から脱退します。





 松岡洋右はこの時、ものすごく強気のように見えて、実はそうではなかったというのが歴史の皮肉なんですね。威勢よく演説をして「さよなら」と随員を総会の会場から引っ張り出して出て行ったのですが、後で、

「こと志と違って、日本に帰ってもみなさんに顔向けができない。仕方がないからしばらくアメリカで姿をくらまして、ほとぼりがさめるのを待とうと決心した」

というふうに全権団の随員で参謀本部員の土橋勇逸(つちはしゆういつ)に言ったそうです。そしてまさに彼は孤影悄然たる思いでスイスからアメリカに行き、はるか彼方、日本の状況をしばらく眺めていました。

 ところが驚いたことに、新聞は「四十二対一」を素晴らしいとほめあげ、松岡を礼賛して「今日、日本にこれほどの英雄はない」と持ち上げていたもんですから当人は大いに喜んで、これは早く帰らねば、と勇んで帰国したというのです。



 この思わぬ事態を『文藝春秋』5月号の匿名月評子が批判しています。

「連盟脱退は我輩の失敗である。帰国の上は郷里に引上げて謹慎するつもりだ」

とニューヨークの松岡の告白があった。確かに「連盟脱退は明白に日本の外交の失敗であった」としなければならないのに、新聞はこれを一切報じないし一切問わない。松岡代表のその告白さえ報じていないのである。それで「松岡が英雄とはいったい何たることだ」というふうに批判したのです。

 日本国民はそのような事態を知りません。新聞は書きませんし、国際連盟からの脱退がその後の日本にどういう結果をもたらすかについての想像力もありませんでした。勇んで「栄光ある孤立」を選んだ、などという言葉でもって、日本国民は「今や日本は国際的な被害者であるのにさながら加害者のごとくに非難されている」と信じ、ますます鬱屈した孤立感と同時に「コンチクショウ」という排外的な思いを強め、世界じゅうを敵視する気持ちになりはじめるのです。排外主義的な攘夷思想に後押しされた国民的熱狂がはじまりました。

 一番大事なのは、この後から世界の情報の肝心な部分が入ってこなくなったということです。アメリカがどういう軍備をするのか、イギリスがどういうことをしているのか、などがほとんどわからなくなります。つまり国が孤立化するというのは情報からも孤立化するということですが、それをまったく理解しなかった。つまり日本はその後、いい気になって自国の歴史をとんでもない方向へ引っ張っていくという話になるわけです。





 昭和天皇は、日本が国際連盟から脱退の方針が決してしまった後も牧野内大臣を呼んで、

「脱退するまでもないのではないか、まだ残っていてもよいのではないか」

と聞いたそうです。牧野内大臣は、

「まことにごもっともとは思いますが、脱退の方針で政府も松岡全権もすでに出処進退しております。今にわかに脱退の方針を変更することは、海外の諸国に対しては、いかにもわが国の態度が浮薄なように思われて侮られます。また国内の人心もこれ以上がたがた動揺するのみであります。ですからこの際、この方針を政府が貫くほかはございません」

さすがの牧野さんも五一五事件以来、腰が引けたせいもあったのか、そう答えました。これに天皇は、

「そうか、やむを得ないのか」

と空を仰いだという話が残っています。






引用:半藤一利『昭和史1926-1945




国際連盟へ、別れのメッセージ [松岡洋右]1933年


壽府(ジュネーブ)訣別の際のメッセーヂ
FAREWELL MESSAGE
Yosuke Matsuoka(松岡洋右)

GIVEN OUT BY YOSUKE MATSUOKA ON THE EVE OF HIS DEPARTURE FROM GENEVA

February 25, 1933




About to leave Geneva, I cannot repress my deep emotion; I can hardly find words to express my thoughts. I left Tokyo with the determination to take any amount of pains to explain Japan's case and enable the people of Europe to understand our difficulties and our position. I was determined to prevent a clash between the League and Japan, to make it possible for Japan to stay in the League and to continue her cooperation in the interest of world peace. When I arrived in Geneva I dared permit myself to entertain some hope.

今ジュネーヴの地を去らんとするに当り感慨無量なるものがある。が、私は之を適切に表現する言葉を発見し得ない。日本の□□を説明し、欧州人に日本の立場と困難とを諒解せしむるためには如何なる努力をも吝まないといふ決意をもって私は東京をたった。連盟と日本との衝突を防ぎ、日本をして連盟に留まり、引続き世界平和の為にする日本の協力を可能ならしめんと決心してゐた。而してジュネーブに着いた時、私は敢て幾分の希望を抱いた。

Three months afterwards, I am leaving Geneva with that hope shattered, with mixed feelings of sadness and resignation. I am sad not for Japan, but for the League for taking such precipitate action. Time will show that it hurts the League more than Japan. I am sad most for China, for such action by the League not only will not solve anything but will add another element of confusion in the conditions of China, already bad enough as they are. It will only lay one more obstacle in the way of Japan's arduous fight against chaos.

三ヶ月の後、私はこの希望を粉砕され、悲しみと諦めとの混交せる感情の裡に、このジュネーヴの地を去るのである。私は日本の為に悲しむのではない。かかる早急軽率なる行為に出でた連盟のために悲しむのである。これがために傷くものは日本よりか寧ろれんめいであることを時が立証するであらう。而して私の最も悲むのは支那のためである。如何となれば連盟のかかる行動に実に何等問題を解決し得ないもにならず、支那の現状に対して更に混乱の石を投ずるものであるからである。この連盟の行動は混沌に対する日本の困難なる闘ひの道程に、更に一つの障害を加へるまでの事である。

The only good I can think, can come out of all this, will be incidentally to help further to unite the Japanese people, making them better realise the magnitude and the difficulties of Japan's task, and increase their determination to risk all to achieve their end - that is to recover and maintain peace and order throughout the region of Eastern Asia.

この連盟に於ける経緯から生まれるであらうと思惟しうる唯一つの良果は、偶々これにより日本国民をしてその任務の実に重大にして困難なることを一層深く認識せしめ、その目的、即ち東亜全域の平和と秩序の回復、維持、この目的達成のため、国を□するも、□て□せないといふ決意を固めしめ、□いて日本国民の一致団結を更に固むるであらうといふ事である。

If the League's action were only to produce that effect, Japan may even find cause, after all, to thank the League. In any case let us hope this action of the League will not widen the gap that separates East from West; however, none but God knows what the future holds in store for us all.

若しかヽる結果だけでも招来されたなら、日本は結局連盟に感謝すべき理由さへ発見する発見するに至るであらう。とまれ、この連盟の行動より□いて、東西を距つる溝渠を、更らに深くするやうな事のないやうにと、祈りたい。しかし、吾人の為に将来が何を齎らすかは、神のみぞ知りたまふ。

I hardly need to say there is no place in my soul for resentment or misgiving. I am sad it is true, but not disappointed; I am still hoping that some day Japan will be understood. I am leaving Geneva with the prayer, that the Members of the League may be enabled to see the light, and with ardent wishes for the success of the League. One consolation I have was the abstention of the Siamese Representative from voting yesterday. He represents the only Asiatic nation, besides Japan and Monchoukuo, which has a real national integrity and responsibility, with the will and ability to govern.

申す迄もなく私の魂の中には、聊かの反感も疑惑もない。私は悲みを抱いてをる。それは事実である。が、しかし、決して失望してはゐない。何時かは日本も諒解せられるであらう、との希望をなほ抱いて居る。私は連盟加盟国が、悟る時が来るやうにと、又連盟の将来に幸あれと祈りつつ、ジュネーヴを去るのである。私の唯一の慰安は昨日の連盟国代表の決議参加拒否、即ち棄権である。暹羅国は日本と満州国以外、誠に独立国の實を持つ唯一の亜細亜国民を代表するものである。

On leaving Geneva, I wish again heartily to thank the Members of the League for the labour so ungrudgingly given for the past seventeen months, in their earnest attempt to find a solution for the most complicated problem that the League has faced in the thirteen years of its existence. I wish also to express my thanks for the many courtesies, shown me and the Japanese Delegation, by the city of Geneva and the Genevese.

ジュネーヴを去るに当り、私は再び連盟の各員が、連盟創設以来十三年の間に当面せる最も困難な問題を解決するため、この十七ヶ月間に払はれた労を謝し、併せてジュネーヴ及びジュネーヴ市民諸君が、私及び日本代表部員に示された行為に対し、深甚の感謝を捧げるものである。







(了)




2015年8月13日木曜日

「日本切腹、中国介錯」論 [胡適]



〜話:加藤陽子〜




 日中戦争は偶発的な戦闘から始まります。この戦争がなぜ拡大したのか。それを説明するにはいろいろな方法があるのですが、まずは中国の外交戦略から見てゆきましょう。

 蒋介石は軍のトップとして中国国民政府を率いた人でした。彼は、軍事に関しては自ら行うわけですが、外交などの分野では、外務官僚といった専門のキャリアを持った人だけではなく、優れた才能を持つ人物を抜擢したことでも知られています。たとえば、1938年に駐米国大使となった胡適(こてき)は、北京大学教授で社会思想の専門家でした。ものすごく頭のよい人。胡適が書いた手紙は多く残されていますので、当時の中国側の外交戦略はかなり明らかにされています。

 胡適は1941年12月8日、日本が真珠湾攻撃を行ったときにも駐米大使としてワシントンにいました。胡適のような人が相手では、日米交渉を行うために渡米した野村吉三郎などひとたまりもなかったのではないか、そのような想像をさせるほど、この人の頭は優れている。これからお話することは、鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生という、中国に生まれ一橋大学で博士号をとった大東文化大学の先生が明らかにしたことです。





 日中戦争が始まる前の1935年、胡適は

「日本切腹、中国介錯論」

を唱えます。すごいネーミングですよね。日本の切腹を中国が介錯するのだと。介錯というのは、切腹する人の後ろに立って、作法のとおりに腹を切ったその人の首を斬り落とす役割を意味します。それでは、当時の世界に対する胡適の考え方を見てゆきましょう。

 まず、中国は、この時点で世界の二大強国となることが明らかになってきたアメリカとソ連、この二国の力を借りなければ救われないと見なします。日本があれだけ中国に対して思うままに振る舞えるのは、アメリカの海軍増強と、ソビエトの第二次五カ年計画がいまだ完成していないからである。海軍、陸軍ともに豊かな軍備を持っている日本の勢いを抑止できるのは、アメリカの海軍力とソビエトの陸軍力しかない。このことを日本側はよく自覚しているので、この二国のそれぞれの軍備が完成しないうちに、日本は中国に決定的なダメージを与えるために戦争をしかけてくるだろう。つまり、日米戦争や日ソ戦争が始まるより前に日本は中国と戦争を始めるはずだと。

 うーむ。これは正しい観測ですね。実際の日米戦争(太平洋戦争)は1941年12月に始まりますし、日ソ戦争は太平洋戦争の最終盤、1945年8月に始まるわけですが、日中戦争は1937年7月に始まる。



 胡適の考えは続きます。これまで中国人は、アメリカやソビエトが日本と中国の紛争、たとえば、満州事変や華北分離工作など、こういったものに干渉してくれることを望んできた。けれどもアメリカもソ連も、自らが日本と敵対するのは損なので、土俵の外で中国が苦しむのを見ているだけだ。ならば、アメリカやソ連を不可避的に日本と中国との紛争に介入させるには、つまり、土俵の内側に引き込むにはどうすべきか? それを胡適は考えたのです。

 みなさんが当時の中国人だとしたら、どのように考えますか。

高校生:アメリカとソ連と日本を戦わせるための方法?

 そうです。日本を切腹へ向かわせるための方策ですね。日本人の私たちとしては、気の重くなる質問ですが。

高校生:国際連盟にもっと強く介入させるよう、いろんなかたちで日本の酷さをアピールする。

 蒋介石がとった方法を、さらに進めるということですね。正攻法です。でも、連盟はあまり力にはならなかったし、アメリカは加盟国ではなかった。これは少し弱いかな。

高校生:わからないけれど、ドイツと新しい関係ができてきたから、それを利用するとか…。

 くわしくは次の章でお話ししますが、ドイツが一時、中国を支えるようになるのは事実です。ですが、もっとアメリカとソ連にダイレクトにつながることですね。

高校生:まずはイギリスを巻き込んで、イギリスを介してアメリカを引き込むとか…。

 アメリカがイギリスを重視していたというのは当たっています。でも、イギリスはドイツとの対立が目前に迫っていて、この頃は余裕がなかった。





 それでは、そろそろ胡適の考えをお話ししますね。かなり過激でして、きっとみなさん驚くと思います。胡適は

「アメリカとソビエトをこの問題に巻き込むには、中国が日本との戦争をまずは正面から引き受けて、2〜3年間、負け続けることだ」

と言います。このような考え方を蒋介石や汪兆銘(おうちょうめい)の前で断言できる人はスゴイと思いませんか。日本でしたら、このようなことは、閣議や御前会議では死んでも言えないはずです。これだけ腹の据わった人は面白い。

 1935年までの時点では、中国と日本は、実際には、大きな戦闘はしてこなかった。満州事変、上海事変、熱河作戦、これらの戦闘はどちらかといえば早く終結してしまう。とくに満州事変では、蒋介石は張学良に対して、日本軍の挑発に乗るなといって兵を早く退かせている。しかし、胡適は「これからの中国は絶対に逃げてはダメだと言う。膨大な犠牲を出してでも中国は戦争を受けて立つべきだ、むしろ戦争を起こすぐらいの覚悟をしなければいけない」と言っています。日本の為政者で、こういう暗澹たる覚悟を言える人がいるだろうか、具体的にはこう言います。



中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

第一に、中国沿岸の港湾や長江の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突しなければいけない。

我々はこのような困難な状況下におかれても、一切顧みないで苦戦を堅持していれば、2〜3年以内に次の結果は期待できるだろう。[中略]

満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中の人が中国に同情する。英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

”世界化する戦争と中国の「国際的解決」戦略”
石田憲編『膨張する帝国 拡散する帝国』所収(東京大学出版会)





 先ほどご紹介した鹿錫俊(ろくしゃくしゅん)先生による訳から引用したものですが、この思想は実に徹底していると思いました。こうした胡適の論は、もちろんそのまま外交政策になったわけではなく、蒋介石や汪兆銘などから、「君はまだ若い」などと言われて、抑えられたりしたでしょう。しかし、このようなことを堂々と述べていた人物が、駐米大使となって活躍する。

 私が、こうした中国の政府内の議論を見ていて感心するのは、政治がきちんとあるということです。日本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級の人々との会議で形式が整えられ、ひょいと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではなく、胡適の場合、「3年はやられる、しかし、そうでもしなければアメリカとソビエトは極東に介入してこない」との暗い覚悟を明らかにしている。1935年の時点での予測ですよ。なのに1945年までの実際の歴史の流れを正確に言い当てている文章だと思います。

 それでは、胡適の論の最後の部分を読んでおきましょう。



以上のような状況にいたってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、3〜4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。

日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」というこの八文字にまとめられよう。



高校生:すごい…。

 日本の全民族は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ、介錯するための犠牲なのだということです。すごい迫力ですね。



 しかし、いま一人、優るとも劣らない迫力のある、これまたすごく優秀な政治家を紹介しておきましょう。この人物の名前は汪兆銘(おうちょうめい)といいます。この人は一般的には、日本の謀略に乗って、国民政府のナンバー2であったのに蒋介石を裏切り、1938年末、今のベトナムのハノイに脱出して、のちに日本側の傀儡政権を南京につくった人物、つまり汪兆銘政権の主席となって、南京・上海周辺地域だけを治めた人として知られています。

 汪兆銘は、1935年の時点で胡適と論争しています。

「胡適の言うことはよくわかる。けれども、そのように3年、4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまう」

と反論します。この汪兆銘の怖れ、将来への予測も、見事あたっているでしょう? 中華人民共和国が成立する1949年という時点を思い出してください。中国はソビエト化してしまったわけです。汪兆銘は、まるでそれを見透かしたように、胡適の主張する「日本切腹、中国介錯論」ではダメだといって、とにかく、中国は日本と決定的に争ってはダメなのだ、争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう、そのような見込みをもって日本と妥協する道を選択します。これまた究極の選択ですね。





 この汪兆銘の夫人もなかなかの豪傑で、汪兆銘が中国人の敵、すなわち漢奸(かんかん)だと批判されたときに、

「蒋介石は英米を選んだ、毛沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがあるのか」

と反論したといいます。すさまじい迫力です。

 ここまで覚悟している人たちが中国にいたのですから、絶対に戦争は中途半端なかたちでは終わりません。日本軍にとって中国は1938年10月ぐらいまでに武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていました。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態なのです。しかし、中国は戦争を止めようとは言いません。胡適などの深い決意、そして汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。








引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ