2013年6月30日日曜日

「無傷のゼロ戦」により暴かれたゼロ戦の神秘



「それまでアメリカ軍にとって、ゼロ戦は『謎の戦闘機』だったのです」

ところが1942年の7月、アメリカ軍は不時着した「ほぼ無傷のゼロ戦」をアクタン島で手に入れる。

「その発見の一報に、関係者は驚喜したといいます」と、井崎源次郎は話す。彼は第二次世界大戦を戦った元ゼロ戦パイロットである。






「ゼロ戦はアメリカ本国に持ち帰られ、徹底的にテストされました。そして、これまでアメリカ軍にとって『神秘の戦闘機』だったゼロ戦の秘密のベールがすべて剥ぎ取られたのです」と井崎は言う。

アメリカ軍の航空関係者はテストの結果に「愕然とした」という。それまで「イエロー・モンキー(黄色い猿)」と馬鹿にしていた後進国の日本が、「真に恐るべき戦闘機」を造り上げていたことを知ったからである。



「そして彼らは、現時点においてゼロ戦に互角に戦える戦闘機は我が国に存在しないということを認識したといいます」と井崎は言う。

それは彼らにとっては認めたくはなかった「恐るべき答え」だった。



以後、アメリカ軍の「ゼロ戦に対する戦い方」が完全に変わる。

「はっきりとゼロ戦との格闘を避け始めました」と井崎は話す。

恐ろしく速いくせに、とんでもなく小回りのきくゼロ戦。その素早さに対抗できる戦闘機はアメリカ軍には存在しなかった。ゆえに、抜群の格闘性能を誇るゼロ戦に、いとも容易く米軍戦闘機は撃ち落とされていたのである。



アメリカ軍は「3つのネバー(禁止)」を全パイロットに徹底させた。

1,「ゼロと格闘してはならない」
2,「時速300マイル(およそ時速480km)以下で、ゼロと同じ運動をしてはならない」
3,「低速時に上昇中のゼロを追ってはならない」

この3つの「ネバー」を犯した者は、容赦なくゼロに墜とされる運命になる、と。










アメリカはゼロ戦の「弱点」も見抜いていた。

「防弾装備が皆無なこと」
「急降下速度に制限があること」
「高空での性能低下」など



そうして編み出されたアメリカ軍の新戦法は、「徹底した一撃離脱」。そして、「一機のゼロ戦には、必ず2機以上で戦うこと」だった。

「一撃離脱と2機一組の攻撃、こうした米軍の新戦法は我々を戸惑わせました」と井崎は語る。



当時、米英パイロットたちはゼロ戦搭乗員を「デビル」と呼んでいたという。

「奴らは『操縦桿を握った鬼』だ」と。







(了)






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ソース:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹

2013年6月29日土曜日

「ワンショット・ライター」、一式陸攻



「一式陸攻」とは、第二次世界大戦において日本海軍を代表する「爆撃機」であった。

しかしながら、その防御は非常に弱かった。速度の遅い爆撃機であるにも関わらず、燃料タンクの防弾もなく、操縦席を守るための装甲もほとんどなかった。







ゆえに、アメリカ軍は一式陸攻を「ワンショット・ライター」とアダ名した。

つまり、「一発で火が点く」という意味である。

悲しいかな、その有り難くもないアダ名通り、一式陸攻はアメリカ軍の攻撃で苦もなく撃墜されていく。







ちなみに、連合艦隊司令長官「山本五十六(やまもと・いそろく)」大将が最後に乗っていたのも、この一式陸攻。

昭和18年、山本五十六大将はこの爆撃機とともに、空に散ることとなる…。






(了)



ソース:永遠の0 (講談社文庫) 百田尚樹


主婦から政治家へ。有村治子・参議院議員



妊産婦や赤ちゃんのために、「マタニティ・マーク」を制定した国会議員「有村治子(ありむら・はるこ)」さん。

彼女は、自民党が全国区ではじめて公認した「無名の主婦」だったという(当時30歳)。







有村さんは当時をこう振り返る。「一人の国民として、野田聖子先生に手紙を出したんです。党も制度も疲労を起こしているようですので、若い力を取り入れてぜひこの状況を乗り越えていただきたい、と」。

当時の自民党内閣の支持率は8%にまで低迷(森政権末期)。有村さんは「会社を辞めて大学院に進学した主婦」だった(日本マクドナルド → 青山学院大学)。



はじめての選挙活動は「生易しいものではなかった」。

「選挙に出ると『親類と友だちの半分を失う』、とよく言われますが、街頭に立てば『黙れ!』とツバや罵声が飛んできました」と有村さんは語る。

なんの組織も持たない有村さんは、駅や商店街で「名刺」を配るのが精一杯。一日中、名刺を配っていたという。

「でも、ちゃんと受け取ってくださる方は、一時間に2人くらい。破り捨てられることもしょっちゅうです」



じつは有村さんの父は「県会議員」。その落選も目にしている。

「私が16歳の時に、父が県議会選挙に落選しました。それまで父のことを『有村先生』と呼んでいた方が、一晩で『有村っ!』って怒鳴るようになりました。高校生ながらに、そういう人間の2つの面を見たことは、本当に貴重な体験でした」







有村治子さんが参議院に当選を果たすのは、奇跡のような「小泉旋風」に後押しされてのことだった。

「本当に私はギリギリのところで当選させていただいたのです」

そして、政治家になった印象はというと

「政治というのは生存競争が激しく、現代における唯一『合法な戦争』じゃないかと思いました」



また、政治家の成果を測る「物差し」が、あまりに短いことにも驚く。

「日本は平成になってからの25年間で、17回も首相が交代しています。それが海外にも伝わって、首脳会談もセットできない。他国との交渉のテーブルにすら着けない悲哀を、私は目の当たりにしてきました」

さらに、今の日本には「国運」もない。

「国運とは『一人ひとりの運気 × 国民の数』です。人の集団が『国の運』をつくるのだと考えますが、東日本大震災の時には『政治のもたつきによる人災』も指摘されました」



有村さんは、政治家の仕事を「国家の行く末を確かにすること」と考えている。

「たとえば、私たち民族の安全がこのコップの中に入っているとしたら、これをどこに置くかでその安全性は変わってきますよね。不安定なところに置けば、落ちて割れてしまいます」

「ですから、国民全体が依って立てる『確固たる足場』をつくること。それこそが政治家の使命と考えています」







(了)






ソース:致知2013年7月号
「主権の大切さを訴え、国運高揚に全力! 有村治子」

2013年6月27日木曜日

なぜ「ゼロ戦」と呼ばれたか?



「なぜゼロ戦と呼ばれたか、ですか?」

第二次世界大戦中、日本の新型戦闘機「ゼロ戦」に乗っていたという元海軍中尉の「伊藤寛次」。彼は話し始める。

「ゼロ戦が正式採用になった皇紀2,600年の末尾のゼロをつけたのですよ」

皇紀2,600年は、昭和15年、西暦1940年にあたる。



「ちなみに、その前年の皇紀2,599年に採用になった爆撃機は『九九艦上爆撃機』、その2年前に採用になった攻撃機は『九七艦上攻撃機』です。いずれも真珠湾攻撃の主力となりました」と、伊藤は語る。

零戦の正式名称は、「三菱零式艦上戦闘機」だそうである。







「零戦は素晴らしい飛行機でした。これは日本が真に世界に誇るべき戦闘機です」と、伊藤は誇らしげに話す。

「何より『格闘性能』がズバ抜けていました。凄いのは旋回と宙返りの能力です。ほかの戦闘機の半分ほどの半径で旋回できました。だから、格闘戦では絶対に負けないわけです」

「それに速度が速い。おそらく開戦当初は『世界最高速度』の飛行機だったのではないでしょうか。つまり、スピードがある上に小回りが利くのです」



本来、戦闘機において、「スピード」と「小回り」は相反するものだった。

格闘性能を高めるために小回りを重視すると、それだけ速度が落ちてしまう。逆に、速度を上げた分だけ、格闘性能は落ちる。

「しかし、零戦はこの相矛盾する2つの性能を併せ持った『魔法のような戦闘機』だったのです。堀越二郎と曽根嘉年という情熱に燃える2人の若い設計士の、血の滲むような努力がこれを可能にしたと言われています」










さらに、零戦には通常の「7.7mm機銃」に加えて、より強力な「20mm機銃」が搭載されていた。炸裂弾でもあった20mm機銃は、敵機に当たると爆発し、一発で相手を吹き飛ばすことができた。

「しかし、零戦の真に恐ろしい武器は、じつはそれではありませんでした」と伊藤は言う。



「航続距離がケタ外れだったことです」

「3,000kmを楽々と飛ぶのです。当時の戦闘機の航続距離は、だいたい数百kmでしたから、3,000kmというのがいかに凄い数字か想像がつくでしょう」



余談ながら、ドイツがイギリスを攻め落とすことができなかったのは、ドイツのメッサーシュミットという戦闘機が「致命的に航続距離が短かった」からだという。

「イギリス上空で、数分しか戦闘できなかったのです」と伊藤は言う。

それ以上に戦闘が長引けば、帰路ドーバー海峡を渡り切れずに、海の藻屑となってしまったのだそうだ。

「わずか、40kmのドーバー海峡の往復が苦しかったなんて…」



もし、ドイツが日本の零戦と同等の能力をもつ戦闘機をもっていたとしたら、「イギリス上空で、一時間以上は戦うことができただろう」と、伊藤は考えている。

「こんな仮定は馬鹿げていますが、もしドイツ空軍が零戦を持っていたら、イギリスは大変なことになっていたでしょう。完全にロンドン上空を制圧することができたはずです」







なぜ零戦には、そこまでの航続距離を持っていたのか?

「それは、零戦が『太平洋上で戦うことを要求された戦闘機』だったからです」と伊藤は言う。

「海の上では、不時着は死を意味します。だから、3,000kmもの長い距離を飛び続けることが必要だったのです。それにまた、広大な中国大陸で戦うことも想定されてもいました。中国大陸での不時着も、死を意味するということでは海の上と同じだったのです」



名馬は千里を走って、千里を帰るという。

「零戦こそ、まさに名馬でしたな」と伊藤はうなずく。










当時、工業国としては「欧米よりもはるかに劣る」と言われていた日本。

その日本が、いきなり世界最高水準の戦闘機を造ってしまった。卓越した格闘性能、高速、そして長大な航続距離。零戦はそのすべてを兼ね備えた「無敵の戦闘機」だった。

「さらに驚くことは、陸上機ではなく、狭い空母の甲鈑で発着できる『艦上機』ということです」と伊藤は言う。



最後に、伊藤はこう締めくくった。

「戦争の体験は、決して自慢できるものではありませんが、私は今でも、零戦に乗って大空を駆け巡ったことは、人生の誇りにしています。零戦は真に日本が誇るべきものだと思います」







(了)






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ソース:「永遠の0 (講談社文庫) 」百田尚樹

2013年6月24日月曜日

信州に吹く「真田の風」



「いよいよ、その日が参ったな。源次郎(幸村)」

真田信之は一人、江戸屋敷の濡れ縁に座りながら、暁闇の西の空に向かって語りはじめた。



「お主のことだ。本日の戦では、我ら真田兵法の限りを尽くし、関東勢の荒肝をひしぐに相違あるまい」

時は慶長20年(1615)5月7日、大阪では夏の陣の最終決戦のときを迎えていた。



「赤備えに身を固め、白熊の兜で突進するお主は、徳川の者どもの目には、武田の大御屋形様(武田信玄)が蘇ったように映ろう。それは怖かろうな」

信之は一人、くすりと笑う。だが、すぐに表情が引き締まる。

「ことによると、大御所様(徳川家康)も無事では済まぬやも…」










関ヶ原の合戦直前、兄・真田信之と弟・真田幸村は敵味方に別れており、二人の進む道はすでに違っていた。

家康に従って会津征伐に向かう途中、上方での石田三成挙兵の報を受け、真田親子は「東軍(家康)につくか、西軍(三成)につくか」を話し合ったと云われる。世にいう「犬伏の別れ」。信之の結論は、弟・幸村と「袂を分かつ」というのもであった。

だが敵味方に別れてなお、双方の胸のうちには、若き日にともに仰いだ真田家の家紋、誇り高き「六文銭」の旗が翻っていた。










兄・信之と弟・幸村は、その性格がまるで違っていたとも云われる。

信之は幸村を「柔和で怒るようなことはない」と評している。幸村は人質生活が長かったからか、どこか人懐こいところがあり、その気質は豊臣秀吉に通ずるものがあったともいう。

一方の兄・信之は、長男でもあり後に家を守り信州・松代藩の礎を築いたことを考えても、現実的に筋を通す辛抱強さを備えていた。



元々、真田氏は小県郡の真田郷(現在・長野県上田市)における海野氏の一族。

その祖は、清和天皇の子「貞保親王」との説がある。眼を患ったという貞保親王は、当地の温泉で養生するうちに地元民と親しみ、「滋野天皇」と呼ばれるようになったと云われる。

その血を継ぐとされる真田家には、名門一族としての誇りがあった。



だが、信之・幸村の祖父である「真田幸隆」の時代に苦難は訪れる。真田氏は武田信虎(信玄の父)や豪族・村上義清に故郷・小県(ちいさがた)を追われてしまい、流浪を余儀なくされるのであった。

その一族滅亡の危機に遭って、祖父・幸隆はあえて武田家のふところに飛び込み、真田の地の奪還を果たす。それは名門一族の、土地に対する強い自負心がそうさせたのでもあった。



武田家にとって、真田は「外様」である。

それでも、幸隆の活躍奮闘は目覚ましく、武田信玄から厚い信頼を寄せられることになる。幸隆は「大義」のためには、敵であった武田家にさえ、その命を惜しむことがなかった。

それが真田家の「侠気」であり、孫の信之・幸村にまで受け継がれていくものでもある。ゆえに、その大義・侠気さえ失わなければ、兄・信之が徳川方、弟・幸村が豊臣方と敵味方に別れようとも、それは活躍の場が異なるだけのことであった。



豊臣方にいた幸村は、徳川方から「信濃一国を与えるから寝返るように」との誘いを受けたというが、幸村はそれに応じようとはしなかった。

それは徳川方の示す「利」は、真田家の「大義」とまったく相入れるものではなかったからなのだろう。



幸村は「大阪の陣」の決戦にあって、真田家の家紋である「六文銭」の旗を用いなかったと云われている。それは敵である徳川方にいる兄・信之に係累が及ぶことを恐れるためであった。

また、幸村が大阪城から突出した「真田丸」を築いたのは、真田伝来の戦法で自在に戦うためであると同時に、たとえ真田丸が陥落しても、大阪城に迷惑を及ぼさぬための配慮であった。










一方、徳川方の兄・信之は、弟・幸村が大阪の陣で暴れ回ったことで、当然、徳川方から厳しく睨まれる。当時は、ほんの些細な口実でも、容赦なく御家取り潰しになることがあった。

だが、細心なる信之は、幕府方に一切の隙を見せなかった。それは信之の類稀なる手腕であり、「必ず真田家を残す」という執念でもあった。



領地こそ失うことはなかったものの、大阪の陣から7年後、信之は先祖伝来の上田から「松代」への転封を命じられる。加増転封(13万石)とはいえ、真田ゆかりの地域と領民とから切り離されたのである。

真田家の武勇を恐れた将軍・徳川秀忠は、あまりに真田が地元民と繋がりの強いことに警戒したのである。秀忠は関ヶ原の合戦の折、上田に足止めされ戦に遅れるという大失態を演じているが、それは真田家と上田の領民が一丸となって、数倍の秀忠軍を翻弄したためであった。



新たな領地「松代藩」では、信之の次の藩主「信政」の時に、御家取り潰しの危機に瀕している。信政の急逝により、その跡目を巡り真田家には御家騒動が起こってしまったのである。

その危機を回避したのは、隠居していた信之であった。老いたとはいえ、見事に乱れた家臣団を一つに束ねてみせたのである。信之93歳。最後の大仕事。

その後、同年、信之はその役目を終えたかのように、この世を去った…。



信之の守った真田の血は、現在14代目を数え、眞田俊幸さんに受け継がれている。

俊幸さんが子供の頃に聞いた話に「殿様たる者」というものがあるという。それは真田家に長く伝わる話だった。



たとえば真田の殿様は、家臣の沸かす風呂に入り、その湯加減を聞かれた時には必ず「いい湯だ」と答えなければならない。熱かろうがぬるかろうがそうである。

というのも、もし殿様たる者が「熱い」だの「ぬるくてかなわん」などと口にしようものなら、湯を沸かした家臣の首が飛んでしまう。

「殿様たる者、まずは家臣を守ってやらなければならない」

それぐらい、真田家の城下では家臣や領民が思いやられていたのだという。そうした誠実で律儀な気風からは、藩祖である信之の人柄が偲ばれてもくる。



現在の松代・上田にまで伝わる「質実剛健の気風」

それは現代にも吹く、真田家の風である。

その風が、戦国時代、「六文銭」の旗を翻していたのであろう。













(了)






ソース:歴史街道2012年12月号
「真田信之と幸村  六文銭の誇りを貫く」

2013年6月21日金曜日

「徹夜」の思わぬ効果



「徹夜」は身体には悪そうだが、「頭」には良さそうだ。

アメリカの見事なサクセス・ストーリーにおいて、「徹夜での仕事」が大きな違いを生んでいる。

The Wall Street Journal「徹夜労働は、人が眠っている時に働くというだけのことではない。『創造力を要する仕事の出来栄え』も改善できる。



アメリカの詩人ロバート・フロストは、「徹夜した翌朝」に突然、名案がひらめいた。そして、フロストはわずか数分のうちに詩を書き上げた。

それが、雪の夕べ「Stopping by Woods on a Snowy Evening(雪の夕べ森のそばにたたずんで)」である。



ウォズニアック氏は、プロジェクトの締め切りに間に合わせるために「連日の徹夜作業」を余儀なくされた。その極度の疲労が「硬直した意識のコントロール」を失わせ、そのことが幸いし、「制約のない創造力」が生み出された。

それが「カラーで表示できるモニター」へのアイディアだった。ウォズニアック氏は、言わずと知れた、アップル社の共同設立者の一人である。



科学的にみて、なぜ徹夜には「効果」があるのか?

ミシガン州立大学とアルビオン大学は、そんな「徹夜の謎」を解き明かすため、ある実験を行なっている(2011)。

2つに分けられたグループには、両方に「創造的なアイディアが必要とされる仕事」を与えられた。両者に異なる条件は、一方が「体調万全」で臨んだのに対し、もう一方のグループは「覚醒状態が低く、集中力がない時」、すなわち「徹夜明け」のような疲労困憊した状態で仕事に挑まなくてはならなかった。



さて、気になる結果は?

なんと「この疲労困憊したグループ」の方が、「問題解決が著しく優れていた」。



直感的には、体調万全で仕事に臨んだ方がより良い結果が望めそうなのに、なぜ「徹夜明け」のようなグループの方が良好な成果を出したのだろうか?

The Wall Street Journal「われわれは十分な休養がとれている時、狭く定義された仕事に効果的に焦点を絞るため、最高レベルの認知資源を用いる傾向がある。しかし、『創造力を要する仕事』は、その反対のことを求める場合が多い」



すなわち、十分な休養がとれている時は、「既存の枠組み」にとらわれてしまい、「馬鹿げていること」「理論的でないこと」を退けてしまう。

しかし、創造的なアイディアは「既存の枠組み」の中にはあまり存在しない。むしろ、「馬鹿げていること」「理論的でないこと」の中に隠れていることの方が多い。

その点、「徹夜」という疲労困憊した状態においては、「既存の枠組み」が崩壊寸前である。そして、その「いつもの常識」が崩れたところから、奇抜なアイディアは飛び出してくるのだ…!



また、ハーバード・メディカル・スクールの2009年の研究によれば

「若い成人は『30時間の睡眠不足』にさらされても、言語や理論、理解に関連したさまざまな認識テストで、十分休養をとった若者たちにそれほど劣らなかった」



なるほど。もし人と違うことを成したいのであれば

「徹夜」を試してみるのも悪くない。







ソース:The Wall Street Journal
成功を収める人々に睡眠は必要か


2013年6月19日水曜日

仕事と家庭のバランス。男女の垣根を越えて



「lean in」という言葉は、「キャリア(仕事)に挑戦すること」を表す。

逆に「lean back」は、「仕事に挑戦しないこと」を意味する。



最近の女性は「lean in」を目指し、男性は「lean back」になっている。

そう話すのは、元外交官の女性「アン・マリー・スローター」さん(54歳)。

彼女を起用したのはヒラリー・クリントン国務長官(当時)であり、スローターさんは「女性初」の国務省政策企画本部長となった。



スローターさんは女性の国務長官の下で働いているにも関わらず、「自分が『結束の強い男性クラブ』にいる数少ない女性」であると感じたという。

「ワシントンは非常に『男性中心の場』です」と、スローターさんはため息をつく。

「トップが女性でも、その下層の人たちは非常に『男性中心のネットワーク』を構築しています。つまり、アメリカ政界はこうやって運営されているのです」



国務省で働いていた頃のスローターさんは、じつに多忙だった。

「夫や息子たちから離れ、週のうち5日間はワシントンに滞在しなくてはなりませんでした。時々、一回の出張で何週間も中東やアジア、ヨーロッパに行かなくてはなりません」

その2年間、「10代の息子2人のニーズを抱えて、職をこなすのは不可能だった」とスローターさんは言う。



フェイスブックの女性COO(最高執行責任者)である「シェリル・サンドバーグ」氏は、著書「Lean in」の中で、働く女性が家庭を犠牲にすることなく、出世する道のりを描いている。

しかし、スローターさんは「ワシントン(国務省)にいる時に私が直面した問題は、どれだけの野心があっても解決できないでしょう」と話す。



それでも、女性が「Lean in(キャリアに挑戦)」することに、スローターさんは賛同する。むしろ、スローターさんは「家庭では女性の方が優れている」という考えに納得できない。

「『専業主夫』になりたいという男性も大勢います」とスローターさんは言う。



実際、現在プリンストン大学で働くスローターさんは、夫であるモラフチークさんに14歳と16歳の二人の息子の世話をお願いすることも多いという。

かつてスローターさんがワシントンDC(国務省)にいた頃は、もっとずっと夫の子育てに頼っていたのである。夫・モラフチークさんは大学の教授であり、高級官僚よりはスケジュールが柔軟であった。

だが、世間の女性たちは「自分の子供をどのように面倒をみたらいいかを一番よく知っているのは自分だ」と思っている、とスローターさんは語る。



「lean in(キャリアに挑戦)」にしろ、「lean back(仕事から後退)」にしろ、それは男女の垣根で仕切るようなものではないのかもしれない。

少なくともスローターさんは、そう考えている。







(了)






ソース:The Wall Street Journal
キャリア選択、女性だけでなく男性も全てを手に入れられない理由

企業も働く父親も認めきれない「育児休暇」 [アメリカ]



「育メン」という言葉は、「育児をする父親」を指す。

だが、父親が子育てをすることは、社会通念の「認めぬところ」があるようだ。とくに働き盛りの男性にとっては。

そんなアメリカからの調査報告である。







今年4月、「米ヤフー」は、新たに子供をもうけた父親に「8週間の有給休暇(全額支給)」を認めると発表した。

銀行大手「バンク・オブ・アメリカ」では「12週間の育児休暇」を取得することができる。アーンスト・アンド・ヤングの場合は「6週間」だ。

The Wall Street Journal「調査結果によると、アメリカ企業の15%が新米の父親になんらかの有給休暇を提供している(全米人材マネジメント協会)」



だが「父親のほうが、休暇を取ることを渋っている」。

「職場で地位を失うかもしれない」という不安や、昔から根強い「父親としての固定観念」が、長期の休暇をとることを躊躇させるというのである。

たとえばスウェーデンやポルトガルでは、父親の育児休暇が「義務的」になっている。だが、アメリカはあくまで「自発的」なのである。

The Wall Street Journal「新米父親の約85%が育児休暇をとるが、その大半は『1〜2週間だけ』だという(ボストン・カレッジ調べ)」



たとえばアーンスト・アンド・ヤング社では、最大で「6週間の有給休暇」を提供しているにも関わらず、そうした父親たちの90%は「2週間」しか取らないという。

父親たちは「重要なプロジェクトに参加し損なうこと」を恐れ、メールや電話など在宅でも仕事をすることになる。

金融関係で働くギルバート・マドック氏は、息子が生まれた時に「1週間の育児休暇」をとったが、同氏は休みの間も結局「1日の40%」を仕事関係のことに費やしていたという。「営業色が強い仕事なので、ペースを落とすわけにはいかなかった」と同氏は語る。



また、ソフトウェア会社「ラウンドペッグ」には、新米の父親に「1ヶ月の有給休暇」を与えるという方針があった。

だが、共同創業者である「ブレント・デーリー」氏は、息子と娘が生まれた時、それぞれ「1週間」と「3日間」の育児休暇しか取らなかった。

デーリー氏は、その時の心情をこう語る。「出社しないと、チームを失望させることになると感じた。最後は、1つの仕事をまあまあ上手くやるか、2つの仕事をひどくお粗末にやるかの選択になった」と。







父親側に言わせると、「休暇が欲しくない」というわけではないらしい。

「仕事と家庭の間で、激しい葛藤を感じている」のである。

The Wall Street Journal「2008年に、仕事と家族への責任との間で葛藤を感じていると報告した共働き世帯の父親は60%だった。ちなみに1977年の数字は35%である(家族・労働研究所)」



「男性にとって仕事が最優先であり、すべての育児は女性がするもの」といった固定観念が、アメリカの企業に根強い。

もし、男性が「親業と仕事とを対等の立場に置く」とすれば、「ある種の烙印」を押されてしまう、と社会学者のスコット・コルトレーン氏(オレゴン大学)は指摘する。

The Wall Street Journal「親業をしていることが知られている男性の多くは、職場でプレッシャーをかけられたり、同僚に反感をもたれたりしている。積極的に子供の世話をしている男性は、からかわれたり、侮辱されたりすることが多い」



育メン父親は「意気地なしだ」とか、「妻のシリに敷かれている」といった中傷の的にされたりもするという。

また、「仕事への集中力を欠いている」とか、「仕事への献身度が低い」ともみなされがちだ。そして、そうした企業側の認識は「働く女性の出世」を妨げてきたものと同質のものである。

これは、Facebookの女性COO(最高執行責任者)である「シェリル・サンドバーグ」氏が、著書「Lean in(キャリアに挑戦)」で指摘したことでもある。女性が家庭生活を犠牲にすることなく出世することは、自由の国アメリカといえどもそう容易ではなく、それは育メン父親にも同じことが当てはまっているのである。







Facebookによるアンケート調査によれば、「世代間」でも父親育児の見解に相違があることがわかっている。

The Wall Street Journal「若い父親は育児休暇を『不可欠なものだ』と捉えている一方で、より年配の父親は『職場で烙印を押されることになる』と返答した」

最近の調査では、「男性幹部社員の4分の3が、育児休暇を『社員をつなぎ留める上での重要なツール』と考えていること」がわかった。



ある研究によれば、「長期の育児休暇」をとった父親は、仕事に復帰してから数ヶ月を経ても「子供の世話に熱心に取り組む」という結果が示されている。

それは同時に、産休後の母親の「仕事復帰」の可能性を高めることにもつながるという。







(了)






ソース:The Wall Street Journal
父親たちはなぜ長期の育児休暇を取らないのか


2013年6月18日火曜日

会津藩家臣「西郷頼母」の歌碑



福島県白河市

幕末の慶応四年(1868)、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍の攻防戦が行われた。

最も激しい戦となったのは、同盟軍が本陣を敷いた「稲荷山」。数で優る同盟軍だったが、新政府軍の奇襲部隊に攻められ、白河小峰城を奪われてしまう。

およそ100日間の攻防の末、同盟軍の敗北で幕を閉じた。







会津藩の家臣「西郷頼母(さいごう・たのも)」の歌碑が、稲荷山古戦場跡に立てられている

うらやまし
角をかくしつ
又のへつ
心のままに
身をもかくしつ

身を隠せるカタツムリを羨む心情である。







会津藩墓所にある銷魂碑には、戦死した者たちの名が刻まれている。会津藩が痛手を負った白河での戦い。この敗北が、東北一帯の運命を変えることとなる。









出典:NHK大河ドラマ「八重の桜」
第23回「会津を救え」