2016年9月23日金曜日

「山」と「木」と「家」と[西岡常一]



話:西岡常一





「木を買わずに、山を買え」

それは堂だけでなく民家もおなじこと。材木屋で買わずに、自分が山へはいって木材を決めてくる。柱用の木は柱に、梁(はり)用の木は梁(はり)に、という具合にね。木を見分けて使う、ということですな。

いまは曲がった木でも真っすぐに製材できますやろ。製材されたもの見てたんではわかりませんよ。自分が山へはいって土質をみて材質をかんがえ、そして山の環境をみて木の癖をかんがえてみないとあきまへん。

いまどき、こんな棟梁はいまへんな。小川(三夫)? あれならいけますよ、機会があれば。教えてあります。



簡単なことや。

土質によって木の質がちがうし、山の環境によって木の癖が生まれるちゅうことです。木は育った方位のままに使うちゅうことです。

山があるとしますな。松が生えてます。いっつも東から風がくるとすれば、松は南に枝がでているから枝に風があたって、いつもよじられるでしょう。木が真っすぐに伸びようという性質があるんでそれに対抗して、風の方向へ向かって育っていくわけです。それが癖になっている。で、この木は切ったあとでも、こう、じょーっとよじれてく。北側のはまた反対ですわ。

そやから私、台湾へ行ったかて、「ここは台風はいつもどっちからきますか?」と聞きます。東南のほうからくるゆうから、そすと、「ははーん、これは東南のほうからよじよう、よじようとしていよるな」と見て、それならこの木とこの木を組み合わせて、こういうようにしようと考えるわけですな。



山がありますと、谷、中腹、峠とありますけども、構造材、柱とか梁(はり)とかいうものは「中腹以上の木をもって使え」と。

山の上へいくほど育ちが悪いですわ。台風にもまれる、肥料分が少ない、だから谷で仮に100年の木が直径一尺(30cm)になれば、峠のほうではその半分にしかなりません。しかも年輪はおなじだけ重なってますので非常に強いです。

それで構造材には中腹以上の木を、そして造作材、天井材とか長押(なげし)とか構造に関係のない装飾的なものには谷の節のないええ木を使えということですな。



で、山にはいりましてもね、大きな大きな、樹齢が2,000年という大きなヒノキがありますわな。

そしたらあの、枝が大樹の表面からざあーっと出てね、絵になるような木があります。そんなやつは中が空洞。そして緑が若々しい色したやつも中が空洞ですわ。腐って中身がありません。太い枝でも、すぐに下がらずにいったん上がって、それから先が垂れたやつは中に芯があるんですな。

それを見分けて買うてこんと。「ほな切ってくれ」ゆうて、中、空洞やったらあきまへんさかいな。



そりゃ農業、林業、植物生理学しとかなあきまへんわ。大工するもんでもね。わたし、農業学校へ入れられたからわかるんで、農業学校へ入れられなかったらわかりませんわ。

木材として考えるんでなく、生き物として考えなあきまへんな。これ、植物生理学や。

木の芯があって、ここから枝がでて斜めに上がってますな。これ、この枝のずらーんとすぐに下がったやつは中が腐ってしまって枝がなくなっているわけです。支えの枝が。それでも薄い皮肌が残ってそこから枝がついてるわけですから、自然、だぁーっと下がる。これもやっぱり自然の法則ですわ。



このあいだ台湾の人にそう言ったらね、

「台湾人、日本人でいままでそういうこと言う人ない。本当か?」

て。

「本当だ。この木、やっぱり空洞や」

「そんなことない。中まで自信ある」

「そんなら切ってみぃ」

って。切ったら中、空っぽだった。



昔は叩きました。

たたいて音きいて、こりゃだめだ腐ってる、腐ってないってわかる。たたいてみて、ぽーんぽーんときれいな音したら中、空洞ですわ。どすんどすんと重い音するのは中がつまってる。



家を300年もたすためには、300年以上の木でなければいけないかというと、そんなことはありません。60年くらいの木をつかっておけば300年は大丈夫。ヒノキならばね。

ケヤキですか? ケヤキはヒノキ(耐用年数1,300年以上)よりも強度はあるけど、耐用年数はみじかく弱いですな。ま、800年くらいです。ケヤキ、スギの木自体の樹齢は1,000年を超すものはまれで、耐用年数は800年くらいです。





おなじ種類の木だけで家をつくる?

いや、そんなことはありませんよ。梁材はマツとかケヤキでもよろしいですよ。柱材はヒノキがいいですな。ヒノキは白アリがなかなかつきにくいんです。



いまはもう製材所で製材するしかしようがないので、なるたけ繊維を切らないように、ま、製材するちゅうことですな。

柱になるような小さい木はかまいませんけど、ここ(薬師寺)のように大きな1,000年の樹齢のものを使いますと、先のほうが細くて根元が太いですわな。皮肌に沿うて、繊維に沿うて割ってもらう。そうして製材すれば繊維がとおってるわけですわな。

昔でしたらノミやクサビを使うて割りますので、繊維に沿わなければ割れないんですけど、いまは電動ノコですから平気で真ん中からぽーんと割るんです。ぜんぶ繊維が切れてしまう。弱いですな。



ヒノキならそんなに乾かさなくても、3年も乾かせば大丈夫ですよ。ほんとうに乾燥させようと思ったら10年かかりますな。

古材はそのまますぐに使えます。昔の人はむしろ、古材を尊重します。狂いがなくなっているから。ただし耐用年数はみじかくなる。



この頃は無地を、節のない木を尊びますけど、節のある木のほうがやっぱり耐用年数が長いです。節のない木は耐用年数がみじかいです。節のないようにつくった木やからな。人間が功利的に考えてしたことは皆あかんということです。

自然のままの木をなぜ良しとしないのでしょう。そこに学問がいきませんのや、いまの建築学という学問はね。様式論でおわっているわけです。飛鳥様式、白鳳様式、天平様式…、様式論でおわってしまって材質に学問がおよびません。まちがってますな。

科学万能ではなしに、もすこし人間の直感というものを尊重してもらいたい、思うな。コンピュータより人間の天与の知恵のカンピュータがよろしわな。












話:石田温也





母屋を建てるとき、3年ぐらいかけて自分で材料を寄せました。





松は一山買ったですよ。

そんな大きな山を買ったわけでねぇ。五畝(500平方m)か六畝(600平方m)の山を。そのなかでも使える木は限られていて何本、何本ってね。いい木そだてるにはパラッパラッとしか置けねえですから。密生、混んでますと枝どうし傷ついて傷木になっちゃうんです。

スギの木だけは山武(さんぶ)杉って有名なスギを買いました。

柱にするには末口(木の直径)が五寸(15cm)以上というふうに決まっているから、ふつうの杉だと元っ脹れて(元が太く)、うらっちゃけ(先)は細くなって五寸はとれねぇ、みんなカスになっちゃうんです。



「シイの木のいいのがあります。馬車がとおる道のすぐ縁にそってね、そりゃぁいいのがあるんですよ」

と言われて、わたしは素人ですから

「出すのに便利がいいな」

と、こう思って買ったわけですよ。

ところが、馬車の車輪でシイの木の根をいためて、長いあいだにシイの木に穴があいていた。切ってみたら中がごうす(空洞)ですよ。根元まで腐ったのだったら叩いてみて音しますよ。上だけごうす(空洞)のそういう木は、元のほうは音がしない。

だけどあんた、よその家へ行って、「はしご貸してください」と言って三間(5.4m)も高いところへいって、叩いていられませんでよ。そういう使えない木を何遍も買わされました。





シイの木、ケヤキは皮が厚いでしょ。皮が厚いために乾かないんです。

庭に枕木を置いて、その上にのせて乾かすんですけれども、下になったほうは日光があたらないから乾かない。そうすると、そこから芽がでてくるんです。それで引っくり返す。

乾いたところで製材、製板。帯ノコって知ってるでしょう。製材所で使用するぴゅうんと長い大型のノコギリ刃。あれで一尺一寸の大黒柱をとろうと思ったんです。そうしたら、山で切って、庭さ持ってきて転がしておいたでしょ。乾き切っていてノコが切れねぇです。









話:原田義三





大黒柱はケヤキですね。

100年以上たったのを大黒柱にするから、家の近所で長く住んでいる人は、ケヤキの木をたいてい2本くらいは植えて太らしてたね。





離れはスギ材とマツ材と、それから栗みたいなのを使ってある。ひと通りは自分の山にある。

家を建てるのに必要な木はだいたい見当がつくから、それを切って材木にして、しばらくしたら製材所へ運んで、板や柱いうもんにした。

壁土は、天神橋の上にお墓のある山があって、そのお墓へ行くまでの途中で赤土がとれるから、それを使っていたようだ。





山の木はだいたい60年ぐらいたたなければ売れるような木にならんからね。

ぼくが親父と一緒に植えたものだったから、もう60年以上はたっとる。墓の上のずっと切り拓いた畑になっていたところにスギの木を植えた。それが大きくなっとると思うんだ。





仔牛3頭売れたら家が建つんだから、大変なもんだ。牛を大切にするのももっともだ。

昔はもう、牛はほんとうに家族の友だちだったからね。子どもころ牛買いがきて、仔牛を連れていくと涙がでよった。

親は、自分たちが百姓でほんとうに辛かったから、子どもを教員にでもしてやろうかというので学校へいかしてくれたんだけど、親はほんとうに苦労してる。そうした生活のなかでも、自分の親や子のために古材をつかい、山の木をきって家をたてた。

しかも、子孫のために長もちする丈夫な家を。

百姓は大変なものです。









話:赤坂宿





大学を卒業して県などに就職した場合、一人前になるのには少なくとも7、8年はかかるっていわれてます。わたしは学生に言ってるんですよ。

「あなたがたは、最高の学府がおわったからといって、すぐ現場で指導できると思ったら認識不足だ」と。

学生たちは教科書でひと通りの知識を得てきてますけれど、実際現場にきたとき、教科書どおりの林はないわけですよ。現場には、林業の専門知識を学ばなくとも一から十まで知っている人がたくさんいるから、教えてもらいなさいって。

たとえば、この場所は先祖代々から杉を植えてきたとか、あの場所は赤松だったとか、それから土壌が浅いとか深いとか、前は何を植えていたのか、またこの辺りの雪はどれほど降るのか、風はどの方向から吹いてくるのかなど、あらゆることをみんな知ってるんですね。

学問的な説明はできないにしても、まるで教科書にでくるような素晴らしい山づくりをしているんです。勘です。みごとなもんですよ。





木材ってのは節(ふし)があるのが当たり前で、むしろ節はコンクリートの中にある鉄筋のようなもので丈夫だということは確かなんです。

製材するときに丸太に個体番号つけまして、節の並びをうまく利用して素晴らしい家を建ててる人もいるんですよ。安くてしかも丈夫な家ができるわけですから。

新潟大学の演習林に行ってきたんですが、佐渡の演習林の材ってのは天然の老木の杉が多くて、ほとんど人為的に手を加えていないので節(ふし)だらけなんです。その杉をつかって内装した部屋を見せてもらったけど、柱、天井板、梁などすべてに天然杉独特の大きな節が見えて、みごとなものでした。





林業は100年の大計といいまして、結果がでるのは孫の代です。孫が木を斬って売ったときにはじめて、価値がでてくるものなんです。

女房の実家の周囲に、初代の人が植えたんだろうと思われる300年にちかい杉が70本ほどあります。天を突くばかりの巨木で、県が母樹林に指定したんです。昭和47年、東磐井地方をおそった豪雪にそのうちの一本だけが被害にあって、それが「100万円ちかくで売れたと」といってました。

育てようと思う人の山だから残ったんでしょうな。先祖が残してくれた宝物です。





後継者が山に対して理解を示さなくては、山はよくなりません。

金が欲しいからって木を斬り、そのあとを放置しておいたんでは山は悪くなるだけです。再造林する、更新するくらいの意欲がないとだめです。

まだ赤松の場合だったら、まわりに赤松があれば種が飛んできて、人手を借りなくても天然更新でなんとか林にはなると思いますけれども、杉はそうはいきませんからね。





いま、太い原木を見つけるのは大変なんです。

ケヤキなど特殊な材は値段があってないようなもの。栗は原木がなくて、土台にしようたって集めるのが大変で、いまや幻のような材になりました。

ブナは用途的にも少なくなりましたが、自然保護の立場からかなり制約されてきていますし、ほんとうに広葉樹の大径木は銘木的な存在になってきました。





何百年も経った材は、密度も高く丈夫なことは確かですけども、外材と国産材では丈夫さの点で違いがはっきりしています。

日本には四季があります。外材は日本の四季に対応できるとは思いません。何度か入梅期を繰り返しているとモロモロになっていくんですよ。その点、国産材はこういった気候風土のなかで育った木なので、気候の変化には十分応えてますからね。

木は、切ってしまえば死ぬと考えるのは間違いで、構造材になってからも生き続けているっていわれているんですよ。入梅期には木が水分を吸収してふくらんだ状態になり、乾燥期には水分が蒸発して元に戻るということを間断なく繰り返して、生き続けてるんです。





ほんとうに国産材は高くて、外材が安いのか。

耐用年数を考えてください。家は20年ぐらいもてばいいのか、あとは子どもの代になるから関係ないということで済ませるのか。耐用年数を考えれば、国産材は決して高くないんですから。









引用:原田紀子『西岡常一と語る 木の家は三百年』




「筋違を入れるのは愚かなことです」[西岡常一]



話:西岡常一





在来工法でやっておけば、筋違(すじかい)はないほうがよろしいんです。

あのね、筋違というのはどういうものかというと、桁(けた)があるでしょ。そして柱が立ってるでしょ。在来工法でいけば柱石があって、柱石と柱石のあいだは壁を受けるために狭間石がずっと置いてある。と、どこでも筋違(すじかい)が入りますわな。

ところが、これが地震でゆがむとしなさい。下がずれると筋違(すじかい)は長さが長いから桁(けた)を押し上げることになります。すると桁(けた)をとめてある枘(ほぞ)がはずれる。人間が上げて下ろすんやなしに地震やから、横にも揺れてるし、そんな上がったやつが元の穴にすとんと入るちゅうことはありませんわな。そうすると桁(けた)がはずれ、倒れてしまう。



筋違(すじかい)を入れるのは愚かなことです。

在来工法でしっかりと壁をしておけば筋違(すじかい)はないほうがずっとよろしいですよ。筋違(すじかい)はまことに合理的な考えやけど、ちょこまかの猿知恵ですることはあきまへん。












話:持田武夫





「筋違(すじかい)が昔の建物にない」ということはありません。

600年前に建った如意寺三重塔では、二重と三重の柱間に当時の仕事として筋違(すじかい)が入っています。城郭建築にも隅柱のわきに筋違柱があります。

西岡さんが筋違(すじかい)についておっしゃるのは、地震で建物が横揺れしたさいに、筋違(すじかい)でもって桁(けた)が持ち上げられてしまったら、柱の枘(ほぞ)がはずれ、次の段階で桁(けた)が落ちてしまうことになるかもしれない、ということですね。



今回の地震(阪神淡路大震災)で、筋違(すじかい)のない、いわゆる貫(ぬき)の構造でしっかりして倒れなかった建物の一つに相楽園(そうらくえん、神戸市中央区)の主客門があります。

門の形は2本の本柱と、その後ろに控柱が立つ「薬医門」ですが、一般に伝統工法の建築では、柱に適当な間隔で丈夫な貫(ぬき)が入っていて楔(くさび)が締めてありますから、構造的には丈夫なつくりです。

柱の貫穴(ぬきあな)のなかで、貫(ぬき)の上端と下端がきちっと隙間なく取り付けておれば、少々の揺れでも貫(ぬき)は柱から外れないし、それで建物が傾くのを防ぐようになっています。

ところが、今の建築は柱に貫(ぬき)をちょこっとわずかに入れて釘付けするんです。これでは、貫(ぬき)っていうよりむしろ壁の下地の造作材のようなもので、軸組、構造材ではありませんね。



相楽園(そうらくえん)は兵庫県庁の北方にあって、その近くでは相当大きな家が倒れています。

相楽園の南側のレンガ塀も全長にわたって倒壊しています。あそこの辺りはそれほど地盤が揺れ動いたところだけど、この表門は柱が大きくて貫(ぬき)がしっかり入っていますから、きちっと建って残っています。

そういう点では、建物は柱と貫(ぬき)がしっかりと楔(くさび)で固めてあれば倒れないということがいえるでしょう。









話:山本昌弘





これから、檀家の人たちと本堂(宣勝寺、淡路島北淡町育波)の立ち起こしをするところです。建物自体は全体に北に、それと東側に傾いています。貫(ぬき)が効力を発揮したから、倒壊には至らなかったのだろうと思います。

(ぬき)の場合、初期剛性が低いんです。筋違(すじかい)は斜めの材料を入れるわけですよね。そのほうが初期剛性は強いんです。

ところが今回、倒壊した家、しない家を見てみると、振幅がかなり大きかったので、筋違(すじかい)に対し引っ張り方向に揺れたときに、筋違(すじかい)の端部の固定端が外れちゃってる。釘一本だけでとめてあったりしてるから、簡単に筋違(すじかい)が外れた。圧縮の方向に揺れた場合は、たわんで座屈しています。もうたわんでしまうと、筋違(すじかい)は力を発揮できませんから。

水平変形が大きくなったときに、貫(ぬき)が力を発揮しだして、貫(ぬき)が効いている家は傾いても倒壊には至らなかった、と考えました。





頭貫(かしらぬき)はそんなに力、発揮してないと思うから、足元と頭貫の下の飛貫(ひぬき)ですよね。足固め貫(ぬき)と言えばいいかな。この貫(ぬき)が効いていたと思います。

手水舎(ちょうずや)とか鐘楼とか、一方だけ、または四方の足固め貫(ぬき)を省いてる場合があるんですよ。出入りするためにね。やはり貫(ぬき)は四方きっちり固めといたほうが、こういう場合いいだろうと思います。



じつは僕は、西岡さんのところに5年ほどおりました。西岡さんに会って最初にいきなりね、

「おまえ、学校で構造力学、学習してきたか」

ってゆうてね。大工になるのになぜ構造力学と思ったんやけど、「力の流れっていうものを考えながら仕事しろ」ってことだったと思うんです。











引用:原田紀子『西岡常一と語る 木の家は三百年』




「納得のいくまで突き固める」[西岡常一]



話:西岡常一





普通の住宅でもコンクリ(基礎)の上に木(土台)をやるということは一番悪いんですよ。木の寿命を一番縮める方法です。

在来工法でやっておけば、管理さえ良ければ300年は大丈夫です。建築基準法はあきまへん。






とにかくね、納得のゆくまで突き固めるちゅうことですな。

それはやっぱり棟梁の考えによりますわ。その土地のやらかいか、かたいかということを見分けるだけの力がないといけませんわな。それなら一週間で、これなら一月、二月で固めな、いけないということをね。

「地づき」とゆうんやな。全国同じようでしょうと思います。けやきとか松とか、ちょっと重いような木ですな、胴づきは。直径は20cmくらいがよろし。これを使うて、10人くらいで上から落として土を固める。当たる部分が小さいから、深いところまで固まるんです。今はランマーとかいう機械を使いますが、あれは表面だけ。表面だけがかたくなる。底までかたまりませんなぁ。



この頃はコンクリというものがあるんで、あれでもう土を深く固めずに上のほうへちょろちょろと、ま、仮の岩をつくって立てるんな考え方なあ。これでは基礎がしっかりしません。

だいたいコンクリートはもって100年ですから。1,000年もつコンクリートもありますよ。ギリシアの天然セメントね。火山灰がたまって、自然に天然のセメントになっている。そのかわりね、硬化が遅い。ポルトランドセメントの現在のセメントは3週間もすれば固まってしまうけれども、天然セメントはコンクリートしてから半年くらいせんと固まらない。しかし1,000年くらいもつ。ただ、材料がない。原料がない。



つき固めた土の上に礎石を置いて、その上に柱を立てる。

柱と柱の間を石でつなぐ。この辺では狭間石(はざまいし)ちゅうんですわ。それはね、柱と柱の間には壁があるでしょ。その壁を受けるために石を置くんですわ。壁木舞(かべこまい)が直接上にのる。壁止めですな。結局、狭間石は壁の根元に湿気が上がらんようにする、そのためのものでもあります。狭間石の下はそんなにどんどんつかなくてもちょっとつけばそれでよろし。

柱石(礎石)の石はどこの石がよいということはありませんが、切り石のほうがよろしな。この辺では柱石も狭間石も御影石を使っている家がありますが、御影石だったらかたくてええな。



建築基準法では、コンクリートの人工石の上に木の土台を置いて、その上に壁がのるんです。木を横にして。それはもうだめ。これをやるから20年しかもちません。

木を横に置くのは一番腐りやすい。結局水を含んだとき、木が縦にあると水が縦に動きますので乾きやすい。横にしてあると乾きません。それで早く腐るんです。

コンクリートに直接柱を立てると弱いです。柱石を置くべきです。コンクリートは湿気がないと粉になってしまうわけですわな。だから固まってあるためには水分をどっさり含んである。その上に木を横にしてあるからすぐに土台が腐ってしまう、シロアリがわく、こうゆうことです。耐用年数が非常に短い。



そうですか。工務店から床下にコンクリートを流すように勧められましたか。

床下は土をつき固めておくのがよいでしょう。土も生きているし木も生きているのやよって、自然に授かった命を生かすように。セメントは水分を呼び、シロアリの温床になるのではないかと思います。

在来工法の利点は、柱石の上に柱を直接立てることです。木材を横に寝かせる土台はなるべく使用しないことです。









話:小川三夫





地盤をつくるとき、まず表土を取るとかたい粘土の地山というのが出るわけだ。そこはもう地の一番かたいところなんだ。版築(はんちく)といって、地山まで掘った穴へ、同じ地山のところから土を取ってきて、ばらぱらっとまいてはトントン、トントンと地盤を高めていく。

法隆寺なんかそれで基壇をつくってある。この方法は、どういうわけか奈良時代まででなくなってます。いまの能率ではとてもやってられないですわな。

それから、つき上がったその上に石を置いて建物を建てるんだけど。そこまですればコンクリよりもずうっとかたいかたい地盤ができる。それをやってあるから、法隆寺は全然、不同沈下(均等でない沈み方)しない。



ふつうの家でも、やっぱし地山のところまで掘って土を固めてやれば絶対なんだ。しかし、地山の位置、これは土地によって深い、浅いがあるんや。ただ、割栗石をどんどん、どんどん入れて突いたからっていいもんじゃねぇわけだ。

そうなると、逆に家を建てるところは限られてくる。昔だったら「白い土の出るところへ建てろ」とか言った。それは石灰だから、そこへ住めば昔はカルシウムなんて薬ないし健康にもいい。そういうところまで話がいくと誰だってわかる。

そして、そこへ建てる建物は地盤がかたいから強い。



家を建てるのに四神相応の地、四方の神に相応した貴い地相をえらべと言うけれども、北側に山を背負っていて、南はずうっと低くて、東に清流が流れていて、西に道路があるっていったら、絶対に湿気もねぇし、風もこねぇし、最高なとこ。

そこを選んで建てる。地山の高いところだったら一番いい。法隆寺なんかぴたっといってるんじゃない。法隆寺は地山も高いんだ。









話:田中豊助





「明日、峯の次郎衛門どんでな、地形(じんぎょう)なんだ。5、6人あつめてくんねぇかな」

母は未亡人で生計のために農業だけでなくいろんな仕事をしていたから、村で顔がきいたようです。



昭和五、六年は昭和恐慌の頃、満州事変の頃です。

地形(じんぎょう)は農家の主婦たちの仕事で、近所づき合いの意味合いもあったと思います。裾をまくし上げて手甲、地下足袋でね。ときには嫁入り前の若い人もいました。

「井」の形に丸太を組んだ、高さ3mのやぐらがあって、その真ん中を木の大株の重りが上下する。木の株の4つのところ(4ヶ所)に柄がついています。この柄のところを麻縄でしばり、滑車でさらに縄を3つに分けてみんなで引きます。

落下させる部分を頭(かしら)が木株の柄をもって調節する。木株が上がって、合図で一斉に手をゆるめる。木株の重りがどすんと地面に落下します。



「えんやこりゃ」

とん、

「おっかぁのためなら、えんりゃこりゃ」

とん、

「もう一つおまけに、えんりゃこりゃ」

どん。

最後に、地固めのところには直径20〜30cmの丸石が投げ込まれる。





母がよく自慢に話をしてくれたものです。

「この家は地形(じんぎょう)をひと月もかけてつくったから、明治43年(1910)の大水にも浸からなかったんだよ」

と。柱の元ばかりじゃなくて、敷地全体を地形(じんぎょう)して高くしてあったんです。





やはり、ひと月もかけて地形(じんぎょう)を十分にやった家は、洪水にも地震にも強いということなんですね。





木遣り地形(じぎょう)をやらなくなったのは、ちょうど満州事変がはじまった頃(昭和6年)。戦争がはじまるっていうのに、こんなみっともねぇことしてらんないって。

だから木遣り地形(じぎょう)は昭和8、9年でおしまいです。





戦後、ランマーばやりになっちゃった。

どこでもやぐらに心棒でつかなくなっちゃった。











引用:原田紀子『西岡常一と語る 木の家は三百年』




2016年9月22日木曜日

トースター・マラソン [ディーン・カーナゼス]



話:ディーン・カーナゼス





パンが焼けてトーストになる温度がある。

その正確な温度はわからないが、そんな温度のなかを走るのは賢明ではないだろう。





最初に履いたランニングシューズは、アスファルトのあまりの熱さで、1時間もしないうちに底が溶けて壊れてしまい、さっそく2足目に履き替えた。

他の選手たちを見て、道路の縁にある白線の上を走ることを学んだ。白線が熱を少し反射してくれるため、2足目のシューズは少なくともすぐ溶けずにすんだ。

しかし白線の上を走っていても、路面から反射してくる猛烈な熱はまるで高炉のようだった。



まだ12マイル(19km)しか走っていないところで、足はすでに水ぶくれになってしまった。15マイル(24km)目には水ぶくれの上にさらに水ぶくれができてしまい、もうどうしようもなく、ランニングシューズをズタズタに切って簡易サンダルをつくって履いた。

これで少し楽になった。

涼むために便利だと聞き、霧吹きを持参したのだが、氷がないとほとんど役に立たず、ノズルから出てくる水は体に届く前に蒸発してしまった。



話によれば、今年初め、道路の横で丸焼け状態で死んでいるヨーロッパの観光客が発見された。

彼はどうやら写真を撮るために外を歩いていたようだ。検視報告書によると、遺体の足の損傷が著しく、どうやら彼は熱湯のようなドロ沼に両足で踏み込んでしまい、抜けられなくなってそのまま焼け死んでしまったようだ。

彼も霧吹きを持っていたらしいが、まったく無意味だった…。






30マイル(48km)地点で嘔吐がはじまった。

その後、痙攣と重症な脱水におちいった。まだレースの4分の1も走ってなかったが、すでに大変なことになってしまった。

父がクルマの窓から、「何か食べてみるかい?」と聞いた。

「そうだね。もうこうなったら何でも試してみるよ」

父がウインドウを開けて、ピーナツバターとジャムサンドイッチを渡してくれた。受け取って数100m走り、気分は悪いが一口でも食べようと思い、ようやく口に入れるとパンがトーストになっていた。

”父はなんでこんなところにトースターをもってきているのだろう?”

と思った瞬間、今、オーブントースターの中を走っているんだ、と気がついた。



午前1時。この馬鹿げたレースのスタートから42マイル(67km)離れたストーブパイプウェルズに到着した。

ときおり転がってくる枯れ草や、不毛の砂漠を吹き抜ける風の音以外、あたりの道は暗くて静かだった。たどり着いたのは真夜中だったが、真っ暗にもかかわらず、気温は華氏112度(44℃)だった。

その日は鳥が空から落ちてくるほど暑かったらしい。








引用:ディーン・カーナゼス『ウルトラマラソンマン』




人間の面目をつぶした「科学の革命」[フロイト]



話:V.S.ラマチャンドラン





あまり知られていないが、フロイトの考えで興味深いのは、偉大な科学の革命には一つ共通する特徴があるのを見抜いたという主張である。ちょっと意外なことだが、それらはみな、宇宙の中心人物としての「人間」の面目をつぶし、あるいはその地位から追い落とすという。

フロイトによれば、第一はコペルニクスの革命で、それまでの地球中心の宇宙観を、地球は宇宙の小さな塵(ちり)にすぎないという考えに置き換えた。

二番めのダーウィン革命は、私たち人間を、たまたま進化した特性のおかげで少なくとも一時的には成功をおさめている、ひ弱で毛のない幼形成熟の類人猿とみなす。

第三の偉大な科学の革命は、彼自身の無意識の発見と、それに付随する見解、すなわち自分が自分の「管理者である」という認識は幻想にすぎないという見解である、とフロイトは(おだやかに)主張した。フロイトによれば、私たちが行うことはすべて、大鍋いっぱいに煮えたぎる無意識の情動や基本的欲求や衝動に支配されていて、私たちが意識と呼んでいるものは氷山の一角にすぎず、ただそれらの行為を事後に念入りに合理化したものでしかないという。



フロイトは偉大な科学の革命の共通点を正しく特定したと私は思う。

しかし彼は、なぜそうなのかということを説明しなかった。なぜ人間は喜んで「面目をつぶされ」たり、地位から引きずりおろされたりするのだろうか? 人類を小さくみせる新しい世界観を受け入れる見返りとして何を得ているのだろうか?

ここで物事を逆向きにすると、なぜ宇宙論や進化論や脳科学が専門家だけでなくすべての人にとってこんなに魅力的なのかという理由をフロイト流に解釈することができる。



人間は他の動物とはちがって自分が死ぬ運命にあることをはっきりと自覚し、死をおそれている。しかし宇宙の研究は、時間を超越した感覚や、自分はより大きなものの一部であるという気持ちを与えてくれる。

自分が進化する宇宙という永遠に展開するドラマの一部であると知れば、みずからの命に限りがあるという事実のおそろしさが軽減される。科学者が宗教的体験をするようになる場合があるのは、おそらくこのあたりのことが関係しているのだろう。

同じことが進化の研究にも言える。時間と空間の意識がもたらされ、自分自身を遠大な旅の一部と見ることができるからだ。脳科学も同じだ。



この革命で私たちは、心や体とは別に魂があるという考えを放棄した。それはおそろしいことではなく、解放をもたらすものだ。

もし人間をこの世界の特別な存在とみなし、無比の高みから宇宙を検分していると考えるなら、消滅は受け入れがたい。しかし単なる観察者ではなく、本当にシヴァ神の偉大な宇宙ダンスの一部であるとしたら、避けられない死も悲劇ではなく、宇宙との喜ばしい再結合とみなせるはずだ。


ブラフマンは全である。

姿も感覚も欲求も行為もブラフマンから生じる。しかしこれらは名称と形態にすぎない。ブラフマンを理解するには、ブラフマンと自己との同一性を、すなわち心の中心に存在するブラフマンを体験しなくてはならない。

人間はそうすることで初めて、悲しみや死から逃れ、すべての知識を超越する、精緻な真髄をそなえた存在になれる。

ウパニシャッド 前500年








引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




ウルトラマラソン、最後の1マイル [ディーン・カーナゼス]



話:ディーン・カーナゼス







ロビーポイントへの最後の上りは強烈だった。僕は残っていた水をすぐに飲み干してしまい、喉がカラカラだった。僕はよろよろと登り、何度も転んだ。両手は切り傷だらけ、両脚はあざと擦り傷だらけだった。

身体がもうこれ以上耐えられないというような過酷な上りを乗り切ると、ようやくロビーポイントの灯りが見えてきた。登り切るまであと少しというところで、僕は泥と自分のよだれにまみれ、目はほとんど閉じられていた。目先の数フィートの地面しか見えていなかった。



計測記録を手にした男が立っており、彼は僕を見るやいなやクリップボードを手から落として駆け寄ってきた。僕は彼の差し伸べた腕に倒れ込み、彼はゆっくりと僕を地面に降ろした。彼は僕にほとんど叫ぶように何か言っていたが、意識が朦朧としていた僕はその言葉を理解できなかった。

そしてもう一つ、別の見慣れた顔が視界に入った。

「父さん?」

「息子よ」

父は心配そうに聞いた。

「何があったんだ?」

父は僕の横にひざまずき、両手で僕の頭を抱えた。彼の頬からは涙が伝わり落ちた。彼は僕の中に残っている魂を守ろうとするかのように、優しく僕の身体を揺らした。

「母さんはどこ?」

僕はつぶやいた。

「母さんにこんな姿を見せたくない」

父はすすき泣きながら言った。

「心配するな、母さんはゴールで待っているよ」



「父さん」

僕は弱々しく言った。

「僕はどうすればいいの? もう動けないよ」

「息子よ」

父は思いつめたように言った。

「もし走れないのなら歩きなさい。歩けないなら這ってでも進め。やるべきことをやりなさい。前に進むんだ。決して諦めるな」

父は目を閉じ、僕をしっかりと抱き締めた。僕は父の肩に手をかけた。

「父さん、わかった」

僕はつぶやいた。

「諦めないよ」

父は手をほどいて、僕は腹這いになった。僕は腕と足を地面につけ、父に言われた通り、道を這いはじめた。僕が身体を引きずると、父の嗚咽が聞こえた。



コースは舗装路に変わったが、まだ真っ暗だった。町はずれの田舎道には街灯一つなかった。もちろん歩道もないので、僕は暗い道の真ん中を這い進んだ。這いながら脚が役に立たなくなると腕の力で進んだ。

ゴールまで1マイル(1.6km)もあるのに、こんな状態を続けるのは無理がある。だが僕を止めるものは何もなかった。道路を近づいてくる自動車でさえも。

僕は這うのをやめて、手にしたハンドライトを振った。クルマは急ブレーキをかけて止まり、僕のそばで急停車し、カップルが飛び出してきた。

「大丈夫か?」

僕は路上に仰向けになり、顔を傾けてつぶやいた。

「ずっと最悪だ」

女性が泣き叫んだ。

「何てこと! もう少しであなた、轢かれるところだったわ」

「大丈夫さ、気を付けていたから」

僕は唸った。



僕はやっとのことで座り直し、状況を説明した。二人を助けを申し出てくれたが、実際にやってもらうことは何もなかった。ゴールはすぐそこなのに、別の大陸にあるように思えた。僕は疲れ果て、彼らの前で温かいアスファルトに横たわった。

だが背中が路面についた瞬間、今日あった出来事が心の中で蘇った。痛みと疲労の中で、ここまでの99マイル(159km)の間に、僕に温かい手を差し伸べてくれた人々の記憶が次々と思い起こされた。

「足の修理屋」ジム、ラストチャンスで水をくれたネイト、魔法のブラウニーを作ってくれた女性、僕に命の輝きを与えてくれて、今日ここまで導いてくれた妹のペリー。最後はフォーズバーでのエイドステーションで出会った、あのネイティブアメリカンともう一人の言葉だった。

「君ならやれる」



僕は夢から覚めたように何かに打たれ、これが夢でないことに気が付いた。僕はクルマの傍らに立つカップルに向かい、挑むように叫んだ。

「僕はやれるんだ!」

二人は僕をじっと見つめた。僕はもっとはっきりした口調で繰り返した。

「僕はやれるんだ!」

彼らはまじまじと僕を見たが、男の方が同調してくれた。彼は厳かに言った。

「そうだ、君ならやれる」

僕は跳ねるように立ち上がり、腕と足をブルブルと動かした。僕は頭をぐるりと回して野獣のように叫び声を上げると、

「やれるんだ、やれるんだ!」

と叫びながら道路を駆け出した。



最初の数歩は苦痛だったが、少しも驚くことではなかった。この段階ではもはや予期していたことで、痛みはこれまでにないほどひどかったが、僕はこれまでのように痛みにただ甘んじることをしなかった。僕は痛みを求め、痛みを追いかけた。痛みは体の細胞の全てから発生するようだったが、形勢は逆転した。

痛みよ、さあかかってこい!

僕はいつ自分が最後の壁を越えたか記憶にないが、おそらくこの格闘の時だと思う。初めの壁を越えたのは肉体的なもので、疲労や苦痛にかかわるものだったが、50マイル(80km)を過ぎると精神的な闘いになった。さらに最終段階でのそれは、自分の中のもっと深い部分で起こったことで、覚醒のようなものだった。



100マイル(160km)を走り切ることは、サバイバルを学ぶ以上で、生きることの素晴らしさを学び取ることだ。ランニングは一人でやるスポーツだが、もはや僕だけのものではなくなった。僕の格闘は、一人のランナーがこの底知れない苦難を乗り越えるだけではなく、人間がいかに困難に打ち勝つかという偉大な能力を問うものとなった。

たくさんの勇気と力をくれた多くの応援者たちは、本当は僕を応援しているわけではない。本当は僕なんてどうでもいいのだ。彼らが見ているのは、全身全霊を傾けて夢を実現させるためにトレーニングをし、犠牲を払い、自分を律している人間の姿なのだ。

これは非常に強いメッセージで、僕はそれを伝えているだけに過ぎない。そして僕はそれを誇りに思う。僕が果たす任務の最終 形は、ゴールインすることであり、今まさにそれを実現しようとしている。僕らみんなのために。



僕は今、覚醒した状態にあって、目の前の道や痛みは意識していない。

もう少しで失おうとしていた夢が、こんなに力強く復活するなんて不思議だ。夢の再生は、僕に喜びと信じられないような強さを吹き込んだ。突然、目の前の障害は消え去り、あとは夢を実現するだけだった。

プレーサー高校の競技場までの半マイル(800m)で、靴は脱げ、足の指からは血を流し、シャツはボロボロだったが、そんなことは関係なかった。とにかくゴールインするだけだった。



競技場に入場して最後の一周を回る時、大粒の涙が僕の頬を伝わり落ちた。

最後の何歩か、僕は泣き、そして笑っていた。

時刻は朝の2時をちょうど回ったところで、競技場は生の興奮を求めるわずかばかりの偏屈者を除いてガラガラだった。彼らは椅子の上に立ち上がり、手を叩いて、誇らしげに泣きながらゴールする僕に歓声を送った。もしこの連中が純粋な感動と情熱を求めていたのなら、彼らはまさにそれに立ち会うことになったのである。



気持ちの面でも僕は大きく成長した。スタート地点にいたライフルの男は正しかったのだ。

僕はウェスタンステーツで生まれ変わった。目にするもの全てが今までと違って見えた。僕の態度からイライラがなくなって、生きる世界で重要なことが、前よりはっきりとしてきた。僕は以前より前向きになった。他人に対しても気を使うようになり、我慢強くなって、より謙虚になった。

僕はレースが自分にもたらした変化を嬉しく思い、もっと上を目指したくなった。レースを終えて1ヶ月も経たないうちに、次の挑戦を求めている自分に気が付いた。



僕のウェスタンステーツ公式記録は、21時間1分14秒で、順位は15位だった。世界でも最難関の長距離レースで、初出場でこの記録は素晴らしかった。順位はどうでもよかったが、情熱が向上心に火を付け、さらなる高みを望んだ。

自分が100マイル(160km)以上走れると考えるのは、特にあのように過酷な状況下ではかなり楽観的だったが、僕は人間の耐久性を試すと同時に、自分の限界を伸ばしたかった。僕は自分の心に耳を傾け、居場所を探した。

もし可能性があるのであれば、やってみたい。自分がどこまでできるかを知りたい。








引用:ディーン・カーナゼス『ウルトラマラソンマン』




2016年9月20日火曜日

患者の匂いと病名と



話:V.S.ラマチャンドラン





私が医学というあいまいさに満ちた分野に興味をもったのは、シャーロック・ホームズばりの探索をするところにとても魅力を感じたからだ。患者がかかえている問題を診断するのは、科学であると同時に医術であり、観察力や推理力、人間の感覚のすべてを働かせなくてはならない。

私はK.V.シルヴェガダム博士という教授が、患者の匂いだけで病名を判定する方法を教えてくれたのだを思い出す。



糖尿病性のケトン症患者に特有のマニキュア液のような甘い息。

焼きたてのパンのようなチフス患者の匂い。

気のぬけたビールのような嫌な匂いがする腺病。

むしったばかりのニワトリの羽のような匂いの風疹。

肺膿瘍の腐敗臭。

ガラス洗浄剤のようなアンモニア臭のある肝臓病患者。

最近の小児科医なら、シュードモナス感染のグレープジュースのような匂いや、イソバレリアン酸血症の汗臭い足のような匂いを、これにつけ加えるかもしれない。



「手の指を注意深く調べなさい」

とシルヴェンガダム教授は言った。肺癌になったとき臨床的な徴候があらわれるずっと前に、指と爪床の角度がほんの少し変化して、その予兆となることがあるからだ。

驚くべきことにこの徴候 --ばち指形成-- は、外科医が癌を切除したとたんに手術台の上で、たちまち消えてしまう。この原因は今日もまだわかっていない。

別の恩師である神経学の教授は、パーキンソン病の診断をするときは「目を閉じて患者の足音で診断するように」と、いつも強調していた(パーキンソン病の患者は特徴的な足を引きずる歩き方をする)。



このような臨床医学の探偵めいた側面は、現代のハイテク医学のなかでは、滅びゆくわざであるが、私の心のなかにはしっかりと植えつけられている。

患者を注意深く観察し、聞き、触れることで、そしてそう、匂いをかぐことでも、妥当な診断に到達できる。検査はすでに知っていることを確認するために使うだけ。








引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




ガリレオとファラデー、すぐれた勘



話:V.S.ラマチャンドラン





古典的な例として、ガリレオが初期の望遠鏡を使用した話がある。

望遠鏡の発明者はガリレオだと思っている人がよくいるが、そうではない。1607年ころ、オランダの眼鏡職人ハンス・リッペルスヘイが、ボール紙の筒にレンズを2枚とりつけると遠くのものが近くに見えることを発見した。この装置は子どものおもちゃとして広まり、まもなくヨーロッパじゅうの見本市に登場するようになった。

ガリレオは1609年にこの道具のことを知り、たちまちその可能性に気づいた。彼は人のようすを探ったり、そのほかの地上の物体を眺めるのではなく、筒を空にむけた --それまでだれもしなかったことだ。



彼はまず月を眺め、月の表面のクレーターや谷や山がたくさんあるのを発見した。それは古来、天国のような場所と思われていた天体がそれほど完璧なものではないことを告げていた。天体は地上の物体と同様に、人間の眼で観察できる欠陥や不完全さに満ちていた。

ガリレオは次に望遠鏡を銀河にむけ、それが(それまで信じられていたような)均質な雲などではなく、無数の星からなっていることにたちまち気づいた。

しかし彼がいちばん驚いたのは、惑星すなわち「さまよう星」として知られていた木星を見たときだった。木星のそばに3つの小さな点を発見し(彼はただちにそれを未知の星と推定した)、数日後に一つが消えているのを見たときに、ガリレオはどれほどびっくりしたことか。さらに数日おいてもう一度見ると、消えていた点がまた見えたばかりか、もう一つ余分な点があり、全部で4つ見えるではないか。彼は一瞬のひらめきで、4つの点が(地球の月に相当する)木星の衛星で、木星のまわりを軌道を描いて回っていることを理解した。



それは途方もなく大きな意味をもっていた。

木星のまわりを回っている天体が4つある以上、すべての天体が地球のまわりを回っているのではないことが、一瞬のうちに証明されたからである。こうしてガリレオは、それまで君臨していた宇宙の地球中心説をしりぞけ、太陽が宇宙の中心であるとするコペルニクスの見解をその座につけた。

決定的な証拠が得られたのは望遠鏡を金星にむけ、それが月と同じように、ただし一ヶ月ではなく一年周期で満ち欠けをすることを発見したときだった。ガリレオはこの事実から、惑星はすべて太陽のまわりを軌道を描いて回っていることと、金星は地球と太陽のあいだに位置することを推定した。

以上のすべてが、2枚のレンズをつけたボール紙の筒から出てきた。方程式もグラフも量的な測定もない、「単なる」実例提示である。



医学部の学生にこの話をすると、たいていは、ガリレオの時代なら簡単にできただろうが、20世紀の現代では大きな発見はすでにされてしまっているし、高価な装置や細目にわたる測定なしでは新しい研究はできっこない、という反応が返ってくる。

まったくどうかしている!

今日でも驚くべき発見は、つねに目の前にぶらさがっている。むずかしいのはそれに気づくことだ。





たとえば電気や磁気に対する認識がどのように発展してきたかを考えてみよう。

人は何世紀ものあいだ、天然の磁鉄鉱や磁石について漠然とした理解をもち、それらを利用して羅針盤をつくっていたが、磁石を体系的に研究したのはヴィクトリア時代の物理学者マイケル・ファラデーが最初だった。

ファラデーは2つのきわめて単純な実験から驚くべき結果を引きだした。



一つめは小学生でも再現できる実験で、棒磁石の上に紙をのせ、そこに鉄やすりのくず粉をまくと、たちまち磁力線に沿ってならぶことを発見した(このとき初めて、物理の場の存在が実験的に示された)。

二つめの実験では、棒磁石を針金のコイルの中心に置いて前後に動かした。すると針金に電流が発生した。これらの形式ばらない実証的実験には深い意味があった。これによって初めて磁気と電気が結びついたのである。

これらの作用に対するファラデー自身の解釈は定性的なものにとどまったが、彼の実験が土台となって、数十年後にジェームズ・クラーク・マクスウェルの有名な電磁方程式 --近代物理学の基礎となる数式-- が生まれた。





学校の先生からファラデーの単純な実験のことを聞いたとき、そんな小さなことでそんな大きなことが達成できるのかと興味をそそられたのを憶えている。

ファラデーの実験の影響を受けた私は、以来ずっと高級な装置を好まず、科学の革命にはかならずしも複雑な機械は必要ではない、必要なのはすぐれた勘だけだと思っている。











引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




幻の手足 [ラマチャンドラン]





話:オリヴァー・サックス





何年も何十年も前に失った腕や脚のことを、脳が忘れないでいるために、幽霊のような幻肢(幻の腕や脚)がいつまでも頑固に存在しつづけて、しばしば患者を苦しめる。

当初は正常な手足のように正常な身体のイメージの一部として感じられる場合もあるが、正常な感覚や動きから切り離されているために、病的な性質を帯びることもあり、払っても消えず、「麻痺」や変形や激しい痛みを生じるようになる。幻の指が、おそろしい力で掌(てのひら)に食いこんでどうにもならないこともある。

痛みや幻肢が「実在しない」ことは何の助けにもならないばかりか、治療をいっそう困難にする。麻痺しているらしい幻の手を開かせることは誰にもできないからだ。患者や医師はこうした幻肢の苦痛を軽減するために、破れかぶれの極端な方法に走る。残った手足の断端をどんどん短く切断したり、脊髄の痛覚路や感覚路を遮断したり、脳の痛みの中枢を破壊したりするのだ。しかしたいていは、こうした処置は何の役にも立たない。幻肢や幻肢痛は、必ずと言っていいほど舞い戻ってくる。



ラマチャンドラン博士はこうした頑固な問題に、これまでとはちがう新しいアプローチ法を導入している。それは幻肢とは何か、神経系のどこでどのようにして生じるのかという探求から生まれた。

これまで脳の表象は、身体イメージや幻肢を含めて、固定していると考えられてきた。しかしラマチャンドラン博士は(そして今ではほかの人たちも)、手足の切断のあと身体イメージが驚くほどすみやかに --48時間以内に、ひょっとするとそれ以下で-- 再編成されることを示している。彼の見解によると、幻肢は、感覚皮質の身体イメージがこのように再編成されることで生じる。そして彼の言う「学習された」麻痺によって維持される。

だがもし幻肢が発生する根底に急速な変化があるなら、皮質にそんな可塑性があるなら、そのプロセスを逆向きにすることはできないだろうか? 脳をだまして幻肢を忘れさせることはできないだろうか?



ラマチャンドラン博士は、独創的な「バーチャルリアリティ」装置、すなわち鏡を設置した箱という単純な装置をつかって、患者に正常な手足を見せるだけで --たとえば患者自身の正常な右手を体の左側の幻肢の位置に置いて見せるだけで-- 効果があることを発見した。

効果は魔法のように即座にあらわれる。手が正常に見えることが幻肢の感覚に対抗するのだ。まず幻肢の変形がなおったり、麻痺した幻肢が動いたりする効果があらわれ、ついには幻肢は消えることもある。

ラマチャンドラン博士は特有のユーモラスな表現で「幻肢の切断術に初めて成功した」と語り、幻肢が消えれば痛みも消えるからくりを説明する --痛みは、それを体現するものがなければ存続できないからである。








引用:V.S.ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』




ブッダの「パン」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





パンは小麦粉からつくられます。

オーブンに入れたときに、小麦粉がどのようにパンになるのかが、ブッダにとっては最も大事なことでした。私たちは、どのように悟りをひらくのか、ここがブッダの最大の関心でした。悟りをひらいた人、というのはブッダにとっても、また他の人にとっても、完全で望ましい人でした。

人間は、どのように理想的な人格を発達させることができるのでしょうか。どのようにして過去の聖者たちは、聖者となったのでしょうか。パンの生地が、どのように完全なパンになるのかを見つけるために、ブッダは自分で何度も何度もパンをつくってみたのです。そして、ついに成功したのです。それがブッダの修行でした。






しかし、毎日おなじものを何度も何度もつくるというのは、あまりおもしろいことではないかもしれません。あまりにも単調だ、とあなた方は言うかもしれません。繰り返し行うという精神を失うと、修行はとても難しくなります。しかし元気で強い気持ちがあれば、難しくありません。

いずれにしろ私たちは、じっとしていることはできません。なにかをしなければならない。そのとき、自分を観察し、注意し、そして今、ここの、自分に気づいていることです。

私たちの方法は、パンの生地をオーブンに入れ、そして注意して見守ることなのです。どのようにパンの生地がパンになるのかわかれば、悟りを理解できるようになるでしょう。この身体がどのようにして聖者になるのかということが、私たちのもっとも大事な関心です。

小麦粉がなにか、生地がなにか、聖者とはなにか、ということはそれほど興味がないのです。聖者は聖者です。人言の本性に関する形而上学的な説明がポイントなのではありません。

少なくとも、おいしくて見た目がよいパンをつくることには関心はあるべきです! 実際の修行は、あなたがパンをどう焼き上げるのか見つけるまで続きます。私たちの道には、秘密はありません。ただ、坐禅を行い、私たち自身をオーブンに入れるだけなのです。











引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「いつも同じ線路」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





菩薩の道は「一途の道」と呼ばれています。

あるいは「何千マイルもつづき線路を行く」ともいいます。

線路はいつも同じです。線路が広くなったり狭くなったりしたら大変です。いつも、どこへ行こうとも、同じ線路なのです。それが菩薩の道です。太陽が西から昇ったとしても、菩薩は同じ道を行きます。その道とは、一瞬一瞬におのれの真の性質、「誠実さをあらわす」という道なのです。





わたしたちは「線路」などといいますが、もちろん、実際にそんなものはありません。「真剣さ」「誠実さ」が線路です。私たちが列車から見ている景色は変わります。しかし、同じ線路の上を走っています。その線路には、始まりも終わりもありません。「始まりのない、終わりのない線路」です。そこには出発点というものはありません。そこで得るものもありません。線路の上を走るのが、私たちの修行なのです。

しかし、線路自体に興味をもつと危険です。線路自体を見るべきではありません。線路を見るとめまいがします。列車からの景色そのものを楽しむのです。乗客が線路のことを心配する必要はありません。線路は誰かが面倒をみてくれています。



しかし私たちは、ときには線路を説明しようとします。本当にいつも同じなのか、知りたいという気持ちになるのです。「本当に菩薩の道はいつも同じなのか。なぜそれが可能なのか。その秘密はなんなのか?」。

しかし、そこには秘密はありません。誰の本性も、線路がいつも同じように、同じなのです。











引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「劣った馬」[鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





ある経典に、4種類の馬の話があります。
[サンユクタ・アーガマ vol.33]

4種とは、
「卓越した馬」
「優秀な馬」
「普通の馬」
そして「劣った馬」です。

「卓越した馬」は、ムチの音が聞こえる前に、騎手の意志にしたがって早足や並足、あるいは左右に走ります。

「優秀な馬」は、ムチがちょうど皮膚に届くか届かないかのうちに、卓越した馬と同じように走ります。

「普通の馬」は、身体にムチの痛みを感じたときに走ります。

「劣った馬」は、痛みが骨の髄まで達したとき、ようやく走ります。



この話を聞くと、誰もが「卓越した馬」になりたいと思います。「卓越した馬」になることはできなくても、せめて「優秀な馬」になりたいと思います。これがこの話の、また禅の通常の理解です。

しかしここには、禅についての誤解があります。坐禅の修行を、「卓越した馬」になるためのトレーニングだ、と考えるのであれば問題です。それは正しい理解ではありません。正しい方法で禅を修行すれば、「卓越した馬」でも「劣った馬」でも関係ありません。

ブッダの偉大な心とともに坐禅の修行をすると決意すると、「劣った馬」こそがもっとも大事な馬だとわかります。自分が不完全であるからこそ、道を求める心もしっかりとした基礎ができるのです。そこで私は、ときに最高の馬は最悪の馬かもしれないし、最悪の馬は最高の馬かもしれないと考えるのです。



道元禅師は

将錯就錯
(しょう・しゃく・じゅ・しゃく)

といわれました。錯(しゃく)とは「やりそこなう」「間違う」という意味です。「将錯就錯」とは「間違いを間違いで受け継ぐ」という意味です。あるいは「間違いをつづけてしまう」という意味です。

道元によれば、ずっと続く間違いが、禅でもありえます。禅の老師の一生とは、長い年月の「将錯就錯」ともいえるのです。それは長い年月、間違えても間違えてもひたむきに続ける、ということです。









引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「無秩序」と「雑草」 [鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





バランスが失われれば私たちは死にますが、同時に私たちは成長します。育つのです。そこで禅では、ときには生きることのアンバランス、あるいは秩序のない状態を強調することがあります。

かつての画家たちは、芸術的に故意に無秩序に、紙の上に点を描く練習をしました。これは意外と難しいのです。無秩序にしようとしても、なんらか秩序だって点が並んでしまうのです。自分で描く点々を、まったく無秩序に並べることはほとんどできません。

同じことが、毎日の生活にもいえます。まわりの人々をコントロールしようと思っても、できません。一番いいのは、好きなようにさせることです。このとき、みんなは広い意味でコントロールされています。羊や牛をコントロールするには、広々とした余裕のある草地に放すことです。人についてもいえます。好きなようにさせておいて、そして見守るのです。これが一番いいやり方です。

無視することは、よくありません。それは一番よくないやり方です。二番目によくないのは、コントロールしようとすることです。人についていえば、一番よいのは、コントロールしようとしないで見守ること。ただ見守る、ということです。

自分自身をコントロールしようとするときも、同じ方法が役立ちます。坐禅をして完全な落ち着きを得たいと求めるなら、そのときは、心を横切るいろいろなイメージに邪魔されないようにします。イメージは、起こっては消えていきます。起こっては消える、そのままにしておくのです。そのようにしておけば、コントロールができます。

私たちが見ているどんなことも、変化しています。バランスを失っています。なにもかも美しく見えるのは、それら一つ一つがバランスを失っているからです。しかし、その背景はつねに完璧な調和をなしています。完璧なバランスという背景に対して、バランスを失いながら生きているのです。





「抜いた雑草は、植物の肥料になる」

といいます。雑草を抜いて植物の近くに埋め、肥料にします。

坐禅で、難しさを感じても、また座っているときに心の波を感じても、そうした波自身があなた方をたすけるのです。心の波を気にかける必要はありません。むしろ「心の雑草」には感謝すべきです。やがては、あなたの修行を豊かにするものだからです。

もし心の雑草が栄養に変化する経験をしたならば、あなたの修行は目覚ましい進歩を遂げたことになります。しかし、それだけでは十分ではないのです。私たちは「雑草がどのように栄養になっていくか」、実際にそれを経験しなければなりません。

厳密にいえば、どのような努力も修行のためにはよくありません。それが心に波をつくりだすからです。しかしながら、なんらの努力もなしに、心の絶対の静寂を得ることもできません。努力をしなければならないけれども、努力をしているという自分を忘れ去らねばならない。

どのような気づきの意識さえもなしに、心は非常に落ち着いています。この「非-意識(意識のない意識)」のなかでは、努力も観念も思考も消えています。私たちは、すべての努力が消え去る最後の瞬間まで自分を励まし、努力することが必要なのです。










引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




完全自立、完全依存 [鈴木俊隆]



話:鈴木俊隆





中国の有名な禅の老師である洞山(とうざん)禅師はいいました。


青い山は、白い雲の父である。

白い雲は、青い山の息子である。

一日中、互いに依存することなく、寄り添っている。

白い雲はいつも白い雲であり、青い山はいつも青い山である。


これは、清らかな、しかもはっきりとした人生の解釈です。

「白い雲」と「青い山」のようなものはたくさんあります。「男」と「女」、「師」と「弟子」。お互いに寄り添っています。しかし、互いに依存することはありません。「白い雲」は「青い山」にわずらわされません。また「青い山」も「白い雲」にわずらわされるべきではないのです。

お互いに極めて自立しながらも、お互いに寄り添っています。これが私たちの生き方であり、これが坐禅の修行のやり方です。



私たちが真の自己であるとき、すべてから自立しながらも、完全にすべてに依存しているのです。

私たちは、お互いに純粋に自立しながらも、完全に依存しているのです。












引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




「ビギナーズ・マインド」 [鈴木俊隆]




話:鈴木俊隆





日本語では「初心」と言いますが、それは「Beginer's mind(初めての人の心)」という意味です。修行の目的は、この初めての心、そのままに保つことにあります。

たとえば、たった一度「般若心経」を唱えたとしましょう。そのとき、とてもよく唱えられたかもしれません。けれども2度目、3度目、あるいはそれ以上唱えるときはどうでしょう。だんだん、初めて唱えたときの心を忘れていきます。

同じことが、禅のほかの修行でも起こります。しばらくの間は「初心者の心」を保ちつづけますが、2年、3年と修行をつづけていくうちに、向上するところもあるかもしれませんが、初心のもっている無限の可能性を失いやすくなるのです。



禅の修行でいちばん大事なことは「二つにならない」ということなのです。私たちの「初心」は、そのなかに全てを含んでいます。それは、いつも豊かで、それ自体で満ち足りています。この「それ自体で満ち足りている状態」を失ってはいけません。

これは、心を閉ざしてしまう、という意味ではありません。そうではなく、空〈empty〉の心、それゆえ、つねにどんなことも受け入れる用意がある心です。心が〈空〉であるとき、それはどんなことも受け入れる、どんなことにも開かれている、という状態にあります。

初心者の心には多くの可能性があります。しかし専門家といわれる人の心には、それはほとんどありません。

In the beginner's mind there are many possibilities, but in the expert's there are few.





引用:鈴木俊隆『禅マインド、ビギナーズマインド』




鈴木俊隆の『禅マインド』




鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
ヒューストン・スミスの『序文(Preface)』より抜粋引用



二人の「鈴木」。

鈴木大拙(すずき・だいせつ)の禅は「劇的」である。

鈴木俊隆(すずき・しゅんりゅう)の禅は「日常」である。



鈴木大拙の場合、悟りが焦点となっていた。そして、大拙の書くものが、あれほど人を引きつけたのは、大部分、その「非日常」的な状態に対して魅惑されたためであった。






鈴木俊隆の場合、悟り、あるいは、ほとんどその同義語といっていい見性(けんしょう)という言葉はほとんど出てこない。

師が亡くなる4ヶ月前、私は、鈴木(俊隆)老師に、その著書に悟りという言葉がほとんど出てこない理由を尋ねる機会があった。奥さんはいたずらっぽく、私の耳にささやいた。

「悟っていないからよ」

老師はあわてたふりをして、扇で奥さんを打ち、口に指を当て「しーっ! それをいってはいけないよ」といった。三人で大笑いしたあとに、師は

「悟りが大事ではない、ということではない。しかし、それは禅において重視しなければならないところではない」

と簡潔にいわれた。












鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
リチャード・ベイカーの「はじめに(Introduction)」より抜粋引用





鈴木(俊隆)老師は、仏教を語るについて、普通の人の人生の状況からみると非常に難しいけれども、しかし、説得力のある方法をとりました。それはたとえば、

「お茶を飲んでいきなさい」

というようなシンプルな言葉のなかに、全部の教えを込めて伝えようとするものです。





鈴木老師は、カエルが非常に好きでした。

座っているときには眠っているようなのに、そばを通る虫には、全部気がついているのです。





師の全存在は、今ここのリアリティに生きるということの意味を表しています。

なにも言わなくても、あるいは何もしなくても、こうした人格に出会うことの衝撃は、人の人生を変えてしまうほどの力をもっています。しかし、弟子を本当に驚かせ、そして深めさせるのは、

師の非凡さというよりはむしろ、その完全な平凡さなのです。

師は、ただ自分自身であるだけなのです。












鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』
松永太郎「訳者あとがき」より抜粋引用





アメリカの友人から教えられて、はじめて本書を読んだときの驚きをまだ覚えています。このような視点は、それまで聞いたことがなく、なんだ、そういうことだったのか、と目からウロコが落ちるような気がしたのです。





師の弟子であったデヴィッド・チャドウィック氏には、1999年に出版されたすばらしい老師の伝記『曲がったきゅうり(Crooked Cucumber)』があります。

「曲がったきゅうり」とは、たぶん「ボケなす」とか「唐変木」という意味だと思いますが、よくわかりません。鈴木老師の師、玉潤祖温和尚が師につけたアダ名です。

鈴木老師は本書のエピローグの最後に、次のようにいっています。

「東部ではもう、ルバーブを見ました。日本では春になると、きゅうりを食べるのです」





ある日、『参同契』の講義録を編集していて、私は

「あるがまま(things as it is)」

という言葉に出会いました。これは「things as they are」が文法的には正しいのではありませんか、とたずねると、師は「いや、私が意味したのは things as it is である」と言われました。





接心(せっしん、集中的に坐禅修行をおこなう合宿)4日目、私たちの足は痛み、背中も痛み、「いったいこんな苦痛に値するのかどうか」という疑いなどでいっぱいになったころ、鈴木老師はゆっくりと話をはじめました。

「いま、君たちが経験している問題というのは … 」

もうすぐなくなる、私たち誰もが、そう言われるものと思いました。

「 … 一生つづく」

と老師は言われたのです。

その言い方で、私たちはみな爆笑したのです。





ある女性の弟子が、感情にかられ、泣きながら問いました。

「なぜ、こんなに苦しみがあるのでしょうか?」

鈴木老師は答えました。

「特別、理由などはない」





ある弟子が尋ねました。

「もし、森のなかで木が倒れ、誰も聞いていなかったとしたら、木は音を立てたのでしょうか?」

鈴木老師の答え。

「どうでもよい」





鈴木老師の畳の部屋で、弟子が対面しています。弟子は、

「台所へ行って、盗み食いがやめれれないのです」

と言いました。鈴木老師は机の下からジェリービーンズを出して、

「すこし、どうかね」

と言われました。








最初の接心の初日が終わる前に、「私は到底できっこない」と思いました。主人の独参の日でしたが、主人は老師に、代わりに私に会ってくれるようにと頼んだのです。

「これは何かの間違いです。私にはできません。ただ主人と一緒に来ただけなのです」

「間違いではありません。もちろん、お帰りになるのはご自由です。ですが、どこにも行くところはありませんよ





「海のむこうで戦争しているのに、私たちは、ここで何をしているのですか?」

弟子のジョン・スタイナーが言いました。

老師は突然、猫がネズミを襲うよりもすばやく上座から飛び降りて、ジョンの後ろに回り、警策(きょうさく)で何度もジョンを打ち、叫びました。

「愚か者! 愚か者! 時間を無駄にしておる!」

老師は何度もジョンを打ったので、ジョンは前のめりに倒れてしまいました。

「夢を見ているのだ! 夢を見ているのだ! なんの夢を見ているのだ!?」



師が声を荒げたことを一度も聞いたことがなかった聴衆は、驚愕のあまり口も聞けませんでした。

師は息切れして、ほとんど聞き取れない声でいいました。

「怒っているわけではない。ただ … 」

息をついでから

「自分の靴ヒモも結べないのに、何をしようというのだ」











引用:鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)』