「少にして学べば、すなわち壮にして為すあり
壮にして学べば、すなわち老ゆとも衰へず
老いて学べば、すなわち死すとも朽ちず」
この言葉は「三学戒」と呼ばれる「佐藤一斎(さとう・いっさい)」の言葉。
この言葉通り、佐藤一斎の教えは彼が死してなお、朽ちることはなかった。佐久間象山へ、吉田松陰へ、西郷隆盛へ…。
学者としての堅さがある佐藤一斎であるが、「豪放をもって自認する」と評伝にはある。若い頃は「酒豪」だったというのだ。
しかし、のちの彼は「人生最も戒むべきもの」として、「酒」を名指ししている。かつての酒豪には、何か苦い経験でもあったのであろうか?
「陽朱陰王」というのも、佐藤一斎を簡潔に表す言葉だ。
表立って(陽)は、「朱子学(朱)」を。その裏(陰)では、「陽明学(王)」を。
当時の江戸幕府による官学は「朱子学」。佐藤一斎は幕府の儒官であったから、官学である朱子学を教えるのは当然のこと。しかし、「朱子学は形骸化し、すっかり魅力を失っていた」。そこで一斎はこっそり、より実用的な陽明学も弟子たちに教授していたというのである。
この「陽朱陰王」という言葉は、決して褒め言葉ではなかったものの、結果的には「一斎の思想的柔軟性」、つまり学問の幅の広さを示すこととなり、それがまた多くの弟子たちを魅了することとなった。
事実、佐久間象山、吉田松陰へと続く道は、陰とされた陽明学だったのである。
冒頭の「三学戒」をはじめ、佐藤一斎の後半40年間の業績がまとめられた書物が「言志四録」。
「西郷隆盛がこの『言志四録』の中から101カ条を選んで、心の糧としたことはよく知られている」。「手抄(しゅしょう)言志録及遺文」がそれである。
「天、何のゆえに我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむるか。
我すでに天物(天のもの)なれば、必ず天役(天の役割)あり」
これは佐藤一斎の言葉である。明治時代の英傑たちは、明らかな「天役(天の役割)」を自認していたのかもしれない。
出典:致知2012年11月号
「儒者たちの系譜 佐藤一斎」
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