2015年10月28日水曜日
年をとるのは「気のせい」なのか? [玄侑宗久]
話:玄侑宗久
『サンショウウオの明るい禅』
年をとるのは気のせい?
アメリカという国には変わった研究をする人々がいるものだ。それはいろんな分野で感じることだが、先日もある本に書かれていた研究内容に驚き、そして笑ってしまった。
医師を中心にしたその人々の証明しようとしている仮説は、ヒトが老化するのは「気のせい」ではないかということだ。その実証のために、彼らはたしか80代のヒト50人に集まってもらい、50日間、彼らが20代だった時の環境で過ごしてもらったらしい。室内の調度やカーテンは勿論、ラジオやテレビを点けてもその当時の番組が流れる仕組みである。同年代の人々の共同生活という要素で楽しさも加わったかもしれない。
そうして50日後、実験に入るまえに調べた項目と同様の診察をおこなう。彼らの認識によれば、年齢が隠しようもなく現れるのは何より「皮膚圧」だという。むろん血圧とか血糖値とか、細かい調査もなされる。その結果、皮膚圧が20 代並みに戻っていたヒトが、なんと30%を超えたというのである。驚き、笑ってしまったという私の反応が解っていただけただろうか。
そのあと私が思ったのは、修行道場のことだった。
道場に入るときは27歳でありながら30代半ばに見られた私だが、3年後に出てきてみると逆に20代半ばに見てもらえた。考えてみると、道場では年齢が一切考慮されない。私を叩く先輩のほとんどは年下だったし、60代で入門してきた後輩は容赦なく年下の私が叱らなければならなかった。いわば年齢という概念のない隔離社会に暮らし、年齢相応よりも多い運動量をこなすうちに、そんなことが起こったのではなかっただろうか。
普段のわれわれの生活では、年齢というのはかなり深い無意識に属していて逃れにくい。対面した相手の年齢も無意識に測るし、「もう60だから雑巾がけはしなくていいだろう」とか、「そろそろ30なのだから結婚しなければ」など。つまりほとんど無意識に、われわれは社会で相応に生きるため、年齢に関する明瞭なイメージをもってしまっているのである。
一切は唯だ心が造る
とは『華厳経』の言葉だが、われわれは確かに自分のイメージどおりに生きているのかもしれない。だから平均寿命の知識なども、おそらく深い無意識は見逃さないのだ。「そろそろ死んでもいい頃合いだ」と、深いところから語りかけられてしまうのではないだろうか。
元気に長生きするというのは、そうした意識をもたない技術と関係している気がする。病気も、意識してから否定するのではなく、意識さえしないほうがいい。むしろ元気だけを意識するのである。ビクビクしている生徒を先生は指したがる。病気や老化の神様がいたとしたら、そういう人を呼びだすに違いない。
引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅』
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