2015年10月29日木曜日
「ああ、そうだったかなぁ」 [白隠さん]
話:玄侑宗久
『サンショウウオの明るい禅』
…
それは白隠(はくいん)さんがすでに全国行脚を終え、静岡県の原の松陰寺に落ち着いてからのことだ。墨跡を無数に書き、さまざまな方便を用いながら無数の男女に禅の指導をしていた白隠さんには、多くの信者もできていた。
ある大店(おおだな)の商家の主人もそうした信者の一人だったのだが、あるとき娘のお腹(なか)が大きくなってきたことに気づき、
「いったい誰の子だ?」
と問い詰めたらしい。きっと娘には、正直に言えない事情があったのだろう。黙っていては許されそうにないので、
「白隠さんの子です」
と呟いた。このときの父親のショックはいかばかりだったことか、想像を絶する。
ともあれ父親は娘のお腹が膨らみきって子供が生まれるのを待ち、その子を連れてまっすぐ松陰寺に怒鳴りこんだ。おそらく
「裏切られた」
「人でなし」
「坊主の皮をかぶったオオカミ」
など、私の想像をはるかに超える言葉をぶつけたのだろう。
「身に覚えがあるだろう」
と詰め寄られた白隠さんは、ひとこと呟いた。
「ああ、そうだったかなぁ」
このいい加減な言葉に、父親はさらに怒ったにちがいない。しかし、はっきり否定しないわけだから当然認めたとみなし、父親は子供をお寺に置いて帰ってしまった。
それからの白隠さんは、掃除をするにも法要するにも子供連れ。托鉢(たくはつ)に出るときもお寺に置いていくわけにはいかず、おぶって歩いたらしい。当然、檀信徒にも噂は広まり、できかけた信用も地に落ちたのではないだろうか。
しかし母親はさすがに我が子のことが気にかかる。物陰からその様子を見ていた若い母親は、耐えられなくなって父親に本当のことを告白したのである。
「本当は白隠さんの子供なんかじゃない」
そう聞かされた父親の動転ぶりも、計り知れない。しかし、あわてふためきながらも、ともかく父親は娘を連れて白隠さんのところへ謝りにいった。
土下座して詫びながら、事情を話す父娘。そして父親は、どうして本当のことをおっしゃってくださらなかったのかと、問いかけもしただろう。
「娘が告白しなければ、あなたは一生その子を自分の子として育てるおつもりだったのですか?」
真剣なその問いに、白隠さんはまたも一言。
「ああ、そうだったかなぁ」
…
引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅』
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