2016年4月8日金曜日

肖像写真について [土門拳]



話:土門拳


肖像写真について


肖像写真とは、歴史的、社会的存在としての個人を記録するものである。

地球上に二十億の人間がいれば、二十億の顔がある。そして、一つも同じ顔はない。

美しい顔というのは、感情の表白を控え目にした顔である。昔から伏目がちという。



女の泣いた顔は、決して美しいものではない。しかし、泣き伏したうなじは、怒りに燃える男心をも、やわらげる。

女の顔は、やや上から見おろした時が、一番美しいと言われる。大体、間違いない。

本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする。少なくとも欠点を魅力に転化するのが、写真家の親切というものである。



女の一番美しい顔を撮ろうとするなら、その女の情夫になるより仕方がない。モデル対写真家の関係で撮れる女の美しさなどは、たかが知れたものだ。

その人らしいということと、その人ということは、必ずしも一致しない。

「なんて間がいいんでしょ」と言いたくなる写真がある。あまりに間がいい写真は、かえって嘘になる。






気力は眼に出る。

生活は顔色に出る。

教養は声に出る。

しかし、悲しいかな、声は、写真のモチーフにならない。



撮影で、瞬間の表情にこだわるのは、馬鹿げている。人間はだれでも、泣いたり、笑ったりする。

心に秘められた感情は、口のまわりに出る。眼も口も固く物言わぬ時でも、イエスかノーかは、彼女の口を見つめていれば、わかる。

年はうしろ姿に出る。悲しみも…。



あらゆる芸術がそうであるように、芸術の最高の段階は、手段を忘れしめるところにある。つまり、写真が写真であることを、見る人に忘れしめるところにある。

撮らせよう、撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが、肖像写真である。だから、撮られる人は、初めから他所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを、全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出の、絶対スナップ的肖像写真こそ、今後の課題である。



玄関払いを食わせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食ったら、写真家は勇躍すべきである。

写される人に押されては、ろくな写真は出来ない。写される人が「あなたまかせ」の心境になるまで、押し切らなければ駄目だ。気力第一である。

写される人は、写真家に対して「あなたまかせ」になってしまうがいい。それが写真家から一番早く解放される手である。






ライティングは、強調と省略の手段である。

ロー・アングルは、モチーフを抽象する。

ハイ・アングルは、モチーフを説明する。



ピントは、瞳に。

絞りは、絞れるだけ絞り、

シャッターは早く切れるだけ早く切る。



いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。

計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真が出来る。

ぼくはそれを、鬼が手伝った写真と言っている。



写真家の眼は、カメラを通して、いつも他人に向けられている。だから、他人を見ることにかけては、いつのまにか犀利な眼が出来上がっている。

しかし、カメラを自分に向けることがないように、自分を見ることにかけては、まるで甘い。それが写真家の悲しい宿命であり、恐ろしい陥穽である。

肖像写真とは、カメラを通して描く、写される人自身の、いわば自画像である。








引用:土門拳全集〈9〉風貌




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